はてなキーワード: リベラリズムとは
中国共産党のトップがリバタリアン扱いってなかなか面白いジョークだよな。
リバタリアニズム(英: libertarianism)は、自由主義思想の中でも個人的な自由、経済的な自由の双方を重視する政治的イデオロギーである。リバタリアニズムは他者の権利を侵害しない限り、各個人の自由を最大限尊重すべきだと考える。日本語においてもそのまま「リバタリアニズム」と表現される場合が多いが、本来の思想から語意が変遷している「リベラリズム」と区別する意味で、単に「自由主義」と訳されることはあまりなく、完全自由主義、自由至上主義、自由意志主義、古典的自由主義など多数の邦訳が存在する。しばしば新自由主義、市場原理主義と同義で使用されることもある。またリバタリアニズムを主張する者をリバタリアンと呼ぶ。
132:名無しさん@涙目です。(茨城県):2011/08/17(水) 06:58:08.02 ID:mhxMJbnw0
「この国は中途半端な社会主義なんです。だから中途半端な人間が生まれてくる。
我々は自由主義をえらんだんだから、自由社会にすべきで、それはイコール競争社会なんだから
下流にいれば飯が食えなくなって野垂れ死にするしかない。」
「実際に靴売る末端の連中なんてバカがいい、バカでも売るだけならできる
こちらが出店し仕入れマニュアルの中に組み込めばOK
某経済誌より
「単独でアパート借りるとか考えるから敷金の問題が出てくるわけで、ネットで探せば今や4人とかでルームシェアしてる事例はいくらでもある。
それくらいの人数であれば最初は敷金・礼金を分割で払うことで他の人にお願いすることだって可能だろうし、6万/月より安く住めるだろ。
俺だって学生の時は友達と月11万のマンションをシェアして5.5万/月だった。あの頃のほうがまだバブル覚めやらぬ時代で家賃も高かったぞ。ちなみに文京区。
それすら払えないなら友達んところに転がり込めばいいだろ。
なんていうと、反貧困派のやつらは、それができないから困ってるという。タメがないとか言い訳してさ。
こぎれいにしてれば友達くらいできるだろ。このブログ書いてる人みたいなのが甘やかすから図に乗るんだよ。」
161:名無しさん@涙目です。(チベット自治区):2011/08/17(水) 07:02:31.51 ID:R5gZfkzz0
>>132
>下流にいれば飯が食えなくなって野垂れ死に
これいいよね。努力はイヤだけど野垂れ死ぬのもイヤだというヤツが暴発するような世の中になって欲しい。
174:名無しさん@涙目です。(チベット自治区):2011/08/17(水) 07:04:25.38 ID:34UeNRGY0
>>132
全く正論だな
330:名無しさん@涙目です。(dion軍):2011/08/17(水) 07:32:33.15 ID:7ZQGzBS60
>>132
>>我々は自由主義をえらんだんだから、自由社会にすべきで、それはイコール競争社会なんだから
まあ選んだのは俺らじゃなくて前の世代だけどな
それでも、こいつらが正しいってことは同意
358:名無しさん@涙目です。(愛知県):2011/08/17(水) 07:38:38.76 ID:o2ObEnAG0
いや全然正しくない
>下流にいれば飯が食えなくなって野垂れ死にするしかない。」
また生活保護法は国民の代表である代議士によって立法されている
競争原理が存在するだけでそれには一定の調整が図られているだけの話
それが現代のリベラリズム
370:名無しさん@涙目です。(チベット自治区):2011/08/17(水) 07:41:11.48 ID:GG/24grH0
385:名無しさん@涙目です。(愛知県):2011/08/17(水) 07:44:39.95 ID:o2ObEnAG0
まったく具体性がない
批判したいなら具体的にどうぞ
396:名無しさん@涙目です。(チベット自治区):2011/08/17(水) 07:46:27.29 ID:GG/24grH0
通じないなら、その程度だな
kogemayo氏は個人の精神的自由を原理として掲げて、ロリペドだろうがなんだろうが個人の自由だしそのための不都合は社会が保障すべきって立場らしい。
だがこれはリベラリズムではなく、リバタリアニズムの自由原理と、リベラリズムの社会保障をどっちも欲しいという話で、まあそりゃ実に都合のいい話ではある。
しかしリベラリズムのいう「社会」というのは四次元ポケットを持ったドラえもんではなく、結局個々人が合意のもとに構成するものなので、税金を集めて公的機関を作って、というある程度の「個人の自由制限」が前提となる。
したがってkogemayo氏の論は成立しないわけ。
自己責任論って結局、「力は正義、弱いものが強いものに虐げられるのは仕方がない」っていうリベラリズムなわけじゃん。
そういうマッチョイズムを信仰する「傷つけられるのがいやなら見るな」系の人たちが、自分たちより強大な力(公権力)から、「(弾圧されるのが)嫌なら見るな」と抑圧がきた途端「抑圧いくない」とか言い始めるのってすげーダブスタに見える。
抑圧されてる側が、力さえあれば抑圧してもいいという勢力に対抗する手段としてもっと強大な力に頼ろうとするのはすごく理にかなったことじゃないの?
普段から被抑圧者の権利に敏感で保護しようとしてる人たちが自分たちへの規制にも抵抗するなら分かるけど、自分は他人を抑圧しまくってるけど自分への抑圧は嫌だって何の冗談だと思う。
そういう人たちはそのダブスタに気づいてんのかな?
