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はてなキーワード: 1940年代とは

2019-05-05

自衛隊のために憲法を変えない方がいい理由

たとえば最高裁判所裁判官国民審査みたいな1940年代アメリカが「これあの国で試してみようぜ」とトチ狂った思いつきを実行しちまったとしか思えない制度をもうちょいマシにみたいな話だったらわかるんだけど、9条とか自衛隊とか集団的自衛権とかはマジで変えなくていい。

だって便利だもん、今の憲法

実質的武力なのに「軍隊じゃありません」って建前が持てる軍隊なんて楽だよ?戦争断るのが楽。めっちゃ楽。多少他国から要請くらって海外行かなきゃいけないことも増えてきたけど、それが政治的争点になる。勝手にみんなが反対してくれる。

実態にあってない」?おまえらそれでなんか困ったことある日本なんてお前個人プライド問題以外で困ることなんてないでしょ。

「隣の国がこわい」?韓国米韓相互防衛条約があるから日米安保がある限りは間接的な軍事同盟が生じてるので問題ない。北朝鮮中国はそこがある限りは過激な行動をとってこない。軍部暴走とかもない。

しろ本当に怖いのは日本国内だと知れ。慰安婦問題で揉め、南京事件で揉め、戦前ナショナリズム思想がまた勃興しはじめてる国で憲法の認める軍隊なんか作ってみろ。ドイツみたいな全体主義への強い反省忌避感を持ってる国ならいざ知らず、マジで今の日本はぶちかましはじめないからな? でかい戦争とまでは流石にいかないだろうけど、隣国との領海侵犯問題での小競り合いで死人が出るくらいのことは普通にありえる。日本韓国馬鹿同士が無駄プライドで互いに互いを見下し合ってる馬鹿な国なのでマジで気をつけたほうがいい。

もうちょっとお互いにナショナリズムが落ち着いたタイミングだと違うかもしれないが、いまみたいに緊張関係が固まってるタイミングであれば、それに歯止めをかけうるブレーキはないよりあった方がいいんだよ。車でスピード上げたいときブレーキ取り外すの正気の沙汰じゃないだろ?つけといたほうがいいって。大体変えたところでなんのメリットがあるってのさ。

2019-03-17

anond:20190317152002

1940年代黒人男性さん、自分が持つ何かの属性だけで犯罪者予備軍扱いされてしまった時は、同じ属性を持っている過去犯罪者達を恨むのが道理だ。

2018-12-05

拡散歓迎】安倍政権が速急な移民受け入れにこだわる理由



要するに、(多くの反対論を押し切って)日本右派民族国家として復活することを目論んでいる。そのためには世界中にいる日系人日本に連れてこなければならない。そのために、排外主義民族主義世界中蔓延している今をチャンスにしたいからここまで国会の採決を急いでいる。

1940年代イスラエルの再建国という政治ショーがあったが、これは単にアメリカの手厚い支援で実現したのではない。世界の情勢の偶然が積み重なって成功したものである特に第二次世界大戦における排外主義悲劇は、イスラエル債権国を望むユダヤ人の民の背中を強く押した。

2018-11-23

anond:20181123154559

なあなあで空気で突き進む文化のせいでしょ。

で、調子に乗ったらとことん調子に乗って、どん底にまで落ちないと反省しない。

日中戦争も、南京勝利で、トラウトマン和平工作蒋介石が初回条件での講和条件の受け入れを表明したときに、さっさと受け入れておけば

第二次世界大戦欧州戦争高みの見物で済んだのに。

日本中国枢軸国側、中国国民党政権フランスイギリスは完全に敗北と、1940年代以降の世界図が全く変わったかもなぁ。

2018-11-12

anond:20181112133400

奇跡バーゲンセールだぜ。

経済奇跡(Wirtschaftswunder) - 第二次世界大戦から1970年代にかけての西ドイツオーストリア経済成長

栄光の30年間(Trente Glorieuses) -第二次世界大戦から1973年までのフランス経済成長

メキシコ奇跡(Mexican miracle) - 1940年代から1970年代にかけてのメキシコ経済成長

ギリシャ奇跡(Greek economic miracle) - 1950年から1973年にかけてのギリシャ経済成長

イタリア奇跡 - 1950年代後半から1960年代にかけてのイタリア経済成長

スペイン奇跡(Spanish miracle) - 1959年から1973年にかけてのスペイン経済成長

台湾奇跡 - 1960年代後半から1970年代にかけての台湾経済成長

漢江奇跡 - 1960年代後半から1970年代にかけての韓国経済成長

イボワールの奇跡 - 1960年代から1970年代にかけてのコートジボワール経済成長

ブラジル奇跡(Milagre econômico) - 1968年後半から1973年にかけてのブラジル経済成長

2018-11-03

anond:20181031155313

うん、そうだとおもう。

とにかく消費税周りは嘘、ごまかしが多い。

最近は「過去消費税借金返済に回っている!」とか言ってるが、資金過不足統計(国全体の資金調達と貯蓄の統計)を見れば、未だ政府資金不足=資金調達側。

まり、今現在借金は増やし続けている。

だいたい「全額社会保障に使う」んじゃなかったっけ?

