はてなキーワード: プレーとは
PSPポップンね。L2R2がないので鬼のようなボタン配置だけどはじめてやったポップンで後にも先にも俺の中でポップンミュージックっていうゲームはPSPのこのゲームのことを指しているので、こんなもんだろうっていう認識。
遂に地獄に片足を踏み入れた感じがする。
途中一週間以上もプレイしなかったり適当に遊んでたから全力じゃないけど
9ボタンハードのチェイスチェイスチェイスとかやったとき本当に10年前は簡単にクリアーしてたのか自分の記憶を疑うほどに絶望的にクリアーへの道筋が見えず絶望感を感じたりもしましたけど、ここ数日でなんとかできるようになってきた。
相変わらずなんでクリアーできたのかわからないけど、なんかやればやるほど上手くなっていく。
上手くなっているのはいいことのように思えるけど、自分の采配とかでコントロールしているわけじゃなく、映像に反応して指の筋肉を動かすっていうとても原始的で無意識の領域を使った活動なので、なんていうか「指運が降りてくる」のを待ってプレイし続けている感じで、ルーレット回し続けたり、釣りでヒットを待ち続けてるような心境。あんまり自分がやり遂げたっていう達成感がない感じする。どっからどうみても実力でしかないはずなんだけど、自分の思考やアイデンティティと乖離した領域のことなので、若干他人事っぽい。我ながらめんどくさい思考のやつだな。
9ボタンハードのLv後半28以降がつらい。30以上はほぼ無理。なんでかカルマだけはプレイできるんだよな。9HのLv30カルマだけ異様に簡単な気がする。
今年中にはExのファンタジアをクリアーしてみたい。弾幕ゲーみたいな譜面で卒倒しそうになる。あれできたらかっちょいいわ
10年前にプレイしてたときは1年かからずにExの難易度後半の曲もだいたいプレイできるようになってた気がするので多分大丈夫だろ
メガネロックとかドリームゲイザーとか頭イカれた曲は、多分生涯をかけて挑むタイプの曲だと思うので、人生が狂わない程度に適度に距離をとってプレイします。
これプレイしてて思うのは、開発時のテストプレーでこれクリアーしてるんだよなぁってこと、東方の弾幕シューティングとかもそうだけど、作るひとイカれてるよな。開発技術もそうだけど、プレイヤーとしての腕も凄すぎて難易度バグってるよなって感想です。
はじめに自分の政治スタンスを説明しておくと、非自民党支持者で、また地方住まいかつノーテレビのためオリンピックは可能ならば中止それがダメならばワクチンが行き渡る2022年まで延期というもの。なので、ワニウエイブ氏の記事が仮に彼の note で発表されていたのならば「語調はキツイがこれもまた東京五輪開会式のレビューであるな」と受け取ったと思う。ただそれが政治的中立に見えるゲーム専門メディアに発表されたのがショックだった。
目次
「東京オリンピック開会式への怒りと絶望…ゲームへのリスペクトがない演出とそれをありがたがる人々が許しがたい」 https://www.gamespark.jp/article/2021/07/25/110634.html
というものだ。自分が最も疑問に思うのがこれは誰に向けて書かれた記事であるのかと言う点だ。はたして Game*Spark の読者に向いて書かれた記事なのか?
自分は、開会式でゲーム音楽使われて喜んだ大衆の大半は、非日常でよく知った音楽が流れてきたから単にアガっただけだと感じている。そこに国家威信の誉もなければ愛国も何もない。そんな気持ちが大半の読者に対して、実際に開会式を見ていない人が「自らの政治スタンスを自覚しろ。楽しむのは現政権を支持するのと同じだぞ」と攻撃的に主張するのはいちゲーム専門メディアとして良いやり方なのか?自分はそうは思わない。
また仮に読者を攻撃するような内容ではなく、あくまでワニウエイブ氏がそう感じているだけであるという内容であったとしても、最終段落の
秋には衆院選がある。もちろん選択は自由だが、老人たちに「ゲームファンは大増税しても何しても、ゲーム音楽を流してれば文句言わずに従うチョロい連中」などと思われないことこそが本当にゲーム文化を守ることや、リスペクトすることにもつながるはずだ
というのはライターの政治性が強すぎて、中立的なゲームメディアを標榜するならば絶対に排除しなければならなかった。この文から始まる段落は「政治家の老人達を落とすために選挙へ行け」という主張になっていると思うが、これまでの前提と合わせると 政治家の老人達=オリンピックに関与する与党政治家 となり、この段落は自民党の政治家を落とすために選挙へ行けという主張になる。重ねて言うが、特定の政党を擁護/批判するようなものを中立的なゲームメディアが載せることは絶対にあってはならないものだ。なぜ政治批判に繋げる?なぜオリンピック組織(IOC、JOC、東京都)批判を超え衆院選という国会の話を持ち出すのか?
