はてなキーワード: 障碍者とは
前も後も低いなら障碍者枠やな
乙武の「五体不満足」がベストセラーになったのもそれだったな。
障碍者でありながら自己評価を変に低くしない。多少の不便を強いてでも、事故肯定感を優先した教育を受けられてラッキーだった奴の話だった。
ありがとういうのがめんどくさいとかいちいち言うのが苦痛とかのあの話だけどさ
あれ自己評価が低いんじゃない?
障碍者の僕なんて生きてる価値がないみんなに必要とされてない産まれてきてごめんなさいって感じでさ
みんなに有難い手を差し伸べてもらえる自分はみんなに大事にされてるみんなが自分を特別だと必要だとしてくれてるのに対して
自分はそんなもんじゃない有難いことなんかされるような身分じゃないって貶めてるからその差分を埋める気持ちがしんどくなってる気がする
してもらってありがたいうれしいたすかる だからありがとうっていうのは五体満足でもあるわけじゃん
自分ができないことをしてもらってありがとう それをいう頻度が高いってことはたしかにお前無能か?ってことではあるけど
それをしてもらえる、お金で解決してもらえる、そういうことって自分みたいな有難くもないやつにしてもらってそれなのにありがとういうのしんどいというのはもうメンタルが痛んでそう
コーヒー淹れることすらできねえのかって 100円でコーヒー淹れたてと交換しても「コーヒー一杯すら自分で用意することができないクズですう」って泣きながらありがとう言うわけじゃないしょ
道を譲ってもらったり席を譲ってもらったりしたら「ありがてえw」とさも得をしたように自分がその幸運を手に入れることがさも当然のように自然と「ありがとう」が出て来てるんじゃないのかな
あのJR騒動のありがとうをぜったいいわないマンは逆に「わたくしはみなさんがプルプルしながら全筋力で下から持ち上げ支えてくださって当然の身分でしてよ」って考えてるからありがとうがでてこないんじゃないかと思う
どっちにしてもさ 目線の高さを自分で勝手に他人と違うって みんなとは違うってそう見てるから出てこないんじゃないのかな
伊是名夏子を擁護している人は、障害者はコミュニケーションスキルは無くて良いと考えてるってことだよね。
わがまま障碍者のことを、物言う障碍者といえばなんだかカッコイイ。
もともと、クレーマーとは物言う消費者のことだったし、クレーマーのお陰でいろんな企業の製品はより良いモノになった。
こういうことをやると、自分で手足を傷つけて障碍者になろうとする輩が続出するんだなあ
貧しい国を旅行すると物乞い多く見かけるのだが、彼らの多くは障碍者で、親が物乞いに有利なように子供のうちに手足を損傷させて稼がせるのだそうな
物を言うのは大事だけど、相手の負担も考えず一方的な立場からの発言は配慮が足りない。
権利は勝ち取る物でなく分かち合う物。
明確に言い切りすぎるのもどうかと思うが、敢えて言うなら、
というのが法治国家ではないのか?