実際の使いみちは累進所得税減税と法人税減税。で、ガッツリ溜め込まれて、金回り悪くして不景気になったがな。

消費税導入と新自由主義と失われた30年ははともにあるが、失われた40年が見えてきたな。

ケインズ主義1940年代1980年代まで成長してたが、新自由主義1980年代-2010年代まで景気落としっぱなし。明らかにどちらの理論が正しくて、どちらの理論が間違ってたか示されてるな。

2018-07-15

anond:20180715091036

やってるじゃん。兆単位のカネかけて。

1940年代日本国にもあったんだぞ。大戦

GHQかに破壊された。

2018-05-21

anond:20180521104643

http://ryumour.hatenadiary.jp/entry/20160910/1473476400

日本吹奏楽部戦後昭和20~30年(1940年代)から始まった。

1960年頃までは、ほとんどが男性構成され、「吹奏楽=男のやるもの」だった。

1960年代に、「受験激化による男子部活離れ」「ギターブーム」「東京オリンピックによる運動部ブーム」によって、男の吹奏楽部員が減っていった。

・同時に、女子高校進学率の上昇、男女の社会通念の希薄化により、女性吹奏楽部員が増加した。

1970年にはほとんど男女比1:1になり、更に男女比の逆転が進む。現在では男女比はおよそ1:9になっている。

時代で変わるって面白い

2018-03-06

anond:20180306174325

1940年代に「脳卒中の死亡率がトップクラス」ということで

塩分を控えるような運動はあったみたいだけど

現在長野県塩分摂取量は全国第4位。

脳卒中が減ったのは医学進歩によるものだそうだ。

真実を知れてよかったな。

2018-01-05

日本人権後進国なら、リベラル差別主義者の集まりだよな

駒崎なんとかが日本人権後進国って言うけどさ

ま、それはそうでしょ、いつまでたっても憲法1940年代から変わってないんだから人権意識なんて上がらねえよ。

んなことより、駒崎の論法がすげえ頭悪いというか、そういう言い方を左翼が使うからバカサヨ呼ばわりされるって気づいた方がいい。

日本番組で黒塗りがあったから、人権意識無いよね、そのダウンタウン番組が人気だから日本人権後進国だよねっネトウヨ馬鹿だよねっていうアホ論法

それ言ったら、おれもリベラルという奴ら=差別主義者というアホ論法使っちゃうよ、いいの?

反原発の奴らでも極端なクズ達、なかでも山本某とか市民ジャーナリスト達に代表される福島へ対する過去の言説さ、あれ以上の悪意の塊のような差別的言説ってあるか?

被災者自殺しかねないようなデマたらふく流したんだぜ。

その山本とかジャーナリストどもは鳩山リベラルとかが好きなんだろ?

じゃあ、反原発デマ野郎リベラル差別主義者ってことで、リベラル差別主義者というアホ論法が成り立つよね。

本当に屁のような理屈をよくもまあ使えたもんだ。

そもそも差別意識してなかっただけってあるんだよ。

BBCが偉そうに記事にしてたけど、イギリス人だって日本人のことJAPって呼んで、なんとも思ってないよ。

それが差別用語なんて知らないんだもん。

ロナウド釣り目したってポルトガル人権後進国って誰がそんな偉そうなこと言える?