それとも自分の最大利益を考えたら自分の他人への抑圧は肯定して他人からの自分への抑圧は否定するのが当たり前!とか開き直ってんのかな。
法的な問題が解決したら後は個々人が勝手にやる問題以外の何だと言うんだ
それで不足が発生するならまだ法的な不備があるというだけだろう
個人的には妻の方が後から旦那の姓に変えるといった対応も出来た方がいいとは思うがね
なんか反"フェミ"というか、ミソジニーというか、そっち方面の人はえらい勘違いしてるけど、選択的夫婦別姓は夫婦別姓の推進ではないよ
それぞれの信条に対して国家が介入しないというのは自由主義というかリベラリズム的には鉄則。だからその家族や親族が同姓であるべきという信条を持っているならその自由意志も尊重される。親族ウザくてどうしても同姓が強制されるなら親族と喧嘩するなり手を切るなり勝手にやれよ。親族と揉めるとか言い出したら仏壇一つでも揉めまくるっつーの。それこそ自己責任だ。知るか。そんなものは当然不介入だ。
http://anond.hatelabo.jp/20100127001517
さらにヴァージョンアップさせるとこうなる。
492 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2009/11/02(月) 21:50:41 ID:i3F0bPCb0
http://h.hatena.ne.jp/hokusyu/9258649500411272639
http://b.hatena.ne.jp/entry/h.hatena.ne.jp/hokusyu/9258649500411272639
ただ、あらゆる「水からの伝言」に対して科学の知識の不備といいだしかねない人はいそうですが。
それから、ネットにおける「水からの伝言」の議論が、科学の観点から、
テクニカルな問題として「水からの伝言」は可能かどうか、という議論に偏りすぎていたので
そのような危惧を抱いたということもあります。
それが政治的対立であることが見落とされてしまうと、「水からの伝言」に反対することがたとえば
科学の文脈において正しいのだ、とされている「水からの伝言」反対派のコンセンサスの中で
(それは正しいとも間違ってるともいいませんが)、「水からの伝言」に賛成する立場が、単なるレベ
497 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2009/11/03(火) 08:44:29 ID:fW9YdK1iO
北守はアレだな。
まず最初に子供じみた正義感があって、そこにテンプレで知識を肉づけしてる。
だから同じ理屈で正反対の思想でも単語を入れ替えたらそのまんま擁護できる。
結局は内実がないというか、童貞が集まって「理想の女の人はどうあるべきか」を語ってるレベル
これじゃあ他人に対して影響力なんか及ぼせるわけがないんだが…
社会不適合者だということは十分自覚してるよ。だからこそ、この国で真のリベラリズムが実現する日を待ち望んでいるんだ。
ま、そんな日が来るのは当分先みたいだけど。
世界的に広がる奇妙な禁煙運動と、急速な制度の整備はいったい何なんだろうか。
喫煙者差別は、ゲイ差別や女性差別と何ら変わらない構造を持っている。分煙すりゃいいじゃない、分煙すりゃ。
最初は「タバコは非喫煙者にも害を及ぼすから」ダメだといわれてたのに、でかい庁舎内のどこにも喫煙所がなくなったほど分煙が進んだ今「タバコは健康に悪いから」ダメですよ。アホですか。それだったらコレステロールの多い牛肉とかもダメですよ。酒も禁止。ていうか野菜以外食ったらダメ。もちろん目と頭に悪いテレビなどもってのほか。国民には毎日2km以上のウォーキングを義務づけるべき。 車とか超だめね、事故で年間何人死ぬと思ってんだ。
身体の健康を促すならさ、知的健康も促してほしいよね。数学できない人は法律で禁止するとかさ。あと美的健康。デブとブスと年寄りは禁止、とか。それだったらみんな怒り出すだろうが。
「ダメだよ。頭に悪いから。で、どうしてタバコを吸ったらいけないの?」
「個人の健康に悪いから法律で禁止する」なんてのは、リベラリズムとは間逆だよねぇ。自由の国の人たち、何してんだろう? 21世紀の新しい宗教でも作ろうとしてるんだろうか?
自由主義、リベラリズムの骨格は、ありていに言ってしまえば「共同体(他人)に迷惑がかからない範囲で、全てを個人の意思で決定する」ということなんですよね。
SMするのも結構、ゲイもok、悪趣味な画像を集めていても問題なし、もちろん部屋でタバコを吸うのもいいし、オタクっぽい本を読んでもいい。それが自由主義ですよ。
それを言い出すと、はてブや増田ならいいの?という突っ込みを入れたくなるんだが。
追記:
つうか、一部にせよ、大した話でもないのにあんだけヒステリックつうかアジテーショナルにブチ切れてる人間がいると正面切って反論はしにくいよ、正直。だからいいとか悪いとかはまた別の話だろうけどさ。
追記2:
東さんが道徳家でないのは「まー、そうだよな……」という感じでスルーしちゃいますが、求めることも不可能ではない。でもそれはリベラリズムの批判にはならんと思うのでした。
「Apなんとか」っていう表現自体が人格批判を含意してしまっているから、この意見全体が意見に対する半数じゃなくて人格そのもののあり方に対する批判という形を取っていると見られても仕方がない状況だよねー。
まっとうな論評だと思うんだが、この程度で深読みして人格攻撃呼ばわりってどうよというか、「だよねー」ってのは誰に同意を求めてるんだか。
はてサと東さんの問題を見て思ったこと。Twitter上で「はてサはこれだから」とかDisりまくってるのにもかかわらず自分のブログ上では仲良くなれ合っていたり、問題をまるっきり無視しているやつが多い。
そういうのって倫理的にどうなの?って思うわけよ。別にオフ会で悪口を言うならまだいい。でも、Twitter上で書くというのは、普く大衆に見られる可能性を前提としているわけだから、そこに人格批判的な内容を書くのは一種の暴力だと思うのよね。それも、完全に公開された形で書かれるよりもより薄汚い暴力。
まあ、とりあえず例でも見てみよう。
@Ruy_Blas Apなんとかの人はともかく、有村さんは思想家にすごく道徳を求めてますね。東さんが道徳家でないのは「まー、そうだよな……」という感じでスルーしちゃいますが、求めることも不可能ではない。でもそれはリベラリズムの批判にはならんと思うのでした。 *Tw*... 約6時間前 from Twit in reply to Ruy_Blas
これはtricken(id:gginc)っていう人のポストだけど、もう「Apなんとか」っていう表現自体が人格批判を含意してしまっているから、この意見全体が意見に対する半数じゃなくて人格そのもののあり方に対する批判という形を取っていると見られても仕方がない状況だよねー。まあ、ブログ名に「Inc」ってつけちゃうくらいの人だから仕方ないか!!1
@tricken リベラリズムの求める強靱さに,リベラリストが耐え切れていないのがなんだかな,と。特に左翼の Apeman や y_arim さんほかの傲岸ぶりはもう本当におまえら黙れと。... 約6時間前 from Twit in reply to tricken
で、まあRuy_Blasっていう生意気な東大院生のリプライ。陰でぐちゃぐちゃ言っていて、ブログのトップページでは「荒らさないでください」って書いちゃう中二病患者こそが「黙る」べきなんじゃないのかなあ?あるいは、君が「黙れ」というなら、そんなところでぐちゃぐちゃ言ってないで、真正面に出てきて言うべきでしょ?
