はてなキーワード: シーザーとは
為政者の精神疾患については一般に、公益に重大な関わりがあるから、指摘されねばならない。暴露すること(アウティング)が必要である。
それに対して一般に、私人のプライバシーについては暴露されてはならない。「この人は境界性人格障害だ」とか「アル中だ」とかどころか、精神疾患に関わることですらない普通のこと、例えば「ゲイかもしれない」とか「親は生活保護受けている」とかも、あるいは「親は外国人だ」とか「ムスリムだ」とかも、暴露されてはならないのである。ちなみに、それをやっても憚らぬところに日本社会の異常と横暴がある。ついには国会にまで呼び出して「親は生活保護受けている」イジメをしたりする。吊るして見せしめにすることで「綱紀を引き締め」、民衆のストレス解消を解消し、腐敗し壊れた社会体制を維持するのであろう。
往々にして過去にも現在にも、侵略者や暴君は精神疾患をもっている。いまは既に殺されているカダフィにせよPTSDで統合失調だろうということは指摘されてしかるべきであったし、カエサル(シーザー)やチンギス・ハンやナポレオンにせよ精神的におかしいところがあったから飽き足らぬ侵略を行ったのである。たとえ既成権力構造を打破するという名分があったとはいえ、織田信長によるジェノサイドもいささか精神疾患じみている。ましてやアドルフ・ヒトラーについては言うまでもなくアタマがイカれている。
なぜそうしたイカれた侵略行為が野放しどころかむしろ支持されるのか、そのことにも反省が必要である。たとえばナチズムにせよ十字軍にせよ、主導者の精神疾患性ということのみならず、支持者や社会が精神疾患状態にあるのである。イスラミック・ステイトによる、統治におけるファシズムと、テロリズムも、同様に、壊れている。
アベ晋三にせよドナルド・トランプにせよ、狂信的であることは言うまでもないが、そもそも言動からして精神疾患をもっていることが明らかに見て取れる。ちなみに、その精神疾患性がゆえに狂信に至り、狂信がさらに精神疾患を高めるという悪循環である。
なお、その狂信も信仰であるにはあろうが、信仰を政治に持ちこんではならない。そもそもは信仰(シューキョー)というのが統治のための手段であったのだから、歴史的にみていわゆる「政教一致」は当然のことであった。なにせ信仰というのは、現実と関係がなく、「ダメなもんはダメ」が通用し、社会の既成構造を堅持することが容易い。そして、政治は意味不明になって腐敗してしまう。民は信仰により隷従させされ、国家の家畜になる。その闇(病み)を打破したのが西洋近代革命である。
ちなみに、その信仰の政治への持ち込み(政教分離違反)についても、日本人には自覚と反省がない。信仰(シューキョー)を信条だと強弁したり、儒教の教義を道徳だと強弁したりして、平然と政教一致の社会体制を堅持している。滑稽であるが、迷惑だ。実害がある。
話が逸れたので戻すが、首相や大統領のような為政者が精神疾患をもっているのに指摘されないのは危険なのである。「精神的にかなりおかしい人だけど政治家にする」という、判っていて敢えてやるのならばまだしも。首相や大統領だけではなく凡そ公権力の行使者について同様で、公費でたびたび県の反対側にまで温泉旅行に行ってそれを批判されたら泣いて自転車で逃げる県議とか、SNSで中高生の言動が気に食わないからって脅す議員とか、精神的にどこか来している。
精神疾患をもった為政者の多くはおそらく、首でもくくったり、飛び降りたり、アル中になって失職して孤独死したり、形態はさまざまあれど、可哀想な終わりになってしまう。だから放置しているのは当人のためにもならない。しかし稀にそうした結末にならずに祀り上げられて横暴のかぎりを尽くすことがあるから、先述の通りの暴君が出る。いずれも、ためにならない。