そもそも、この世界が、分かち合う、譲り合う、相手に配慮する、で解決できるんだったら、台湾有事なんて起こらないわけで、
争いごとは法廷か戦争でしか決着はつかない、これは自明だと思う
では、暴力はどうなのかといえば、法治国家での暴力は警察や軍隊といった暴力装置によって規制されるべきであり、
むやみな暴力を許す法治国家というのも一般的にはありえないわけで、
結論としては、権利というのは法廷で勝ち取るものであり、議論や口論には限界がありすぎる
あと、「若い障碍者は頭を使ってほしい」みたいな物言いは障がい者雇用でも企業側によく言われるのだけど、
少なくとも凡人がちょっと頭を駆使して解決できるような悩み事なら、障がい者になんてなるわけないし、
そんなこと言われなくてもとっくに解決している話なわけで、
上述の文章は、障がい者=黒人、アフリカ系アメリカ人に置き換えてもそこそこ互換性のある話だと思うんだけど
結局は、障がい者に配慮するコスト、と、障がい者への配慮は健常者には無駄でしかない、というのは両立しうる話であって、
障害者は頭を使え、
というのは難癖の付け合いと同じである
漫画の話に例えるのもなんだが、
例えば銃夢のモーターボール編でジャシュガンがガリィに、自由とは何なのか?をうまく説明している
(このへんの元ネタは荒木飛呂彦のジョジョなどにあったのかもしれないが
自由というのは、それを手に入れる、勝ち取るために足掻き、もがくことを自由という、みたいなトートロジーだった気がする
しかし、これは言い得て妙であって、少なくとも白人社会での自由の定義をうまく説明しているように思う
そもそも、日本には「自由」という単語が黒船が来るまで存在しなかった
それまでの日本は上に従うのが当然であり、例えば関所などは移動の自由を大いに侵害していると現在なら考えられるが、
当時の日本ではそれが当たり前であり、∀ガンダムの地球人側ではないが、そもそも日本人とは白人に比べれば、そういう点で蛮族だった
フリーダムやリバティーという単語に相当する単語がなかったため、「自由」という単語を造語したのである
しかし、この「自らを由とする」という漢字による当てはめも素晴らしいものだと思う
現代では、少なくとも法治国家においては、権利や自由は法律で争い、勝ち取るべきものなのだ
他人への配慮だの、分かち合いだので、自動車事故が解決するだろうか?よく考えてみてほしい
そして、この勝ち取るために足掻きもがくという行動に対し、法律の下であるならば、何人もそれに規制や制裁を加えてはならない
しかし、ルールを守らない人は当然存在するし、ルールというのが文章である以上、解釈も複数存在しうるのである
法学部でなくとも、法律を学ぶ、研究するというのはそういう意味があるのである
ルールを書いたら終わり、ではない
性悪説で考えるなら、ルールを書いても人はルールを守らないだろう
では、守らない人をどうするか、という所から暴力装置の必要性などに話がつながる
権利や自由は寝ているだけでほっといても与えられるものではない
それから、今ただただ与えられている権利だって、過去に勝ち取った権利を多く含んでいるのだ
我々はその積み重ねで生きているわけだし、
だからそういう風に思うのはお前がわざわざ障碍者に肩入れしてるからで
お前の気に食わない奴が変なパフォーマンスしてたら「そんな悪手でみんなの理解が得られるわけねーじゃんw」って簡単に切って捨てちゃうんだよwww
いちばん理解できたもやもやは「旅行とかじゃない必要な移動すら、こっちは命かかってんのに」ってとこ。
確かに視覚障碍の場合、命を落として初めて、世間の耳目を集めるってパターンになってしまう。
耳目集めてなお、ホームドアがすぐさま設置されるわけでもないしね。
それでも私(非障碍者)が、伊是名氏のパフォーマンスを支持するのは、無関心よりはいいのかなということ。
バニラエアの木島さんの時も、いっときは関心をもたれたけど、あまり続かないよね。非障碍者にとっては他人事だから。
悪手でも関心を引いた方がいいのかなと。当事者でもないのに勝手な言い分と思うけど。
「ぶつかった後心無い言葉を浴びせられた」などの事例は、無関心や想像力の欠如から来てると思うから。
この件で初めて、これまで考えても来なかったこと、障碍ある人の外出の困難さを考えてみた人もいるはず。私もあらためて考えさせられたよ。
「人に迷惑をかけてはいけない、自分で頑張れるだけ頑張れ。できることはすべてやれ。助けを求めるのはギリギリ最終手段」という社会の空気によるものだと思う。
「助けを求めるなら、頭下げろ。謙虚にしてろ。申し訳なさそうにしろ」というね。
その空気を変えなければ、障碍者に対する心のバリアも低くすることはできないんじゃないか。
もちろん、伊是名氏の行動は、もともと障碍者に対する心のバリアが高かった人のバリアを、より強化したことは否めないけど。
あとは怖かったのが、私も障碍者にこんな迷惑かけられた、暴言吐かれたとかいう事例を書く人が出てきて、同調する人もいたこと。
目に見える障碍があり、サポートを必要とする障碍者の悪態って、数少ない悪例だけでこんなに悪印象を残してしまうもんだなと。
駅員に悪態つく事例とか暴力は非障碍者の方が圧倒的に多いはずなのに。やっぱ「助けてやってるのに、余分な仕事してるのに」その態度かよって意識があるんだよね。
よくも悪くも印象に残ってしまうからこそ、伊是名氏のパフォーマンスは諸刃の剣。増田が憂慮するのも当然だよね。
施しをしたところで口を開けば不平不満を漏らし、あまつさえ自分に対して服従のサインと勘違いしてマウントとり始めたり横暴になる醜い増田みてぇな他害性精神障碍者と
施しに感謝を示して一生懸命恩に報いようとする人間、どっちを優先してリベラルは助けると思うよ?
