はてなキーワード: アナーキーとは
先ず第一話冒頭、チカの名前が呼ばれてないのは完全にミスでした
≫良いところ
掛け合いについては一番気にしていたところなのでメチャクチャ嬉しいです。
自信もてました!
≫まずいかな?と思ったところ
・10年以上前に中二病丸出しのノベルを馴れ合い趣味サイトへ投稿していたことがあり
そのまんまのノリで漫画に手を出してしまったので、特に一話はもうメチャクチャだと自覚しています
今回の増田で沢山の率直な意見をいただき、正すべき点をたくさん見つけることが出来ました
これから少しずつ体系立てていきたいです
今回の増田で当面はキャラ立て中心に力を入れる方針を決めました
その間に裏でシコシコ練っていきたいです
≫細かい話
・テクニカルな指摘たくさんあって嬉しいです
≫高いんや
・二段落ち、これすごい面白い、何かの機会に使わせてもらいます!
総じて反省点は、とにかく2話に入るまでに焦り過ぎたことでした。
プロットは沢山書いていたんですが、事件の渦中にキャラを置いておきたくて詰め込みきれず、切り捨ててしまった
第一話からミーティングの日取りまでに一話完結の日常回を数話入れてミユキ・チカの性格をしっかり演出してそれぞれが先に情報収集していたって運びにするべきでした
・アナーキーなミユキはミーティング当日に役人の揚げ足をとって恥をかかせてやろうという動機で調べてまわっていた(部外秘の調書に辿り着く)
・真面目で社交的なチカは関係者に聞き込みしていた~(具体的な回想シーン)
という具合に
もう発表してしまったものをあまり頻繁に改変するのもためらわれるので
本シナリオはメインキャラを気に入ってもらえる方向で頑張って乗り切りたいと思います
第四話はチカ氏の索敵の術を引き立たせる為に全力を注いで作成中です
濃厚なご指導ありがとうございました! また何度も読み返して勉強します!
石を売る商売はアナーキーであり、このご時世に好き好んで買うような奴はちょっとしかいない。
ましてや“そういった目線”から評価して尚、この石に価値を感じる人間は皆無に近いだろう。
そんな商売の片棒を担がされているのは癪だったが、嘆いたところで事態は解決しない。
とりあえず訪問販売を試してみる。
「えーと、石を売っているんですが、買いませんか?」
こんなセリフを一生のうちに言う日が来るとは思いもよらなかった。
「しかも売り物が石だと? 古今東西、石を売る人間にロクなのはいない! 今すぐ抹消してくれる!」
「まずいぞ、マスダ。彼らは本気だ。逃げよう!」
もとから期待はしていなかったが全くもって売れず、ただただ心身をすり減らすだけだった。
箱に入った石と、そこら辺に転がっている石を交互に見る。
もう一つは価値を感じたからといって買ってくれるかはまた別の話だという点だ。
俺も水切りとかで遊んだことはあるから、それを踏まえるならこの石も無価値だとはいえない。
だが、じゃあそれを金を払ってまでやりたいかといわれれば、そこまでしてやりたくはないだろう。
「まあ需要がないといえば嘘にはなるだろうけどね」
タイナイは意外なことを言う。
聞いたことがある。
なんでも売り物にすることができるサイトらしく、それ故にラインナップは玉石混合だとか。
「石を投げれば何とやら、か」
売り物にすることができることと、それが実際に売れることは同義ではない。
ましてや玉石混合でいう文字通りの石。
それが明らかなら尚更である。
「一個だけ売れたよ」
「一個だけね」
むしろ一個は売れたってのが驚きだった。
だがその後はさっぱりだったらしく、タイナイ曰くあそこで売れないならどこで売っても結果は同じらしい。
「そうか、それにしても現代ならネットを介して取引するって方法もあるんだな。さすがデジタル社会」
「まあ、近年ではデータ上の石を売るってこともあるしね」
現実の石を売るのすらアレなのに、現実に存在しない石で成立するわけがない。
いくら俺がネット社会に詳しくなくても、それが有り得ないこと位はさすがに分かる。
恐らく、そんな下らないジョークでも言いながらじゃないと、やってられない気持ちだったのだろう。