無邪気に自分たちアジア人が好きだよってことで釣りポーズしてるんだろう。

苦笑いですむ話だ。

ミンストレルショーとかいうのはじめて知ったよ。

番組側も、こういうことをきっかけに反省すればいいだけだ。

それを偉そうに、自分だけは人権意識あるふりして大手を振るう奴らは本当に気持ち悪い。

おまえらにも隠れた差別意識があるじゃねえか。

ダウンタウン低学歴で頭がわるく暴力的だっていう差別意識がよ。

世代

1920年代1930年代まれ

戦前世代

青少年期に日中戦争太平洋戦争体験し、1920年代まれ徴兵経験する。

終戦時の年齢は6歳から25歳。

高度経済成長期(1954-1973)には15歳から53歳

安定成長期(1973-1991)には34歳から71歳。

バブル時代(1986-1991)には47歳から71歳で管理職および経営トップを担う。

定年(60歳)は1980年から2000年まで。

現在は80代・90代。

バブル時代総理大臣を務めたのは中曽根康弘(1918生)・竹下登(1924生)・宇野宗佑(1922生)・海部俊樹(1931生)。

それ以降も小泉純一郎就任まで、1920年代1930年代まれ総理大臣が続く。

1940年代まれ

1960年1970年安保闘争ベトナム戦争に対する反戦運動1960年代後半に過激化した学生運動などを大学体験した「全共闘世代」。

1940年代後半生まれ戦争終結による第一ベビーブームで生まれた「団塊の世代」。

高度経済成長期(1954-1973)には5歳から33歳で、主に青少年期を過ごした。

安定成長期(1973-1991)には24から51歳。

バブル時代(1986-1991)には37歳から51歳。

定年(60歳)は2000年から2010年まで。

現在は70代。

歴代首相では、麻生太郎(1940生)・小泉純一郎(1942生)・菅直人(1946生)・鳩山由紀夫(1947生)。

1950年代まれ

上の世代反面教師政治的無関心が増えた「しらけ世代」。

1950年代前半生まれ団塊から引き続き人口の多い「ポスト団塊」。

1950年代後半生まれ人口の少ない「谷間世代」。

高度経済成長期(1954-1973)に幼少期・青少年期を過ごした。

安定成長期(1973-1991)には14歳から41歳。

バブル時代(1986-1991)には27歳から41歳。

定年(60歳)は2010年から2020年まで。

現在は60代。

歴代首相では、安倍晋三(1954生)・野田佳彦(1957生)。

1960年代まれ

従来とは異なる感性を持つとされた「新人類」。

1960年代前半生まれは引き続き「谷間世代」。

1960年代後半生まれバブル時代就職した「バブル世代」。

幼い頃からマンガアニメゲームバラエティ番組洋楽などに親しんだ「元祖サブカル世代」「オタク第一世代」。

高度経済成長期(1954-1973)に幼少期を過ごした。

安定成長期(1973-1991)には4歳から31歳。

バブル時代(1986-1991)には17から31歳。

現在は50代。

1970年代まれ

バブル崩壊後の不景気就職した「就職氷河期世代」「ロスジェネ」。

1970年代前半生まれは、団塊の世代による第二次ベビーブームで生まれた「団塊ジュニア」。

安定成長期(1973-1991)に幼少期・青少年期を過ごした。

バブル時代(1986-1991)には7歳から21歳。

現在40代

1980年代まれ

出生率の低下が問題となりはじめた時期に生まれた「少子化世代」。

1980年代後半生まれは、脱・詰め込みの教育を受けた「ゆとり世代」。

ただしゆとり教育のもの1980年から施行されている。

安定成長期(1973-1991)に幼少期を過ごした。

現在は30代。

1990年代まれ

物心ついた頃からPCインターネットが普及していた「デジタルネイティブ」。

ゆとり教育を受けた「ゆとり世代」、および不景気下で育ったために無欲と言われる「さとり世代」。

現在20代

2018-01-01

2018年~2030年予言

2018年

2019年



2020年

2021年



2023年

2024年

2027年

2028年

2030年

2017-11-25

anond:20171125163427

1940年代後半で朝鮮戦争始まるまでは本当に貧しかったね。

朝鮮戦争傍観者としての特需復興した側面もある。

でさ、俺は君みたいに第二次大戦反動経済成長1980年代まで続いたなんて馬鹿な考えしとらんので。

戦争当事者になれば高成長になるというのならアフリカイラクアフガンの今の状態見てみろと。

2017-07-23

第二次大戦ドイツ舞台にしてるのにヒトラーナチスを頑なに出さなアニメって

なんか大人の事情とかユダヤ忖度して出さない様にしてる訳?

幼女戦記なんてどう考えて史実の流れに忠実にやっててそれがウリの一つなのにヴィルヘルム帝政とくっ付けてナチス関係なくやってるし

イゼッタも1940年代の話でドイツに攻められる話だったけど、当の帝国首長がヴィルヘルム某よろしくどうみてもヒトラーじゃない。

ナチスっぽい事はしてるのにナチスが一番やらかしてたユダヤ迫害模倣みたいなのさえなかった。

どう考えても上から圧力だよね。

アニメヒトラー出してくれよ。ドリフターズとか異世界戦記じゃなくてさ、リアルヒトラーないしナチスが見たいんだよ。

何で表現の自由約束されてるはずのアニメでこうした忖度が当たり前の様に行われてるのか。

意味が分からない。

2017-06-02

日本社会を一発で改善する有効

痴漢を一発でなくす方法

世界で最も痴漢問題が激しく、陰湿化する国は日本なのである。おなじ満員電車の国のアメリカ韓国中国には痴漢はない。なぜ先進国で唯一日本だけこの問題があるかと言うと、それはおそらく「責任主体明確化することを渋る」からではないか痴漢戦犯第一加害者だが、加害男は、ただ好き勝手やってれば自分処分されることをわかっているため、他人責任を負わせるのである鉄道趣味などを煽り傍観者共犯者じわじわと作る。そうすることで、自分ひとりが糾弾されたりすることから逃れられるのだ。もし仮に利用者のうち80%くらいが加害者傍観者含む)となれば、その常態企業は「問題がある」と認めることはできない。なぜなら利用者加害者家族含む)から「うちの人生がどうなってもいいのか!」と糾弾さらされることになるからで、行政からも圧がかかる。

もし仮に、その鉄道都市のすべての鉄道路線のうちにたった1路線がそういった常態だったとしても、それでも1路線危険地帯一色に染まるともなれば由々しき事態なので、当然新聞沙汰になるし、運営も、場合によっては行政の面々なども処分をされかねなくなる。かくして隠ぺいや黙殺が起きるのだ。隠ぺいや黙殺すればするほど痴漢じわじわ鉄道路線全体に広まる。そしてそれがどの鉄道でも当たり前になり、どの交通機関でも当たり前に、どの都市も平均的な風景になったのが今の日本だ。東ドイツと同じなのである宗主国の顔色を窺った東ドイツ政府が、無責任国民ハラスメントするような構造と一緒だ。

痴漢問題は、加害者が少人数(できれば一人)の時点で発見し、その利用者定期券没収などの制裁を科すことができればいい。もしそれが食い止められずに全体に広まれば、運営の首を飛ばす仕組みを作れば、運営会社もっと積極的にマトモにこの手の問題と向き合うようになる。なぜこれができないのか。本当に日本公共交通ダメだ。

裏社会過激派左翼をなくす方法

韓国中国過激派左翼暴力団がない理由を考えたのだが、おそらく「公的勢力権限」が徹底されているからだと思う。2000年代以降の韓国中国風景は、さまざまな公共団体への相談窓口が用意されており、裏社会につながる利権パイプが発生しないようになっている。これは最近欧米でも普通のものだ。ようするに公共サービスが徹底していて、社会の裏側に必然的に手出ししないように済むわけで、住民安心して問題点解決できる。サービス効率や質もよい。日本場合公的機関権限がいい加減だから下の人間(昔は裏社会で今は過激派左翼)が利権を作る原因になるんじゃないか

これは社会イメージアップもつながり、問題などを一番小さな次元で食い止めることができる。日本のような公的機関蔑視される環境だと、公共責任あいまいになり、過激派利権問題JKビジネスのようにとりかえしのつかない規模になってしまう。いま、世界に名だたるオタクの街が潰れかかっているのはまさにそれが原因ではないか。よくいえば都市国家イメージアップになり、人民利益モチベーションのアップにつながる。これは本当に良いと思うので、日本採用してほしい。欧米だけではなくアジアでこういうシステムをやらないのは日本だけだよ。

日本人民度ダメになる理由もこれ

日本民度がいまダメになっている理由もこれで説明がつく。なぜ1940年代日本や今で言えば韓国の過ちと同じことを繰り返そうとしているのかというと「忖度」してしまうから。これはネトウヨ高齢者も考えるべきことだ。君たちの大嫌いな「だらしない日本人の態度」の原因は、特定人間責任にできないことにある。

アメリカ人であれ中国人であれ、世界のどの超人職人個人単位での評価が当たり前である

韓国超人紹介を見ると、必ず名前の紹介がある。日本みたいに民族のもの評価になることはない。これは米国でも欧州でも当たり前だ。

日本でこのような考え方が徹底されるようになったのは2010年代以降である。それまで、あたか日本社会自体がすごいという拡張表現することしかないし、インタビューさえ氏名不在の場合が多い。誰が取材したのか、誰が伝えているのかがさっぱりわからない報道が目立つ。

