はてなキーワード: 選民思想とは
五輪エンブレムを盗作って言うのはアニメキャラの顔が見分けられないオカンと同じ
何だろう、内容は納得できるのに何かムカつくな?
と思ってたら、
>この会見を見てると、日本では小さなころからデザイン教育が必要だよなぁ…と痛感する
ここだわ。
ここに違和感の全てが集約されてたわ。
あのな、俺らにしてみたらな、
その程度なんだよ。
それをさ、
>この会見を見てると、日本では小さなころからデザイン教育が必要だよなぁ…と痛感する
ってさ
てめえらの趣味仕事ワールドの常識を素人に押し付けてんじゃねえぞタコ!!!!!
俺らは佐野研二郎の個展に来たわけじゃねえんだよ!!!!!!!!!
なんで素人の俺らが目を養わなきゃなんねえんだよ!!!!!!!
それを見る90%以上の人間が受動的なデザイン素人だろうが!!!!!!
何が「ハァ~~~これだから素人は(笑)」だバーカ!!!!!!!
いや、何もこの人に限った話じゃなくて、
この件全体に漂う佐野擁護派のヤレヤレ素人(笑)感に腹立つんだよ。
「プッwこの違いも分かんねえんだw」とか言ってるのと同じだよ。
説明より先に選民思想が顔覗かせてるのが切ないわ。
まあ「佐野チョンw」とか言ってる恒例の連中は燃やしていいと思うけどね。
洋楽厨の選民思想を煽り、J-POPerな僕がより惨めになるかもしれんが書いていく。
頭の良い悪いに関係なく、洋楽を聞いてる人は全体的にセンスが良いと思います。
正しくは「音楽的なセンスが良い」とも言いますが、とにかく小さい頃にピアノを習っていたり、
学生時代にバンドを趣味でやっていましたとかそういった人達です。
僕がそういうのを自覚したのは20代前半で、友人と遊んでいる時に
「何となく話している言葉が的確で面白い」「何気なく選んだ服のセンスが良い」
洋楽を聞いている友人は特にそれらに興味を持つわけでもないのですが、
安くても何となくセンスの良い服を着ていて、話も面白くて、メールする時もスッキリしていて読み易いです。
一方でいくら僕が好きなモノを磨いていても、出来上がった完成品(服、文、話した言葉)を思い出すとどこか違和感があります。
バトオペという操作者の腕が大きく問われるオンラインゲームをしていますが、音楽のセンスが良い人はやはり圧倒的に上手いです。
僕はいまちょっとしたクリエイティブ職に就こうと転職活動中ですが、そういった人達とやっていけるのか、あるいは勝てるのかとても不安です。
音楽的センスを磨くために、キーボード買おうとしているぐらいです。それでもまだ不安なのでレトリック覚えようとしています。
結論ですが、それが良い人は、空気を読むのがうまいのではないでしょうか。
そういった方たちは会話中に音の「澱み」を聞き取り、的確にそれを「浄化」する音を返す事が出来るのではないでしょうか。
意味が分かりませんね。僕も何言ってるか分かりません。
要は人が心地の良い音を聞き取ったり、発したりすることが自然と出来ているという事でありまして、
小さな頃から人の立場に立って考えたりすることが出来ていたのではないでしょうか。
後は服のセンスの話ですが、これは分かりません。「人が気分の良い服を着ることが出来るから?」うーん違う気がします。
誰か答えを知っている人は教えてください。
どっかで小学生の親達が集まるにはサイゼリアが一番とかいう記事を読んで、どっかでそれは富裕層の思いやりだとぬかしておられて、今年最大級に嫌な気持ちになった。
サイゼリアは味とサービスが最低で、値段と冷暖房と長時間いられることだけが取り柄だ。道端で缶ビール飲んでるのとあんまし変わらない。
まあちょっと立ち話の延長だし屋根ついてるだけ大人ではないか。当の小学生の親達はそれで平和なのに傍から余計な分析して、
「サイゼリアみたいな最低な店に一銭も払うのは惜しい、それは富裕層共通の認識で、富裕層は真に価値のあるものにしか金を払わない、だからこそ富裕層になれたのだ。富裕層がサイゼリアにいるというのは金のない貧困層への配慮」
という趣旨の、ものすごい世間知らずの、選民思想に基づいた発言をしておられた。
サイゼリアにいる「貧困層」は飲食に金を払っているわけではない。小学生の親の集まりなど断然参加したくない集まりなわけで、
ドブに捨てても許せる金額に見合うのがサイゼリアしかないからサイゼリアなんじゃないか。
「貧困層」は、大事にしたいつきあい(ママ同士気が合うとか、幼稚園から子供が仲良しとか、要するに価値観が一緒)ならばサイゼリアではなく家に呼んだり呼ばれたりしている。
