はてなキーワード: 一言とは
これ「ソーシャルブックマーク」じゃなくて「どこでもオンライン掲示板」と「みんなで作ろう!今日のネットニュース」では
男女比半々、20〜40代が満遍なく参加する社内会議が終盤に差し掛かり、予定時間をすぎずに終われるか延長してしまうかといったところで、40代後半の最年長男性がギャグのつもりか「女性がいると会議がながくなるからねー」と言った。誰にも何も聞かれてないのに、ただただ流行り言葉を言いたいがための一言だったみたいで、前後のつながりは忘れた。なかった気がする。
言うな。しかも一番ギャグにならん立場のやつがいうなと思った。せめて女性が自虐的に言うくらいしか使用法はないとおもっていたワードだった。
彼は笑いながら「言いたかったんだーこれー」とのたまって(意味わからん)、20代の男性社員がなごやかに「そういうこと言うと怒られちゃいますよーw」と応じ(誰に怒られるんだ)、なんとなくみんなが笑ったような空気になった。web会議だったから正直なところ全員の空気感はわからなかったが、わらった顔のが全体的に多かった気がした。一人私はドン引きしていた。みんなもドン引きしていてほしいと願ったが、どうだったろう。
と一言だけ言って、こいつは何がどう違うのかを一才説明したことはない。
で、説明しないので、こいつが何をどう考えているのかはさっぱりわからない。言い逃げだけする卑怯者であり、これでマウントを取った気になってるバカである。
しょうがないので、こちらの理解している意味で言うけれど、トランスジェンダーの存在は、極論だが、この二つを概念としては真っ向から否定する。敢えて極論するのは、話を分かりやすくするためである。こんな例外もあるあんな例外もあるだなんて気にしてたら話が先へ進まない。
まずジェンダーが否定されると言う意味を言おう。これは元増田でも語った通りである。ジェンダーなる概念は、社会的な性差が存在し、そうしたいわゆる漠然とした上は法律から、幅広く常識レベル、あるいは特に根拠がなさそうな世間的男女論的なこと(森氏の言ったような)、などなど私たちの社会にあるいわば観念のようなものだと言えよう。
ジェンダー論の重要な視点の一つは、これが「差別」につながっているという視点である。だから、特に根拠のなさそうな森氏の語りのようなものから、法律的レベルに至るまで、生物学的性別に強引に結びつけるのはやめよう、のような発想に繋がる。
ところが、トランスジェンダーは(これも極論である)、ここで否定される男らしさや女らしさに、自らの自発的・無自覚的な意思で従おうとするのである。注意すべきは、トランスジェンダーの人たちは、生物学的にはそれと反対の性を主張しているところにある。つまり、自己の生物学的性別には結びついていないのである。具体的に言おう、一般的生物学的女性(いちいち言わないが男性に変えて読んでもいい)の多くは、「女らしくしろ!」と言われたら今やかなりの反感を覚えるであろう。ところが、トランスジェンダーは全く逆で自ら女らしく振る舞おうとする。多少は、実際の振る舞いとしてそう言われたらら同様に反感を持つだろうが、その反面で自信を女として認めてもらったことをもしかすると嬉しく思ったりしているかもしれない。
ではセックスは? セックスの説明を内閣府から引っ張ってこよう。
「ジェンダー」を理解するのにあたって、引き合いに出されるのは生物学的な性差―セックス(sex)です。人間は生まれ持っての性別(sex)があり、大半は男性か女性に生まれます。1
皆さんがお母さんのお腹の中から「おぎゃー」と生まれてから、1週間以内に親御さんは役場に出生証明書を提出しますね。その時に書くのは赤ちゃんの性別・・・男か女か、つまり、生物学的な性差(セックス)です。この生まれもった性差は、生涯にわたって一生変更はありません。具体的には、生殖機能の違いです。つまり、妊娠出産や授乳が出来るのは女性だけで、男性にはその機能はありません。また、男性ホルモン・女性ホルモンの量の差で体毛や筋肉の量の違いにより、外見にも違いが表れます。それらも含めた生物(動物)としての性差をセックスと言います。
この説明に純粋に従う限り、トランスジェンダーが、自身の思っている性別こそ真の性別である、なので否定されているわけだが、もうちょっと拡張して考えたい。このセックスが言わんとしているのは、実際には「役場に出生証明書を提出します」のことであり、これもまたジェンダーの枠組みの中に入ると強弁出来なくもない区分である。何故なら、社会が性別の呼び方を定義していると言えるからである。