人間扱いしてもらってるだけありがたく思った方がいいんじゃねえの?
「親が虐待しているらしい」→じゃあイジメ被害者側の証言は無視していい
「JRに不満を訴えている女性は車椅子に乗ってる」→障碍者の意見なんて聞かなくていいJRが正しい
「看護師ら男6人が暴行してくる」→精神障碍者の証言など無視しろ看護師がそんなことするわけない
https://news.infoseek.co.jp/article/47news_kd-47reporters-20201029150320/
私は本当にもやもやしている。発端は例の伊是名夏子さんのこの投稿。
http://blog.livedoor.jp/natirou/archives/52316146.html
バリアフリーは推進されるべきだ。その方向性に異論はない。そしてバリアフリーを訴える目的はよいと思うし、その目的を批判している人はほとんどいない。
でもこの記事を最初に読んだ時、「これは炎上するな」と思った。
私は、きちんとした教育を受けそれなりの大学を出て、結婚もして家族もあるし、収入はそこそこあり持ち家にも住んでいる。
ただ片目があまり見えない。病気というか、発達障碍というか、弱視という視覚障碍がある。ちなみに弱視というのは、眼鏡などで矯正しても視力がでないことをいう。
だが片目だけの視覚障碍なので、私は身体障碍者ではない。健常者だ。もっとも正常な方の目も、近視、乱視がはいって矯正しないと0.5ぐらいなので、そんなに見えるわけではないけれど、視力矯正できるかできないかは全然違う。
もっとも、もしかすると両目がきちんと見える人よりも、遠近感の把握ができなかったり、視野が狭いのかもしれないが、両目見えていた経験がないので、違うのかは全くわからない。
不自由はないといいつつも、ほんの少し、両目が見えたらいいのにと思うことがある。例えばVRゴーグルをかけてみた時などにそう思うことがある。でもそれは総じて大したことではない。
逆に見えなくてよかったと思うこともほとんどないのだけど、ひとつだけ、心からよかったと思うことがある。
私は、健常者の目と、視覚障碍者の目と、2種類の目を持っている。社会を、健常者の目と、視覚障碍者の目と、2種類の目で見ることができる。それは本当によかったと思う。
私は、時々、自分の健常者の目をつぶり、視覚障碍の目だけで街を歩くことがある。特に、今回は、もやもやし続けているので、いろんな場所で何度もそうしている。
通しでやったことはまだないが、眼帯などで健常者の目を隠し、視覚障碍の目だけで自宅から会社まで通勤するのは可能と思う。
なぜ可能と思うかというと、私は、自宅のドアを開けたところから、会社の入り口まで、健常者の目で何度も通勤しているので、途中の、①道路、通路の硬さ、すべりやすさ、段差、②曲がるときの角度、直線で歩くべき距離、③階段のおおよその段数やエスカレーターなどの位置、こういうものを覚えている。
見えないものは、記憶で補いながら歩く。ゆっくり歩けば、弱視の目でも歩くことができる。
そして音は重要だ。自動車が近づいてくる。こういうものは音で判断する。
自転車は、音が小さいから、怖い。電気自動車も、音が小さいから、怖い。
電車の時間も、発着ホームも、だいたい覚えているので、目的の電車に乗ることはできる。ただし、遅延などが発生し、行き先が違う電車が普段とは違う時間にやってきたりすると、困る。
そういう時は駅員さんしか頼りにできなくなるだろう。
本当の視覚障碍者の人は、情報を得るのにとても困るだろうなと思っている。ホームに駅員さんがいれば聞くことができるのだろうけど、いつもいるわけではない。視覚障害者はそうたやすくホームを歩けないので、同じホームに駅員さんがいても、距離が離れていたら聞くのは難しくなる。
少なくとも私は、視覚障碍者の目で歩くとき、普段と違う状況になると状況を把握できず、いらいらする。
