はてなキーワード: 佐々木敦とは
読んだけど、内心どう思っているかは別にせよ増田の妻への対応はごく当たり前。私の職場でも偶然似たよな状況に置かれてる上司がいるけどやっぱり優秀な人だよ。これくらいの規範は身につけておかないとまともな女性と結婚なんて無理だと思う
そもそも男性アイドルを推すというのは女性が生きてるだけで性的搾取されてることへのカウンターであり女性の尊厳に関わる営みだというのは言うまでもないけど
性被害のことだって真面目に考えればあの声高に主張している冴えない「被害者」たちは妊娠させられるという恐怖も別にない時点で女性の性被害とは比べ物にならないことくらい田舎の下流の人でもなければわかるよね
だいたい女性の枕営業の強制はもっと当たり前のように行われてきたんだよ?それすらも理解できない佐々木敦というオッサンはマジで最低 西田藍さんも鍵垢で恥を知る能力もなさそうだねって怒ってた
こんな男女の権力格差のある平面上の非対称な「性被害」を、鬼の首を取ったかのように「男性の性被害者だぞ!ジャニオタざまあ!キャンセルしろ!」と噴き上がってる人たちの本音がどこにあるか・・
あんまり「弱者男性」という言葉は使いたくないけど、彼らはジャニーズタレントのような男尊女卑社会を反転させる存在を貶めて間接的に女性に嫌がらせをしたいだけだなんてことは定型発達の人間にはバレバレだよと言っておきたい
https://www.webchikuma.jp/articles/-/120
〈わかる、というのは秩序を生む心の働きです。秩序が生まれると、心はわかった、という信号を出してくれます。つまり、わかったという感情です。その信号が出ると、心に快感、落ち着きが生まれます〉(『「わかる」とはどういうことか 認識の脳科学』)”
”〈「わかった気になる」と「わかる」とのあいだには本質的な線引きが出来ない〉(佐々木敦『ニッポンの思想』)”
”「説明が正しいかどうか」よりも、また「その問いが妥当かどうか」よりも、私たちの脳はともすると、「説明があるかどうか」のほうを重視してしまう。
説明とは、そのままでは未知にとどまってしまうものを分解して、自分がすでに知っているものの集合体へと帰着させてしまうということです。”
”「自分が不愉快な状況にあるのは、特定の人たちに有利なふうに世の中が設計されているからだ」
と問うからです。”
日本代表がPK戦に勝っていたとしたら、「なぜ、日本代表はPK戦の技量がこのようなレベルだったのか」と自分に問いかける人はこうもいなかったでしょう。
武蔵大学北村紗衣先生のディストピア文学の読み方が話題になっている。「ディストピア文学を自分の住んでいる日本に結び付けないのは問題」が話題になるのも当然で、数多くの専門家が北村紗衣先生の教えに反しているためである。
フィクションに限っては、人はユートピアよりもディストピアが好きだ。その心理は、ホラー小説や絶叫マシンを楽しむ心理に似ているのかもしれない。エンタテイメントとして「死」を疑似体験することで、私たちは命の価値を噛みしめ、平凡な日常の輝きを見つめ直すことができる。それと同じメカニズムで、「お話」としてのディストピアに浸ることによって、自分が身を置いている現実の良いところを再確認し、フィクションのディストピアが未来の現実にならないようにするには何を心がけるべきなのかと考える機会を得る。(書評 ディストピア・フィクション論…円堂都司昭著)
自分が今いる良いところの再確認(「日本はディストピア作品みたいになってない(これからもならないようにしよう)」)は、ディストピア作品が自分のいる場所を描いているとして読むことの真逆である。
「こうなったら嫌だな」とは思いつつも、現実感はありませんでした。ただヒトラーやスターリン下の世界では、こういうことが起こり得るのかなとは思いましたが。(社会人になって1984年を読んだ感想)
フランスの作家による新たなディストピア小説の出現だ。(略)終盤で一度ならぬ“どんでん返し”がある。本作はある種、現在のアメリカ、あるいはアメリカに象徴される利潤追求第一の物質的競争社会に対する、シビアな警告と挑戦状ともいえるだろう。(『透明性』/マルク・デュガン 書評)
(小川洋子著)『密やかな結晶』(英題The Memory Police、スティーブン・スナイダーさん訳)も「神話のような響きがあり、寓話(ぐうわ)でも、ディストピアでもある」と評された。帽子、リボン、小鳥、様々なものが消滅していく島で、秘密警察が消滅が滞りなく進むよう監視の目を光らせる物語だ。
