はてなキーワード: 本田透とは
「成功は、他力によるものこそ羨ましい!」という女の心性をひとまず心にとどめておいてください。
(エビちゃんシアターの)話は方便であって、エビちゃんの可愛さとシチュエーション別着回しがあり、イケメンに求愛されつつ、本命と結ばれれば良い。
求愛役となる「間男」にこそイケメンは配置される。そして誠実で優しいが言葉しかよこさない男より、間男(イケメンで金持ちでティファニーをプレゼントしてくれる)のほうが重要、という間男のテーゼが繰り返される。
意識的と言うよりは、作り手と読者の願望そのものが、幾度もコピーされるのである。
しかし、話がどうでもいいからには、むき出しの構造と身も蓋もない本質が現れる。
何の本質か?エビちゃんに自己投影したい女の、ファンタジーの好みである。
本田透は、女が忌み嫌うオタクのアニメやゲームの多くが、女好みのドラマと全く同じであることを見抜いている。
たとえばパソコンゲーム「君が望む永遠」は韓流ドラマ「天国の階段」。
やってることは同じだろ!恋愛!交通事故!記憶喪失!三角関係!嫉妬!妹!
ただ、オタクコンテンツと女が女のために無意識で作ってしまうコンテンツの間には、たった一点、違いがある。
古来、ドラマというものは苦労人の方に感情移入するように作られてきた。シンデレラを思えばいい。
それが女性誌型のドラマだと、「苦労知らず」の方が一人勝ちするのである。
それは本来はドラマにはならない。「冬のソナタ」野本ネタとも言われる日本の漫画「キャンディキャンディ」になぞらえれば、
いじめっ子の金持ち娘イライザが美人で性格もよくもちろん金持ちで男全員にモテモテ!みたいな話なのである。
それが、女の人生ファンタジー。何だろうこれ、妄想というのさえ疲れてきたが・・・。これが女がオタクを近親憎悪する理由なのだろうか。
エビちゃんが演じさせられることの、あり得なさがやたらにリアルなのである。背後にいる女たちの夢の在り得なさ、そのもののようで。
エビちゃんの演じさせられるOLは、手持ちの服と旬のアイテムをいかに効果的に組み合わせ自己プレゼンするか。そしてお話能力と関係調整能力だけ、
すなわちほとんど見た目とその個人の愛される質だけにたよった仕事であるとしか読めないようにできている。
エビちゃんが演じるOLの内実がどう描かれているのかをよく見ると、作り手が彼女に託したい夢の自画像のようなものが見えてきて、胸が苦しくなってくる。
それは、男女雇用機会均等法が決して果たさなかった約束であり、これからも果たすことがないと定款ないし絶望している女たちの夢のようである。
要するに、韓流ドラマっていうのは今で言うと豚向けアニメってことだな。
女は男がブヒィィ言うはるかに前から韓流ドラマでブヒブヒしてたわけだ。
女のほうがはるかに欲望に忠実で、それを早くから、しかも現実の人間を使ってドラマに仕立てあげてたわけだ。恐るべし。
で、オタクどもはそれの後追いにすぎない。
オタクって、偉そうなこと言ってるけど、想像力や執念においてそんじょそこらのブヒ女にはるかに劣る。まだまだ常識に囚われてる奴が多いってことがわかるね。
ついつい「これはやり過ぎなんじゃないか?」とかブレーキが掛かっちゃうんだろうね。
エロ方向だけは際限なく好奇心旺盛だけれど、もっと本質的な所で欲を持てない。弱い弱い。
もっとシャルとか牧瀬紅莉栖みたいなキャラをどんどん創り上げて、エロ方向よりもっとえげつない所で欲望を満たしていけばいいのに。
本田透は当時から「(ちょっと興味深い)極論を振りまいている人」という扱いだったと思うけど。
「ルサンチマンに塗れたオタク」としては、滝本竜彦がガチ、本田透はネタ、って認識だったなぁ。
頭も良いし教養もある人だけどね。
やっぱり岡田斗司夫なのかな。
いやまあ、最初からバズってたという意見は認めるしそうだとも思うw でも、だとするとガチキモヲタ(butイケメン)の本田透先生にはそこら辺の事情(少なくとも型月を認識してなかったということはねーだろー)をスルーしてたらしい、というところに達するよな。
とすると、本田透先生は、どういうポジションの人になる? 岡田なんとかさんと一緒で、現状認識と啓蒙する内容を違えるタイプのアジテーター?
