障碍者による抗議活動や、弱者男性(女性)に対する一連の議論で、共通してることだが、あれは全て弱者の立場から脱出するための戦いである。
ただその先に待つのは、弱者が強くなれば序列が変わるだけで、弱者自体は永遠にいなくならない。
生きているだけで皆、殺し合いのテーブルに参加しているのだ。
原始時代とは、そういった様相が見えにくくなってるだけで、昔からそうだ。
いくら世の中が良くなろうが、殺し合いをやっているという原則は変わらない。
本当の弱者は、真っ先に殺されるなどで「いないこととほぼ同義にされている」のだ。
分かりやすい例が中絶かな。生殺与奪を握ったり握られていれば、明らかに弱者と強者の関係だ。
弱者は徒党を組むなりして、仲間を増やさないと強者には立ち向かえない。
もちろん強者側は、既得権益を守ろうとあの手この手で対抗するだろう。ときには卑劣な手も厭わない。
一見、争いとは関係なさそうな人でも否定的な意見を投げかけるのは「序列が変わっていけば、いつか自分にも危害が及ぶのではないか」と危惧しているのだ。
夫婦別姓の議論でも、反対派(同姓派)の意見は論理的でも何でもなかったように思う。
ただ、夫婦別姓を認めた先に、何があるか分からないから反対するのだ。
現代人が欲しいのは「自分の居場所」などではなく「より高い序列に位置すること」だ。
みんなで今日も精々、殺し合いを頑張っていこうな。