思うに香山リカとか和田秀樹だとかだって、アベやトランプが精神疾患なんだってことは手にとるように判っているだろう。けれども、判っていてもそのことを公言しない。それは、一般にアウティングを避けるべきだということが医師にせよ社会人にせよ必要であるからだろうし、真実を暴露してしまえば社会から狩られるからかもしれない。大概の人は、狩られるのが怖い。勇気をもって人生と命を懸けて行動しないのは、エゴイズムなんだけど、残念ながら可哀想なもので、怖いのだろう。
だがそうして「王様は裸だ」(自尊心が高いだけのアホの気狂いだ)ということを「ロバの耳」の如く人知れぬ山林の穴に叫んで埋めてくるようなことをしていていいのか。もしかするとそうしているうちに、王様は裸だということすら、誰にも判らなくなるかもしれない。そのとき、国家も社会も、自分自身のことすらも、自ら制御不可能になり暴走するのである。誰にも止められない
何度ジョナサンにシーザーのバンダナを巻くんだよ、シーザーが命懸けで託したのはジョセフだよ思い出せ。
荒木はタルカスとブラフォードとかペッシとプロシュートみたいな高潔な敵の後にはゲスな相方敵を倒してバランスをとるみたいなとこがあるけど、ゲスになる前にいい人そうな描写を挟んだりペッシ覚醒させたりする必要なくね?いや、高潔な敵を連続して殺すのは気分が悪いし、面白いんだけどさラスボスまで雑に扱わなくてもいい。
ラスボスの豹変と言えば七部が酷すぎる、不細工からの唐突なイケメン、最初絶対にラスボスにするつもり無かっただろこれ。
それにサンドマン、最初に主人公のような内面描写もあったのに適当に駄洒落のような能力つけられて雑魚敵として消すなんて酷いにも程がある。
体型や顔が変わったキャラは山ほど居るが、何で急に等身下がるん。
あと強すぎる味方はとりあえず雑に消すとこも、フーゴとかあれで退場はないわ。
内村鑑三の著書の一つに『一日一生』という本があって、1年365日(366日)の各日について聖書の一句を引用し、それについて内村のコメント(他の著書からの引用)を付す、ということをやっている。
そのうち12月24日と25日がやはりキリスト生誕についてのものだったので引用する。
<12月24日>
”だから、キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた(コリントの信徒への手紙二 第5章17節)”
イエスが処女からお生まれになったのは、神が普通の出産法を賤しめられたからではない。人類以上の生命をこの世に持ってくるために必要であったからである。贖罪はキリスト降世の唯一の目的ではなかった。これは罪の世に現われた第二の人におのずから懸かった職分であった。処女の懐胎は新人を世に供するために必要であった。私たちは聖書の記事によるだけでなく、宇宙の進化の順序からも、また私たち人類の切なる要求からも、この大きな事実を信じるものである。
<12月25日>
”天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである(ルカによる福音書第2章10-12節)”
もしキリストがお生まれにならなかったら、この世はどうだったか。
シーザー、アレキサンダーらはなお陸続と世に顕れただろう。君主ひとりのために屍をその馬前にさらす忠臣義士は出たであろう。しかし下民のために剣を抜いたクロムウェル、ワシントンのような武人は出なかっただろう。ルター、サボナローラのような、いわゆる社会的勇士は生まれなかっただろう。
ホレス、ヴァージルのような宮廷に媚びを呈する詩人は出ただろう。けれどもダンテ、ミルトンのような平民的詩人は出なかっただろう。
キリストの生まれなかった世界は貴族帝王の世界である。人を崇めてこれを神として仰ぎ、一人の栄光を到達させるために万民が枯死する世界である。キリストによって筆も剣も脳も腕も貴族の用をせず平民の用をするようになった。
