はてなキーワード: 筒井康隆とは
ももクロは今より売れる可能性はあっても、アイドルにおいて覇権を握る、今で言うAKBのポジションに着くことは到底有り得ない。その理由を記述する。
(1)ファンが批評系
もう、これでここで言いたいことの8割は言ったのだが、今のところ”ファン”を自称する人間のその多くが批評的な人間であるということだ。
AKBもかつてはサブカルだった。どサブカルだった。秋葉原に劇場を持ち毎日公演を行い、謎の選挙システムを有する。いかにもである。しかし、このAKBの流れを汲み取り切れなかったのが2000年代後半のサブカルチャー批評だった。かつて文芸批評家の宇野常寛氏は、ニコ生の番組において「2011年に入るまでAKBに注目できなかったのは失態」と語ったことがある。
AKBは上記にあるように、サブカルを代表させるにはうってつけのシステムを持っていた。これを批評的に分析できたとしたら、どれだけ楽しかったことか。そして今の流行を先見の明を持って解き明かせたら、どれだけどや顔できたことか。しかし、その間もなくAKBはサブカルとは呼べないレベルの現象になってしまった。
今更AKBを語るのは、サブカル的には”カッコ悪い”。(前述の宇野氏は、現在ではAKBの批評的分析を、同じく批評家の濱野智史氏と共に行なっている。このあたりは、ポップカルチャーを批評対象とする宇野氏のスタンスに適っている。)
しかし、AKBには一個弱点がある。それはデカくなりすぎたことだ。デカくなればそれの粗探しも容易である。後は、「じゃあ何だったらいいんだよ」と返されたときに持ちだしてこれるモノがあれば良い。
ももクロ以外のモノではダメな理由がある。それは、現在ももクロ以外の各レーベルが売り出すアイドルグループは、方法論やコンセプトがあまりに凡庸、古典的なのだ。
「◯万人の中から選ばれた◯名」「毎日長時間のレッスンを重ね、△△より上手い、歌とダンス」
こんな売り文句に飛びつけるわけがない。
そして、ももクロでなければならない理由もある。
そもそも、AKBのコンセプトとは何だったか。それは「会いに行けるアイドル」である。
対してももクロのコンセプトは。そう、「いま、会いに行けるアイドル」である。
ももクロの結成は2008年。この時、既にAKBは前年に紅白出場を達成、またCDの販売方法が独禁法に触れる恐れがあるとして販売中止、回収騒ぎになった年でもある。
当然ももクロ側にも、メジャー化して「会いに行ける」というコンセプトの維持が難しくなったAKBへの対抗意識があったことは間違いない。
この、売り出し側の「アンチ・AKB」的方法と、買い手側の「アンチ・AKB」的精神の癒着により、現在のももクロ人気は成立している。
そして、この一点のみで自称ももクロ”ファン”は、ももクロ”ファン”を公言している。AKBによって市場規模の大きくなった「アイドル業界」において、敢えての選択としてAKBではないグループを応援するという、サブカル的精神にとって心地よい味を提供してくれるのがももクロというわけである。
そして、この手の”ファン”は、小規模な経済活動である間は良いが、規模の拡大に寄与しない(大量購入などのオタク的消費は行わず、あくまで必要最低限のモノしか買わない)うえに、そもそも規模が拡大していくことを嫌う。
小規模の間は、勝手に”ファン”がももクロのいちいちの行為について言説的補強を行なってくれるので、界隈の巻き込み力がある。しかし、その界隈も一定数を超えると限界が出る。しかもオタク的消費を好まないから、数の飽和イコール売上の飽和ともなる。(ここでは、大量に購入させるような商法(いわゆるAKB商法)が倫理的にどうであるかとの問については答えない。簡単に私見を述べれば、独禁法に触れるようなもの、つまり付録のバリエーションを増やし購買意欲を煽るようなものは問題であると思うが、握手券や投票権を求める購買行動については売り手側の責任は無いと思われる。)
以上が、批評系”ファン”が多数を占めることによる弊害と言える。
(2)可愛くもないし、一生懸命でもない
というのは流石に言いすぎだが、他と比べてそこが際立つわけではないということである。