だが、それに笑えるほど今の俺に精神的な余裕はない。
「そのジョークは50点ってところだな。いっておくが、身内びいきした上での点数だからな」
「いや……冗談で言ったわけじゃないんだけど」
ウケなかったのが恥ずかしかったのか誤魔化し始めた。
「はいはい。売る奴も大概だが、架空の石なんてものを欲しがる人間がいるならぜひとも見てみたいもんだな」
「私は誰々の弟子です」とか「私の師匠はこういう人なんですけど」と言うような感じで誰かを師匠と呼んで師事しているような人をわりと目にする。
しかも真面目なタイプだけではなくて結構アナーキーというかルール・慣習に縛られることを好まないようなタイプの人でも見かける。慣習に縛られるのは良しとしなくても、自分がついていきたいと思えるような人はいるということだ。さらに言えば師匠と言われる人ですら師匠がいたりする。師匠を凌駕する師匠は一体どれほどの人なのだろう。
師匠を持つ人たちを見かけるたびに不思議に思うのは今までの人生で私には師匠と思える人が一人もいないということである。先に言ったような自由人でも、ルールに縛られた真面目人間でも、師事していると自称するような人が見つかるというのに、なぜ私にはいないのだろう。
友人、先輩のような立場がそこまで変わらない人でも見つからないし、教師、教授のような教育的立場に立つ人でも今ひとつ師事したいと思えない。
どこか斜に構えて、完璧な人間なんてこの世にはいない、結局この人も大したことはないただの人だと思ってしまったり、お前の言うことは本当なのか?簡単に信じたりはしないぞと思ったりする。
師匠を持つ人も師と仰いでいながらもこのような気持ちを感じることはあると思うのだけど、きっとその気持をも凌駕する尊敬の念・この人にはかなわないという畏怖を感じているのだろう。
私だって、この分野に関してはこの人にはかなわないとか、この人は人一倍努力していて素晴らしいなと思うことはあるのだけど、師事したいと思うほどにならないのは心の奥底でどこか他人を馬鹿にしているからなのだろうか。それともまだそう思える人に出会っていないだけなのだろうか。
「『スーサイド・スクワッドは雑だがまあ一応愉しませてはくれる。ウィル・スミスやマーゴット・ロビーをはじめとした役者陣は良い演技を見せている」――アラン・サーニー(ComingSoon.net)
「期待通りものを約束通り作ってくれた。『ボーン』シリーズの最新作とこれの二つは押さえとけ」――ヴィクトリア・アレキサンダー(FilmsInReview.com)
「手堅い出来で愉しませてくれる。DC映画でもマーベルの面白さに近づけることを証明した。あくまで、「近づいた」だけではあるが」――ウェンレイ・マ(News.com.au)
「「入門編」としてはおそらくベストなのではないか。順調にいけば、DCユニバースはより稼げるようになるだろう」――ビル・グッディクーンツ(Arizona Republic)
「キャラは最高に良い。だが、ストーリーは良さからは程遠い」――ケイティー・ウォルシュ(Tribune News Servie)
「こういうたぐいの映画としては、『スーサイド・スクワッド』は良い意味で変わっている。正統派のヒーロー映画に対して誇らしく中指をつき立てるのだ」――ブライアン・トルイ(USA Today)
「DCにとっては、BvSの失敗から立ち直るささやかな一歩となるだろう。ただ、もっと凄い傑作を作れたはず」――クリス・ナシャワティ(Entertainment Weekly)
「もし、あなたに忌み嫌っている人物(単に嫌いな人間でも、イラつかせる人間でもなく、本当に心底嫌悪し憎悪している人間)がいるなら、そいつに『スーサイド・スクワッド』のチケットを送るべきだ。」――ミック・ラサール(San Francisco Chronicle)
「盛り上げるに欠ける悪い意味でフツーのヒーロー映画。『デッドプール』のニヒルな小粋さと『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のアナーキーな奇抜さを後追いしようとしているものの、どうもスベっている。」――A・O・スコット(New York Times)