西尾維新のデビューが2002年、Fateの発売が2004年。
まるで東のエデン以前は女性のサブカル者が皆無だったような書き方だけど。
それでも2005年なんだよ。
昨日今日の話じゃない。
サブカルが滅びたように見えたのは2005年のその時点では正しいけど、今はサブカルらしきものがやっとこさ顕現してきたじゃないか。
西尾維新らのそれとか、fateとか。最近でいうと四畳半何とからへんから続くノイタミナ枠の作品なんかがサブカル者のアンテナに引っかかってるようだし、2005年頃丁度サブカル枠でバズってた攻殻機動隊が3D映画になって二次的ブームを迎えている。
東のエデンは流行らなかったし批評に耐えうるほど出来た作品じゃなかったけど、「女性層を意識した」という言い訳もあるとおり、女性のサブカル者も徐々に増えてきつつある。(と、いいなあ)
テレビアニメと劇場版アニメが分断され、後者がサブカル者に向いていたりするのは2005年くらいの時点では想定も出来なかった事態だと思うよ?
いやまあ、本田透さんという人がリアルタイムでオタクをやっていて我々の感覚と非常に近い位置にいいる、ってのは結構重要なんだけど、2011年の時点で『電波男』からの引用はちょっと拙い。
今は本田透さん自体がラノベを書いてたりそのラノベが実写映画化してる程度には時代の流れがおかしくなってる。2005年(ハルヒアニメ化)以前のラノベ市場とそれ以降では萌えの形式も変わった。サブカルだったはずのラノベがむしろメインストリームになってる。(西尾らのそれはサブカルだって印象だけどな)
らきすた以前では日常系がこれほどまでに「オタクの居場所」として機能するなんて思いもよらなかったろうし。
という訳で、狙いは良かったんだけどもう一ひねり欲しかった所。
「今日の猫村さん」とか「進撃の巨人」とか「おやすみプンプン」、「3月のライオン」とか「ドリフターズ」あたりを絡めて再考してみてくれ。
このエヴァ騒動によって一時、オタクは「萌え」と「サブカル」に大分裂した。「萌え」系オタクは、エヴァでいえば綾波レイや惣流・アスカ・ラングレーなどの萌えキャラにハァハァしていた純粋オタクの系統であり、「サブカル」系は、オタクよりも恋愛資本主義の側に擦り寄ってオサレ系を目指した連中だ。
だが、あれから数年、どうなっただろうか?
