はてなキーワード: 消費社会とは
なんというか、ああいうのを見ると一種の腹立たしさを感じていた。
あの「ウケ狙い」という言葉をこれでもかと具現化したような。
デカくて派手な色の文字、「鬱ゲー」 「グロ」みたいな言葉の羅列、取り合えず仕事の闇言っときゃいいだろ感。
そんで、文化として云々とか、短絡的なコンテンツ消費はどうこうとか、そういう批判を脳内でしていた。
でも、ふと冷静になったとき、ある考えがよぎった。
「ゲーム脳」を信仰し、子供を糾弾していた人々と何も変わらないのではと。
俺はちゃんと文化について勉強していたのか? 消費社会に関する本を読んだことがあるのか?
お前は「脳」という言葉を都合よく振り回していた彼らと変わらないのでは?
そんなことをふと思った。
見たい映画がありすぎて、計画的にスケジュールを組まなければならないような気がしてきた今日この頃。
「デジタルミニマリズム」を試しているが、スマホの中にはブラウザもなければSNSもない。
自分にとってプラスになるツールのみをデジタルで利用するというのがデジタルミニマリズムだが、匿名ダイアリーについては日記を書くだけにとどめれば負の影響を最小限にできる。
私にとってのデジタルの最大の悪影響は、実名と黒歴史が結びつくことだ。匿名ダイアリーであれば、ストーカー以外は私が誰であるかはわかるまい。
最近も私が過去に作ったTwitterアカウントを削除するために、サポートに連絡して、2つのアカウントを削除した。
やはり精神不安定の元凶はソーシャルメディアだ。有益なことをいうことを言う人がいるかもしれないが、統合失調症の私が精神安定するためにはスローメディアの方が良い。
さて映画の話に戻るが、スタートレックの全シリーズを見たり、ヤングシェルドン、ビックバンセオリーの全シーズンを見たりするためにはかなりの時間がかかる。
といっても終わらせることではなく、見ることが楽しみだから急いで見る必要はなく、毎日の娯楽として組み込んでしまえばいい。
やりたいことは映画鑑賞だけではない。コミックを読んだり、オンラインゲームをしたりして充実感を得たい。
ただ、Amazon Primeは、無料で見れる期間に制限があったりするものだから、焦らされている気分になってしまう。
娯楽に時間を費やすことの満足度を最大化するためには、スケジュールが必要だ。
月曜夜=ヤングシェルドン、火曜夜=ビックバンセオリー、水曜夜=スタートレック、木曜夜=ギャラクティカ、金曜夜=ドクターフー、土曜=オンラインゲーム、日曜=コミック
こういった具合に。
しかし資本主義の消費社会に騙されている気もする。私は節約中だ。それなのに、金のかかるコンテンツを次から次へと消費したら、浪費癖がつくかもしれない。
無性にファイト・クラブを観たくなった。やっぱり面白かった。プライムでもサブリミナルチンポは無修正だった。
エクソシストもそうだけど、あれってサブリミナルというにはハッキリ写しすぎじゃねって思う。ちょっと再生ボタン連打すれば捕まえられるし。なんか写りこんだ?というのも認識出来ないレベルで挟み込んで無意識に刷り込むみたいな話じゃなかったっけ。ファイトクラブの方はまあ作中でも言及されてるし、演出に気付いてもらわないと困るのかもしれんけど。
電話がタイラー・ダーデンと繋がるツールになってたり、廃屋のキッチンで二人が同じ画面に収まらないシーン(タイラーが部屋から出た瞬間にエドワード・ノートンが入ってるとこ。逆かも)を見て、ジョジョのドッピオを鮮烈に思い出した。元ネタはこれなのかもしれないなって思った。メメントとかもまんま取り入れてたし。
前観た時は深く考えず、単にストレス由来かなんかの二重人格なんだなあくらいに思ってた。今回はドッピオとディアボロの関係を踏まえると非常に腹落ちした。エドワード・ノートンのこうありたい自分という願望がもう一人の人格として形を持ったんだなって。
気弱な優男風のエドワード・ノートンに対して、同じ身体を持つはずのブラッド・ピットが容姿といいファッションといい真逆なマチスモを体現してるのも腑に落ちる。ドッピオも体型が本当に変わってたし。
ブランド品での気晴らしに埋没する妥協と、夢をごまかす学生に銃を突きつけて本気で取り組めと脅すような破壊願望。理想的な自己実現(?)や欲求への誠実さと、社会性(敢えて良心とは言いたくない)の二項対立。「愛」は前者のようでも後者のようでもある。
前もネットの受け売りの視点で消費社会がよォ……みたいな見方はしていたけど、もっと肌感覚レベルで一人の人間の葛藤の物語なんだなって思えた。結局爆破はするけど……
