はてなキーワード: 死刑とは
死刑執行の概要は、確定死刑囚の生命を奪うことを内容とするが、これは、法的確実性と具体的妥当性の下に、裁判官が、これ以上にない検討を重ねて
確定判決に合理性が成立しているときにのみ認められる。しかし、死刑囚に関する確定判決があるというだけでは、それが成立しているという何らの証拠もなく、
拘置所に収容されている死刑囚に対して、ある日突然、死刑執行を告知し、執行することは、個人の尊厳ならびにそれ以外の法の目的からしても認められない。
ピタゴラスが無理数を見つけた弟子を死刑にしたのを知ってるけど三平方の定理は使う、ノイマンがセクハラ常習犯なのを知ってるけどコンピュータは使う、野口英世が借金して飲む打つ買うしてたの知ってるけどワクチンは打つ
だけど生きてる人だと「あいつは最低なクズだ」と言って何を言っても聞く耳持たないし何を成していても認めない
そこは分けて考えても良いんじゃないの?
ニュースを見て。
昔は執行するよって前日に告知してたら死刑囚に自殺されたそうで、
その反省から今は1~2時間前に告知するようになっているらしいです。
へー、人間ってそういう感じなんですね。
そして今、1~2時間前の告知は「不必要に残酷」だから、もっと前に告知すべしという訴訟が起こされてるのだとか。
でも逆に、事前告知が自ら死を選ぶほどの恐怖を与えたと考えたら、
ある意味死刑そのものよりも前日に告知するほうがシビアなのでは?
という気もしないでもないんですが。
恐怖を与えるというより、恐怖を醸成する時間を与える、というか。
なにをもって人道的とするか、ですよね。
それが何日も何年も続けばやがて日常になり、
「執行はとりあえず今ではない。まだ先のことだ」と思い込むようになることで
自我を保てている部分もあるんじゃないでしょうか?
だから執行は直前に告知されるものだとあらかじめ知らされていたほうが、
ある種のあきらめによって執行までの日々を「比較的人道的」に過ごせるのでは?
むしろそんな精神状態から「1日」も死に向き合うのは単純にキツそうじゃありませんか?
などと思ってみたり。
たとえば、「毎日0.01%くらいの確率で執行するかどうかの判定が自動で行われる」とか、
ランダム要素を事前告知してたらどうなるんでしょう?
その判定を機械にやらせて、当たり(?)が出たらゴハンに24時間後くらいに効果が出て、瞬時に死ぬような薬が入るようになるだとかしたら?
それとも飢餓に耐えかねて、毒入りかもしれないゴハンを恐る恐る食べて、やがてそれが日常になるんでしょうか?
そっちのほうがいいという死刑囚もいるのではないでしょうか?
そもそも、宗教者による最後の説教をうけて絞首台にのぼりボタンを押されて死ぬというような
あからさまなクライマックスを用意するのがなぜか当然とされていますが
もともとレールを外れた死刑囚に、さらに「更生ののぞみが皆無だから死刑」なんて処遇を与えておいて、
なぜかその人に自分と向き合い人道的見地を取り戻すようなことをさせる。
というのはとても矛盾だと思うんですが?
死刑囚でなくても、死に向き合うよりも「なんだかよくわからないけど気付いたら死んでいた」ほうがいいという人は多いのでは?
自分に向き合うようなことが苦手だからこそ死刑になるような行為に手を染めた人間なのだし
だから死刑になったのに、この期に及んでなぜ人間らしさを求めるのか。
もう死ぬんだからいいでしょ?これ以上面倒なことはしたくないよ……というのが
そういうやり方を選べるオプションがあったら、
そのやり方は人道的だといえるか?
人道を外れていることを理由に死を与えられる人間に、人道に戻る義務を負わせるのが果たして人道的なのか?
