はてなキーワード: 社会生活とは
自分用メモも兼ねて。いや、最近なんか周りでなんとも抑うつっぽい人が散見されるようになってきたように感じられるのでふと考えることが多くなった。「とりあえず前向きに」は理想としてはほんとそのとおりなんだけど、いやできないから凹んでるわけであってね。というのも自分も社会生活に支障は無いまでもちょっときつかった時期があったりしたんだよね。なんかこう上手くいかんという時にわずかでも参考になればと。
以下自分の思う改善法を適当に並べて書くけどツッコミ等あれば是非忌憚なく書いてってくれれば
・スポーツする
スポーツするのはすごく効くと強く感じる。じっさい脳内に多幸感物質的なのがでていいらしいね本当に。そういえば体育会だったり普段から運動してる人でうつっぽい人っていなくない?(無口とかおとなしい人ってのは別でね。笑)それって結局これにつながるところだと思うんだよね。まあ脳内から作用するんならそりゃ自然に効くここまでいい薬はないわなと。
で、スポーツの中でも個人的には集団でやるやつ、例えば野球、サッカー、バスケとかとかをあまり競争的にならずにやるのがいいと思ってるんだ。というのも下の話にも関連するんだけど人とあって話すのはすごい凹んでるのを改善するのにいい。特に非競争的にみんなでわいわい談笑しながらでなんかだと本当に効果てきめんだと個人的にも思ったわ。あんまり試合の結果に一喜一憂するのがいいとも思わんしね。(まあ個人差あるかもだけど笑)
水泳とかジョギングとかでもいいとは思う。ただ、ジョギングとか取り入れてみて思ったけどどうにも変化がなかったりすると飽きたりするからそこらへんは要工夫だし、人の輪にいるってのがすごい重要だと思ってるからよりオススメは集団スポーツ。でも個人スポーツも全然OKってスタンス。
・人と会って喋る
これも超重要。や、もう本当になんでもいいんだよね。単純に失恋とか仕事うまく行かなくて悩んでるならそれを聞いてもらうでもいいし、あえて全然関係ない趣味に花咲かせるのでもいいと思う。個人的には仕事なり実際的な解決方法が欲しい時は人の話を参考にするのもいいかなとは思うけど、基本的にどうにもならない人間関係のこととかはもう全く別の話して気を紛らわすのがいいんじゃないかなと思うことが多いのかなとは思ってる。例えば恋人関係で悩んでる時に共通の知人にいろいろ聞いてもらうよりは、全く関係ない人にその相談みたいなのはもちかけずに自分の好きな趣味、音楽映画なり漫画でもなんでもいいけど、の話をしてわーって盛り上がったときのほうが気持ち的には晴れやかなことが多いのかなっては思う。まあこのへんはいろいろケースにはよるかなとは思うけど気の置けない友達とただ話して笑ってみるだけで全然違うっすほんと。
・陽の光を浴びる
これも効く。よく本とかに書いてあることだったりはするんだけどね。メラトニン(だっけ)とかってのが日に浴びることで生成されていろいろポジティブな効果を生むっていう。これも具体的に南国の人とかのうつ率の低さ(ってかほとんどいないんじゃね?笑)をかんがえたらなんとなく納得する話なのかなと。自分も少し取り入れてみたけど朝に一日の段取りでもぼーっと考えながら2,30分散歩してみるだけでもホント違うよ。これなんかは習慣にすべきだと思う。忙しいと30分とかの時間生み出すの大変かもなんだけど、まわりまわって効率良くなって全体のパフォーマンスよくなってるの感じるわ。
・早寝早起きする
これも上に関連。特に日の出てる時にしっかり生活をするのが重要。これ見てる人なんかはパソコン好きが多いだろうからついついモニターの前で夜更かししちゃう、みたいなことありますよね。僕もすごくよくあるのでわかる。笑 でもやっぱり早起きしたらその分有効に使える時間は増えるし、上記の日を浴びられる時間が伸びる。逆に、夜更かししてネットやりながらだらだらしてると無駄な後ろ向きな思索とかがやたら増えてかなりジャンクなブラウジングしてる自分に気づいてなんとなく鬱屈としてくる、また生活時間がズレこんでの悪いサイクルが生まれると思うんだ。だからなんとか朝、人と会う予定をいろいろ入れてみたりして、生活習慣を改善してみよう。特に夜更かしをしないってのが重要かなとは思います経験上。
・家事とかをしっかりしてみる
は?って感じかもしれんけど小さいながら書いとく。これ結局小さい成功体験の積み重ねに相当するのあかなと。普段面倒だったり忙しかったりして掃除選択皿洗いから細やかな管理なり色々後回しになってたりしない?そういうのをちょっと重い腰を上げてやってみよう。掃除なんかはほんと終わったらすっきりするよ。週ごとにホコリ一掃キャンペーン(一人で)をやってもいいくらいだ。笑 本棚の整理、パソコンのファイル整理でも靴磨くのでもどんな小さなことでもいい。無言で集中してるうちに日常の些事なんか薄らいじゃってうことってよくあるよ!