結果的に、無関係のない人達が矢面に立たされてしまい、特定世代がひっくるめて糾弾されることになるのではないか。あれだって世代における共通点があったとしても、悪いのは顔の見えない、名前も出て来ない者である

2017-05-05

[] ブリガデイロ

ブリガデイロ(ポルトガル語: Brigadeiro、ポルトガル語准将(但し、ブラジル空軍では少将)を意味する。

ブラジル南部の一部地域ではネグリーニョ - negrinhoとも呼ばれることがある)はブラジルボンボン・ショコラである

  

ブリガデイロは1940年代頃に創作された菓子であり、菓子名はエドゥアルドゴメス空軍少将の頭部の形がトリュフチョコレート

連想させたことにあやかって名付けられている。ブリガデイロはブラジルポルトガルでは非常に人気のある菓子であり、

通常誕生日パーティーで供されるほか、デザートとしても一般的に食されている。

  

ブリガデイロは甘いコンデンスミルクココアパウダーを混ぜ込んで作る。混ぜ込んだ後、滑らかでいて粘りのある食感になるまで、

コンロの上においた鍋で加熱する。

加熱した後少し冷まし、バターを塗った手で球状に丸め、上部からチョコスプレーをまぶして完成させる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%AC%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%AD

2017-02-13

夢は南海トラフ上野女史への反感―

本来、三大命題二つ目を書きたかったところだが、こちらの問題を先に論じさせてもらう。

この論考は以下のURLにたいする一人の若者から反論である

https://togetter.com/li/1080097

以上の新聞記事で、上野女史は「経済犠牲にしてでも、平和国家として衰退すればいい」と主張している。

この主張にたいする批判等は、本職の社会学者に任せるとして、ここでは私の純粋なる反感について述べていきたい。

平和国家という「ファンタジー

上野女史は無邪気にも、戦後日本を「平和国家」としてとらえている。

この考えはまったくの見識違いといわざるをえない。

そもそも、戦後日本社会体制1940年代の「総力戦体制を「経済最優先」の形として再編したものである

扶養控除、源泉徴収終身雇用制、護送船団方式のすべてが元々「戦争を想定して」造られたものだ。

社会実態についても、「平和」と呼ぶにはほど遠い。

1950~60年代には、「高度経済成長」の美称の裏で、世界でも稀にみる学生運動市民運動社会不安が吹き荒れていた。

70~90年代にかけては、家庭や企業社会体制のガタが入り、人々を「死へと誘う」システムへと変貌していった。

これが少年非行いじめ過労死などの狂気的な状況を引き起こした。

戦後日本とは、世界的にも稀にみるただの「ゆたか社会である

まったく「平和」でも「民主的」でも「自由」でもなかった。ただただ「ゆたか」だっただけである

後期近代―不確実な私、国家社会

しかも、「ゆたか社会」は90年代2011年にかけて完全に崩壊した。

まず、政府安全神話が崩れ、

企業身分制保障崩壊し、

最後に、原発事故とともに社会安全神話が吹き飛んでしまった。

この事実について語らない者はすべて、今の時代にたいして不誠実である

では、現在社会とはどのような社会なのか。

それはギデンズやバウマン、ジョッグ・ヤングなどを見てもらえば分かるが「流動的、効率的である

企業におけるセーフティーネットが「生産性自己実現神話」の名のもとに縮小され、

パートフリーターという不安定生活者が生まれた。

政府が担っていた安全保障は「構造改革」の名のもとに縮小され、

監視カメラSNS監視なしに、人々は安心して生きることができない。

不誠実な脳科学認知神経科学AI研究によって人間という「私」の特権性が失われ、

人々は常に失職と人間尊厳消失心配するようになっている。

そして、このような多様な人々が同じ町で同じように暮らしている。

このように、後期近代社会とは

当たり前だったものがすべて崩れ去り、人間永遠の虚無へと投げ出すのである

相対的剥奪感と存在論不安

このような状況では、人々は二つのレベル不安を抱えることになる。

一つは生活レベル不安相対的剥奪感―

もう一つは存在レベル不安存在論不安

である

私たち人生ほとんどを仕事をして、生きている。

しかし、その仕事価値が急速に低下してしまった。

人生の多くを占める活動である仕事にふさわしい「対価」が支払われなくなってしまった。

一方、ただ一日中パソコンを見つめて投資とやらというギャンブルをするだけでも「対価」を得られる人々もいる。

この二極化する現実は人々に

「不当な地位にいる!」

「ふさわしい金額、敬意をもらっていない!」

という相対的剥奪感を抱かせる。

また、後期近代社会はいわゆる「コミュ力」の高い人々が成功する。

軽薄に仕事にたいする敬意なく、強者追従する人々が「評価」され、グローバルエリートとして出世していく。

そして、仕事に真面目ながらも報われない弱者は常に「自己批判」と「変革」を迫られる。