馬の鼻先に人参を吊るして走らせる、なんて都市伝説やと思うんですよね。馬はそんなにアホちゃうからすぐ気づくやろうし、そもそも食いもんなんて別個に自分で見つける力あるでしょ。
それとおんなじように、希望を自分でいい塩梅にチューニングして、それを生きる動機にするんて、難しい思うんですよ。絶対叶わへんとわかってたら、そらやる気も出ぇへんし、叶いそうな短期的な望みやったらじきに叶えてもうて「次」が必要になるしね。
次から次へと希望を用意すんのはキツい。年齢的にもキツいし、世の中的にも「もうそういうのはええかな」感あるし、まぁ消費社会の終焉ってこんな感じなんかもしれへんけど、前より全然難しくなってきてる。短期的希望って麻薬みたいなもんでブスブス打ってるうちに慣れてしもてんのかもね。
ま、「モノ」やろうが「コト」やろうが、一瞬でもダッシュさせてくれる人参は、もう思いつかんくなってきてる。
“夢は見るといい。叶わないけど”
せやね、俺はずっと自分を過大評価してたんかもしれん。社会的な自分やなくて、内的な自分を。その広さ、奥深さ、豊かさを無限のように思い込んで、そこに何かあるとずっと信じて。
こんなものは単なる消費行動上の選好にすぎない。
SMモノのAVで抜いたらサディストで、ロリ仕立てのを選んだらロリコンなのかといえば別にそんなことはない。
まいたび同じようなものばかりでは飽きるので、目先を変えるために今日はたまたま〇〇モノをチョイスしたというだけのことだ。
熟女モノとかJKモノといったパッケージは、本質的には似たり寄ったりのポルノコンテンツをささやかに差別化するためのフレーバーにすぎない。同じ女優が化粧を変えて出ていたりするし。
中には飽きもせず「自分は絶対ネトラレものしか観ない」みたいな消費者もいる。だからどうだということもない。そういう偏った傾向も、「どっちかいうと巨乳好き」とかの単なる好みの延長線上にある。
増田は単なるズリネタチョイスの傾向が己の「アイデンティティ」なのだという。
それと同時に「単なる好みなのだから不当に差別するな」という。
真っ向から矛盾しているようで実はしていない。これはごくありきたりなオタクのメンタリティなのだ。どういう商品が気に入ったかというだけの事を自分のアイデンティティだと、そしてそのチョイスは他人が侵すべからざる神聖なものなのだと、大袈裟に言い立てる。
傍目にはたかがどのフレーバーのドロップを選んだかというだけの話なんだけどな。
呉智英先生はかつて「血液型占いは差別の代償行為」だと喝破した。
ひと通り衣食足りてそれなりに平和な、のっぺりとした日常生活空間をドラマチックに彩りたい欲望が人間にはある。
そのお手軽な手段が、占いや陰謀論といったオカルトの類であり、また「単なる消費行動上の選好に過剰な意味付けをする行為」なのである。
似たりよったりの商品を手軽に表面的に差別化するためのトッピングと同様、周りの有象無象と似たりよったりの自分に「〇〇推しの自分」というフレーバーを施すのだ。
そういう「遊び」なんだという自覚がどっかにあれば、それは高度化した消費社会を軽やかにたのしく生きていくための知恵だとも言える。
でもなんかマジでその気になっちゃって「この性癖故に迫害される自分」みたいに被害妄想こじらすバカがいる。
お前は悲しきモンスターでも不当に迫害されるマイノリティでもない
ただのそんじょそこらのエロまんが好きのボンクラだ。あんま深刻がるな。
■それにしてもたかがお店で売ってるものを「命」「魂」にできるって本当に手軽でいいな。
そんなんじゃ到底満足できない者こそ身の処し方を考えなければならない
■「何が好きかで自分を語れよ!」何が好きかでなんで自分を語ったことになるのか。何が好きじゃないからですぐ喧嘩するし。幼稚な。
「本物の知恵はトーラーにしかない」と聞いて、本当にそうだと思っているので、トーラーをまた読み始めました。
ただ悪魔が生み出してきた数々の邪悪な産物を見極める目を持たないと、追いやられてきた古き善きものがなんであるかもわからんと思うわけです。
数学が悪魔の産物であるかはわかりませんが、悪魔の産物を分析するためのツールではあると思うことがあります。
しかし分析にしろ発明にしろ、それが善と悪のどちらのサイドの手によって使われようとするのか、よくわからないのです。
「増えた言葉は悪人の手にも渡ることを忘れるな」といったことを考えると、わかりやすくおいてある方が危険なのでしょうか。
それともわかりやすくおいてあれば、悪が庶民に周知され、悪魔の技術は廃れ、善いものが戻ってくるでしょうか。