日本では1994年に刊行された作品だが、選考委員は「何年も前に書かれていながら、あまりにも現代的で目を見張らされた」と驚きを口にした。米トランプ政権下などでフェイクニュースが横行して真実が失われ、コロナ禍で人々が集まる様々な活動が控えられる現実が作品世界に重なった。(興野優平)=朝日新聞2020年9月2日掲載(ブッカー国際賞、「ディストピア」がキーワード 小川洋子「密やかな結晶」も最終候補)
イギリスの文学賞選考委員であるが、ディストピア作品をアメリカと関連付けている。
身も蓋(ふた)もない本音で支持を集めるトランプを見て個人的に想起したのは<3>庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』(新潮文庫・497円)だった。(略)「感性」がつぶしにかかる戦後民主主義ひいては人間の文明という「知的フィクション」を守るために薫くんは戦っているのである。だが勝ち目は見えず、敗北すなわちディストピアの到来が覚悟されて終わる。「知的フィクション」に、たとえば「ポリティカル・コレクトネス」(差別や偏見を含まない言葉遣い)などを代入すれば、トランプ危機との近しさが見えるだろう。 (ディストピアの予感)
日本を舞台としたディストピア作品をアメリカと結び付けている。
果たして今後、世界はどうなっていくのか。世界情勢とともにディストピア小説の動向を追ってみると、新たな発見があるのではないでしょうか。(【ディストピアとは?】「監視社会」や「行動の制限」などの“あるある”から徹底解説。)
ディストピア作品を世界情勢に結び付ければ発見があると書いている。
トランプ氏は、メキシコ国境の壁、難民やイスラム圏からの入国制限など過激な政策を進めているが、「独裁者を彷彿(ほうふつ)とさせる姿がこうした小説を連想させるのかもしれません」と山口さんは推測する。(好調ディストピア小説 トランプ政権誕生で脚光!? 小松左京さん「アメリカの壁」も電子書籍で)
文芸春秋では「小松さんはSF作家であると同時に優れた文明史家でもある。小松さんの鋭い洞察に触れることで、米国でいま何が起きているのか考える契機になるのでは」と話す。(同上)
批評家の佐々木敦さんは「トランプ氏の存在自体が戯画的。以前は考えられなかったようなことが起こっている」と指摘。「現実がフィクションを超えてしまった。今を知るための手がかりとしてディストピア小説が読まれているのでないか」とみている。(同上)
(北村紗衣先生の教えでは、間違った解釈や浅薄な解釈となる)日本以外に結び付けるというディストピア作品の解釈は、学生だけではなく、書評の専門家にも多く蔓延していることが実例で明らかになった。「アメリカはディストピアだ」と言っておけばよいといった間違いで浅薄な解釈が、日本のみならず、イギリスの文学賞選考委員にまで広がっていることは、驚愕すべき事実である。数々の専門家も間違えている、「ディストピア作品を新しく、深く解釈するために、自国に結び付けることを常にしなければならない」というディストピア作品解釈の素晴らしい方法を公にされた武蔵大学と北村紗衣先生に感謝し、世界中の人にぜひとも広めてほしい。
こいつらガチで状況全く分かってないだろ…
宇野維正 @uno_kore
ゆーすけ @yoox5135
BTSのTシャツは国際的に活躍するアーティストとして配慮が足りなかったと思うし、それをあげつらって嫌韓に結びつけた東スポも、ネトウヨの圧力に屈したテレ朝も批判されて当然だけど、日本人にも韓国人にも改めて原爆とは何かについて考える機会になればと思う。
佐々木敦 @sasakiatsushi
だが連中は毅然とした態度を取ったとでも思ってるんだろう。
李信恵 이(리)신혜 @rinda0818
ヘイトスピーチが激化してる時、KARAの大阪城ホールのコンサート、韓国の女優をCMに使ったロート製薬への抗議街宣とかもあった。
その時みたいだ。けど、新大久保でのヘイトスピーチに一番最初におかしいとTwitterで声を上げたのはKポペンだった。差別発言を繰り返すタレントは普通にテレビに出てる。
レジー @regista13
Mステがこの直前で出演者差し替えって初めてかな。音楽の世界が音楽に興味のない人に荒らされる時代…
レジー @regista13
韓国のポップスがグローバルにおいて重要なポジションを占めてる実態があって、日本はまんま真似する必要はないにせよ見習う部分がいっぱいあるわけだけど、
「この作品で、作者は、それがどんな過酷な体験であったかを、まるでドキュメンタリーのように詳細に描いてゆく。ここまで真正面からストレートに『あの日』を描いたフィクションはなかったように思う」