血が受け継がれていく物語のわりにはろくでもない
第1部
ジョージはお人好しの素晴らしい紳士ではあるが、家に邪悪なディオを引き入れて息子がディオに虐められていても助けないどころか、息子に厳しくディオには甘い、ジョナサンが普通の人なら潰されていたレベルの環境で育てていて父親としてはろくでもない。
第二部
ジョセフの父親は既に死んでいて、シーザーの父親は子供達から離れて極貧に落としてしまい誤解され憎まれてシーザーをグレさせている。
第三部
第四部
不倫で種だけ残して息子が高校生になるまで存在すら知らなかったジョセフは言うまでもなくろくでもない。
吉良の父親は息子を溺愛して息子の敵を排除し殺人を助けている病んだ毒親。
ママを守る!と言う決意は語られるのに、父親のかたきをとる!みたいな事は言われない。
息子にとって良い父親では無かったのだろう。
第五部
DIOは種だけ残した親。
ブチャラティ父のせいで息子は殺人を犯してマフィアに入ることになった。
ディアボロは種だけ残した上に娘を殺そうとしているジョジョの中でも特に邪悪な父親。
第六部
承太郎は近くに居られなかった為に娘から誤解され憎まれている。
DIOは息子達の母親を食べ、息子達はいずれも不幸で絶望の中にいた。
第七部
ジョニィの父親は言うまでもなく毒、何かいい感じに改心した風だったがてめぇどの面下げてである。
八部は終わったらまとめて読むのでどんな父親が出てくるのか知らない。
父親がろくでもない代償か、祖父や祖父的なキャラはしっかり愛して支えになっている事が多い。
何でだろう。
・劇場で予告編を見て面白そうと思って観に行ったんだけど、予告編と内容ちょっと違い過ぎない…??
・おかしいなと思ったので家に帰ってきて予告編見返したけど、あれだと出てくる俳優役の人物達が誘拐されたスターを捜すのになんか尽力してるみたいに見える(特にスカーレットヨハンソン)
・主役の何でも屋さん(ジョシュ・ブローリン)のことを映画のプロデューサーと勘違いしてていつ何でも屋(というか探偵みたいな感じかと思ってた)が出てくるんだろうと…もうすでに出てたとは…。
・1950年代の話なので、劇中映画なのか、そうじゃないのかたまに区別がつかなくなるというか、モノローグが劇中映画の中の話なのかなんなのかたまによくわからなくなった。1950年代って次代設定がもうなんか映画の世界だったので。
・字幕版だとモノローグが詩的で意味を把握するまでのタイムラグがきつかったな〜。英語が理解できたらよかったのに。意味がわかるころには次の字幕へみたいな感じでちょっと辛い。
・でも吹き替えだとなまりの面白さわかんなくなっちゃうしな…。
・昔のハリウッド映画あるあるなのかな?という話題もちらほらあって、赤狩りとかアメリカ文化を障りしか知らないと「???」となる場面があったり。
・なんか散らかり方が凄かったな…という印象。劇中劇(ダンス、歌)とかやってみせたかっただけで、本筋になんの関係性もないよね?
・誘拐はなんの謎でもなくて、割とさらっと問題解決するので、「誘拐事件」を本筋と思って観に行くとちょっと肩すかし食らう。
・「誘拐事件」を本筋と思ったらスカーレットヨハンソンの部分は丸ごとなくても大丈夫だし。
・正しくは、1950年代、ハリウッド俳優たちが起こすドタバタ事件を敬虔な何でも屋が問題解決していく!映画って刺激的で面白い!!が煽り文句だと思う。
・そう思ってみるととてもユーモラス溢れて、エッジの効いた俳優達がみんな愛おしく見えるし、主役の何でも屋の気苦労がわかる。
・ジョージ・クルーニーの無駄遣いかな…と思ったけど、最後の劇中劇、大作映画の締めの台詞を言うためだけに起用されたんではないかと思った。あそこはジーンて胸にきた。
・または阿部寛(テルマエロマエ)と同じ理由で…古代ローマ顔だから??