東さんはとりあえず、乙としか言いようがない。団体交渉とかあのノリで楽しそうにやってたんだろな。... 12:38 AM Dec 14th from web
何も知らずに言うのはkonatyanという自意識過剰患者。この人は
私、哲学やれる法学やれる経済学やれる(トマスからの研究は既にフォロー済み)科学哲学やれる、人文科学?認識論で十分。というか、神学は今後の学問の教養のつもりで四年専攻したし、正直学問する連中は皆私の道を通らなければ可笑しいし間違っていると内心は思ってる。言っちゃったw... 約7時間前 from web
といっていて、もうフランス革命における法学のコペルニクス的転回とか経済学における二十世紀の限界革命とか何も知らないのによく言えるよね、君の言ってるのは哲学が全ての学問だった頃のそれだよ、ってツッコミをあげたくなるけどまあそういうこともわからずに自意識を強くして言っている子、それがkonatyan。っていうか、そんなに頭がいいんだったらあそこの大学に入らないでもっといい大学に入ればよかったのにゲラゲラゲラゲラ。後この人って確か前の南京論争か何かの時「いい加減ウザいので介入する」っていって介入して、id:hokusyuとかにフルボッコにされて二週間くらい日記をプライベートモードにした過去があったりするんだよねー。強い自意識があるって大変だねーワラワラワラ。
ということで、今日は3人をあげてみましたが、同じようなことをやってるやつはちゃんと真正面から人格ではなく意見を批判するように。人格を批判するやつは、俺がおまえの人格を全否定することをもって反撃してやる。
# 2008/12/12(金)
開設日 2005年02月02日
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開設日 2006年02月09日
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開設日 2006年05月02日
増田では概ね有意義な反応が尽きたようなので、戦闘的でも粘っこくもなさそうな方に試しにトラバ。
http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20080814/1218670547
さて不謹慎な表現など多々あるかと思うけど、以下に私的な疑問・論点をまとめます。
時間掛けて経営学や医学や倫理学や歴史学を学んでたら、軽くクリアーできる論点・誤解もあるかも知れないけど、その他も含めてご容赦を。
●論点1 トリアージを「極限状態」と呼んで忌避するが、何を以て「極限」と呼ぶのかが恣意的だと思う。
●論点2 「極限状態」という一種のフィクションを前提としなければ、ナチスはホロコーストを行わなかったのだろうか?
●論点3 「資源の有限性を前提にするな」と言うけれど、実はこの世界ではあらゆる物が有限だったりする。
●論点4 経営学はそもそも社会全体について語る学問なんだろうか?
●論点5 トリアージに関連して「他者性がない」選択と言うけど、その「他者」の扱いも恣意性を含んでいるのでは?
●論点6 トリアージを「全体主義的な決定」「悪しき決断」と言うけど、平等な個人の自由な契約という所からも基礎付けられないだろーか。
●論点7 むしろ平時に「かわいそう」の論理を追求する方が、長期的には「かわいそう」な人を増やすのではないか。
●論点1
トリアージを「極限状態」と呼んで忌避するが、何を以て「極限」と呼ぶのかが恣意的だと思う。
たとえば、短い時間で選択を迫られるという意味でなら、(汚い例で恐縮だけど)映画館で上映開始数分前に便意を催し、
そこで素早くトイレを済ませるか、そのまま2時間前後我慢するかなど分単位で決断を迫られたりとか、
あるいは語源となる(らしい)コーヒーの選別作業など秒単位で決断を迫られる行為が、実は日常でもよくある。
もちろん時間以外の資源をモノサシにする場合も同様に議論を進められるはず。
つまり、時間等の量的な制約をその条件とするのであれば、いわゆるトリアージ以上に「極限状態」とみなせる
選択はいくらでも存在することになり、なぜトリアージだけを取り上げて「極限状態」と呼ぶのかがわからない。
そして呼ぶだけならいいとして、そこに殊更特別な意味を見いだそうとする行為には恣意性が入って来ないか?
明確な基準がなくはっきりしないせいで、そうした疑問が浮かんでしまう。
もし資源制約等々を最初から全部取っ払って、人の命を「切り捨て」るプロセスを指し「極限」と呼ぶのであれば、
蘇生行為の中断や、人工呼吸器の取り外し、あるいは脳死判定?など、(当事者にとっては非日常ではあるものの)
平時の医療行為の中にもそれらは存在する。これらはいずれも倫理学的検討に値する問題ではあるんだろうけど、
今回の問題意識とはずれているのではないかという気がする。なぜなら、経営学講義中の「資源制約下の選択」
というトピックで取り上げる事は難しいと思えるから。よってこれも不適。
ここからはさらに妄想。そこで「資源」の意味をもう少し拡張し、技術水準まで含めるとしたら?
現代医療で人工呼吸や蘇生や脳死判定が要請される重態の患者でも、実は簡単に救えるほどの医療技術が
遠い将来いずれ誕生する事を想定すれば、それらの現場を「極限状態」と呼ぶ事も可能かも知れない。
けれど何事も有限なこの世界で、資源の有無は所詮相対的な問題でしかないから、逆に心臓マッサージも知らない
ような時代まで遡れば、現代医療は「極限」でも何でもなく、相対的にかなり恵まれた状態だとさえ言えるかも知れない。
だからこの妄想理論も、当然すぎるほど当然ながら、使えないよね多分。
●論点2
「極限状態」という一種のフィクションを前提としなければ、ナチスはホロコーストを行わなかったのだろうか?
トリアージの現場では、住所氏名年齢性別人種思想信条宗教経済状態等ではなく、たとえばSTART法に
代表されるように、あくまで症例とその喫緊性を判断材料にして、医療資源の配分が決定されて行く。
そこでの個人は、生存者の最大化という観点から、同じ人間同士限りなく対等に扱われると見ていいはず。
他方、ナチスはアーリア人種なんかにとって、異民族共産主義知的身体的障害者等の存在が有害だと
訴えてたわけで、その排除は平時であると有事であると問わず、進行していたんじゃなかろーか。
不謹慎な言い方をすれば、対等ならざる「異分子」の排除は、保健所の動物駆除のように、
生存権や私有財産権その他の人権を持たざる者と扱った上で、粛々と進められたんじゃないかなと。
また日本や北欧等でも障害者・社会的弱者の断種手術が進められたけれど、これらも特に有事であるからと
行われていたわけではないはず。社会ダーウィニズムや通俗的な理解によって「市場原理主義」など(あるいは
「原理主義的資本主義」?)と呼ばれる淘汰のプロセスは、ある緊急時の必要に応じて進む(進められる)
と言うよりは、むしろ長期的に徐々に着実に進行していくモデルだと考えるのが妥当だと思う。
