はてなキーワード: 登場人物とは
http://anond.hatelabo.jp/20090615152955
アニメ化決定前からけいおん!を読んでる原作読者がたまたま開いたらおっという記事を見つけたので増田に書いてみ増田。
(注:このエントリーは半分の推測と、半分の「ただしソースは俺」でできています)
元増田氏が言っていることはたぶんその通りだと思う。
他でもさんざん言われているかも知れないが、あれって素材として良いから選ばれたって線が非常に大きいと思う。良い意味でも悪い意味でもニュートラルで、その割にしっかりと芯があって、コンセプトとしてしっかりしているから選ばれたんだと。
さらに言えば変更・追補しても文句を言う「原作信者」がいない、あるいはいたとしてもそれほど強烈ではないだろと言う所も大きな原作選択のファクターであったのではないかと思う。
意地の悪い言い方をすれば「未完成故に妄想しやすく、強烈に人気がないので好きなようにできる」という事だったのでは。すでに京都アニメーションは、通常であればメディアミックスの一角として重要な「原作の人気」というものが無くても十分にヒットさせるだけの力を、ブランド力を持っているわけで「作りやすさ」「作りたいもの」という所を重視して原作を選択できたのだろう。
その点で、あれはある程度原作とは別物で当然。ゆえに、11話だけを原作を無視した話しである等々と批判するのは間違いで、言うならばあきらめとともに全体が原作とかけ離れている点を批判すべきだと思うんだ。
ただ、原作ファンにそういった原作と違う事を根拠にする批判を持つものを自分自身含めて見たことがない。まぁみんな俺が布教した連中だからかもしれないが……。
似たようなケースとして、ジャンルは全く違うがサンライズが製作したアニメ『プラネテス』がある。あれは原作を読むとわかるが、エピソードのその重要な部分は持ってきているが、登場人物が大幅に増員されており、すさまじい設定の補強、発生順序、時間軸等々も全く違う。はてまた、ヒロインの性格がかなり違うのである。それは映像化するための密度を増やすための設定にとどまっていないと思う。
こちらが「けいおん!」と異なるのは原作はわりと信者がいたということ。しかしこちらはキャラ萌えで「あの子はあんな事言わない!」的な反発ではなく「アニメ化したらせっかくのリアルな描写 or 設定 or SF的に正しい物語がおかしくなってしまった!」と言う方向で反発の方が大きかったであろうと言うことである。こちらはおそらく、それぞれ各人の胸の内にしかないキャラクター像に合わせるより簡単であり、結構力業でクリアーしているように思う。
また、プラネテスに関しては、ほとんど、と言うか俺的には一回も「原作はアニメに比べてつまらない」という評を見たことがない。これもけいおん!との違いだろうか。
そもそもである。近頃は1クール13話、長くて2クール26話程度で、原作を使い切ることがないのだろうが、ちょっと前などはたいていの場合、原作のエピソードを使い切ってしまい、完全オリジナルエピソードを追加したりして増量していなかったか。そして、そこには今のアニメほど「原作レイプ」と言った不適切な表現まで使われないにしろ、原作ファンから批判されていただろうか?
これは、あまりにも期待値が高すぎるからではないかと思う。俺は涼宮ハルヒの憂鬱も初版で全部持っているように、アニメ化前からのファンだが、自分的には涼宮ハルヒの声が妙に高かったぐらいしか違和感を覚えなかった。あそこまで原作先行で原作の再現度が高いアニメは、他には「彼氏彼女の事情」ぐらいしか知らない。(注:ただし俺基準、他にもたくさんあるだろうけど)
(もちろん、原作とアニメが同時企画され、原作者がアニメに深く関わったり、監督や演出等制作中核スタッフが自ら原作を書いた除く。たとえばパトレイバーとか)
つまり本来は、アニメは漫画・小説の原作とは全く表現方法も違えば、規模、一度に流せる情報量、製作スピードなども全く異なり、本来は別物になってしまうものじゃないのかと思う。それをうまく合わせ昇華する技術を京都アニメーションの制作スタッフはたまたま持っていただけである。しかしそれは希なことである。
それを忘れて、ちょっとぐらいこのアニメ原作と違うなどと騒ぎ批判することなど、一体何の意味があろうか!?いや無い!(反語表現)
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…………
……
そういっておかなければ悲しいじゃないか。見たら全然違くて、原作ファンには黒歴史化されているアニメなんていくらでもある。その屍の山と、話題が少しでも出るだけでしゃれにならないほど荒れるのでタブーとして重く封印された話題のことを思えば、けいおんはその点凄く幸せなのではと思うんだがいかがか。
元増田氏はこうっしゃった。「あんまりおもしろくないなと感じるのでは」と。
そんなことはない。絶対……断じ……いやたぶん……おそらく……きっと……ない。
少なくとも俺基準では、原作けいおん!は大好きであり、よく企画した人はけいおんに目をつけてくれた!と感謝している。少なくとも、原作けいおん!が無ければ、アニメも存在しなかったわけだし。
と言うのは、原作には原作の良さが、アニメにはアニメの良さがあって、容易に比べるものではなく、従って「あまりおもしろくないと感じた原作をアニメの力でおもしろくした」と言うことではないと言うことである。
たとえば逆も成り立つ。アニメが原作で、漫画化された際にまた違った雰囲気で人気を博した作品……宇宙戦艦ナデシコに対する遊撃……じゃなくて、新世紀エヴァンゲリオンの貞本版とかである。
そう考えれば、お互いに「違うからつまらない」と言うことが以下にナンセンスかわかるであろう。そう思わなければ、ファンはやっていけないと思うのだがいかがか。というか「原作と違う」「アニメと違う」という事で批判するようなファンは、アニメ漫画小説ドラマ舞台なんでもそうだが、そういった作品に対するファンとしての経験値が足りないのではないか。これは好きなアイドルやタレントが自分の希望と違った行動を取ったからと言って(分かり易いのは結婚とか)転じていきなり批判を始めるがごとく、非常にレベルの低い、ファン経験値の足りない行動であろう。
そう思った。
特にオチはない。
だらだら書いたが結論がよくわからなくなってしまった。まぁいいや。
先夜、晩酌が過ぎたのか茶の間でうたた寝し、つけっ放しにしたテレビの吹き替えの声で目を覚ましました。ぐずぐずと瞼を閉じたままでいると、耳にヘンリエッタだの、アンジェリカだのと呼ばれる少女たちの会話がとびこんでくる。スパイ物だろうか?それともテロリスト物だろうか?
いずれにしても武器を使った先頭場面が登場するヨーロッパ映画に相違なく、さて、どんな女優たちが出ているのか、と目を開けてぎょっとした。画面に映っていたのはアニメ。しかも少女たちは目が大きな、いわゆる”萌え系”のキャラクターだったからである。
これって、何なのだ?本腰を入れて見る間もなく番組が終了したため、ネットでこのアニメについて検索して、さらに驚いた。アニメに登場する少女たちは全員サイボーグという設定。時代背景は偽史が絡んだ現代イタリア。某公益法人が、事故で瀕死の重傷を負うなどした少女たちを集め、人体改造と洗脳を行い、反政府組織に対する非合法活動に就かせるというのが物語りのあらましだった。
少女たちは家族との別離と身体の劣化を、運命として甘受せねばならない。また、彼女たちには男性の担当官がついて、男女間にはフロイト風に「転移」した感情の縺れが出来上がってもいるらしい。オタク世代のアニメ文化もここまで複雑で高水準になったか。
実は私はかねがね、オタクや腐女子と呼ばれるアニメやゲーム漬けの若者が増殖することに、かすかな懸念を抱いてきた。このままオタクが増え続ければ、しまいには大事な決断や、国家的な戦略策定の場面で、私たち日本人は道を誤るのではないか、と。
たかだかアニメやゲームで何を大げさな、と考える向きもあるかも知れない。だが、オタクたちの「萌え」志向や世界観が世の中で支配的になれば、私たちはますます内向し、衰弱して、リアリズムが貫徹する他国の人々に軽んじられるのではないか?いや、冗談ではなく、私はそう考えるのだが、ただ、これにはちょっと説明が必要かも知れない。
文芸について考えれば、私たちは小説や批評を読むことによって、暗々裏に人生の悲哀や生活の真実を知り、また生きてゆくための規範や行動の基準のようなものを学ぶ。ときどき人生の切所で小説の一節が脳裏に浮かんだり、敬愛する文学者の誰それが立ち向かったと同じように、人生に立ち向かおうとしたりするのはこれである。
しかし、こうした功徳は文学のみならず、ある日くちずさんだ流行歌の一節だったり、映画や芝居の登場人物の台詞だったり、さらにいえばマンガやアニメの一シーンであっても同じだろう。
例えば、つらい毎日に挫けそうになったとき、「立て、立つんだジョー!」と『あしたのジョー』の段平オヤジの督励が聞こえてくる、などと言えば人は笑うだろうか。鈴木清順監督の『けんかえれじい』には「可愛そうってことは惚れたってことよ」という漱石から転用された台詞が登場するが、そうした台詞で自分自身の恋愛や結婚の行方を納得する男女だって多数いることを私は知っている。また周囲に振り回されたあげく、鶴田浩二をまねて「右を向いても左を見ても、人生まっ暗闇じゃござんせんか」と呟く人がいるが、私が言いたいのは要するにそういうことだ。
ここにあるのは自らに何らかの役割を振り、その役割によってようやく自分たり得る私たちの姿である。よく「とり換えのきかない自分」などと言うが、胸に手を当てて思いいたせば、私たちは常に何らかの役割(人格)を自らに振ってその場その場を生きている。自分とはその意味で他人なのだ。
まことに「人間この劇的なるもの(福田恆存)」で立場が人を作るというが、家では頑固オヤジであっても、会社に行けば部長なら部長としての振る舞いがあり、学校の先生であったならば先生としての行動がある。また老母に対しては、よき息子、娘の役目も勤めねばならない。
こうした前提を認めれば、オタクや腐女子では「萌え」が判断の基準になり、行動の準則になることは明瞭だろう。しかも彼らはどっぷり浸かったゲームやアニメの世界を生きて、いま、ここにある現実を生きようとしないように見える。そしてその結果、例えば外国人との交渉で、会社や国の命運をかけて決断せねばならぬときに、ついついリセットできるゲーム感覚で、鼻面を引き回されることだってまま起こり得る。
とはいえ、うたた寝から覚めて見たアニメに驚かされたように、オタク世代もリアルの構造が私たちと違い、異なる感受性によって動く頭を持っているだけ。実はむしろ今のリアリティーに適応した世代なのかもしれない。年寄りが若者たちに文句を言うのは、古代メソポタミア文書以来、普遍的な話らしいから、私の懸念は愚かな繰り言なのだろう。
とここまで書いてふと思い出した。百年に一度と喧伝される経済危機の中、財政出動を決意した政府が、世界に冠たる日本のアニメ文化を発信するためアニメの箱物を作るという。ふむふむ。要するにすでに私などが思うよりも、ずっと世の中は進んでいたのだろう。切所ですでに「萌え」は老人により先取りされているらしいのだ。これがうたた寝から目覚めた私の短絡や懸念と重ならぬことを祈りばかりだ。
それは女の子が妬まれたり妬まれたりして毎日を過ごしている一方で、(少女な)少年はめったに妬まれることがないため(そして女の子は男の娘を異常に好むため)、可愛い子ぶる手加減を知ることができないし、限度というものを身につけることもできないことにある。(少女な)男の娘にとってルールもなにもない無法地帯であるから、愛嬌差でそれほどないこともあり、無茶苦茶をやって勝ってしまうのだ。
(これは兄弟のいる子供がどれぐらい親に良い子ぶれば兄弟から疎まれるのか、どれぐらいなおべっかで済むのかを兄弟での関係で学べるのに対し、一人っ子で育てられたような孤独な子供が疎まれることがないため誰からも愛され得る訳ではないこと知らず、媚びのルールも学べないのに似ている。)