私が、視覚障碍者の目で歩くときは、記憶と、耳と、手と、足の裏の感覚と、それ以外の感覚も総動員しながら、歩く。
集中しているので、いきなり肩や腕をつかまれたりすると、とてもびっくりするだろうと思う。怖いと思うかもしれない。
もし皆さんが視覚障碍者に何か情報を伝えたい、手助けしようと思ったら、白杖や身体をいきなり触るのではなく、まずは声をかけてほしい。もし声をかけて手助けを断られたり、声をかけるのを躊躇するなら、見守ってほしい。
私の弱視は、光線の具合で、見えたり見えなかったりすることがある。
広い平坦な場所で、突起に気づかずつまづくぐらいなら笑い話かもしれないが、ホームの端がみえにくくて転落することがあれば、それは生命の問題に直結する。((ホームと線路の彩色、彩度が似ていると、ホームの端がわかりにくい。))
その対策だが、蛍光色で10cmぐらいの幅のラインを描くことで、ホームの端の視認性はかなり上がる。これをCPラインというらしい。
一部、導入されつつあるが、まだまだ普及がすすんでいない。
https://ameblo.jp/milkyht2/entry-12244392124.html
ホームドアは、視覚障碍者のためだけではなく、酔っ払いなど一般の人の転落事故も防止する。ホームドアがあれば死なずにすんだ命は多い。できる限りペースを速めて、設置してほしいと思う。
ネックは、ご存じの通り、多額の費用がかかることだ。
でも、生命にかかわることだから、優先順位は一番高くていいのではないかと思う。
日本視覚障害者団体連合もホームドアの設置を求め続けている。2020年7月の阿佐ヶ谷駅での視覚障碍者の転落死亡事故をうけて、同年9月にも国土交通大臣に要望書を提出している。こういう働きかけは大切だ。政治や企業への働きかけは、絶え間なく行わないといけない。
働きかけを行うべき先は、政治も企業もしかるべき権限をもつ者=責任者であるべきだろう。「なんでホームドアがないんだ!」と現場で駅員さんに怒鳴っても、何も改善しない。
http://nichimou.org/notice/200923-jimu/
歩道や施設などの通路、ホーム上にある点字ブロックは日本発祥のものだ。これはよい発明だと思う。かなり普及しているのも評価したい。
また、2016年に近鉄大阪線河内国分駅ホームから視覚障害者が転落死した事件をうけ、対策として「内方線付き点状ブロック」設置を推進していたが、これはかなり進んだと思う。評価したい。
https://www.sankei.com/affairs/news/161017/afr1610170045-n1.html
でも、「なんでこうなった?」というような謎な点字ブロックも多々ある。そんな役に立たない点字ブロックや、かえって危険を作っている点字ブロックがある。
ホームなどの点字ブロックの配置についてはガイドラインがあるが、まだそれが守られていないことがある。2019年の京成立石駅で視覚障碍者が転落死した事件は、規格外ブロックが問題と指摘された。
https://s.mxtv.jp/mxnews/kiji.php?date=14s53i742ax788in6
ガイドラインに沿っていても、転落事故(死)が起こることがある。視覚障碍者は、目からの情報が少ないため、点字ブロックを認識しつつも、現在地と歩く方向を間違い転落することがある。
点字ブロックはとても有効な設備だが、点字ブロックだけでは転落事故はなくせない。
https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/437710.html
点字ブロックは、黄色のものが多い。(私も健常者の目で見た時はそう思うが)黄色のブロックは、色がガシャガシャして、うるさく感じないだろうか?
