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はてなキーワード: 榊一郎とは

2024-03-03

大して有名な作品も出していないそこそこのシナリオライター榊一郎

彼は売れっ子小説家であって、ゲームシナリオライターとしては、そんなに有名じゃない気がするんだよね。

坂口博信

野島一成

丸戸史明

奈須きのこ

麻枝准

田中ロミオ

渡辺大祐

るーすぼーい

平松正樹

辺りの人間を、大して有名な作品も出していないそこそこのシナリオライター!って言ったら、

イオイ^^;;;

って思うけどさ。

それとも、みんな、榊一郎ゲームやりまくってる人のほうが多いんだろうか。。

2019-11-02

[] 2019/秋アニメ視聴メモ(前半戦)

アニメ結構見るものがあるのに、シャミ子ロスは埋まらない。

  • アズールレーン: 船なのに船に乗って刀を振り回したり殴り合ったりするのを見て悩んではいけない。かわいさだけを感じるんだ。感じているぞ。日本が敵のアニメってことに時代の変化を感じる。

2018-07-15

アニメ化したラノベ作家の一覧

wikipediaライトノベルアニメ化作品一覧も抜けがあるし、作家ごと、イラストレイターごと、話数単位や上映時間を分単位でまとめたやつってないのかな?

数だとたぶん田中芳樹が一位の7作品2位は榊一郎の6作品映像の長さでも田中芳樹で、それに次ぐのが神坂一くらいかな?

あかほりさとる、あたりはどう計測するべきか。水野良も、ロードスシリーズクリスタニアフォーセリア舞台だけど流石に別作品いかな?

2017-09-16

榊一郎王道から3°だけズレたような作風で上手く渡ってきた割には本人の人格は30°ぐらいズレてるよね。

編集の舵取りが無ければとっくに沈没していたでしょうね。

2017-07-12

ボアニメいっぱいありますロボ

榊一郎の元ツイートを見ると「子供向け」に限定せずロボアニメ全般で新作を作れないような発言を某アニメ関係者が言ったようだが、

今まさに異世界転生+ロボット新番組が始まったし、前クールにもオリジナルボアニメのID-0があった。アトム ザ・ビギニングフレームアームズ・ガールも搭乗はしないけどロボアニメでしょ?

2016年まで広げれば劇場版マジェプリ、クロムクロマクロスΔ、 レガリアシュヴァルツェスマーケンがあったしメインじゃないけどロボットに乗る展開があるアニメまで広ければもっとある。

あとグレンラガンパトレイバーも新作を作るらしいじゃん。

榊一郎も某アニメ関係者アンテナが低すぎるだけじゃないの~?最近の○○はと語る奴に限って最新作を見も知りもしないで語ってるだけっぽい??

https://anond.hatelabo.jp/20170712145337

2015-04-02

これまで見たアニメ一覧と一言感想

これまで見たアニメ一覧を記録しておこうと思ったので。

8年くらい前から見ている。もうアラサーか...