めちゃくちゃ些末だけど「『ファイナルファンタジー』や『サガ』シリーズは、“かみ”を殺したり、環境テロリストが主人公だったり、その世界の仕組みそのものを恨むような反権威的なシリーズのはずだ」これ前者のゲーム(FF7)が環境テロリストで後者(サガ1)が神殺しなので、前段と後段がチグハグな説明になっていると思う。
「7月25日掲載のオリンピックに関するコラムにつきまして」 https://www.gamespark.jp/article/2021/07/27/110661.html
二日後に出された編集長の声明は、記事の賛否を受けたものとして完璧な内容に思う。記事を削除したり、チェック不足と言い訳したり、ライターの責任としたりするようなことはしていない。ライターに記事の依頼をしたこと、批判を覚悟して掲載に至ったこと、そしてすべて編集(部|長)の責任であることをはっきりと宣言し、ライターおよびその記事の内容を守ることを表明している。だからこそ自分は「読者を攻撃する文調かつ政治的中立とはとても言えない」コラム記事の掲載を問題ない判断した編集部と編集長に失望を覚えた。なぜならば、このレベルの内容ならば今後も編集部として注釈なく掲載するつもりであることが本声明によって肯定されるからだ。少なくとも自分はそう受け取った。今後、自分は Game*Spark は攻撃的な主張も政治的中立ではない内容も載せるメディアとして見るようになるだろう。
政治的中立性について補足すると、声明では「常に特定の政治思想を背景にしながらコンテンツを制作しているということもありません」とある。自分も直ちに Game*Spark が左や右に偏ったメディアとなるとは考えていない。しかし自分が危惧しているのは、これから Game*Spark に対して「左だから」「右だから」という要らぬ対立軸を立てレッテルを貼る輩が出てくること。ゲーム業界は娯楽をターゲットにしているため政治性から逃れている部分があるのに、なんでこっちから飛び込むのよ…
強調しておきたいのはこれが一概に悪い変化というように考えている訳ではないということ。もしかしたら政治色の強い記事を好む人が多いかもしれないし、政治性を明らかにした記事の方が読み応えがあるものができるかもしれない。ただ自分にとってはそれは not for me だ。
スペースが余ったので自分のゲムスパに対する感想でも。自分にとって Game*Spark/INSIDE は他のメディアがやらないような泥臭い企画をやったりしているけどイマイチ一流になれないゲームメディアというものだった。ただ大手メディアにしては珍しくコメント欄を開放しており、読者との距離が近く独自のコミュニティが形成されているように見えた(某通はコメント欄をすぐに封印したからね…)。今でも続いている「来週はどんなゲームを買うか」等のユーザーアンケートも豊富なところもそれを後押ししていたところがある。あと変な企画もいっぱいあった。「インサイドちゃんのゲーマー相談」とか誰得なものもあった。それから脇が甘くてたびたび炎上・謝罪していたイメージもある(栗本チャレンジとか)。
しかしここ2-3年はライターの独自性を生かした企画が次々にヒットしており、個人的には最大手(F, D, 4)とはまた異なる面白い立ち位置のメディアになっている印象だった。例えばFE風花雪月の「なんでそんなことするんですか?」とか現役パイロットによる Microsoft Flight Simulator の紹介、あつまれどうぶつの森の生物を DPZ でおなじみ平坂さんが紹介する企画など目の付け所が良い企画がいくつも発表されていた。なので編集長が交代し、ライターが生き生きする良い方向に変化しいるなあと感じていたところに今回のこれがあった。
気持ちとしては「たまに通りかかるグラウンドで見かける近所の草野球チームが最近いい感じになってきたけど、急にダーティーなプレイをするようになって驚いたし、今後もそのレベルのプレーをすると聞いて驚いた」に近い。
歓声がないので選手同士の会話や監督の指示、雄たけびなどリアルな競技場の声が聞こえてくるのが、めちゃくちゃいい。
