はてなキーワード: 若者言葉とは
SHIROBAKO Advent Calendar 2017(https://adventar.org/calendars/2092) 21目、太郎について書きます。ブログやってないんで増田から失礼します。
太郎は序盤は話を引っ掻き回す役柄で、後に本人が言うように「抜けてるようで抜けてる」キャラです。特に5話までは万策尽きかねない大きな失敗を2度もしてしまい、更にそれを他人に相談・報告するのを後回し問題を大きくしていました。そんなトラブルメーカーであるものの、私は太郎が好きです。そこで、この記事では太郎の魅力について書こうと思います。
太郎の台詞は若者言葉を多用しているためか軽く、他の人に引かれたりスルーされたり軽く流されることが多いです。そんな中、珍しく本田さんに褒められた言葉があります。それは、
「でも売上なんて気にしてやりたいことがブレたらいいもの作れませんよ?」(9話)
です。
太郎自体はちゃらんぽらんであるものの仕事に対する姿勢はしっかりしていて、それはきっと太郎がアニメを好きだからなんだと思います。後に出てくる平岡がアニメは好きだけど劣悪な現場で心を摩耗しスレてしまったのと対象的に、太郎はどんなに失敗しても、どんなに怒られても、アニメに対する態度は変わりません(武蔵野アニメーションが良い環境であるということもありますが)。17話目、急にPVが必要になったときに「そーだそーだー!むさにの本気を見せるんすよー!」と「適当にやろう」という平岡の言葉とは反対のことを言っていたのも印象的です。多分太郎は何も深く考えていなくて、良い映像は良いものだから良いことだ!というすごく単純な思考で軽く言っただけで、その負担が自分にかかってくるっていうのを全く考えていないんだと思います(実際直後に宮森にPV用のスケジュールを渡されて「無理ッスこれ…」と言っています)。1年目といえども太郎はこれまで無茶なスケジュールで苦労をしてきたことがあるはずで、その大変さもわかっているはずです。だから、本気でPVを作るとなったら自分が苦労することになるとすぐに思い当たるはずです。でも何故そこまで思考が至らず、平岡のように「適当にやろう」と言えないのでしょうか。
それは、太郎が「ずうっと夢が覚めてない人」(19話)だからではないでしょうか。
「まだこの仕事に夢見てるんだよ」は宮森に向けられた言葉で、同じ一年目である太郎もまだスレていないのは珍しいことじゃないのかもしれません。でも宮森ほど仕事もきちんとできないのにも関わらずあれだけ楽しそうに仕事をやれているのは、太郎がずうっと夢が覚めない人だからじゃないかなあと思います。平岡がそういった人間のことを「俺は嫌いだな」と言ったのはかつての自分の姿であったからだろうし、そして失われてしまった未来の自分の姿だったからでしょう。太郎はどんなミスをしてもどんなにきっつい仕事があってもどんなに怒られても、次の仕事ではまた楽しそうに会社にやってきます。それは楽しい未来がこの先にあると確信しているからでしょう。それはアニメ愛のおかげかもしれませんし、元々の性格なのかもしれませんし、周りの環境のおかげかもしれない。あるいは全てが理由なのかもしれません。理由はともかく、私は太郎のその姿から「ずうっと夢が覚めてない人」っぽさを感じるし、そうであってほしいと思っています。そして、それこそが太郎の魅力の本質なのではないでしょうか。
太郎は二話で声優のオーディションに関し「まじで!?100人も声優さんに会えるんだー!サイコー!」と言っていましたが、実際のオーディションは描写されていた通りとてもしんどいです。そんなしんどいオーディションに、ずっと夢の覚めない太郎がうきうきと臨む日が来るのをいつか見てみたいです。
若者言葉から日常用語にかわるのってすごいけど、それはやっぱり元のちゃんとした表現を覚えてこそだと思う。
たとえば、みなさん使ってませんか?