これを男性と女性の性分の違いとして解決することはとても単純でわかりやすいかもしれないが、そうとも言い切れないのは、そんなものを身に着ける経験を男の子はもともとすることができない立場にいるからである。
ものの好みがはっきりする以前から「戦い最高」とのたまう少年マンガを読み、親の趣味で勝負根性を叩き込まれ、気づいたころにはゲームとスポーツがもっとも近くにあるような環境で、処世術や社交性というものを身に着けるのは至難の業だろう。もちろんその後、自分の環境にぞっとし、別世界を知っていく男の子もいるだろうが、それにしたって恋愛葛藤成就をテーマにした少女時代を生きた女の子より年を留め置いてしまっているはずだ。男の子にも洗顔に命をかける子はいるし、白馬の王子(女)様を信じている子もいる。男の子なら誰もがかっこいい登場人物を見て「この人みたいに強くなりたい!敵を倒したい!」などと思うわけではなく、女の子同様「お嫁(婿)さんにして~!」と料理やファッションの道に進む男の子もとても少ないけど少なくないのだ。
「女の乙女心は男にはわからん」という言葉をよく聞くが、それは総じて「女の乙女心を理解できる男性」は自分の夢を持たず、(男女問わず)誰かに愛されていたいと願う我の強い人物であるから、女性にとってみれば近しい存在でしかなく、眼中に入っていないからである。もうそのへんは仕方がない。少女漫画のヒロインが二人いるようなものだ。(極薄の)百合だろ。ふつうに。個性がある以上、少女の乙女心みたいなものを理解できるかできないかは男女差というより、個人差でしかない。
愛嬌差がないころ、(少女な)男の娘は手加減を知らずにいるため、女の子との媚び合いに勝ててしまうことがある。そうした(美少女な)少年が年を経て、媚び合いに勝てなくなっていくとき、男(女)の子が自分を練習台にしていたこと、そして自分があまりに無知で、女(男)の子に対し恥じらっていただけな男(女)の子の純情を理解できずにいたことにショックを受けることになる。
そうした自分の未熟さに打ちのめされているころ、押し寄せてくるのは男性というものに自分が当てはまりつつあるのだという事実で、彼らはそうやって第二次性徴期へ突入するのである。
>もう出ない?
「登場人物はみんな18歳以上だぜ」
と書いておけばOKな現行を考えると、
どこをどうみても非同意、強制的な行為のシナリオで売っておいて
「登場人物はみんなイヤとかヤメテとか言ってるけど、
とか
登場人物の同意を得た上での行為ですのでご了承ください」
とかってなるんだろうか。
なるほどなー
ようやく18話まで見たが、面白いなんて認めたくない。
だって29歳男独身彼女なし、昼間は仕事をバリバリこなすサラリーマンが、会議で熱弁を振るったその2,3時間後に家でアニメ見てボロボロ泣くなんてキモ過ぎるだろ。
アニメは昔はよく見てたけど会社入ってからはほとんど見なくなったし、萌えとかもあんまし興味なかった。
なんでみんなあんな真っ直ぐな子なんだ!って思わず叫びそうになった。
まず大河。あの子の言動一つ一つが、今までどれだけ「ほしいものが手に入らないこと」で傷つけられたかよくわかる。
父親なんかいらないと言いながら、もう何度目かわからない父親が差し伸べた「やり直し」の手を握って信じようとしてしまうあたりが特に痛々しい。頭が悪いんじゃない、本当にほしくてたまらないから信じようとしてしまう、期待してしまう。
次に北村。レギュラーメンバーの中でも一際真っ直ぐな子。友達にいたらいいとは思うが、実際にこういう奴いたら輝きすぎて近づけないな。なんか後半「実は家庭が○○で」とかなったらどうしようとか思ってたけどなんか伏線回収したっぽいし今のところそういう雰囲気なさそう。壇上のアレは王道。ベタという奴は許さん。
川嶋はすごく自分と似てる、と言おうと思ったけど多分「いやオレの方が似てる」なんていう奴がいっぱいでてきそうなのでやめる。川嶋は「人は他人の前では仮面を被るもの」という概念を具現化したようなキャラクターだから、視聴者は誰もが共感する部分を持つと思う。この手の話にはよくあるポジション。でも本当の自分を見てほしい、本当の自分を見てくれる人がほしい、なんてあたりも割と王道キャラ。でも亜美は「仮面を被る自分」とも向き合う強さを持ってたり、普段は表舞台に立とうとしながら肝心のところは陰から大河や竜二、櫛枝を助けようとする優しさも持っている。もちろんそれは孤独に対する恐怖の裏返しでもあるのだけど、恐怖に正面から立ち向かう強さでもある。竜二に対して臆病すぎたり優しすぎたりするわけでもなく、ときには突き放すあたりもまた彼女の強さだ。
生徒会長、最初あの人と川嶋の区別がつかなかったんだが、中身までそっくりで驚いた。正直なんで出てきたのかわからない。別に嫌いというわけじゃないのだけど、なんか北村や大河の引き立て役でしかなくてかわいそうだった。原作だともっとこの人について掘り下げた描写があるのだろうか? あの老成した性格は、家庭環境が特殊だとしか思えない。そういえば高校時代の同級生で学年トップの男がいたが、そいつはやたら老成してたな。確か固い家のお婆ちゃんっ子だったような。案外あの生徒会長もそういう家の出なのかもしれない。まあラストはわーわー泣いたりして高校生らしいところを見せたりもしたが、それでも精神年齢が軽く25は行ってるよこの子。ちょっと真っ直ぐすぎてカタブツなのが難点だが、後10歳年とったらおつき合いしてみたいところだ。
櫛枝。18話終了時点で落ち込みモード全開。今のところ、登場人物の中で最も高校生らしい(とオレが勝手に思ってる)キャラ。遊んで、部活して、恋して、はしゃいで、落ち込んで……北村とは別方向で青春してるって感じがする。竜二に対してほのかな恋心抱いてるみたいだけど、その恋愛に至るまでの思考回路を想像すると、やっぱ10代の女の子っていいね。言っておくがオレはやましい気持ちを抱いてるわけじゃないぞ。でもこんな子妹にいたらちょっといいかもとは思う(オレは姉が一人いるだけ)。櫛枝も生徒会長も、自分の仮面に正面から向き合うって点では川嶋に負けてるな。頑張れ。
最後は竜二。なんで最後に持ってきたかというと、このアニメこれまでさんざん竜二視点で物語進んでるにも関らず、竜二自身の情報がほとんど出てないから。父親いないし、母親あんなだし、明らかに家庭環境が異常で、そのことで精神的な傷を負ってる描写も僅かにあったが(玄関前で父親を拒絶する大河を叱るシーン)、しかしそれ以上の描写がなかった。これは意図的にこの部分にスポット当ててないんだろう。クライマックスに持ってくるために。あの母親がやたら登場回数多いにも関らず今まで話の本筋に全くからんでこないのも気になる。多分母親ラスボスなんだろうなーと勝手に予想。
いやほんと、竜二いいやつだと思うんだけど今のところ何も言うことがない。竜二と聞いて連想するのはお弁当だったり掃除に夢中になるところだったりで、精神描写がほとんどない。あるのは幽霊の話ぐらい?大河に一生懸命になってるところはここでは除外。「なんで」一生懸命になるかの描写がほとんどないから。その辺含めて後半盛り上げてくれると期待。
主要登場人物以外のサブキャラもいい味だしてる。あのクラス先生も生徒もみんないい奴ばかりだな。全国の高校生はきっとうらやんでるに違いない。現実はもっとギスギスしてるからな。あの先生も普通にいい人だね。年近いしおつき合いしてみたいよ。
と、一通り登場キャラクターについての寸評を書いたが、あれこれごちゃごちゃ言うよりみんな好きの一言で片づけたいところだ。一人一人が輝いてる、なんて臭い言葉が思わず漏れてしまうような、そんな素晴らしい子たち。
正直、このアニメを面白いって認めたくない。これ面白いって言うんだったらまだそこらの萌えアニメ好きって言う方がマシだ(あんまし興味ないけど)。これを面白いって認めることは、自分の精神の未熟さを認めることになってしまう気がする。高校生の悩みに共感してしまう自分が恥ずかしくなる。いや、共感というほど自分を重ねてるわけじゃないが、でも先生の目線で暖かく見守るってほど遠くの距離から見てるわけでもなく……オレの貧相な語彙力じゃ説明できない何かがある。でもやっぱりこれを面白いと思うのは耐えられない。職場の同僚や大学のサークル仲間(みんな仕事して結婚したりして大人になってる)にこれが好きだなんてばれるくらいなら、ガンダムとかエヴァが好きって思われる方がマシだ。「自分も結局『仮面』と向き合うのが怖いだけ」ってことなんだろうけど、それさえ認めたくない。
いいよ、オレは仮面被って生きてくよ。みんなそうしてるようにさ。
……こうやって酒飲みながら上の一文書いたら、頭の中で大河が飛んできた。
「ぬわにたわけたこといっとんじゃあーーー!!!」
蹴りで。
ああ、川嶋ってきっと大河のことこう見えたんだろうなあと思う。
やっぱ大河すごい。ていうかこのアニメがすごい。頭の中でキャラが動くぐらいはまるとは。
最近の仕事疲れでもやもやしてた頭の中をきれいにすっ飛ばしてくれた。
と、まあこの「とらドラ!」がオレにとってどれほどつまらないか説明したが、わかっていただけただろうか。
いわゆる陵辱エロゲ規制問題で、私はid:mojimoji氏、id:hokusyu氏をはじめとする諸氏の言説、たとえばこれやこれやこれにいたく感銘を受けた次第であります。
全くその通りで、陵辱エロゲは女性を性的に暴行・侮辱することを肯定的に描く表現であり、しかもそれを正当化する術をどこにも持っておらず、擁護派はあろうことか「表現の自由」と強弁してヘイトスピーチを正当化しようとするばかり、全く同情の余地はない、「生きるに値しない表現」です。このような明晰かつ明快な論法にまずは敬意を表したいと思います。
その上で私は、このような糾弾の声、表現の純化と浄化の声をさらに強くすべく、エロゲ以外の分野の規制をも求めて声を上げていくことを提案したいと思うのです。特に、世界的に良識の名の下に女性への暴力を肯定している例を私は知っており、ぜひとも一緒に声を上げていただきたいと思うのです。
私が具体的に糾弾したいのはとある演劇作品です。主人公は典型的なレイプ魔で、女性を甘い言葉で誘わしては慰み者にするという、ただそれだけで特徴づけられる人間です。要するに陵辱エロゲと何も変わりません。そして他の登場人物は、その言語道断な主人公に阿諛追従する男、そんな主人公にいくらでもなびく都合のよい女、それに対して何も手出しのできない情けない男と、いかにもこの種のエロゲヲタにとって都合のよい人物像ばかりが並べられているのです。
然るに、この演劇作品は日本ばかりか世界全体に流通しており、あろうことか一部では絶賛する声まで挙がっている有様です。北欧のある非モテの文筆家は、これを世界最高の芸術作品とまで評しています。また、フランスの進歩的な知識人の間では、この主人公を、権威を打倒し自由を追及する男として肯定的に評価する声さえ挙がったといいます。
どうして良識的な人々がここまで騙されてしまったかは私にも理解に苦しみますが、憶測するに結末として主人公が罰せられることになっているからでしょう。しかしよく見れば主人公以外の登場人物の喜びようは余りにもおざなりであり、このような話の筋は単なるとってつけたような免罪符であることに想像の余地はありません。
この作品に言及する声は意外なところにまで及んでおり、ある分野で世界最高の芸術家と評される人物は、話の筋に眉をひそめつつも、作品の質自体には賞賛を惜しんでいません。他にも、多くの分野からこの作品を崇拝する者は後を絶たないのです。
しかもあろうことか、世界最高のミュージシャンとも賞賛される人間がこの演劇に音楽を付けてしまったのです。これにより、この作品の評価は時が経つにつれ、上がることはあっても、下がることは全くないという有様です。
みなさん、この反動的な作品を規制し、上演禁止に追い込むようにご協力願います!