「これほどの天災を語る時、かつては必らず誰もが『神』について考え、祈ったり呪ったりしたはずが、なぜ登場しないのか。この作品の優れて批評的な部分は、それを『マス・メディア』に置き換えて語っているからだ。『神』は横倒しになっている」
「読み始めるやすぐに、これは並はずれた作品と出会ってしまったのではないかという気持ちにとらわれたのだが、その感覚は読み進めるうちに強まる一方だった。激しく胸を揺すぶられ、ときに唸り声などもらしながら夢中で読み終えた」
「作品の全体が緊迫感にあふれ、たまらないほどの悲しみに覆われている。しかも文章には勢いがあり、いきいきとした躍動があって、平板に陥ることがない」
「ひょっとして実際の災害とは無縁の作者によるものだとしたら、それはまたこの小説の驚嘆すべき点」
「破格の筆力によって、日本のみならず世界に向かって発信されるべき作品が生まれ出た」
「驚くべき才能の登場に興奮が収まらない」
「これはちょっと相当に凄い小説である。力作と書いたが、まさに言葉に宿る「力」が尋常ではない」
「作者は一歩も後ずさりをしようとはせず、逃げていない。こういうことはめったに出来ることではない」
「しかも、作者は実は被災者ではないのだ。しかし、それでも彼女はこの小説を書いたのだし、書けたのだ。」
(これまでの震災作品は)「震災が起きたという事実を『反映』しているだけで、本質的なところで表現しているとは言えなかった」
「ついに2011年に起きた東日本大震災を『表現』する作品が登場したと言っていい」
「過酷な現実に対応せざるをえない未成熟な自己の、その痛ましくも力強い格闘の記録であり、成長の物語である。私は昼飯のパンをかじりながら読み、落涙したよ」
「ポスト震災の文学を論じていく際には外せない作品として、今後広く長く参照されることになるでしょう。文学研究者として断言します」
10/22の東浩紀「棄権してないよ。それはフェイクニュースだよ。」
10/22のおれ「は?」
はい、合計0点のデマツイートお疲れ様でした。お帰りください。
せめて画像1枚目と3枚目だけを恣意的に抜き出して並べたら草生やして笑えたんだが、
それはあくまで「別に矛盾してないけど恣意的に編集すると矛盾してるように見えて面白いね」っていうブラックな笑いであってな。
上記のツイートは完全に東を貶めるためだけに悪意ある編集をしてるから全然笑えないよ。
140字に収めるために無理な要約をしたとかそういう言い訳が一切効かないレベルでしょ。
補足しとくと、このツイート主neupon08は根っからのアンチ東で、いつも東の発言を叩きやすい形に都合よく解釈して叩いてるような人間なのよ。
これはこのエントリの1行目に書こうか迷って、先入観を与えるとよくないと思ったからこの段落で書くことにしたんだけど。
だいたいこういったアンチ東クラスタの奴らは、東の発言から一見反対のことを言ってるようなものを二つ三つ拾ってTogetterとかモーメントに並べて、
「矛盾してる~!一貫性がない~!」とか指摘したつもりになって身内で寄り集まって東をバカにしてる害悪クラスタなんで、今回のも「出たよ奴らの常套手段が」って感じなんだよね。
(あ、俺は東信者じゃなくてアンチデマ活動の一貫としてアンチアンチ東活動をしてる者なんでそこんとこよろしく)
でさー、いくら過去発言がアレな東だからといって、ゲハブログと同等の恣意的な編集でできてる劣悪なまとめに乗っかるのはダメでしょ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/neupon08/status/922061303522267136
いや、俺もこのツイート主のアイコン見て、「はいはい、いつもの偏向まとめアンチさんね。話半分だな」と思わなければ騙されてたかもしれないけどさ。
まともなコメントがid:interferobserver id:type-100 id:redra22 くらいしかいないじゃん。
id:yas-mal id:zeroset も東の主張自体は理解して、その主張苦しくない?おかしくない?って言ってるからまっとうな批判だよ。
デマツイートを鵜呑みにした批判してるid:sbedit1234 id:toronei とかは反省してどうぞ。
東浩紀は、みんな棄権しろ!と煽ったんではなく、アホらしくて棄権したいくらいやわ!と思ってる層を可視化しようとしただけだ。それが絶対的に正しいと主張したわけでもない。自分と同じように思ってる人は他にもいるのでは?と募っただけ。僕は投票したけれど、あれに何の問題があったのかわからん。