二極化する現実に人々は「私は人間らしい扱いを受けていない」という存在論不安を抱かせる。

しかに、ここであげた例は極論である

しかし、似たような体験をする人は多いだろう。

そして、人々はつねに不平不満をもらすのだ。

「私はこうなれたのに……」

「私もこうしたかった……」

ここでは深く述べないが、この可能性としての私=‹他我›にたいする深い怒りの感情現代社会不安の核心にあるように思う。

上野女史は「みんな貧しくなる」ことによって、この怒りを無くせるなんて無邪気にも思っている。しかし、それは不可能である

この感情こそが永遠の虚無において、私を生きることのできる唯一の鍵だからである

夢は南海トラフ赤木理論の失効―

――常に人々に嫉妬を抱かせながら、その嫉妬を用いて欲望を加速させる。そして、その嫉妬を全身に受ける者は高笑いしつづける。

このような後期近代グロテスクさに最初に抗議をあげたのが赤木智弘だった。

彼はある論考で「夢は戦争」とドゥルーズ的な集団自殺理論を主張した。

しかし、私は「戦争」を夢にはできない。

今や「戦争」こそが「富裕層」を富ませ、「貧困層」を殺すことを知っているからだ。

今や「自殺」ですら「富裕層」を富ませる資本である

加藤智大植松聖などの社会的自殺者は、情報として処理され資本となる。

そして、情報となった「自殺」は「貧困層」による社会転覆不可能性を解き、

「後期近代」の隊列にから逸脱しないことを促進させる。

後期近代において、「自殺」こそが「富裕層」へのもっと積極的な「支援行為なのだ

私の夢は「南海トラフである

防ぎようのない「天災」によって、

嫉妬の中心地である太平洋ベルト東京

ありとあらゆる社会資本が壊され、嫉妬の根源が無化される。

私はベンヤミンのいう「法維持暴力」に立つ者であるが、

この瞬間を心の底から待ち望む。

私はそのとき、心の底から嗤うことができるだろう。

109崩壊し、秋葉原が灰塵に帰し、大手町サーバーがダウンし

白金の御婦人たちが焼け出され、お台場の子どもたちが押しつぶされるとき

後期近代はその柔らかな恥部を表出する。

私は笑顔でその恥部憎悪の限りをぶつけてやり、

後期近代を殺し、末期近代を出現させてやるのだ。

そのときに来るのが、

東のいう変質したファシズムなのか

笠井のいう生存のためのサンディカなのか

佐藤のいう無慈悲アナーキズムなのか

知ったことではない。

私が心の底から嗤いたいのである

相対的剥奪感や存在論不安に晒されることなく嗤いたいのである

そして、私は嗤いながら確信する。

東北の「土」と「血」が正しかったことを

東京の「コンクリート」と「鉄道」が虚妄であったことを

このような自己破滅願望について納得する解答を提示できない上野女史に

後期近代現代社会を語る権利はない。

彼女はせいぜい自らの理念後生大事に背負って、大学瓦礫に押しつぶされて死ぬのがお似合いだ。

2015-02-24

中年男性です。音楽には詳しくありません。

1980年代、僕が子供のころ歌謡曲きらきらと輝いていました。

田舎小学生だった僕にとって、歌は外の世界のものでした。

そのころ田舎にもあったローラースケート場には、光ゲンジの曲がかかっていたと記憶しています

父に連れて行ってもらったのですが、1940年代まれの父がひどく年取っているように見えました。

ここから出れば、歌詞にあるような世界に飛び込んでゆける、子供の僕はそう思いました。

1990年代、僕は青年になり普通にメガヒットを消費していました。

その時思ったことは、「もう80年代じゃない」ということでした。

そのうち歌謡曲はJpopと呼ばれるようになりました。

僕は無邪気さをやや失いましたが、それでもまだ、歌にうたわれる世界がどこかにあるような気がしていました。

2000年代はじめころ東京、深夜のコンビニの有線でヒット曲を知りました。

流行っているもの仕事帰りに立ち寄るコンビニで流れていました。

2000年代後半、僕はiPodを持ちました。

初めてブロードバンド契約をするときにオマケでついてきました。

その時のiPodはすでに天寿を全うしました。

今は初代iPodに入っていた2000年付近音楽と、2010年以降に追加されたわずかな音楽が、僕とともにあります

もう何が流行っているのか、カラオケで何を歌うべきだとか、そんなことを考えなくていいのだなと思うと、ちょっと気楽な気分になるのです。

2013-07-18

顕彰馬

JRA顕彰馬 - Wikipedia

年代馬名生年GI級競走功績
1930年代クモハタ1936年1勝ダービー優勝 / 種牡馬としてGI勝ち馬14頭 / 産駒年間157勝 / 内国産馬初のリーディングサイアー
セントライト1938年3勝史上初の中央競馬クラシック三冠
1940年代クリフジ1940年3勝史上唯一の中央競馬変則三冠 / 11戦無敗
トキツカゼ1944年2勝史上初の牝馬皐月賞優勝 / オークス優勝 / 繁殖牝馬として年度代表馬2頭
トサミドリ1946年2勝クラシック二冠(皐・菊) / 種牡馬としてGI勝ち馬16頭 / 産駒通算1135勝
トキノミノル1948年2勝クラシック二冠(皐・ダ) / 10戦無敗 / アイドルホース
