はてなキーワード: 中東とは
最後に日本人論としてまとめようとしたことが、かえって論旨を曖昧にさせている。
中東の若者には「神への信仰が残されている」というが、それにどれほどの意味があるのだろう。
だから、彼らにはテロリストへの転身がそのまま救いとなるが、対して日本の若者は、
「社会的価値の欠如」を黙って受け入れることしかできない。救いがない。と言いたかったのだろうか。
だとすれば、「何が先進国の若者をテロリストへ変えるのか」という元来のテーマから、
あまりにも逸脱した答えだと言わざるを得ない。というより、答えですらない。
考えとして聴かせてもらいたかったのは、「人は役に立たなければ生きている価値がない」とする近代社会の「一般常識」に対して、
20世紀初頭、英国の経済学者であるケインズ卿は、主著の中で「考え方ほど強力なものはない」と説いた。つまり、人の行動要因のうち、最も影響力が強いものは、外部的要因よりもその人の内部要因、すなわち考え方だというわけだ。
ひるがえって現代の英国では、中東出身者の2世、3世となる若者たちがイスラム国(という名のテロリスト集団)へと帰属すべく、混乱を極める中東へと世代を超えた里帰りをしている。こうした若者たちが常軌を逸したテロリスト集団に忠誠を誓う要因は何だろう。ある人は欧米社会における中東系への差別が原因であるとし、ある人は貧困が原因であるという。しかし、これはあまりにも皮相的な見方ではないだろうか。どの国にも貧困と差別は存在する。それにも関わらず、なぜ一部の人々、特に豊かな先進国の若者が海外の狂信集団への参加を企図するのだろうか。
ここでケインズ卿の金言を思い出してほしい。何よりも人を駆り立てるのは考え方だ。もちろん、乾燥した砂漠地帯へと向かう若者たちの中には自意識をこじらせ、過激思想に染まった狂信者もいることだろう。だが、その多くは渡航直前まで通常の市民生活を送っていた一般人である(と報道されている)。ということは、通常の市民生活に浸透するごく一般的な常識の中にこそ、彼らを破滅的な行動に追い込む何かが潜んでいるとは考えられないだろうか。
健全な若者たちを追い込んだもの、近代社会の「一般常識」とは、「人は役に立たなければ生きている価値がない」という考え方だ。このあまりに妥当に思える考え方にこそ狂気が秘められている。
中東に渡航した若者の多くは、同国の他の若者と同等の高等教育を受けており、言い換えれば社会的に役立つ(と見なされるべき)存在である。彼らは教育によって社会常識と能力を身につけ、社会への参加と貢献を望む(ごく健全な)精神性を身に付けていたはずだ。だが、彼らはその意欲と能力を十分に活かすことが出来ない環境下にある。
無論、こうした差別や貧困だけが問題ならば、例えば南米や東南アジアのスラム民のごとく、それを人生の既定路線として別の生き方に適応することも出来ただろう。だが、彼らは私たちと同じように近代的な市民としての精神性を埋め込められた「一般人」なのである。
資本主義であれ社会主義であれ、近代社会おいて市民は、「人の役に立たなければ生きている価値はない」と考えられている。言い換えれば、人の役に立つことが人生の意味・意義・目的である。それは経済活動の本質でもある。だが、英国をはじめとする欧米社会は、中東系の若者たちが近代市民としてごく一般的で健全な希望を満たすことを許さなかった。結果として「人の役に立ちたい」という健全な欲求は、全く不健全で狂気の塊とでもいうべき集団への参加・貢献へと姿を変えてしまう。なぜなら、イスラム国はそうした近代市民として望ましい欲求の全てを満たしてくれるからだ。
あなたの人生には意味がある。あなたは人の役に立つことができる。あなたは必要とされている。だからこそ、私たちに参加・貢献してほしい。
こうしたメッセージが実存的な欲求を満たせずに鬱々とした日々を過ごす若者に届き、その心の隙間に棲みついたとき、彼らを押しとどめる要因、すなわち彼らを暴走させない「考え方」を欧米社会は提供できていたのだろうか。事実、イスラム国はすぐれて近代的な精神性を持つ集団であり、表面的な暴虐性と狂信性を剥ぎ取れば、そこにあるのは英国と全く同様なもう一つの近代社会であり、宗教というフックによって近代市民を惹きつける別種の帰属集団たりえるわけだ。よって、若者たちの豊かな社会から貧しい狂信団への「宗旨替え」という一見奇妙な現象は、単純に欧米社会の失敗と敗北の証左なのである。
ところで、これは私たち日本人にも無縁の問題ではない。むしろ喫緊の問題でもある。中東系の若者には(擬制とはいえ)神への信仰が残されているようだが、私たちには一体何が残されているというのだろうか。この社会による無言の死刑宣告に抗うため、私たちにはどうふるまう余地があるだろうか。自身の社会的価値の欠如を自覚し、世間という名の集団圧力に圧迫され、閉塞し、窒息したとき、私たちは静かに(そう、「誰にも迷惑をかけない」ように!)命を棄てる道しか残されていないのだろうか。
かつての武士階級にとって自死は、名誉を守る行為だ(という共通理解があ)ったが、近代市民たる私たちにとっては疑いなく、何の疑いもなく、言葉通りの犬死でしかないだろう。それとも、これも一つの考え方に過ぎないのか?