忘れそうなのでメモ

順番は思い出した順で、大体見た順になっているはず。


機動戦艦ナデシコ: 人型ロボットは嫌いなので、ロボットバトルシーンは飛ばして見ていた。これが時代を席巻した電子妖精かと感動

スターシップオペレーターズ: ちゃんと海戦ぽいことをやって楽しませてくれていたのに、打ち切りと聞いて残念だった

化物語: ヒロイン精神疾患主人公が(フロイト的な)精神分析治療していくアニメだった

ソ・ラ・ノ・ヲ・ト: 田舎要塞という雰囲気感が楽しかったが、ストーリーはあまり覚えていない。

STEINS;GATE: 俺も学生生活がんばんなきゃなあと思わされたアニメ。本当に次の話が見たくなっていた

ラストエグザイル: 続編が発表されて、絶対見たい!と思うくらいにはおもしろいと思っていたのだが、内容が思い出せない

ラストエグザイル-銀翼のファム-: 主人公戦場に似つかわしくないほど能天気ということだけ覚えているが、最後まで楽しくみれた

あの日みた花の名前: 懐かしい感を楽しむアニメ。昔の仲間に会いたい!と思わされた

ヨルムンガンド: 銃撃戦大好き。武器商人というマニアック存在を扱っていたので、新鮮な気持ちで楽しんでみれた。

黄昏乙女×アムネジア: 夕子さんの姫カットを楽しむアニメ幽霊より怖いのは人間、というエピソードが好き

ダンタリアンの書架: キャラデザの可愛さと沢城みゆきボイスを楽しむアニメだった。

モーレツ宇宙海賊: SF設定にテンションが上がった。電子戦艦隊戦っぽいやつとかヤッパリ好きだなと思った

東のエデン: ストーリーは「次、どうなるの?」と、毎回ワクワクして見れた。主人公声優能登麻美子だと思っていた

四畳半神話大系: 大学生活は自由で、大学時代自由正義である大学生活は何度でも繰りかえしたい

キルミーベイベー: 作業しながらアニメを見れると教えてくれた

フラクタル: 見たことすら忘れていた。ハナカナボイスが印象的だった

てーきゅう: テンポがよく、時間が短すぎると感じるほど楽しめるアニメだった

プラスチック姉さん: 片足のニーソが脱げたまま、ふて腐れているシーンが扇情的で印象的だった

みなみけ1期: 4コマアニメで化けるのだと教えてくれた。

みなみけ2期: ネット上の評判は良くないが、個人的には好きな話もあった。普段反目している次女と三女が長女のイヤリングを壊してしまって、それを取り繕うために東奔西走するエピソードお気に入り

みなみけ3期: 作画監督によって艶かしくなったらり、あっさりしたりすることを教えてくれた

みなみけ4期: 佐藤利奈の演技がこんなにも癒しになるのだと教えてくれた

のんのんびより: 田舎アニメというよりは、箱庭アニメ、単純に女の子可愛いを濃縮すると、こうなるのかと思った

ミス・モノクローム -The Animation-: 色白で感情の起伏に乏しいキャラ堀江由衣が好き

アウトブレイク・カンパニー: お姫様メイドキャラデザに引っかかった。内容の文化的侵略というネタは興味深いと思ったが、もっと掘り下げたストーリーを見たかった

ひつぎのチャイカ: メチャクチャにハマった。これは後日、項を改めて感想を書こう

スクラップド・プリンセス: 榊一郎作品つながりで見た。榊一朗作品は、登場人物原理とか思想信条みたいなものがちゃんと有って、見応えがある。最後は急展開で説明不足もある、と言う感じだったけど、天空三角に分割され、外の世界に切り替わっていくシーンが好き。やはり今見るとキャラデザが古い(というかモグい)


おわり

2015-02-26

ラノベの「よく出来た」ボーイミーツガールテンプレート私論(後編)

関係構築のテンプレート

以上のような行為類型相互に重ねるためには多くの場合主人公ヒロインの両者が同じ空間を共有する必要がある。その上で、これらの行為類型が場面ごとに重ねられていくことで両者の関係は変化していくことになる。本項はその組み合わせ方についてのものである

場面≠イベント

空間の共有は大抵の場合共同作業を伴う。そうした共同作業の例として『はがない』における部活ゲームをする例と、『俺ガイル』における部活クッキーを作る例を比較してみたい。

結論から述べると、筆者は『はがない』における部活は『俺ガイル』と比較してあまり出来がよくない印象を受けた。理由は単純で、『はがない』におけるゲームにおいて主人公ヒロイン相互に信頼や敬意といった点でなんら変化は無い。これに対して『俺ガイル』のクッキー作りにおいては、主人公ヒロイン姿勢に敬意を抱き、ヒロインもまた主人公洞察に敬意を抱き、認識を改めるという点で両者の関係の変化が描かれている。

その場面の前後で両者の関係に変化がないのであれば、それを伏線として機能させる予定がない限り、そんな場面は不要と言っていいだろう。

あってもなくても話の筋に影響しない様な単調なイベントを大量に重ねることはギャルゲーでは認められるのかもしれないが、小説でやったら飽きられる、とは榊一郎も指摘するところであるが、「ボーイミーツガール」における「話の筋」とは主人公ヒロイン関係構築に他ならない。もちろん、「ボーイミーツガール」であり、同時にバトルであったりミステリであるならば、そうした類型の「話の筋」での必要性が示される必要があるだろう。

構図の繰り返し

ボーイミーツガール」において主人公からヒロインへ、もしくはその逆に対してなされる行為をこのように類型化し物語に沿って順に並べていくと、それが主人公ヒロインで反転もしくは反復、すなわち「構図の繰り返し」が散見され、さらにそうしたものほど筆者は「よく出来ている」という認識を持つ傾向が強いという認識に至った。