よく、”ファン”はこの2点を強調する。そして、「だからこそAKBより良いのだ」という。
ただ、言いたいことはわかる。
例えばAKBのファンも「◯◯が可愛い」と言う。この◯◯には、例えば高橋みなみとかが入るわけだが、はっきり言って可愛くはない。「前田敦子が1位である意味が分からない」という声もある。
こういう場合、その対象がAKBであろうとももクロだろうとなんだろうと、ファンたち何も容姿の美しさ単体で「可愛い」という形容詞を付けているわけではない。そこには、それぞれ固有の物語、コンテクストを見出して「可愛い」と言っている。それがAKBで言えば、「エケペディア」に象徴されるデータベースから個人個人のエピソードを上手く消費するという行為であって、そしてそのパブリックなコンテクストに加えて握手会というプライベートなコンテクストを加えることで、ファンのメンバーに対する<愛>は蓄積される。
だから、オタク層以外には「AKBで前田敦子が1位である理由」なんて分かるはずがない。というか必要がない。そのコンテクストを共有していない人間に理解される必要などないからだ。
貴方達は皆、ミス・ユニバースの選考に100%納得しているのか。ミス・ユニバースは、ミス・ユニバース内部のコンセプトに基づいてミス・ユニバースを決定するのである。そこにおいて、容姿というのは評価の1項目に過ぎない。その点を理解している人間がどれだけいるか。
この理解で言えば、「ももクロのメンバーが可愛い」というのも同じ文脈で捉えることは可能である。しかし、ここに一点だけ差異がある。
前田敦子が可愛くないとみんなは言う。なるほど、確かに私もそう思う。(ただ、たまに奇跡的な瞬間があることも知っている)
では、テレビでそれを言ったらどうなるだろうか。本人の目の前で「可愛くないねー」と前田敦子に言ったらどうなるだろうか。Mステでタモさんが前田敦子に「顔のパーツ中心に寄ってるよね」と言った時のスタジオの空気を知らないのか。
著名人のAKBに関する批判的コメントは多数ある。ただし当人がいない所で、である。このことが結構大事であって、それは「そんなに可愛くなくても可愛いものとして扱われること」が究極的なアイドル性だと考えるからだ。
前田敦子はその点で究極的である。一方でコンテクストを持つオタク達による支持を受けAKBのトップとして君臨し、もう一方ではそのコンテクストを持たない一般メディアにおいて「AKBのトップ」であるということを理由に支持される。この時、両者は同じように前田敦子に接しているように見えるが、その内実は異なる。
前者は本当に可愛いと思っており(何故ならコンテクストがあるから)、後者は可愛いことになってるから可愛いとしているだけである。(何故ならコンテクストがないから)
そしてその内に、そのコンテクストを持たない者の間にも「可愛い」という意識は一部に伝染する。あくまでも一部ではある。板野友美が女子高生に人気があるというのが都市伝説かどうかは、私には接点が無い存在である故確認できないが、そういう可能性がありうるのがこのような状況である。
可愛い人に可愛いというのは当たり前だし、ブスにブスというのも当然である。そこを転倒させることができてこそ、真のアイドルではないのか。(筒井康隆「薬菜飯店」収録の「イチゴの日」という短編を見よ)
翻ってももクロを鑑みるに、この点が厳しい。コンテクストを共有する者の間で「可愛い」は流通するかもしれないが、コンテクスト外のメディアにおいては厳しい。(「ゴッドタン」をはじめとするバラエティ番組での扱いが顕著である。ただし自らの冠番組においてMCの芸人にどう弄られようと、それはファンにのみ流通するパブリックなコンテクストを補強するイベントに過ぎないので全く問題はない。)
つまり、ももクロはアイドル性を保つのが困難なほどバラエティ性を現時点で持ってしまっているので、コンテクストを持たない者に「可愛い」が流通しにくい状態となっている。
だから「可愛い」と認識させるためにはコンテクストを持たなければならないわけだが、ここでももクロ”ファン”が批評系であることが弊害になる。
