はてなキーワード: 医学とは
サイエンス誌があぶり出す「医学研究不正大国」ニッポン Scienceによると研究不正の世界トップ10の半分は日本人研究者だった
https://news.yahoo.co.jp/byline/enokieisuke/20180822-00094058/
>>「死んでも論文は生き残る」、「他の科学者の時間を盗み、研究方法の選択や、治験の選択に影響を与える」という。
>>佐藤氏の疑義を追及したアヴェンル氏らの膨大な労力のみならず、佐藤氏の論文を引用し作成された治療指針が無駄になり、
うわあ
人類の文明の足を意図的に引っ張っている日本人って地球の敵だな
日本は亡んだ方がいい
→ Twitter で医師を拾ってきて Google のソフトウェアエンジニアにするだけの簡単なお仕事 - 白のカピバラの逆極限 S.144-3
「超優秀な人間が、地方の劣った人間を見下すな」という趣旨だ。
元の文章に「田舎初段」という言葉が出てくる。素人よりは段違いに上手だが、その道のプロから見ると桁違いに下手、という真ん中を指して揶揄した言葉だ。頂上感が自尊心のコアになっている時に尊大な田舎初段を見ると、本物はどういう事か教えてあげるために、ちょっと捻ってみたくなる気持ちはよく分かる。
 ̄ ̄
聞く方は羽生名人が田舎初段を捻り潰すのを見るような後味の悪い感じがしてしまうものだ。
羽生名人はそんな事をしなくていい。あなたの優秀さはそんな事をしなくたって周りの人に伝わっているから大丈夫ですよ、と言いたくなる。
まったく低レベルの曲解なので、呆れてしまう。元記事のブコメも、同趣旨の理解が多いようだ。しかしそれらはすべて誤読である。では、正しくはどう理解するべきかを示そう。
「田舎初段」という言葉の意味は、「井の中の蛙、大海を知らず」というのとほぼ同義である。ただしそれに「自惚れ」「過信」という意味が加わる。
そして、その言葉で示されるのに典型的な事例は、「素人よりは段違いに上手だが、その道のプロから見ると桁違いに下手、という真ん中」ではない。つまり、「二流」や「一流半」ではない。
では何かというと、たとえば菅首相だ。
・ 自分はすごく頭がいいと自惚れる。
最後の一点に限っていえば、はてなーの好きな「トンデモ」という用語に当てはまる一種だ。しかも、自惚れの度が強い。
こういう人間が、周囲の反対を押し切って、「緊急事態宣言の解除」とか、「GoTo イート」とか、「ふるさと納税」みたいな自己流の方針を貫徹する。そして、そばにいるエリートが反対すると、そのエリートを左遷する。他人の言うことを聞かないのが絶対的に正しいと信じている。
ここまで言えば、わかるだろう。元のブログ記事は、「二流の人材を侮辱している」のではない。「一流の人間たるもの、田舎初段になってはいけない」というふうに、一流の人間に向かって「戒めの言葉」を示しているのだ。
なにかの分野では一廉でも別分野では田舎初段に容易になるということです。
学者とかでも、他分野に友人が十分にいれば、そう踏み間違えないが、孤独ならばどんどんおかしなことを言い始めます。
これを止められるのは、かなり簡単に狂うことを意識していることと分野を超えた人間関係があることが揃っている場合くらいでしょう。
普段から様々な分野の学者と話し合っていると、およそまともではない専門家の意見がネットで飛び交っているのがよく分かります。
ここでは田舎の二流人間が批判されているのではない。一流の専門家が批判されているのだ。どう批判されているかというと、一分野に偏ってタコツボ化した専門家だ。そういうタコツボ化した専門家が、
「なにかの分野では一廉でも別分野では田舎初段に容易になるということです。」
の事例となるのだ。
たとえば、Wikipedia の英語版にも掲載されるような、非常に優秀なプログラマーがいる。
→ https://en.wikipedia.org/wiki/Kohsuke_Kawaguchi
こういう超優秀なプログラマーでさえ、日本語をまともに理解することができず、見当違いな批判を書いてしまう。自分の分野から、ちょっとはみ出ると、まともに理解することもできなくなってしまうわけだ。これこそ、元記事で「あってはならない事例」として示された例だ。
――
元記事を「超エリートの自慢」「頂点に上り詰めた人が他人を見下す」「狭い領域で頂点に立って自惚れている」というふうに受け止めるのは、勘違いだ。
では、どう受け取るのが正しいか?