なお、作品の題名は「ドン・ジョヴァンニ」で、出典はスペインの伝説ですが、演劇化を試みたのはモリエールという男です。この戯曲をアレンジした台本に音楽を付けたのはモーツァルトというオーストリア出身の音楽家で、これを賞賛した北欧の知識人とはデンマーク出身のキェルケゴールという男、一定の留保を付けつつも作品を賞賛した芸術家はベートーヴェンという名前です。これらの反動文化人の作品を抹殺すべく、同志の皆様もぜひご協力願いたいと思うのであります。
表現というものの価値は意図と関連づけて測られるものではなく、表現の質として測られるのである。そして、作品から読み取れる作者の意図というものは決して一通りに決まるものではない。たとえば、「ヴェニスの商人」を読んでシェイクスピアが反ユダヤ主義者だったかどうかを判断するのは難しい。事実、シャイロックというユダヤ商人は、屈折した苦悩を持つ人物として見事に描かれており、反ユダヤ主義を糾弾する文脈でも演じることは大いに可能だからだ。ナチスを経験したヨーロッパでさえ、「ヴェニスの商人」を禁書にしようなどという馬鹿はどこにもいまい。
こう言うと、「エロゲに芸術性などあるものか」と言われるかもしれない。だが、紛れもないポルノである春画でさえ芸術性を評価する者はいるのだ。また、偉大な芸術作品の多くは、発表当時理解されなかったことも多い。これだけから見ても、法的立場から表現を規制することの愚かしさがわかろうというものだ。原則として、表現はただ表現によってのみ批判されるべきなのである。
なお、ショスタコーヴィッチという旧ソ連の作曲家は、スターリンによって作品を「革命的」だとか「反動的」だとかいろいろ評価を変えられ、作曲活動に大きな影響が出たことも付記しておく。笑うべきことに、当時問題になった作品はオーケストラだけで演奏される交響曲で、歌などによる言語表現すら一切含まれていなかったのだ。
インターネットにはキモいやつらがいっぱいいる。基本的に自分には理解できない趣味嗜好連中はひとくくりでキモいと思っている。あちこちのブログなり、2CHの書き込みでキモい連中の主張を見ることが出来る。基本的に読まないけど、増田ではなぜか読んでしまう。マンガ、アニメ、エロゲ話はほとんど理解できない。自分はマンガを読むけど、自分が読むマンガの話はなぜかほとんど増田には登場しない。
以前、マンガだかアニメの登場人物が非処女設定だったとかいう話があって、作品が破り捨てられたり、作者が叩かれたりという件があったと思う。あとヒコにゃん?とか、せんとくんとかキャラクターの話についても、何か騒がれていたように思う。
どうやら、作品の登場人物とはいえ、架空のものではなくキャラクターの人格がどうのだとか、なにやらリアルな人間と同等の取り扱いをされるべきとか、作者が読み手の理解とは別に勝手に変なことさせんなとか、キャラクターにも人権がある!みたいな話があちこちでされていたように思う。
まあ、キモい連中がまた何か騒いでいるな。くらいにしか理解していなかった。
最近、エロゲについてどっかの国から抗議が来て内容についてどうこうという話が話題になっている。またキモい連中が何か騒ぎだしたなあと思っていたんだけど、どうもキモい連中にもいろいろ種類があるらしい。
エロゲに出てくるキャラクターは、ただの絵だと言うのだ。線の集合体にせいぜい色がついているだけで、それ以上でも以下でも無いと。キャラクターに人権を持たせようとするキモい連中もいれば、「ただの絵だ」とするキモい連中もいる。これは新しい発見だ。
キモい連中は、その絵に常軌を逸して傾倒しているからキモいと思ってたんだけど、そうじゃなく消耗品的に消費するやつも結構いるんだな。
でもたぶんそれはきっと詭弁なんだろう。「ただの絵」ならどうなってもいいはずだ。線の集合体に意味が無いというのなら、聖書だってコーランだって意味がない。そういうものが破られたり燃やされたりしたら死人がでる。それだけ意味のある線の集合体なわけだ。線の集合体に命がかかっているのだ。
そういう事を知らない訳でもないだろうに。
キャラクターに人権を!とか言ってる人達はエロゲを見てなんとも思わないのかな。
我が子の写真がアイコラみたいに変な事をされたら怒る人は多いだろう。ただの絵だ。なんて言う人はいない。自分の子で無くても気分が悪くなるだろう。絵であっても、女性や女児が虐待されている様子が描かれているのなら気分が悪くなる人はいるだろう。
俺たちは犯罪者じゃない、そんな事はしないとか言ってるみたいだけどそんなの当たり前だ。そういう絵を見てニヤニヤしてるから気持ち悪いんだよ。だから規制しろって事になるんだよ。人が頭の中で何を考えるかは自由だ。頭の中でやれ。人を不快にさせる表現はするな。キモい連中同士で表現するのはいいよ。外に出るな。
隠れてやるんだ。隠れて。もし隠れに隠れてやってるのに、うっかり表に引っ張り出されてしまったのなら、それは表現の自由という事で擁護されるはずだ。自分も同情する。
キモい連中という分類も難しくなってきたかもしれない。何か適当な言葉は無いものか。
たぶん、良いキモい連中と悪いキモい連中がいる。一般的にはたぶん一緒になっちゃってるんだ。だから、良いキモい連中は何か良い名前を考えて使って下さい。このままでは、キモい連中とひとくくりになってしまうぞ。
陵辱系ポルノは女性に対する差別表現だという主張に対して、「スライムを虐殺するドラクエはスライムに対する差別表現ですか」という反論をたまに見かけるけど、スライムが実在して人間と意思疎通を行なうような知的生命体で友好関係にあるような存在だったら、「これはスライムに対する差別表現だ」と非難されてると思うよ。
男が女を陵辱する異性愛ポルノはフィクションだって言っても女性という属性が虐待の対象になってるのがキモだからそういう非難を受ける。
白人が色の黒い人をどんどん虐殺するのをエンタメとするような作品があったら非難されるのと一緒だよ。作中で書かれてる黒人が「実在の人物」じゃなくてもね。
実際の対象をぼかして「ちょんまげ姿で日本語っぽい言語を使う黄色いサルっぽい生き物を白人が虐殺するゲーム」だったら「日本人に対する差別だ」という非難も当然起こるだろう。
ハリウッド映画なんかだとOKでポルノだとだめなんですかみたいな言い方する人もいるけど近年のハリウッド映画は差別に対してすごく慎重に作ってある。登場人物の人種構成比も偏らないようにしてるし有色人種が一方的にテンプレ的に悪役として扱われないように気遣ってある作品がメインストリームだ。女性に対しても然り。
その流れが日本にもやってきたというだけの話だよね。
http://anond.hatelabo.jp/20090519230327
とりあえず演出担当が作りたい芝居を語る。酒の席だったりする。
それを何となく脚本担当に伝えてミーティング用資料を作る。この過程で何度も何度もあーでもないこーいうつもりでもないと言いながらもできあがる資料は抽象的でなんとなくそれっぽいプロットとどこかで見たような演出プランに独自っぽい名前を付けてるだけのすっからかんなペラい物になる。本音を言うと「大人計画を演る」と言われる方が楽だ。「作りたい本人が説明できない、今までにないような独自の芝居」を作る事になると脚本とか演出とか以前に完成しない。
そのペラい資料をもってミーティングを行うがすんなりは決まらない。この間はいい感じだねって言ってたじゃんって展開も。そのまま下にも同じ事を言われる。
決まらないがとりあえず作り始めてと役者と裏方に投げられる。とりあえず公演タイトルくらいしか決まっていないので色々聞きながら作ってみる。もちろん面白いとかつまらない以前の内容になる。
稽古が始まると政治的なパワーバランスなどの都合により今まで作っていた何物かはゴミ箱に行くことに。でも「もう半分くらい作ったんだから簡単にできるハズ」等と言われる。80年代の小劇場だったハズが90年代の静かな演劇になったのに。(極端だけど劇場変更はザラ。あまり大きな問題はない)
脚本担当はまた初めと同じように内容を伺う。日を跨ぐと違うことを言うので出来るだけ素早く箇条書きにしてる。なかなかまとまらないが役者と裏方はまた何かを作り出す。何を作るかは分からないが何となく配役とか場面転換の枚数を妄想して分担表とかをつくる。裏方も仮想舞台装置を作る。
放っておくと大量の配役、大量の大道具、大量の小道具、仕様の演出、労力の割に効果があまりないような話、壮大な計画がブチ上がってくるので必死で止める。
(仕様演出は仕様見ただけで分かるような無茶な物のこと。例えば100人の登場人物から3人を合成してすべて違う登場人物が錬成されて全部に名前と設定と配役が付くとか。16万通りもある事を理解できていない)
脚本担当はこの段階で死にそうになっている。一応存在する脚本担当の締め切りが迫ってくると当然毎日徹夜して脚本を作成していくのだが、なんど書き直しても「つまらない」「ここはこういうつもりじゃなかった」「字にすると面白そうに見えないから演技プランを考えて」「(仮の)名前が気にくわないからインスピレーションが~」「やっぱこうの方がいい」「昨日いいこと思いついた」等の必殺技に返り討ちにされる。仮脚本を演出に見て貰っている場合は演出に頭を何度も下げに行く。脚本担当の締め切りはもちろん守れられない。その分のしわ寄せは役者と裏方がかぶることになる。毎日毎日両部門に目に隈を作った脚本担当が「間に合わなくて済みません」と謝っている。ただし役者も裏方も怒らない。脚本担当が遊んで遅れてる訳じゃないし。一緒に仕様固めを手伝う。演出担当は怒る。
何となくあがってきた脚本担当の脚本を眺めながら稽古する。ただし細かいことは何にも書いてない。ト書きに一言だけ書かれているならましで、ト書きの存在が伝えられていない事もザラ。その当りは必要そうな設定を裏方が洗い出して役者が全体の空気を読んだ場面設定を構築して己のインスピレーションを信じて勝手に演技する。とりあえず作った物を見せると、演出に「俺の指示と違う」等と言われることが多い。指示なんかないのに。ただしこれがそのまま使われることも良くある。
稽古が中盤に入る頃には脚本がしっかり上がって……いない。絶対。時間だけが無情にもすぎるが未だ路線が定まらない。分からないところは逐一聞きながら作る。聞かないでも作る。運が悪いと何故聞かなかったと言われる。役者はひたすらリテイクを食らう。世界観と合わないとかこのキャラだけ浮いているとか。世界観なんて脚本の1ページ辺りに描かれてる程度にしかなかったりするし。脚本のセリフが気が付くと増えている。演技プランが破られている。稽古時間が足りなくなる。各自で時間を何とかしろと言われる。もうたっぷり圧縮してる。