「今年で一番ストーリーテリングがこんがらがってる作品」――デイヴィッド・エデルスタイン(New York Magazine)
「デヴィッド・エアー監督のスピーディな演出スタイルのせいで、ストーリーについていくのが難しい。」――マーラ・ルインスタイン(US Week)
「このところのコミック原作映画が過剰供給されている感があるが、『スーサイド・スクワッド』はそれらと比べてなんの個性もない」――ソレン・アンダーソン(Seattle Times)
「誰が『スーサイド・スクワッド』から魂を抜き取ったんだ? デヴィッド・エアーがPG-13の大衆受けする作品にするために妥協して、彼の持ち味であるハードコアなアクションを骨抜きにしてしまった」――ピーター・トラヴァース(Rolling Stone)
「本作の脚色過程で実に多くのことが起こったけれども、最終的に出来上がったのは虚無だった」――ステファニー・ザチャレック(TIME Magazine)
2012年ぐらいのOSXは画像フィードをスクリーンセーバに入力するという方法で自分のtumblrをスクリーンセーバ化するというのが出来たけど(たぶん)Mavericks以降は,それが無くなってしまったので代替方法について書きたいと思う。
まず tumblub を開き「staff」に自分のtumblr IDを入れる。「Random」のチェックボックスをチェックし「Photo size」を500, 「Animation speed:」をslowとチェックしshowボタンを押す。以下はサンプルとして作成したotsune氏のtumblr IDを入力したスクリーンセーバの入力データだ。女性の尻がいっぱい出てくるので職場のMacのスクリーンセーバにすると軽くアナーキー感が出て良いと思う。
speedは好みで変えて良い。ぼくは14400くらいが良いと思っているのでクエリストリングのところをそんぐらいに手で変更して使っている。
Screensaver Ninja - Never miss important information again という任意のwebページをスクリーンセーバとして表示できるツールがある。1200円。本来はなんらかのビジネスのダッシュボードなどを表示する用っぽい。
購入しアクティベーションしてScreensaver Ninjaを起動し「Add new site」する。先ほどのURLを追加する。
「システム環境設定」から「デスクトップとスクリーンセーバ」を選び「Ninja」を選ぶ。これで女性の尻がどんどん流れてくるスクリーンセーバの完成である。
もちろん自分のtumblrをスクリーンセーバにする事も可能だ。
普段肌色をreblogするのにも緊張感が走るし,肌色が離席中の職場Macに出てきてしまったらしまったで同僚の人とかと会話も弾んで良いと思うのでみなさん,どんどんスクリーンセーバを設定すれば良いと思う。
トラックバックしてくれた人に教えてもらったがbrockgr/websaveというScreensaver Ninjaと同等のことができる無料ツールがあるのでそれを使おう。
Releases · brockgr/websaver からWebSaver-X.X.zipをDownloadする。
解凍する。FinderからWebSaver.saver をダブルクリックする。開発元が未確認のため開けませんとか言われたら、「システム環境設定」→「セキュリティとプライバシー」の「一般」から「このまま開く」を押す。そんで「今すぐインストール」をやる。「デスクトップとスクリーンセーバ」からWebSaverを選び先ほどのURLを追加する。
さきほど連絡先だけ残してスマホを捨てました、実家に焼却炉があるので燃やしたらバチバチいってました。とても乾いた音でした。
次はモデムをたたきわろうと考えているのでこれでインターネットの世界とはしばらくお別れになるかと思います、PCは文章を打つのに必要なので残しておきます。