彼らは口うるさい。見る前からあれがいい、これがいいとこれ見よがしに自らの批評眼をアピールする。そしておそらく、この手のももクロ”ファン”はAKBオタクなどよりも、音楽偏差値(というものがあれば)は高いし、現代思想にも詳しく普通の意味での偏差値も平均すると高い。
皮肉にも、このことがももクロを好きと公言するのに、もしくは積極的に見ようとする心に障害となる。
彼らは知りすぎている。目が肥えている。そんな彼らが「良い」と言うのだから、「良い」に違いない。しかし見てもよくわからない。可愛いような気はしないし、踊りもなんだか凄いがとりあえず可愛くはない。けど「良い」らしい。なぜ僕はわからないのか。
対してAKBはどうか。オタクはキモい。なんかオタ芸してるし、CDはめっちゃ買うし。だからあんなものを理解しなくて構わない。仮に少しでも引っかかることがあれば、とりあえずそのままその波に飲まれてしまえばいい。どうせ彼らオタクは周りに新しいファンが増えようがどうでもいい。どうせならもっと売れなくなればチケットも取りやすいのにくらい思ってる。
私は、このコントラストが大雑把にはあると思われる。そしてこのことが、「可愛い」というお札が流通しない/する要因となっている。
もう一つ、「一生懸命」について言えば、この言葉はかなり頻繁にももクロを持ち上げるものとして使われるが、端的に言おう。
そんなのみんな頑張っている。ただそれだけだ。
ダンスや歌のレッスンは、皆どのアイドルグループも一生懸命やっているのだ。所詮、「アイドルなのに顔芸をやる」という点においてのみ「一生懸命の差異」を見出してるにすぎない。
私がここで「自称」とか「ファン」を” ”で括るのは、彼らが本心からの好意ではなく、「AKBというサブカルの隆盛を見抜くことができなかったコンプレックスの解消手段」としてももクロを利用しているように見えるからである。
結局のところ、ももクロを今以上に流行らせ、AKBに取って代わりたいのであれば、自称ももクロ”ファン”達がそれを名乗るのを辞める他ない。
早見あかり頑張れ。
娘の誕生日の当日。
いや、翌日ぐらいの方がいいか。敢えて何かある日を外した、なんでもない日の方が現実味がある。
移動ルートと道具をきちんと準備しておこう。
さりげなく手近に鈍器を用意しておく。
そして妻が携帯電話を置く。
それを奪ってまずヒンジを逆方向に折り、携帯を壊す。
そのまま玄関から外に出る。
娘もまだ小さい、おそらく妻は追ってこないだろう。
追ってきた場合は振り切るまで高台の方に走る。
追ってこないにしても高台へ。
どこがいいか。
遺体が見つかるにしても、人目に触れにくく、かといって遺体を回収しにくい場所であってはいけない。
少し林が茂っているところの、道路から少し入った程度の場所でいい。
辿り着いたら、そこで命を絶つ。
筒井康隆の「敵」では、濡れタオルを喉に巻くことでさほど苦しみ無く死ねる作法があると聞いた。
あれが本当なら、絞首もいいかもしれない。
それは検討しよう。
死に方を選びたい自殺者というのも身勝手ともとれるが、「死にやすい」と思えてこそ実行の決意も固まるというものだ。
話が逸れたが、茂みで命を絶つ。
この通りにやれば、あまり狂いごとに耐性のない妻や周りの人は、気が触れて命を絶ったと思ってくれるのではないだろうか。
必ず、気が触れて死んだように思わせないといけない。
少しでも思考が残っていたように思われれば、何か悩みや動機があって命を絶ったのではないかと類推されてしまう。
妻や周りの人に後悔の念を残させてはいけない。
妻も娘も愛している。だが自分は行動では示せなかった。
「あの男を愛したのは、何かの間違いだったのだ」として決着をつけさせてやるのがせめてもの最後の愛かと思う。
このような思い切りがあるのならば別れるなり別の形で愛を示すなりとそちらに思い切るべきとも思うが
愛している妻と別れるのもつらいし、愛を伝えるどころか憎悪を深めるばかりとなるのもまた、つらいのだ。
「消息が分からない」という白黒つかない状態にさせ続けるのもまた妻はつらかろう。
圧政を敷く政権を滅ぼして多数の民衆を助けるということが存在するように、
本人が望もうと望むまいと、