だが、その意味でもトランスジェンダーは全く矛盾した主張をする。自分が主張した(自己認識した)性別が真の性別である、と言うのだから。だから、戸籍変えたい! となるのだ。
つまり、物凄く表現しにくいのだが、トランスジェンダーを認めると言うのは、旧来的な性別は社会的科学的に定義されるものではなく、その本人自身が既に決定している、それが真の性別だと言う主張であり、これは旧来の考え方には全く相入れないとしか思えないものなのだ。
トランスジェンダーは今やGIDという障害認定すら拒む。トランスジェンダーは自己の認識する性別が絶対に完全無欠に正しいのであり、障害などではない、と。ただただ、体の方が間違っているだけである、と。だから、数年前に、ひと騒動になった女風呂へ入ったと公言した事例は、本人自身にとってはいささかの誤りもない行動なのである。当たり前だ、その人は「女」なのだから。だからスポーツだってそうなのだ。DIDsの人を含めて(トランスジェンダーでは全くないが)、そう主張する彼女たちに取っては女性の枠組みに入れないのは絶対におかしいのである。テストステロンの話は関係がない。
でも、増田にはトランスジェンダーは頭では全然さっぱり理解できない。今のべたDIDsはもちろん身体的にもその性別なのだけど、トランスジェンダーはそうではない。しかし、否定は出来ないので、「いや、それはある」と信じるしかない。
爆笑問題の太田が「田中の代わりに出なきゃいけない催し物があるけど、俺が出るとクレームばかり言われる」って言ってたんだが、言われる原因作ってるの自分じゃね?って思った。
こいつ、いつも余計な一言多いんだもん。
この増田しか見ていないが、削除された3行が、荒木氏の創作物としての価値を高める3行だったのかという点が気になる。
皮肉めいたジョークで締められて、「面白くない」という全体的読んでいて気持ちのよくない批評の読後感が爽やかになったんだろうか。
『文學界』2021年3月号の新人小説月評に関して、評者の荒木優太氏が「末尾が勝手に削除された」とTwitterに訂正願いを投稿、ほどなくして『文學界』公式アカウントも反論のツイートをした。
【訂正のお願い】今日発売の『文學界』3月号に寄稿した新人小説月評の末尾が編集部によって勝手に削除されました(左:本誌、右:最終ゲラ)。消された「岸政彦『大阪の西は全部海』(新潮)に関しては、そういうのは川上未映子に任せておけばいいでしょ、と思った。」の一文を追記してください。 pic.twitter.com/EeFtgele6Z— 荒木優太 (@arishima_takeo) February 5, 2021
文學界3月号「新人小説月評」の筆者・荒木優太氏が、編集部に月評の内容を編集段階で勝手に削除されたとしてTwitterで抗議していますが、編集部の認識はまったく異なります。ここに経緯を記し、荒木氏の投稿に反論します。— 文學界 (@Bungakukai) February 5, 2021
のちに荒木氏は『マガジン航』で「削除から考える文芸時評の倫理」と題する文章を発表し、背景を説明した。
https://magazine-k.jp/2021/02/06/ethics-in-literary-criticism/
最初に荒木氏の①【訂正のお願い】ツイートは2月5日19時半前、②『文學界』の反論ツイートは同日9時過ぎ、その後30分と間をおかず、荒木氏は「とりあえず」との留保付きで③追加説明のツイートを行なっている。
言及ありがとうございます。詳しくは長文にて説明しますが、とりあえず、①「批評の言葉」かどうかを編集部が判断するのがお門違いであり、私はメールにて「岸さんの箇所は現状ママでよろしくお願いします」という指示をちゃんと提出しています。— 荒木優太 (@arishima_takeo) February 5, 2021
では「削除」に至った経緯について、両者の主張を見てみよう。と言っても、経緯の主張については対立するところはない。
2. 『文學界』が「批評としてあまりに乱暴すぎるのでもう少し丁寧に書くか、それでなければ削除してほしい旨申し入れ」る。
3. 荒木氏が「では、末尾に『全体的におもしろくなかったです。』と付け加えてください」と伝える。
4. 『文學界』が「改稿していただけないのであればその3行は削除します」と申し入れる。