・とにかく変な編集された予告に騙された。先入観なかったらもっと面白かったかも。
・
・次に見たいのは「マネーモンスター」http://www.moneymonster.jp/splash/
オーシャンズファンとしてはこの二人見ておかないと。ただミケランジェロプロジェクトとといい、ヘイルシーザーといい、大好きなジョージ・クルーニー出演作で微妙だな〜作品連発したので少し心配だけども監督がジョディフォスターなので信じて劇場に観に行く。
・今日の予告で気になった映画…「怒り」http://www.ikari-movie.com/
・滝藤賢一が気になるだけかもしれないけど…「SCOOP」http://scoop-movie.jp/ 滝藤さん出てるだけで全部見たくなるからほんと困る。
数年前に「そこまで言って委員会」で2ちゃんねらーと話そうみたいな企画があった
観覧席に2ちゃんねらーを招いてコメントを貰ったりアンケート取ったりするような企画だったと思う
その企画で自衛隊に関する話題を議論してたときに、観覧席の2ちゃんねらーから意見を求める、みたいなことがあったんだが
1人の2ちゃんねーらが自分が自衛隊出身であることを明かした上で、
「議論するんだったらまず自衛隊に入ってみてから議論してほしい」
みたいなことを言った
「ガン患者のことはガンになった人しか話せないということになるじゃないか」
会場全体もこいつ何言ってるんだっていう雰囲気だったし、実況板もそんな感じだったように思う
後日、発言者がどこかの板に降臨して「ホントスマンかった」みたいなことを言ってたのを記憶している
この前、ふとそれを思い出したんだが、今考えると彼の言ってることがそれほど叩かれることなんだろうか
よく、シーザーを知るためにシーザーになる必要は無い、だとか、そういう論調が正しいと言われているが
本当にそれは正しいのだろうか
当事者とそうでない人との間で、考え方や感じ方が大きく異なるような事柄は、当事者の意見を尊重する方が正しいように思う
頭ごなしに「当事者じゃないからといって意見を拒むのは良く無い」と決めつけるのは、本当に正しいのだろうか
「シーザーサラダタワーきました」
キャッキャ盛り上がってるんだけど、
シーザーサラダの取り分けって
面倒くさいわよね!!!
器用に片手で箸みたいに使って、
カリカリのクルトンも均等にして取り分けなくちゃ行けないのよ!
もう、トング持ってきなさいよトング!
トングのことかーーーーーー!
でも、率先してそれやると
「キャー!倒れる~!」って隣のテーブルのシーザーサラダタワーが
こっちのテーブルに倒れてきちゃって、
もうテーブル、シーザー全かかり!
お店の人はすかさず、
やかましいわ!
シーザーサラダタワー!
おかげでこっちのホッケのお皿が
やかましいわ!
レタス食べててそのこと思い出したわ。
タワーのこと。
さすがにないわ!
大人しく葉物のレタスとトマトとピラーで薄くスライスしたキュウリ。
漬けて水飲んだ後のお野菜は
そのままサラダにしちゃってね!
るんるん!
すいすいすいようび~
今日も頑張ろう!
と言っても、昨日TVでやってた前作だけど、すごく違和感があった。
旧作みたのは15年以上も前だからはっきり覚えてないけど旧猿の惑星では確か奴隷にされてる猿を見て、シーザーが切れるって内容だったと思う。
それならすごく分かるんだな。
でも今回のは何で怒ったかが分からない。保護センターに入れられて虐待されてムカついたまでは分かるが、変な薬ばらまいて猿に知恵を付けさせるって何が目的なんだ?
なんかその辺、一番重要なところだと思うんだけど描写が少なすぎてシーザーが不愉快な気分になる&変なことをする理由が分からなかった。
里親が迎えに来ても無視するし。そのまま一緒に帰れば全て終わるはずなんだが。
こんなよく分からん反抗的な猿は保護センターにぶち込まれても仕方ないと思う。
親父さんを助けるために近所のおっさんを襲ったところもやり過ぎ感があった。
元々危ない奴だったんじゃないの?