そして比喩としての「極限」的危機のアピール自体は、かつてのワイマール共和国を含む(民主主義・非民主主義問わず)
あらゆる国家で行われる、支持者獲得の為の常套戦略で、たとえば、核戦争や原発メルトダウンの恐怖を時に過剰に煽るのも、
類似の行為と言えるのでは?ナチスに特徴的な行動として取り上げるのは些か困難じゃないかと感じる。
以上の点から、トリアージを差別的な(どころか相手を人間扱いしていない)ホロコーストとなぞらえるのは
間違いであるし、また仮にトリアージが「極限状態」の選択であると仮定しても、ナチズムやホロコーストとの
同質性を認定するのは恣意的だと考える。トリアージの普及推進や例示がホロコーストと地続きである、または
そうした考えを広げるというのは、不謹慎である事を除いても有益な議論とは言い難いはず。
そもそもホロコーストの最たる物である絶滅収容所等におけるユダヤ人殺害は、ナチスドイツの
敗色が濃厚になった戦争後半期にかえって加速していたようで、一般的な意味で言う有事への対応や
資源の最適な配分という意図からは、どうも外れた感が強い。元々戦場の論理とは別物なのでは。
●論点3
「資源の有限性を前提にするな」と言うけれど、実はこの世界ではあらゆる物が有限だったりする。
トリアージの現場においては人員物資設備等の制約がボトルネックとなっているけど、そもそも人員物資設備等が
無限であれば、トリアージはもちろん企業経営の探求や経済学的考察など、資源の効率的な配分を研究する
学問・営為は生まれなかったはず。経営学や経済学をはじめ、多くの人間の知的営為はその濫觴において、
現実世界の資源の有限性を前提としており、その有効活用を目的としているわけだから。
たとえば、市場メカニズムの根本を支える価格シグナルは、財やサービスの需要と供給によって決定されるけれど、
供給無限(商品の物量だけでなく運搬供給設備やそれらの生産性等も)であればその価格はゼロとなり、
人は欲望の尽きるまでそれらを蕩尽するはずだが、もちろん現実はそうじゃない。一見価格ゼロに見えても
広告販促込みだったりして誰かが費用を負担しており(そのままでは持続可能ではない)、いずれにしても
「価格」の存在は、資源の有限性がこの世界に付き物だという事実を、端的に示していると言えるわけ。
またたとえば、かつて環境問題が今ほど注目されなかった時期には、社会的制限が存在しない中で
工場は排煙を垂れ流し放題だったけど、現在では空気ですら無限ではないというのが、環境問題を認識する
あらゆる人間の知る所で、その為に各種の環境規制や課税が行われ、少なくとも先進国では、工場経営者も排煙その他の
公害原因の扱いに注意を払うようになっている。逆に各種エネルギーに補助金(それは低い技術水準とワンセットだが)を
与えている中国やインドなどは、その凄まじい蕩尽によって資源の国際価格高騰や各種公害の原因としても台頭している。
以上のように、資源が無限か有限か(≒価格がゼロか否か)は、その資源を効率的に扱うインセンティブを決定している。
そして、およそあらゆる物に価格や税金、規制が付きものなのは、それらが現に有限だからに他ならず、
経営学・経済学・トリアージはもちろんとして、多くの人間の知的活動はその資源制約によって発展・流転を促されてきた。
よって「資源の有限性を前提にするな」という主張は、現実を無視し多くの知的活動を否定する行為に等しく、場違いな指摘だと考えます。
有限性の前提や資源の効率的利用・効用最大化と言った考えがナチズムへとつながるのであれば、必然的にこの世の
学問・営為・制度・生活習慣は、その多くがナチズムの眷属となり、今回の件を特別批判する意味は限りなく薄まるはず。
●論点4
上と関連して。経営学はそもそも社会全体について語る学問なんだろうか?
経営学と経済学は、もちろん共に資源制約の下での効率的利用を目的とするんだけど、後者が主に
社会全体の効用最大化を目指すのに対して、前者は時に社会全体の効用をかえって損なう決定を推奨しかねなかったりする。
既に上で述べた環境問題における企業行動が典型例だし、あるいは独占や寡占の追求、他企業とのカルテル、
最近も相次ぐ情報の非対称性を悪用した偽装問題など、企業は時に利益追求という存在意義に忠実なまま、
社会全体の最適化からは逸脱しちゃう場合がよくある。そうした行為には違法な物からグレーゾーンまで何でもあり。
他に経済学の概念上でだけで考えれば、ブランド構築・製品差別化、特許等の独占的使用販売権の取得等も、
完全競争を避ける狙いから行われる、社会全体の最適化に反した行動とみなせる。もちろんこれらの場合は
消費者や社会の利益となる場合もあるんだけど。ともかく経営が目指すのは本質的に部分最適・部分均衡なわけ。
このように企業はいろいろな経営的実践を通して、市場における競争を避け、超過利潤・独占利潤を得ようとする。
それに対して、各種公害規制や独占禁止政策・不正競争防止、情報の非対称性の排除などを通じて、市場メカニズムの
健全な作用を維持し、また時に所得再分配を考慮し、社会全体の効用最大化を目指すのが、一般的な意味で言う経済学の使命。
つまり、別々の学問として定立している以上当然なんだけど、経営学的実践における「全体」と、
経済学的・政治的・社会的実践における「全体」とは、多くの場合かけ離れているんだね。
よって、(仮に)経営学的営為の例としてトリアージを取り上げる場合でも、それらが一般的な意味で言う「全体」、
社会や国家全体に敷衍されて適用される恐れがあると考えるのは、学問の目標を見誤った、飛躍を含んだ主張じゃなかろーか。
●論点5
トリアージに関連して「他者性がない」選択と言うけど、その「他者」の扱いも恣意性を含んでいるのでは?
既出のようにこの世界のあらゆる物は有限であり、ある選択は必然的に他者の選択を制限してしまうのが世の常。
だからたとえば、日常の買い物で財布の中身と照らし合わせながら商品を決める(予算制約下の最適化行動)裏には、
売り上げ好調で繁栄する勝ち組企業と同時に、売れない商品を作って経営不振に陥り、場合によっては
倒産する「かわいそうな」負け組企業の存在があったりする。ひょっとしたら「切り捨て」られたその経営者は
自ら命を絶ってしまうかも知れない。その他日常ありふれた選択が、当然のように多くの他者の運命を決定している。
政治上の決定で見ればもっとわかりやすい、再分配は必ず財源を必要とする。
たとえば公共事業を削ればどうしても倒産は増えてしまう。増税だって薄く広いだけで景気を落ち込ませずには居られない。
以上のように考えれば、無視出来ない他者の範囲は空間的・時間的に際限なく広げる事が可能であり、
トリアージだけを取り上げ、その「他者性がない」側面を強調する行為には、恣意性が含まれているのではないかと。
●論点6
トリアージを「全体主義的な決定」「悪しき決断」と言うけど、平等な個人の自由な契約という所からも基礎付けられないだろーか。
仮に「災害時に被災・負傷し、物的人的制約のある災害医療の拠点に搬送された場合にどのような治療戦略を望むか」