・ネット断ちをしてみる
最後にネットヘビーユーザは特に。前述のごとくここ見る人なんて大分ネットに慣れ親しんだ人だろう。最近なんかはネット疲れなんてのが言われるくらいだからなあ…いるでしょ?気付いたらTwitter開いてるみたいな人?笑 自分も大分そっち側だからよく分かるんだよ。
でもそれあんまよくない。特にネット一日に数時間もやってる(それこそねらー的な人達が自嘲的に言ってるような人種の人は)一日でもいいから全くネット触らずに外ぶらぶらしてみる時間をとったり、鈍行でふと何か見に行けばいいと思う。これ本当に違うんだよ。割と自分も一日にネットとんでもない時間触れてる時があったんだけど、これってなんかこう、そのまま惰性で続けちゃうじゃん?それをこうアウトドアなのをふと入れてみるとそのネットやってる時間自体の充実度もだいぶ違ったりするから不思議なもんだ。インドアな人には効果てきめんだし、最近よくいう引きこもり気味でネガティブになってる人にはよく効くと思うので是非。
ざっと思いつくままに書いてみたけど、うつ改善のために精神科の先生が書いてるのいくつか読んだりWEBで読んだのうろ覚えであったりするのと、自分の経験則的なものを合わせた感じだとこんな感じだ。特に自分がおすすめするのはスポーツと人と話すことかな。もちろん時間が必要なことではあるので大変かとはおもうけどやっぱりこう人と交流しながらってのが一番効果的だとは思う。そんな友達がいないんだよ!笑 みたいな人はネットでオフみたいなの探せば何かしら機会はあるはず、同じような悩みだったり考えしてる人って世の中思いのほか多かったりするよ!
以上とりあえずそんなかんじで、是非参考になれば!
なんとなくその原因もわかる気がして、それは綱渡りの競争で勝者にならなければならない義務感が全面化していることなのではないかということだ。
職場はもちろん、親、兄弟姉妹、配偶者、恋人、友人、あらゆる人間関係で安心できる場所が少ない。
もちろん、子供でもない限り「無条件に自分自身を受け入れてくれる場所」なんていうものが誰にでも用意されているわけではないのは当り前だけど、
今の日本の社会って「失敗できない」という感覚が強過ぎやしないだろうか?
「あいつは使えない。使えないやつとはつるまない方がいい。いつ自分の評判に響くかわからない」。
実際、中学生あたりの年頃に、いじめる側にまわるかいじめられる側になるのか戦々恐々とする構造とあまり変わらない。
裏で働いているのは利害関係の論理で、この利害の理屈があらゆるところに顔を出している。
でも、個人的な関係まで悪化するかはともかくとして、ビジネスの場ではある程度それは仕方の無いのことだ。
しかし、恋愛関係が損得勘定なのは珍しくないとしても、親兄弟や利害が無いはずの友人関係までもが損得で勘定されかねない今の状況はどうなんだろうか。
いけてるやつとつき合いのあるいけてる自分、いけてないやつとつき合っているいけてない自分。
そして、自分は自分の友人や親兄弟や恋人から見て、いけてるのかいけてないのか?
あるいは実際はそういうわけでもないのかもしれない。
親兄弟・友人同士の関係における損得勘定感覚、利害の論理はもしかするとそれほど前面化しているわけではないのかもしれない。
だけど、ここで重要なのは「そう感じられる」ということだ。不信の種にはそれだけで十分だ。
社会生活を送るにあたって「失敗できない」という緊張を延々と強いられたらどうなるだろう?
誰に対しても「へまをすれば自分は徹底的に見捨てられる。だから決してミスをしてはいけない。この綱を踏み外してはいけない」
という強迫観念を持って日々を生きなければならないとしたらどうなるだろう?
そして、失敗してしまった人間が「自分はへまをしてしまった。綱から落ちてしまった。だから自分は見捨てられても仕方ない存在だ」
と感じているとしたらしたらどうだろうか?
恐れる人間は当然のようにその恐れの原因である自分の物差しを、そのまま他人を評価する物差しとして使う。
この場合「へまをしないようにそこに精力を傾けて努力している私は、へまをした人間を切り捨ててもいいのだ」という感覚だ。
こうして実感された全方向における関係性の「綱渡り感」は社会的現実になり、再生産され、綱から落ちた者への容赦ない冷笑・蔑視・罵倒は正当化される。
とにかく明るく元気で前向きにいることが義務づけられているこの空気の中、
少しでも気鬱な表情を見せれば途端に敗者の匂いが漂い、それだけであらゆる場面で敬遠の対象になってしまう。
今までの日本社会ならば、失敗したとしても、明るく元気で前向きにいることが可能だった。
社会全体が経済的な繁栄を享受する中で一度二度つまづいたとしても、もう一度立ち上がってライフコースを再構築するくらい日本社会の路は太く安定していたからだ。
「なあになんとかなるさ。死ぬわけじゃあるまい。人が人でなくなるわけがあるまい」が現実だったのだ。
だけど、今や日本社会の路は一本の綱になってしまった。誰かがどこかで失敗することは避けられない。
そんな社会で私たちは「一度躓いたら徹底的に孤立する」という「綱渡り感」から逃げられない。
「みんながやっている綱渡りなんだ。敗者が孤立するのは当然だ」という声があらゆるところから聞こえる。
でも果たして本当にそうなんだろうか?本当に失敗した人間は孤立しなければならないんだろうか?
目の前の路は、落ちたらまっさかさまに孤立へと落ちる、一本の綱なんだろうか?
実は、目の前の路を「綱渡り」にしているのは僕たち自身なのではないだろうか?