さっき、NTV系列で放送された「二人の桃源郷」というドキュメンタリーを見て、大泣きをした。
作品を見てこんなに泣いたのは生まれて初めてだ。
「ニュー・シネマ・パラダイス」よりも「トイ・ストーリー3」よりも「ショーシャンクの空に」よりも「汚れた血」よりも「ぐるりのこと。」よりも「ゾンビ」よりも
「ブラックジャック」よりも「火の鳥」よりも「ジョジョのシーザーが死ぬシーン」よりも「寄生獣」よりも「ハイスコアガール1巻ラスト」よりも
「星の王子様」よりも「火垂るの墓」よりも「ライ麦畑でつかまえて」よりも「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」よりも「罪と罰」よりも、
比べ物にならないくらい感動して泣いた。
ストーリー紹介はここで省くが、将来子供に見せたいし、色々な人に見てもらいたい作品。
思い出して、また、号泣。
あの頃の僕は、毒の唾で世界を汚すことが無常の喜びだった。本や
映画で得た受け売りの理論で身近な大人たちを追い詰め、彼らを軽蔑
することだけが生きているリアリティと感じていた。目で見える世界のほと
んどが許せず、ニ十歳まで生きていることはあるまいと本気で思っていた。
あの頃、高校時代、僕にはFという同級生のガールフレンドがいた。
正直、彼女を好きでもなかったのだが、女のひとりも口説けないのかと
周囲に思われるのが癩だったのでなんとなくつき合っていた。二人で観る
映画はいつも二番館の面倒臭そうなアート系の映画で、Fは僕に映画の
解説を求め、僕はそんなたわいないことで男のプライドを保っていた、どう
せ刹那的なつき合いだと酷く冷め、やがてくる彼女との別れの日をドラマ
チックにシミュレートして悦に入っていた。そんなある日、Fが僕を演劇に
誘った。芝居はテレビで紀伊國屋ホールを収録したようなやつを観たこと
がある程度で、それもおそらくそんな感じだろうとまるで期待していなかった。
が、打ちのめされた。体の震えが止まらなかった、舞台音楽が僕を子供の
頃の暗闇の恐怖にいざなった。その後、Fは地方に就職先を決め、卒業
の日、明るく「さよなら」と僕の前から去った、以来、彼女とは会っていない。
結局、見透かされていたのは僕のほうだった、そして間違いなく、あの頃、
彼女は僕の母だったのだ。今回、シーザー氏の歌に僕が固執したのは、
あの頃の無知な自分と母との時間を追体験したかったからかもしれない。
存在するものがこの世界にはある。我々の前では、美しすぎたり、
醜悪すぎたり、日常であったりして、正体は曖昧なものと感じられ
ているが、それは確かに、明確にこの世界に存在するはずなのだ。
私は、それをアニメーションという手段で整理分解して、判りやす
く伝えようとは思っていない。セル画で数値化、セリフで言語化でき
る部分だけを抜き出して、それを伝えようとは思っていない。むしろ
段を使って、混沌のまま明瞭に、確かに存在することを示したいのだ。
私は、光宗さんと上谷さんを尊敬している。二人は紛れもなく、
十四歳の頃、僕は学校が嫌いだった。いや、正確には、学校という名の世界での自分の状況が嫌いだった。
その頃は、いわゆる“校内暴力”なるものが全国的に取り沙汰されていた時期で、僕の通ってい
た学校も例に漏れず相当に荒んでいたと思う。生徒が教師の胸ぐらをつかみ上げ授業中断、など
ということも珍しいことではなかった。学校とは箱庭ではあるが、言うまでもなく「ひとつの社会」で
あり、「現実世界のミニチュア」だ。その社会の中で、僕は凡庸な者だった。休み時間にトイレでタバ
コを吸う勇気も、教師の胸ぐらをつかむ勇気もなかった。そして、僕はそのことが嫌で仕方がなかっ
た。子供だったが、凡庸が美徳だなんてウソだってことぐらいは知っていた。「ミニチュアの社会」の
中ですら凡庸な自分に控えている未来.凡庸な人生の予感に言い様のない絶望を感じていた。
あれから十数年。現実は残酷で、やはり僕は凡庸なる大人になってしまった。絶対に裏切って
はいけない人を、何人も裏切ってしまった。そうまでして手に入れたのが、凡庸なる自らの姿だった。