最初は他人のセーブデータで開始したんだが、いきなりボスらしきものと戦うことになった(3Dで見下ろし視点、フィールドは正方形で落ちると死ぬ)
こちらの体力は1000ちょっとなのに体当たりで800近く持っていかれて歯が立たなかった。
「透明の床を探すといい」というヒントを貰い、試しにフィールドの左のほうに走ってみると落ちなくて透明の星らしきものを取ったらクリアになった。
クリアすると水位が下がったそうな。
開始したら突然街の水没が進んだ(街は中東の街っぽかった気がする)
最終的に病院の8階まで水没し、病院の9階に避難した(途中看護師さんがいました)
このゲーム水の中泳げるのかなと思って下の階を目指したんだけど水面が見えなくて、どうやら病院の外と内で縮尺が違ったらしく、1階が30m程になっていた。
7階まで降りてみると人が結構いて、みんなベルトコンベアーで運ばれていたので自分も運ばれてみた。
途中で中学生の時のクラスメートと会った。意外と覚えてるものね……。
場面は飛んで、飛行艇と戦うことになった。
フィールドは宙に浮いた楕円形で、あちこちに砲台が設置されている。
飛行艇の飛ばしてくる結晶片が砲台に入るように誘導して撃ち返せばいいらしい。
誘導の仕方は分からなかったけれど結晶片が一度に複数飛んでくるのもあってどれかの砲台には入ってくれるのでその砲台を使って適当に撃ち返した。当たる。当たる。
「飛行艇の目を狙うんだ」というヒントを貰い、部位を狙いながら戦ったけれど狙うのが難しくて負け、
「飛行艇を寄せるアイテムが結晶片と共に飛んでくるので使ってみると楽かも」と別のヒントを貰い、アイテムを使いながら戦ってみると案外あっさり狙えた。
この後は忘れてしまった……。
問題はその「現地の協力者」が果たして日本にどれだけ存在しうるのか、という点だけどな
ISのテロが起きてる先進国って、「ムスリムに対する差別が横行し放置されている」という点が共通していて、それが自分の生活する社会に対する憎悪を生んでいるわけだが、日本の場合ムスリムへの差別自体が他の国に比べて小さいので憎悪がなかなか育ちにくい
ヒジャブやブルカをまとってるってだけで来店拒否するようなコンビニとか日本じゃ見たことないし、役所に行っても中東系だろうがネグロイド系だろうが整理券さえ取れば順番通りに対応するし、カネさえ払えば大概の店で飲み食い出来るしな
ロシア「ISISは殺す。アサド政権は支持。クルド人組織を支援」
アメリカ「ISISは殺す。ISIS攻撃のためにシリア反政府組織に武器を支援。けどアサド政権攻撃して欲しくないし。シリアには関わりたくない。中東怖い。クルド人にもかかわりたくない。イランをどうにかしたい」
フランス「 ISISは殺す。アサド政権は殺す。クルド人は支援したい」
シリア反政府組織「ISISは殺す。アサド政権も殺す。アメリカからISIS攻撃用に武器もらってるけどそれでアサド政権も攻撃する。」
シリア・アサド政権「ISISは殺す。反政府組織も潰す。ロシアから武器もらっているので反政府組織も攻撃する」
とここまで書いて、だいたいISISは殺すで国際社会の総意は取れてるっぽいんで、もろもろの面倒臭い利害関係はISIS潰した後で考えればいいんじゃないかな。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151125/k10010318541000.html
「パリのテロについて大騒ぎするなら、中東で日々起こっているテロについても大騒ぎしないとおかしい」式の論法。
前提にあるのは、同種のものは同じような権利をもっていて、それゆえ同じように扱われるべきだ、という倫理的要請である。
この場合はパリの人間と中東の人間は同種のもの=人間であるはずなので、この二つに関して違った対応をするのはフェアでないことになる。
この論法はかなり使い勝手がいいのだが、それゆえいい加減な主張に使われることも多い。
たとえば、
元記事は、交尾の後にメスの交尾器を壊してしまうクモの発見について、自分より先に他の研究者が発表した、という内容。
引用したブコメが言いたいのは、「クモ研究の発表は一番でなければならなかった、だからスパコンも一番でなければならない」よって「蓮舫の発言は不当である」ということである。