5. 荒木氏が「『お好きになさるとよいでしょう』、ただし『その事実をSNS等で吹聴する』」と返答する。
7. 「勝手に削除された」と荒木氏がTwitterで吹聴する。
以上である。
さて、ここからが本題である。『文學界』のツイートは一貫して、「勝手に削除された」という「認識」をめぐるものである。
先ほどの経緯を「削除」の一点に絞って書き直してみよう。
1. (略)
2. 『文學界』が「削除してほしい」旨申し入れる。
3. (略)
5. 荒木氏が「お好きになさるとよいでしょう」と返答する。
7. (略)
『文學界』の立場としては、まず削除してほしいと提案し、聞き入れられない(どころか批評たりえない(と彼らが判断する)改稿を提示された)ので削除を宣言し、荒木氏が認めたので実際に削除した=「勝手に削除したわけではない」、ということになる。すなわちここでの「勝手に削除する」は、A「著者に一切の了解を得ることなく不掲載とする」ことを指す。
荒木氏の立場としては、編集部の意向で、B「最終的な確認なく削除された」=「勝手に削除された」ということになる。
「勝手に削除してもよいという合意」の上で削除が行われた場合、それは「勝手に削除された」と表現できるのか?
一見して難問だが、前件と後件の「勝手に削除」は、指しうる範囲が異なる。Aの意味は「合意」とそもそも相容れないため、前件ではBのみを指しうる。一方で後件は問いの形式なのでAとB両方指しうる。しかし命題「〜場合、それは『勝手に削除された』」が真となるのは両件ともBを指す場合のみである。
では荒木氏のツイートと時系列に話を戻すと、最初の「勝手に削除された」という荒木氏の言葉は、ここでは後件に相当する。しかし前件はそもそも提示されていないために、AとB、どちらを意味するとも解釈できる状態である。それに対して『文學界』の経緯説明は前件を説明するものであり、ここでようやくBの意味での解釈のみが妥当であることがわかるようになる。
言い直すと、A「著者に一切の了解を得ることなく不掲載とされた」と荒木氏が主張しているように読めるため、そこに出てくる表現「勝手に削除された」は、B「最終的な確認なく削除された」のみを指しうるのだと、『文學界』は反論したのである。
これを踏まえると、「Bでしか解釈できないはずの表現を、Aとも解釈できる状態で公にした」荒木氏側には、『文學界』から反論されるだけの落ち度があると言えるだろう。
私には物理的に手出しできないのだから「お好きになさるとよいでしょう」と言うほかないではないですか。私の意志をちゃんと理解した上で、削除を強行するのは編集権の濫用だと思います。— 荒木優太 (@arishima_takeo) February 5, 2021
「物理的に手出しできない」という不均衡な関係ゆえに形式上同意せざるを得なかっただけで、本来的には一切了解していない、すなわち前件自体が間違っているのだから、Aと解釈すべきである、という主張である。なるほど、物理的に手を出せないのは明らかに真である。だが、「ならば同意せざるを得ない」と即座に結論づけられるのか。これは言わば「抗拒不能」を争うもので、論理から法の領域に踏み込んでしまうだろう。
ここで可能性として生まれるのは、「6. 『削除されなかった』状態で刊行された」パターンである。ではなぜそうならなかったのか。『文學界』側が「論理的に適当でないのだから削除するほかないではないですか」という論理的な抗拒不能に陥っていた場合である。
本論では『文學界』側にこの主張が成り立つかを『マガジン航』に掲載された「削除から考える文芸時評の倫理」から考えてみよう。
荒木氏は「削除されなかった」場合に作家が反応を示した場合を想定して、こう書いている。
そもそも、作家から「反応」があったからといって、なんだというのか。怒りたければ怒ればいいし、月評に不満なSF作家・樋口恭介がしたとおりウェブに反論文を書いてもいい。場合によっては私はそれで反省するだろうし、或いはやはり自分の正しさを確認するだけに終わるかもしれないが、その過程のなかで新たに発見できるものもあるだろう。
ちょうど1年前の『文學界』新人小説月評に対し、作家の樋口恭介氏が反論した例(https://note.com/kyosukehiguchi/n/n54a493f4d4f4)を挙げ、自身の評言に対しても同様に振る舞えばよいではないかと述べている。
