はてなキーワード: 選民思想とは
なんか全然人信じられないね。地方の大学でたあとスマフォアプリの会社立ち上げて、なんとか成功したんだけど、なんか女性を値踏みするようになった。今30前でさ、専業主婦の奥さん欲しくていろいろ動いてるんだけどさ、なーんか醒めてるんだよな。
かなりの美人さんとか、高学歴で教養ある女性とか、全員昔の俺なら見向きもされなかったような相手でさ、ていうかそもそも昔からの女友達とかほとんどいなかったけどさ。そんな中でスペック高い女性と知り合って、食事に行ったりしても、うわー俺に金なかったらこの人俺の何に興味持つんだろーなーとかさ、ゲスパーしちゃうよね。あと、高いレストラン行っても慣れてなくてマナーとか必死だし、そういうところを女性に見られると余計辛いよね。本当は5、6000円くらいの居酒屋やイタリアンなんかが自分に合ってると思うしさ。
まあ、そんなゲスい女性じゃないのは見ればわかるというか、育ちがいい人って性格も曲がってなくていいんだなあ、って思ったりもするんだけど、一方で、昔の自分みたいな非モテ根暗オタクみたいな人はそもそもその人の人間関係にいなかっただろうし、ある意味同じ人間と見てなかったんだろうな、そういうナチュラルな選民思想みたいなの感じるんだよね。いや、自分の趣味のアニメの話とか露悪的に語ってもニコニコ聞いてくれるんだけどさ、でも金持ちじゃなかったらそんな奴は交友関係にいないでしょ?って思っちゃう。うーん、ゲスパーゲスパー。
まあ結局ね、学生みたいな恋愛に憧れるんだよね、くるりのばらの花みたいなさ、ああいう甘くて苦い踏み出せない関係を超えて、はじめて恋愛とかって出来るみたいな、そんなステレオタイプな幻想を抱いちゃうっていうか、どうしても体に染み付いてるんだよね。それで、そういう恋愛がもう二度と叶わないと思うと、気が滅入ってしまうよね。
久々の休日で今日誰にも会う予定ないから、なんか弛緩した文章になってしまったな。
まあこの疎外感に慣れるしかないのかな。
僕は今東京で働いておよそ9年ほどになる。
住んでみればなんということもない、普通の家だった。
駅が近いことだけが利点か。
ただ、温和に暮らしていきたいだけだ。
マンション購入でもすれば、といわれるが
ローンなんて組めないし、貯金もさほどしていなかったため
せいぜい500万円ほどあるだけで、おそらく同年代でも
少ないほうだろう。
2013年の国税庁の民間給与実態統計調査結果によれば、
だそうだ。
4%弱。
ようやく1000万円という人間はまあ、この最下層なわけだが、
とにもかくにもこの中にははいったわけだ。
かなり数値は動くかと思うけど。
格差社会が進行していくといわれる中での
持てなかったかを考えたくなったのだ。
もう少し正確に言えば、
どのように蠢いているのか、
サンプルはあまりないため、実質
知っているのは、極めて少ない階層ではあるが)
について、整理したくなったのだ。
何とも言えないが、だいたい内訳はこうなる。
昨年度:
額面:10,000,000円
手取り:7,800,000円
今年度:
月給はおよそ
額面:800,000~1,000,000円
手取り:650,000~800,000円 程度
コード進行的にはD7一発であるのイントロのギターのフレーズを取ってみましょう。「ラードーソファ#ーラドレソファ#ーレードラードソファ#ーラドドッドー」。これはひどい、一度も根音であるレが出てこないどころか、スケールとしてはむしろミクソリディアンスケール(ラ シ ド# レ ミ フ# ァ ソ ラ)として解釈したほうがよほど自然なフレーズになっている
これを見る限りレは二回出てきているように見えるのだが。それに、これらの音は(ミとシが無いのでペンタトニックを意図していると見るほうが妥当かもしれないが)Dミクソリディアン・スケールに含まれているものであり、D7にそれをあてるのは定石中の定石ということになるのでは?