1950年代メイヂヒカリ1952年4勝第1回有馬記念優勝 / 日本競馬史上初の引退
ハクチカラ1953年3勝ダービー優勝 / 日本馬初の海外遠征 / 日本馬初の海外重賞勝利 / 史上最高のGI単勝支持率85.9%
セイユウ1954年0勝アングロアラブでは唯一の中央競馬サラ系重賞勝ち / 当時世界記録の年間種付け238頭
コダマ1957年3勝クラシック二冠(皐・ダ) / アイドルホース
1960年代シンザン1961年6勝史上2頭目中央競馬クラシック三冠 / GI馬では最多の19戦連続連対連対100% / 史上最多のGI6連勝 / サラブレッドの最長寿記録 / 産駒重賞49勝 / 産駒24連続勝利
スピードシンボリ1963年4勝史上初の有馬記念連覇 / 日本馬初のKGVI&QES・凱旋門賞挑戦 / 中央競馬最多記録タイとなる重賞12
タケシバオー1965年3勝天皇賞・春スプリンターズステークスで優勝 / 海外成績を除く23連続連対 / 中央競馬初の獲得賞金1億円越え
グランドマーチス1969年4勝中山大障害四連覇 / 中央競馬初の獲得賞金3億円越え
1970年代ハイセイコー1970年2勝アイドルホース
トウショウボーイ1973年3勝産駒重賞43勝 / 内国産種牡馬として初めて三冠馬を輩出
テンポイント1973年3勝アイドルホース
マルゼンスキー1974年1勝8戦無敗
1980年代ミスターシービー1980年4勝史上3頭目中央競馬クラシック三冠 / アイドルホース
シンボリルドルフ1981年7勝史上4頭目中央競馬クラシック三冠 / 無敗の三冠馬は初 / 中央競馬最多タイGI7勝
メジロラモーヌ1983年3勝史上初の中央競馬牝馬三冠 / 重賞6連勝 / 牝馬初の獲得賞金3億円越え
オグリキャップ1985年4勝アイドルホース / 重賞6連勝
メジロマックイーン1987年4勝天皇賞父仔三代制覇 / 史上最多の4年連続GI勝利 / 世界初の獲得賞金10億円越え
トウカイテイオー1988年4勝父仔で無敗のクラシック二冠(皐・ダ) / 日本馬初の国際GI勝馬 / 史上最長の休み明けGI勝利(364日) / アイドルホース
1990年代ナリタブライアン1991年5勝史上五頭目クラシック三冠
タイキシャトル1994年5勝外国産馬初・短距離馬初の年度代表馬 / 日本馬初のジャック・ル・マロワ賞優勝 / 中央競馬最多タイとなる重賞8連勝
エルコンドルパサー1995年3勝3歳馬初のジャパンカップ優勝 / (日本馬初の凱旋門賞2着) / 国際レーティング日本馬最高の134ポンド
テイエムオペラオー1996年7勝古馬GIグランドスラム / 年間無敗 / 中央競馬最多タイとなる重賞8連勝 / 中央競馬最多タイGI7勝 / 史上最多タイGI6連勝 / 当時中央競馬歴代1位の獲得賞金18億3千万
2000年代ディープインパクト2002年7勝史上6頭目中央競馬クラシック三冠 / 史上2頭目となる無敗の三冠馬 / 中央競馬最多タイGI7勝 / アイドルホース / 種牡馬として牝馬三冠馬を輩出
ウオッカ2004年7勝64年ぶり牝馬ダービー優勝 / 内国産牝馬初のジャパンカップ優勝 / 中央競馬最多タイGI7勝 / 牝馬では最多の牡馬混合GI5勝 / 牝馬初の2年連続年度代表馬
オルフェーヴル2008年6勝史上7頭目中央競馬クラシック三冠
ロードカナロア2008年6勝史上初のスプリントGI3勝(最終的には5勝) / 日本馬初の香港スプリント優勝(連覇) / スプリンターでは史上初の年度代表馬
ジェンティルドンナ2009年7勝史上4頭目中央競馬牝馬三冠 / 3歳牝馬初のジャパンカップ優勝 / 3歳牝馬初の年度代表馬 / 史上初のジャパンカップ連覇 / 内国産牝馬初のドバイGI制覇 / 牝馬では歴代1位の獲得賞金
2010年代キタサンブラック2012年7勝中央競馬最多タイGI7勝 / 中央競馬歴代1位の獲得賞金18億7千万

顕彰馬候補

馬名生年GI級競走功績
スペシャルウィーク1995年4勝当時世界記録の獲得賞金10億9千万 / 内国産種牡馬として初めて海外GI勝ち馬を輩出
ダイワスカーレット2004年4勝37年ぶり牝馬有馬記念優勝 / 12連続連対連対100%
ブエナビスタ2006年6勝史上最多タイの4年連続GI勝利 / 中央競馬最多の19戦連続一番人気
ヴィクトワールピサ2007年3勝日本馬初のドバイワールドカップ優勝
ゴールドシップ2009年6勝二冠馬(皐・菊) / 史上初の宝塚記念連覇
ジャスタウェイ2009年3勝国際レーティング内国産馬最高の130ポンド / 国際レーティング日本馬史上初の単独1位
モーリス2011年6勝距離馬では史上3頭目年度代表馬
アーモンドアイ2015年9勝史上5頭目中央競馬牝馬三冠 / 中央競馬最多のGI9勝 / 中央競馬歴代1位の獲得賞金19億1000万円

顕彰馬候補の現役馬

馬名生年GI級競走功績
オジュウチョウサン2011年4勝障害最多タイのJ・GI4勝(連勝) / 障害重賞最多8連勝
コントレイル2017年4勝史上8頭目中央競馬クラシック三冠 / 史上3頭目の無敗三冠 / 史上初の父仔無敗三冠
デアリングタクト2017年4勝史上6頭目中央競馬牝馬三冠 / 史上初の無敗牝馬三冠