僕の弟は今大学4年生で、本命ではないけれども、某企業から内定を頂いている。だけど本人はひどく落ち込んでいるようだ。
大企業へ就職する者が多いという周りの友人に比べた時、弟は、既に失敗している、綱から落ちてしまった、という思いがするのだそうだ。
驚いたことに、留年してもう一度本命の企業(某広告代理店)に挑戦したいと言い出す始末。正気の沙汰とは思えない。
挙句の果てに、弟は僕に対しても卑屈な態度をとるようになってしまった。
僕の会社は弟の内定先よりもはるかに知名度の低い会社だというのに、だ。そんな弟を見るのは軽くショックだった。
だけど、自分の周りを見てみても、もしかしたらそういう感覚は、この日本社会ではもう当り前なのかもしれないと思うようになった。
共に氷河期の就職戦線を生き残った大学時代の友人が、弟とまったく同じ卑屈な態度をしていたからだ。
失業をきっかけに鬱になってしまった彼の元を彼の妻は去っていった。幸か不幸か彼らには子供はいなかった。
そして友人は変わった。ひどく自分を卑下し、まるで「まともな人達」と同じ場所で生きていること自体が申し訳ないことかのように振る舞うようになった。
彼の失業や離婚に心を痛める人間は世界で彼ひとりしかおらず、他の誰一人として彼の心痛を共有できるものはいないかのような物言いをするようになってしまった。
氷河期世代の割に比較的のんきに生きてきた僕は、今とても恐ろしくなっている。
今まで考えたこともなかったけれども、もし僕が会社から解雇を告げられたら、あの卑屈な表情を僕に向けてきた弟や友人は僕を嘲るだろうか。
僕の恋人は負け犬を見る様な目で僕を見て、そして僕から離れていくだろうか。何より僕はそんな態度をとり始めた周りの人間を恨まずにいられるだろうか。
人生の苦しい状況で、支え合うことよりも、蜘蛛の糸を奪い合った亡者達と同じように蹴落とし合うことを選び、
ひたすら損得と利害だけで行動するような餓鬼の如きなにかに成り果ててしまうのだろうか。
綱の下に広がる網は、綱の上を歩いている時にははっきりと見えるけれど、一度綱から足を踏み外した瞬間に消えてしまうのかもしれない。
なんという恐ろしさ。徹底的に孤立するから綱から足を踏み外せない、でも誰かは足を踏み外さなければならない。
ならば蹴落とす、自分が落ちない為に。落ちたやつには目もくれない。
こんな緊張があらゆる人間関係で全面化してしまったら、そりゃ狂うわ。
綱をうまく渡れている時でも生きている心地がしないもの。
「もし、お前の一番の希望が通らなかったとしても、その時は僕がどこかにコネをつけてやるから。そのくらいはなんとかなるから。だから後悔の無い様に思いっきって挑戦してください」と。
そして、友人にはこうメールする。「元気?お前が暇なうちに久しぶりにまたオールナイトでも見に行こうぜ」。
彼女にもメールを送る。「お仕事おつかれさん。今度、温泉でも行っておいしいごはんでも食べて一日中ぼーっとしてゆっくりしよう」。
多分、会社の同僚にも送るだろう。今はもうあんまり顔を合わせなくなった大学時代の友人や高校時代の友人にも。父と母にも送ろう。
少なくとも、僕にできる部分だけでも常に網を張っておこうと思う。
きっと今は、そういうひとりを思いつめさせないように気遣う努力がひとりひとりにとって必要な時代なんだと思う。
そうじゃなきゃ、みんな悲惨な気分を内に秘めて、そして隠しきれずに卑屈な顔をしながら生きていかなければならなくなってしまう。
いいことがあれば共に喜び、わるいことがあったら共に悲しみ、そしてまた再スタートを切ることをお互いに後押しし合わなければダメなんだと思う。
これだけ厳しい時代なんだから、経済的な意味でも、人間的な意味でも、そのくらいのことができなければ、僕たちは人間でなくなってしまう。
ミクシイつながりで仲良くなれた人って多くて、今まで活用させてもらっていたのですが。
学生時代や社会生活でろくに友人ができなかった私には、コミュや日記や足跡などの機能はすごくありがたかったです。
フェイスブックもツイッターも、もっと友人がたくさんいる人には楽しいツールなんだろうなぁ。。結局ネットも現実が充実している人が楽しめるツールなんだろうなぁ。
と悲しい気持ちです。
前のミクシイみたいな使い方ができるツールって今あるのでしょうか?(グリーとかモバゲーとか、ああいうのでなく、はてなで理屈っぽい長文を書いてくれるような人がいるような場所が理想です)
いわゆる「女叩き」に合うのも覚悟の上で、どうにもまとまらないもやもやを増田に吐き出したいと思う。
最近Facebookで中学・高校時代の友人たちとの旧交がみるみるうちに復活しつつある。
田舎なので同級生のほとんどは大学進学と同時に都会に出て行き、そのままそこで暮らしている。
残っている友人たちは、地方公務員になったとか、あるいは親の仕事を継いだとか、そういう人たちだ。
わたしは少し前にうつ病を患い、真っ当な社会生活を営めるようになるまでに相当の時間を要した。
今も万全ではなく、回復過程にいる。
最近ようやく、休みの日に外を出歩いて気分転換できるだけの気力と体力を取り戻したところだ。
それに伴い、地元に残っている旧い友達、あるいは社会人になってから新しくできた友達と、週末に食事をしたりしている。
その延長線上で、男からセックスを求められることの多さに、本当に辟易している。
真正面から攻められたこともあるし、「あわよくば」的に滑稽なまでに必死な姿を見せつけられて悲しくなったこともある。
食事をおごられてるわけでもなく、好色をアピールしているわけでもなく、ただ、他愛のない話をしているだけのはずだ。
わたしのことが好きなのか、という意味の探りを入れると、彼らはすっと身を引く。
つまり、わたしは彼らにとって「セックスできるかもしれない女」のひとりでしかなかったということで、その事実に大変に傷つく。
男女の友情とか固く信じているわけではないが、もう少し、「セックスするかさもなくば他人」みたいな両極に振れずにすむような、余裕のある付き合いはできないものなのか、と思う。
先日、弟の結婚式で上京した。
せっかくの機会なので東京在住の友人たちとも久々に会ったのだが、彼らはそのような下品ながっつき方はしておらず、それでいて楽しく和やかな時間を過ごすことができた。
これが普通だろうに、地元組は、どうしてこれができないのだろうか、と思う。
旧い友人を、風俗の代わりにしかできないような、そんな人生楽しいか?