7thをトニックにしているのは普通ではないと言えるかもしれないが、クラシック系ではそうであっても、ポピュラー系の教本ではブルース進行がらみで最初の方にそういうものが出てくるので、それも特別工夫しているとは言えない。テンション・ノートの使用に関しても、今時それを使っていない方が珍しいくらい。要するに、これだけみると「音楽オタクにとっても"おもしろい"ことをやろう」としていることは全く分からない。そう主張したいなら、もっと別の例を出すべきだったのでは?
そもそも音楽を聴いている人の殆どは音楽理論なんて知らないし、技術的に難しいことをしているとか凝っているとか、それ自体はどうでもいいことだろう。選民思想云々と言うなら、むしろそれらを理解できる聴き手の方が偉い、理解できない奴は死ぬべき、みたいな考え方の方がよほど選民思想に思える。
JUDY AND MARY、90年代を騒がせた"売れ筋"バンドのひとつですね。まー売れ筋だからか、「自称音楽ファン」からの評価は異常に低いですね。曰く「あんなの中高生のワナビーが聴く音楽だろ」「ジュディwwwwwアンドwwwwwwwマリーwwwwwwww」みたいな。でも先入観なくJUDY AND MARY を聴いてみましょう。実際よくできてるんですよこれが。
例えば、Miracle Night Diving という曲を例にとってみましょう。コード進行がついたやつが http://gakufu.gakki.me/m/data/DT02121.html:ここ] にありますね。動画は https://www.youtube.com/watch?v=xpLEm-cafyw:このあたり] で見れる。はいまずコード進行が「一般的なJ-POP」からかけ離れてることがわかるでしょう。まずサビ以外のコード進行がすべてテンションコードであることが見て取れますね。この時点で「あっちょっとヒねてるなこいつら」という感じです。さらに、コード進行的にはD7一発であるのイントロのギターのフレーズを取ってみましょう。「ラードーソファ#ーラドレソファ#ーレードラードソファ#ーラドドッドー」。これはひどい、一度も根音であるレが出てこないどころか、スケールとしてはむしろミクソリディアンスケール(ラ シ ド# レ ミ フ# ァ ソ ラ)として解釈したほうがよほど自然なフレーズになっている……(ドがナチュラルなのはブルーノート)。でも、曲全体としては結構ちゃんと「ポップス」してるんですよね。
ここからわかることはなにか。JUDY AND MARY は、「音楽オタクにとっても"おもしろい"ことをやろうとしながら、その上で"ポップス"であろうとした」ってことです。これはめちゃめちゃ難しいことですよ。言うなれば、「ジャンプに連載しながらアックス読者の鑑賞に耐えうるものにしよう」という強い意思を感じるわけです。一応言っておくけど、俺はべつに「アックス」が「ジャンプ」の上だと言っているわけではないですよ。そこにあるのは「指向性の違い」だけなんですからね実際。そのくせ、なんか、アックス読者の意味わからない選民思想で「ジャンプか〜〜〜まあね〜〜〜〜実際面白いと思うけどね〜〜〜〜〜」みたいなクッソ感じ悪いやつあるじゃないですか。その癖「いやまあ富樫は認めるけど〜〜〜」みたいなこと言うやつ。お前何様だよ、みたいな。
でも、たしかに富樫ってすごいんですよね。なにがすごいかっていうと、「ジャンプ」層からも「アックス」層からも支持されてるってこと。つまり、「パッ」と読んで面白い上に、「じっくり」読んでもいくらでも語るべきことがある。これって本当にすごいことで、つまり、作品が多層的にできてるんですよ。「トイレで読んでも面白い」という層で読んでもちゃんと面白い。「書斎でじっくり読み込む」という層で読んでも発見がある。このふたつを満たすことができる作家が希有な才能を持った作家であるということに異存がある人は少ないんじゃないかな。
でも!!!!!でもだよ!!!!!!!!!!なぜか「聞き流しても聴きやすい」という層でも聴けて、「アナリーゼしても面白い」っていう層でも聴ける JUDY AND MARY は、なーんか「俺は音楽好きだぜ」みたいな人たちから馬鹿にされがちみたいなところある気がするんだよね。それってさ、つまり「音楽好き」の文化レベルが低すぎるんじゃないの?????お前ら「マウントポジション」取ることにしか興味なくて、本当は音楽に興味ないだろ。みたいに思うんだよね、俺は。