そう、サブカルは市場として成立せず、萌え市場だけが拡大したのだ。サブカルは短期間で事実上滅び、講談社のノベル雑誌『ファウスト』のような「半萌え・半サブカル」形態によってかろうじて命脈を保っているばかりとなった。
これは当然の帰結といえる。
オタク文化そのものが「二次元>>>>>>>>>>三次元」という前提によって威力を持てる妄想の文化である以上、サブカルが「三次元>>>>>>>>>>二次元」とやらかしたら、オタクの大勢がサブカルから離脱するのは時間の問題だった。
この「サブカル」ってのを「一部の批評系」にしたらしっくり来る。
萌えオタ罵倒してフニャフニャ主義だとか言ってた本人が、いざ容姿を出すと初音ミクの痛車よりも映像映えしないリア充ならぬリアル三十(さんじゅう)だったり、映像だと(字幕の向こうの群衆におびえて)大人しくなりキャラ崩壊してたりとゼロ年代批評はいろいろありました。
『電波男』は要するに「萌えには階級格差を無化する力があるんだ!」という本です。現在は『はがない』『IS』『けいおん!』など、良かれ悪しかれそうした表現が主流になりつつある。いかにも小泉構造改革以後の空気感みたいなのと関連付けやすい『カイジ』や『ウシジマ君』は有名になったけれど、なぜ彼らはアイドル(=偶像)になれなかったのだろう。
代わりにネットオタクの偶像となったのは『初音ミク』や『アイドルマスター』や『ラブプラス』それに『けいおん!』だった。
そして社会に出て自らの文化的アイデンティティを主張できたのは、『スクールカースト』ではなく痛車と聖地とローソンだった。そこにある想いは「余暇の時間まで勝ち組・負け組を意識させられ自己啓発されるのはキツい」というあたりまえのものだろう。
それすら許せん、となにかと理由をつけて萌えオタ罵倒してた件の人物は映像に出たらしょぼしょぼで(以下略。
映像やまとめサイトが「差異化ゲーム厨」への抑止力になるならば、少なくとも差異化ゲーム厨が野放しな環境よりは良いと思う。まあともかく萌えからフニャフニャ主義への流れなんてなくて、フニャフニャ主義こそむしろサブジャンルに過ぎないっつうか、萌えだけで刺激が足りない時に触れる程度。
ようするにゼロ年代は「差異化ゲームの思想」ではなく「無関連化する思想」が勝利した。2005年の段階でこのことを説明し得た『電波男』は、フニャフニャ主義本よりもよっぽどゼロ年代の「正史」を正しく語っている。
http://anond.hatelabo.jp/20100317231507
めんどくさいけどレクチャーするね
何度目だナウシカって感じだけど
「童貞は笑いものにしていい」っていう通念があるからだよ。
何かといえば「ホモソーシャルの抑圧が…」って言うフェミニストの中の、特に高名な親玉だって
童貞のことは平然と笑いものにしてる。
あと女性を敵視してる一部の非モテ層の人は喪女の存在に関してはどう思ってるんだろ
いつもスイーツしねビッチしねおんなしねっていう文章をネットで見かけるたびに思ってしまう
そもそも不細工非コミュの女というのは彼らにとってはどうでもいい存在なのかな
「スイーツしね」っていうのは恋愛やデート文化を強制する女性誌価値観へのカウンターだろう。
不細工非コミュでもスイーツ価値観の共有者なら「スイーツしね」の範囲に入ってるだろうし
そうじゃないならそうじゃない。
美人か不細工かで区別差別する意識があるのは非モテじゃなくて君だろ。
http://anond.hatelabo.jp/20100127001517
さらにヴァージョンアップさせるとこうなる。
この時期になると大学生向けに読むべき100冊みたいなリストが出回る。
あんなリストを真に受ける人も少ないだろうが……はっきり言って悲しくなるくらいお粗末だ。
ずらっと並べられた古典名著。あまりに埃の被ったラインナップにがっかりする。
こういった学問には「原書病」とでも言うべき、くだらない風習が根強く残っている。
原典や本文を極度に重視するのは不健全だ。それ自体は面白いとしても、その後発展と整理を経て洗練されている。
歴史的興味以外であえて出発点に戻る価値はすごく小さい。そんなところに本当の「教養」は存在しない。
難解で時代遅れな文章と格闘したって、趣味以上のものにはならないし、考える力は湧いてこない。絶対誤読するし。
そこで本当に頭を強くしたい人が読むべき書籍リストというものを作った。
これは単なる学問という空気に浸ってみたい人が読むものじゃなくて、日常に根ざした本物の力を分けてくれるものだ。
この100冊さえ読めば考える素材に困らないだけでなく、コミュニケーションの強者にもなれる。
飲み会で古臭い古典の話をしたって煙たがれるだけだが、この100冊をネタにすればそんなことにはならないし、
黙考はずいぶんと深くなるし、ブログのネタに応用すれば必ず一目置かれる。
選んだのは現代的で網羅的、そして極めて平易なもの。どの分野にも精通できるように色んなジャンルのものを配置した。
この100冊を大学生活のうちに読み切れば、必ずや一生の財産になるだろう。
ここに挙げられた本が、現代最新型にアップデートされた真の「教養」だ!