稽古終盤。本番に間に合わない事が確定的になってから設定をとりあえず削ってみる。最初からそれはいらないと言い続けた場所を削るが演出担当は不満顔。最初から入れなければもっと早かったのにと毎度毎度言い続けてるが変わらない。リハ期間は短くてもいいとか言い出す。それで前も本番でミスしただろうに。やっぱりあそこが気に入らないから変えてとかこの期に及んで言う。役者は本人当たりセリフ量が割とはっきりしているのでギリギリまでリテイクされる。脚本担当は脚本を必死で打ち込む。演出に「演技のバランスが悪い。調整してないのか」とか言われる。その時間はお前が削ったんだ。裏方は頻繁な小道具の差し替えをしながらミスを潰していく。何度言っても脚本の差し替えはすぐ出来ると思われている。そろそろ劇団内の恋愛はやめて欲しい。役者も脳みそが足りないので勝手にセリフを削る。劇団内の恋愛は無理矢理潰す。みんな死にそうな顔をしているが激太りもしてる。
公演して糞芝居と言われる。世間一般的にミスれば役者と裏方のせいにされて(稽古しなかったから、裏方がミスをしたからと思われている)つまらなければ脚本担当や演出担当が批判される。(世間の(俺の)面白いと思っていることを理解できていない!とか)このために軸のぶれている演出担当や脚本担当は上がってきた物が面白くないと感じると仕様変更をガンガン入れてくる。たとえ本番でミスっても内容が悪くなければ叩かれるのは自分じゃないもんね。時間と金をもって来ないのにこれをする人が時間を無駄遣いさせる。裏方は本番でミスをしたくないので仕様変更が出ないよう出ないよう事前に釘を刺しに行きたがる。
FFを例にすると
ガラフ何故ころたし。
簡素なグラフィックのお陰で特徴が(まだ)分かる。
ツンツン頭の巨大剣もつ青服の人とか、顔面\傷の銃剣持つイケメンとか、悟空みたいな盗賊とかetc
エアリス何故ころたし。
NPC達の細かい服は分かりづらい。
やってないのでわかりません。
実際のところやってないのでわかりません。
服がゴチャゴチャしてきてイメージが固まらない。
背景と主人公たちが一体化しすぎてもはや背景の一部だよね。
マンネリ発生しないメリットあるけど、毎回登場人物が違うゲームは覚えなおすのが手間。
クラウドぐらい簡素な分かりやすさがあると良いんだが・・・
スタオー4も衣装が酷くて覚える気にならん。
個人的にはスタオー3が限界。ロリきょぬーミニスカはけしからん。
私は中高一貫の女子校に通い、そこはそれなりの進学校(東大医学部現役合格が出ても騒ぎにならない程度)だった。
校則がほとんどなく(自主性に任せられていた)、教師も個性だらけの学校であったため、すこし浮いた学校だったと今ならわかる。
生徒は自主性を重んじられるあまり大変気の強い人間に育ち、教師に対しての反抗心も露骨だった。
そんな私達がみな慕っていた教師がいる。
おおらかで、先生らしくない能天気さを持ち、えらそうでないのに尊敬したくなるほど人柄がよかった。
そういえば在日だったなあ、と思い返すぐらい、そのことについては印象が薄くて(先生は名前を韓国での読み方にしていたし、在日であるがゆえにうけた差別などについて話してくれたこともあったはずなのに、だ)今思うと不思議でたまらない。
これはどういうことだろう?
私はひとつずつ、先生の言動を思い出していくことにした。
ある日、日数が余ったかなにかで(私の学校は勉強に力を入れていないのでそういうことは日常茶飯事)特別授業として人権や差別のことについて話してくれたことがある。(人権問題の講座の担当もしていたので)
先生が自分が在日であることを自分の口で述べたのもそれが初めてだった。
名前読みは韓国での読み方になっていたので、在日であることはうすうす感じていたけれど、私達は特に意識もしてこなかったので、先生の話にちょっとドキリとした。
先生の話は名前のこと、自分の出生のこと、そして大学時代、友人だと思っていた人から差別されたことや(しかしそれを笑い話にして話してくれた)、それを救ってくれた別の友人との出会い、最後には差別がどれほど人を傷つけるか、けれどそれを救ってくれる人はいるのだ、というものだった。
先生は日本と韓国の歴史に対しては何も言わなかった。むしろ、「日本」「韓国」なんて単語を出すこともなかった。
話では常に自分と友人が登場人物であり、国家の話に摩り替えられることはなかった。
先生は個人と個人の間で起きた差別について実感してもらうためにまず私達に自分の体験を話してくれたのだ。
その後、先生は日本にあった「女人禁制」や他国の差別問題などの話をはじめ、きっとそれが本題だったのだろうけれど、
私達は導入部分であったはずの先生が受けた差別についての話にかなりショックを受けていた。
泣く学生も続出していて、でもそれは自分が先生を差別した友人と同じ日本人だからショックだったとかそういうものではなく、
いい人が不条理な扱いを受けた、という事実に涙していた。差別というものの残酷さに泣いた、それだけだった。
別に先生がアメリカ人で、その友人がイギリス人でも同じ反応をしただろう。(アメリカとイギリスにそんな関係があるのかは知らない)
差別の経験を話す際、偶然先生が「在日」だっただけ。そこに重きは置かれていなかった。
その先生の差別の話を聞いたところで、私達の頭に歴史がよぎるわけもなく、
ただ私達が過去に経験した話を今の友達にするのと同様、その人の財産である経験を見て、さらに信頼を築いている、それだけのことだった。
先生のスタンスは常にこんな感じで、国家や立場を、人と人の関係より重視することは決してなかったのだ。
だからこそ私は、先生が在日であるということを、さほど意識してこなかったんだろう。
こういった状態には賛否あるんだろうと思う。問題意識が足りないとか、そういう点で。
私の学校には在日の子もいて、でもそれも同じように気にならなかった。名前が見慣れないってぐらい。
彼女達も自分が在日であることを隠すわけではなかったけど、それで関係がどうなるってことでもないし、国の名前が会話に飛び交うこともなかった。
問題意識が足りない、と言われればそうなのかもしれない。
歴史問題を考えるいい機会だったのかもしれない。
バックボーンをきちんと理解することが礼儀だって思う人もいるのかもしれない。
でも、私達はそんなことを意識する以前に仲良くなっていて、その関係が密接であるために、国家という大きすぎる定義を取り上げる必要性を感じていなかったのも確かだ。
もちろんそれは日本人である私達がのんきに考えてあげなかっただけだ、ということなのかもしれないけれど、
別に在日の生徒がだんまりをしていたわけでもなく、自分や家族が受けた差別の経験などについては、人権問題のイベントなどできちんと意見する人ばかりだった。
そのさいでも、被差別者だからといって私達が態度を変えたこともないし、それが友人関係に影響を与えることはなかった。
それと同様、私達がただ友達で、青春時代をともに過ごす関係である上で、国家や歴史は特に持ち出すべき問題ではないと私達も、彼女達も考えていたんだと思う。
私達の中で、彼女達に日本人として申し訳ないとか思う子もいなかったし、あなたたち韓国人ってなんで歴史捏造するの?と思う子もいなかった。
私達は学生番号XXXXX1とXXXXX2で、仲がよくて、クラスメイト。
それでよかった。
これがいいことだったかはわからない。最後までいい先生、いい友達、で彼らとはいられたし、差別だとか思いつかないほどだった分、歴史問題について意識が薄くなってたかもしれないことは確かだ。
世の中にそんなに在日を嫌う人や、在日の中で日本を嫌う人がいるんだって考えもしなかった。
はっきり区別するものだということ自体に驚いた。
世の中の状況をネットなどで知って、私も国家についてすごく考えるようになる。
その反応する人に反応する人もいるし、
あの学校生活と反対に、国家というものが人間関係ですごく重視されているのがネット(特に不特定多数が出入りする)だと思った。
学校では校舎という狭い世界に閉じ込められていて、クラスや学年で個人個人がちゃんと識別できていたし、「あいつ1組だし」とか「あいつ三年だし」とかでちょっと冗談で偏見持ったこともあったかもしれないけれど、国家なんて大きすぎるものさしで人を考えることはなかったのに、不思議だと思った。
広すぎて、人が一人一人区別できなくなってくるし、クラスや学年でちゃんと整理されているわけでもない。むしろわざと匿名や不特定多数の出入りでわからなくなっているところもある。
そんな中で、ちゃんとはっきりとわかる「個」というものは、ネットを構築している言語だろう。
日本語のサイト、フランス語のサイト、フィンランド語のサイト、英語のサイト…。
日本語のサイトを見たとき、その人がどこにいてどんな人なのか、なんてわからないことも多いけれど、
日本語があるのだから、きっと「日本人」なんだろうと思うことができる。(例外ももちろんあるけど)
そこにいるのが誰かまったくわからない世界に飛び込めば孤独感で人が不安になるし、なんとか判別できる個性を見つけようとするだろう。
けれどネットは混沌としすぎていて、ちゃんと分けるとき重視してしまうのが「言語」、そして「国」ぐらいしかないのではないだろうか。
日本の土地に住み、日本の学校や職場に通っている間、頼るはずもない「自分も相手も日本人」という意識が、
こうした広大な世界に入るととても重視されていき、
結果的に「自分は日本人」という自覚が、どんどん大きくなっていく。
国家はこうしてネットの中で重要視されていくんじゃないだろうか。
私も今は「自分は日本人である」という意識、そして「○○人は好き・嫌い」だとか考える気持ちが芽生えている。
でもそれはあくまで、不特定多数が出入りし、そして個があいまいになった集団の世界にいるときだけだ。(あと、政治問題もこちらかな、と思う。人一人ではなく、国と国の問題だから。)
個人で向き合ったときそれは払拭すべきで、学校生活のおかげか私はそれが自然とできるようになっている。
人一人と向き合ったとき国家関係や歴史というものの影響がすっかり消えてなくなるというのはすごく不思議な現象で、当たり前のことのはずなのに、すごく平和に近いんじゃね?とか思えてしまったりするのは、私はまだまだ平和ボケしているからなんだろうか。
違うと良いな。
エロゲ買ったこともアダルトサイトに行ったこともない女増田ですけれど、報道記事を読んだとき、「ひょっとして『レイプレイ』のことかな?」て思った。
自分では全然プレイしなくて興味がなくても普段からwebぐるぐるしてたら「葉鍵系」て言葉だとか「誠死ね」だとか「NTR」だとか、それなりに有名なエロゲの登場人物の名前とかゲーム名とか勝手にインプットされてくし。「嫌なら見るな」ってよく言われるけど、その手の情報をシャットアウトする方が難しい。
