はてなキーワード: 俗流とは
>マミーの自称にフェイクを混ぜたがきみは突っ込めずに引用した
(あれ、「MIT卒じゃなかったっけ?」と思った←これも記憶)
貴兄は
と述べてらっしゃいます。恐らくマミー石田本人の実像はそうなのでしょう
ただ、当方が問題視しているのは、正確には「マミー石田個人の意志を離れて広がった(誤解された)マミー石田的な現象」です
俺以外でこう述べた人たちも同じような認識だったのではないかと思います
https://anond.hatelabo.jp/20190812143403
https://anond.hatelabo.jp/20190502092039
逆にいうと貴兄は余りにもマミー石田個人に近すぎて、その後マミーの手を離れて2ちゃんねるで勝手に広がった学歴差別ブームと完全に切り離しているのでしょうか
嫌韓厨は悪漢の自認などしてないとの説も、そういう側面はあると思いますが、先にも述べたように2ちゃんねるを中心としたネット世論は、本気もネタも混然としたところがあります
嫌韓厨の中核は当人の主観では大真面目な「ネットde真実」の人たちでしょうが、ある程度まで嫌韓世論が広まって以降は、無自覚のうちにも差別による優越感を得たくてやっている層、ネタ的に消費している層も混ざっていたと思います
嫌韓ネトウヨの主張のなかには、「弱者に配慮なんかしなくて良い」「被差別者は公然と笑い物にしてよい」という、人権思想や人類みな平等という考え方への嘲笑があります
そういう価値観を最初にカジュアルに広めたのは誰か? さかのぼってみたら、当方の記憶ではマミー石田じゃないかなあ、と思ったわけです
くり返しますが、これはもはやマミー本人が志向していた所とは離れた広がりでしょうけれど
たとえばダーウィンが「生物学としての進化論」を唱えたら、ダーウィン個人の意志を離れて、社会的弱者が淘汰されるのは正しいという俗流解釈の社会ダーウィニズムが広まったような例もあります
https://kojitaken.hatenablog.com/entry/20190104/1546561548
このコメントを書いた論者はなぜこんなにも経済に無知なのに、想像だけでこんなにも自信を持って経済を語れるのだろうか。まったく恐れを知らないとは恐ろしいことだ。
"ここ数年比較的景気が良かったのは,単に好調な世界経済の「おこぼれ」に日本経済も多少は与れたというだけのこと"
本当に飽き飽きとするのだが、外需の変動で国内経済の変動を説明しようとするのはマスコミによく登場する「俗流経済論者」の典型である。
国内経済の総供給よりも総需要が少ないとき、それが過剰在庫や失業という形で表れる。それを「景気が悪い」という。
たとえば外需が増えても、それ以上に内需が減少すれば景気は悪くなる
したがって時の政権が、外需の増加以上に内需を「減らさなかった」のなら、その経済運営は一定評価すべきことである。
たとえば外需が減ればその分内需を増やして「国全体の需給のバランス」をつり合わせるのが「正しい経済運営」である。
この手の論者はおそらく「世界経済は日本経済よりも遥かに大きいから、日本経済は世界経済に従属する」とでも思っているのだろう。
しかし、世界経済の取引のほとんどは日本経済と無関係であるというごく簡単な事実をわかっていない。
世界経済の中で、日本経済に関係あるのは、日本と外国の間の取引だけである。
"そして,世界経済がひとたび傾けば,日本経済は真っ先に奈落の底に突き落とされる運命にある。アジア通貨危機やリーマンショックの時と同じように。"
明確な根拠もなくいきなり日本経済の「運命」が名言されるとは驚くばかり。この経済予言者は自分の知能にずいぶんと自信があるようだ。是非論文を書いてノーベル経済学賞を取ってもらいたいものだ。
どうして経済については空想でものを決めつけることが許されるのだろうか。