くどいと思われるかもしれませんが、これでも実際の画面になると印象度は思いのほか薄いもので、構図の繰り返しによる主題の強調という手法は、これでもかというぐらいにしつこく繰り返さなければ効果は期待できないものです。

押井守『Methods―押井守パトレイバー2演出ノート

押井が指摘するこの「構図の繰り返し」について、ボーイミーツガールとして認知されていると思われるアニメエウレカセブン』で言えば、周知の通り2話と26話は主人公ヒロインの位置、台詞回しを反転させた構図であり、そして26話が(低俗表現ながら)「神回」と言われていることには、この演出が大きく影響していると言っていいだろう。

そしてラノベであるボーイミーツガール」におけるこうした「構図の繰り返し」において重要なのは、「同じ構図で同じ行為が明白に異なる意思によってなされること」ではないかと筆者は考えている。

例えば『マリみて』は次のようなプロットを持つ。

いずれも結果として同じ行為が反復、反転しているが、それぞれの理由は明白に異なったものである最初の依頼ではヒロイン自分が直面した困難から逃亡するために主人公を利用しようとしてスールになることを依頼するが、主人公は場に流されることをよしとせず拒否する。二番目の依頼では主人公ヒロインの困難の重さを理解しており、彼女を助けるために自分スールにするよう依頼するが、それが主人公自分の困難を押し付けることでもあることの認識からヒロインはこれを拒否する。そして三度目はヒロイン自分の困難を解決した物語最後であり、困難から逃げ出すためではなく、純粋好意からスールになることを主人公に依頼し、主人公はこれに応じる。

同様に『イリヤ』も見事な「構図の繰り返し」を用いている。1巻において教室におけるヒロインの助けを求める目に対し、主人公は「トイレ」と言って教室から逃げ出して一人トイレにこもるヘタレぶりを見せつける。そして3巻のクライマックスにおいてヒロインの助けを求める目に対し、主人公は1巻と全く同様に「トイレ」と言って、今度はヒロインを連れて逃げ出すための覚悟を決めて一人トイレにこもる。そこから続くトイレ内の描写の凄みについては本稿では割愛するが、この一連のシーンの評価秋山瑞人のファンの間でも極めて高いと思われる(余談ながら例えば『E.G.コンバット 2nd』においても冒頭、クライマックス直後、そして物語最後で「格納庫のGARPの前でルノアが泣いている」という同じ構図が繰り返されており、秋山瑞人はこの「構図の繰り返し」を意識的に多用している節が見受けられる)。

また、遭遇と物語最後のシーンで「構図の繰り返し」を用いている例もよく見受けられる。例えば『星海の紋章』においては主人公ヒロインの遭遇、そして物語最後は「ラフィールと呼ぶがよい!」という、全く同じ台詞が用意されている。『ALL YOU NEED IS KILL』では「日本では食後のグリーンティーはタダだというのは本当か?」というヒロイン台詞で遭遇は始まり最後主人公が青緑色をしたカビのコロニーが浮かんだコーヒーを飲み干すことで終わる(こちらはちょっと捻りすぎた感が否めないが)。『俺ガイル』は不愉快そうにヒロイン主人公に毒を吐く場面で遭遇が始まりラストは楽しそうにヒロイン主人公に毒を吐く場面で終わるという点で構図が繰り返されているが、それ以上に物語最後の一文がタイトルである点の指摘で十分だろう。

反転による対等性の強調

乃木坂春香の秘密』はヒロイン秘密主人公漏洩したのち、ヒロイン物理的、精神的に最後まで守られる存在であり、そして主人公最後まで守る存在である。両者は精神的に対等な立場とは言いがたい。こうした一方的依存関係存在する関係はあまり筆者の好むところではなく、おそらくそれは筆者に限ったものでもないだろう。

『エスケヱプ・スピヰド』や『禁書』も同様に片方が他方を保護し続けるが、これらはヒロイン自己犠牲により保護者は非保護者に救助される場面が組み込まれている点で違いがあり、これによってその立場は対等なものに寄っていると言っていいだろう。

このように直接的な行為類型で均衡を取る方法もあるが、「構図の繰り返し」における主人公ヒロインの「反転」によっても主人公ヒロインの対等性は暗黙に読者に伝達する効果があるように思われる。