そこで、街並みをおしゃれにするため、点字ブロックを歩道の色と合わせて設置することがある。最近増えた感じがする。
でも弱視者には、これがわかりづらい。
視覚障碍者は全盲の人ばかりではないという認知がもっと広まってほしい。
「視覚障碍者は見えないのだから、点字ブロックは何色でもいいのでは?」と思わないでほしい。
少ない視力を使って点字ブロックの上を歩きながら、足の裏の感覚などで点字ブロックの助けを得て歩く視覚障碍者もいる。
視覚障碍者は、道路交通法によって、白杖を持つこと、または盲導犬をつれることが義務づけられている。(第14条第1項)
また、視覚障碍者でなければ、白杖を持つこと、または盲導犬をつれることを禁止されている。(第14条第2項)
さきほども書いたが、視覚障碍者は全盲の人だけではない。ロービジョンといわれるのだが、若干の視力はあるのだが日常生活に支障がある人がいる。白杖の使い方は、人それぞれだ。
ところで、視覚障碍者が白杖を持つ理由は次の3つとされている。
https://nippokai.jp/wp/formembers/canes/
障害物もなく、路面が確かな場合、ロービジョンの視覚障碍者は、白杖を「視覚障害を持つことを周囲に知らせる」だけに使うことがある。つまり周囲の人に自分の存在を知らせるために、白杖を動かさず抱えることがある。
それを白杖を使っていないと思わないでほしい。白杖で地面を叩いていないからといって、「こいつは視覚障害ではないのでは?」なんて思わないでほしい。
点字ブロックの上や近くで立っていたり、荷物を置いていたりしていないだろうか?
いわゆる歩きスマホはしていないだろうか?
視覚障碍者は、器用にぶつからないようにしたり、避けたりするのが苦手だ。
伊是名夏子さんの投稿とその後の議論、動きなどみて、私がもやもやした理由は主に次の3つになる。
私が、ここに書いた話題は、全部が「視覚障碍者にとってのバリアフリー」問題だ。
伊是名夏子さんの投稿は、さまざまな議論を呼んだが、その議論は、エレベーターとかスロープとか、「車いす利用者にとってのバリアフリー」だけしか議論されていないでは?と感じた。
確かに伊是名夏子さんは自分自身の障碍のため、「車いす利用者にとってのバリアフリー」を問題にしている。それは当然だと思う。
でも、「バリアフリー」を必要としている人は、車いす利用者だけではない。視覚障碍者も、聴覚障碍者も、妊婦や精神障碍者なども、「バリアフリー」を必要としている。
それぞれの障碍やハンディキャップが違えば、「バリアフリー」として求めるものは違う。でもそこまで広く捉えた「バリアフリー」議論はほとんどなかった。
いつでもどこにでも自由に行ける自由はとても大切なことだと思うけど、毎日、命の危険を感じながら鉄道を使う人のことも思い出してほしい。
案の定、伊是名夏子さんの投稿は炎上した。あの投稿を批判的に見る人は、来宮駅を巡るトラブルの作為性を問題にしている。作為性とは、バリアフリーを訴えるために、わざとトラブルを起こしたのではという見方だ。ご本人は否定している。しかし私も実は、作為性はあっただろうと思っている。
現場でのトラブルを、乗車拒否などの強い言葉を使った非難を行い、耳目を集める手法というのは、そのトラブルの作為性を巡って反感を買いやすい。
伊是名夏子さんご本人が、それが戦いだとお考えになることは、批判できない。こうしなければ、耳目を集められないという気持ちも理解できる。
しかし、何かバリアフリーの課題を改善したいと考えた時、この手法が一番効果的となってしまえば、他の障碍者も(少々作為性があろうと)トラブルを起こし、それを声高に訴えないといけなくなってしまうのではないか? 私は、そういう状況が本当のバリアフリー社会とは思えない。
そして、あの手法に反感をもつ人と、支援する人との分断は、更に広がったように思う。
分断されたバリアフリー社会とか、笑えないブラックジョークだ。
伊是名夏子さんの投稿に対しては、私も批判的だし、批判する人の気持ちはわかる。
一方、こういったネットの炎上が生じると、その人の過去の行動を洗い出し、それらも併せて執拗に非難するような行動がよく見られる。晒しと呼ばれる行為だと思う。
確かに、伊是名夏子さんの過去の行動で、「それはよくないな」と思う事例はいくつか見つかった。
しかし、既に法的には時効を迎えたと思われる古い過去を、声高に非難する合理性はないように思う。
話は変わるが、視覚障碍者の投稿を読むと、白杖を持って歩いている時に誰かとぶつかった後、その人から心無い言葉を浴びせられたという投稿がいくつも見つかる。
他の障碍者やハンディキャップを持つ人も、そういう経験をしているのだろうと思う。
そんな心無い言葉を浴びせる人は、たぶんその人の心の中に、障碍者への「偏見」というバリア(障壁)を持っていると思う。
心の中のバリア(障壁)は、目に見えるものではないので、取り除く=バリアフリーを作るのはとても難しいと思う。
インフラは整っているが、人の心の中はバリア(障壁)だらけのバリアフリー社会って、何かのアイロニーだろうか?