あの方が手をかざしたら苦しんでいた病気が治ったとか、
あの方がいらした間だけ雨がやんで陽が射したとか、
そういう物言いがすごく腹立たしい。
そういった特別なイベントを奇跡と扱う発想が、間違ってるとか恥ずべきだとか、
理屈の上でも倫理的にでもズバッと一蹴できるなら、スルーできなくもないんだけど。
なんでモヤモヤするんだろう、これはどういう心理なんだろうという自分に対する疑問がある。
腹が立つのは、自分たちさえ気分よけりゃそれでいいっていう選民思想に無自覚なこと。
自分らだけが助かったり特別扱いされたってんなら、そうでなかった人がいるってこと。
全員を救えないレベルで、何有り難がられてんの?何偉そうに語ってんの?と
そういう奇跡を信じることで辛さを紛らすのに役立つのかもしれないけど、
なんだか話題になってるから書く。
やっと初心者を脱して中級者になりかけてるプログラミング学習者が関数型言語に何を感じているかを書こうと思う。
Haskellが短いコードでプログラムを書けるというのは分かる。
それでやりたい処理のほぼ全てがまかなえるということも実感している。
副作用のない小さな関数を合成して大きな関数を作る利点も分かる。
再利用性も上がるし、どこからどう影響を受けているかが簡単に分かるからバグも出にくい。
ただ、Haskellの基礎になってる圏論が何の役に立つのかは、まったく分からない。
むしろ邪魔なんじゃないかと思う。
ファンクターやモナドの概念が圏論で扱われているのは分かるけど、圏論なんて名前だけ知ってればコードを書くのに不都合はないだろう。
圏論が必要なのは、Haskellを設計する人であって、使う人ではないと思う。
なのに、やれクライスリ圏だ自己関手の圏だのと、うるさいったらありゃしない。
Linux上で開発環境整えるのにカーネルのコードを読めって言うぐらい的外れだと思う。
いや、知識として持っとくのはいいだろうけど、役に立たんだろ。
Rubyが羊の皮をかぶったLispとはよく言われることだけど、関数型言語もオブジェクト指向言語とそこまで違いがあるような気がしない。
純粋な言語ではできないけど、クロージャに内部状態を保持してもらって無名オブジェクトみたいな使い方をすることはあると思う。
その無名オブジェクトにもっとあれこれデータや関数詰め込めば、いつの間にか普通にJavaやC#で使うようなクラスのできあがり。
その間はなめらかにつながっていて、不連続に切れるようなもんじゃない。
関数プログラミングと言いつつ、オブジェクト指向の考え方は利用できる。
上級者はデザインパターンをdisるのが好きかもしれないけど、逆の考え方をするべきだと思う。
デザインパターンはオブジェクト指向言語の欠点を補うための苦肉の策じゃないよ。
関数プログラミングの基礎的なパーツだと思う。
だからちょっと見た目がすっきりするだけで、結局やることはオブジェクトプログラミングと変わりはないと思う。
関数プログラミングコミュニティの人って、業務でクソコードメンテさせられて、その現実逃避に美しいコードに擦り寄っているように見える。
もちろん、美しいコードを書けるなら書いた方がいいし、現代的な言語を使えるなら使ったほうがいいと思う。
けど、適材適所というか、オブジェクト指向言語でも、やってやれないことはないわけで。
役に立たない圏論をありがたがる所とか、どうもイキがってるように見える。
ネトウヨに始まり軍国主義、極右、排外主義、差別主義、歴史修正主義、ファシスト、ヘイトスピーチ、反知性主義。
いろんな言葉を持ってきては散々ネトウヨなる仮想敵に文句言ってるが、要約すると『お前ら頭悪すぎてマジでどうしようもねーな、何でこの程度のこともわからんの?』と苛立たれてるご様子。現にそう言う言葉をそのまま見かけることが日常茶飯事だ。
そしてそういう言葉を裏返して見ればつまりは自分達の事は平和主義で反差別で反ファシズムで人権を尊重していて頭が良くて正しい歴史を認識出来ていると自負していると言うことになる。