"これだけグローバル化が進んだ世界経済に,日本経済もがっちりと組み込まれている以上,日本一国限定の経済政策で出来ることなど高が知れているし,世界経済の荒波に翻弄されるのは仕方のないこと。
今更グローバル化と訣別する訳にもゆくまい。「ソ連は大恐慌の影響を受けずに順調に経済成長した」とはよく言われるが,当時のソ連のような国になりたいと誰が思うだろうか。"
外需はコントロールしにくいが内需は政策的にある程度コントロールできる。
そして、金融政策の変更によって為替レートが変化すれば外需も変化する。
「グローバル化と決別」などと、相手が言ってもいないことを捏造しなければ、自説を正当化できないのか。
金融政策、財政政策を「適正」にして、国内経済の全需要と全供給のバランスを取れと言っているだけの話だ。
経済政策的「無作為」か、「グローバル化と決別」するかというのは「偽の二択」である。猛暑か極寒か選べというのに等しい。騙しのテクニックだ。
だいたいソ連を持ちだして論敵を貶めるのは冷戦時代の赤狩りのやり口ではないか。
"松尾匡など典型的で(マルクス経済学者だから当然だが),主著のタイトルが『不況は人災です!』だもの。"
この論者の無知が端的に表れている。
松尾がマルクス経済学者であるのはその通りだが、リフレ政策がケインズ経済学的政策であることは、経済学をある程度知っている人間であれば常識である。松尾が"不況は人災です"と言いだすのは松尾が"マルクス経済学者だから"などと言いだすのはこの論者が批判相手の主張さえ政策に理解していない証拠だ。 そもそもこの文章全体にケインズ経済学の「ケ」の字も出てこない。総需要管理政策を批判するなら「敵」はケインズ経済学だ。この文章を書いた人間は経済学を知っているのだろうか。だいたいこの論者はマルクス経済学をなんだと考えているのか。マルクス経済学は不況を人災とは言っていない。マルクス経済学では不況は「資本主義の矛盾」によるものであり、資本主義を続けている限り避けられないとされる、その点ではむしろこの論者に近い。上記の「ソ連」といい反共意識でお手軽に論敵を否定しようという安易さが見える。
"現実主義的な「リベラル」なら,『不況は天災,けれども「不況で人が死ぬ」のは人災です!』と唱えるべきだ。"
ろくに問題を学ばないで、ある政策が実行不可能であると決めつけるような知的に不誠実な人間が自称「現実主義的なリベラル」という人間なのだろう。ここだけはこの論者が全く正しいといえるだろう。
"経済無策と嘲笑された民主党政権下でも,金融円滑化法と地道な自殺対策が奏功して,高止まりしていた自殺者数を減少に転じさせた実績がある。
外的制約にがんじがらめで自由が利かない経済政策と違い,社会政策は国内政治の「やる気」次第で充分可能なはずだ。"
社会政策の問題は、経済政策の是非を論じているときに持ち出す話題ではない。
なおこのコメントはひどいものだが、それを理由にリフレが正しいとは言えない。もっと知的にも倫理的にも不誠実なリフレ派は沢山いる。リフレを賛成するにも反対するにも最低限の知識が要るというだけのことである。
丁寧語とは、眼前の相手への敬意を表す言葉であって、単なる「敬語」という意味ではない。言ってみれば、部下が上司にする言葉遣いである。一方「しゃーない」はどちらかと言えば上位者から下位者になげかけられる男性語における関西弁の俗流表現であり、軽い侮蔑語としての「アホか」に近いニュアンスすらある。「シャーナイヤン(1)」「シャーナイヤロ(2)」とか「シャーナイヤンケ(3)」「シャーナイチュートンノジャ(4)」など、「シャーナイ」のヴァリエーション(※1)を考えれば、ほとんど罵倒語ですらあるので、これを丁寧語にするというのがまず発想として奇妙である。