いま言ったように、それはキャンペーン前のツイート。捏造もいい加減にしてくれ。
誤読のトラブルをなんでも読者の読解力不足のせいにするのはよくないけど、上の例に関しては東は悪くないし絡んでる奴が時系列と文脈を読めないアホなだけなんだよなあ……。
しかも誤解を与えてスマソって言ってるし→https://twitter.com/hazuma/status/909810605778800640 (まあこの後同様の誤解が何百何千と広まってさすがにキレるんだけど)
棄権を政治への無関心とか与党への白紙委任とか言って切り捨てず、そもそも選択肢がない状況についてまともに考えようという主張それ自体が、棄権を呼びかける危険な行為とか言われるんだから、ほんとうんざりだよ。ぼくが棄権するかしないかなんてどうでもいいんだ。
ここが(東にとって)本質的な部分なんだから批判するならここにすればいいのに(事実してる人はいる)、
棄権するしないとか言った言わないとかしょーもないところにツッコミ入れることばかりが炎上的に盛り上がっていく。
俺自身はあの署名そのものにはサインもしてないし、東の言うような選挙おかしいと思ってる人の可視化っていう意義はあるのかもしれないけど、現実的な効果とかはないんじゃねーの?と思う。
でもあの署名関連での東への批判は誤読が多すぎてさすがに東が気の毒だな、と思っていたところに最初に引用したデマツイートですよ。
「終わらないで欲しいものが実はもう終わりつつあること」に気付きながらも、なおもダンスを踊ること。だがしかし、それがけっして希望や未来に繋がりはしないこと、一方では完全に分かってしまってもいて、だからそこには明らかに一種のメランコリーが隠されているのだが、では「終わりつつある」が、遂に「終わってしまった」に変わり、そのことをもはや認めざるを得ないのだとしたら、一体どうしたらいいのだろうか?
「当時、彼の書く歌詞や曲の世界は、あまりにも楽観的で表層的だと揶揄されたりもしたが、そこに同時に苦悩と諦念と、それでもなおそれらに何とかして撃ち勝とうとする「強い気持ち」を見出せなければ、彼のことをわかったことにはならないだろう。阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件が起こった年に「さよならなんて云えないよ」と「痛快ウキウキ通り」を発表する人間の、何ともいえない複雑さに気付けなければ。」
去年末あたりから、小沢健二を頻繁に聴いている。一言でいえばハマってしまったのだ。いや、というよりも心酔してしまった、といったほうが正確かもしれない。僕の生活を傍から誰かが覗いてみればおそらく気持ち悪がることだろう。とにかくここ最近は毎日小沢健二漬けだ。自分の生活が、人生が、小沢健二に溢れている。ここには些かの誇張も比喩もない……。
なぜ小沢健二なのか。無論彼の音楽が素晴らしいからで、それは後追いで彼の音楽を知った者としては「今現在聴いても」というような注がどうしても付随するが、事実彼の音楽は全然古びていないし、それどころかむしろいまのほうが当時より一層重要性を帯びているとすら感じられるから、なのか……。そう断言したい気持ちもあるのだけど、自分でもよくわからないというのが率直なところだ。ここでいう当時とは彼の活動が全盛を極めた90年代半ばを指すが、その後彼はメディアから急速に姿を消し、CDのリリースも絶え絶えになる。これは周知の事実。では小沢健二とはいったい何者だったのか/なのか。もちろん彼を過去形で語るのは正しくないし、絶対に間違っているとすら思うけれど、とりあえず90年代の彼の音楽家としての活動とその意義などはひとまず暫定的に総括されて然るべき問題だろうと強く思う。小沢健二はそれぐらい大きな存在だと思うし、その大きに比べると彼は「まだまだ語りきられていない」と思われるのだ。