例えば『ゼロの使い魔』においては冒頭でヒロインから主人公に対し、主人公が使い魔であることが一方的に宣告され、主人公はこれに成り行き上しぶしぶ従うことになる。しか物語最後においては主人公ヒロインに対し、自分ヒロインの使い魔だ、と誇りをもってこれを肯定する。その台詞内容が示す立場の差と異なり、両者が(少なくとも精神的に)対等な関係であることを強く意識させる効果を生んでいる。

いい加減例に使うことにも飽きてきたが『とらドラ!』においても対等さは徹底して反転構造の反復によって強調されている。

ヒロイン好きな人主人公にバレる、という出来事に対して主人公ヒロイン自分好きな人を明かす。ヒロイン主人公故意ボールをぶつけられ、ヒロイン主人公は手違いでボールをぶつける。階段で落ちかけたヒロイン主人公は反射的に庇い、ヒロインは反射的に主人公の無事を確認する。ヒロインの作ったマズいクッキー主人公が食べて美味いと微笑み、ヒロイン主人公の作った美味しいクッキーを食べて美味いと微笑む。このように『とらドラ!』は徹底して反転構造を反復している。

さらに「呼称の変化」という形でもこの「反転」と「反復」が巧妙に使われている。ヒロイン自身の恋路への助力を一方的主人公要求し、主人公の承諾をもって名前呼び捨てにするようになる。その後ヒロインは二人が対等な関係であることを告げて協力体制の解消が宣言され、ヒロイン主人公呼び捨てをやめる。そして物語最後において主人公ヒロイン一方的ヒロインの恋路への助力を宣言し、ヒロイン名前呼び捨てし、ヒロインが返事代わりに主人公名前呼び捨てにすることで物語は幕を閉じる。

対等さの無い「ボーイミーツガール」は少なから存在し、それを気にしない読者も一定程度いることは事実であろうが、より幅広い読者の支持を期待するのであればこうした主人公ヒロインの対等さへの意識がされて損は無いだろう。

おわりに

ストーリーや設定が凡庸であれとにかく「キャラが立っている」ことが重要なのだ、と述べた上で林は次のように主張する。

主人公個性さえ確立できれば、それが魅力的かどうか、感情移入できるかどうかなんて全部後からついてくるから大丈夫。魅力的な主人公活躍していれば話は自然と盛り上がる

林トモアキ『現役プロ美少女ライトノベル作家が教える! ライトノベルを読むのは楽しいけど、書いてみるともっと楽しいかもよ! ? 』

なるほど。ところで人気アニメ漫画二次創作小説に出てくる「キャラ」は(オリジナルキャラを除けば)おおむね人気キャラであり、おそらくは「キャラが立っている」ものだと言っていいだろう。もし林が言うように「キャラが立っている」だけでいいのであればこうした二次創作はどれも魅力的で感情移入できるものとなる。

二次創作小説の、特に好きなキャラのそれをひたすら読みふける人がいることは事実であり、ゆえに林の主張は間違いでは無いだろう。しかしそれが幅広い読者に通用するものかといえば筆者には肯定しかねるものである

キャラ萌え特化の商業ラノベはもちろんある。しかしそれだけしかウリが無いのであれば、それはキャラ萌え理解できない筆者のような(もしくはそのようなキャラクターは好みではない)読者に対しては全く面白みのないものと言っていいだろう。

キャラ萌え依存せず面白いと思わせることが出来ることは、そうしたキャラ萌えにの依存したラノベ比較して強みになることは間違いない。そしてそうした強みとして、本稿で指摘したような演出法についての言及はもう少しされてもいいのではないか、と考えている。

才能やセンスはそれだけで価値のあるものだが、その多くは知識と思考によって技術化することが出来るものだと筆者は信じている。空を飛ぶ鳥に憧れて手をバタバタさせたところで一生空は飛べないが、航空力学を構築することで人類は空を飛ぶことを可能にしたのである

本稿は筆者の嗜好に強く依存しており無批判に一般化できるものではないが、これまで感覚によってなされてきた演出技術言語化することの可能性について、諸兄諸姉の検討の際の参考になれば幸いである。

2014-12-25

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰1

2014/1/1 全文が正しく表示されていないことに気づいたため修正した。遅ればせながら指摘に感謝したい。

はじめに

ラノベ作家になりたいワナビは二種類存在する。

才能のあるワナビと才能の無いワナビである

才能のあるワナビは己の思うがまま書き連ねればそれで問題ない。一次落ちなど経験することも無く、一発で新人賞を取ったり、取れなくても編集者が連絡してきたりして遅かれ早かれデビューに至り、そしてワナビに向けたラノベ創作論を書いたりする。私はこうやってプロとして本を書いてます、どうぞ参考にしてください。