そして彼等自身の看板として実際にそういうプラカードも目にする。
一人の人間としてよくもそれだけ恥ずかしい自負を出来るもんだと素で思う。
特に歴史なんて簡単にひっくり返るものだ。歴史を疑わない歴史学者はいない。疑わないのはただ歴史を利用したいだけの政治家か宗教家だ。
また少なくとも前述の文句からすればとても彼等がネトウヨなる人達の人権を尊重出来てるとはとても思えない。
現にヘイトスピーチやらやってる人間に人権などないという意見も見たことがある。
ぶっちゃけそう言う自分の正義、その完璧さを疑わない人間性において彼らは石原慎太郎を始めとする自分を疑わない老害と大差ないと感じている。
要はただの選民思想で、自分と波長の合う人間を頭が良いと選んでるに過ぎない。
本当に頭が良いのならもっと上手く他人の説得に務めて欲しい。
少なくとも頭が悪いと苛立って当たり散らしているのでは敵を作るだけで何の得にもならない。
そんな手段、平和主義どころの話ではない。
とりあえずレッテル張り、と言うか言葉のイメージに頼るのは止めませんか?
ずっと思ってきたけれど、言葉に頼る人達はそのイメージばかり先行させて物事を語り過ぎていて、実態が伴っていないので信用も信頼も失い、仕舞いには言葉自体の質も落ち、その看板としていた言葉の威力が衰えると別の言葉を看板に挿げ替えて行くだけという節操のなさが見て取れて、ただただ愚かしく見えるので。
例えば中国が近年の日本を軍国主義の復活と煽ったり、それに乗っかって日本を批判してるのとか。
現在進行形で言論統制の上に領土侵犯してる国が70年近く不戦を貫いていてる国にそんなこと言ったところで説得力は国際的にも皆無。
また例えばネトウヨなるものに貼られてきたレッテルの変遷とか。
ブームかと思うくらい、次々と新しいレッテルが一定の時期に集中して貼られては変わって行く。
最近は歴史修正主義者が若干下火で、ファシスト、ヘイトスピーチ辺りが流行りだと思うが、どこをどう指してファシストなのか、そもそも反ファシストを掲げる人々が一人でも政治犯やらで捕まったり弾圧にあったということがあったのか。逆にファシズムや歴史修正主義と言うネガティブなイメージを与えて一部の主義主張を消し去ろうとする動向はよく見るが。
またヘイトスピーチと言うのも中国人、韓国人だからと罵声、罵倒を浴びせているならわかるが、とてもその限りとは言えない。
逆に平和団体やら人権団体と言う看板は胡散臭すぎて近寄り難かったり、そのグレードダウンした市民団体と言う言葉も今や普通に文字通り受け取って警戒心を緩める人は少ない。
もちろん中には本当にそういう志のある団体もあるのだろうけど。
まあともかく、現政権を批判するにしろ一部主義主張を批判するにしろ虎の威を借る狐とならず、もっと実態に基づいて批判したり説得力を重視して欲しいと思う。
実態を伴わないのに言葉だけで語るのは嘘も百回言えば何とやらで、事実、主義主張に反する人達をネトウヨと罵倒するだけで何の進展も説得もなく今日まで来た。
Macについて調べて出てくる比較記事の大多数に漂う薄気味悪さ、チープな選民思想が本当に心底気持ち悪い。
似たようなことは例えばEvernoteを勧める記事にも言える。恐らく大多数の人間がこの感覚を抱いたことがあるだろう。
あまりに浅薄だ。その愚かさを意識している自分像が文字列から滲み出ていて不快だ。加えてその意識自体に無理解な他者への嘲笑が内包されているときた。
お前はそんなつもりで書いたんじゃないと反駁するかもしれない。だが文字列はもう存在していて、そこからは既に腐臭が放たれている。
「どういうつもりで書いたか」なんてことは問題じゃない。問題は何が読み出されるように書かれているかだ。
思うにこの薄気味悪さは相互理解の軽視に由来する。
自らの製品のよさを理解できないものたち。その区切りを導入することについては何も言わない。
問題は、そうして区切られた「自分たちとは同質でないもの」=「他者」の感性が暴力的に抽象化され、さらにその暴力性が意識されていないところにある。
ドザであるとかマカーであるとか。日本人であるとか男であるとか女であるとか人類であるとか。いい加減にしてくれ。