私は悪は庶民から隠されていると思うので、分析して暴くことはある程度許容されると考えています。
ところで、私と同じように、血気盛んな若いときは多くの人が左翼的な人間で、退屈なものを嫌い、目新しいものを探していたことでしょう。
ところが思うわけです。猫が、最新の毛玉を見つけて、好奇心の赴くままに遊んでいる。それがどうしたのか、と。
趣味は人それぞれかもしれませんが、SDGsといっている左翼こそが消費社会を過剰にサポートしているように見えてくると、もう疲れるのです。
昨日も左翼テレビが「手持ち扇風機は夏の必須アイテムランキングに入っている」などと言っているのを見てしまって、本当に嫌になりました。
家電、ホームセンター、ドラッグストア、スポーツ用品、アウトドア用品、カー用品、洋服、靴などには定番チェーンがある。
それらの大型店舗に行けば、いろんなメーカーのいろんな商品を見比べることができて、その品質にもそれなりの信頼がおける。
しかし逆にそういった定番チェーンに該当しない商品を買うときにどこへ行けばいいのかわからなくなってしまった。
もちろんデパートやショッピングセンターや雑貨屋のような「なんでも売ってる」ところに行けば多少は置いてあるだろう。
だがそれらにはチェーン店的な品揃えと気軽さは期待できない。
つまり「カバン版ユニクロ」や「財布版ヨドバシ」みたいなものが無いのである。
当たり前だろ、と言われるかもしれない。
あいつらは、俺ら絵師(俺みたいな弱小絵師は含まれないかもしれんが)の作品を無断で学習したAIを使って、一本も線を引かずに「俺らAI絵師っす!まだペン持ってるんすかwww教師データごちっすwwwwww」みたいに煽ってきてな?すげえわかる。弱小絵師の俺なんかでよければ200%その憎しみに寄り添ってやれるよ。憎いよなあいつら。
なんか絵師サイドってこういう認識の人多いように見えるけど、エロい絵で抜いてるだけのおっさんになりつつある増田が観測する限りそんなAI絵師(?)おる?って思う
いやまあ多分0ではないだろうにせよ、ガワから見てる限り(指摘の通り)過剰反応感エグいんだよな 故に多分面白がって煽る奴も出てくるんだろうけど
タグ付けとかで検索妨害になってるからその辺はどうにかして欲しいが、同じように絵を投稿してるからといって同じようなモチベーションとかテンションでやってると勘違いしてるフシがあるような気がする
の3つだと思う。
著作権云々AI規制云々に手を突っ込むと二次創作とかまで飛び火しそうだし、撤退線としては悪くないラインだと思う
ただ「尊敬」はこの消費社会じゃかなり程度による気がするけど...要は工芸ぐらいに世の中の関心は後退するだろうから...
それにある種の創造性はAIユーザでも認められるしね 今はまだ割とハンコ絵だけどツールの発展で差異はどんどんなくなっていくかもしれない
だから現時点での議論が今後どの程度通用するかというのは結構疑問で、その意味でも持続性のある団体なり代表者なりを立てるのは悪くないアイデアだと思うよ
トランペットの良し悪しが全く分からんな。5年ばかりやって結構上達したのに。
謎メーカーのおもちゃレベルのやつなら明らかにピッチが不安定とかはあるけど、ヤマハの入門レベル以上になるとまるで分からん。
一番安い入門モデルとハイエンドを吹き比べると、なんか違う……ような気がする……という感覚が無いでもないが、どちらが良いかと言えばどっちでもいい。マウスピースの方がよほど重要だと思う。
主管の支柱の本数で音が変わるとかピュアオーディオのオカルト商品並みだろ。
楽器に限らず一定のライン超えたらあとは好みなんだろうけど、その好みの違いすら誤差レベルなんじゃねえのって思う。
わずかな誤差に高い金積んででもこだわりたいって気持ちは分かるけど。ファッションなんか特にそれが顕著だし。
シュータンとソールの色と、誤差みたいなシルエットの違いのためにABCモデルの倍近いスタンスミスを買うのは違いの分かる人間なのか、消費社会の豚なのか。
使い捨てをせずに修理をする社会というものは、使い捨てをする社会よりも金銭的にはコスト(人件費)が掛かる世の中ということなのでしょうね。
自分で作業するのであればプライスレスになりますが人に依頼すれば予想以上の人件費がかかる。
これは家事代行なんかでも同じでしょう。
掃除機をかけるだけの仕事でも他者に発注すればそれなりお値段になるのと同じでしょう。
これからモノの消費を抑える、使い捨てをやめる社会を選択するということはどういうことなのか?