小沢健二の音楽をリアルタイムではじめて聴いたのは、たぶん「ラブリー」だったと思うし、それ以外はほとんど記憶がない。というのはその当時(94年頃)の僕はまだ小学生で音楽そのものにあまり興味もなかったし、もしあったとしても彼の曲の良さを感受することは出来なかっただろう、おそらくは。そして物心ついた時には彼はすでに音楽の場から遠のいていた。何れにせよ今まで聞き逃してきたわけだ。といっても今までに何度かニアミスはあった。物心ついてそれなりに音楽を嗜むようになり、そのなかには渋谷系と称される音楽もいくつかあり、とりわけ渋谷系と称されるジャンルにおいて小沢健二は中心的な存在だった(はずだ)。だけど、それでもなぜか意識して小沢健二を聴くことはなかった。なぜだろう、とふと考える。というのも、つい最近まで彼のことを意識して考えたことすらほとんどなかったので自分でもよくわからないのだけど、ひとつ思い当たるふしがあるとすれば、それはやはり当時耳にはさんだ「ラブリー」の印象が大きかったからなのだと思う。もちろん、「嫌い」といえるほど彼の音楽やメディアでの振る舞いを見ていたわけではないけれど、それでもやっぱり「ラブリー」のあの底抜けに明るい(今でこそ違う表現ができるのだけど)感じをリアルタイムでは軽薄なものとして受け止めた気がするのだ(いまでも彼の音楽をそういうものとして受け止めている人たちが大勢いる)。だからなんとなく避けてきたというか、ちゃんと聴かなかったのだと思う。そんな僕が小沢健二を意識し、興味を持ったのは、彼が所謂反グローバリズム運動に関わっている(らしい)と聞いたからだった。だからはじめは音楽とは関係ない。いやあんなポップな歌を歌っていた人がそんな活動をしてるんだ、という意外性によるものだから、関係はあるのだけど(そういえばセリーヌに興味を持ったのも彼がべらぼうな反ユダヤ主義者(らしい)と聞いたからだったのだ)。
そんなこんなである日何気なくyoutubeで「ある光」を聴いた。そして一瞬にして胸を打ちぬかれた……。真摯、としか形容することができなかった。そこにあるのはなんの修辞もアイロニーもなく、ただひたすらに真摯で敬虔な歌だったからだ(それゆえになかなか危険な曲だと思う)。そして続けざまに聴いた「ラブリー」で嗚咽した。この「ラブリー」という曲の持つヘビー級の重さに僕は小沢健二という存在が理解できたような気がした。一見とてもポップで底抜けに明るいこの曲のいったいどこがどう重いのか。彼の音楽は多くの人たちから「多幸感溢れる音楽」云々と形容されてきたのだけど、それは正しくない。正確にはこうだ。小沢健二の音楽は多幸症である……。多幸症。そう、これはある種の症状であり、とりわけ「ラブリー」に顕著に見られる明るさは明らかに病的である、と。「ラブリー」にはそういった趣を感じるのだ。小沢健二の音楽を聴くことは、すなわち完全なる多幸症を生きることを含意するといってもいい。
http://anond.hatelabo.jp/20100127001517
さらにヴァージョンアップさせるとこうなる。
この時期になると大学生向けに読むべき100冊みたいなリストが出回る。
あんなリストを真に受ける人も少ないだろうが……はっきり言って悲しくなるくらいお粗末だ。
ずらっと並べられた古典名著。あまりに埃の被ったラインナップにがっかりする。
こういった学問には「原書病」とでも言うべき、くだらない風習が根強く残っている。
原典や本文を極度に重視するのは不健全だ。それ自体は面白いとしても、その後発展と整理を経て洗練されている。
歴史的興味以外であえて出発点に戻る価値はすごく小さい。そんなところに本当の「教養」は存在しない。
難解で時代遅れな文章と格闘したって、趣味以上のものにはならないし、考える力は湧いてこない。絶対誤読するし。
そこで本当に頭を強くしたい人が読むべき書籍リストというものを作った。
これは単なる学問という空気に浸ってみたい人が読むものじゃなくて、日常に根ざした本物の力を分けてくれるものだ。
この100冊さえ読めば考える素材に困らないだけでなく、コミュニケーションの強者にもなれる。
飲み会で古臭い古典の話をしたって煙たがれるだけだが、この100冊をネタにすればそんなことにはならないし、
黙考はずいぶんと深くなるし、ブログのネタに応用すれば必ず一目置かれる。
選んだのは現代的で網羅的、そして極めて平易なもの。どの分野にも精通できるように色んなジャンルのものを配置した。
この100冊を大学生活のうちに読み切れば、必ずや一生の財産になるだろう。
ここに挙げられた本が、現代最新型にアップデートされた真の「教養」だ!
『逃走論』 浅田彰
『アメリカン・コミックス大全』 小野耕世
『よいこの君主論』 架神恭介
『おまえが若者を語るな!』 後藤和智
『シミュレーショニズム』 椹木野衣
『箆棒な人々』 竹熊健太郎
『新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書』 西寺郷太
『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』 ばるぼら