はてなキーワード: 等価とは
https://pando.life/dearme_fashion/article/68212
現在は「B子プロジェクト」というプロジェクトを行っています!
このプロジェクトは、ツバメタオル様の工場見学に行った際に出会ったB品のタオルから始まりました。
B品とは、少し糸がほつれたり、シミが付いたりしてしまい、表に出せなくなってしまった、規格外の品のことです。
普段はこれらが販売する商品と混ざらないように企業や生産者が確認しているため、私たちは目にすることがありません。
ですが、工場見学に行った際にB品を目にする機会がありました。
そして、「完璧」ではない所も含めて、何だか私たちと重なって、愛おしく思えたのです。
そんなモノとヒトのB要素も、個性として愛せたら…
みたいなプロジェクト
紹介ツイートとその反応
https://twitter.com/fashionsnap/status/1465936341460729857
規格外品
「完璧なのが規格品」ではないんだけどなぁ
規格品として許される誤差があって、そこからも弾かれてしまった物
曲がったキュウリでも美味しいし、ちょっとくらい糸のほつれがあってもタオルなんだろうけれど
これへの批判を「世界に一つだけの花」と混ぜて揶揄する層もいるけれど
その世界にはB品もB要素もないんだよ
もちろん、世の中は汚くて、ルッキズムが横行し、要領がよくないと侮辱されるけれども
それをB要素だと言って愛そうというのは、なにか違くないか?
これが、B品もSDGsの流れで正規品として許そうというプロジェクトなら
「B子でもいいじゃん」
も分かるんだが
B品、B要素だと認めたうえで、正規品にはしないが再利用ならできるってキャンペーンを人に当てはめて
いいこと言ってる
みたいな反応になるの、なにか違くないか?(二回目)
私の感覚が変なのかな?
これに男女関係ないよね
これ、矛盾してるんだよな
何が矛盾してるって
ミニスカ履くいくつかの理由の中に「かわいいから」があるはずで
全部が全部、自分だけの価値観でおしゃれをしていて、他人の評価なんて微塵も関係しない、なんて人間の方が珍しいだろ
化粧にしろ、おしゃれにしろ、ちょっとした小物にしろ、対外的な要素は絡むと思うんだよね
んで、意中の人に興味を持ってもらいたいからとか、デートで気合入れたから一言欲しい、みたいになったとき
男は「何にもわかんねぇよ、何言ってんの?」と答えることは許されないよね
「素敵だね」「綺麗だね」「かわいいね」とかなんかリアクションが要るわけさ
だから、いつもいつもいつもいつも、都合よく言葉が並べられるんだけど
をデフォルトとして
が追加されて
となるのね
その言葉に従うと
みたいな状況となる
ここについて、性的に見ていい時なんて極々限られたシーンだけ
とか言うアホもいるんだけど
同性にも、職場の同僚に粉かけるために気合入れて接するの禁止、みたいな縛りを入れちゃうよね
粉かける相手が性的に見れる諸々は、キモイおっさんにも性的に見えるわけで
だけど、キモイおっさんが性的に見てはならないのなら、意中の相手も性的に見てはならないシーンのはずで
でだ
こういう、女性が性的に評価される瞬間を主体的に決めて男はそれに従うだけ
みたいな価値観を煮詰めていくと
女性がミニスカを可愛いと感じる価値観はあっていいし、それを男性は共有できるべきだし、女性が主体的にそれを履くのは問題ないが、萌え絵となった瞬間に女性の主体性が消えるから性消費
この理屈だから、「女性が自分が可愛いと思う絵を描いただけ」だとしても、それが男に性消費される表象ならダメとか言う低能な感じになる
女性が主体的にミニスカ履くのと、女性が主体的に「かわいいミニスカの絵を描く」のと、男性が「かわいいミニスカの絵を描く」のは、社会が共有してる価値観なんだから等価なんだけど
でもそれらは、そういう要素を一定度は含むもののはずなんだよな
そして、自分が望むその瞬間には、「そのように」相手に解釈され消費されないといけない価値観のはずなんだよな
このあたりを、まともに話す人はほとんどいなくて
「わかるでしょ」としか言わない