樋口氏の件では反論に遭った両評者とも、作品内容にある程度触れ、自らの解釈をある程度開陳した上で否定的な評価を下している。よって樋口氏は両者の解釈がそもそも成り立たないことを説得的に示し、古谷氏から不適切であったと謝罪・撤回を得ることに成功している。非常に健全な批評的やりとりだった。
ところが荒木氏の問題の3行には解釈がない。解釈が提示されていないのであれば、樋口氏のように「それは誤読だ」と反論することもできないだろう。荒木氏自らが提示したこの事例との比較から、「反論の余地を与えない表現は批評たりえない、単なる悪口である」という論理が――「論理的に適当でないのだから削除するほかないではないですか」――容易に導かれる。
荒木氏は「文学作品は作者による産物であると同時に、読者がもつ解釈格子次第でいかようにも姿を変えるものだ」とも述べている。なるほど、その解釈格子を通して得られた感動は「読者が固有の仕方で編み出した創造物」であるという論も含めて同意する。ところが荒木氏は続けて、「読者に伝えたいのは、私のもっているつまらなさや無感動も、いくぶんか自己に責任をもつところの私自身にとっての大切な創造物であるということだ」と述べる。結論はこうだ。
私の最大の、というより唯一の武器は、面白いものには面白いといい、つまらないものにはつまらない、という、正直であることのほかない。
荒木氏の論理では創造物なのは「(無)感動」である。解釈そのものはそれを生み出すためのフィルターである。そして荒木氏が月評に書こうとしたのは「全体的におもしろくなかったです。」の一言、すなわち「感動」である。
だが、樋口氏の事例との比較で明らかなように、批評文に求められるのは、評者の感動=感想などではなく、それを生み出すにいたったフィルターであるところの解釈である。解釈には確かに属人的な部分もあるが、ある程度規範的な部分もあり、さもなくば書き手自身からの反論も成り立たず、「過剰解釈」が氾濫する。なるべくその規範的な解釈をもって評価を下すのが評者の使命であろう。評者個人の正直な感想など、正直言って全く興味がない。文芸誌を買ってまで読書感想文を読みたくなどない。
月評の制限字数がわずかであるため十分に論が展開できないというのならば理解できる。ところが『マガジン航』には多少なり岸作の解釈が載るのかと思えば、ここでもやはり「簡単な紹介と個人的所感」にとどまる。「個人的所感」などどうでもよい。
解釈ができないのであれば、あるいはするまでもないと思ったのであれば、端的に書かなければよいだけの話であり、結果として「勝手に削除された」のは理の当然であろう。
ある意味で当事者となった川上未映子氏はこうツイートしている。
これは余談。批評の主体は愛や敬意、と言う人がいるが、必ずしもそうではない。それを必須条件にしたものは読み物としては心地よいが批評ではない。批評の主体は、テキストと論理と緊張感。対象作品の書き手の思いや反応や背景など気にする必要は一切ない。ちなみに小林秀雄は批評家ではなく評論家— 川上未映子 Mieko Kawakami (@mieko_kawakami) February 6, 2021
テキストも論理もなく書かれた感想に怒りで反応する皮相な「緊張感」だけが漂う場を、批評とは呼ぶまい。
まず公平性を期すためあえて本論執筆者自身の考えを明確にすれば、「『文學界』編集部の削除対応は、抗議ツイートまで含めて手続き上問題はないが、合理的ではなかった」というものです。
仮に削除せずに全文ママで掲載し、岸・川上両氏から編集部に対して抗議が来た場合、やりとりの履歴はあるのですから「改稿あるいは削除を提案したが聞き入れられなかった」と説明すればよいでしょう。改稿・削除を要求した理由が両氏への忖度だけなのであれば――「裏工作して保身に走る編集者」なのであれば、交渉をした時点ですでに保身は成立すると言えます。
あるいはもし仮に改稿・削除提案が荒木氏自身の体面を守るためというお節介だったとしても、誌面から削除したところで荒木氏自身がSNSで当該の評言を公開することは避けられないわけです。
それでもなお最終的に削除の決断をした。非合理的でしょう。「批評を載せるのだ」という編集部としての決意表明のようなものを感じます(これは解釈を経て創造した感想です)。