これが意味するところは、才能のあるワナビ他人の書いた創作技術本を読んで必死トレースしたりなどしなかった、という非情現実であるノウハウ本を欲するのはいだって才能のないワナビで、そして才能の無いワナビ今日選考落ちの通知を見て顔を覆うのである。○○先生の本に書いてある通りにやったのにどうしてダメなんだろうか。何がダメなんだろうか。

ラノベ創作技術本は本当に役に立つのだろうか。

スティーブン・キングプロットなど不要だと言う一方でディーンクーンツプロットの無い作品など糞だと断じる。大塚がまずキャラから作れと言う一方で冲方世界から作らないようでは話にならないと言う。

ラノベに限らず小説創作技術本はそれぞれの主張がまるでバラバラであり、まとまりがない。もっともこの手の本は意識の高いサラリーマンがこよなく愛する成功体験本と同じカテゴリである。ゆえに真面目に考える必要は無いとするのも一理あるだろう。

しかし、本当に彼らの主張はバラバなのだろうか。

実のところ彼らは単に表現が違うだけで、最終的に同じことを述べてるのではないだろうか。

手順が違うだけで、結局同じことをしているのではないだろうか。

もしそうだとすれば重要なのは手順ではなく最終的にどういう状態であるかにあり、その状態がいずれの作家も共通しているのであれば、それこそが欠かすべきではない要素ではないのか。

大沢は「技術は教えられるが、才能は教えられない」という。だがヒックスは「モノを書くことでの才能の問題は、相当に過大評価されて」いるとして、「それはやっていくことで獲得」できるものだと言う。

Hard work beats talent when talent doesn't work hard.

Tim Notke

本稿は個別の手順というより、最終的にどういった状態を目指しているのか、という観点ラノベ創作技術本の各説を整理し、俯瞰する。筆者はワナビではなく、単なる興味本位でこの整理を行ったに過ぎない。しかし才能が無いことを自覚し、それでもなお努力によってこれを覆そうというワナビにとって、本稿がより効率的努力を実現する上での一助となれば幸いである。

ラノベ定義

本稿ではラノベを「ラノベの主要レーベル新人賞に向けてワナビ執筆する、新人賞を取りうる内容の小説」と定義し、本質的ラノベ定義へは踏み込まない。このことからカテゴリエラーをめぐる問題このラノベの本質的定義限界を探ることと同義であり、本稿では割愛する。

参考文献

本稿執筆にあたり参考とした文献を下記に記載する。

作家名で適当に並べたに過ぎず、記載の順に意味は無い。

まだ参照すべき文献は多くあるが、ひとまず本稿執筆にあたっては上記で一区切りとした。

ラノベの読者

ラノベ作家商業主義であらねばならない、と五代/榊は明言し、飯田キャッシュフローを生む作品こそが素晴らしい作品なのだという。実際、ラノベ新人賞商業的に売れるラノベの発掘を目的としているのであって、ワナビ承認欲求を満たすためにあるわけではない。

新城ラノベの読者の多くは男子中高生であり、すなわち「毎月のお小遣いが限られている学生であるとする。飯田さらラノベの読者はアニメ漫画ニコニコ動画を好むオタクであるとする。そしてラノベは彼らの限られた小遣いの使い道として選択される商品でなければならない。榎本西谷水島も、いずれも同様に読者が誰かを意識しろと主張する。

ところでワナビが書いた新人賞用のラノベの読者は、中高生ではない。

新人賞の下読みの多くは大学生バイトであり(あるいは主婦新人編集者)、選考するのはプロ作家であり、プロ編集者である。いずれにせよ選考過程中高生存在しない。

読者が誰かを考えるべき、という指摘はもっともだが、プロ作家ワナビでは立場が違う。ワナビラノベレーベルで勤めるサラリーマン編集者想像する『中高生』にウケるラノベを書かなければならない。榎本現実中高生とふれあい彼らの考え方を理解しろと言うが、本当にそんなことをすれば事案待ったなしのワナビは少なからずいるだろうし、現実中高生には圧倒的にウケる20代30代の編集者には全く理解できないものがあったとすれば、それは間違いなく一次落ちである