と、人生観すら否定したくなる。
そのくらい、わたしはわたしにセックスを求めたがる男友達を嫌悪している。
学生時代に性に奔放だったとかそういうわけでもない。
友達は男女ともにたくさんいたが、彼氏がいる時期は少なかった。
誰か教えてほしい。
彼らは、なんでこんなに下品な大人になってしまったの?
もう、レズになりそう。
冗談抜きで。
住んでる場所によって根本的な人間性がさほど違うとは思ってない。
言われている通り、表現の仕方が違うだけのことだと思う。
でもその違いってわりと大事だ。
奥底で思ってるぶんには別にいいんだよ。そういうもんだと思うからさ。
というわけで、男がせっくすせっくす!な生き物なのはもちろん知ってるさ。
ただ大人になったらもうちょっと節度を持って行動しましょうね、って話なんだけど、自分の友人に意外とそれができない人が多いって事実に落胆してる。
同じ頻度で会う男友達がことごとくこんなんばっかりで、あれれ~?この人たち前からこんなんだったっけ???と当惑しておるわけです。
武蔵野福祉作業所は、知的障害などにより地域で生活することに何らかの困難さを伴いながらも、働くことを社会参加への生活姿勢としている方に、多様な作業種や就労の機会を提供し、その方の社会生活上の成長に有効である環境を用意し、主体的に充実した喜びのある生活を営むことを応援します。
へえ、こういう施設内の人間関係でもいっちょ前にいろいろあるんだね
キモいなぁ
ブログを書かなくなって久しいが、復活にむけリハビリがわりに増田に書いてみる。
もっとも、大学教員である私が学生指導を通じて感じた知性について今日は書きます。
知性が低いと思われている人の中には、単純に広義の体力がないケースが多い。病気がちであったり、何らかの事情により物事に集中出来なかったりするために、知性を獲得する上で必要な思考が妨げられているケースが多い。
案外、中等教育期間中に体力づくりのための運動をすることは頭を良くするためにも大変理にかなっていると思う。また、特にチームスポーツであればリーダーシップを学べるので良いと思う。自分の子供にはそうさせてやりたい。
とくに運動が苦手な人を中心に、大学生になると定期的に運動する習慣を失う人が多いが、案外知性の獲得に向けてよろしくないような気がする。
本能や感情を抑制するのがまずもって社会生活を送る上で求められる基本的な知性である。そして、それらの基本的な知性の多寡は生まれつきの要素が強いが、しつけによるものもあるだろう。
もっとも、知性ある親はしっかりしつけるし、知性が獲得させた様々な社会的資源を活用して子育てするから、親は選べないということは本当に不公平なことであると思う。
人間は感情が優先される動物なので、都合の悪い(=悪い感情を引き起こす)現実は直視したがらない。そのため、基本的な知性が乏しい(=コントロールできる感情の水準が低い)と、自分にとって不都合な真実を理解しようとしないために、理解できる法則に限界がある。結果として応用的な知性(職業的に求められる能力など)も獲得されにくい。
もっとも、感情的にならず、冷静に周囲と調和できる人、いわゆる「良い人」が社会的に成功するとは限らない。全体的にみて、その様な人は所詮当たり障りのないことをしようとするから、つまらないことになる。
社会的に成功する人、特に経済的に成功する人の中には、性格的にユニークな人が多い。やはり、人並み外れた目立ちたがりだったり、強い欲望を元に事業を成功させるような人は強烈なエネルギーを持ち回りを引っ張ったりする。その人が良い人である場合もあるが、その様な強烈な感情は何らかのコンプレックスであることも多く、「良い人」でないこともままある。
というより、日本的な文化の中で、冷静に周囲と調和して生きるよう指導されているのは、社会が安定を求めるがゆえに、大半の貧民・庶民に隷属を強要することの裏返しかもしれないとすら思う。一方、親が金持ちだったり、社会的なポジションを有するようなケースでは、根拠の無い自信を持っているような奴もいて、比較的楽にリーダーシップを握ったりするなど、成功に近づく。社会階層が最生産される精神構造がそこにはある。
一定の素養がある人が習熟すると、だいたいの見た目や立ち振る舞いだけで、その人の知性の水準がわかってくるようになる。もっとも、その能力を獲得するためには、直感的に人を見る目を養わなければならない(少しシビアな)環境にいたかどうかが重要である。おそらく、過去の生活の結果に基づいて顔の形や立ち振る舞いと知性や性格との関係に関するデータベースができていて、それを無意識のうちに当てはめることでその推論が成立しているように思える。その構造を理解すると、第一印象に気を配ることは重要であることにも気づくだろう。
だいたいにおいて、賢い人は見た目も良い。もっとも、私は「見た目」に二種類あると考えている。一つは持って生まれた「造作」の良し悪しであり、もう一つは後天的に獲得した、あるいは経験した感情によって作られる「面構え」のようなものだ。前者はいかんともしがたいは物理的必然であるが、後者は自分の心持ちによってある程度コントロールすることが可能である。(もっとも、そのそれを改善するような心持ちを持てるかどうかも基本的な知性によるのだが。)
10代の間の見た目はまだ前者の「造作」によるものが大きい。しかし、大学を卒業するぐらいの年令になると、どのような経験により、どの程度の精神的成長を遂げたか?ということが顔に出てくる。ましてや40にもなろうとすると、それまでやってきたことの影響が思い切り顔に出てくる。結果として、大人になればなるほど、賢い人は見た目も良くなる。
性欲の強さは性格や知性にある程度の関係がある。社会生活をうまくこなすためには、強すぎても、弱すぎてもダメ。もっとも、ここで言う性欲とはある種のバイタリティの言い換えかもしれない。
性欲がある程度強ければ、異性を誘惑するという、生存上もっとも戦略性が要求される行為について自発的に考える。特に取るべきコミュニケーションの内容や、自分の振る舞いが相手に与える影響をよく考えるようになるからか、結果としてある程度の知性を獲得するのだろうと思う。