また、コレを無理に「仕方ない」の意の丁寧表現と取るとしても、一般に関西弁ネイティブの世界で、たとえば部下が上司に向かって”仕方ない”という自分の感想を直接的に述べるシーンというのがまず想定しにくい。関西弁は非常に日本そのものであるような文化体系に基づく言語なので、「仕方ない」出来事に遭遇したときには、出来事の「状態」を描写するよりも、古語のようにその状況に遭遇した「相手の心情」を慮って言葉が発せられ、これによって相手へのより強い敬意や遺憾の念を表現するのが普通だからである。従って、「しゃーありません」などという妙な言い方は、ネイティブからは出てこない。これは、表面だけ関西弁だがハートが関西弁ではない人間が想像で喋るエセ関西弁である。朝ドラなどで非常に頻繁に見られるが、イントネーションを似せれば似せるほど不気味の谷に近づいて違和感があるのでこういうのは本当に止めた方がいいと思う。(※2)
たとえば「上司が契約を取るため条件を下げるよう上にかけあってきたが、社の方針でダメだと言われる状況に遭遇したときの部下の一言」を想定するならば、「コレ、ホン↓トニナン↓トモナラナ↑イン↓デスカネー…」が正解だ。やや棒読みで最後を低く呟くように発音するのがコツである。「何ともならない」ことを分かった上で、敢えて相手の心の内を代理的に言語化する。一番「何ともならない」ことを分かっているのは上司だ、との了解の下で(棒読み口調によってこれは察せられる)敢えて一段自分を低め、道化となって「分からないフリ」をすることで、上司自身に「マアナラヘンナ/無理↑ヤ(=仕方ない)」と言わせるための一言である。これはかなり気を遣った「仕方ない」の関西弁による丁寧表現である。「仕方ない」とこちらから言うのではなく、相手に「仕方ない」と分からせるために相手の心情を思い諮り、同時に敬意を表現する。こういう柔らかな「寄り添う言語としての日本語」の特長を、日本の伝統を大事にされる方々には関東においてもぜひ日常的に取り入れてもらいたいと思うばかりである。
また、もう少しカジュアルに(カジュアルという概念自体が関西文化にはうまくそぐわないのだが)表現すると? たとえばちょっと丁寧に同格の同僚と喋るようなケースで「今後こういう傾向になっていくのはやっぱり『仕方ないですね』」という内容を言う場合どうなるか。その場合は、自立語ではなく付属語や補助動詞で表現することになるだろう。つまり、「ない」自体が敬語化されるのではなく、「仕方ナイ↑デスネー」みたいな感じだ。女性的表現としては、「仕方アリマセンネー」が考えられ、これは増田の想定に一番近いのだが、女性語の場合丁寧な社交の場では言葉が関東弁に近づくケースがあるので(これについては谷崎潤一郎の小説「細雪」の中でも少し触れられている(※3))このようになる。
以上、増田の初級関西弁講座である。ネタであることは言うまでもないので話半分に聞いておくように。ホナマタ。
https://anond.hatelabo.jp/20180113124118
※1 厳密に言えば、「シャーナイ」とほぼ同義で使いうるのは「アホクサ/アホカイナ」である。前者は事態を、後者は相手を軽くあしらい流すときに用いられる。ただ、このような間投詞的な「アホ」(詠嘆の「アホ」という)の用法は、シチュエーションにより様々な意味を含有するので、非ネイティブが使用するのに苦労する部分である。「アホ」は本来道化(クラウン)を意味する言葉だが、同質性の高い世界において道化役は時に非常に重要な役割を果たすものであり、それが関西文化圏では共通了解とされているため「あいつアホやな」という言葉は批判ではなく、時に非常な敬意や褒め言葉になりうるし、また若年女子が用いる「アホっ」は、おおむねソフトな「I like you.」の意味で了解されるのである。
なお、「ヤン(1)」~「チュートンノジャ(4)」に至る変化は、一見微妙に見えるがそれぞれ
「(1)仕方ないじゃないですか?(=だからあきらめて貰えませんか?(依願))」
「(2)仕方ないじゃないか?(=だからどうしようもないと考えなさい。(命令))」