無論、コメントでいただいたように、「そもそも読者は批評を求めていない(批評を求めていない読者もいる)」可能性はあります。誌面にどのようなものを載せるか決めるのはまさしく編集の作業なので、この場合問題は「作者が作りたいものと受容者が求めているものが違う」ことです。
ただし荒木氏自身も批評を書こうとしているので(「「批評の言葉」かどうかを編集部が判断するのがお門違いであり」と主張している以上)、問題の3行を読んで「読者は批評を求めていないのだから問題ない」として荒木氏を擁護しようとすると、逆に氏を裏切ることになります。
よって、時評の存在意義や読者の需要はコメントでいただいたように「別の話」なわけですが、それはそれで議論されるべき問題なので取り上げました。
最後に、本論文末の「緊張感」は、わざと誤読のように用いています。コメントでおっしゃる通り、「テキストへの真摯さ」が本来の緊張感ですが、テキスト・論理がないので当然この本来の緊張感も不在です。それとは別の、感情的な応酬という緊張感しかないのだ、と表現するために括弧付きで「緊張感」としました。最後までお読みくださりありがとうございます。
1位 お前処女だろ
2位 湿布を貼れ
呼び出されて行った小部屋で上半身裸になった上司がいた。1位とは別人
3位 誰のおかげで給料貰ってると思ってんだ
取引先から何度もクレームが入り担当を降ろされるあなたよりは生み出している
5位 そんな仕事誰でもできる
大抵の仕事は誰でもできると私は思っている
7位 女のくせに気がきかない
自分が使っている複合機が用紙切れを起こし、こちらを向いて一言。用紙切れ起こした人が入れてください
8位 あれは女じゃない
何で仕事相手に勝手に恋愛対象か対象外かを判断されて聞こえるように陰口叩かれなきゃいけないんだろうね
9位 髪ボサボサですよ
天パがコンプレックスの相手に言う言葉ではない。ルッキズム反対
10位 腹は案外出てんだな
BMIでも痩せ判定な時に言われたが、例え腹が出ていても言うべきことではない。ルッキズム反対
【02/08 追記】
いっぱいブクマがついててびっくりした。ありがとう。辛い思いをしてる人がいっぱいいるんだな。
蛇足かなと思ったけど一応補足。
これは2社の話が混ざっている。1社は社員10人くらい、もう1社は200人くらい。1,2年前までの話。
辞めたほうがいいというコメントがあったのですが、鬱になり退職済み。辞めたらすっかり良くなった。でも未だに怒鳴り声を聞くと当時を思い出して震えが止まらなくなる。
挨拶をしない、笑わない、必要なことしか喋らないを実践したら、めんどくさい認定されたのか被害は少しだけ免れた。ただ、その分他の人へのしわ寄せがひどくなっていた。
自分ではない人が被害にあっているときにスマホのICレコーダー機能で録音を試みようとしたが、録音を始めると何も言わなくなることが何度もあった。こっちを一度も見ていないというのに勘だけは良い。
男性関係ないものもあるというのはその通りだった。すまん。女のくせに役に立たない仕事とか、女のくせに資格もいらない仕事とか言われていたバックグラウンドがあり(なぜか、女は医療従事するのが一番という思想だった)、ついランクインさせてしまっていた。
逆に言われて嬉しかったのは、ありがとうと言われたこと、得意先の方から褒められたこと、辞めるときにいろんな人から、頼りにしていた、辞めるのが寂しいと言ってもらえたこと。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1662758
家事といっても色々あるが、一番議論になるのが掃除だと思うので、掃除に絞る。
俺もまさに、妻と俺との間で価値観のギャップができており、お互いに不満がある状態だ。
まず、仮に部屋の汚れ具合を10段階に分けて考えてくれ。
この時、レベル1をすでに「汚れている」と感じる人と、5くらいで感じる人、
10になってようやく感じる人など、この価値観は完全に個人差がある。
男女では女性の方が綺麗好きなイメージはあるけど、そこも個人差あるだろう。
しかし、おそらくその価値観は自分の生育した家庭環境・しつけによるところが大きい。
親が5で掃除する家で育てば、子も1〜4は掃除しなくてもいい、と自然に認識して育つ。
もちろん、1でも気にする人は神経質、10まで掃除しないのはズボラ、といったような世間一般の評価はあると思う。
しかし、必ずしも1や2で掃除する人が偉いというような論調には反旗を翻したい。
妻が2で掃除するなら、6で掃除したい俺は「フリーライド野郎」なのか?