「やばい」
って言葉。
この間、仕事場の同期と話してたけど、これって汎用性高いよね。
例えば
「頼んだパフェの見た目がやばい!(量が、盛り付けがすごい、多い)」
「昨日の夜、キッチンでGみてさー、やばかった!(怖い、気持ち悪い)」
「昨日露出狂見たんだけど、まじやばかった(常軌を逸してる)」
“やばい”って文章にもよるけど言葉の中に意味を含みすぎてるよ。
含みのメタボリックシンドローム。
どんだけ欲張りなんだかな。
んで同期と話してた時、たまにはちゃんとした言葉の使い方もしなきゃなぁと思っていい方法を考えてみた。
お酒を友人と4人くらいで飲む席で。事前に100円を大量に用意。
真ん中にペットボトルを切ったような、まぁ入れ物なら何でもいいんだけど集金箱。
やばいって1回発言してしまったら、その集金箱に100円入れましょう。
連発したら100円玉がコインゲームのように吸われていきます。
単にそれだけ。
余ったら割り勘再分配。
他愛無い会話に上品さをプラスできるかもしれないし、もっというとわからなくなったときになんて表現だったかな?って調べるのもありよね。
まだ実践してないけど←
言葉なんて伝われば良いから、細かいことには気にしないという人がいます。
言葉の乱れについて毎回細かく言う事が正しいかは分かりません。
しかし、言葉なんて伝われば良いという感覚はまさに伝わらない原因になるのではないかと考えます。
あるサイトで(個人サイトでは無くて公のサイト)「胸キュン」という表現がされていました。何かと思って検索したら、少し昔にこういう表現が存在したらしいです。
他に、「ロハ」という言葉が使われていたことがありました。何かと思って検索したら、大正時代では無料の事を若者言葉でこのように表現したらしいです。
伝わるだろうという感覚で上記のような表現をして、いちいち検索させるのは、公の場として不適切だと考えます。大した手間では無いけど、検索させることが失礼。
「さわり」など誤用の多い言葉を誤用で投稿されたり、必要性の無い伏せ字も誤読を招き分かりにくいです。
実際に、質問サイトで質問の意図と異なる回答が付いていた事もあります。
私自身も文章はかなり下手ですが、俗語や隠語なんて伝わる人と伝わらない人に分かれる事くらいは理解できます。なので、親しい友人間のやり取りを除いては、一般的な表現の使用を私は心がけています。
少し時間が経ってしまったが、アニサマのレギュレーションに端を発した『コール禁止論争』について持論を書き殴ってみる。
中立の立場で書いているつもりだが、中立ゆえに少々過激な内容となってしまっているのでご了承いただきたい。
興味なければ読み飛ばしてください。
私自身はアニソンライブに年15~30回程度参加して10年以上になるアラサー男性である。
最近では特定のタレントを追いかけるというよりも、作品推しのスタンスで参戦する事が多くなっている。
渦中のアニサマについては代々木時代に1回、さいたまスーパーアリーナに箱を移してからはほぼ毎年参加している。
いわゆるオタ芸については遠い昔に嗜んでいたこともあったが、色々あって今では現場で打つことはない。
それゆえに近くでオタ芸を打たれることや過激なコールに対しての嫌悪感は他の参加者より小さいほうだと自認している。
この件の一番の問題点は、『言葉の定義が曖昧であること』だと感じている。
人間というのは文章を読んだ際、自分に都合の良いように解釈する動物だと常々思っており、「周囲への迷惑となるコール」だとか「いわゆるオタ芸」なんていう曖昧な言葉を使っている限り、全員が納得する形で議論が収束することは永遠にありえないと断言できる。
ネット上でこの件について言及している方の意見に目を通していて気付いた事として、オタ芸に見識のある人の言う「オタ芸」と、オタ芸に疎い人(忌避する人、規制する側の人を含む)の言う「オタ芸」にズレが生じている事が散見される。
(余談だが、「オタ芸」と「ヲタ芸」は異なるものだ!という意見も見かけたが、個人的には表記ブレの範疇かと考える)
例えば、オタ芸の一つに「タイガー」というものがある。(タイガーファイアー…と叫ぶアレとは別物なのであしからず)
これは、直立不動で動かずにステージの演者に熱い視線を送る行為のことを指し、虎視眈々と獲物を狙う虎の様相を語源としている。
参考⇒https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%BF%E8%8A%B8
オタ芸が禁止と明示された際に、オタ芸を嗜む人が規制側に対して「タイガー」もしては駄目なのかと質問すると、
「ここで言うオタ芸とはそういう言葉遊びの事ではなく、腕を大きく振りまわす等の迷惑行為の事を指している」という回答が返ってくる可能性が極めて高い。
(誰とは明言しないが、実際にそういう回答をした人を見かけたことがある)
オタ芸を忌避する方々もこのような一見不毛と思われる似たようなやり取りを見たことがあるのではないか?