という契約をあらかじめ(被災時に意識を失えば意思の確認が出来ず不公平なので)交わすとすれば、
そして公序良俗に反するという立場から、金銭などの代償を対価とした優遇や、自己犠牲を禁じ手とすれば、
自由かつ平等な個人は、期待生存率を最大にする為=自分自身の為にトリアージを選択する権利を行使するはず。
これが全体主義国家ならマイノリティは放置され、地位や能力のある者の治療を優先させられるかも知れない。
よってトリアージは「みんながひとりのために」でも「ひとりがみんなのために」でもなく、
「ひとりがひとりのために」という個人主義をベースとした選択と考える事も十分可能だと思う。
また自分の命が常に他者の命と可換であるという強い認識が働くから、他者認識がないという批判も的外れとなるはず。
(ちなみに治療従事者自体はロボットだって構わないわけで、その他者性認識を問題にする意義は仮想の話の上では薄いと思われ)。
以上はリベラリズムの基本である無知のヴェールのアイデアを多少拝借した物。
無知のヴェールとはリベラリズム上の社会正義のあり方を考える思考実験で、それを被された者は他人はもちろん
自分も含めたあらゆる属性・・・住所氏名年齢性別人種主義主張経済状態等々・・・がわからなくなってしまう。
その状態で、各個人は自身の利益も含めもっとも望ましく公正な社会の条件を考えてみよ、というのが実験の中身。
で、リベラリズム上の議論においては、その条件の下で「格差は最も弱い立場の人々の効用を最大化する目的でのみ正当化される」
という「格差原理」が導出される事になっている。では、トリアージの現場において、それがどのような人々に当たり、
かつその条件の下で選択要請される治療戦略とはどのような物になるだろうか、ちょっくらこれを考えてみる。
まず被災患者を症例・緊急度により以下のように分ける。
A.所与の医療資源・技術では、どれだけ治療を施しても亡くなってしまうとされるグループ(START法では黒いタグを付けられる)
そして以下のように選択可能な治療戦略が提示されているとする。
1.治療を受けられない人は「かわいそう」だから「公平に」症状は無視し、医療資源を人数分で割って全員に割り当てる「平等戦略」
2.治療を受けられない人は「かわいそう」だから「公平に」症状は無視し、各人へのくじ引きで割り当てを決める「機会均等戦略」
これら5つの内であれば、各人は全体最適など考えずとも(それを考えるのが完全な悪というのもおかしいんだけど)、
個人の利害に触発されて、自由かつ平等な権利の下に、最も自らの期待生存率の高い4のトリアージ戦略を選ぶはず。
ではその場合の「最も弱い」人はどの患者グループなのか、その効用はどうなるのかを不謹慎な表現も交えるかもだが次に検討。
もし医療資源を注ぎ込んでも「ほぼ」助からない黒いタグ、この場合グループAの患者だとすれば、どのような治療戦略においても
「ほぼ」死亡という結果に終わり、効用は「ほぼ」不変=「ほぼ」常に最大だからトリアージを選ぶ事は「ほぼ」許容される。
次に死亡状態とみなされる人ではなく、助かる可能性はあるが治療を必要とする赤や黄色のタグ、グループBに含まれる患者を
「最も弱い立場」とするならば、トリアージによって最も手厚く医療資源を配分される事になるから、やはり許容範囲となるはず。
問題はもちろんグループAについての「ほぼ」の取り扱い。技術水準の問題として閑却する事も話の上では出来るんだけど、
(前にネタのした時は確実に生存率を判定出来ると仮定したので簡単だった)、現実のトリアージではそうは行かない。
ただ、いずれにしても確率的な選択を強いられるのであれば、やっぱり4のトリアージ戦略しかないと思うんだけどね。
あと検討の順序が逆だったり、戦略や条件の設定の重複・恣意性等あるけど、まあ素人なんで大目に見てくださいな、と。
基本的には無知のヴェールまで降りて議論するまでもなく、最初の期待生存率+公序良俗の「治療戦略選択契約」の話で
大体OKと思うし、そこで「全体主義的」なる批判はシャットアウト可能だと考えてます。よってここらでこの論点終了。
字数制限でhttp://anond.hatelabo.jp/20080817193711へと続きます。目障りでごめんなさい。
もう少し慎重に議論してくれないかなあと思うんだけど、こればっかりは相手のある事なので。
http://anond.hatelabo.jp/20080814225028
>それは文句を言うべきところじゃないからなあ。
この場合はどっちでもいいんだよ。説明したようにね、トリアージのオプションとして扱えるから。
まあ本来は無知のヴェール妄想で崩れている批判なんだけどさ。それで実は後の批判も崩れるはず。
これはこちらの例えを最初から何も理解していないと反応だと思うなあ。(この誤解のせいで一般的云々って話をしたのかな?)
トリアージ(自己犠牲オプションを含めた)こそが、全体ではなく各個人それぞれにとっての最適戦略だという話だよ。
多数決ではない、自由かつ平等な個人による契約ベースの話。たまたまそれがみんな一致するというだけ。
最初に「契約」と打ち出したのを見逃さないでほしい。政治体制ベースなら全体主義も民主主義も同じだよ。
で、以下は「トリアージがリベラリズムに基づいた自由かつ平等な個人の選択の結果」ではない場合にだけ意味のある議論。
>いやhokusyuがここんとこかなりしつこく言ってんの、まさにこの論点だと思うぜ?
だからそこが根本的に間違ってるという話だよ。まあウ○コが例えで申し訳なかったけどさ。
>現場のトリアージではなく、福耳先生がトリアージの論理を経営学一般に敷衍すること、をこそ批判してるんだから。
極限や常態という論点とどうつながっているのか分からないけど、トリアージ自体は経営学的発想の応用だよ。
少ない資源(時間、労力、物資)でいかに成果を出すか、その点でトリアージについて知的に考察・言及したり、
普及を図ったり、もちろん実践をする事自体が経営学的な営為でもある。特に実践は高度の管理技術が要求されるよ。
もちろんそうでない、3分でトイレを済ませるかどうかというのも経営学的発想の応用だけどね。
そもそも百貨店のように経営ってのは、それを行う主体があくまで全体の中の一部であるという大前提がある。
だから経営学によって、何か社会全体が最適化されるというような発想は、殆ど辞書的な意味での経営学を
理解していないに等しい。というのも、経営ってのは場合によっては全体最適じゃない行動も行う物だから。
他企業とのカルテル(明示的、暗黙的)や巨大合併はその典型だよね。その辺は別にも書いたけど。
あとそもそもの百貨店なんて一地域にせいぜい数社しかない、これは典型的な寡占と言える。
それに偽装や手抜きと言った罰則のない所での脱法的な活動とかも。つまり、経営学的発想には本来全体最適なんて頭にない。
だから、経営学的実践たるトリアージの普及啓蒙や実践に当たっている人を、あるいは経営学の授業で