と冲方は言っている( http://towubukata.blogspot.com/2011/07/blog-post.html )。 文中、むしろ漫画にしてくれた事は評価しているし、出来るだけパクリが可能な条件を出している。原作付けや黙認だって提案している。ただ、彼は立場上それをするわけにはいかないと言っているに過ぎない。
実際、SFはいろんなものをパクったりパロディする事で成り立ってきた。タイトルだけだが筒井康隆の「万延元年のラグビー」だとか「日本以外全部沈没」とかもある。スターウォーズみたいな作品を「スペースオペラ」と言うけど、あれだって西部劇のパロディ。最近話題になった「まどか☆マギカ」だって、既存の魔法少女をパロディする事でなりたっている。だから、SF作家が盗作を許容しないなんてあり得ないのだ。パロディと盗作は違うというかもしれないけど、そんなのは紙一重の差しかない。
結局のところ、盗作が許容されないのは、それが「(金銭的な意味で)関係者に迷惑をかける」からに過ぎない。今時、源氏物語の筋をなぞって新人賞に応募したって、誰も文句を言わない。却って知的評価が高まるでしょう。日本一有名な漫画である「ドラゴンボール」だって、西遊記のパクリなんだし。
そういう意味で、早川の本(SF?)や冲方の作品を読んでいると言っているスクエニの田口とか言う人が「オリジナル」なんて言葉を使っている( https://twitter.com/#!/tah3gucci3cozy3/status/91576660729667584 )のは、明らかな嘘つきか、無知に等しい。彼がここで「オリジナル」なんて言葉を使っているのは、別に創作行為に敬意を払っているからじゃない。新規IPが欲しいからだ。本当に創作を支援する気があるなら、如何にパクって作品を面白おかしくするかに心血を注ぐはずだ。彼が欲しかっているのは、マルチメディア展開できて、かつケチのつかない作品、要するに第二のハガレンが欲しいだけだ。
秀逸なプロットだったので星新一・筒井康隆っぽくショートショートにしてみた。元スレ見てからでも後から見てもおっけー。(一部設定変更)
「笑顔が素敵ね」
子どもの頃からよく言われていた。私がとびきり明るい性格だったわけではない。両親ががよく笑う人だった。両親の笑顔を見ると、私も幸せな気分だった。その幸せな気分に釣られて、私もよく笑っていたのかもしれない。
小学校から大学まで、学生時代は友人関係で悩むことはなかった。特別モテたわけでもないが、一応彼女と呼べる人もいた。就職活動も、社会情勢的には厳しい時期だったが、そこそこの企業に就職できた。
就職して、大学時代から付き合っていた智子と結婚した。就職して5年が経った頃、母親が亡くなった。乳がんだった。その半年後、父親も後を追うように旅立った。普段は亭主関白だったくせに、寂しがり屋だったのだろうか。私は悲しんだ。とても悲しんだ。そんな時も、いつもそばにいて優しく微笑みかけてくれたのは、智子だった。
しかし悪いことは重なるもので、ちょうど両親を亡くした頃、会社の業績が悪くなっていた。喪に服す暇もなく、仕事に忙殺される毎日。楽しいとか哀しいとか、そんな感情すら忘れてしまった。
もう日付も変わろうかという時間に晩ご飯を共に食べていた智子が心配そうに私に言う。
「最近忙しいみたいだけど、ちょっと休んだら?ここのところずっと、厳しい顔してるわよ。」
営業先に出向く前に、自分の財布が空っぽなのに気付いた。適当に車を走らせ、最初に見つけた銀行に入った。ATMを操作して出金しようとするも、全く動作しない。自分の口座が対応してない銀行なのかと思い銀行名を確認した。「笑顔銀行」と書いてあった。
とにかくATMが使えないでは話にならないので、行員を呼びつけた。
「お客様、当行のご利用は初めてでしょうか?当行はお金ではなく、笑顔の貯蓄を承っております。」
そういうと行員は、私に通帳とカードを渡してきた。中を開くと幾許かの残額があった。仕事のしすぎでついに狂ってしまったかと思ったが、毒を食らわば皿まで、とりあえずその口座から少しだけ下ろしてみた。
「ただいまー。」