行頭は一段空けましょう、といった小説執筆上のお作法ができていなかったからといって間違いなく多くの中高生は気にしない。しかプロは気にする。そうした基礎的作法の欠如は中高生云々の前にまず彼らに不快感を生じさせる、という点を理解しておく必要があるだろう(応募に際してはあらすじを付すようにという指示に対して小説煽り文や序文を付けるといった無理解なども根は同じだろう)。

ラノベ創作の段階に関する整理と比較

最終的なラノベに至るまでの執筆上の段階や要素は論者の数だけ存在する。例えばキングによるアイディア原稿の2段階、クーンツを始めとするアイディアプロット原稿の3段階、冲方による能書き、種書き、骨書き、筋書き、肉書き、皮書きの6段階などがある。

本稿では「アイディア」「プロット」「原稿」の3段階を用いて各説を俯瞰する。この各段階は「アイディア」が最初であるという点を除けば、随時行き来することがいずれの説においても許容される。一度「プロット」に移行したら「アイディア」へ戻ってはならないなどと主張されることはないし、「原稿」の完成に至ってから再度「アイディア」の段階に戻る作家存在する。

一方で、これらの「段階」はそれぞれ独立しているわけではないことに注意する必要がある。いずれもその前段階の上に構築されている。つまり、あるワナビが「プロット」に問題があると認識したとしても、その前段階に問題がある可能性は否定できない。これは感想や選評においても言えることであり、問題点の指摘がまったく的外れでなかったとしても、その問題引き起こしているそもそもの原因は何なのか、という点を突き詰めなければ、根本的な問題はいつまでたっても解消されないままだと言えよう。

以下、それぞれの段階についての各論に入る。

アイディア

アイディア」とは筒井がいうところの「妄想」であり、単語キーワードフレーズ、断片的な会話や場面など様々なものであり、その創作で用いるかもしれないし、用いないかもしれないネタである

冲方は「アイディア」を3段階に分けており、まず主題を考え(これを能書きと称する)、次にそこから様々な雑多なアイディア連想し(種書き)、今回はこのあたりのアイディアを使おう、と決めて整理する(骨書き)という。

しかし実際には冲方自身、これらを行きつ戻りつして執筆を進めていくとしており、「骨書き」の段階からは後戻りしないと固定しているわけでもないことから、本稿では参考として紹介するに留める。

この「アイディア」の種類についてもいくつかの主張があり、例えば冲方主題世界、人物、物語文体の5種であるとするし、榎本キャラクター世界設定、ストーリーの3種としている。分類それ自体意味を持つものではないが、それぞれが独自用語を用いて自説を主張している状態では整理のしようもないため、本稿では「主題」「世界」「登場人物」の3種に分けて整理する。

主題

本稿では主題テーマは同一の概念とみなすが、主題とは、そのラノベ創作において根幹となるアイディアのことである冲方大塚はこの主題を根として木構造状に各アイディアが繋がっていることを主張する。

主題を確定するタイミングについて冲方は真っ先に考えるとするし、大塚作成した主人公像の要素を深化させそこから主題抽出するとしている。榎本プロット作成の段階で必須としていることからそれ以前に考えておかねばならない。西谷執筆段階で突如として「物語の核」を意識する、と述べるが、この「物語の核」が主題とみなせるのであれば、プロット後に主題を決めてもいいということになるだろう。

このように主題をいつ考えるかは説によって大きな差があるが、結果としてラノベ創作において「主題」が必要不可欠だと多くの作家が述べていることに変わりはない。

繰り返しになるが、全てのアイディアの共通の祖先として「主題」は位置付けられる。従って本稿の分類で言うならば「世界」や「登場人物」は必ずこの主題関係する要素を持たねばならない。言い方を変えれば、「主題」はアイディアアイディアの共通要素として機能するため、ワナビ本人は主題として位置づけたが、それが「世界」や「登場人物」に関係していないのであればそれは「主題」ではない。

この「主題」があることの意義について、「読者は「設定資料集」を読みたいのではなく、「物語」を求めている」という榎本の指摘、また「「細部」には主題が宿る「細部」とそうでない「細部」があります。そしてあなた方の小説がしばしば欠いているのは「主題の宿る細部」なのです」という大塚の指摘を踏まえるなら、読者が「物語」と捉えるか「設定資料集」と捉えるかは「主題」の有無次第だ、ということになるだろう。