で、私の中では『レイプレイ』というのは痴漢とレイプができる上に中絶までさせられる類まれな陵辱系3Dゲームらしいという情報が入力されてて、逆に言えば他の陵辱系のゲームって『臭作』っていうタイトルぐらいしか知らないんだけれど、ブコメ見ててもタイトルがなかなか特定されずにみんなが首ひねってたから、特定できないほどこの手のゲームって多いのか!とショックを受けてたんだけど。
実際のところどうなんですか。その程度のシチュエーションならありふれてるんですか。
それともそこまでひどいのはほんとになくてファンも少ないから知名度が非常に低くてタイトルが特定されなかった(私の目に触れたのが本当にたまたまだった)んですか。
海外の人権団体の目にも触れたぐらいだからそれなりに有名なタイトルなんじゃないかと思うんだけど、実はそんなことなくてアングラ的にごくごくひっそりプレイされてる作品だったとしたらちょっとかわいそうかなと思う。(でも本当にアングラだったらこの件で知名度が上がったことで本気で手に入れたい人は全力で入手しにいくだろうし箔がついてよかったのかな)
自分では調べる気にもならないけれど、エロゲにおける陵辱ゲーの割合ってどのくらいで売り上げ割合ってどのくらいなんですかね。
やたらとマッパになったりモツがまき散らされたりする描写ばかりが印象的なこの作品ですが、特定の状況に陥ったキャラクターの目に瞳(黒目)が描き込まれない事こそが注視すべき演出のように感じられるわけです。
最初にはっきりと「白目表現」が登場するのは、第一巻第一話で伊良子清玄が「無明逆流れ」の構えを初めて読者に見せるシーンですが、これはページの片隅の小さなコマに過ぎません。その次は第三話で、巨大な木刀「かじき」で肩慣らしを終えた牛股権左右衛門が伊良子清玄と立ち会うシーン。これも、伊良子の白目よりは大きいものの、目の部分だけを描いた横長のコマです。なので、最初に登場するもっとも印象的な白目表現はおそらく次の第四話、岩本虎眼初登場シーンでしょう。ページの6割以上を割いた大ゴマ、顔のドアップ。殆どボケ老人に近い(口から舌がだらしなくはみ出ている)のに、伊良子の額にくっついた小豆を、伊良子の顔に傷一つ付けずに正確に十字に切り刻む。そのインパクトは絶大。
この白目表現こそ、その登場人物が「死狂(シグル)ってる」状態を示す演出なのではないかと俺は思うわけです。最新刊である12巻63話では、主人公である藤木源之助の瞳が描かれているコマは一つもありません。それどころか、目そのものが描かれていないシーンが大半で。白目表現ですらわずか2コマ。同伴する婚約者の三重もほぼ同様で、瞳が描かれているのは最後の1コマだけ。次の第64話も、伊良子の愛人「いく」を目の前にして突如刀を抜いた藤木(当然目の部分は空白のまま)に対して、「よ よせっ」「たのむ・・・」と引き下がるよう呼びかける月岡雪之介(この時は瞳あり)が、それが無駄だと認識して「嗚呼・・・」と心のなかで叫び、刀を抜くシーン。この時の月岡も白目。
また作品中には、通常は描き込まれている瞳が丸いスクリーントーンのみという、白目状態の一歩手前のような演出も存在します。それが顕著なのが前述に続く第65話。
月岡の登場するコマと目の表現をなぞっていくと、
つまりここで白目状態になっている時点で、既に月岡は藤木を殺害する覚悟を決めていると読めるのではないでしょうか。それは、その後両者一瞬の攻防が展開され、月岡が刃を向けた状態で藤木に上段を打ち込もうとする事からも分かります。
そして藤木がそれを脇差しの「なかご」で食い止めるシーンでようやく月岡の瞳が復活。それから藤木が月岡の脇差しを抜き取って首に押しつけるまで、藤木は最初からずーっと白目のまま。こういった「瞳(目)の有無」という何気ない演出が、実は作者何らかの規則性を与えられているのかも知れないと思うと、この作品の楽しみ方に深みが出てくるように感じられます。主人公藤木のライバル伊良子が盲目だったり、原作のサブタイトルが「無明逆流れ」だったりする事から得られた着想でしょうか。
知人に某分野の作家が居る。時々彼の自宅に遊びに行くと、書きかけの原稿を見せられ意見を請われる事がある。
一通り読んで、登場するキャラクター達の名前に特徴がある事に気づいた。
「そういえば、○○○(某有名ゲームソフト)の登場人物の名前と重複している場合が多い気が。」
「ああ。意図してそうしてる。」
「それは何故?」
「今のところ×××や□□□といった名前は○○○の登場人物にしか使われていない。つまり×××や□□□といえば○○○の登場人物を想像する人が多いという事だ。」
「まあ、確かに。」
「なので、その名前を付ければ、自然と読者は○○○の方の個性やそれにまつわるストーリーを頭に思い浮かべるわけだ。」
「ほう。」
「○○○で設定されたものから踏襲したり、逆に崩したりする事で、俺の作品の登場人物の印象を少しでも深められれば、と思ったわけだ。」
「そんなものなのか。」
「効果のない人には全く無意味だが、しかしある人には強烈にある。」
「よく分からないな。」
「たとえば、アル中で若い女性に目がないセクハラ老人の名前が『ビュコック』だったら、お前とて必ず一度は脳内で例の名将と比較するだろう?」
「うーん、何とも。」
「じゃあもっと分かりやすいたとえをだそう。もし俺の作品に『千早』という巨乳の女性キャラクターが登場したら、どうだ?きっとお前の心には何かが芽生えるはずだ。」
「・・・。」
「ああ、俺には何も言わなくていい。しかし心の中でもう答えは出ているはずだ。つまりはそういう事だよ。」
その後、とりとめのない雑談をしながら安い酒を酌み交わして俺は彼の自宅兼仕事場をあとにした。あれから1年ほど経ち、彼の作品はそれなりの人気と知名度を維持しながら続いている。彼との付き合いも続いているのだが、いつ作品に『千早』を登場させるのか、俺は未だ彼に聞けずにいる。まだですか。
「女子高生スコアラー列伝」というWeb漫画がある。無断転載していいものか解らないので名前だけ伝えておく。一見登場人物の素行は面白く破天荒だが、登場人物のほとんどには実在のスコアラーが元として存在するらしく、こうしたシューティングゲームに偏執的な愛情を注ぐスコアラーさんを擬して面白おかしく描いた、絵こそ荒いが見てて楽しいよく出来た漫画である。
自分は自称シューターだった。元は格ゲーマーだったが、シューティングゲームも子供の頃やってたしちらっと店頭で見たスーパープレイから、興味があったのでやり始めたという感じだった。といっても、所謂スコアラーではなく、とにかくゲームのクリアを目指してプレイを続けるクリアラー。スコアに対しては、ああいう風にプレイできると楽しいんだろうなと思いつつ、「攻略に有利になりさえすればいい」「パターンが難しい、解らない、作れない」「BGMと進行が密着してるのに、処理落ちでズレる」と無興味のつもりだった。最近は環境の都合で2週間に1回程度しかゲーセンに行けていないが、その都合も関係ないほどにゲーセンに行きたいという気持ちが失せてきた。こと格ゲーに対しては読み合いで勝つことに限界が来ているという弱い考えが頭に出始め、シューティングゲームはそもそもやってて楽しいとさえ思えなくなってきた。学業すっぽかしてひたすらゲームをやっていた過去があるにも関わらず、自分はいつまで経っても下手である。まあ、そのすっぽかし方も一日中一つのゲームに張り付くといったものではないので、本当に上手い人からは中途半端に思われるかもしれないが。
最近、『斑鳩』というゲームをやった。2万円以上するゲーム機本体ごと購入してプレイを始めた。自分にとってはそれほどに惚れ込んでいたはずのゲームだった。このゲームはやろうと思えばとことん安全にも進めるゲームだが、やはり楽しむにはルールとパターンに添って得点稼ぎにこだわる必要がある。最初こそ楽しめていたものの、一般的に広まっている(自分が影響を受けた)プレイ動画のパターンはあまりに難しすぎるため、一部を端折って妥協をしていくが、ステージが進みパターンが複雑化していくにつれ、その妥協パターンでも凡ミスを起こしリセットというルーチンワークを繰り返す自分がみじめになっていく。開き直って、簡単なモードで残機は最大、稼ぎもしないという遊び方をすると全く面白くなく、さらにみじめになる。不安を抱えながらプレイするのが楽しくなく、続かなくなってくる。本当に好きなのはこのゲームなんだとさえ思って夢見たはずのゲームが、自分にとってそれほどのものではないという、理想と現実の差を感じ、同時に、スコアを稼ぐこと=ゲームを真剣に楽しむことの難しさを意識するようになった。
先に書いた「女子高生スコアラー列伝」で間接的に、blogなどで直接的に、ゲームの上級プレイヤーの背景を追っていくうちに、上手い人と自分の間にどのような差があるのか、大体結論は出た。腕前の問題もあるが、何より自分は上手い人に比べてゲームが好きではないのだ。確かに好きなはずだけど、それは大したことなかった。実際に足を突っ込んでみると、立てるぐらい浅い沼を、見た目から深い、底なしじゃないかと自分でも思い込んでいただけ。だからこそ、深いやりこみが時間をかけていてもできないし、スキルもついていかないんだと思う。スポーツ選手がおそらくそうであるように、上手い人達はゲームが本当に楽しいから続けており、それが腕前そのものやスコアに現れる。同じゲームを楽しむ者として彼らは圧倒的に上手であることに異論は無い。それとは対称的に幼少時からゲームが感覚的に好きだったはずの自分がゲームを真剣に愛していないことにギャップがあり、価値観の否定を繰り返し、思い悩んでは憂鬱になり、自然とゲームから足が遠のくようになった。
「好き」ならば上手くなれるといった単純な問題ではないことはわかっている。国数理英社五科目が全て好きな人などそうそういないし、器用な人は何をやっても器用にこなすとのことだし、ゲームが上手い人はキチガイの域に達してるって話はよく聞く。その上で、「好き」「楽しい」という感覚が、生まれた頃から今現在まで麻痺を続けている結果が、今の自分が無能を成している原因の一つなのだろうか。人間じゃないと評されるべきのは彼らじゃなくて自分なのかも・・・ゲームのみでなく、広範に興味と技能を持つ彼らを見て、好きではないとあらゆるものを忌避してきた自分の狭さと浅さに、戦慄する。
この文章は鬱病真っ只中で社会からドロップアウト済みで明日を不安に思いながら暮らす身分がひどく不安定な心境で書いたもので、単にゲームが上手い人たちに対して、ろくに「努力」もしてないヘタレゲーマーが、妬み僻みで愚痴ったものにしかなってない気もする。夢を追って挫折した人達は、このような憂鬱を抱えながら今を生きてるのだろうか。これも一つの人間の生き方として多数派である「挫折」の過程の一つだろうか。
日本語が下手なもんで伝わらないかもしれないんだが、
寝ている時に見る夢ってどういう映像で流れる?