「(3)仕方ないと私は言っているでしょう?(=ひょっとして言いがかりを付けて喧嘩したいのですか? 何ならお相手しますよ?(威嚇))」
「(4)仕方ないとこの私が言っているのだ。(殺すぞ(予告))」
…という意味となっており、特に(2)から(3)に変化したときは明らかに相手のモードが変化しているので注意が必要である。親切なネイティブならば、語尾に「ヨォ」という威嚇語を追加し「シャーナイヤンケヨォ!」とメンチ(接近して目を合わせる威嚇のポーズ)とともに発音してくれるので、こちらは非ネイティブにも分かりやすい表現となるが、できれば(3)を聞く前に第三者を介入させるか和解を申し出るのが望ましい。
※2 たとえば朝ドラなどで、番頭はんがお嬢さんに「仕方ナイデッシャロ」などという奇妙な関西弁を用いる「けったいな」シーンは容易に想像できる。このように関東人がエセ関西弁を振り回して「関東人の思う関西人」を演じているのは、実際典型的な「文化の盗用」であり、今後厳しく批判されていくことだろう。
※3 谷崎潤一郎「細雪(上)」より。(舞台は戦前なので、約80年前の話である。)
「彼女は相良夫人のような型の、気風から、態度から、物云いから、体のこなしから、何から何までパリパリの東京流の奥さんが、どうにも苦手なのであった。彼女も阪神間の奥さん達の間では、いっぱし東京弁が使える組なのであるが、こう云う夫人の前へ出ると、何となく気が引けて、――と云うよりは、何か東京弁と云うものが浅ましいように感じられて来て、故意に使うのを差控えたくなり、却って土地の言葉を出すようにした。それに又、そう云えば丹生夫人までが、いつも幸子とは大阪弁で話す癖に、今日はお附合いのつもりか完全な東京弁を使うので、まるで別の人のようで、打ち解ける気になれないのであった。成る程丹生夫人は、大阪っ児ではあるけれども、女学校が東京であった関係上、東京人との交際が多いので、東京弁が上手なことに不思議はないものの、それでもこんなにまで堂に入っているとは、長い附合いの幸子にしても今日まで知らなかったことで、今日の夫人はいつものおっとりとしたところがまるでなく、眼の使いよう、唇の曲げよう、煙草を吸う時の人差指と中指の持って行きよう、――東京弁はまず表情やしぐさからああしなければ板に着かないのかも知れないが、何だか人柄がにわかに悪くなったように思えた。」
残念だがそれほど人気がない。
俺は英国在住のおっさん。年始にロンドンで見たが、そもそも上映している映画館が少ない。毎日上映している映画館はロンドンで2-3か所。860万人住んでいるのに。
月に数回上映がそのほかに数か所。以上。ザッツオール。公開後1月以上経過しているから減ったのだろう。
客の入りは5割くらいで、そのうち6割がイギリス人、4割は東洋人。中国人韓国人日本人。
イギリスのメディアが君の名はを絶賛した、という記事は俺も見た。口コミサイトの評価も見てみたが、非常に良い。
更には上映後のイギリス人の反応を観察してみたが、満足そうに見えた。
ゆえに入口でのハードルなのだろう。ただし内容について「感動」「ラブストーリー」というよりは「展開が早く引き込むストーリー性」「映像の綺麗さ」が評価されているように思う。
若者のラブストーリーである「君の名は」がイギリスでアジア圏のようなヒットにならない理由は以下のように推察している。
今でも完全にそうです。宮崎アニメのように家族で見に行くならともかく、ラブストーリーをアニメで見ようという発想は世間の若者に全くないように思うし、他人に知られたら恥ずかしいことと思われる。
なお本作では奥寺先輩が煙草を吸ったり、瀧が酒を飲んだりするので12歳規制がかかっている。
作品にのめり込めるか、一番重要なのはこの点だと思う。瀧が三葉が男性として女性として魅力的に描かれているか。