「お帰りなさい、あなた。…あら、どうしたの?何か良いことでもあった?」
「え?別にそんなことないけど…。」
「ほんとに?ならどうしてそんなに嬉しそうな顔してるの?」
俺は智子に笑顔を向けることができた。
どうやら笑顔銀行は本物らしい。今までどう頑張っても笑えなかったのに、笑顔銀行で笑顔をおろしたら智子に笑顔を向けられた。
私は智子を愛していた。智子は私がどんなに硬い表情であっても、常に優しい笑顔だった。私は心苦しかった。そんな智子に微笑み返すことができない自分が、情けなくて悔しかった。
だから、笑顔銀行を見つけた日から毎日、少額ずつ笑顔銀行から笑顔をおろした。相変わらず仕事は楽になりそうもなかったが、帰宅が遅くなっても必ず待っている智子のために、せめて笑顔くらいはお土産にしたかった。
しかし、ついに笑顔銀行の残高が0になる日がきた。もう、笑顔を浮かべることはできなくなってしまった。
「智子…。本当にすまない…。いつまでもこんな生活で…。でもお前は、これまでずっと俺のために遅くまで起きて、飯作って、家事もしてくれて…。本当に感謝してる。ありがとう。」
私は泣いていた。本当は笑顔で伝えたかった。けど、今の自分に笑顔の残高はない。微笑むことができない。だからこれが、自分の精一杯だった。
「そんなこと気にしないで!あなたが頑張ってるの、私よーく知ってるわ。」
笑顔で返す智子も、ほんのりと涙を流していた。
長い間の努力も実ってか、会社もようやく持ち直してきた。ほとんど休みなく働いていた私は、有給を取って智子とデートをした。
「あ、プリクラだー。ねえねえ、久々に撮りましょうよー。」
「えー、嫌だよ学生じゃあるまいし…。」
私の言葉が耳に入らなかったのか、いつの間にか撮影ボックスの中にいた。もう何年ぶりかにプリクラを撮り終え、印刷された写真を見て気付いた。
「俺、笑ってる…。」
智子を待たせて、走って銀行へ向かった。残高が0になって以来、笑顔銀行には来ていなかった。久しぶりに記帳して驚いた。残高がかなりの高額になっていたのだ。
「す、すいません。なんでこんなにたくさん入ってるんですか?確かに前は0だったのに…。」
行員はにっこりと微笑み、
と問いかけてくる。智子の顔が浮かんだ。
「当行では、お客様が笑顔を向けた分だけ残高は減り、笑顔を向けられた分だけ増額いたします。きっと、奥様が貯蓄なさったのですね。」
これは過激になって駄目になった文学に対する激励文。
過激さは別に問題じゃないんだ。
過激だから文学ってわけじゃないんだ。
勿論過激さはありだよ。だけどそれだけを抜き出してどうこうできるわけじゃない。
致命的なのは過激な人たちは人を楽しませようって感覚がないんだ。
いや、とびきり退屈な人だっておなじなんだけどさ。
だけどあれは意外なものでもなんでもないんだ。
それは必要だからだ。もはや手段となってしまったんだ。
あらゆる意味での暴力のないストーリーなんて作れないんじゃない?
とても過激なものにするか、とても洗練されたものにするか。
ああ、だけど言葉の定義ってのはあんまりにつかみどころがないね。
どこまでが暴力?脅しが?セックスが?それとも単純な殴る蹴るだけ?
新しいものって何?今更反小説って言っても、ねえ。
糞みたいに退屈で、作者も楽しめないって状況に陥ってることを書いているし。
自由にやらせちゃだめなんだ、きっと。
どこかの誰かの制限が面白くさせるって面は確実にあるんだろうな。
読者の存在を念頭に置かなければ多分面白い物語は書けないんじゃないかな?
前衛は消えた。誰もが素朴なリアリズムを純文学だと思っている。
多分そのうち純文学は歌舞伎みたいなものになるんだよ。いや、もうなっているのかも。
文字を使った何かはきっと残るんだろうけどね。
誰も否定できないものをやってなにが楽しいんだろう?
誰も理解できないものを書いてだれが楽しむんだろう?
俺はスリップストリームがそうだと考えているんだけど。
だけどそれだってポール・オースターとカート・ヴォネガットがずっと前にやっている。
佐藤友哉の後を追っても仕方がない気がするよ。
それ自体が何か暗示してるのかな?
この時代の何を描いているのかな?