「発見の発表」と「スパコンの性能」は同種のものだろうか。「発見の発表」が一番でなければならないというのは当然で、二番以下にはほとんど意味が無い。一方「スパコンの性能」の場合でも一番がえらいというのは当っているが、二番以下であっても相応の評価が得られる可能性があるわけで、蓮舫が尋ねたのもそこだったはずである。
あと、
南京事件否定論にすら場を与えねばならないと言っていたのだから、日本のテレビがいつどんな番組を流そうが文句言う筋合いはないだろうが。本当につまらないやつ。
元記事は東浩紀のツイートで、パリのテロで世界中が大騒ぎしているにもかかわらず日本のテレビがバラエティ番組をやっているのを見て、「地上波しか見ない人とそうでない人の情報格差が開く」のを実感した、と言っている。
ブコメが言っているのは「南京事件否定論のようなトンデモにさえ場を与えなければならないと言っていたのだから、テレビのバラエティ番組に文句をいうのはおかしい」ということ。
「南京事件否定論」と「バラエティ」はとりあえず「好ましくないもの」という点で同種として、「場を与えなければならない」と「文句を言わない」は同じだろうか。「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」(by ヴォルテール)の名言があるように、表現の存在を許容することと文句を言うことは両立しうる。東浩紀の発言にいつも一貫性があるとは私も思わないが、少なくともこの発言に関する限り、ブコメの批判は適切ではない。
こういう「AのことをCと言っていたのだから、BのこともCと言わなければおかしい」という論法は、とりわけ批判されがちな有名人に対してはかなり雑に使われることが多いように思う。
なんかもう、城に火を放って城内で2万人焼死とか、
米買い占めて城取り囲んで、中の人たち食べ物なくて、死体の人肉奪い合いとか
跡継ぎできたから、甥が邪魔になって切腹強要したうえで、関係者なで殺しでさらし首とか、
すぐに頭に血が上って気を失わないように、耳の後ろに穴空けて
血が一滴ずつ垂れるようにして、棄教を迫る、とかさ。
そういうことが平然とできるレベルの怖さだよね、ISILって。
イスラム教云々っていうより、
そういう4~500年前のメンタリティだから、怖いんだと思うのよ、あの人たち。
あの辺でもめ事が絶えない理由の一つだともいうし、
殺し合いでも話し合いでもなんでも勝手にやってもらって、
そこで勝ち残った奴らに統一してもらうなり、分割し直すなりしてもらって、
ケリがついたところで、もう一度、国際社会に復帰してもらえたら安定するんだろうけど、
そうはいかないよね。
といっても、プロフィール写真をフランス国旗にしたり、「本当に悲しい、なんとかしたい!」ってコメントしたりしてるのは何とも思わない。イラッとするのは「日本のメディアはなぜ報道しない」「中東では前からもっとたくさん人が死んでいるのに何をいまさら」「みんなの写真がフランス国旗になるのをみてぞっとした」みたいな、メタ視点から何かを一方的に批判して見識ぶってるやつ。他人の受け売りなのは見え見えなんだけど、わざとやっているのか本当に勘違いをしているのか、実名を晒してさも自分自身の主張かのように批判を展開しているのが見ていて不愉快。しかもそういう奴らは往々にして承認欲求が強いから、プロフィール設定を「全体に公開」にしていて、自分の友達の誰かの「いいね」によって、見たくもない見ず知らずの人間のドヤリングが自動的にタイムラインに表示される結果を招くのでタチが悪い。
はてな界隈だと、思いっきり上から目線で煽ってネタに走るか、こういう感じで増田でこっそり発散するくらいの使い道しかないような浅い内容でも、FBでは真顔でタイムラインに登場して主張権を得ているので、うっとうしいし、見ていて目が痛い。たまに必要な情報もあるからやめるわけにはいかないけど、ここ最近あまりにもノイズが多くて、SNSチェックするのが辛くなってきている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/1980%E5%B9%B4%E4%BB%A3