俺は昔から人と触れ合うよりかは、テレビとか漫画と触れ合ってきたので、
そのせいなのかどうかはわからないが、
妄想もそう。
登場人物が漫画絵にデフォルメされている(いわゆる二次元好きの人と違うのは、現実に存在している人間がデフォルメされている。)。
自分が漫画キャラっぽくデフォルメされた映像が、頭の中で映し出される。
ただ、これに関しては波動拳が元々ゲームの世界のものだから、そっちに自分がコミットしてしまうのかもな、とは思う。
しかし、普通の寝ている時に見る夢とか、
友達を飯食いに誘おうと思いついた時に一瞬頭の中に浮かぶ飯食ってる映像とかが
漫画的なビジュアルで映し出されるってどういうことなんだろう?
これがほんとの漫画脳?
普通の人の場合、多分、
実写映像(という言い方が正しいかどうかわからないが)で見るんだと思うんだけど。
実際のところどうなのか。
なんか、こういうことに関する本とかあったら教えてくれないか?
無知なもんで。
最初の一行で「勝手に写真を撮る」との表現があるので、勝手に撮ってしまったとの認識がある、もしくは勝手にやったけど開き直っている事を演出しているのだと思います。
続く文脈は読み手を煽るというより、その行為を指摘された事に対する憤りから自身の感情を抑えられずそのまま表しているのでしょう。その証左として、突拍子が無いように思える最後の一行に「お前」なる登場人物をだし、そこに矛先を向けてしまっています。
貴方が写真を撮るという行為は場の空気がそうさせてしまったのでしょう。そういった雰囲気に流される傾向がある様に見受けられます。それは決して悪いことではありません。
おそらく、問題は貴方にあるのではなく「お前」なる人物が少し貴方に対してよい感情を持っていなかった、もしくは虫の居所が悪かったのでしょう。
次に同じ様な機会があれば、少し気を使うと良いかもしれません。
彼女は、昔この街に住んでいた。結構遠い昔な気がしてしまうけれど、たかだか2年前なんだね。僕には恋人がいて、彼女と会う時はいつも恋人が一緒だった。僕の恋人はいなくなり、彼女もこの街を離れた。相互に独立した事象。
彼女がここを離れる時、彼女にも恋人がいた。その彼とは結構気があったから会うのは楽しかったんだけれど、彼女が街を離れて、なんとなく会う機会をなくした。お互いメールのやり取りが何件かあったけれど、ある時からふと返事がなくなり、それ以来、連絡も取らずに今まできた。彼らは別れてしまったらしいけれど、まぁ、しょうがないよね、としか、あまり意見はない。
そして来週彼女がやってくるという。あまり友人のいない僕からすると、僕を訪ねてきてくれる人というのは無条件に嬉しいのだけれど。
この話には、もう一人、登場人物がいる。ややこしいのでおさらい。やってくる友人はノリコ、ノリコの元恋人はシゲ、そしてノリコ、シゲ、それに僕の友人でもあるアスカ(全て仮名)。ノリコは僕とアスカに一緒に会いましょう、とメールをしてきた。その後アスカが僕にメールしてきて、ノリコはシゲに会いたいからなんとなく設定してくれないか、とこっそり相談したらしい。そしてアスカは、じゃぁノリコ、シゲ、アスカと僕もあわせて一緒にあったらどうかね、と同じメールで提案してきた。
なんというか、どうしたもんかな。
ノリコがシゲと会いたい気持ちはなんとなくわかる。その話を僕に直接せずにアスカにだけしたことから、本当に会いたんだろうなぁと思う。
これは僕の問題なんだが、ちょっと話が脇道にそれることを赦してほしい。僕のかつての恋人、キョウコとでもしておこうか、が最近メールをよこしてきた。結婚するらしい。僕らの別れ方はとても酷かった。簡単にいえば、キョウコは別の男と寝て、僕を捨てた。けれどキョウコは僕にすごい未練があった。別れた後何度か会って、泣きながら、まだ僕のことが好きだって言ってたこともあった。そしてキョウコの結婚する相手、というのはその間男らしい。どうも最近のキョウコが僕に送ってくるメールからすると、僕に会いたいのだな、という気はする(ある時から僕は彼女に返信することを止めた)。
僕はキョウコのことを今でも愛しているけれど、彼女がしたことは彼女がしたことだし、彼女自身でおとしまえをつける必要があるんじゃないかと思ってる。好きにすればと思う理性と、僕の人生は完全に否定されたという情熱の狭間。なんか冷静に書いてるけれど、酷い鬱で仕事クビになったり、薬飲んだり大変だったんだよ?
ノリコの話に戻ろう。自分の生き様を他人に反映させてモノを云う人がいる。それはまさに自分なんだけれど、そう感じてしまう自分は否定できない。つまりノリコがシゲに会いたいという気持ちを理解すると、キョウコが僕に会いたいという気持ちを肯定してしまうような気がする。僕はキョウコに会いたいけれど、結婚するなんて聞きたくない。それに自分の意志で別れを告げた男に会いたいなんて自分勝手じゃないか…
さてアスカにどうやって返信しよう。
http://anond.hatelabo.jp/20090414170900
強い人だなあと思った。ご結婚おめでとうございます。お幸せに。
よい文章だったのでちょっと便乗して書いてみようかなと思う。
読み返してみたら元増田に較べてグダグダな上に人間的にもよわっちいなと思ったけど在日にも色んなのがいるって記録になってくれたらなと。
私は中学校までチマチョゴリ着て電車乗って学校通ってたよ。貧乏ではあったけど父が民族の理想に燃える人だったので朝鮮学校に通ってた。
父親は総連系の(革命家に憧れ、結局今はもう精神的にボロボロな)活動家で、母は20代の時に民族意識に目覚めて本名を名乗るようになった(父親の稼ぎが悪すぎて苦労ばっかりしてきた)飲食店経営者、でもって娘はちょっと半端なオタクでサヨクというそんな一家です。
父は拉致問題発覚した時は本気で沈み込んでものすごいショック受けてた。母は「ありうるなとは思ってた」そうだ。おとんピュア過ぎるだろ。
(家にあったマルクスの資本論の中表紙に「これを理解できずして何が革命家か!」(ハングルで)と万年筆で殴り書きしてあっただけあるよ…)
…まあ、そういう「総連」の下っ端もいましたよ、と。活動としては何をやってたんだというと、在日朝鮮人の権利保障とかそういう折衝をやってた。
父も母も通名は持ってるけど私は持ってない。別に通名なんてほしくはないけどお店とか病院の予約取る時に大概名前を聞き返されるので面倒ではある。
母には日本人の血も入っててガキの頃そっちの親戚と法事なんかで集まると、私の名前を訓読みで読み下して呼ぶ人がいて「誰だそりゃ!気持ち悪い!」となったりしたし、母のイトコだかハトコだかの旦那さんに警察関係の人がいて、なんかすごく家族ごと邪険にされたのは覚えてる。父も母も後ですごく怒ってたけど、今考えるとハトコの旦那さんもかわいそうだよなあ。純日本人と結婚してるのにソッチの親戚に総連系活動家だもん。勤め先で何か言われてても不思議じゃないし、そしてやっぱりそういう話って耳に入ってくるもんだ。うちら家族に責任はないけど旦那さんにも責任はないわけで文句言うなら勤め先だろとサヨクな私は思うけど、理不尽な気持ちになることはわからなくもない。
高校からは日本の公立高校に進んだ。大学受験資格の問題とかで高校からは日本の学校へ進学する子は多い。私の場合は純粋に人間関係うざかったからなんだけど。だってクラスの半分が9年間ずっと一緒の顔ぶれ、もしかしたら12年一緒の子もいるかもしれない、って孤独なオタクからしたら恐怖だよ! 特に体育会系の強い学年だったこともあってオタクな自分からすると肩身がせまいことこの上なかったんだよ。小学校時分はいじめられっこだったしな。今でも友人は高校以後のオタク仲間がメインだし、全員日本人だ。
高校は社会科の先生が担任取ってくれた。いわゆる「サヨク的な」教師だったけれど気配りはとても上手だったし、私は在日であることを隠さず本名で涼しい顔してたこともあって苦痛に思ったことはない。政治問題社会問題を語る上で在日に触れることはあっても私個人に在日を背負わせようとはしなかった。どっちかといったら私が背負い込みすぎてて拍子抜けしたくらいだ。
外国人登録取りに行く時も、ちょうど指紋押捺が撤廃された頃だったので気にはなってたらしいけど向こうからは「公休な、わかった」と書類にハンコ押してそれっきりだった。私の方から「外登見ますー?」「おう、どれどれ」なんて言ってた。在日だからって何も特別なことはないって、そう思いたくて逆にそういうのを何気なくやり取りしようとしてたし、先生もそれは汲んでくれてたようだった。
ただ思うのは、小中と朝鮮学校という集団にいた&高校ではリベラルな教師の下で過ごしてたおかげで、自分には「在日」をかなり軽く考えてたフシがあったってことだ。「私は私だし、それでいいじゃん」って。後々どれだけずっしりのしかかってくるかも知らずに。
何だここ! 今まで私が通ってた学校って何だったんだ!