もっとも、性欲が強すぎるとそれ自身が知性の獲得に障害となることもあるので、社会生活的に見てうまくいかないケースもある。
性欲が弱そうにみえるタイプは、やっぱりコミュニケーションのとりかたに問題が出てくる。実は、就職活動をするときにモテる人とモテナイ人の差は如実に出てしまう。
言うまでもないことだが、基本的な知性が乏しい人は、自分の能力を効果的に伸ばすための選択ができない。また、自分の適性もなかなか決め切れない。結果として解決すべき問題、獲得すべき能力に関して集中的に取り組むことをしないで、ばらばらで組み合わせの悪い能力を身につけたりする。あるいは単純に時間を浪費する。
もっとも、将来的にどのような組み合わせが望ましいのかわからないという言い分もよく分かるつもりで、無駄なことなどないと信じたい。ただそのような言い方は、気の毒にも無い内定で落ち込んでいる学生を目の前にしてあまりにも無力である。
以上リハビリ終わり。
就職した会社の社風が結構荒んでる。DQN傾向といったらいいのか。明るくお馬鹿なDQNならいいけど、モンスタークレーマーっていうのか、ねちねち嫌味な傾向があって、毎日耳を塞ぎたくなるような気持ちだ。
出身地で人を嘲笑したり、小耳に挟んだ程度のプライベートな出来事を重箱の隅をつつくように追求したり、お客さんのことを影で蔑んだり。もう耳に入れたくない。そんな話に夢中になる上司の相手をしなければならず仕事に手をつけられなくて残業するこの悪循環からも実際抜け出したい。ゴシップ持ち寄るおやつの時間とかいらないから。
ああいうのは逞しいと言わない。綺麗事だけ言っていては社会生活を営めないっていうのは、綺麗事を口にしたら負けだということではない。口汚く他人をこき下ろして押しのけて、自分の地位をさも上げるように振る舞って他人を威圧するのとは違う。
そういう流れに飲まれずに生きようと思う時と、どうでもいいからもうこれ以上こういう空気の中にいたくないと思う時とがまだらにやって来る。
感情は完全に自由だから「公正な基準」というのは存在しないよ。
だからあなたの問いにそのまま答えるならば「公正な怒りの基準なんてない」となるんだけど、たぶんそれじゃあ満足しないよね。
(想像するに、料理をひっくり返したことについて、誰かに何か言われたのでしょうか)
なんらかの結論的なものを欲しがっているようなので、ひとつ偉そうにヒントを言わしてもらうならば、
「怒りという感情の基準を気にするのではなく、行動の基準を気にしてはどうか?」
ということです。
感情とちがって行動は、社会生活を営む限り、自由ではないよね。
法律や常識などの「公正な基準」があり、その範囲内で行動することを求められる。
ここが難しいところで、人間である以上、感情と行動は1セットであるはずなのに、
かたや感情は自由、かたや行動は自由じゃない。
この感情と行動の不一致を、一般には「ストレス」とか「悩み」と呼んだりするけれども、
とにかく生活していく上でこの不一致は当然のことであり、受け入れてかなきゃいけない。
これは不一致が生じたときにひたすらガマンする、ということじゃないよ。
もちろんガマンできるならしてもよいけど、ベストは、
「感情のままに行動しても、問題が生じない」
ことだよね。そして多分今回あなたは何らかの問題が生じたから増田に投稿したのでしょう。
であれば、行動を変えるしかない。
正直いって、「怒った→料理ひっくり返す」というのは子供の感情表現(行動)と言わざるを得ないよ。
問題が生じて当たり前。生じてないとしたら運がよいだけだよ。
「怒った→怒りを言葉で伝える」これが大人の感情表現(行動)だよね。
これなら、今回のケースに関しては読む限り妥当だと思う。
(言葉や言い方も選ぶ必要があるのは言うまでもないよ)
誰かが今回のあなたについて何かうるさいことを言ったのだとしたら、
それはあなたが怒ったという感情に対してでなく、料理をひっくり返すという行動に対してなのだと思うよ。
「待たされてイライラするのも分からんではないけど、ひっくり返すこたーなくね?」
繰り返すけど、怒ろうが怒るまいがそれはあなたの勝手。感情について「公正な基準」なんてないし、誰かに非難されたとしても堂々としてればいいよ。
でもその怒りの感情をどう表現するかという行動には「基準」があって、今回のあなたの行動は、大多数の基準からは外れた行動だと思うから、そこは開き直らずに反省したほうがよいよ。
これ見た時、あぁなるほど、って思ったんだけど、人間、一番怒りが沸くのは自分の存在とか信念を無視された時なんじゃないかなー、と。
飲食店で待たされるのは自分の存在を無視された訳じゃないけど、注文を忘れられた時に怒りが沸くってのは自分を無視されたからだと思う。
自分自身の存在や自分の信じている物が無視された社会で生活すると、色々と不利益を被るし、自分の直感に沿って行動する事が困難になるから、こう言った怒りのメカニズムは社会生活を営む動物の本能になっている気がする。
自分は結構怒りっぽいけど、それを表出しても得になるシチュエーションって社会生活上は皆無だから、基本的には"何で、今自分は怒りの感情が沸いているんだろう?"って自問自答して、パターンを色々探って感情を鎮める様にしてた。
その結果、当面の結論として上記の様な結論に至った。
怒りの感情が沸く理屈が理解出来ると、解決法も見つかりやすいし。
これは他人の怒りに対しても、ある程度は通じて、相手が怒っている時に"自分の行動が相手の何を無視したんだろう?”って考えて、それに付いて謝罪する様にしている。
勿論、この理屈がボヤーっとしか当てはまらない事もあるけど、比較的汎用性が効く考えだと思うんだけどなぁ。
逆にブコメも増田も、マナーが悪いだとか病院行けとか御飯が可哀想とか本質じゃない議論に終始しているって事は、自らの怒りの感情や他者の怒りを客観的に見た事が無い人達ばっかりなんだなー、ってそっちに絶望した。
見ました。