設定資料集が好きな人存在することは事実であるが、彼らは設定資料集ならなんでも好きなわけではなく、特定物語を好んだことで、その物語のより詳細な背景情報を知ることを好んでいるに過ぎない。興味のない物語設定資料集など誰も目を通してくれはしない。

このように「主題」は重要な要素であると考えるが、その表現方法に関して榎本主題台詞地の文で語ると胡散臭く、説得力が無くなるとしているし、クーンツ主題で読者を説教してはならないと注意を促している。台詞地の文での表現を避けるとなれば、多くの場合登場人物の行動、またそれによって引き起こされた出来事によって表現されることになると考えられる。

世界登場人物

本稿では会話文の主体になりうるものを形作る上で用いられる情報名前性格容姿、口調など)の総体を「登場人物」と定義する。「キャラ」「キャラクター」とこれを区別するものもあるが、特筆の無い限り本稿ではまとめて「登場人物」とみなす。

一方で、登場人物以外の全ての設定を本稿では「世界」と定義する。具体的には魔法の有無などの自然法則身分制のような社会構造、もしくは携帯電話の無い世界といった現代社会との差分もまた「世界である

いずれを先に考えるかについては諸説ある。例えば冲方水島世界が先だとするし、大塚西谷登場人物からだとする。榎本のように特に順序には言及しないものもある。

しかしながら冲方大塚の「世界」と「登場人物」が揃った状態についての言及は非常に似通っている。

冲方は「人物たちの性格や言動や行動の全般は、結局のところ、大半が、世界時代に左右されたもの」と言い、このような世界からこそ、そこに登場するこの人物はこのような設定になるのだ、という必然性要求する。

大塚もまた登場人物個性については「キャラクター所属する「世界」の物の見方価値観に由来するもの」があるとしており、その人物の設定は彼の存在する世界の設定から必然的に生じたこのような価値観に由来するのだ、という必然性要求する。どちらの側から見るかの違いだけで、冲方大塚も目指している状態は同じだと言っていいだろう。

世界登場人物リアリティ

ワナビの「世界」について「リアリティ自分身の回り3mくらいしかない」「おまえの世界には学校コンビニと自宅しか存在していないのか」と五代/榊は批判し、リアリティには細部の設定が必要不可欠だ、という立場をとっている。一方で「登場人物」の細部情報への批判としては「異能力の内容だけやたら細かい」にもかかわらず「話に全然関係ない」としており、両者をまとめると「主題」の宿る細部こそが必要不可欠であり、それ以外の細部の設定は不要だとする大塚説とほぼ同一と言っていいだろう。

冲方は「そのテーマが内在する世界を、しっかり構築することができるようにならなきゃ話にならない」と世界における主題を重く位置づけた上で「実際にその世界について書かなくても、少なくとも自分は知っていたいし知らないと駄目」と細部の設定の充実に言及する。

その一方で登場人物については、冲方はそれが主題関係しないのであれば「性別や年齢をあとから決める」とする。水島登場人物プロット上の必要性が出てから作れと述べ、最初長大キャラ表を作るというワナビありがちな行為を繰り返し否定する。ヒックスは事前定義表に基づいて穴埋めで作られた登場人物を「組み立てられた登場人物」と表し、そして「最良の脚本には、組み立てられた登場人物存在していない」と断じる。

だがこれらは登場人物に細部の設定が必要ない、という意味にはなりえない。例えばクーンツプロットをまず作ることを前提とした上で、リアリティを持った人物描写のためには、登場人物に関しても細部設定が必要だとして、身長体重、体型、年齢といった肉体的特徴、声や話し方、動作や仕草など多岐に渡る項目の設定を列挙している。

登場人物」であれ「世界」であれ、リアリティは細かな設定によって得られるものだ、という点はいずれの主張とも矛盾しない。その細部の設定が「主題」と関係する場合最初に考えるべきとする見解はあるが、関係しない場合、それがとりわけ「登場人物」の細部設定の場合、これを最初に考えることは多くの見解で明示的に否定されている、ということになる。

これとは相反する主張として、西谷はまず人物設定から始めるべきだとする。「積極性」「肉体的な強さ(美しさ)」「いざというときリーダーシップ」「やさしさ」「辛抱強さ」「頭の良さ」で点数をつけてチャート作成するのが良いとして、さらには性格趣味、髪の色からメイクの仕方、ブラジャーの形状までを設定例として挙げており、そこには「主題」との関係性への言及はない。