ここは図書室はあるしプールはあるしグランド広いし音楽室は防音完璧だし!
図書室の本もちゃんと整理されててブッカーかかってるしさ! 貸し出しカード渡された時は感激したよ!
何せ中学まで図書室とは名ばかりの空き教室に事務用スチール本棚並べて、父兄からの寄付/処分品と「どう見てもフリマで買ったか公共図書館で『御自由にお持ちください』状態のものを必死で集めてきただろ!」ってな本が突っ込んであるだけだったからね! おかげでアイリッシュとか読めたんだけどさ! 小学校ではかろうじて江戸川乱歩とルパンとマガーク探偵団があったけどさ! しかも図書室が開くのなんて年に数回でその時しか貸し出しがされてなかったもんだから、マガークの続き読みたくてこっそり窓から忍び込んで無断持ち出しで全巻読破するという有様だったしな!
だから今でも本棚整理する時は子供向けにしても大丈夫そうなラノベとかSFは寄付することにしてるよ! オタクは国境や民族越えると信じてる。
(何でもかんでも手弁当でやるのが十八番の朝鮮学校だけれども、さすがに跳び箱の革を張り替える金すらないと聞いた時は思わず笑っちゃった)
あー、あとJR定期券割引とかないから! 一条校じゃないから普通の学割より割高だったくらいだから! 中学の時、定期券安くしてくださいって嘆願のハガキ書かされたし! 大人になった今だって普通に通勤定期買ってるから!
大検資格も免除してくれるところはありがたいけど大体は通信制高校に通うか大検受けてるし!
それでも今考えてみれば朝鮮学校に通って良かったとは思ってる。
言葉も一通り習得できたしチマチョゴリ着て歩くことで、わかりやすい「徴」をつけて歩くことの意味も身を以て理解した。私自身は在日の親戚がほとんどいなかったけれど、何かあるごとにクラスメイトの親類達が祭祀(法事)や集りを行ってたのを見て「民族的なもの」を肌に感じることもできたしね。その分、父兄同士のビミョーな力関係が子供達にも影響してて在日の親戚がいなかった身としては色々鬱陶しいこともあったけど。
外から見れば思想教育云々って危惧があるのはわかる。でも正直なところ教師含めて本気で「将軍様~」とか思ってる人は誰もいなくて、教科書の中身は笑っちゃうようなものだったけど(それも今は改訂されたと聞く)もうそういう部分は惰性でやってたと言うしかない。電車に乗って学校に通うから中吊りの雑誌広告とかっていやでも目に入るんだけど、見出しを読むと学校で聞いてる話とは全然違うのよ。文春新潮から朝日まで色々だけど「自分達が学校で教わってる『我が祖国』ってのはウソだよな」って生徒はみんな思ってるわけ。多色刷りの中吊りが真実を告げているように見えてくる。テレビや新聞と違って雑誌の見出しってインパクト重視だし。そこらへんの間で揺れながら話し合う子も多かった。
「将軍様~」絡みの授業はかったるかったし誰もあんな授業好きじゃなくて、気の利いた先生だったらそのコマを「怖い話」や「ビデオ鑑賞」とかにしてくれてた。
音楽の時間もコマの中で将軍様の歌とかはさっさと終わらせてクラシック観賞(別名昼寝タイム)や、朝鮮民謡、あとウェルナーの「野ばら」を朝鮮語訳にして合唱したりしてたよ。特に理系や芸術系の先生はそういうことをよくやった。宮沢賢治の本を朗読して、この物語の絵を描いてみましょうとか。
そりゃまあ勿論、カリキュラムの建前は「将軍様」「主体思想万歳」なわけでそれが自分に影響及ぼしてないとも言わないけどさ。今の北朝鮮の姿勢については否定するけど、父親のしょぼくれた背中眺めたりしてると擁護もしたくなるしさ。子金孫金(今の将軍様とその息子ね)はどーでもいいけど金パパ死んじゃった時はさすがにショックだったしな。
あと、朝鮮学校の中にいるとすっごく世界がせまくなるなと思う。校内に従兄妹やハトコも多いし親だってほとんど親類縁者、同僚同業者顔見知りだし。日本の同世代との交流なんてほとんどなくて、私なんかは近所の子達と遊んでると話したら「おまえ日本人の友達いるの?!」と言われたこともある。正直学校の友達よりよっぽど仲良かったですが何か。
晴れ着にあたるチマチョゴリは綺麗だし、他の民族衣装もかっこいいしキムチ美味いし焼肉好きだし朝鮮民謡大好きだし、ハルモニ(ばーさま)、ハラボジ(じーさま)が踊ったり歌ったりするのも素敵だし、歴史読んだらかっこいい人物いっぱいいるし、だから韓国朝鮮民族は大好きだけれども、私が付き合わなくちゃいけなかった在日コミュニティはあまり私と合わなかったのも確かだ。生徒の絶対数の少ない朝鮮学校の中で、一般的に少数派であるオタクの割合を代入したらそりゃもう孤独なことになるわけで、親類がコミュニティの中にはいなかったこともあって居心地はあまりよくなかった。窮屈な場所だったと思う。私自身は左翼だけど、父以外の総連系に関わる気はまったくない。ていうか、今関わったらきっとあの体育会系の連中に出くわすに決まってる。そのくらい狭いんだよ、あの世界は!! 結束は必要だと思うけど私はもうあの場所には戻らない。
元増田は「GO」に共感したようだけど、私は李相日の「青~Chong~」が自分の過ごした時期と重なって一番思い入れがある。パラフィン紙で顔の脂取ろうとするあたりとか。
映画での朝鮮学校描写の年代差はなかなか面白くて「パッチギ!」→「GO」→「青~Chong~」の順で下ってる。そして登場人物達もどんどん「在日」である自分を捉えづらくなっていくんだよね。強固な仲間意識(パッチギ!)から、そこを突破しようとして民族に足を取られもがく子が出てきて(GO)、ぼんやり境界線の上を漂って地に足の着かないままの子が今生きてる(青)、という具合に。朝鮮学校の中にいてもそうなってる在日青少年の実情がよく見える流れだなと思う。
ついでに言うと和菓子大好き短歌大好き、京都大好き、寿司はうまいしマンガ好きだし、NO GAME,NO LIFEだと思ってるし、J-POPも民謡も好きだし、好きな作家ほとんど日本人だし、チャンバラ時代小説すっげー面白いし山田風太郎と竹本健治と火浦功は天才だと思ってる。
で、先述したようにチマチョゴリを着て歩くっていうのはなかなか忘れ難い経験で、朝鮮学校の女の子が大人びて見えるのはそれがあるからじゃないのかなって思ったりもする。「徴」をつけて歩くことはすごく振舞いを意識させられるんだよね。もう見るからに「自分は朝鮮人です!」って表明してるわけだから「私」が何かすると「朝鮮人」が何かしたことにされちゃう、っていう意識だけは絶えず持ってた。それで帰り際にB'zのCDとか買ったりもしてたわけだが。自意識過剰かもしれないが「朝鮮人の女の子がB'zのCD買ってった」って思われるのかな、と思いながら歌詞カード眺めたりしてたよ。
今はもう見かけなくなったけれど、自分が卒業した後も街でチマチョゴリの女の子を見かけると「こう見えてたんだ」って思って迂闊なことした記憶と共にアタマ抱えたくなったりもした。
聞こえよがしになんか言う人もいたが、暴力でさえなければその場ですれ違って終わりだから黙ってた。
そうやってやり過ごせばいいと思ってた。
考えてみれば本名で通すのもそれと同じようなものだし、私の日本の友人の中では「在日」と言ったら私なんだよなあと気がついて結構怖くなったりもするんだけどね。うわ、ヘマできねえ…!とか、仲がギクシャクしちゃった友人の在日観とか考えると頭抱えたくなったりもする。本名を名乗る、在日だと告げるってのは少なくともそういうことになる。代表してるつもりはないけど代表になってしまう。そうじゃなければ一番いいけど、そこはいかんともしがたいので行動には気をつけてる。
自分の「在日」がものすごく重くなったのはネットでの嫌韓発言に出くわしてからだ。
在日三世にもなると面と向かって「チョーセンジン!」を罵倒に用いる人はそういないし、元増田が書いてた通り斜め上に飛んだ気遣いの方が鬱陶しい。私が本名で渡っていけるのも、父母が通名くれなかったから名前が一つしかないてのと同時に、そんな罵倒をする方がどうかしてると私だけではなく「社会が」判断してくれると信じてたからだ。それが一世、二世の苦労を知らない、三世の中でも特にお気楽な部類の私の感慨だった。
けどネットの嫌韓コピペだの在日認定だのブログ炎上だの見てそれはガラガラと崩れてった。
見ず知らずの多くの人間が、私に流れてる血に向かってすごく軽い気持ちで憎悪を向けているのを見るのは本気で怖い。ヒットポイントをがしがし削られて死にそうな気分になる。
だからリアルでは本名を名乗るけどネットでは匿名に紛れてる。はてなのid、ある意味ではこれが私の「通名」だ。
あんな悪意と無神経を正面からかぶるなんて絶対無理だ。ネットで自ら在日であると表明しているid:F1977さんは本気ですごい。
拉致問題が大きく取り上げられてから(この問題自体はきちんと解決せねばならないと思ってる)の嫌韓、嫌朝の流れは本当にキツかったわ、うん。
例えば、私の前を歩いてる人がハンカチを落としたので、拾って「落としましたよ」と声をかけた時、「この人は笑ってありがとうと言ってくれたけど、もし私が朝鮮人だと知ったらどんな顔をするんだろう」とか考えちゃうんだよ。考えても仕方ない、意味のないことだしはっきり言って卑屈だと思う。でも考えちゃう。考えて自分で落ち込む。アホじゃないかと思いながら振り切ろうとして、なのに嫌韓なコピペや書き込みを思い出してまた沈む。
この「もし私が朝鮮人だと知ったら」というのが、通名を名乗るか本名を名乗るかid:F1977さんが逡巡することと共通するとこなのかな、と思う。もし違ってたらすんません。
そしてそういった逡巡や怯えが存在するんだよ、と伝えることの難しさにまた凹む。
結局今でも色々凹みっぱなしなんだけどねー。元からダメ人間でもあるので更に凹みがちだしなあ。オマケに非モテ非コミュなので元増田みたいにこれからの生活展望とか語れる物がないw
で、最近はどうかというと。
高校時代の友人(A)の一人と会って話す機会があったので、他の友人たちの消息も聞いてみたら、その中の一人(B)がネトウヨになったという。「はァ?!」と聞き返すとmixiで典型的嫌韓嫌中発言をしてるというので頭を抱えた。私はmixiのアカウントを持ってないので事実確認はできておらずどの程度の嫌韓発言なのかもわからない。伝聞で判断したくはないが、もし事実だったら私は泣くし多分しばらく立ち上がれないだろう。Bとは趣味が近かったおかげで一緒にでかけたりもしたし、卒業後も何度か酒を飲んだりもした。今だって会えば普通に飲める気がする。
「元からBってそんな感じだったじゃん。でも会えば普通に飲めるんじゃないの?」とAも言う。
Bだって私の前で嫌韓発言するようなことはしないだろう。
けどなあ。
それってどういうことなんだ?