それを例として挙げた人を取り上げて「命の全体最適化を目論むナチスと同類だ」なんて言うのは、
単に知識がないのであればまだ恥ずかしいだけだけど、侮辱的意図を持って行われたとしたなら
大変なスキャンダルだと思うな。
>冷たい足切りもするけど時に人情で判断したりもするのが生身の経営者だろう。
何か話がズレてるよ。要するにどんな選択も言いようによっては極限状態だって事。そこを否定しないと。
それにそちらの論法を借りれば、トリアージの現場でだって自分が恨みに思う相手が搬送された場合に、
本来は赤や黄緑に分類されるのに、黒のタグをつけちゃう不届きな医療班がいるかも知れない。
そういう人間は、経営努力を怠った企業経営者が、市場の裁きを受ける可能性が高いのと同様に、
場合によっては司直の手に委ねられる事になる可能性はあるが、ありえない話ではないよね。
ただし、そうした情実等によるノイズがあるにせよ、基本的にはそこで営まれる行為には一定の目的や法則性がある。
経営判断であれば利益を出す事だし、医療現場であれば患者を救う事。映画館であればウ○コではなく映画を見る事。
例外は原則を揺るがさない。
前にもここで誰かに同じ事を言ったんだけど、相手の文章を良く理解せずに、食い下がりたそうな点にだけ食いついたり、
あるいはフレーズをリピート状態にしているだけのようなレスは、迷惑だから控えた方がいいと思う。
某所で無意味に暴れている人達がいるのは、まさにそういう態度を巡って意固地になっているからなんだしさ。
http://anond.hatelabo.jp/20080814222650
はは、いいねそれ。既に盛れている人は自主退館すんじゃないかな。
それって要するに「男は氏ね」と言っているも同然の差別思想だと思うし、
今どれだけ一般性を持っているかはちょい疑わしいかな。それに20世紀前半のような時代でも、
骨折した子供と火傷塗れの男性がいたとし、普通なら男性の方を助けろと考えると思うはずだしね。
仮にそうでないとしたら、功利主義の暴走ならぬ倫理主義の暴走と言い切っていいんじゃないかと。
でまあ、言いたいのはそういう事じゃなくて、元記事の考えは全体主義ならぬリベラリズムの超基本、
無知のヴェールのアイデアを素人なりに拝借したものだということ。老若男女その他、他人はもちろん
自分の属性すら全くわからない状況で、どういった選択肢を選ぶかという話で、だからあなたの言う
ところの「一般的な」差別的価値観というのはノイズが多すぎて排除される。
そこでは格差原理っていう「格差は最も弱い人の効用を最大限に保つ目的でのみ容認される」という
ルールが導出されるんだけど、問題はトリアージにおいてその「最も弱い人」が誰なのか、だよね。
不謹慎な話になると思うんで気になれば以降の文章はシャットアウトした方が、精神衛生上良いかもしれない。
もし治療資源を注ぎ込んでも助からない黒いタグ、カテゴリー0の患者だとすれば、どのような治療戦略に
おいても死亡という結果に終わり、効用は不変=常に最大だからトリアージを選ぶ事は許容されるだろう。
次に実質的に死んでいる人はカウントせず、助かる可能性はあるが緊急の治療を必要とする赤いタグ、
カテゴリーIの患者とするならば、トリアージによって最も手厚く治療資源を分配される事になるから、
やはり許容範囲となるはず。黄色や緑のタグの患者は検討するまでもないね。
というわけで、「ひとりがひとりのために」の個人主義的、自由主義的、リベラルな条件でも、
##追記;
##当ブログの後半に、自分なりのまとめも書いておきましたので、良かったらどうぞ。
##昨日書きたかったけど眠たくて落ちてしまい、書けなかったことを書いたので。。。
##これを読む人達に、一番伝えたいコトだったんで。
を書いた増田だけど。
ブクマが沢山ついてびっくりした。
でも、良く考えれば、エホバの証人って自分を語る人は少ないはず。だって、自分が書いたように、宗教討論なんて避けるからね。
「あなたの信条を聞きたい」って人には喜んで話すけど、「俺の信条を聞いてよ、君はどう思う?」って言ってくる異教徒には警戒モード、防衛モードに入り、あわよくばその場で心の中で「神よ、試練に耐える力を私に下さい」と祈り始める(※本当です。二世なら解るよな?な?)人達なので。
それを、変とも思わないし、当然って思ってる。そういう概念なんだから、しょうがない。
だから、おいらみたいに、ドロップアウトしようとしてる人、もしくはした人しか、こうした場で話すことはないだろうと思う。
もし、現役でこうした場で話す人がいるとしたら、かなりの幹部とか、そういうバリバリの人で、あなたの家の近所にいるかも知れない身近な人は出てこないよ。
特に女性は公の場で語るのは非とされとるんで、女性なら尚更。まず聞けないだろう。
まぁ、それはさておき、ブクマコメントに自分なりにちょっとコメント返ししてみたい。
コメ返し対象のブクマコメントは下記の二つに寄せられたコメント
討論ではなく説得(証言と言う。証言?なぜ?それは、エホバの証人=エホバの証言ってこと)はOKというスタンスなので、言い方によっては結果的に討論に応じるってことはあると思う。
例えば、「あなたが何を信じているか聞きたい」と言えばきっと証言にやってきます。
で、一通り話を聞いた後に「自分はこう思うんだけど・・・どうかな?」と言えば答えると思う。
ただ、その場合でもエホバの証人は「回答できない時は、調べてきますので今は答えれないと言って沈黙せよ」と教えられてるので、やっぱり突っ込んだ話はできないかもだけどね。
目的が「エホバの証人の話を聞く」ではなく「エホバの証人と議論したい」と判断されれば、来なくなっちゃうし。
追記:公開後に読み直しで修正している中、たまたまついているのを見つけたので、ついでにお返事書かせて頂きましたw
JWって結構明確に、リーダー(幹部)系と一般信者に分けられた扱いがある。
で、自分は幹部系で一時期はエリートか?みたいな勢いがあった。
自分みたいに若いうちから幹部系に持って行かれそうなタイプは、自分みたいに考える人も結構いるようです。
ただ、そう考えながらも慣れたら苦痛じゃないしって淡々と宗教やめない人も多いです。
自分の場合、好きな子がおかしくなったとか、そういうのなければやはり淡々とやっていたかもとは思います。
10年もやってりゃ、何でも習慣化して無意識にできちゃいますからね(家々に訪問する奉仕活動=布教活動とか)
ただ、習慣化するってのもある意味、自我が死んでると自分は考え始め、そう思った時から急激に多大な精神的苦痛を感じるようになりましたけど(自分と同じ経験は時々聞きます)
神の組織である以上、減るはずがない。減るとしたらサタンによる試練がはじまったという証拠である。つまり、聖書にある終わりの日が近いという予言が成就しようとしている!って解釈するんで、どう転んでも良い教理になっとる。
二世で脱退ではなく残るが側を選ぶ人は、一般人より組織に友達が多いってのが大きな理由の人も実際いる。ただ、そうなればそうなるほど、友達のために宗教辞めたくても続けないとあかん。