2013-06-14

共産主義が駄目な経済理論的な理由

と書いていてなんだが、実のところ、完全競争市場において資源配分計画を行う主体が情報を十分に持っていて合理的ならば

共産主義経済パフォーマンス市場義経済のパフォーマンスは同じ。

これは1920年代から1940年代で「経済計算論争」というのが行われて、その中でオスカル・ランゲって人が証明してしまったものなのです

数学的に完全な説明がついたとされるのは別の人たちの登場を待つけど)。市場経済こそが最高の効率だっていう所に、共産主義も同じだよ?っていわれたときの衝撃は、

ガンダムでいうなら、ダカール演説でクワトロ・バジーナことジオン・ダイクンの遺児であるシャア・アズナブルアンチ地球連邦政府だけど

地球人類を粛清しようとは思っていないと知らされた時の地球人の衝撃みたいなものかと思われる(どちらも、ま、そうだよね派もいたかと思うけど)。


ということでこの衝撃は、市場を重視する経済学者達の思想を根底からさぶったんだけど、これについて有効な反論を行ったのが

池田信夫大先生でおなじみのフリードリヒ・ハイエク。彼は「資源配分計画を行う主体が情報を十分に持っている」という点があり得ないと述べ、

分権的なメカニズムである市場でなければ効率的資源配分が行えないと述べた。ハイエクは、そのような情報を一握にしようとする組織文明をも破壊する

と述べるんだけど、アムロダカール演説を知って、あ、このキャスバル地球隕石落とすに違いないと思ったはずなのと似ている(そんな描写ありません)。


さて、この論争どう決着がついたかというと、新訳版にダカール演説が消えたようになかったことになりました。結局、ランゲはこの後、どうやって情報を集めるかってことに

力を入れ、ハイエクは30年くらい冬眠させられる。戦後の2~30年主流となるのは第三の道である介入型市場経済を掲げるケインズ経済学で、それも冬眠からさめた

ハイエクに批判されるのはご存じのとおり。やっぱり重要な論点は政府情報を集約しきれないところにある。


総括すると、共産主義が駄目な経済理論的な理由は計算不可能性に帰せられ、常識的にはやはり駄目そうということになる。

はいえ、じゃ、計算できるようになればいいんじゃねと夢を膨らませることは可能である。うん、けど、情報処理能力を高めるのは無理そう。

じゃ情報処理量を抑えればいいんじゃね?人も資源もさ!なら、隕石落とせば…



追記

トラバついたこと、また、トラバついている最中に書き直した点があるので返信します。

まず、十分な情報という点を数学的にという点ですが、残念ながらこの論争はそこまで深い話に行きませんでした。

というより、私の書き方がまずく、数学証明というのは完全競争市場においてすべての財の受給を一致させるある価格存在するという

一般均衡存在数学的に証明されたことを指しています(角谷の不動点定理とかおなじみの奴ですね。院レベルの話は下段で)。

これが証明されることは、すなわちランゲの主張するように計画主体がすべての財の受給を一致させるある価格を決めることが出来るのであれば

完全競争市場で実現されるような財の配分が共産主義経済にても実現されることを指しました。

さて、本来であれば、その価格決めにおいて計画者と市場どちらがロスが少なく決められるかの論争が行われるべきでした。

しかし、上記のごとく、ランゲはその価格決めの調整過程研究に入りましたが市場との比較を行うことはありませんでした。

また、アメリカ経済学では(同じように!?市場一般均衡解が決まるまでの動学的過程への関心が1970年代以降強まりますが、

調整方法市場であるか計画であるか言及する人はいませんでした。そうしている間に、1991年ソ連崩壊し、経済学アメリカ経済学に収斂します。

残ったのは市場経済と動学的一般均衡モデル。もはや、計画者と市場という論点は消滅しました。

ということでトラバの方には、学部上級レベル齊藤先生には飽き足らずもっと深い(己の数学的才能のなさに絶望する多分一番経済学の分野でできつい)世界へ進んでもらいたいと思います

2012-12-03

鈴木敏夫ジブリ汗まみれ 2010年1月5日 庵野秀明ゲスト回その1

ナレーション

 

食事をとりながら鈴木庵野雑談

 

ナレーション

 

鈴木:いやあ、きょうはね、教えてもらいたかったんです。というのはね、『バッタ君(町に行く)』の……魅力。

庵野はい。魅力……。

鈴木:僕は正直言います告白します。お話のほうがね、なんでこういうものが作られたのかなって、見てるうちに終わっちゃったか(笑)、そこに気を取られて。アニメーション的にどうのこうのの前に、なんでこんなもの作ったんだろうって。だからきょう教えて欲しかったんです。

庵野:まあアニメーションとして好きっていうことですね。

鈴木アニメーションとして優れていますか。

庵野:そうですね……やっぱりアニメーション技術としてすごいと思いますね。やっぱ当時のアメリカは、ディズニーも、MGMも、ワーナーも、やっぱりすごいなって。

鈴木:どういう技術が優れてたの。だってバッタ君』好きだと思ったんでしょ?

庵野:『バッタ君』は好きですね。

鈴木だってEVA』を作った人が『バッタ君』を好きなんでしょ。これみんな聞いてみたいよね

庵野:画で描いて、動かす……なんていうんですかね、エネルギーみたいなものですかね。日本とはもう桁が違うぐらい当時は差があったと思いますね。1940年代ですもんね。

鈴木:41年。

庵野戦前ですもんね。もしくは戦中ですよね。

鈴木太平洋戦争が始まった年。

庵野戦前、戦中、戦後はもう、やっぱり桁が違うと思いますね。

鈴木:ああ、その時代ね。

庵野:ええ。

鈴木戦争挟んで、10年ぐらい。

庵野日本東映動画ができてからはどんどん追いついていったと思いますけど。技術的な部分とかそういうのも含めて。でもあの時代はやっぱりアメリカ世界一ですよね、アニメーション技術は。その技術集大成ひとつだと思いますね。まったく。まあ話は子供向けなんだか、大人向けなんだか、ちょっと、どっちなんだろうってとこはありますけども。

鈴木:あのー、ロトスコープっていうの、アレ? 人間の部分は。

庵野はい

鈴木:あれは正直言うとびっくりしたね、改めて見て。なんかすんげえなと思って。今のみんなが、いわゆるコンピューターでやることを、ああ昔の技術ではこうやってやったんだなって。で、それがあまりにもリアリティがあって。その対照としての虫たちがああやって描かれるでしょ。だから少しそこに世界が違いすぎるから違和感があって。

庵野:ああ、それはよかったです。

鈴木人間のほうがすごく見えちゃったんですよ、僕は。だから、いきなり虫になると漫画になるじゃない。それが、もっと人間を見たかったなって(笑)。で、それを人間がやってるんだと思うとドキドキしちゃって。脚だけしか出てこないのに。でもそれが凄かったから。やっぱり機械じゃなくて人間がやったと思うとすごく見える。それと『(崖の上の)ポニョ』じゃないけれど、やっぱりすんごい描きまくってるね。動きまくってるというか。あのー、『カールじいさん(の空飛ぶ家)』。

庵野はい

鈴木:見た?