もちろんだからといって抽象化をやめろなどと言うつもりはない(暴力でないことがこの世にいったいどれほどあるのか)。
もしかしたら分かり合えるかも知れない、「分かり合えない」ということそれ自体すらも分かり合おうとしない態度だ。
形骸化しているかもしれない自らの思考回路についての反省を可能性レベルで取り除く態度だ。
俺はそれを読み取って、ほとんど生理的な次元で、心底薄気味悪いと思う。
他者を汲み尽くせるとだけは思うな。
637 :ソーゾー君:2014/02/16(日) 14:36:44 ID:wkFlx6KQ
「団塊世代、エリート一族、有名大学卒業のエリート」←コイツ等・・思いっきり洗脳されてるからな・・
ひっくり返るから思考停止するんだよ・・洗脳の恐ろしいのはこれなんだよ・・
>>621も俺もひっくり返ると言う感覚が少ないの・・知らないだけだからw
選民思想に洗脳されてるエリート達の嘘も知らないし興味ないの・・
「クラシック?芸術?文学?しらねーよ・・」と言う連中を洗脳出来ると思う?
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/10043/1387207762/
原発問題にしろ、在日特権の話題にしろ、東大生と意見交換をすると、島崎藤村の「破戒」の購読を勧められる等自身の意見をあまり口に出さない。
差別意識ないし選民思想を持ってはならないという考えが東大生の中に蔓延っているようだ。
相手に対して偏見を持ってはならないとしながらも他方では、その思想信条がどこかの本書からの請け売りであることを理解していない。
〇〇が言っているのだから、君も見習うべきだ!
それこそプロパガンダではないのか。
自分の意見を持たずに相手の請け売りをして、さも自身の考えであるかのように言葉を並べ立ててしまう。
東大生というのは、如何なる事情も本書が全て正しいと言わんばかりである。
例えば、島根県教委の一件で明るみとなった、はだしのゲンは政治プロパガンダが色濃く反映されているといった論であるが、
それは当然である。
被災を経験したために目の前で起こった事が何よりも真実であるとする作者の心情(思想)が本作に溢れているのである。
一方、反米思想や日帝批判を繰り返し煽動していった事もプロパガンダであるのは間違いない。
にも拘らず東大生という生き物は、作者の意見のみを反映し、あたかもはだしのゲンは被災によって悲しい想いをした、悲劇を繰り返さないためにも読まれるべきと転嫁したのである。
どうも自虐史観による戦後教育から、日本人は謙虚に生きなければならないとか近隣のアジア諸国に謝罪と賠償をしなければならない、それは本に書かれているからだという単純な理由から、そのような思想に傾倒しているように見えてならない。
いずれにしても、東大に通う奴はその思想が本の請け売りでしかない。
つまり実体を伴わない形式的な思想、プロパガンダを真に受けてそれ以外は全部虚構であるといった考えしか持ち合わせていない。
東京大学に通うと、例えば東日本震災時の地震は大した事がないとしたり津浪が起るはずがないとしたり、本に書かれていない事が実際に発生すると、謝罪より先に責任転嫁を率先して行う。しかしながら、それもこれも政府が悪い事にして、自らすべき事を政府責任として責任放棄をするのである。
偏見を持たない。
しかしそれは、本の請け売りであり自身の意見を持たない、没個性化した証明である。
未だに原発は安全であると、あるいは逆に原発は危険で廃炉すべきだとする誇大妄想をしてしまうのはそこにある。
すなわち東大に通うような奴は、(他人の政治的思想に汚染された)自身の意見が絶対的正論であり、それは本書に記されているという前提のもとに発せられたものである。
彼らは本をたくさん読むが、しかしながら、その本質を理解できていないのである。本はあくまで知恵を蓄積するためのツールである。
にも拘らずそれが理解できないのだ。
俺はゲームはプレイしてません、レビューを読んでの感想という訳のわからんものです。読み捨ててください。
そんで感想なんですが
いいんじゃないんですか?別に普通じゃないと思う人がいても、普通かどうかなんて主観的なものでしょ?