既にJリーグでは、応援の為に声を出すな、という指示が行きわたっていて、1万人とか観客がいても競技場はとても静かで
選手の掛け声や指示が聞こえてきていて、それが競技を見るうえでの面白さに繋がっていた。
TOKYO2020でも、バレー男子の選手たちの叫ぶ声、45年ぶりに勝ったハンドボール女子の感激の声、ビーチバレーで交わされる味方選手同士の会話、
サッカーやソフトボールの試合でピッチサイドからベンチの選手や監督が出す指示の声などなど、フィールドの声が聞こえてくるのが、とても面白い。
こんなに選手たちは色んな声を出してプレーしてるんだなって改めて感じるし、競技への理解が深まる助けになっているし
今回のオリンピックで多くのスポーツファンや関係者は、この価値に気付くのではないかと思う。
応援の声や湧き上がる歓声は選手にとっては重要だし、見てる側の気分も高揚するし、それがなくなることなんてあり得ないのだけど
プレイフィールドの声を拾って放送に乗せるという工夫は、今後は進んでいくような気がするし、ぜひそうなって欲しいと期待してしまう。
ほとんどの人は大丈夫だろうけど、トラバで残念な子が荒れ狂ってるから、ある層には伝わらないと思ったんで改めて書いとく
応援の声や湧き上がる歓声は選手にとっては重要だし、見てる側の気分も高揚するし、それがなくなることなんてあり得ないのだけど
プレイフィールドの声を拾って放送に乗せるという工夫は、今後は進んでいくような気がするし、ぜひそうなって欲しいと期待してしまう。
ということで、従来の応援スタイルが消える事はないだろうけど、実況解説も声援も必要ない、選手や監督の声を聴いて試合を見たいという層が増えれば
指向性マイクやノイズキャンセリングなどの技術を駆使して副音声が作られる様な工夫が進むと思うし、それを期待しているということ。
インタビュー受けるようなアスリートは、自分がその立場にいる理由は「勝利し続けたから」としか思ってないと思うがね。勝利し続けられないけど戦略的に動いてプレーを続けてきたような地味な奴はトップにはほとんどいないでしょ。
純粋なスポーツの凄さを楽しみたいなら、男子バレーボールを見て楽しめばいい。
女子バレーボールは、男子に比べて大分レベルが劣るが、「女性」という性的要素が少しあるから、まあ見てられる。
さて、問題のビーチバレーだが、バレーボールより数段レベルが劣った選手の集まりで、その中にさらに女子となれば、
男子バレーボールでトップやってる選手から見えばお遊戯レベルだろう。
そんなお遊戯レベルのプレーは、素人からしても見れたもんじゃない。
その競技団体の努力の結果として、ここまで競技が拡大したんだろう。
こんなの暗黙の了解で、競技に従事している関係者なら誰もが理解してることだろう。
そんなのに、突然「わたしたちは性的な視線で見られたくない!性的搾取の被害者だ!キリっ!」ってされても、説得力ゼロなんだよ。
できないから、レベルが低くて、性的要素というゲタが履けるビーチバレーをやって、それで金なり名声なりをそれなりに得てきたんだろう。
頭空っぽで、「性」で売って露出して、散々ワガママして、金も名声も利権も確保した女子アナが40代になって「性的搾取の被害者」になって、
フェミになるケースと同じ。
金メダル候補として期待されていたが、まさかの敗退。落胆の色は濃く、試合直後は大会で義務付けられている取材エリア、ミックスゾーンを通過せず、会場外へと向かった。ここを通らない場合は、最大2万ドル罰金の可能性もあり、現場は騒然となった。
待機するメディアに担当者は大坂が会場外へ出たことを説明。一方で一切の取材に応じなかったことから日本協会関係者が「戻します」と説明するなど、混乱が生じた。
その後、大坂のエージェントが負けてもミックスを通ることを知らなかったと説明。その後、20分経過してから会場に戻るなど、ドタバタとなった。
再び戻って来たミックスゾーンでは涙をみせ、ショックを隠せなかった。「大会に出場したメリットはあった。プレーして良かった」と語り、残念だったか問われて「はい」とうなずいた。
謝るようなことじゃない。
家族でおうちでなら感染リスクは低いんだから、楽しんだって全然OK。
視聴したらスポンサーにカネが入る?