パレスチナ・ゲリラによるローマ・ウィーン両空港同時テロで20人が死亡。
ファミリーコンピュータ用ソフト「ドラゴンクエスト」発売。
1980年代後半
暴力団山口組の竹中正久組長・中山勝正若頭が射殺される。(山一抗争)
NTT、最初のハンディタイプ携帯電話機「ショルダーホン」発売。
スペースシャトル コロンビアが初のスペースシャトルミッションで打ち上げ。
自分は、FBのアイコンをフランス国旗にした。すると、仏だけでなくシリアにも哀悼を、という意見が出てきた。
が、よく知らないシリアでの犠牲より、親近感のあるフランスに率先して哀悼を示すのは当然だろう。
某氏の葬式には関心がなくても、親類縁者の葬式には参列し弔意を示すのと同じだ。
そういうもんだ。
シリアの犠牲にも追悼を、と言っている人は、紛争の犠牲者―中央アフリカや中東の犠牲者にも、同じく哀悼を示しているのか知りたい。
内集団での悲劇が他の集団の悲劇よりも関心が向き、感情が動かされるのは普通で、アメリカに本社を構えるフェイスブックがこれを実行したのも、フランスがアメリカと同じ西側先進国で、さらに言えば(一応)ヨーロッパ系白人国家だからだろう。
よって、フェイスブックとそれに乗った(欧米諸国の)ユーザーのアクションは恐らく内集団意識に突き動かされたものであり、世界の人々を国家という概念を超え、同じ市民である仲間ととらえるコスモポリタニズムとは対極に位置している。
なぜなら、コスモポリタニズムは国家という概念を超えたものであるから、愛国心の象徴である国旗をアイコンにかぶせるのはその本来の意味に反しているし、中東のテロに対してはスルーでフランスの事件にだけ過敏に反応するのもおかしいからである。
したがってこれらの行動が強力な内集団意識に基づいている以上、中国ほもちろん日本で同じようなことが起きても、フェイスブックはこのようなことはしなかっただろう。(というか想像できない)
ではなぜ、日本人の中に自身のアイコンをトリコロールに染める人がいるのだろうか
なにか長期間留学した経験であるとか、縁があるだとかでなければ、距離的な問題もあるし、西側先進国と言うくくりではあまりにも弱い内集団意識ではないだろうか?
自分たちに同じようなテロが起きても恐らくフェイスブックはフランスに対してのそれと同じことはしてくれないのに。
そしてさらに言うならおそらく本人たちも、同じテロが人種的内集団である中国や韓国でおきても彼らの国旗で自分のアイコンを染めることはしないのに。
少々長いタイトルで申し訳ない。パリのテロを受け、できるだけ多くの人に考えてもらいたいことがあり、要素を詰め込んでしまった結果である。下記では、冷静な文章が残せるように努めたい。また、IDをつい1時間前に取得したばかりのはてな新参者であるため、慣例のようなものをスルーしてしまっていたら何卒ご容赦願いたい。
つくづくFacebook社は行動が早い。 LGBTへの支持を表明するレインボーと同じように、今回のテロへの哀悼を示すトリコロールへプロフィール写真を手軽に変更できる機能がリリースされた。
ユーザーは続々と自らのプロフィール写真をトリコロールに変え、一方でそうしないユーザーはそれに対して続々とアイロニーを寄せている。自分の観測範囲内だと、「どうせ何も考えてないんだろ?」「お気軽すぎるんだよな」「で、その写真はいつ元に戻すの?」「承認欲求も大概にしろ」などなど。
レインボーブームのときから、自分はそれを「冷笑主義」と呼んでいる。これについて掘り下げればキリがないから簡潔に済ますが、「何かをする人」と「それをバカにする人」の二項対立になってしまった日本社会の象徴のような光景だと思う。「何かをする人」を下に見て、その背景や動機に何があるかを考えようとせず、一様に冷笑する行為が蔓延しているのである。
このようなソーシャルムーブメントに対する「冷笑主義」について、自分は「いい加減にしてくれよ」と思ってしまう。民主主義というのは、いつもこういう未熟なところから発展するものなのではないだろうか?小さな波が世論となり、それが政治を動かす光景を、われわれは何度も見てきたはずだ。むやみにアイロニーを飛ばすことは、民主主義の停滞につながるとさえ思う。