振り子のようにそうとうつをりかえす。
誰でもそうだ。
それはあるかもしれない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかし、日常生活なら未婚ならなんとか、社会生活(職場)ではごまかせないんだな。
病気とは気づかれることはまずない。だからって言ってはいけない。差別の怖さだ。
自殺者が3万人超えた、職場のメンタルヘルスについて今はやってるから、
【ちょっと過呼吸なんです】ってごまかせばいいんだよ。ほんとはもっと重いのか?実は軽いのか?
自分では・・・・・おろか、10年通った 超一流大学の博士号の精神科医ですら見抜けないなにか・・・・
前の医者で薬漬けにされてしまった後遺症かどうかわからない・・・・。
前の医者はひどかった。何かにつけて薬だった・・・・。私にも原因はある。その薬で一時的に楽になるからだ。
だから、もっと増やせ!!!!!!!と要望する。前の医者はホイホイ増やす。。。。
私はうまくいくしかし、ロレツがもう回らない。そして、おかしいと職場に気づかれたのだ。。。。。。。
私は何年自宅で2ちゃんや自己啓発、倫理的裏サイトを見ただろうか・・・・・・
行をたくさんあけるとやばいって某ネット評論家みたいな人が言った。何行あけたとかは教育評論家がプロフの統計でもしらべよや・・・・・・・・・・・・・・・
私はネット評論家の上もいってる。あなたたちが経験したことがない世界を見た。
そして、あなたが見ることであろうこともない世界も見た。ボンボン学者様には絶対わからんのだよ。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
ただ、私はそれをわかりやすく一般の人に伝えることができないのだ。それができたなら学者になれるんだよね。
超一流大の学者が10分話して珍しいケースであるとはいうんだけれど、私の知能の高さ???????????????
学者でお医者をだましてただ楽になる薬を手に入れようとは思わない。
おそらくCTの結果やがんの大きさから考えれば余命二週間は無い。
末期がんでもう「どう病と戦っていくか」から「どう最後を迎えるか」を考えなければならない段階。
それ自体は他の誰でも無い家族の問題なのだ。
問題は自分がそれを割り切れてない。
今映像関係の仕事なんだけど。今やってる案件が病院のシーンが多いもので
流石に作るのが辛くて筆(?)が進まない。
病室とか現状から自分が最も観察して最高のものを作れる環境にあるとしても、どうしても家族の問題と切り離して考えることができない。
クライエントにしてみれば、自分の家族の事情なんて知ったことじゃないから自分ができる最良のものを提供しなきゃならないんだけど。
どうしたってそのことが心から離れないからいい結果が出せない。
いや、いい結果だせたとしても、そんな冷徹に観察してる自分を許していいのか分からない。
結果どうしていいのか分からない。
自分の置かれた環境を好奇と思って冷静に観察してできるかぎり良いものを作るのが業界人として正しいことなのか。
でもそれをやったら人としていいものなのか…。
父が癌なのを知ったとき自殺騒ぎを起こして警察沙汰になった上精神病院に収容されたりした。
まぁ精神的にボロボロだった中バイト先で首になってヤケになって自殺騒ぎ起こしたわけだけど
「それはお前の家族の問題であって俺たちには関係ない」
が未だに引っかかっている。
社会人経験のないクズの俺からしてみればそれは恐らく多くの人間にっと「当たり前」のことなんなんだと思う。
自分の関係の無い人間の親類がどのような悲惨な死に方をしようがそれは関係の無いことで
そんなことで業務に支障が出るくらい悩んだり、問題を起こすことのほうが社会人失格であるってことは
まともな社会生活を送ってる人間からしてみれば異常だってことは。
まともな社会人ならそんなこと割りきってちゃんとやってるんだろう。
せっかく書いたので、ここに吐き捨てておくことにする。
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今の悩みは以下が一番近い、むしろそのままの自分を言い表している。
# 回答がまったく助けになっていないのが酷い。
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怠け癖が再発してしまったのでしょうか? | 教えて!goo プラス - 教えて!goo
http://oshiete.goo.ne.jp/plus/q/114966
"去年は問題なく日々を過ごせていたのですが、
今年5月あたりから仕事トラブルで一時的に仕事ができなくなり、6月には仕事も回復したのですが思うように仕事がはかどらなく、現在はいつもの4割程度しか仕事がこなせていません。
デスクワークが大半を占める仕事をしているのですが、気が付けばインターネットに集中し、時間が過ぎて仕事を思うようにこなせない後悔の日々が続いています。
自己管理がしっかりできないようであれば自営業を辞め、収入は少なくなりますが再就職を検討したこともありました。
現在は危機感を感じることが非常に弱く、以前のように仕事を数日間で切りつめてやる日々ができなくなり仕事に集中できない人間になっています。
生活は悩んでいないように振舞っていますが、いざ机の前に座ると仕事を考えたくない自分がいます。"
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うつか怠けか。それが問題。
これまでの自分の症状は明らかに「うつだ」と自分でも認識できていたから、
なんとなくこれまでの対症方法で対処できていたような気がするし、それで納得できていた。
納得できていないのは自分の問題だとしても、分かっていてそれを変える(制御する)ことが「できない」。
しかもなぜ「できない」のか、理由を説明することができない。
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第4回 これってうつ病?それともなまけ? | Think IT