批判は続けていくんならセーフだろう。
五輪の何が最大の問題かって、医療資源が圧迫されるのが問題なわけで、そこをクリアできるならオリンピック歓迎で何もおかしくない。
開催にあたって賄賂や差別が横行してるドブラックなイベントであることは、本質的な問題ではあるが致命的な問題ではない。
コロナという突発イベントがなければ、組織委や政府の「対応力という点では無能」「おともだちに税金注ぎ込むことしか考えてない」という欠点も露呈すらせず、せいぜい熱中症で選手がヘロヘロになるのが問題という程度で終わったことだろう。
ここはそういう国だから。
応援しようよ、選手。世界レベルのすごいプレーがいっぱい見られる一大イベントだよ。
楽しんで当然だよ。
どうも、東京都民です。
昨日からオリンピックが始まったなどとWeb上のニュースで見ていますが、元々オリンピック含めでスポーツ観戦にほぼ興味がないため、テレビで観る予定もありません。だって観るよりもやる、が楽しいじゃないですか。
どんなにレベルの高いプレーと言われても、自分にフィードバックされるものがないんですもん。それならスポーツゲームやる方がまだ興奮できます。
ところで、来週から国内旅行に行ってきます。ちょっとしたアウトドア系のアクティビティも予約してるんで、ワクワクです。ワクチンも打ち終わって2週間経ってるんで、感染の心配も無いでしょう。いちおうマスクは常にしておくけど。
テレビ観てあーだこーだ文句を言うより、安全面の確保して外へ出て身体を動かした方がいいですよ。夏の日差しがストレスを洗い流してくれる。
ワクチン接種や隔離政策にも限界がある、ということを医療者は散々警鐘を鳴らしていました。Covid-19についての前提について、整理して話が出来る方が周りにいなかったのか、それとも聞く耳を持たなかったのか。
今からでも、遅くはありません。
プレーブックを実際に運用してみて上手くいかないと判断したならば、中止やルールの変更を考えるのが組織委員会のトップの役割なのではないでしょうか?
その割には、アウシュヴィッツで死んだユダヤ人の数は、600万人から300万人に減らされ、今はドイツ国公式見解は100万人ということになっているが、その実態は10万人である。
なぜ600万という途方もない数字が出たのか回答していただけないだろうか?
強烈に誤解されることの多いホロコーストにおけるユダヤ人虐殺数。
600万人と言う数字にどうしても目が行ってしまうため、その途方もない数字に信じ難いと言う気持ちが起きるのでしょう。ちなみに、「アウシュヴィッツで死んだユダヤ人の数は、600万人から300万人に減らされ」や、「ドイツ国公式見解(何それ?)100万人」だとか実態が「10万」なんてどこから出てきたのか知りたいところですが、まぁそれはいいでしょう。一応全部間違いです、そんなの聞いたことありません。
先に、私は研究家でもなんでもなく、本やら様々なネットの情報(海外サイトが主)を色々と調べ回っただけの知識しかないと断っておきます。
どうやって600万人と言う数字が出てきたのか。
これはまず、ナチスドイツ内でアイヒマンが語っていたとされる数字として、ニュルンベルク裁判である親衛隊将校が語りました。それによると「収容所で400万人、それ以外で200万人」という数です。これが最初に出た600万人ですが、実は別にニュルンベルク裁判では判決で触れられているだけで、別に認定などされていません。また、ニュルンベルク裁判起訴状に「570万人のユダヤ人がヨーロッパから消えそのほとんどがナチスに殺された」なる文言がありますが、これもまた別に認定などされていません。
そして、裁判以外で、1950年頃から人口統計学者によって600万人や550万人以上のユダヤ人人口が失われていると計算されるようになります。で、今度は歴史家ジェラルド・ライトリンガーの方から「反ユダヤ主義を意識して」極力最低限の数字を計算し419〜458万人という数字を弾き出します。以降、有名な『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』の著者であるラウル・ヒルバーグが1961年に510万人という数字を弾き出しました。
以降様々な研究者が発表してきましたが、概ねの間違いない数字としてはユダヤ人600万人説が変わったことは実際一度もありません。以上のように、例えば「ニュルンベルク裁判で勝手に決められた数字」であるとか、「イスラエルの公式数字である」とかは全然違うわけです。おそらく適当な数字は一つも無く、近年は非常に膨大な資料を用いて推計しているようです。