だが、いかなる夢も見ることを禁じられたこの世界で、僕はまだ密かに夢を見ている。まだ密かに
モラトリアムでありたいと甘えている。そのことを「少女革命ウテナ」はうまく表現できただろうか…。
J・A・シーザー氏の音楽を、僕は遥か十代の頃に体験した。氏の音楽はその時から、そして今も変わらず僕
シーザー氏と仕事の機会を得ることができたのは、ひとえに大月プロデューサーの手腕によるところだ。
いや、実はそのことだけではない。大月氏は、アニメーション作品「少女革命ウテナ」を世に送り出すために、
多大なリスクを負った。我々スタッフは、その彼のリスクの上に、完全な創作の自由を与えられたのだ。「自分の
若さと可能性を信じろ」などと言うインチキな大人には数多く出会ったが、リスクを負うと言うことを体現して
見せる大人に出会ったのは初めてだった。もちろん、僕自身もリスクは負っていたが、彼のそれは比べようもなく
大きかったはずだ。にもかかわらず、彼が僕にリスクを強要したことは一度もなかった。彼は、作品作りにおける
リスクの尊さを改めて僕に教えてくれた。そしてそのことは今回の作品制作において僕個人にとって貴重な
モチベーションになった。おそらく「少女革命ウテナ」という作品は、僕と大月氏の共同監督作品だったのだ。
だから、ある意味で僕は敗北者なのだろう。なぜなら、僕は絶対に裏切ってはならない友人を、数多く裏切っ
基本的に事態を動かして、なにか利を得ようとする人の論理は、かならず破綻を期していて、もしくは破綻しているんだけど説明に使える理論に根ざしていて(経済学とか)、その破綻した理論上で争って混乱を作り出す(論理が破綻しているから、どちらにしても決着はつかない)か、その論理破綻を認めないことによって、混乱を長引かせる戦術に出ることが多い。
結局これは混乱を作りたいだけであって、どこかに収拾したいわけではない。
なので、ああ論理破綻しているってことは(経済学の論理を使うってことは)、なんか混乱を起こして、利を得たいと思っているのだねえ、と思えばよい。
基本的にそういう巻き起こし方をする人はアジテーター型の人で、アジテーターが成功した例は、世界史的にもヒトラーぐらいしかないので(あれを成功とすればだが)、残らず結果的に破滅すると言うことだけ歴史的に把握していれば、ああ、意味ないことしてるな、この人はそのうち破滅するだろう、ぐらいに思って静観しているのが吉。
歴史上の偉人たちのアジテートの特徴は、自分がどうしたいか、なぜそうしたいかを、はっきりと明言するところにあると思う。シーザーのアジテートは、
「このままではおれは破滅する。でも、ここを越えたら、世界中が大混乱になる。でもおれは破滅したくない。おれを破滅させないために、ついてきてくれるか、みんな!」
であって、真意をちゃんと語るからついてくるのだよね。
真意のない、陰謀めいたアジテートは、それさ、世界史を全部洗えば一度も成功したことないこと分かるから、それ結局破滅しますから、とはっきりと結論がつく。もう見た瞬間に、あー、むりむり、最終的に破滅して、ずたぼろになりますというのが、分かる。
ブルタークぐらい読めばいいのに。
昔、英文学をやってるわけでもないのにシェイクスピアを英語で読もうとした。読んだ。ハムレットと真夏の夜の夢。もちろん訳本参考にして。それまでほとんどまともな英語を読んだことがなかったから、読んだっていっても、まあ読めないよ。
ただ、ああ、これが英語の世界なんだって分かったのはそれだけだった。それから随分たつなあ。
今日久しぶりにシェイクスピアを読んでみた。ジュリアスシーザー。本当はでっかい辞書なりオックスフォードなり使って読まなきゃいけないんだろうけど。素人だから、いいでしょ。もってる辞書をひきながら、ちょっと訳も参考に。
いや、おもしろかったあ。シーザーの造型、ブルータスの嫁の立派さ一途さ、ブルータスの悲劇。頭に絵が浮かんで、ぐいぐい引き込まれてしまった。それにすんごい人間観察能力があって、それをすぱんとセリフになってるから、これがすごい。シェイクスピアってこんなにおもしろかったのかと。