思えばはじめてインターネットに触れたのはテレビのニュースで2ちゃんねるは悪いところと言っていたので興味本位で覗いてみたのがはじまりでした。アナーキーな雰囲気とは裏腹にただ言葉だけが無意味に踊っていました。
その後FC2でブログを書いてみたりアメーバピグで遊んでみたり現在ははてなブログも細々と書いております。twitterはつまらなかったのでやめました。
どこのプラットフォームでも乾燥した言葉だけが無意味に無意義に無機質に無思慮に無価値に無個性に無配慮に無防備に無慈悲にただ並んでいただけでした。
時にはインスタントラーメンみたいに味のする文章にも出会ってきましたがそんなものは三日も経てば忘れてしまいます。意味がないです。そもそも人生に意味を求めるほうが間違っているのでしょうがインターネットは意味どころか完全なる虚無でした。得たものはただ肥大した自尊心と歪んだ文章力だけでした。
そもそもブログなんてものを書いて自分を語ることにどれだけの価値があるのでしょうか。日本社会では自我を滅することが美徳であるしまた処世術でもあるのです。自分を殺すことが良い悪いなんて価値観なんか知ったこっちゃありません。精神的な自殺こそがもうただこの社会の純然たる現実です。
自尊心を肥大させ言い訳に近い言葉を集めるこのインターネットの世界に傾倒していくということはこの社会からの適応力を失っていくことを意味するのではないのか。はてな村のみなもあまり楽しそうには見えない。ブログ村も同じだ。2ちゃんねるもやふこめもフェイスブックもツイッターもばくさいもほすらぶもしたらばもどこもかしこもただ言葉だけが踊っている。
いがらしみきおの4コマ(おそらくネ暗トピア(1979-1985)中の作品)が話題になってるんだが…時代が変わるとなるほど伝わりにくいなと確かに思う。
某アニメの「見ろ、人がゴミのようだ」って有名な台詞があるが、これ当時(1986公開)はそれなりにショッキングな台詞だったわけで、つまりその頃「人間」というものの価値は、いまよりずっと高かったんだよな。だから、沢山の人が集まってるということ自体のパワーや価値感がいまとは全然違う、すごくテンションの上がることだったわけだよ。「祭り山笠のごつある!」じゃないが、とにかく沢山の人がいる光景は「理屈抜きに凄いこと」であって、それを見て闇雲に見下したりとか物扱いしたりするとか、そういう発想自体がない時代だったんだ。ニュースとかで凄い人出を取材して、アナウンサーが「すごい行列です!」「もう人でいっぱいです!」とか興奮して喋ったりするのがデフォ、みたいな。これが1つめの条件(1)
更に加えて言うと、この頃ピアノリサイタルするような人って、年代的に言えばまだ日本が海外にそれほど開かれていない時代(海外に円を持ち出す額に制限があり、海外に資産がない限り、普通の手段では留学なんてこと自体ができなかった時代)におそらく海外留学とかして一定の名声を得て…みたいな、伝説級のアーチストが想像されたわけだよ。そして、そんな人は闇雲に偉人聖人扱いだったわけなんだ当時としては。大げさに言えばそんな感じ。これが2つめの条件(2)
いがらしは、そんな(1)や(2)の条件をバカにすることで田舎者で世間知らずな大衆を嗤い、そしてそれらを見下してるピアニストに、芋臭い名前を付け器の小さい台詞にすることで権威や文化人自体を嗤い、最後に、当時としては予想しにくい最終コマをもってくることで読者を嗤い、そしてオチにしたというわけ。
このマンガを、無理矢理現代語に「翻訳」するなら、たとえば、最終コマで呟いてるのを(不謹慎だが)天皇陛下とかローマ法王とかにしてみれば少し伝わるんじゃないかと思う。
みたいな4コマ……なかなかシュール、複雑かつアナーキーなギャグだろ? 暗い情動の底からこみ上げてくるような深い笑い。それが当時の(いまもある程度変わらない)いがらしの作風なんだ。
こういうの、きちんと書いておかないとホント風化する気がしてきたんで、一応記録のために書いてみた。