ここで私が疑問に思うのは、オタ芸に見識のある人が「タイガーはオタ芸」と定義しているのに対して、
オタ芸に疎い側が「タイガーはオタ芸ではない」と断定し、あまつさえその認識のまま公のレギュレーションに明言してしまう。
このいい加減さ、傲慢さは何だろうか?
前項にも記したが、人間とは自分に都合の良い解釈をしてしまうものである。
運営はもっとオタ芸の勉強をしろ!などと言う気は毛頭無いが、せめてこの差を認識し、万人が納得できるような言葉使いを意識して頂きたい。
自己紹介でも述べたが、私は過激なコールに対しての嫌悪感はあまり感じないほうだ。
平たく言ってしまうが、近くでイェッタイガーと叫ばれても全く不快だとは思わない。
(もちろん綺麗にキマっている事が前提だが)
一方で、広く浸透しているが私は不快だと感じるコールも存在する。
具体的に一例を上げるのであれば、THE IDOLM@STERのAメロの「フワ*4」が有名だろうか。
少なくとも2ndライブぐらいまでは裏打ちで「ッハイ!ッハイ!」だったが、いつの間にか前述の「フワ*4」に変化し、定着していた。
Aメロで「フワ*4」を入れること自体が比較的珍しいゆえに型破りの感があり、個人的には当時のコールの方がしっくりきており、現場で現在主流のコールを聞くといまだに強烈な違和感に襲われる。
乱暴に言い換えると、私の周囲で「フワ*4」する行為は『周囲への迷惑となるコール』に他ならない。
今回主張したい事とは主旨がズレるため、この曲のコールとしてどちらが正しいか・相応しいかを論ずる気はないが、そういった考えを持つ人がいることを知っておいてほしい。
結論としては、『周囲への迷惑となるコール』という言葉は非常に曖昧で、個々人によって定義がまったく異なるという事である。
前項と同じく、万人が納得できるような言葉で記さないことには根本解決には至らないだろう。
最後に、ライブイベントにおけるコールというものに対して、持論を述べさせてもらう。
コールという文化は地域や風習によって異なる『言語』に特性が似ていると感じている。
遠い異国に行けばまったく異なる言語でコミュニケーションを取っていたり(V系のヘドバンあたりが顕著だろうか)、
別の地域や閉じられたコミュニティには『方言』や『スラング』というものが存在する。
若者言葉が時を経て全ての世代に定着するように、コールも時代とともに少しずつ変化している。
かつてPPPHがアイドルライブから声優ライブに輸入され定着したように、時には外来語が定着することもあるだろう。
よく話題に挙がるイェッタイガーも新語の一つとして認知を広めつつあるが、使い勝手が悪ければ大衆には根付かず廃れる、
あるいは一部の人だけが使用するスラングのような立ち位置になるのではないか、などと根拠もない憶測をしている。
自身が新しい言葉を使わないまでも、古きに固執し、新しい文化を受け入れない頑固な人物は
自分自身が変化を受け入れられていないことを棚に上げつつ理想を言わせてもらえば、文化の違いを認識し、変化を受け入れる柔軟さを持ち合わせた上で、それぞれ自分のスタンスで好きなようにライブを楽しめればみんな幸せになれるのになぁ…なんて思っている次第だ。
元のゲーマーも、この増田も、要は無自覚なボンボン。普通に世間で苦労してる社会人に怒られて逆ギレしてる、それだけの話。
この場合「ボンボン」とは、ただ「日本人」として生まれ島国の中で特段「民族」を意識することなく育ったことを指している。「自民族中心」どころかそもそも圧倒的に無自覚に日々を安穏と暮らしてるこの子らは、自分という存在や立場の暴力性やら何やらに対しても全く無自覚だ。過去の歴史も知らず、「日本人であること」が「アイヌの人々」に対して何を意味するのか全くわかってない。そのせいで、「ドイツ人/ユダヤ人」というごく分かりやすいたとえを出されても理解できず、それが「ヘイトスピーチになり得ること」の意味が分からない。「日本人であること」の上であぐらをかいているのに、「民族性とかオレたち知らないしかんけーない」が通用すると思っている。