ではあのアウシュビッツは? というところですが、アウシュヴィッツについては最初は基本、二つの数字から始まります。何故二つあるかというと、その出所が違うのです。一つは、よく言われる400万人説です。これはソ連の0018-USSRと呼ばれる戦争犯罪調査委員会の報告書(1945年5月)です。ここに、400万人という数字が登場しますが、この数字は報告書上は火葬能力からの推計値と書かれていますが、それはあり得ないと言われています。火葬能力があり得ないのではなく、火葬能力で推計値を出すということ自体があり得ないわけです。問題は実際に殺した人数だからです。では一体どこから400万人説が実際に出てきたかというと、それはおそらく火葬場で働いていたユダヤ人ゾンダーコマンドの生存者の証言です。その中に400万人説が出てくるのです。おそらくソ連はそれを聞いて、火葬能力など何も調べずそれっぽく推定したかのように書いたのではないかと思われます。しかし、奴隷労働をしていたゾンダーコマンドが正確な数字を知るはずもなく、単に囚人同士で噂話のように推計していただけの数だと思われます。
ところが、1946年3月に、逃亡していたアウシュヴィッツ司令官だったルドルフ・ヘスが逮捕されます。ヘスはニュルンベルク裁判の証人になったときの証言で「250万人を殺害し、50万人は病死や餓死でなくなった」と証言したのです。ところがこの250万人という数字は実際にはヘスが現場で知った数字ではなく、アイヒマンに教えてもらった数字だと答えています。何故なら、犠牲者数の数を記録することを許可されていなかったのです。ただしヘスは司令官なので、それなりに犠牲者数の実感は持っていたようで、250万人は多すぎると自伝に書いています。
なので、アウシュヴィッツの犠牲者数は、最初はこの250〜400万人説からスタートしたのです。が、実際にはすぐにこれは多すぎるとわかっていました。何故ならば、研究者によると、アウシュヴィッツへの囚人移送記録が出発駅や経由駅などにたくさん残っているので、それをもとに計算すると、いくらなんでもそんなに大勢のユダヤ人が移送されたはずがないことが明らかだったそうです。それで、前述したライトリンガーなどは80〜90万人だろうとし、ヒルバーグは100万人とします。で、現在の数字は、アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館の主席研究員であったフランシスゼク・ピーパー博士による研究成果として、110万人(ユダヤ人以外も含めて150万人)の犠牲者が出たとされているのです。
以上の通りなので、例えば「以前はアウシュヴィッツの公式プレートは400万人だったのに今では110万、なのに何故トータル600万人が変わらないのか?」が誤解であることはお分かりいただけるかと思います。そもそも600万人の数字計算の中に400万人説は含まれていないからです。
それ以外の収容所の犠牲者数の細かい計算方法は存じておりませんが、最もわかりにくいのがソ連(ウクライナやバルト三国など)でのいわゆるアインザッツグルッペン、移動虐殺部隊を主体とした現地殺害による虐殺数で、広い範囲でたくさんの場所で細かな殺害が行われたため、いまだによくわかっていないそうです。概ねの数字で言えば100万人から200万人の間だろうとされてはいます。
さて、もちろんこんな数字、修正主義者達は全く否定しております。はっきりした数を言わないのが修正主義者で、ないとも言っていません。修正主義者達は、人口調査すら自分達でした気配もありません。たまに適当なことを言って「600万人などあり得ない!」と主張するに留まります。でも、大勢のユダヤ人が移送されたことは認めているのです。で、どっかに殺されずに消えたんだと。私には修正主義者が何を言っているのか意味がわかりません。修正主義者は、例えばアウシュビッツであるとか、トレブリンカ・ソビボル・ベウジェツなどのいわゆる絶滅収容所を絶滅収容所とは認めず、「通過収容所」と読んでおり、そこまで移送されたことは認めるのに、その通過収容所から先を言いません。言ったとしても「ミンスクへ1000人移送されたことはわかっているから通過収容所であることは間違いない」であるとか、その程度です。実はこのことが、修正主義者の最大の問題であり、修正主義者達はこの件の答えを常に誤魔化していますが、絶対にはっきりしたことはいいません。もちろん一般の歴史家は全員が「虐殺された」です。
ともかく、それら犠牲者数の数字は、色々な人たちが様々な資料を検討した上で推計した数字であって、別に適当な数字を言っているわけではありません。中にはよくわからない計算方法で算出している人もいるかもしれませんが、一般に言われている数字は全て研究者達が推計した数字です。ですから、別に誰も数字を盛ったりしていることもありません。
なお、最新のユダヤ人人口統計でさえも、ユダヤ人人口数は第二次世界大戦中の最大値を回復しておりません。ともあれ、戦後様々な推計結果はあったとはいえ、概ね600万人という数字は一度も変わったことはなく、最近でもそれはありません(リビジョニスト達はしょっちゅう「600万人説は既に信じられていない」だとかのデマをばら撒いていますがね)。実は、ユダヤ人人口を把握している元は、ユダヤ人の教会みたいなシナゴーグなのです。シナゴーグなしにはユダヤ教はあり得ないので、シナゴーグの管理しているユダヤ人数を集計すれば自ずとユダヤ人の数はわかるのです。もちろん近代的には国勢調査で把握される宗教別人口もありますが、昔は主にシナゴーグ集計を使っていたようです。ですから、戦前などの場合は、ユダヤ人協会に聞けばわかったので、ナチスもそれを元に殺すべき人数を知っていたわけです。