http://thinkit.co.jp/article/108/4
"従来、うつ病になりやすい人は、仕事熱心、秩序を愛し配慮的できちょうめんな人と考えられていました。従来型のうつ病は、まじめで会社に忠実な中高年が発症し、罪悪感が強いのが特徴的です。"
"しかし、最近増加している若い世代のうつ病は、自己愛的で、社会のルールをストレスと感じ、仕事熱心ではない傾向を持つタイプで、現代型うつ病やディスチミア親和型うつ病などといわれています。もともとやる気に乏しく、熱心に何かに取り組んで認められた経験のない人が多いのも特徴です。友人とはうまくいくが、仕事のノルマや上司との関係など厳しい社会生活で簡単に壁にぶつかり、うつ状態に陥ってしまいます。 "
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ここまで言われると腹が立つ。そんな気軽にうつになったりしない。
これまでは"憂鬱""焦り""不安""希死年慮"とそれに伴う"睡眠障害""動悸"などだったが、
最近はそういった症状が鳴りをひそめ、代わりに"怠け"が台頭してきた。
急速に"怠け"が増え始めたのは2011年6月から。7月が現在のピークだが、9月はそのピークを超える見込み。
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岡野憲一郎のブログ:気弱な精神科医 Ken Okano. A Blog of an insecure psychiatrist: うつ病再考 (2) 怠け病は本当にないのか?
http://kenokano.blogspot.com/2011/02/2.html
"まず「欝ではなく怠けだ」という人たちはある典型的なプロフィールを持つことが多い。それは「仕事に関しては意欲がわかず、職場に行こうとしても様々な精神的、身体的症状のためにそれが出来ないが、趣味やそのほかの自分が興味の持てることに関しては積極的である」というものである。これでは確かに「うつ病」という診断を下すことには違和感が生じるのも無理はない。しかしこのプロフィールはすでに「健常人」と異なるところがある。それは「症状」の存在だ。普通私たちは意欲のわかないことは、ただそれをしないだけである。特に「症状」など起きない。たとえば確定申告のための書類を書くのが面倒くさい時、私たちは単純にそれを先送りするだけだ。その書類を書こうといざ机に向かうたびに、頭痛や吐き気やゆううつな気分になるということは普通起きない。しかしそのままにしておくと経済的、社会的な制裁があることを知っている。すると確定申告を我慢して行うか、あるいは制裁を甘んじて受けるかの二者択一となる。(中略)そこでもしA君を「こら、遊んでばかりいずに、働け!」と怒鳴りつけたとする。ここで二つの可能性がある。ひとつは重い腰を上げてハローワークにいくか、仕事を探そうとすると「症状」に襲われてしまい、それが出来ないか、である。後者の場合はA君は病院にいき、その症状に応じて診断を受けることになる。このA君の特徴をひとことで言い表すならば「なすべきことを強いられると、症状が出てしまう人」ということになる。でも、である。これって立派に病気なのだ。少なくともこれまでの精神医としての経験からすれば、そうなるのである。症状はあたかも意図的に作り出されているようだが、「気を取り直せ」とか「しっかりしろ」とか「たるんでる」とか「気のせいだ」とか「怠けだ」といっても、それはどこかに消えてなくなるわけではない。症状がそこにあって、ある程度は目に見えて、以上のような声賭けや恫喝をもってしても決して消えることがないとき、私たちはそれを病気、と呼ぶのである。"
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これを病気とされて薬が増えたり休養を勧められたりしてたら、
いつまで経ってもこれから先に進めやしない。
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岡野憲一郎のブログ:気弱な精神科医 Ken Okano. A Blog of an insecure psychiatrist: うつ病再考 その(7) かくしてうつは誤解される
http://kenokano.blogspot.com/2011/02/7.html
"原因のきっかけへの取り違えは、実は患者の家族にも、そしてここが重要なのだが、患者自身にも起きる。心のうつの原則を一番信じているのは、実は患者自身である。"
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半分合ってる。
"これはうつだと断定してくれる"ことを期待する自分と"うつじゃない"と抵抗する自分がいる。
ここでも矛盾とそれに伴う葛藤が生じている。
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岡野憲一郎のブログ:気弱な精神科医 Ken Okano. A Blog of an insecure psychiatrist: うつ病再考 その(11)結論
http://kenokano.blogspot.com/2011/02/11.html
"私は「結構昔もこんな人が社会のどこかに隠れていたんだろう。」という議論が好きだ。とにかく昔はいろいろなことがイーカゲンだった。"
"私は「最近の社会人は未熟だ」から「怠け方、甘え型のうつが広がった」と考えるよりは少しすっきりする。というのも「近頃の若い者は・・・」という議論は昔からいつの時代もあったのだ。それほど若い者が難題にもわたって未熟になっていたら、おそらく現代人は江戸時代や奈良時代、縄文時代の人間よりよほど未熟でだらしなく、甘ったれと言うことになるだろう。"