もう一度確認するが、ドイツ人/ユダヤ人に置き換えた場合、当該の発言がいかにヤバい発言になるか分からないはずはないと思うが、どうだろう? ヘイトスピーチ扱いどころか「冗談」「違う文脈」などという言い訳すら許されないだろうし、その発言したのが仮にドイツ人なら職を失ってもおかしくないくらい社会的信用に関わるだろう。それは、まっとうな社会人ならそういう過去について「教育」されており、「知らない」ということ自体が犯罪的だ、という共通理解があるからだ。では「アイヌ問題」に関しては? 残念ながらアイヌ問題についてしっかりとした「教育」は日本の場合ほとんどされていないだろう。北海道以外では、触れられることすらないのでは。だが、この日本社会で生きている「アイヌ」の人々にとってそれは生々しい日々の現実であり、まさしく「知らないこと自体が罪」なことなのだ。
まさしく「踏んだ人には踏まれた人の痛みは分からない」。だから「踏まれた人の反応」から推測するべきなんだよね。
この件について、アイヌの人の側から、当該発言者の余りの無思慮・無思想っぷりについて、むしろ知らないがゆえに/知らないことそれ自体が批判されるのは、全く当然のことと思うし、知らないで許されるという筋のことではない。増田の分かっていないところは、まさにそこ。知らないで押し通そうとしていること自体が「そういう発言を許せ」という主張になっており、それは「知らないで済ませてよい」という主張とイコールになる。アイヌの人がどのような目に遭ってきて、いまどのような境遇にあるか、そのことへの想像力も私たちがもたないで「よい」という主張であれば、これはもう政治的主張だ。本人がどういう意図で語っているのであれ、増田と元のゲーマーの彼の言っていることやっていることは、そういう政治的な意味になる。その上で批判されているのだ。
というわけで増田および元のゲーマーの発言は残念ながら「ボンボンの戯言」「子供の理屈」でしかない。世の中には安易に触れていいこととそうでないことがある。ついでながら「今時の若者言葉」などという言葉に甘えず、「殺す/死ぬ」という言葉を軽々しく使うことがどういう結果をもたらすかこの機会にきちんと知るべきだ。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
着飾っていないように見えるからさ。
何かを伝えたいとき、誤解を与えるようなマネはできれば避けたいよな。
ましてや内容そのものとは関係ない「印象」に引っ張られて、受け手に正しく伝わる可能性を下げるだなんて勿体ない話だ。
その点でいうなら、むしろ露悪的であるよりも、誰かを傷つけないように装飾を施した方がいいと思うだろう。
だが、時にそれは見栄えはよくても、本旨が分かりにくくなるときがある。
それを避けるなら、読者を気遣わない、ぶっきらぼうな方が適していることもあるということだ。
まあ露悪も悪だし、必要以上にやればそれは同じく「着飾られたもの」になるが。
後は、悪という概念は「よいことと」と表裏一体という説もあったけか。
英語とかでも「bad」は基本的に悪い意味だが、「it's so bad」といったように使えば好意的な意味としても使えるしな。
……いや、すまん。
今のは我ながら思いつきすぎた。
以前、電車に乗っていたら、後ろの席から「お前もっとフライドポテト!」「うん、そうだよな…」という会話が聞こえてきた。