行き詰るのはまあ、いつものことで。
それでも少しずつ潜っていられるのは素晴らしいことで。
何か書かずにいられなくなってその文章が小説についてってのは、
ちょっとした皮肉だけど。
それは仕方ないこと。
焦ったってどうにもならないし。
そういうことはわかってるんだけどね。
なんだかSFみたいな話だなあと思って思い出したんだけど、筒井康隆の『20000トンの精液』という小説で立体テレビというツールが出てきたぞ。そのテレビはAV女優の分子構造をテレビの前に再構築して、生身の女をその場に出現させる装置で、テレビが流すAVの通りに女が動くから、それにあわせてセックスを楽しむというツールだ。しかも作中のAV女優ヒルダは処女という設定。ヒルダは超人気AV女優なんだが、なんでも男を知るとその男の癖が出るからあまり流行らず、処女で他の男の癖が移っていないおかげで人気が出たそうだ。当時中学生童貞だった俺は大喜びで読んだものだ。今考えると馬鹿らしいけどな。
ここしばらくのところ、開かれた人間と閉じられた人間、ということを考えてきた。
それを考えるに至った理由は、高校時代には良いことだと思ってきた好奇心が、
大学に入って、なんだか悪いことのように思えてきたからだ。僕自身、周りの影響を受けて遠慮するようになってきたのだ。
それが大人になることなのかもしれない。だけど全く楽しくなかったし、読んできた無数の本の内容が
全て否定されるような気がした。それに否定してくる人たちはみんな退屈だったんだ。
退屈は悪いことだ。新しいものを生み出すことをしない。
退屈の空気に慣れると、変化を嫌がるようになる。
だけど変化を否定した組織や共同体は、死んでいるんだ。変わるとしても、腐敗するだけなんだ。
僕の周りでは、どうやって変えるかについて議論をする奴はいなかった。
開かれた人間は閉じた人間には興味がなくて、自分たちでやっていけばいい、と言うんだ。
そうなのかもしれない。変わりたくないって言ってるやつを無理に変えることはない。
でも、変わりたいけど変わり方がわからないやつに対して、何ができるかを考えることには意味がある。
それともう一つ。この文章をここまで読んでいるだけでも、完全に閉じてはいないことを分かってほしい。
僕の周囲を見渡してみると、好奇心を肯定する人間と、否定する人間、そういう基準で人間を二つに分けられることに気付いた。
ここで書かれている「好奇心」は、質問を歓迎するか、ということで言い変えてみてもいい。
好奇心を肯定する人間は吸収し続けている。これを開いている人間と呼ぶことにしよう。
好奇心を否定する人間は、ルールを学習した後は、それを変えることを好まない。
これを、閉じている人間と呼ぶことにしよう。
一般的に学校の先生は殆ど閉じている。学校という組織が開くことを否定するものだからだ。
彼らは、質問はありませんか、と言う。
だけど、僕らの疑問に興味を持ってはくれないんだ。
予習が足りないとか、授業をちゃんと聞けとか、そんなことを言うんだ。
開かれた人間は大体が、閉じられちゃったら仕方ないよね、と考えている。
諦めてしまっているんだ。ただ開かれている人間を見つけたら、一気に仲良くなる。
で、僕が考えるのは、なんとか人間をこじ開けることができないかということだ。
それを小説でやろうと考えていたんだが、小説を動かすエンジンになる「思想」
が明確化されていないのに小説の結論を出すのは難しい。
だからエッセイを使ってみることにしたんだ。
http://blog.livedoor.jp/simoom634/archives/50189369.html
というエッセイで言及していたことだ。
つまり、頭の中で考えるんじゃなくて、文章にして考えてみるんだ。
グレアムの流儀に従ってみることにしよう。
エッセイは質問から始まる。
閉じた人ってどんな人?開かれた人ってどんな人?って具合に。
で、僕にはあらかじめ考えがあったわけじゃないんだ。どこにたどり着くかもわかってないんだ。
ここで2つ目の質問を出そう。これは大事なテーマだ。
「閉じた人はどうやったら、開いた人になれるの?」
これは最初に書いた定義に従えば、どうすれば好奇心を取り戻せるかってことだ。
それは閉じた組織にいるときには難しいことだ。閉じた組織は疑問を持つことを否定するんだ。
じゃあどうする?反抗するのがいいのか?従って、だけど頭では違うことを考えているのがいいのか?