駅で電車を待っていた時の事だった。
70歳位のお婆さん(2人連れ)が、50歳位のおじさんに○○駅まで行きたいのだが、この後の各停に乗れば良いか、それともその数分後にくる快速に乗れば良いのか?と尋ねていた。
その後の快速の方が良いですよ。とおじさんは回答した。正解だ。途中で各停は快速に追い抜かされる。
お婆さんは、あらあらありがとうございます最近は便利になりましたけど私わからなくてねあらあらなどと言っていた。
数分後、各停が到着した。ドアが開き、人が流れる。
するとお婆さん達、あらあら乗った方が良い?あらあらどうする?乗りましょうか乗りましょうね。などと言いながら各停に乗りこんでしまった。
発車、オーライ。
つい先日知り合いの奥様が「うちの坊っちゃんが虫歯で困っちゃうわ~ん。本当あの子ったら~ん」という話を30分かけてしてくださった。
それでちょっと疑問に思った。
そりゃ少し前の大自己責任時代のアナーキーな社会でなら子供が自分で必死に歯磨きしてそれで駄目だったら努力不足でいいのかも知れないけど今はもうそういう時代じゃないんじゃないかな。
まず幼少期に虫歯菌が口の中に入るのを少しでも遅らせるように努力する。
キスしない、食器使いまわさない、口に唾が飛ばないように丁寧に話しかける。
次に少し大きくなったら歯磨きを教える。
寝起き・朝・昼・晩ちゃんと磨かせる。
食事が終わったらすぐ歯磨き開始、これに子供を巻き添えにする。
朝起きた時もご飯の前に磨く、うんち10g分の菌を口の中から出しておく。
あと磨き方もゴシゴシじゃなくてシャカシャカ。
歯茎のマッサージも一緒にとはよく言ったもので歯茎を痛めるような磨き方は歯も痛めてる。
そしてちゃんとした道具を与える。
ケチった安い歯ブラシはすぐボロくなるし使ってて歯茎が削れて気持ち悪い。
反対にいい歯ブラシは使ってて気持ちいいし壊れにくいから結果的に値段はそんな変わらない。
歯磨き粉も気を使う。
子供の時はイチゴ味でいいとして大きくなったら研磨剤がなくてフッ素のある奴を使う。
それと忘れちゃいけないのがキシリトール。
小さいうちはタブレット、大きくなったらガム。
結局親がちゃんと歯を管理してみせてその習慣を子供に伝えていくのが大事なんだよね。
自分の親世代が歯に無頓着で「虫歯になったら削ればいい、削れなくなったら入れ歯でいい」だったからって自分達までそうすることはない。
子供に幸せに生きて欲しいと考えてるならこれぐらいちゃんと出来るはずだよね?
と奥さんに言ってやりたかったけどグっと堪えて相槌打ち続けてた自分。
よく頑張った。
耐えるのだ。
頭の悪いババァが相手の時はこっちが耐えるしかないのだ。
根に持たれてはならんのだ。
文学部の教授にはアナーキーで社会で働くことなんぞ悪だ!という考えの方が未だちらほらいらっしゃるようです。
現在必修で受けさせられているとある授業の先生は色々と社会を批判することに枚挙に暇がない方で、
現代の情報社会の悪さ、文学部の人間までせこせことやれ資格だ英語だとくだらない、
時には一部の職業や実学志向の学部を陥すような発言をなさることもありました。
PCやスマホは彼の中ではおもちゃか何かだと考えているようで、ノートPCを使ってevernote上に授業ノートをまとめていると、
と言われたこともあります。
その時は思わず抗議しようとしましたが、その先生は授業が終わると脱兎のように教室からいなくなってしまいます。
そんなに授業が嫌かと思うほど、本当に早いです。
場合によっては一般的な社会なら受け入れがたい思想を持っていたとしても、個人の思想をどうこうする権利は誰にもないことくらいは分かっています。
けど、それを反論も抵抗もできない学生に半ば強制的に聞かせる意味はあるのですか?
授業を必修科目にしてまで、彼の社会批判に、自分の家族の職業や普段から親しんでる趣味を低俗な物扱いする言葉を聞かせられる、その意味は何なのですか?
一応授業は題画文学を扱うというものですが、授業の半分ちょっとほど専門の説明をしたら残りは学生に社会への怨嗟を愚痴るだけの時間に疑問を感じてしまいます。