『逃走論』 浅田彰
『アメリカン・コミックス大全』 小野耕世
『よいこの君主論』 架神恭介
『おまえが若者を語るな!』 後藤和智
『シミュレーショニズム』 椹木野衣
『箆棒な人々』 竹熊健太郎
『新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書』 西寺郷太
『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』 ばるぼら
理想の異性を、そこに見出すということについては、たしかに私にも『るろ剣』の操ちゃんが理想の女の子だった時期があったんですよね。高校時代あたりまで(スイマセン、古い話です。。。)そりゃ現実にはモテませんでしたし、勢いでできた他校の彼女さんも何回かデートしたらいつの間にかいなくなり、っていうどんよりとした青春でしたからね(笑)ルサンチマンを抱えつつ、脳内でそれで癒されてたり元気をもらってたんだなと。想像する材料が、原作とテレビアニメを除くと、圧倒的に大きなお姉さん向けのドリーム小説かアンソロジーマンガみたいなのしかなかったんで、仕方なくそれ読んでね。ときどきページをめくると腐女子向けの描写のほうが多くて泣きそうでしたけども(苦笑)それは誰にも言ってはいけない、隠しておくべき秘め事だったわけですよ。だっていくら脳内で自分だけの物語やシチュエーションを展開しても、所詮は二次元の住人なんですから。当時は脳内妻、という本田透が言い出した便利な言葉もまだなかったですしね。ああ、なんか初めてこういうこと書いた気がする(苦笑)
私も本田透の呪いは分からないでもないのだが、正直乗りきれない。
世の中には、被害者である時期が長いと、何事も悪意で解釈してしまう人がいる。私もそうだ。本田もそうだろう。
そんな時にどうすればいいかというと、これは心の病気なので、精神医学系に行く。私の場合は心療内科だった(精神科だと仕事上差別されるという。要注意)。
今の人数と熱意で革命がうまくいくとは思えない。じゃあ世の中より先に心の中を変えるのが早いんじゃないか?
私の被害妄想は、人を信じていないのに、人に従わうことを余儀なくされていると思い込んでいることに基づくものだった。
IT派遣下級管理職の仕事はキツかった。多くの後輩を泣かせてきたし、私もぼろぼろになった。
性格も変わった。人に隷属して、責任ある決断など面倒事を全部引き受けて、評価されなくても文句を言えない、そんな歯車になっていった。
それが分かっただけでも大分違う。じゃあ人を信じるか従わなければいい。そしてあいつらを信じるのはまっぴらごめんだった。
私は仕事を辞め、人に従わなくなり、私の病気は相当軽くなった。薬を処方してもらったことも大きい。
周囲の環境は治せないにせよ、周囲の環境に影響を受けた心と行動は治せる。そうすればその行動によって環境も半分は治せるものだ。
女は隷属してくれて、責任ある決断など面倒事を全部引き受けてくれて、評価しなくても文句を言わない、そんな歯車のような男を望んでいる。
そして私はそんな男にはなりたくない。そんな女も大嫌いだ。恋愛する気になれない。
でも、これは私の被害妄想なのではないか? ならば治療で治るはずだ。
女はもしかして私を歯車扱いするかも知れない。でも私は歯車ではない。歯車として振る舞わなければ、やがてクズは去っていき、カタギだけが残るだろう。
ならばやるべきことはまずは病気を治すことだ。
非モテは心に傷を負っている。だから治せばいい。心が治れば世界は少しは輝きを取り戻すだろう。
まずは心療内科だ。
http://www.nytimes.com/2009/07/26/magazine/26FOB-2DLove-t.html?_r=1&ref=global-home
Nisan is part of a thriving subculture of men and women in Japan who indulge in real relationships with imaginary characters. These 2-D lovers, as they are called, are a subset of otaku culture— the obsessive fandom that has surrounded anime, manga and video games in Japan in the last decade. It’s impossible to say exactly what portion of otaku are 2-D lovers, because the distinction between the two can be blurry. Like most otaku, the majority of 2-D lovers go to work, pay rent, hang out with friends (some are even married). Unlike most otaku, though, they have real romantic feelings for their toys. The less extreme might have a hidden collection of figurines based on anime characters that they go on “dates” with during off hours. A more serious 2-D lover, like Nisan, actually believes that a lumpy pillow with a drawing of a prepubescent anime character on it is his girlfriend.