公立小学校には、公立小学校のくせに変なエリート意識の親が紛れ込んでくるから困る。珍獣DQNの生態見物にきたような気分で公立に子供入れられると迷惑だ。エリートさんの子供はお受験して私立に入れて世の中に金回してくれよー。
日本の「富裕層」は賢く税金を取り戻すことばかりに熱心で、実は大して税金負担してないように思う。サイゼリアが安いと思えるくらい金持ってるならもうちょっと社会に貢献したほうがいいですよ。
一つは直前までの苛烈なNHK取材にやり過ぎた感はなかったかそれによって自殺に追い込まれたか、ということ。
もう一つは理研の肝入りでスタートしたSTAP細胞の大失敗が理研や理研を推していた現政権にとって非常に拙い問題であった事から自殺に見せかけて殺されたか、ということ。
怖いのはいずれも普通にありうる事だけど、個人的にもう一つ、実は思い当たる事がある。
笹井さんといえば2年で教授になったほどのエリートで非常な選民思想を持った人物だったということ。
また、当時IPS細胞の山中教授とライバル関係にあって、彼がノーベル賞を受賞した事で焦りを覚えていたかもしれないということ。
小保方さんの事で二人はもう一人の協力者若山教授と共に新しい細胞の可能性を示そうとしたこと。
これらを鑑みて一つ気になった事がある。
笹井さんが自殺した時、彼はエリート意識がきわめて強い人種だった事は分かっているが、実は前年まで似たようなケースが少なくとも二件はあった。
一つは永田メール問題(または堀江メール問題)まで民主党の若手エリートとして期待された俊英永田寿康元議員がその後自らを悔いて自殺したこと、
もう一つは泥酔会見の自民党元財務大臣だった中川昭一元議員がこの会見ののちに失脚して失意の内に自殺したこと。
いずれも将来を嘱望されたエリートだった事に着目したい。
すなわち今回の笹井芳樹の自殺もこれらと同じではなかったのか?と言う事である。
まして、いずれは理化学研究所の重鎮として期待された傑物だっただけに今回の自殺はどうにも解せない事が多い。
しかしながら、辻褄を考えると永田議員や中川大臣の時と同様、失意の内に自殺を図ったというのが真実ではあるまいか。
そう思えてならない。
そういえばあまり書いてこなかったと思ったので、今回はなるべくドロドロした事を書いてみたい。
さて、“人間ヒマで余裕があるとロクな事をしない”というのは、歴史的かつ普遍的な事実である。
市役所とかの歴史がそのまま、ドロドロした人間関係の歴史であるように。
まあ大体この辺りが古い大きな神社の職員構成層であると考えてもらっていいし、おおよそ左から順に尊重される。
この序列はコネ順として捉えるとわかりやすい。神社界で物を言うのは人間様のお口ではなくて、コネと金がすべてである。
年功序列、上位下達をこそ金科玉条とする神社界においては当然、職務命令に対する理解よりも遂行よりも服従そのものが求められる。
「伝統を堅く守る」という事 = 「自分の頭で考える余地がない」という事であり、アレンジャーやアドバイザーは不要である。自分の意見を言わずにはいられないタイプの不具者は、転任だの何だの理由をつけていずれ追い出される。経歴に転任の多い奴はこの不具者であるとすぐわかる。
以上の背景を前提として、神社内にも暗闘が存在するわけであるが。
まあこの暗闘てのは一般的には俗界において“社内政治”と言われているものに類する。
より具体的には、世襲経営者もしくは実質的な経営者層に対し、代々職員や兼業神職が、まるで反抗期のガキのように反旗を翻すものが多い。
ただし、待遇改善や職場環境向上を求める声はほとんど上がらず、神社運営における主導権争いがメインになってくるのが特徴的な点と言える。
とは言え、大体の神社において経営者層というのは大体決まっている。どのあたりが宮司になるとかは大体決まっているし、また世襲のところもある。
となれば雇用主と被雇用主は明確に分化されていると言えるし、また、飼い主が誰かわかっていない飼い犬などただの狂犬である。
なのになぜ、経営者の座はどうせ何代経とうが小揺るぎもしないのになぜ、このような主導権争いの暗闘がわざわざ発生するのかというと。
「ウチは代々この神社に勤めてるから」という、自宅感覚で職場に意見する、代々職員。
また、自分の家系で代々ちっぽけな神社の宮司を勤めているというだけなのに“神社界に重きをなしている”と勘違いし、また生活費が稼げないからよその神社様にお勤めして食わせてもらっているのに自宅感覚で職場にて宮司の如く振舞う、兼業神職。