今回、伊是名夏子さんの過去の行動を非難した人の心の中に、障碍者に対するバリア(障壁)ができないことを願う。そして本当のバリアフリー社会を作るには、あなたの協力が必要だと訴えたい。
私はまだもやもやしている。
障碍者による抗議活動や、弱者男性(女性)に対する一連の議論で、共通してることだが、あれは全て弱者の立場から脱出するための戦いである。
ただその先に待つのは、弱者が強くなれば序列が変わるだけで、弱者自体は永遠にいなくならない。
生きているだけで皆、殺し合いのテーブルに参加しているのだ。
原始時代とは、そういった様相が見えにくくなってるだけで、昔からそうだ。
いくら世の中が良くなろうが、殺し合いをやっているという原則は変わらない。
本当の弱者は、真っ先に殺されるなどで「いないこととほぼ同義にされている」のだ。
分かりやすい例が中絶かな。生殺与奪を握ったり握られていれば、明らかに弱者と強者の関係だ。
弱者は徒党を組むなりして、仲間を増やさないと強者には立ち向かえない。
もちろん強者側は、既得権益を守ろうとあの手この手で対抗するだろう。ときには卑劣な手も厭わない。
一見、争いとは関係なさそうな人でも否定的な意見を投げかけるのは「序列が変わっていけば、いつか自分にも危害が及ぶのではないか」と危惧しているのだ。
夫婦別姓の議論でも、反対派(同姓派)の意見は論理的でも何でもなかったように思う。
ただ、夫婦別姓を認めた先に、何があるか分からないから反対するのだ。
現代人が欲しいのは「自分の居場所」などではなく「より高い序列に位置すること」だ。
みんなで今日も精々、殺し合いを頑張っていこうな。
最近音声SNSのクラブハウスを聞いてるんだけどまあまあ地獄だった
信者から毎月15万巻き上げることでちょっと話題のヤバい集団 https://president.jp/articles/-/42752?page=1
で数年前まで師匠やってたヤツが、いい人キャラで有名人と仲良くなって会食してたり
(コロナ禍から流行ったSNSだったはずが、クラブハウスで知り合う→オフ会の流れがナチュラルに発生してる)
大手マルチビジネスのトッププレイヤーが成功した著者・実業家みたいな顔してフォロワー数万人集めてたり
「障碍者支援に取り組んでます」「マイナースポーツの普及活動してます」とか言って他の参加者にちやほやされてたヤツが、おそらくそいつの子ネズミだったり
(マルチやってるヤツはインスタを見ればだいたい分かる)
○○の秘訣を××さんに聞く!みたいな部屋で著者の本の宣伝するのはまだしも
その本すら高額セミナー・資格商法への導線でしかなく、そんなヤツらが新しく横のつながりを作って褒め合ってたり
(セミナー屋、自己啓発屋、資格ビジネス屋がうようよいる、そいつらの本を出す出版関係者も一緒にキャッキャしてる)
とにかく地獄
ここに世間知らずのピュアピュア素人が参加してたらそんなもん絶好のカモですわ
頭が悪すぎて運転免許取れなくて40歳なのに母親に送り迎えしてもらってる、とか
コンビニで買い物するのがわからなくて、母親にやってもらってる、みたいな
すごい車いすができたからってそれを必要とする障碍者は健常者にくらべてあまりにも少なく市場が小さい。高額な新製品を買える障碍者個人はさらにその一部だ。
それに対して、駅に導入するユニバーサルデザインはJRや私鉄駅の数だけ需要があるし、購入者も鉄道会社や場合によっては地方自治体や国家になるため支払い能力も桁違いだから。
儲かる=投資できる研究開発費も大きくなるし、開発成功したときの研究者としての功績も大きく評価されるから、単にがめついというわけではなく、研究者として評価されるための最適化戦略の結果。