セーフでしょうと等価のな
めちゃくちゃ馬鹿なこと言うけど、交換して失うものと得るものの価値が等しいなら、そもそも交換する意味がないのでは、と思ってしまう。
① 物品Aと物品Bの価値は、現時点では等しいが、将来的に一方は下がってもう一方は上がるとする(通貨でも株券でもいい)。交換する者同士がお互いに、いま向こうが持っている物品の方が将来的に価値が上がると思っている
とか、
② 大量に羊毛を持っている者と大量に作物を持っている者がいて、お互いにこんなに持っていてもしかたがないので、市場価値で同じになる分量を交換する。現金化した場合の資産額は交換後も変動はないが、双方の生活は以前より向上する
とか、理屈をかませれば、まあそういうことなんだろうと思うけど、もう一つ腑に落ちない。
①の場合ではリスクとリターンがお互いに公平であってこそフェア=等価を完全化できると思うんだけど、偶然に左右されたり、多分にして情報格差による詐欺が横行しそうなのできわめて高度な知能でもなければ公平性の真偽を判断できそうもないのに、どうやってそれが等価だと証明するんだ。
②だって、羊毛10g100円、大根も一本100円、だから等価な、つって物々交換するか貨幣を使うんだろうけど、本当に大根一本100円なのか? 誰が決めてんだ、それは。と思ってしまう。
需要と供給、神の見えざる手、的なことで市場価格100円に落ち着いてんだ、ガタガタ言うんじゃねえ、ということなのかもしれないが、どうも納得いかない。
だいたい、100円分の羊毛と大根を交換した後の双方の満足度は同じなのか。たぶん違うだろう。三日連続でふろふき大根食ってたら、もう要らんだろう。でも100円は100円なのだ。
というか、等価交換という言葉が出てくる場面で、こんなことまで込みで考えてる雰囲気を感じない。
ハガレンは名作だが、「同程度の痛みや苦い教訓を伴うが、実行した方がギリギリ得」ぐらいな意味合いで使われている感じがして、1円でも得ならもう等価じゃねえんじゃねえか? 単なる合理的な判断では? と思わなくもない。
そういうことで頭に戻ってきてしまうのだが、交換して失うものと得るものの価値が等しいなら、そもそも交換する意味がねえんじゃねえのか。なんなんだ。
そりゃまあ日本国民の大部分は「損をした」わけだけど、確かに「儲かった」人達がいるんだよ。
これを理解せず「ねえねえ、五輪やって結局儲かってないけど今どんな気持ち??」って政治家を煽ってる連中を見ると悲しくなる。
違うんだよ。
彼らの目線で考えれば間違いなく「儲かってる」んだよ。
政治家は「日本人全員が儲かりまっせ」と嘘をついたわけだけど、結果的に自分達だけが儲かる方向へのシフトは成功してるわけ。
そこを勘違いして「おかしいなー。五輪儲かってないなー。損してるなー。つまり政治家大失敗wwww憐れwwwww」とか上から目線で笑ってるやつこそ真のバカってこと。
そもそも最初からこの構想が日本の五輪開催を後押ししてた連中にはあったわけ。
事象を3段階に分けるなら。
そこが認識の誤差を生んでるわけ。
政治家連中は2で全然問題なかったから五輪をゴリ押ししてたし、ただ途中ちょっと3になる可能性が見えたから及び腰になる部分もあったというだけ。
なんだかんだ金の流れをコントロールすることには成功して自分たちのポッケにお金を入れること自体は成功したの。
日本という国全体からすれば五輪は「損をした」「失敗した」なんだけど、その立場に政治家はいないわけだよ。
政治家にとってはどうあっても五輪という「お小遣い稼ぎ」は大成功だったのだからそれを「やーい失敗してやんの~~~~」と煽っても下級国民の寝言でしか無いわけ。
せめてそこを全国民に分かるようになって欲しいんだよね。
ここまで馬鹿だと一生舐められたまま終わりそう。
まあ無理かな。