そんな意見には納得できない。
だったら、間をとって4で交代で掃除すればいい。
しかし、この手の妥協案で2を求める側が納得することは少ないと思う。
何故なら、俺にとっての掃除は6の状態を3にすることなのである。
これを埋めるのはなかなか容易ではない。
もちろん、この件に関して数値の低い状態を保ちたい側が損をしていると不満を持つ気持ちは理解できる。
しかしやっぱり、それを保ちたいのはあなたでしょ?であれば基本そのコストを払うのはあなたであるべき。
何故なら自分は6で何不自由なく育ってきたわけだから、2で育てたいというのは妻側のエゴ。
もちろん、6→3で暮らしたいというのも俺のエゴだから、そこは話し合いで妥協点を見つけるべきだとは思ってる。
ただ、数値低い方が偉い、子供のためだから正義、という無条件の価値観の押し付けはおかしい。
実際問題女性の割合が多かったり、女性が中心になる会議って長い
「これなら8割の人を幸福にできるようになるな」
って案がでたとき
「それじゃ2割の人がカワイソウじゃないですか!!」
みたいなこと言い出すんだよね
ひどい場合は
「その案じゃAさんが救われないじゃないですか!(なおAさん以外の全員は救われる)」
みたいなこと言い出す
具合の悪いことに他の女性たちもそれに同調しだすもんだから会議が一向に終わらない
それが現実的に無理だから幸せになる人の割合を少しでも増やそうって会議してるんだよね。無理なこと叶えようとしたら一生会議終わらないよね
ってなっちゃうわけ
一言で言えば「学級会」っぽくなりがちなんだよ
もちろん上記のようなことを言って会議を長引かせる男性もいるし、いい感じで妥協点を提案してくる女性もたくさんいる
ただ、全国転勤でいろんな支店に行ったけど、こういう言動で会議が長引くのは圧倒的に女性が多い会議だ
他にもいわゆる「職場いじめ」が発生するのは圧倒的に女性比率の高い職場(職種)だ
これに対して公の場で「女が集まるといじめがおきる」と言うのは明らかに問題だけど
女性が多く集まる職場ではいじめが起きやすいという現実をなかったことにするのは間違ってる
男女逆にして言えば
公の場で「男は暴力的だ」と言えばその発言自体は非難されて然るべきだけど
男性が女性と比べて暴力的な性質を持っているということ自体を無視しちゃいけないよね
「女性によくある傾向」や「特定の個人が女性に抱くイメージ」を「すべての女性がそうだと公の場で発言すること」を非難することとはもちろん間違っちゃいないんだけど
女性ならではの悪いところをなかったことにしたり「男でも同じ問題は発生するだろ」とか話そらすのはより分断を招くだけだし、永久に男女平等に到達できない思うんだよな
感想送ってるなんて偉いよ 優しい人なんだね
絵描く側の人間だけど変に凝った感想より毎回の絵に今回も好きです!!って一言くれた方が嬉しい そういう人もいます…… 一言にしてみては?
あーあ。
27歳、28歳、29歳で捨てられる女性をたくさん見てきたよ。
5~6人程度だけど。とにかく日本人女性はこの年齢で捨てられるのが多い。
一言でいうと、ヤリ捨て。