まあカンタンに言えば、でかい会社において、そこに勤めているよそのちっぽけな会社の社長やそこの後継ぎが、偉そうに振舞っているのと同じ感覚である。
経営者としては、こいつらはタダの被雇用者なのだが、先祖代々のコネがあるから無下にはできないし、地縁血縁もある事だから粗略には扱えない。
で、こいつらがしがない雇われとしての自分の立場を自覚しているならいいのだが、神社に入ってくる段階で既に、コネで楽して資格とったりコネで楽に就職決めたりして入ってくるだけに、当然のごとく選民思想に満ち溢れており、強く出れない経営者の立場を逆手に取り、職場においても我が物顔で振舞う。
なので止める者もなく、こいつらは職場の腫れ物と化してゆく。
で、すっかり腫れ物と化したこいつらが必ず何をするのかというと、神社運営における主導権争いである。
自分達だけでやるなら好きにすりゃあいい話なのだが、迷惑な事に職員全体を巻き込んで争いをおっ始める。
宗教家が政治に興味を持ったところで碌な結果には結びつかないし、社内政治においても同様である。
金や権勢や社内政治に興味のない人間でも務まるのが聖職者のはずなのだが、否応なしに巻き込まれる。
まあ嫌そうな顔をして正論を吐く程度の自由は与えられるのが、一般企業とは違うところか。
「ここはお前ん家の神社じゃねえんだよ、そういうワガママなら家に帰ってパパ宮司に言えや」みたいな事をオブラートに包んで言っても、
「そういう事を言い出したら意見なんてできない」みたいな一般論を返すだけでまったく内省の気配すらない。
この辺は一般企業と何も変わらないのだが、もちろん神職の養成機関においても、年功序列、上位下達を重視した教育が施される。
伝統を堅持する神社界に、新しい意見はいらない。その考えにはただ単に飯食う為に神主をやってる私も同意する。てかどうでもいい。
しかし、飼い主が誰かをわきまえていない飼い犬は明らかに不要である。
そこんところはキッチリわきまえ、誰におまんま食わせてもらってるのか自覚し、飼い主に尻尾をきちんと振らない限りは、代々続く家の子孫だろうが何だろうがただの狂犬の群れである。
職場に対して偉そうに意見するのならまずは、テメエん家の神社一本で食ってけない、情けない我が身を省みて大いに恥じるべきである。
やり方次第ではどれだけ小さい神社だろうが、一社の故実を破壊せずに神社一本で食ってく方法なんていくらだってある。でもそれをしない。思わない調べない実行しない。
まずその己の怠慢に対し、親や祖先や神社に対してごめんなさいと言うべきである。
自分ちの神社だけで食ってけないなら、食い扶持を稼がせてくれるヨソの神社に対して偉そうな事は言わない。
何年勤めていようが、何代勤めていようが一緒。雇われは雇われ。
てかそもそも、そういう偉そうな事を言える立場じゃない。
以下ネタバレ含む。
自分は、学生の頃にリアルタイムで、エヴァ旧劇とかリリィシュシュとかヒミズとかを観ていた世代だ。
ああ言う救いの無い作品を観た時の、絶望感に浸る感覚が好きだった。
当時は商業主義丸だしのエンタメ作品なんて、クソ食らえだと思っていたし
そんなものを好むやつを、心の中で見下していたと思う。
さくらの唄も、ワールドイズマインも、人間失格も、ノルウェイの森も、絶望の世界も、レディオヘッドも、その頃に出会った。
自意識過剰で自己顕示欲の強い、典型的なサブカル被れの痛い学生だった。
年齢を重ねるごとに、そう言う選民思想みたいなものの痛さも知り
付き合っていた彼女の影響もあって、売れてるものには売れるだけの理由とか魅力がある。
って言う風に考えがシフトチェンジして、今はワンピースもミスチルも伊坂幸太郎も好き。みたいな
この作品は救いの無い中学生編(まさに現代版リリィシュシュのような)と
読後に、これは傑作だと思った。
そう思えたのは(ネットの評判を見ると割と蛇足とされる意見の多い)高校生編の展開があったからだ。
中学生編で終わらなくて良かったと心底思う。
登場人物が過去と決別して、普通の幸せを手にする過程は読んでいて心地良かったし
絶望だけで出来たような物語を、もう今の自分は求めていないのだと改めて思った。
誰かが不幸になる話なんてクソくらえで、どうせなら登場人物が幸せになって欲しい。
そう思うのは自分が歳を取ったからなのか、時代の流れがそうさせるのか。
今は、綾波がポカポカして、アスカが鳥に食われない時代なのだ。
救いなんていらねえよって思うんだろうか。
焼身自殺で終われよって思うんだろうか。
なんとなく、そんな事を考えた。