秋篠宮家の眞子さんの結婚関係記事は、何故あれほどに炎上するのだろう。一体、何が人々の心を燃え上がらせているのだろうか。私には分からない。自分のことでもないし、自分の家族の話でもないし、そもそも話したことも会ったこともない人のことで、時間を、そして感情を注ぎ込むことに疑念をもたないのだろうか。分かっているとは思うのだが、あれは「他人」だよ。これまでも、そしてこれからも、あなたの人生に何の関わりもない人なんだよ。当然のことながら、あなたには何の決定権も、批判する権利すらないんですよ、と言いたい。しかしそういう私も、恥ずかしながら俳優やアイドルの結婚記事を見て心がざわついたことはあるし、それと同じ話なんだとは思う。結局、自分と他者の境界線がきちんと引けてない証拠だ。
ただ、皇室関係の話題となると、なぜか自分の感情の暴走を正当化しようとして、「皇室には自分達の支払った税金が支払われているので、国民として意見を言う権利がある」などと臆面もなく主張する人が出てくる。・・・いるよね、金を払えばあらゆる権利が与えられると勘違いしている人。こういう人が、「俺は客だぞ」と店員を召使のように扱ったり、「お前らは税金で食わしてもらっている身分だろう」と、役所の窓口で吠えているのだろう。家庭で「誰の稼ぎで生活できているんだ」とマウンティングする人も同類か。ドコモキャリアなら、ドコモの社員が自分の言うことを聞いて当然と思っている?発想が根本的に間違っている。金銭の支払いは契約の履行に過ぎず、支払った対価と等価分しかサービスとして受け取れない。お客様は神様ではない。
まあ、税金については等価交換とは少し違うかもしれないが、「納税をした者は、皇族の結婚相手について意見をいう権利がある」という命題がおかしいことくらい分かるだろう。皇族について主張するなら制度についての話であるべきで、個人の生き様について見解を述べること自体が間違いだ。「一時金制度そのものがおかしい」と言っている人は、さーや(紀宮清子内親王)のときにも「一時金は高すぎる」と怒り狂っていたのか?結婚相手が黒田氏なら祝福するのに、小室氏なら駄目なのか?・・・もっとも、ヤフコメで暴走している人たちは、制度について議論をしたいわけではないのだろう。自分の気持ちを声高に主張することに目的があるので、議論が成立しない(議論は、互いに反論し合える内容であることが必要だ)。
感情をむき出しにして、嬉々としていじめをしている人は、おそろしい。しかも「自分は正しい主張をしている」と信じ込んでしまっている様子は、本当におそろしい。
(追記)この方のブログを見て、「有名とされている人の結婚・妊娠・出産・離婚・死去にはまず反応しないようにしています。」という人間は自分だけではないのだなと思い、少しほっとした。
皇室結婚絡みでの4年間のマスコミ報道・SNSを見る限り、皇室に婚姻の自由は不要と考える日本人は多いのだろう - 斗比主閲子の姑日記
増田ではもう多分おなじみで飽きられてる例の話題における「女性の表象」について。
今週いろいろ考えていたことを書いておきたい。
多分この文章は文脈的にも時期的にもアンチフェミだとみなされると思うんだけど、自分j心にはそんなつもりはない。そもそもあの変な議連をフェミだとも思ってないし。
むしろ自分としてはクリエイターとしての違和感と普段の気持ちのメモとして残したい。
文章畑とはいえ自分はクリエイターでいわゆるオタク界隈でくらしていて商業化もコミカライズもしたっていう立場だけど、多分立場そのものとはあんまり関係ない。
はじめに感じたのは「なんか雑だな」という気持ちだった。
「女性の表象」というざっくりした単語の選択と、そこに込められた視線についてだ。
昨今のオタク界隈クリエイターとして女性キャラはいっぱい作ったし書いてきた。ヒロインとしてサブキャラとしてモブとして。それぞれに主入れを持って作り込んできた。それって「女性の表象」なのか? 自分は「女性の表象」を描いてきたか?
その答えは一般的にはYesではあるけれど、自分自身の中ではNoだ。
一般的なボリュームのラノベをささっと書くのに、自分は調子が良ければ大体三週間くらいかかると思う(念の為にこれは完成に要する時間ではない)。もちろん作中ではいろんな事が起きるし、ヒロインやヒロインとの関係は重要ではあるけれどパーツの全てではないので、この時間はそのままヒロインを描くのに使った時間ではないけれど、ひとつの参考としてそれくらいかかる。
そして読むのは早ければ二時間弱とかじゃなかろうか?