元記事では、普通の人々は、まともに視野に入っていない。それらは言及外であって、良いとも悪いとも言っていないし、見下してもいない。もともと視野に入っていないのである。
視野に入っているのは、エリートクラスの人々だけだ。そして、そのなかで、どういうふうにあるべきかを考えている。
そのとき、彼自身は、自分を「エリート」とは考えていない。むしろ「エリートの中の落伍者」と考えている。元記事のそのまた元記事になった人もそうだが、「東大理3から、プログラマーに転じた」という経歴らしい。これは、医学の道でも、プログラマーの道でも、どちらでも大成しなかったということだ。筑駒や理3の卒業生の中では、(やや)落ちこぼれ組に入る。
はてなー中では、「グーグルに勤務して年収 3000万円」というのは、「凡人社会の頂点にいる」というふうに見えるのだろう。だが、筑駒や理3の卒業生の中では、医者としてもプログラマーとしても大成しなかったというのは、(やや)落ちこぼれ組に入るのだ。
ちなみに、私の知人(同級生)の多くは、国立大学教授や理研の研究員として大成している。世間的には超一流の肩書きを持つ。そういう仲間と比べると、今回の人々は、頂点どころか、(やや)落ちこぼれ組というしかない。威張れるのは、年収だけだろう。(公務員研究者は、年収が高くないので。)
元記事を書いた人や、そのまた元記事を書いた人は、非常に優れた才能の持ち主だ。(後者は高校時代に数学オリンピックに出たらしい。)しかし、その生まれ持った才能を生かすことには失敗しているのである。才能は素晴らしいが、才能を生かすことには失敗したのだ。
そして、そのことを、私は批判しているわけではないし、侮辱しているのでもない。「人生の選択肢で道を間違えたね」と感じて、「可哀想に」と憐れみを感じるだけだ。「私も道を一歩踏み間違えたら、こういう無駄な人生を送っていたかもしれない」と感じて、自分の幸運を感じることもある。
(蛇足)
たぶん、道の選択を間違えた人と、成功した人との違いは、周囲の人々の影響の差だろう。周囲に素晴らしい人がいれば、道をあやまたずに、正しい道を進むことができる。そして、そういう機会のなかったエリートには、同情を禁じえない。
私はグーグルのプログラマーなんかにならないで済んだが、それは本当に幸運だった。(そしてそれは、人生の最初に、素晴らしい女性との出会いがあったからなんだ。そしてまた、高校時代に、素晴らしい教師を知りえたからでもある。それは優しい親切な教師ではなく、星一徹のような鬼教師だったが。)
メンヘラが、毒親や理解ある彼くんへの当て付けに、眠剤オーバードーズしたり手首を横に切ったり(死にたいなら縦にザックリ行け)する狂言を自殺「未遂」に数えてるだけなんじゃないの?
「どうして勉強しなきゃいけないの?」と子どもに聞かれて俺はこう答えたという内容の増田が先日ホッテントリに上がっていた。読んだ。クソおもんなかった。
とはいえあれを書いた増田だけを責めようとは思わない。「どうして勉強しなきゃいけないの?」に対する大人の答えはいつだってクソおもんないからだ。
この話題はネットではたびたび繰り返されるが、そこでなされる答えは往々にしてフワッフワしていて説得力に欠けクソおもんない。
その理由はぶっちゃけはっきりしている。嘘をついているからだ。
なぜ嘘をついてしまうのか。そもそも勉強しなければいけないというのが嘘だからだ。にも関わらず、勉強しなければいけない理由を無理矢理にひねり出すから、そこで語られる内容はフワッフワして説得力に欠けるものにしかならない。
「俺は今の仕事で学校で習ったことが役に立ってる」と言う奴がいる。そらそういう人もいるだろう。しかし、例えば学校で医学や法律の知識を教えれば将来医者や弁護士になる人にとっては確実に役に立つにも関わらず一般的に高校までのカリキュラムに医学や法律の勉強は入っていない。一部の職に就いた場合に直接的に学んだ内容が役に立つというのは子どもが勉強しなければならない理由としてはあまりにも弱すぎる。だいたい、役に立つかどうかでいったらゲームで遊んだり漫画を読んだりすることすら役に立つのだ。そういう経験は将来特に同年代の人との間で共通の話題となりコミュニケーションを円滑にする場合が数多くある。エンタメ業界で働く人にとってはもっと直接的に職業上役立つ経験となるだろう。どんなことだって何かしらの形ではその人の糧となるのだ。
「勉強をすると想像力が養われるのだ」と言う奴がいる。「優しくあるためには勉強する必要がある」と言う奴すらいる。じゃあたくさん勉強してきたであろう高学歴の人たちを見てください。悪口になるからこれ以上は控える。
そもそもの話として勉強というのは誰もが適応して付いていけるものではない。方程式はおろか九九すらままならないような人だってたくさんいる。だけどそういう人たちが生きていけてないということは全然ない。勉強に付いていけなかった人たちもその人なりのやり方で立派に生きている。そういう現実がありながら勉強しなければいけないと言うことにどれだけの説得力があるだろうか?