いやいやいやいや、私は朝鮮人だから。あなたが嫌いな朝鮮人だから。別じゃないから。朝鮮人から私だけ切り分けられても困るから。ネトウヨの嫌韓発言にキリキリしてる朝鮮人だから。
「韓国人朝鮮人は嫌いだけど、おまえは嫌いじゃない」ならまだ納得する。
私自身「ネトウヨは嫌いだけどBのことは好き」だから。
…と考えて、でもそんなこと聞きようもないし、第一事実確認からして怖くて出来てないし、どうすりゃいいんだと途方に暮れてたりする。頼むからAの誇張表現であっていてくれ。ていうかこんなこと一人で考えててもどうしようもないのに何やってんだろ私。
…とかそういうことを日々考えてしまう一人の在日がここにおりますよ。やっぱり割り切ることが未だに出来てないんだよなあ。
元増田とは違って、私は子供のことは考えないでいいので今のところは(父)親孝行のためにもまだ朝鮮籍でいようかと思う。韓国行きたいのも確かだからいずれ韓国籍に変えるかもしれないけど。
http://anond.hatelabo.jp/20090415070440
うわ、まさかお返事いただけるとは思わなかったので恐縮です。
ネトウヨさんの何が怖いってあの軽やかさとコストパフォーマンスです。ブログコメントたった二行でこっちは一日グロッキーだったりとかする。街に出るのも杞憂とわかっててもやっぱり怖くなりますよね。
何かあってからでは遅いという御心配もよくわかります。私が上げたidの方の文章に私は強く惹かれていて、応援したいと思うのも確かだったりします。生活を守ることと気持ちを伝えることがどこかで衝突してしまうのは苦しい。うまく着地点があるといいんですけど。
韓国は、いずれ行きたいと思っています。私も本籍地が今はどうなってるやら。肉大好き!なのでかなり夢が膨らみました。
お互い、がんばっていきまっしょい!ですね。ありがとうございました。
http://anond.hatelabo.jp/20090415073233
ちょっと思ったのは、日日間での暴力や差別についてはまた別の文脈で私は言及することにしてるかなあ。別に「在日です」と宣言する必要のない問題だし、やはり「在日」と宣言するというのはその属性をある種代表してしまうことになるから。私個人の意見なのに「在日の意見」になっちゃうと議論にとっても有害だと思う。だから私は在日とは明かしてないidでのブクマとかでしょぼしょぼとサヨクしてて、日日間での軋轢や暴力(というのが増田の指してるそれと一致するかはわからないけど)についての言及はそういうところでやってる。在日が「在日です」って断わりを入れてから物を言う時ってのは自分の経験などを語る上でそれが必要だからするのであって、必要ないなら(特にネットでは)せずに済ましたいというのが私の本音。
ついでに言うと在日は在日のことで手一杯なので、というのも結構正直なところで、権利の追求しか、と言われても「実際ここが何とかなってくれればなー」と思うこと多いしなあ。
うちのじーさまがいわゆる「無年金」の人で80過ぎまで働こうとしてたのを父が必死で説得してただでさえ少ない給料から生活費捻出してたし。そうやって実際見てると権利追求することは別に悪いとは思わないんだよね。同時に日本の人でも窮している人は権利追求すればいいと思うし半端なりにサヨクなので私は応援&支援する。
日本人は、って一括りにしてるように見えたのならそれは申し訳ないです。在日にも色々いるし日本の人にも色々いるのは当たり前ですし。
在日です、って表明するってことは相手にもある種の対応を迫ってるみたいなとこあるから(そーいうのがなくなればいいんだけどね)、個人的には気を使うようにしてる。でもみんなが気を使わなくちゃいけない!とはあまり思ってない。そうなるとまた斜め上の気遣いとか出てきちゃうと思うし。うまく折り合いつけられるといいんですけどねー。
通名に関しては、いかんせんずっと実名使ってきてるから細かいことはわからんです。役立たずですんません。もうちょっと物を調べてからもしかしたら増田でまた書くかもしれません。ただ、通名は別に在日じゃなくても使えるのではないかなあ。これも調べて考えてみます。あやふやでごめんなさい。ただ「特権」という感覚は今のところあまり持てずにいます。
チマチョゴリでの通学中、「すたーらいと☆」シリーズとガルディーンと死に急ぐ奴らの街とを矢継ぎ早に読んで惚れ込んでから十ン年、今は絶望的な思いと共にパクパクと口を開けながら新刊を待ち続けるばかりです…。
ちなみにすたーらいと☆の三作目にはニンジン嫌いの「キム・ウィルソンさん」が出てきたりする。
お昼休みに増田に来たらえらいことになっとるー?! 100ブクマ超えってなんですカー!
ついでにちょこっとお返事。
KQZ 読み物 もしかしたら知り合いなのではないかと思うくらい普遍的な話なのかと好感。ただ「歴史読んだらかっこいい人物いっぱいいるし」というくだりには「それ、ファンタジー小説だから!」と突っ込んでさしあげたい。
もしリアル知人だったら見て見ぬ振りしてやってください。すんません。
ところで、えー、金庾信とかかっこいいと思うんだけどダメですかねえ。この人、朝鮮学校の歴史の授業でも悪者扱いだったんですけど半島三国統一した人でなかなかかっこいいと思うんですよね。
HEX68 差別, 在日 火浦功に触れた時点で僕の中の何か壁みたいなものが氷解した。人を隔てるのは「血」ではないのだよなあ。
すいません、ありがとうありがとうとブクマコメント読ませて頂いて、このコメントでじわっと来ちゃったじゃないですか。お昼休みなのにー。
とりあえず結論:火浦功は偉大ということで。
死んでる作家・評論家・哲学者等……の中で、ぜひまた地獄や天国から蘇って何か書いて欲しい人たちへのリクエスト。書いてたらキリないので限定5人で。みなさんもあったらぜひ。
※ここの部分は「ラディゲは、コクトーに招かれた夕食の席で出た牡蠣にあたり、それが死の遠因になった」のような記述を見たことがあったのを元に書いたのですが、今探してみたところそのように書いてある文献は見つからず情報の出典は不明です。僕の記憶違いかもしれません。もし混乱を招いたとしたら失礼いたしました。ラディゲの直接の死因は腸チフスだったはずです。
本当に実写にして良かったなぁと思える作品はあまり多くない気がする。
昨今は何でも映画にしてしまったりするので駄作の領域から決して離れる事ができない。
いつになっても視聴者から称賛されるのだ。
そんなドラゴンボールに続くように、「ひぐらしのなく頃に 誓」が作られたらしい。
自分は原作を知り合いから教えてもらい読んだのだが、くだらないネタはともかくとして、なかなか面白かった。
・・・最初の4話くらいまでだが。
後から付け足したような話になってしまった時点で、「あぁ終わったな」と思えた。
本当に作品が終了した後に実写になると話を聞き、原作にどこまで近づけるかが問題だろうなと考えていたが・・・
公開後のネットの批評は極めて厳しく、ほとんどが口を揃えて「つまらない」だった。
実際に見てみたが、やっぱりつまらない。
どれもこれも一癖も二癖もある登場人物たちなのだ。
それらをどうにか補整するには、原作の舞台、物語を上手く表現するしかない。
が、それも出来ず駄作で終わる。
そんな作品であったのにも関わらず、「ひぐらしのなく頃に 誓」を作ったという。
これがどうなるかは分からない。
しかし、今までの流れを覆す事ができるような作品とは、到底思えない。
原作に人気があったとしても、実写ではそれを超える事はできないのだ。
Dunkan Black の The Theory of Committees and Elections に載っている、C. L. Dodgeson の投票理論についての業績の紹介が面白い。この本は 1998 に K. Arrow 以降の展開について増補した新版が出ているが、私が持ってるのは 1966 年あたりのもので、序文に Arrow の業績には触れないと書いてある。
おぼつかない英語力で読んだ限りでは、どうもオックスフォードの学部入学以来クライストチャーチ学寮の終生の住人であった Dodgeson は学内での決め事の改善を目的として独自に投票の理論を発達させたらしく、Condorcet らの先行研究はおろか、(統計の父といわれる) Galton らの同時代の研究も参照していなかった。Black が主張するその論拠というのがひどくて、ともかく彼は文学は読んでも同業者の業績を読まなかったし(とは E.T.Bell の主張)、Condorcet らの業績の含まれているクライストチャーチ唯一の(当然フランス語の)蔵書の封は(WW2後と思われる調査当時に至ってなお)切られていなかったとか、もういったいどんだけ引きこもりなんだよと。本当に絶対に見てねーんだろーなー?
それでも彼の(現存する唯一の、彼自身の所有していた)パンフレットには Condorcet の条件と同じものが現れていた。つまりこれは独力で同じ結論にたどりついたということだ。
なお Dodgeson は行列式の著書をものしたのち(これは『アリス』の次の本も、と所望した女王に献呈されたという真偽不明の笑い話があるくらいでよく知られている)、記号論理学の初期の研究にのめりこむ一方で初等課程向けの教科書ばっかり書いていて、要するに数学の研究者としては時代に先駆けすぎている上に怠け者であったようだ。
ちなみに Liddell 家(Alice の家族)の話も書いてあって家族ぐるみのつきあいだったとか、投票の理論の動機に連なる経緯も書いてあったのだが理解できなかった。
もちろんこんな面白い話は『きめ方の論理』には載ってなかった(‥っと思う、手元にいまない)。なぜかというと、Dodgeson の研究は後世に引き継がれることがなかったからだ。論理学の研究にしても、パズル的なものだったようで、Dodgeson を Frege あたりが参照するようなことはたぶんなかったのだろう(Smullyan は確実にネタにしてそうだ)。
面白さの質は Wittgenstein の火かき棒事件の顛末とか、そういうものに似ている。正直読んでいてアニメ「R.O.D.」の登場人物、読子さんの気分がちょっとわかった気がする。社会的選択理論はこの際どうでもよい。書痴に対する最悪の部類の釣り針であると思った。おそらく英国のカレッジ文化そのものがそうなのだろう。