つまり作るのにめちゃくちゃ時間がかかってさっくり消費できる。これは文章畑に限らずコンテンツは何でもそうだと思う。むしろ文章畑なんてすごく素早く手軽に作れるジャンルで、映像やゲームは桁違いに時間がかかるだろう。
実際そういう現場に協力することもあるけれど、気が遠くなるくらいの人手と時間と、つまりはリソースが消費される。
それだけの時間を投下して、「女性の表象」をつくって、満足できるかといえば、自分はできない。
嫌われるかもしれない言葉をつかうけれど、正直に言う。
現実の女性の方々に訪ねたいけれど、たとえば大好きな人ができて、そのひとと来週デートするとする。初めてのデートだとする。
胸がはちきれそうなほど嬉しいとともに、膝が震えるほど怖い。なんだか冴えない一日になってしまうのが怖い。がっかりされるのが怖い。思ったよりうまくしゃべれないと思うと怖い。相手の期待ほど可愛くない自分だったらと思うと怖い。
そんなときはないだろうか? そんな時何らかの努力をしないだろうか?
自分の知る限りの知己もいままでめぐりあいのあった女性も、すごい何かをしていた。正直男性である自分からは理解しがたいほどのエネルギーをそこに注ぎ込んでいた。
その日その瞬間を「いい感じ」にするために、髪型や服を整えて、時には体型やら自分の好みまで変えて、とっておきを提供しようとしていた。そういうのを見ると恐れ多いような頭が下がる様な気持ちになったのを覚えている。
デートの時にやってくる「一番好的な彼女」というのは上記のような女性の努力の、つまりはクリエイトの結果だと自分は思っている。
ディズニーのいうありのままの自分がなんだかよくわからないけれど、彼女たちは、確かに自分自身を超えた自分を顕現させようとして、いっときそれに成功する。
自分はそれを偉大だと思う。女性だからとかそういう理由ではなくて、クリエイターとして尊敬する。言語化出来ているかどうかは定かではないけれど、彼女らはなりたい自分をクリエイトして作ったからだ。
創作物には、描きたいものがある。その描きたいものが例えば出会いとか、別れとか、嬉しいとか悲しいとか楽しいとか懐かしいとか、恋とか、そういうものがあって、その過程で必要となってヒロインがいる。
卑俗なところで言えば、可愛いとかもっと見ていたいとか、エッチなことをしたいとかでも良い。とにかくそういうエモーショナルな何かを伝えたくて創作物を作る。
女性のキャラは、例の言葉を借りれば女性の表象は、そのための道具に過ぎない。大事だし思い入れもあるけれど、過程に過ぎない。読者に伝えたいもののために必要であれば何かを盛るし、邪魔であれば削る。
それは現実の女性には不可能だ。だって現実の女性は主人公のために、あるいは読者や視聴者のためにだけは生きられないでしょう? 現実の自分の生活があって、趣味もやるべきこともたくさんあって、理想の魅力的な自分だけでは生きられないでしょう?
世の中で言われている萌キャラなんてものは、愛されるために生まれてきたものだと自分は思う。自分が関わった仕事は、全てそのつもりで仕事をしてきた。現実の女性と違って、彼女らはそれに全力投球だ。なぜなら、それが彼女らの存在意義で、全てだからだ。そのために生まれたからだ。
それ以外の私生活なんてものはない。あるように見えたとしたら、それは覗き見される前提で作られた、いわば公開用の私生活だ。飾り気のない普段の姿、という形態の作り込まれた物語にすぎない。
つまり、創作物のキャラは、現実の女性がデートの瞬間ほんの一瞬だけできる「すごい自分」でいるのをフルタイムで続けられる存在だし、それが存在価値だ。何ヶ月も、場合によっては何年もかかって産み出されて、一瞬で消費される。その巨大なコストを代償にして、現実を超えるために産み出されるのが創作物のキャラクターだ。
自分は、「現実を超える」使命を持った創作物が、そのために悩んでカロリーを叩きつけた創作物が、「女性の表象」だなんて、そんなふうに単純化されるのを我慢できない。
たとえば、あるヒロインの不安と絶望を表現するのに、創作者は雨を降らせることができる。人気のないコンビニの駐車場の暗がりを作ることも出来る。つながらないSNSを登場させることも出来る。それらは舞台背景であって舞台背景ではなくて、彼女の内面を表す暗喩だし、読者に感情移入してもらうための動線だ。