多くの日本人には、瀧はイケメン、三葉は高校時代は可愛く大人時代は美人、という設定に異論はないと思う。
欧米人から見ると、経験に基づく推測だが、瀧も三葉も体が薄っぺらすぎる。
瀧は本人のときでもかなり「中性的」に寄っている。欧米人からジャニーズは中性的な子供に見えるということと同じである。
(3人組のうち)高木くらい男くさいほうがいい。イギリス人は瀧に対してこう言いたくなるだろう。「もっと肉を食え、ラグビーで体を鍛えて、女性を守れる男になれ、髪形もベリーショートかリーゼントにしろ」(適当
三葉は単純に子供に見えていると思われる。もっとグラマラスな魅力が出てこないとラブストーリーの主人公という雰囲気が出てこない。シャイな性格もマイナスだ。瀧の三葉くらい気が強いほうがウケる(作品内でもそうだったが)。
イギリス人のラブストーリーは顔を0.3フィートくらいの距離まで近づけてロマンティックな言葉を囁きあう感じなので、瀧と三葉の恋愛動作は非常に幼く見える。こちらの高校生は結構オトナである。
山頂で出会うシーンもイギリス人なら、強くハグして、濃厚なキスをして、0.3フィートである(超適当)。名前を書きあっている場合ではない。出会って3秒でハグキス0.3フィートである。高校生にそういう描写が許されているのかは知らない。
ラストシーンでいったん声をかけずにすれ違ってしまうシーンには、階段の一番下から大きく手を振って「Hey!!!, I think I met you sometime and somewhere!!!」と大声を出さないのか不思議であろう。奥ゆかしさは理解されてもそこから生じる感動は理解されないと思う。実際に泣いている人は少ししかいなかった。クライマックスの「すきだ」も字幕だからね。手によくわからん文字が書いてあって字幕でI love you。ちょっとねえ。
日本人のおっさんである俺にとってどうだったかというと「超面白かった」。イギリス、日本、機内の計3回も見てしまった。最初に見たのは機内だったが、中年のおっさんがうるうるしているのを見てCAさんはドン引きしていたことであろう。少し気になるのは日本での作品への「評論」である。確かに整合性がおかしいところは多い。私は3年のずれに気づかないことよりも、この広い宇宙で隕石が1200年周期で同じ場所を直撃することのほうが超天文学的確率というか、分母が10の何乗になるのか、そのほうがずっとありえないと思いながら見ていた。変電所の爆破は中部電力に連絡が行ってしまったので町を救ったからお咎めなしになるものではあるまい。ああいう会社は融通をきかせるのが難しい。テッシ―の「髭剃れ」の話は収監されていたから?などとも思った。しかしながら、内容の整合性に難があってもそれ以上の魅力で引っ張ってくれれば私はそれでいいと思う。官僚や銀行員のような減点主義で映画を見てもつまらんでしょう、と個人的には思う。
キネマ旬報のベスト10がどういう選考基準なのかHPを見てもよくわからなかったが、アジアで数千万人を引き付けた映画よりも、日本映画だけでも10個も上位があったら、それって大ニュースなのではないかと思う。売れる映画と良い映画は違うというのは一部分かるが、それよりはもっと簡単に説明できる言葉があるのではないか。スノビズム。大衆は見る目がない、ということだもの。
同業の監督や評論家の「売れる要素だけ詰め込んだ」とか「モチーフがありきたり」の批判に対しては、おっさんは長く生きているので、30年前の「ノルウェイの森」騒動を思い出す。「100%の純愛小説」と付けてクリスマスカラーで売り出した同書は「君の名は」と同様に爆発的に売れ、今ほど有名でなかった村上春樹をスターダムに押し上げると同時に、評論家から「誰でもかける薄っぺらい通俗小説」「ありきたりの三角関係」などの多くの批判が浴びせられ、その騒動で村上春樹は心を痛めて日本を離れた。彼の作風にも影響が出てしまった(軽妙さが失われた)と思っている。