自分の考える普通に外れる人をことさらに非難して、自分の考える普通に合う人をむやみに称える。まるで普通という選民思想だ。
普通に対する考え方は千差万別。人の数だけあります。自分にとって普通かそうでないかだけを絶対として判断するのはどうかなと思います。
自分の考える普通と違うものに対しては、まぁそういうのもあるよなって態度でいいと思います。
それはそれとして、話はちょっと変わるんですけど、このエントリーの普通というのがよく分からないんですよね。
人間は誰でも――とまでは言えませんが、少なくとも私は不安や恐怖を克服して普通になるために生きています。人一倍臆病な人間なので、常に社会に適合できなくなったり共同体から爪弾きにされたりする恐怖に怯えながら暮らしています。嫌で嫌で仕方ないのに身体に鞭打って一年三百六十五日働きつづけているのも普通になるためです。取りたくもない資格のためにやりたくもない勉強をするのも普通になるためです。思い出したように家族サービスをするのも普通になるためです。友人と遊んで関係を維持しているのも普通になるためです。読書をしたり、映画を見たり、ノベルゲームをやったりするのも普通になるためです。せっせこ筋トレをしてプロテインを飲んで身体を作っているのも普通になるためです。ブログを更新して、拙いなりに自分の意見を発信したり、ビューワーさんの意見を受信したりしているのも普通になるためです。全ては自分が普通になるためと言っても全く過言ではありません。普通になることこそ人生の目的なのです。
すいません、ちょっと何言ってるか分かんないです。
なんだか普通というものを特別視しすぎで選民思想のようなものを感じます。
社会に適合できない人、共同体から爪弾きにされる人は普通じゃないの?
働いてない人、働けない人は普通じゃないの?体を鍛えてない人、鍛えられない人は普通じゃないの?
嫌なら別に働かなきゃいいじゃん、やりたくなけりゃ勉強しなきゃいいじゃん、それで普通じゃなくなるの?普通ってなに?
社会に適合できないなら、その社会のほうが普通じゃないんだ、共同体から爪弾きにされるなら、その共同体のほうが普通じゃないんだ
世界は広い、もっと別の社会や共同体がある。自分が属する社会や共同体の普通は絶対的なものじゃありません。
普通に対する考え方は千差万別。人の数だけあります。自分自身の普通というものを見つけていきましょうよ。そっちの方が人生の目的っぽくないですか?
まぁ普通に対してどういう考え方を持つか自由です。社会に適合すること共同体から爪弾きにされないことを、自分自身の普通にするのも自由です。
しかしその場合、仮に同性愛者が同性愛を理由に社会から不適合とされたり共同体から爪弾きにされたとしたら、同性愛者は普通じゃないということになる
普通ってそういうものじゃないでしょ、普通かどうかを誰かの判断を委ねるものじゃないでしょ、普通かどうかは自分自身で決めるものでしょ
ところで、ブログ主は百合ゲーをしていますが、その事を普通じゃないとは思ってないでしょう。
そしてブログ主はいわく普通になるために日々努力しているようですが
ブログ主が嫌々働いている職場の同僚や、サービスしている家族や、関係を維持するために遊んでる友人は
百合ゲーをしていることを普通に思うでしょうか?もしかしたら、彼らからしてみれば普通じゃないかもしれない
普通なんてそんなもんです。自分にとっての普通が、誰かにとっては普通じゃないかもしれません
最後に私がオススメする百合作品を紹介しますね。氏賀Y太の「女体解剖授業」収録『マテリアル』シリーズです。
人によっては百合だとは思わないかもしれません。普通だと思わないかもしれません。
それもそれで一つの考え方でしょう、その考え方を私は否定しません、まぁそういう考え方もあるよなぁと思います。