そのキャラクターが気高くて必死で尊敬に値すると伝えるために銃弾の降り注ぐ戦場も用意できるし、水晶の花咲く庭園でのダンスシーンも描ける。
彼女の魅力を伝えるためなら、そこまでやる。女性としての魅力を伝えるためにもし必要だと判断するならば、女性の体さえ抹消する。耳やら尻尾やら砲塔やらを生やす程度なら序の口で、人面蛇身にすることもあるし、なんだったらAI宇宙船の金属筒に収められた脳髄だけの少女なんて世界観にすることも出来る。
雨やコンビニや水晶の庭園が女性の表象かといわれれば誰もがNoと言うだろうと思う。でも創作者の中でそれは渾然一体で不可分だ。その時それが必要ならつくるまで。舞台だけじゃなくて、演出も、エピソードも、言葉選びも、同じ語句をひらがなで書くか漢字にするのかさえ、伝えたいものを伝えるための道具であって、ヒロインと等価で同じものだ。
読者や視聴者の人に、紙面やモニターの向こうで、恋をしてもらえるなら、涙してもらえるなら、どれだけカロリーがかかってもそれら全部はやるべきことだ。
つまりやっていることは「女性の表象を作ること」なんかじゃないのだ。青椒肉絲定食を作ってるのに対して「ピーマン切るのは許可されるか」「いやピーマンは不許可だろ」みたいな議論をされてる置いてけぼり感。
こちらはピーマン千切り業者をやってるつもりはないし、ピーマン千切りを提供したつもりもない。もっといっちゃえばお前らがいじくり回してるその皿には、パプリカは入っててもピーマンは入ってないよまである。あるいはししとう叩いて大喜びだな、なんてのも。
以上で率直な感想は終わりだ。フェミがどうこうとか性的搾取とかは、自分にはよくわからない。
でもこっちは現実の女性を周回遅れにする純度のために何かを描いてるので、現実の女性の投影であるとか、模造であるとか、そういう雑な用語選びは好きになれない。という話だと思う。
メタバースはバーチャルに展開される世界のことだよね。世界を構成するのは根本は人間関係に因るので、バーチャル上の人間関係が主軸になる文化って感じか。
会話する、遊ぶ、仕事する、なんか協力する、そういういろんな関係がバーチャル上で完結する。いやそれって今までもツイッターで繋がってる友達とかオンラインゲームで繋がってるとかあるやん、だから目新しくないやん、って思うけど、多分それら従来のは『現実(プライマリ)』と『仮想(セカンダリ)』にわかれてて、メタバースはこれを『現実・仮想(両方ともプライマリ)』に変えてこうぜってこと。仮想を現実+αのエンタメ領域じゃなくて、現実と等価として扱う。だからバーチャル上で完結する経済圏やビジネス、娯楽、生活基盤が最終的に求められると拡大解釈してる。
なんというか無理難題で草。
VRは必然的に視界をジャックしてしまうから、それが最強の難題だよね。SFみたいにフルダイブする=寝てる間にメタバースで生活するようなものができない限り限界が見えてる。なので、xR関連に限ってはMRで現実世界を拡張するほうが本命だと思う。なぜなら情報端末の進化の系譜に乗ってるから。けどそれだと現実世界しかないからメタバース成り立たない。
スマホの話。結局あれって、電話→持ち運び電話(初期のショルダーバッグみたいなやつ)→携帯電話(デカ目の子機レベルからガラケー)→スマートフォンというように、過去の技術を置き換えて生まれたものだよね。
つまり、一般に普及するためには、それが妥当性のある進化の系譜を持っている必要があるってわけ。別の例なら馬車→車(移動手段の置き換え)とか、メガネも人体機能の置換えだよね。けどVRはどうだろう。デバイスとして妥当な系譜を持ってるとは思えない。けど強いて言うなら、世界を置き換えるとは言える。なので結局メタバースとVRはほぼほぼセットで考えるというか、相互にありきで進化すべきってこと。
さぁ、相互にありきで進化すべきだけど、どちらも無理難題を抱えている。なので、残念だけど、今盛り上がってるVR×メタバースは単なるバズワードでおしまいになることがわかる。
とはいえ、この分野に企業が投資しまくっていくようだから、多分なにかめちゃくちゃ便利な発明は出てくると思う。たとえば遠くにいる人と現実と遜色なく話せるっていうのはいろんな人にとって価値があるし、これに限って言えば、会話→ビデオ通話(ZOOM)→もっと便利な遠隔コミュニケーションツール、という系譜に乗るので妥当だ。