According to many who study the phenomenon, the rise of 2-D love can be attributed in part to the difficulty many young Japanese have in navigating modern romantic life. According to a government survey, more than a quarter of men and women between the ages of 30 and 34 are virgins; 50 percent of men and women in Japan do not have friends of the opposite sex. One of the biggest best sellers in the country last year was “Health and Physical Education for Over Thirty,” a six-chapter, manga-illustrated guidebook that holds the reader’s hand from the first meeting to sex to marriage.
Most 2-D lovers prefer a different kind of self-help. The guru of the 2-D love movement, Toru Honda, a 40-year-old man with a boyishly round face and puppy-dog eyes, has written half a dozen books advocating the 2-D lifestyle. A few years ago, Honda, a college dropout who worked a succession of jobs at video-game companies, began to use the Internet to urge otaku to stand with pride against good-looking men and women. His site generated enough buzz to earn him a publishing contract, and in 2005 he released a book condemning what he calls “romantic capitalism.” Honda argues that romance was marketed so excessively through B-movies, soap operas and novels during Japan’s economic bubble of the ’80s that it has become a commodity and its true value has been lost; romance is so tainted with social constructs that it can be bought by only good looks and money. According to Honda, somewhere along the way, decent men like himself lost interest in the notion entirely and turned to 2-D. “Pure love is completely gone in the real world,” Honda wrote. “As long as you train your imagination, a 2-D relationship is much more passionate than a 3-D one.” Honda insists that he’s advocating not prurience but a whole new kind of romance. If, as some researchers suggest, romantic love can be broken down into electrical impulses in the brain, then why not train the mind to simulate those signals while looking at an inanimate character?
Honda’s fans took his message to heart. When he admitted to watching human porn at a panel discussion in Tokyo in 2005, several hundred hard-core 2-D lovers in the audience booed with shock that their dear leader had nostalgia for the 3-D world. Later, in an interview with a Japanese newspaper, Honda clarified his position, saying that he was worried 2-D love was becoming an easy way out for young otaku, who might still have a shot at success in the real world. “I’m not saying that everyone should throw away hopes of real romance right away. I am simply saying that guys like me who have gotten to a point of no return can be happy living in 2-D.”