などが気になりますね。
常習的に未成年者に性的暴行、死刑判決受けた男3人に即日執行 /中国
https://www.chosunonline.com/m/svc/article.html?contid=2023052580001
死刑執行にノルマが設定されている訳でもないし、死刑判決が出て半年以内に執行せよってのも罰則がある訳でもないし、逆に規定通りに粛々と死刑を執行していたら、人権後進国!恥ずべき行為!法務大臣としての資格なし!って叩かれて、それに対して政府与党が特にフォローもしてくれないんだから、法務大臣が死刑執行の判子を押す理由がないんだよな。
現状としてそこまでのことになってるんだったら、死刑制度廃止する代わりに現行犯や逮捕に抵抗する容疑者をもっと気軽に罰則なく射殺できる制度にすればいいのに。
(1) 科学の実質は、いわゆる偉いことにあるのではなく、 古典的で制限的な生活の中における集中によって確実な真理を確定させ、それらの間に美しい関係を精神活動によって
発見し、成長していくという常識にすぎない上、人生の意義は、生きることにあって、生きた結果ではないことは、ゲーテがつとに言っていることであるから。
(2) 現在の東京都民やバクサイの労働者は、人生の意義は生きることにあって生きた結果ではない、というゲーテの言明について、真剣に信じているわけではなく、世間的対面上、他に
拠り所がないから、それによっているだけで、真にやりたいことは犯罪であるから。
(3) 戦後30年の活況はとうの昔に終わっているし、昭和50年代にこの国がどのようにやっていたかは不明である上、 加藤周一が、経済至上主義を主張したのは1996年の
岩波ブックレットからであって、金は相当昔からあまり信仰されていない上、金が最強であると言っているのは会社の事務方だけで、平成の幼稚な文化に比べると魅力が劣っているから。
(4)
八千代台の嫁がいる総務課の原田は、科学技術と金と知能指数が全てでそれに反する者は死刑であるという思想を持っているが、独りよがりの考えに基づくものであり、経緯や動機に
酌量の余地がないこと、無差別殺人を連想させ、日本世間に与える不安や恐怖には甚大なものがあることからすると、刑事責任は軽視できないから。
難しいのは、国が人を合法的に殺している「死刑」とか「戦争」についてなんだけど、
両方とも「そうすることで平和を維持できると考えている人がいるから」と答えるしかないかな。
「でも、それが正しくないと考えている人もいる」
100人が住む村で、
「そうすることで平和を維持できると考えている人が99人いる」
「でも、それが正しくないと考えている人が1人いる」
……なら、その村の中で「死刑」「戦争」の正しさに疑う余地はない。
単純に「大多数の人が平和に暮らせるように、治安を維持するため」って答えじゃ駄目なのかな?
道徳的、人道的に答えるのも良いと思うんだけど、
世の中にはある一定数、そういう話が通じない人がいるじゃん?
あなたの大切な人が殺されたらどうする?悲しいでしょう?みたいな話が、通じない人。
共感性が欠如していて、人が死ぬということが悲しい、という気持ちが理解できない人。
そういう人たちって、他の人のそういう感情が理解できないだけで、必ずしも反社会的とは限らず、
きちんと理由を説明すれば、分かってくれる場合も多い。「阿武ノーマル」の主人公みたいな人。
そもそも、感情的・本能的に人を殺してはいけないということが分かっている子は、そんな質問をしてこない。
「虫を殺してもいいのに、どうして人を殺してはいけないのか」という質問をしてくる子には、仕組みで説明をした方が理解してもらえると思うんだよね。
難しいのは、国が人を合法的に殺している「死刑」とか「戦争」についてなんだけど、
両方とも「そうすることで平和を維持できると考えている人がいるから」と答えるしかないかな。
「でも、それが正しくないと考えている人もいる」
「みんな、どうすれば平和を維持できるか考えているんだけど、時には間違えることもある」
という注釈を付け加えて。
この先もずっと、されなければいいなと思ってる。