一旦信者になった後、辞めますと脱退届け(断絶と言う)を出すと、宇宙論争を知らないゆえに悪魔の側にいる一般の人より、宇宙論争を知りながら悪魔の側を自らの意思で選んだ一番最悪な奴、という解釈に基づき、徹底的な排他を受けます。
それがどれぐらい厳しいかっていうと、断絶した人と、信者は一緒にご飯を食べに行くというのも許されない。それが発覚すればその信者も警告もしくは追い出される。
で、これは親子の場合でも、可能な限り、断絶した子とは接触を避けるようにといった教理なので、二世の社会人でもない子供は恐ろしくて脱退など絶対にできないのです。
社会人になっても、幼い頃から仲良くしてた人、みんなが自分をシカトするかと思うと恐ろしいという、人間関係の恐怖心から残っている人も結構います(ソースは自分調べ)
ちなみに、組織のほうからクビにされることを排斥といいます。
行われる制裁は全く同じです。つまり、みんなで一斉にシカト攻撃。
断絶や排斥者は数年すると、「戻ってこない?私が悪かったですと認めれば復帰認めるよ」と、声をかけにいく仕組みも設けられています。
元信者だけど心はJWという人は結構多いです。あと、優しい性格の人が多いのでみんなからの一斉に拒絶されることに本気で参る人もいます。
元信者だけど心はJWという人は、何かにつけて不安定になっています。毎日毎日が罪悪感。
普段は意識してないけど、911のテロ事件をハルマゲドンの到来だと確信して、慌てて、神の側につくので助けて下さい!みたいな問い合わせが組織本部にあった・・・というのも有名な話。
ちなみに、排斥になるよーな人は3割ぐらいは、この宗教は嫌いだけど、宗教の中にいる人達はみんないい人なんだよなーって浮ついた心で居る時に、出来心で・・・とか、
うっかりミス☆(いや真意は知らんが)みたいなので、いきなり翌日に排斥措置とられて真っ青って人もいます。
そういう半端者は排斥システムで本当に参るので、以後は真面目に・・・ってこともなく、二回目する人も結構居る。
多分、不倫するようなタイプの人は何度もやっちゃうと思う。知らんけど。ごめん、この行はテキトーに書いた。
いや、その理解はちょっと誤解がある。これは自分の書き方がまずかった。面白く読ますためにちょっと歪曲してた。
「がんばってこの試練を乗り越えれば」ってのは結果であって、目的ではないんです。
詳しくは、http://anond.hatelabo.jp/20080723230708 の 回答03を参照してください。
最も、それでも結局はそゆことだろ?って言われたら、そうだねぇとしか言いようないけどさ。
現役でも目的と結果を勘違いして、マゾになる変態がいるのも一言付け加えときます。あれは見ていて最悪だった。
苦しいのは当然だ!アハハ!ってのはさすがにJWでもいかれた奴にしかいないよ。
残念ながらJWの教理上、増えることはないです。カミングアウトしはじめてる時点でそいつはもはやJWではない。形だけの奴ですよ。よってこれも、読書感想文みたいなもので、リアルタイムではないということを付け加えておきます。
そう、それをテーマにしたかったんだけど、歴史とかがテーマじゃないけど比率的に多くなってしまって・・・こうした考察を得てもらったのは当初の目的だったので嬉しい限り。結局、自分自身、その一人と言えますしね。
知らない方が幸せという言葉もあるので、プラスであるとも言えるのではないかと。実際、脱退したために一般社会の厳しさ、複雑さ、面倒さについていけず、エホバの証人にも一般の社会人にもなれない元二世も結構いる。ああ、こう書くとやっぱりマイナス面ばかりかなあ。
でも、どうして今の世は不条理なんだろうって鬱な人が希望を持つのが宗教の役割の一つではあると思うので、こういう仕組みは(宗教という性質上)しょうがないようには思います。
デメリット、問題点は同意だけど、プラスマイナスだけで簡単に片付けれない所が宗教にはあると思う。
他の具体例が、当ブログの上記で述べてる「断絶」というシステムです。
脱退自体は自由にできるようになってるんだけど、その場合の心理的制裁が半端ない。自由意志は尊重してますよ、責任は求めますがという側面は一番二世を悩ませてる性質です。自分もこれにはほんとうに克服するのに苦労した。
合わせてお読みあれ。
今度、見かけたら優しい言葉をかけてあげてください。
補足というか寝ぼけて中途半端に書きました。「リベラリズム」自体は初期より歪んだ形で持ってます。詳細は 当ブログの「断絶」の話とか、http://anond.hatelabo.jp/20080723230708 の 回答03とか。
具体的に言うと、以前より開放的に見えるけど、一方でますます抜けたくても抜けれない二世が増えているというほうが正確だったのかも、です。詳細は上記の通り。
現世救済主義は一時的に信者を増やすのには有効ですが、質の悪い信者ばかり集まります。
それで、今の世に救いはないと明言し、天国に希望持てと言ってしまう宗教もあるのかなと。個人的感想ですが。
自分の親友だった学会員も二世ですた。JWとは違う形で葛藤しとったのは印象的でした。そっちはそっちでいろいろおありのようで。
そうやね!「リング」に出てくる呪いのビデオって例えはいいね。書いたのは全体的な傾向とか、自分なりの考察や感想なんで、全てのJWがそうだとは言いませんよ→宗教論争。
ナチの件は自分はどうでもいいので検証してません。事実であるかどうかも興味ない。テキトーですんません。
そしてそれを自分の精神基盤としている人間には当然、理論で話し合うのは難しいのです。
相手の話を聞いて、相手の価値観(もはや異国の異文化同士の交流と同じ)を理解しないと、話が全く噛み合ないと思う。
あと、別に宗教やってる人間が、サイボーグな訳じゃないっすよw
人間誰だって中身は同じです。欲望を自己否定したり抑圧する人と認める人、その行為を平気な人と苦しむ人、そのあたりの個人差じゃないかな。
表情だけならいい、感情(罪悪感、恐怖心、不安感、多幸感)までプログラミングされるのは経験してほしくはないけど、経験した者にとっては本当、恐ろしい体験です。二度と味わいたくない。
彼女は結果として得た世界の一つであって、役割ってもんではないかも。勿論、新しい世界は見せてもらってるけど。
自分の場合は、医者に薬もらって休職するぐらいまで自分の精神構造を一回バラバラにした。一ヶ月寝たきりになった中で自分の精神を再構築して、客観的に見れるようになった。
役割という言葉を与えるべきなら、その時、自分が壊れそうになっても自分と向き合った、あの時の自分だと認識してるよ。
最も、二度とあんな精神崩壊寸前の経験なんてしたくないけどね。
小さい頃から、この生き方が「真理」ですと言われた場合、そうではないと考えると今迄の自分は何?という自我崩壊になる。
と言われて悪魔主義になる奴なんてのは、なかなかいない。普通に生活して幸せに生きたいって思う人間ならね。
でも、そもそも、神か悪魔か?っていう概念、何よりも二択しかない?二択?何の?この世界って何?