ではなぜ大人たちは「別に勉強しなければいけないなんてことはない」ということを認められず、勉強しなければいけない理由を無理矢理にでもひねり出そうとしてしまうのか。
ひとつの理由は実際に勉強して高い学歴を得ることは収入や社会的地位といった点で人生を有利にするからだ。大人からすると自分の子ども(や甥や姪)には有利に人生を歩んでほしい。だから勉強してほしい。だけど、それを勉強しなければいけない理由として語るのは利己的な動機すぎてあまりにもあんまりに思える。だからなんとか勉強しなければならない理由として美しいものをひねり出そうとしてしまうのだ。
そしてふたつめの理由は大人は子どもたちに勉強させなければならないからだ。
こう書くと「いやお前今さっき勉強しなくていいって言ったばっかじゃん!」というツッコミが入るだろう。違うのだ。「子どもは勉強しなければならない」と「大人は子どもたちに勉強させなければならない」は全く話が違うのだ。後者は正しいが前者は間違っている。そしてここを混同してしまうがゆえに「勉強しなければいけないなんてことはない」ということに違和感があり認めづらいのだ。
何が違うのか。「勉強しなければいけない」というのは個々人レベルの話だ。個人として勉強した場合の利益やしなかった場合の不利益がどうかという話になり、勉強することによって得られる利益を放棄したからといって生きていけないというわけではない以上別に絶対に勉強はしなければいけないものではない。
一方で「子どもたちに勉強させなければならない」というのは社会レベルの話だ。「勉強させなければならない」という言い方に強制のニュアンスが混じるのに違和感があるなら「勉強する機会を与えなければならない」に言い換えてもいい。
初等教育が充実していてほぼすべての人が読み書きや基礎的な計算をこなせる社会とそうでない社会を比較した場合、前者の方が豊かで力があることは明らかだ。そして初等教育から中等教育、高等教育に接続される子どもが多い社会ほど、より高度な人材が育ち、豊かで力のある社会になるというのもこれまた明らかだろう。
教育の本当の受益者は教育を受ける子ども個々人ではなく社会全体なのだ。
日本国憲法第四条には教育の義務について書かれているが、そこに書かれている文言は「国民は、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務を負う。」だ。子どもに勉強する義務があるなんてことは書かれていない。書かれているのは大人は子どもに教育を受けさせる義務があるということだ。ここまで俺がしてきた話とぴったり一致している。
まとめると、「どうして勉強しなきゃいけないの?」という問い自体がそもそも微妙と言える。間違った問いに沿って考えると不毛な議論しかできない。
そこで問いを「どうして社会は子どもに勉強させなきゃいけないの?」に変化させると、視点が変わり、より本質的な議論ができるようになるだろう。
多くの人が「どうして勉強しなきゃいけないの?」に対して「自分は勉強してきたおかげでこんないいことがあったよ」というような個人の経験ベースの答えしかできていないという事実は結局勉強なんて期待されるほど人間を賢くしないということを示唆している。
俺は知性の働きとして特に重要なものは自分というものを相対化できることではないかと考えている。だから知的な人間には「どうして勉強しなきゃいけないの?」という問いについて考えるのであれば我々と異なる国や時代では勉強というものがどのように扱われているのかであったり、現在の教育制度がどのように形作られたのかであったり、そういったものを気にしながら考えてほしいと願っている。自分で答えは出さずにそういったものを子どもに調べさせる、考えさせる、というのもいいだろう。
だけど多くの人はそのような発想はせずに自分の経験の中から答えを出そうとしていた。人生の早い時期に勉強からドロップアウトした俺のような人間がそういった思考のアプローチに思い至っているのに、俺よりもはるかに勉強してきたであろう人たちがそんなんであるというのは、つまるところ勉強しても人はそんなに賢くならないという残酷な事実を示しているように思えてならない。
伝わらない書き方で申し訳ないのですが、本の権威を信じている人(私ではありません)向けにこういった怪しい内容の本を差し出すやり方が好きになれないという意図です。
雑談の中で、新聞の広告に載っているのだからいい本だと思って買い求めに来たと言う方や、こんなに売れていてさまざまな書店でお勧めされている本なのだからきっと信憑性があるはず、というような購入動機を繰り返し繰り返し耳にしてきました。
無論いい本かどうかを判断する能力を私が十全に備えているわけではないと思います。しかし、例えば重篤な状態にあっても医学的裏付けのある治療法をするべきではない、もっとよい方法(高額な自費診療が必要であったり現代医療ではっきり否定されている半ば魔術的なやりかた)をすすめるなどの本が健康版として出版されている状況について全く批判されるべきではないとは思えません。
40代の僕も大腸癌のステージ4だ。再々発して4月に手術する。
がんになると、怪しい治療法や考え方の人が近寄ってくる。
しかも、がんになったことない人が非科学的な視点で語っている。
・手術は必要ない
・温泉で治る
・○○という治療でマウス癌が消えた(人間で効いたとは言っていない)
などなど、ホントにうぜー
自分でどう考えて何を選択してもいいけど、他人に押し付けてくるな!