ところが西谷は実際の作例において仮置きの主人公を用意するに留めており、チャートについては一切触れず、細かな設定も一切用意しない。まず最初に「世界」と「主題」に取り掛かり、「企画を練り上げる段階で、主人公を変えてしまう」「主人公を引き立てる脇役は、書いている途中で思いつく」とすら述べる。

最終的なこの作例が実際の西谷の手順なのだとすればその手法はむしろ冲方寄りである Permalink | 記事への反応(5) | 20:41

2014-04-22

http://anond.hatelabo.jp/20140420200750

1サンプルとして。

一応、はじめに俺の読書傾向を書いとく。質問の答だけ知りたいなら読み飛ばして欲しい。

俺はラノベ読み始めた時点でスレイヤーズの本編は完結していたしていたくらいの世代

はじめは主に富士見ファンタジア神坂一とか榊一郎とか賀東招二とか鏡貴也とか読んでたけど、

ドラゴンマガジンの判型が変わった頃から電撃に重心が移動した感じ。

この頃からラノベ以外の小説もよく読むようになった。並行してメフィスト系とファウスト系も読んでた。

好きな作家西尾維新とか

最近作家はあんまり読んでなくて、アクセル・ワールドあたりがたぶん俺が知ってる一番デビュー最近作家

ラノベしか読まない?他の小説は読む?それは何故?どこに魅力を感じている?

読むけど、基本的エンタメ小説しか読まない。ジャンル的にはミステリィSFが多い。

ただ、ラノベ以外と言ってもハヤカワSF角川文庫MW文庫の、比較ラノベに近いところが多い。

野尻抱介森博嗣田中芳樹ラノベと主張されると、ほぼラノベしか読んでないかも。

明らかに違うのは、ディックとかの海外SFくらいか。

ラノベファンはラノベを一般娯楽小説定義付けのために一般と称しているだけ)と同じだと思っている?

同じではないけれど、境界曖昧だと思う。

なんというか、「ラノベっぽさ」みたいなあいまい尺度があって、

「誰がどう見てもラノベから「誰がどう見てもラノベじゃない」を両端として、間にグラデーションがある感じ。

定義論争は不毛だと思う。

ラノベで、パロディ要素が殆どを占めるようなものはどう思っている?

そういうのが別にあっても良いと思う。

全部がそういうのになるとジャンルは廃れるんじゃないかなーと余計な心配をしてしまう。

あと、パロディだと気づかずに読んでることもある。読んでおもしろければなんでも良い。

ラノベは何故ジャンル分けされない?ライトノベルという呼称は既に不要ではないか?

質問意味がわかんない。

ミステリィ」「SF」「時代小説」……みたいなジャンルの1つとして「ラノベ」があるわけではないと思う。

ラノベ/ラノベじゃないという分類と、ミステリィ/SF/時代小説/……みたいな分類が別にある。

境界曖昧はいえ、「ラノベ/ライトノベル」と呼ばれるある傾向を持った作品群があるのは確かなので、

そう言う作品群を指す言葉があったほうが便利だと思う。

2013-05-18

ラノベ作家を分類すると

3種類に分けることができる。

  1. 天才
  2. 職人
  3. 量産型

1.の天才型は小説家としての才能に溢れ、数々のシリーズを同時並行でやったりできるタイプ。まさに天才

「そこそこ面白い」を地でいくのでいろんなレーベルで重宝される。

でも信者は少ない。そつなくこなすせいで永遠の2番手って感じ。

(例)榊一郎日日日ゆうきりん

2.の職人

独特の作風やらキャラ作りやらで生き残っているタイプ。まさに職人

シリーズを乱発できるほど天才ではないので、たいてい一つのレーベルに閉じこもっている。

ただ信者信者がつきやすい。だからメディアミックスもされやすい。

(例)鎌池和馬竹宮ゆゆこ川上稔

3.の量産型

1.にも2.にも含まれないのはここで。

よく叩かれるラノベ量産型ラノベ作家が量産しているんじゃないのかな。

2010-07-22

http://anond.hatelabo.jp/20100722153036

多くは無いですが「いない」は明らかな言い過ぎでしょうw

例えば、谷川流氏や榊一郎氏を「ライトノベルからの印税を主な収入源として生計を立てている作家」として何の問題もないかと。

 
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