「兄さん」は、想像上のキャラクターとの本物の関係性に耽溺する日本の男性や女性の、成長しつつあるサブカルチャーの一部である。これらの二次元愛者――と彼らは呼ばれているのだが――は、オタク文化のサブセットである。オタク文化とは過去十年間の日本における、アニメやマンガやビデオゲームに囲まれたオブセッシブなファンダムのことだ。オタクのうちの何割が二次元愛者なのかを正確に言うのは不可能だ、というのもこの二つの間の区別は曖昧だからだ。ほとんどのオタクと同様に、二次元愛者たちの大半は日々仕事に行き、アパートの家賃を払い、友人たちと外出したりする(その一部は結婚してさえもいる)。しかし殆どのオタクとは異なって、彼ら(「兄さん」のような人たち)は、自分の人形やグッズに本物の恋愛感情を抱く。(「兄さん」ほど)極端でない人たちは、アニメキャラクターのフィギュアのコレクションを隠し持っていて、彼らは休みの日にはフィギュアを連れて「デート」に出かける。「兄さん」のような、より真面目な二次元愛者は、思春期前のアニメキャラクターが描かれた無骨な抱き枕が、彼のガールフレンドだと現実に信じる
この現象を研究している多くの者によると、二次元愛の隆盛は、部分的に、多くの日本の若者が現代の恋愛生活を営むのに困難さを抱えていることに起因している。政府の調査によれば、30歳から34歳の男性・女性のうち1/4以上が童貞・処女である。日本の男性・女性の50パーセントは異性の友人を持っていない。昨年の日本におけるベストセラーの一つ『30歳の保健体育』は、6章からなるマンガイラスト付きのガイドブックであり、読者がいかにして異性の手を握り、セックスをし、結婚すればよいかを、手取り足取り教える。
殆どの2次元愛者は異なった種類の自立法を選ぶ。二次元愛ムーブメントのグルであるところの本田透(ボーイッシュな丸顔と子犬のような眼の40歳男性)は二次元のライフスタイルを推奨する6冊の本を著した。数年前、大学を中退しビデオゲームの会社で仕事を続けていた本田は、インターネットを使ってオタクたちにルックスのいい男女(「イケメン」の訳か)に対抗するプライドを持って立ち上がるよう促した。彼のウェブサイトは彼が文筆で生計を立てられるだけの十分なファンを作り出し、2005年に彼は彼が言うところの「恋愛資本主義」を非難する本を出版した。本田は、恋愛は80年代日本のバブル期のB級映画やメロドラマや小説によって極度に市場化されてしまい、コモディティ化して、その本当の価値が失われたのであると論難する。恋愛は社会的構築物によってあまりにも汚染されたたため、ルックスのよさと金によってのみ購入されえるものになった、と。本田によれば、この恋愛資本主義の道の先のどこかで、彼のような品位のある男性は完全に現実の恋愛への意向を失い、二次元に救いを求めたのである。「純粋な愛は現実世界からは完全に無くなった」と本田は書いた。「君が自分自身のイマジネーションを鍛える限り、二次元との関係性は三次元とのそれよりもとても情熱的なものだ」と。本田は、彼が推奨するのは色欲ではなく、全く新しい種類の恋愛だと主張する。もし、脳科学者たちが提唱するように、恋愛感情が脳内の電気パルスへと分解できるのであれば、無生物のキャラクターを見ているときにその電気シグナルをシミュレーションできるよう、脳を訓練しない理由などあろうか?
本田透のファンたちは、彼のメッセージを心から受け止めた。彼が2005年東京でのパネルディスカッションで自分が人間のポルノ(アダルトビデオのこと)を見ていることを認めたとき、会場の数百人のハードコアな二次元愛者は、彼らの親愛なるリーダーが三次元世界へのノスタルジーを持っていたことにショックを受け、ブーイングした。後に、日本の新聞のインタビューに答えて、本田は自らの立ち位置を明らかにした。彼は二次元愛が、まだ現実世界での恋愛に成功する可能性を持っている若いオタクにとっての安易な逃げ道になりつつあることを懸念していた。「僕は、全ての人が現実での恋愛への希望を今すぐ捨て去るべきだとは言っていません。僕はただ、自分のような引き返せない地点まで来てしまった人たちは、二次元に住むことで幸福になれると言っているだけです」。
http://anond.hatelabo.jp/20090311015518
ことし40歳になる有名人
「今年30歳の有名人」と違って、もう既に若者扱いされることもなく立派な中年。芸人なら中堅、スポーツ選手は半分以上は引退して指導者になってたり、芸能人になったり、政界に転出してたりする。
90年代の日本の音楽シーンの中心だった人たちもこの世代。ミスチル、LUNASEA、ラルク、コーネリアス、渡瀬マキ、大黒摩季、槇原敬之。福山雅治と加勢大周と東幹久って同い年なんだね。ジャンル的に同じでも、出てきた時期が微妙に違うからそう思わなかった。
あとこの年齢だと、既に他界している人もいる。年を取るってそういうことなんだね。