早期に手術して腫瘍を取ったから平穏に過ごせていると思っている。
病院で提供していても、保険が効かなければ民間医療もしくは自由診療。
例えば、免許を持っている医者が「この水を飲めば癌が小さくなります。1Lで1万円。」といって提供すれば詐欺ではなく自由診療。
保険が効かない治療は、お金をむしり取られるだけだと思って間違いない。
「高い確率で治療法として確立できそうだから、きちんと実験してみるか」というのが先進医療です。
がんになって財産を無くすというエピソードはアメブロにいっぱい転がっている。
別に人体に詳しいわけじゃねねえけど、腰って
・それ故に多くの神経が通ってる
場所なわけでしょ。
そこに急性の筋肉の炎症・欠損が生じるわけでしょ?
それをなにスラングとはいえ音の響がちょっと間抜けな『ぎっくり』なんて名付けてる訳?
バカじゃねえの。
例えば英語だと『魔女の一撃(witch's shot)』だぞ。
日本だと魔女のイメージが湧きづらいけれども、海外で魔女って言ったら多分相当なアレだろ?
なんか日本でももっと『山姥の殺戮』みたいなヤバそうなスラングを作るか、相当ヤバそうな医学っぽい名称をつけろよ『急性神経圧迫性腰筋痛』みたいな。
てかなんで俺腰痛になってんだよ。
原因の分かんねえ脇腹の痛み(おそらく内臓が悪い)をかばった生活してたら腰まで終わったんだが。
こういうケースは何科にかかればいいんだよ。
いや医者が麻酔科以外なら医師免許取ってれれば何科でも名乗っていいレベルのジェネラリストなことは俺も知ってるよ。
とはいえさ、一応行くなら専門の医者に行くべきだろ。それなりにやり慣れてる分野で長くやってるとその他のことだとカンが取り戻せないというかなんと言うかなこともあるだろ、医者も人間なんだから。
なんでどこが痛いかを患者が判断して何科の医院にかかろうか悩まなきゃ行けねえんだよ。
『ドリルを買う人が欲しいのは「穴」である』って言葉があるように『患者が解消して欲しいのは『痛み』である』だろ?
いや『ペインクリニック』なる概念が存在してるのは知ってるよ?
それにしても数が少なすぎるだろ。わかりやすい体調不良(熱が出た、骨が折れたetc…)なら患者でもそりゃあ何科に行けばいいかぐらいは分かるだろうけれども、
はあ、体がいたい
ばい菌の「ばい」とは?
日本では"virus"のこと「ウイルス」「ウィルス」って読む人が多いですが、英語では「バイラス」に近い発音ですよね。
かつて黒船来航から明治維新の頃、西洋医学が日本に浸透しつつありました。
日本語にもともと存在した「菌」とあわせて、「バイラス・菌」と呼ばれていたのが、いつしか複合語となり「ばい菌」と呼ばれるようになりました。
一方で"virus"は少数の医学者だけではなく、一般市民にも広く知られることとなりました。
その過程で、英語ではなくラテン語風の「ウイルス」読みが定着し、「ばい菌」の「ばい」の意味は今日では殆ど失われてしまったのです。
みたいな話は無い。