そのレベルまで自分の人格を分解しない限り、幼少から育てられたエホバの証人の子供は、無意味な罪悪感から脱却できない。
増田でトラバくれた、元二世のお二人(http://anond.hatelabo.jp/20080723123951 と http://anond.hatelabo.jp/20080723111359)はどちらかというと軽症だっただけと言える。
ただ、http://anond.hatelabo.jp/20080723123951 は、役に立ったと思ったり(いや、本当に役立ってるのでしょう。良かった良かった)
オフ会開いて共有してみたいと思うあたり、まだ完全には脱却できていないと推察します。
何かのきっかけで、完全復帰はしなくとも、気持ちが囚われることはあるはず。
あと、http://anond.hatelabo.jp/20080723123951が文中で書かれた「高校でグレちゃった子」の話。
こういう子は、しばらくすると懺悔して復帰する可能性が高いです。
行動すればするほど、心に埋め込まれた精神の規定を成す概念が自分自身を締め上げていくはずだから。
遅かれ早かれ、何らかの行動起こすんじゃないかな。
それか、それを否定したくてもっと自虐に走るかも。
ちなみに、俺はJWの中で好きな子つうか、仲良くお互いにしてた子もいたよ。
男でも本当にいい友達とかおった。
でも、自分の育つ時代が一番、最悪なあのスパルタ時期でさ、みんなおかしくなっちまった。
頭良くて学校でも成績優秀な子が、どうしていきなり停学になるような不良行為を起こすんだい?
俺は、俺の好きだった子や、可愛がってた子、遊んでくれた年上のお兄さん達、が否定したいけど否定もできず、
そして自分を責めるという行動にしか走れずに混乱していく様を何度も見たよ。
自分の場合は、あまりに親が厳しくしたせいか、叱られる時に、叱られる自分と、叱られる自分を見つめる自分を作るようになった。
教理にも納得する自分と、納得できない自分、色んな所で自分が体の中に二人いるそんな精神構造になった。
これ、二世ではけっこう「自分もー」って言う人、いるんだけどね。
ただ、大抵の人は、客観的な自分を肯定しないんだよね。
それを何とか殺そうと努めて、結局、自己否定になり(そりゃそうだ、その精神だって自分だもお)おかしくなったり
それは私が不完全で救いを必要する人間だからなんだわとかいう変な自己解釈(俺の両親とかキモいから解らんがきっとそうだと思う)しちゃったり。
自分の場合は、その二つなっている自分は結局、どちらも自分であり認めなければならない。
おかしいのは俺か?違うんじゃないか?と、考え始め、しかし二人の自分を一緒にしようとすると、この考えは教理に違反している!という罪悪感と、俺はこう思っているんだ!と叫ぶ自分が脳内で騒ぎ立て、まともにまっすぐ歩けなくなるぐらい苦しんだりもした。
もっとも、学校卒業しなきゃ負け、と思い、10日でノコノコ返ったけど。そんなヘタレさ、どうせ。
自分はおかしくない、俺が思うことを俺がその通りに行動するのはおかしくない。これが人間。
それをいちいち、正しいか、正しくないか?と考えて誰も見ていないのに、勝手にビクビクしたり、これは聖書ではNOとあることだ・・・と脂汗が出るのは、俺が信じているからではなく、そのように作られてるからだ。
そうやって、自分で自分にカウンセリング?リハビリして、死ね!クソ宗教!とようやく言えるレベルにまでなった。長い苦労だったよ。
だからって、必死になって幸せになりたいと思わない。
俺の仲良しだった良い奴ら、同じ宗教というきっかけで知り合えたいい奴らは、本当、みんな社会的にドロップアウトしたり、「僕も信じてないけどさ・・・行く所ないじゃん」とかいいながら、今日も宗教活動してる。
俺をこんな目に合わせたのは・・・誰だ?
とか、思って叫んだ日もあったよ。親を蹴り上げて、会衆を燃やしてしまえとか本気で考えた時もある。
でも、そんなことをしたって、何か変わるか?変わらない。
失われた時間、失われた人間関係、無くした友達、好きだった子はもう目の前にはいないんだ。
俺はもうこんな歳だ。社会的にも働き盛りであるべき年齢。
俺がここで止まっても、世界は崩壊しないし、誰も困らない。
明日は淡々とやってくる。
だから、俺はだだっ子のようにぐちぐち言わず、自分で考えて自分で行動して、自分で生きていきたい。
だが、俺は一生、親の愛情としてあなたにああいう教育したのよと言う両親を、憎む事も否定することもできず、振り上げた拳をどこにも持っていけないまま、生きていかなければならない。
俺は、ここでみんなに知って欲しい、知って欲しかったんだ。
あの家にピンポンしてくる変な宗教団体の陰で、俺みたいな奴が一人、世界中に何百万人もいる教団のたった一人の小さな存在だけど.
こうやって、静かに戦ってた奴がいたんだぜ?ってことをさ。。。
ただ、すごく疲れる人生だった。
正式に脱退できたら、彼女と祝いたい。
そして、しばらくゆっくりしたい。。。
俺は、彼女がどういう選択するかも兼ねて、彼女にも教理を他の信者を通して学んでみてもらったんだよ。
彼女は「納得できる部分というか精神的に高い志をもとうしてるのはいいんだけど、自分の望まない話になるとシャットアウトするね」とさらっと言ってくれた。
それで、俺の心の最後のつっかえはとれた。
彼女が入信していれば俺はまた苦悩してただろう。
賭けには勝った。もう俺は大丈夫だ。そうさ、俺だってね俺は一人じゃない、俺を認めてくれる人は欲しかったんだよ。
でも、JWの複雑で独特な背景を好奇心で見てはくれても、俺自身を見て、俺の背負ってきた人生の一部がどんなもんか?みたいな視点から見てくれる奴は、彼女だけだった。
貴重なかけがえのない存在なんで大事にしたい。
俺はこの決断、こういう道を葛藤なしですんなり選べるようになるまで本当に苦労したんだ。
その自分の中に埋め込まれた変な宗教の精神構造のせいで、それを取り除くのが精一杯で、友達を作るのも途中で辞めていた。
恋愛するぐらい余裕ができたのもほんの数年前だ。それまで、自分は生きてるのか死んでるのか、俺は何?俺は誰?俺の本当の気持ちはどこ?って自問自答してたよ。
宗教は否定しない。
でも、誰もそれを強要してはいかん。
何より、子供に必要なのは自分で考え人生を選んで行くための能力と機会を与えるべきだ。
籠の中に突っ込んでも死ぬだけだ。
まぁ、そんな感じ。
言いたい事言えてすっきりした。
これが多くの人の目にとまると思うとすっきりする。
いい時代になったよ。
ネットなければこんな声、絶対に残せなかったから。
日本語ではlibertyとfreedomの両方を「自由」と呼ぶけど、元エントリが指しているのはfreedom、元増田が指しているのはlibertyだね。
同じ「自由」だし、英語でも混同はあるのだけど、簡単に言うと「好き勝手にして良い自由」「好き勝手にされない自由」という感じかな。
うーん、自由という言葉の理解については同意だけど「いわゆる「自由主義」というのは前者を指す」という考え方は少し古いのではないか。
現代の自由主義/リベラリズム (英:New liberalism, Reform liberalism) は、自己と他者の自由[2]を尊重する社会的公正を指向する思想体系のこと。自由放任を基本原理とする古典的自由主義や自由至上主義とは異なり、それが人々の自由をかえって阻害するという考え方が根底にある。(wikiペディア)
現代では、この考え方がおおむね妥当だと思う。