を考えていくと新品ではないものに対して新品以上の対価を払って古いものを修理していく社会ということになるという大量消費社会に生きてきた我々にとっては少し違和感のある社会になるのでしょうか。
日本人にとって間違った欧米人の価値観であるセクハラなるものが導入されたあたりで完全に日本女性の性欲は拗れてしまったのだ。
本来女性の性欲は痴漢や職場でのお触り行為で適度に発散されていたものである。
昭和時代に作成されたドラマ・映画を見てもらえばわかると思うが、
部長課長役の男性がお茶くみの女性のお尻にタッチしてそのことを女性が喜びながら怒るというのは定番のシーンである。
女性というのは性欲があることや性欲を満たされることに対する喜びを素直に表現できないものである。
これは様々な要因によるものがあるが基本的には金銭に換算できるような対価を要求できることを無料で男性側に提供することに対する不条理に対するものである。
という矛盾により発生する不条理に対する無意識の不満によるものが
その間には女性も普通の生活の中で性欲を発散することが出来平和であった。
しかしながら1990年代前後に米国からセクシャルハラスメントなる概念が導入されることになる。
その原動力になったのはフェミニストと呼ばれるようなある種の主義に凝り固まった人々が社会運動化することにより自らの立身出世に役立てようとする活動によるものである。
わかりやすくいうと
セクハラをバズらせて
ある価値観を提供されると、本来的な自分の気持ちを差し置いても、その価値観そのものに自分の意志を委ねるということをする。
セクハラ、という概念が紹介されたときに一様に昭和の人々は困惑した。
あまりに日本人には馴染みの薄いバター臭い欧米人の極端に個人主義を発展させた上での屁理屈のようなその理論と、
その主張を声高にする人々の本音のようなものが薄ら見えて気味悪く感じられたのだ。
しかし、人はひとつの目新しい価値観を提供されるとその正否は別にして、ただ新しいと言うだけで魅了されるものでもある。
とくに若い人々、当時の自らの性欲の発散のさせ方をよく理解できていない女性にとってはそうであった。
本来、適切なタイミングで行われる痴漢やお触りは喜ぶべきスキンシップであった。
大人たちはそのことをよく理解していたし、だから社会的に黙認されていたことであったのだ。
この場合女性の適度な性欲発散を社会的に容認するというやや風俗的に如何なものか?
と問われる部分においても柔軟に解釈して女性の喜びを保持するべきであるという社会的なやさしさがあったのだ、昭和には。
しかし、そのことを理解する前に新しい概念を吹き込まれた女性たちは、
自らの欲望と、ある種の屁理屈のような主義主張にとの間で葛藤することになる。
それが警官のコスプレをしながら、痴漢待ちをする、というような第三者から見れば摩訶不思議な行為によく現れている。
本質的に痴漢待ちをしたいという強い願望を持つのが女性であるが、
拗らせたきった間違った価値観を後天的に学習してしまったことと、
まるで痴漢をされるのが「損」であるなどという自らの首を締めるような考え、
自分で自分を鎖で縛るような考え方に染まりきってしまって最早身動きがとれなくなっている。
年齢
顔認証と年齢確認のためにマイナカードをかざすようにすればよいのである。
本質的に自分たちの行動が間違っていると気づく端緒にもなるというのに
今の運用方式では、ただ単に一般車両よりも空いているから、という理由で使われており
それがゆえに廃止すべき女性専用車両の廃止すべき理由が意識されないのである。
ここまで書いても理解できない人は多数いることはわかる。
人々の価値観をコントロールするというのはそういうことなのだ。
1970年代って言うともう半世紀前なんだけど、恐ろしいことにそんな時代の映画を持ち出して「これがアメリカ社会なんだよ。大変だよ」みたいなことをいう奴がいる。
まあそれだけならただそいつが馬鹿なだけで良いんだけど、実際、半世紀前のアメリカ以外の映画を見るとどうしたって原始時代にしか見えないのに、アメリカ映画だと何となく20年前くらいかなという錯覚が起こる気がするのも確かだったりする。まあ、それでも現代の社会問題を語るには古いんだけど。
最近、トーキー初期の1930年代なんていう古い映画を配信サイトで見たりするのだが、そういうのの中には、これ本当に90年前かと思うような、現代にも通じる政治とか消費社会の皮肉みたいなものが描き出されているものすらある。
これってやっぱり特殊なことで、アメリカって「現代」というものを象徴する何かをずっともってる国なんじゃないかなって思う。
オチはありません。
皆さんはどう思いますか?