俺が驚いて振り向くと、彼らは高校生くらいの男の子たちだった。俺の予想に反してフライドポテトは食べていなかった。
コレが若者言葉か…と感慨に耽っていると、彼らはさらに「そういえばお前、照り焼きチキンできた?」「いや、ヤバい」と会話を畳み掛けた。
照り焼きチキンバーガーでも食っているのか!?と思って遠慮もなく振り向いたが、やはり彼らは何も食べていなかった。
『照り焼きチキンできた?』とは一体どういう意味なのか。文字通り、照り焼きチキンバーガー作りでもやったのか。そして『もっとフライドポテト!』とは?文字通り、フライドポテトをもっと量産しろということなのか。
失礼ながら耳をダンボにした。
物語シリーズで有名な西尾維新の原作を、シュタインズゲートなどで知られるWHITE FOXがアニメ化。
刀を使わない剣術、「虚刀流」の七代目当主である鑢七花が、幕府の命を受けた奇策士とがめと共に12本の「変体刀」を集める旅に出るというストーリー。
最初の放映された時は月に一回というアニメ史上でも珍しい放送形態だった。
それだけ時間をかけていることもあってか激しいアクションもハードなシナリオも丁寧な作り。
個性豊かな変体刀とその所有者や、愛すべき噛ませ役の真庭忍軍などのキャラクターも魅力的。
和柄のような画面も鮮やかで美しい。
個人的に西尾維新やライトノベルはあまり好きではないが、これは楽しく見れたので、そういう人にもおすすめしたい。
原作は劇団☆新感線による日本の演劇作品。作はアニメではグレンラガンのシリーズ構成などで知られる中島かずき。
アニメの制作はマッドハウスで、監督はハガレン一期やガンダム00の水島清二。
しかし圧政の中でも大きな夢を見る力強い庶民の人情物語であり、そういう意味では通ずるところもあるかも。
江戸時代、天保の改革によって質素倹約を強いられる中、もう一度でっかい花火をあげることを夢見る花火職人の玉屋清吉が、
宇宙からやってきた謎の少女ソラに依頼され長屋の仲間と協力して月まで届くロケットを作る……という物語。
基本的にコメディなノリで、江戸時代にはあり得ないような物や、パロディやメタネタも多々登場するが、江戸の生活の細かいところは妙に忠実な描写がでてきたりする。
みなもと太郎、椎名高志、竹田団吾などが手がけた、大分絵柄の違うキャラクターが一同に画面に登場するのも面白い、
昨年倒産したマングローブ制作のオリジナルアニメ。監督はカウボーイビバップなどの渡辺信一郎。
向日葵の匂いのする侍を探すフウが、粗暴な琉球出身の剣士ムゲンと、クールで謎多き流浪の剣士ジンと共に、その侍を探す旅に出る話。
舞台は江戸時代だが若者言葉やヒップホップカルチャーが「チャンプルー(混ぜこぜ)」になった独特の世界観。
基本的に一話完結で、余韻の残るほろ苦いストーリーが魅力。一方大麻回や野球回などのバカバカしい話も面白い。
刀語もそうだが、時代劇であると共にロードムービー的な面白さもある。
言わずと知れた忍たまの劇場版。監督は「おまえうまそうだな」や「トライブクルクル」の監督であり、アニメーターとしても有名な藤森雅也。
おなじみ忍術学園の面々が、戦に挟まれ危機に瀕する村を助けると言うあらすじ。
おなじみと書いたが自分が忍たまを見ていた頃より大分キャラが増えており、大半は知らない連中だったが、関係なく楽しく見れた。
子供向けアニメで時代劇映画の名作と言えばクレヨンしんちゃんのアッパレ! 戦国大合戦があるが、戦の描写はあれに迫るリアリティがある。
特に戦の背後にある政治、情報戦の描写は忍者の名に恥じないガチっぷりである。
ふわっとした正義や愛でなく、生活と権利を守る為の戦であったり、乱太郎が集団の中で自分の役割を見つける物語であったり、お子の情操教育にもよろしいのではなかろうか。