これはどちらも間違っている。
反抗したところで、閉じた思考の持ち主は、とりわけあなたの上司は、閉じることに関してはあなたよりも一枚上手だ。
なにしろ彼はあなたよりも長い間、どうやったら疑問を抑えられるかを学んできたのだから。
もし従ったならば、あなたの思考は多かれ少なかれ、それに適応してしまう。
開かれた人間はコースアウトするんだ。面白そうなところに向かおうとするんだ。
そして自分のルールを見つけて、楽しく生きるために必要な原則を見つけるんだ。
開くために必要な手段は、素朴な疑問を持って、それを潰さないようにすることだ。
それと、楽しんで生きることができる例をもっと沢山知ることだ。仕事は義務で、趣味に生きるっていうのではなくてね。
開かれている人の集まる場所を考えてみよう。一人になることだって、麻痺させないためには悪くないんだけど、
それは寂しいし、慣れないだろう。
だから開かれた人のいる場所を考えてみることにしよう。
彼らは大体が一人でいるか、小さな組織にいる。
もしくは、大きな組織の中でも、独立性の高い小さな組織にいる。
大きな組織と開かれた人は相性が良くないんだ。
彼らが彼ら自身のルールに従うから。。
子供の頃はみんな開いている。みんな素朴な疑問や、旺盛な好奇心を持っている。
それが「正しい」ものかは別にしてね。
それが大人になるにつれて、規律とか、常識とか、空気とかを理解するようになっていく。
親や学校や社会の教育で、そういうものに従うのが正しいものだと思うようになっていく。
閉じた人間はこう答える。でもこれは伝統だから。歴史には理由があるんだよ。
もっと閉じた人間はこう答える。これはルールだから。ちゃんと守らないと。
それはトートロジー(Q女とは?A人間のうち男でない方みたいな説明のこと)じゃない?って疑問には、沈黙を持って答える。
どちらでもない人間は迷う。おかしいなあ、と思う。
それを開いてやろう、とぼくは思うわけだ。
音楽や小説や映画やエッセイや美しい学問は、人を開く役に立つ。
必要なのは、相互に矛盾するような性質のものを両方受容することだ。
こんな具合に。
だけど、どちらでもない人間は、少ししか空いてないわけだ。
だから一度に沢山の物を入れることはできない。
それに強烈なメッセージには拒否反応を示すかもしれない。
始めは、変わってしまうのは怖いことだから。
「教え」が入り込んでくるのは、自分が自分でなくなるような気がするからだ。
だけど、「考え」だって、「教え」の総和にすぎないわけだ。
素敵な大人達が厳選したものではあるけどね。
それに対抗するには、沢山の教えを学んで、シャッフルすることだ。
沢山の教えの中には、閉じたものも、開いたものもある。
だけど歴史に残るものには、開いた人の作るものが圧倒的に多い。
彼らが何かを変えてきたからだ。
だからそういうものを受け入れることによって、開いた人になることができる。
だけど、閉じた大人たちだって、本を読めとは言うんだ。
どの本を読めとは言わないけどね。
それは彼らがどの本が良いかを理解できないからだ。
そういう訓練を(つまり沢山の本を読むことだ)してこなかったからだ。
別に本に限らないんだ。音楽でも、映画でも、漫画でもいいんだけど。
とにかく自分の中に規制を設けないことだ。読みもしないのに、聞きもしないのに批判をしないことだ。
そしてとりあえずちょっとずつ試してみることだ。
何か気に入ったものがあれば、その作者の他の作品や、その作者が好きだったものや、薦めているものや、
amazonで薦められているものを調べたりしてみることだ。
一つ注意点。昔の小説は、昔の作品は、長い前置きがあるんだ。
忙しい現代人の為には作られていないんだ。
それを耐えるためには、読みやすい文章のものを選ぶこと。そしてそういう事実を理解することだ。
だけどそうやって開いたところで、社会の押し付けはしつこく続く。
これに対抗する方法は、戦うことじゃない。さっさと逃げることなんだ。
素晴らしい場所を見つけるんだ。技術や知識を磨きながらね。
なんなら素晴らしい場所を作ったっていい。
素晴らしい場所を作るっていうのは、尊敬できる友人と起業するってことだ。
そうすれば素晴らしい人生を送れるはずだ。少なくとも閉じた人間よりは、沢山のことを見ることができるし、
沢山の感情を感じることができるんだ。
新聞小説のもっと短くなった版になるんじゃね?
1回140字ってきついよな。
やるんなら筒井康隆さんにやってほしい。
こういう実験的なの得意そうじゃね?
実際自分がそうだから、実在してるんじゃないかな。
>見るたびに「よく思いつくなー」って思う。
思った事を書いただけです。本当に。だから書けたんだと思う。
前のエントリだけ見るとすごく感情豊かでウェットな人に思われるかもしれないけど
>いつも思うんだけどこういう感性の人って実際に存在するの?
にすごく共感できてしまって、映画とか音楽とかエントリとか見ても
「そうは思ってるかもしれないけど、自分に酔ってるんだろうな」とか
「恋してるのがすごく好きな人なんだろうな」とか思っていたし。
でもそうゆうことじゃなくて、
うーん、「本当に怒りで目の前が白くなるってあるんだな」とかそういう感じで、こういうことを感じてて。
>筒井康隆の変態的(と言われている。俺には無機質にしか感じない)描写とか森鴎外の恋愛(と言われている、俺には茶番にしか感じない)文とか読んでると共感できない部分が多すぎて逆に俺がサイコパスか何かのゴミクズなんじゃないかってくらい不安に思ってしまうんだよね。
それでどっちかっていうと私は自分がおかしいんじゃないかって不安になって、あのエントリ書いたんだけどね。
で、そう思ってるわたしがこんな状態なんだから、あなたもいつかこうなる可能性があるのかもしれないよ、とも思ったりもしてる。
いつも思うんだけどこういう感性の人って実際に存在するの?