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まったく結論になっていないけれど、この結論が一番救われる気がする。
たぶん昔から私みたいなのはいて、今はただそれがうつとして扱われるようになったということ。
ひきこもってないだけまだマシ。
問題だと思って悩んでいるだけまだマシ。
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【0406】休職して遊びまわっている部下は擬態うつ病でしょうか
http://kokoro.squares.net/psyqa0406.html
"この方はうつ病ではないと思います。ご指摘の通り、擬態うつ病でしょう。そう考える理由が、遊びに関しては十分以上のエネルギーを注いでいるということにあるのも、ご指摘の通りです。"
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そういう意味では、自分は今の生活の全てを仕事に振り向けようとしている。
平日帰宅後はできる限り早めの就寝をして中途覚醒分の睡眠時間を取り戻すようにしている。
土曜日は各病院を回り、日曜日は一日のんびりするようにしている。
と書くと、擬態うつをごまかそうとしている心のあらわれなんだろうか。
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http://kokoro.squares.net/psyqa0200.html
"具体的な対応の仕方は微妙な点も多く、個々のケースによって変わってくるのはもちろんですが、原則としては、その職場での許容範囲を設定し、それを本人に明確に伝え、許容範囲を超えた場合には厳しい態度で接するべきであると私は考えています。
"
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これを自分からお願いする、というのはおかしいか。どれだけマゾなんだ、自分。
でも、叱ってくれる上司を求めているのかもしれない。
父性を求めているのか。立派なメンヘラだなぁ。
たぶん結局答えはない。
「自分の子どもや親戚に、自分の勤めている会社を勧められるか?」
この質問の答えを考えた時、答えは明らかにNOだ。
俺が勤めている会社は一部上場企業で、働く人にやさしいことをアピールしている会社でもある。
それなのに、答えがNOにならば、他のブラックで働いている人は想像を絶する環境で働いているのだろう。
それはたぶん自分が我慢すればすべておさまると身勝手な考え方をしているのだと思う。
先日リストラでチームの人の引継ぎがあった。
チームリーダーによって、作業がリスト化されてそれをどう割り振るか。
「この仕事は新しい人にやってって言えませんね。チーム内で割り振りましょう」
とチームリーダの一言。
ただでさえ忙しいのに、リストラで抜けた人の後任を要求することなくチーム内で吸収を図ろうとしたのだ。
チームリーダは人事権がない。
それなのに課長に相談することなく(人がいなくて苦しいです、と打診することすらなく)
リスト化された業務をたんたんとチームメンバーに割り振っているのだ。
本来であれば、○○の業務はこのくらい時間がかかる。
やっぱりもう一人人を増やしてもらわないとね、だとか
そういう算数的な勘定が入って決まるものだ。
そういったことなしに、これはチーム内で抱えたほうがあまり説明しなくて良いよねみたいな空気で決まるのだ。
たんに課長に話せるか話せないかが基準で、空気を読んで打診そのものをしないのだ。
そしてメンバーも空気を読んで仕方ないかみたいな雰囲気でミーティングが終わる。
あほか。
時間効率性や時間あたりの利益など議論にあがることなどほとんどない。
上の役職連中に文句を言われないこと、のみが価値判断の基準なのだ。
・完成度100%になるまで無駄な書類作りにおわれる
こんなの長年その上司と仕事してきた連中が有利に決まっていて、
「こんなこともわからないのか」とか
「俺も最初の3年間はつらかった」とか
「事前にねごっておかないのが悪い」とか
俺らはエンジニアなのに、こんな抽象的なアドバイスのもとで仕事が行われる。
そんなもんだから、プロセス改革が叫ばれるようになってもどこから手をつけて良いのかさっぱりわからないのだ。
だって、価値判断の根っこが上司に文句を言われないこと、なのだから。
未来の子供たちがホワイト企業に入り、豊かな社会生活を送るために俺たちはなにをすべきだろうか?
結局、俺らは我慢することが良いことだと思っている。
気の合わない他人とでもコミュニケーションを密にとって仕事をすることが良いことだと思っている。
プライベートを投げうってでも、仕事に対して責任をもつことが良いことだと思っている。
お客様は神様だと思って仕事することが良いことだと思っている。
でも、今考えている良いことって自分が我慢できるからの話で、この状況が常であることを自分のこどもに要求できるだろうか?
俺らがやっていることの延長を、俺らの下の世代もおんなじようにやっていくのだ。
俺らがやっていることは繋がって社会を作っていく。
人の権利を美醜で判断し剥奪しようとするお方様
大変申し訳ないけれど外に出て人と接することはお控えください。
いらしたとしても極力口を開かないようお願いいたします。
別に貴方の人間としての低俗さが周囲に影響を与えることをそこまで危惧している訳ではないのだけれど。
甚だ申し上げにくいですが、社会生活上の問題の一つとして提言せざるを得ないのです。
我々人類としては、一般的な思考・思想の方々に人生を謳歌していただきたいと思いまして。
しかしながら心の醜さというものは酷ければ酷いほど関わる人に哀れみを感じさせてしまいます。
人によっては嫌悪感を抱かれることもあるでしょう。心の醜い人と同じ空気を吸うことに生理的な拒否感を抱かれる方もいらっしゃるかもしれません。
楽しいはずの人生で、悲しくなったり居たたまれない思いを抱いていただくことは、我々人類の本意ではないのです。