そもそも、SNS上でアイロニーを飛ばしたって、なんのプラスにもならないのではないか。「憎しみの連鎖を断ち切らなきゃ」とは、プリキュアも名言を生んだものである(聞きかじりゆえ、諸兄には何卒ご容赦願いたい)。
自分は前述したとおり、このようなソーシャルムーブメントには賛成の立場をとる。これだけ冷笑主義が満ち溢れている時代に、アクションを起こした人の勇気はけなされるものでは決してないと思う。
ただ、レインボーとトリコロールについては、分けて考えなければならない。レインボーを表明することは、すべての人の幸せにつながる(「傷つく人がいない」といった表現は控えるが、つまるところそうだと思う)。しかし、トリコロールを掲げることで傷つく人は、世界中にいるからだ。
下記のツイートを見てほしい。
@SaeedSato
「敬愛するパリよ、貴女が目にした犯罪を悲しく思います。でもこのようなことは、私たちのアラブ諸国では毎日起こっていることなのです。全世界が貴女の味方になってくれるのを、ただ羨ましく思います。」 シリア出身UAE在住の女性アナウンサー
つまりは、こういうことなのだ。イラクやシリアで「100人が亡くなる」といった悲惨な出来事が、この1年に何回起きたか。そしてなぜ、それらの国の国旗がFacebook上でプロフィール写真にならないのか(Facebookがアメリカのサービスであることをおいておいても)。なぜ、「#prayforsyria」や「#prayforiraq」がTwitter上でトレンドに入らないのか。
自分自身も今回テロについて調べるなかで、アフガニスタンやパキスタン、ナイジェリアなどで多くの人が亡くなっていることをはじめて知った。無知を恥ずかしく、恐ろしく思った。
「Facebookのプロフィール写真をトリコロールにする」という行為は、個人の自由だ。一個人の「哀悼の示し方」についてアイロニーや批判を飛ばしたりしてはいけないと思う。加えて、先述したように、それは民主主義の問題にもつながる。
けれど自分には、そのアイコンが、欧米世界と中東世界の分断を深めているように思えてならないのだ。
今回の事件が発生してから24時間、(日本の)ネット上で主に見られた議論は「マス・メディアに対する不信や批判」。そして次の24時間は、先述した「トリコロールブームに対する違和感や批判」であった。
本当にそれでよいのだろうか。われわれが今、情報収集し、考え、話し合うべきことは、本当にそれでよいのだろうか。自分は、そうではないと思う。この事件の本質こそに、目を向けなくてはならない。
ー軍事力行使でテロが封じ込められたとしても、それは新たな憎しみと悲劇を生むだけではないのか。かといって、平和的な対話でテロが封じ込められるのか。
ー難民を受け入れた場合、欧州は政治的にも経済的にも混乱するだろう。それがテロの温床を生むとの意見も否定はできない。しかし、受け入れないという選択肢はさらに世界を混迷に陥れるだろうし、そもそもそれは「人間として」正しいのだろうか。そして日本は、どのように行動すればよいのだろうか。
ーオバマ大統領の演説にあった”the universal values that we share”、この”WE”とはいったい誰なのだろうか。
誰も正解は分からない。政治家や学者でさえも、正しい道を示すことができない。それについて考えることは難しい。自分も、上記のような問題について情報を集めれば集めるほど、考えれば考えるほど、絶望のようなものを覚える。
繰り返すが、今われわれが見つめるべきものは、「トリコロールブームへの批判」でもなく、「メディアへの批判」でもない(これについては長期的に考えるべき問題だ)。この事件の本質について考えるのが難しいからこそ、わかりやすい別の何かに怒りをぶつけたくなってしまうが、そこで諦めたり逃げたりしてはいけない。
そのことを伝えたいという想いで、キーボードを打っている。書きたいことは山程あるが、長くなっても意味がないので、このあたりで終わりにしたいと思う。とはいえもうずいぶん長くなってしまったが、このような長文駄文を最後までお読みいただいたことに心より感謝を申し上げる。ありがとうございます。浅学菲才な部分も多くお恥ずかしいが、その点はぜひご指摘をいただければ幸いである。