確かに誇張はある程度入ってるかもしれない。でもそれは「過剰でなくても実際に在り得る」を前提としているからこういうネタを書けるんでしょ?
理解できないんだよね。見るたびに「よく思いつくなー」って思う。俺には人間なんてほかの動物と同じでただ少しだけ意思表示が言葉として詳細に可能なだけとしか思ってないから。
極端に言うと肉塊。蛋白質。地球上の炭素循環のごく一部。それと単純に衛生面で汚い存在。
人間には「自分と同じ様に複雑で豊かで合理性のある感情感性(ただし誰かに対してではない)が備わっているのか?利己的で目先の事しか考えない本能で生きるだけの動物なのではないのか?」こういう懸念を抱いてしまう。
筒井康隆の変態的(と言われている。俺には無機質にしか感じない)描写とか森鴎外の恋愛(と言われている、俺には茶番にしか感じない)文とか読んでると共感できない部分が多すぎて逆に俺がサイコパスか何かのゴミクズなんじゃないかってくらい不安に思ってしまうんだよね。
http://anond.hatelabo.jp/20090503233005
これは二次裏でもimg鯖でまとめられたオススメ本一覧2008年度バージョンだったらしい。
元は「中高生のため」と限定したわけじゃなく単純に他の人に薦めたいというものだとか。
1年毎にまとめられているようで、これの2007年度バージョンを見つけたので貼ってみる。
4 シラノ・ド・ベルジュラック エドモン・ロスタン
9 風が吹くとき レイモンド・ブリッグズ
10 黄金の法 大川隆法
15 パンセ パスカル
20 シブミ トレヴァニアン
22 もの食う人びと 辺見庸
26 愛に時間を ロバート・A・ハインライン
30 マルドゥック・スクランブル 冲方丁
32 薬菜飯店 筒井康隆
34 変身 カフカ
35 チリの地震―クライスト短篇集 ハインリヒ・フォン・クライスト
40 恋のかけひき他11篇 マルキ・ド・サド
44 ロリータ ウラジーミル・ナボコフ
47 最悪 奥田英朗
50 泥流地帯 三浦綾子
57 魂の駆動体 神林長平
60 エルマーとりゅう-Elmer and the Dragon ルース・スタイルス・ガネット
65 一万一千本の鞭 ギヨーム・アポリネール
66 暗闇のスキャナー フィリップ・K・ディック
67 夏草冬涛 井上靖
68 家守奇譚 梨木香歩
72 アリス―Alice in the right hemisphere 中井拓志
74 かめくん 北野勇作
76 てのひらの闇 藤原伊織
77 極大射程 スティーヴン・ハンター
78 初秋 ロバート・B・パーカー
84 インスマス年代記 スティーヴァン・ジョーンズ
85 鬼麿斬人剣 隆慶一郎
90 サムライ・レンズマン 古橋秀之
92 死者の代弁者 オースン・スコット・カード
95 ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち リチャード・アダムズ
98 されど罪人は竜と踊る 浅井ラボ
結局死ねなかった。
理由は大したことじゃないけど、要するに、生活費がない。去年失職して、結局どこにも採用されなくて、とある人と一緒に事業みたいなことをやっているけど、これが金になってない。お客さんのところに行くだけでどんどん交通費が出て行く。銀行に借金もしていて、親に送金を頼んでやっているけど、それもつらくて。ここ一年で得たお金は、12万。
なんで、三連休のうちに首でもくくろうかと思ったけど、結局実行できなくて、今に至ります。三連休ということは、まだ時間があるわけだけど。酒弱いのに、景気づけで酒を飲んだら、頭痛くなって疲れてしまった。筒井康隆の短篇で自殺に失敗した作家の話が出てくるけど、そんなのよりも滑稽。
バイトでもやればいいんだろうけど、昼間にどこに出かけるかはわからないので、どういうバイトをすればいいのか、わからない。コンビニの深夜バイトとか、早朝の新聞配達とか? 良かったら教えてくれ。
能力がないわけじゃないけど、それでどうお金を作っていいかわからない。何をやっても7割で止まってしまうというのが自分の癖で。30代で餓死した人の話が盛り上がっているけど、あれが自分の少し先にある感じ。生活保護受けるだけの問題点もないし。
どうしたらいいんでしょうね。