庵野:まだです。

鈴木:見てない? ちょっと――ちょっとびっくりしたんですよ。これもね、お話じゃないんですよ。隅々までエネルギーが満ちてて。だから絵筆じゃないけれど、コンピューターでやってるんだけど、ひとりひとりのスタッフの持ってる、描きたい、動かしたいというエネルギー。すごいですね。驚きました。そして、やっぱり比較しました。いろんなところと。いま勝てないと思った。で、そういうスタッフがどんどん育ってる。ちょっとすごいです、あれは。

庵野ピクサー最近食わず嫌いやめて見るようにしたんですね。

鈴木(笑)。どうかなあって思ってたんだけれど。ピートドクターっていうの、監督のね、よく知ってたんで。ちょっと見ようかなって思ったら。ちょっと全然別のそういう感想持っちゃった。お話とかそれは、まあ、ねえ、置いといて。とにかくスタッフがのびのびと、しかもやりたいだけやってる、やりまくってる。それってやっぱり作品を色々膨らませてるよね。

庵野:いや、ピクサーはすごいですね。

鈴木:うん、だから、もしかしたら『バッタ君』も、それに満ち溢れてたのかなあって思って。

庵野アニメーターが多分好きにやってるとは思いますよ。枚数制限なく。

鈴木:一切ないよね、あれ。

庵野:ええ。

鈴木だってすごい余分なところでも動いてるもんね。

庵野:ずうっと動いてますね。

鈴木:うーん、やっぱり凄いのか。

内藤映像に音声をつけるとか、カラー化でディズニーに先を越されてしまって――。

鈴木彼女担当なんだよ。あのー『バッタ君』の担当の、あのー……なんていう名前だっけ。

内藤内藤まゆです。

鈴木:ああ、内藤っていうの。フライシャー兄弟が超えようとしたんでしょ?

内藤はい。けど最終的には越されてしまったんだけど、さっき鈴木さんが仰ってたロトスコープだったり、あとは背景に奥行きを与える、模型を使ってやることで――っていう、そういうセットバックっていう方法を考えて、ひたすら、こう、追い越せーみたいな。

鈴木チャレンジ精神が厚い人だよね。俺はね、『ポパイ』はね、見てたんですよ。フライシャー兄弟でしょ、あれ。子供ときにね、幻灯機っていうのを買ってもらって(笑)。そしたら付いてきたフィルムがね、『ポパイ』だったんですよ。それでね、初めて35ミリフィルムっていうのを見て。これで回すとさ、動くわけじゃない。それで気になるわけよ、一枚一枚の画はどうなってるのかって(笑)。それが子供ときの体験。それで初めてね、幻灯機をね、色々いじるわけ。どうして動くっていうのを思って(笑)

内藤:たしか不思議ですよね。画が繋がってるだけで。それを映しても、なんでそれが動いてるように見えるのかって、すごく不思議で。

鈴木:そうなんだよ。それで子供ながらにね、色々分解したりしてるとね、わかってきたんです(笑)

内藤:えっ、幻灯機をですか。

鈴木:そうそうそうそうそうそ(笑)。って言ってもたいしたあれじゃないけどね。『ポパイ』って、僕は昭和23年で、戦争が終わって3年後に生まれた身としてはですね、漫画って言うと日本漫画もあったけど、一方で『ポパイ』だったんですよ。そのぐらい強烈な印象で。だから、まさかその人の、あれが最後の作品? 『バッタ君町へ行く』。だから、興行的に上手くいかなかったわけでしょ。だからディズニーってのは商業的に上手くいったからね。

内藤庵野さんは、あの作品の中でどのシーンが一番お好きなんですか?

庵野:牛の住んでる楽園が、人間の手でこう次々に壊されていくスペクタクルですね。あれがすごい一番。ええ、工事のシーンですね。工事の車とかシャベルとか無機質さと、この右往左往する虫の動きの、このコントラストっていうんですか。そういうのも含めて、大スペクタクルですね。手で描くのを知ってると「よくまあこんなのを……(苦笑)」とは思いますね。それだけでも、もうすごいと思いますね。

内藤鈴木さんは好きなシーンありますか。人間以外で。

鈴木:俺? 俺はねえ、あの屋上へ行ってね、こうやってアメリカは滅びて行くんだなあっていう(笑)

庵野:結局、楽園ですらも人の手で人工的に作られないと虫は生きていけないっていうことですね。

内藤:当時はもう、ああいう高いビルはいっぱいあったんですか。

鈴木アメリカはそうなのよ。エンパイアステートビルをはじめ、いわゆる高層ビルアメリカの象徴だったから。相当昔から造られてんだよね。いわゆる地震の少ない国だったから。

庵野:なぜ「町」だったんですかね、あれね。

内藤タイトルですか。

庵野:まあタイトルもそうだし、なぜ町を舞台に虫の話をしたんだろう。

鈴木:うーん……。だからまあ多分アメリカっていう国が大きな変化を遂げていった、1950年代、大繁栄を迎えるわけだから。その大繁栄のなかでアメリカ人が見失っていくもの? そこらへんのを予感したんじゃないかな。

内藤:すごい不思議だったんです。そんなに歴史詳しくないんですけど、真珠湾攻撃の直後に公開してるのに、なんでこんな平和というか、一見呑気な話が作れるのかなって。

鈴木世界大恐慌ってあったじゃない、1929年。結局アメリカの、ねえ、そういうのから始まるわけでしょ。それで結局色々やったけれど、ニューディール政策その他。アメリカ復興できなかったんですよ。ところがヨーロッパ戦場になることによって、その恩恵に預かって、それでアメリカ復興していく。結局その戦争を待つことによって景気回復したんだよね。だから、やっぱりこの映画が作られたころ、アメリカは非常に豊かだったんですね。方や日本は、っていう。貧しい国でしょ。小さな国で。やっぱり宮さん(宮崎駿)なんかもね、およそアニメーションを目指す者はこれを見なきゃ始まらないみたいなそういうコメントを寄せて。

庵野:まあ僕はそう思いますね。少なくともアニメーターは見て損はないと思いますね。

鈴木:なんか、ここのシーンだっていうところはあるの? ここがすごいって。

庵野:全編すごいですけど、やっぱり最後クライマックスの壊れていくところ。あの虫のモブを一枚一枚描いている。

鈴木:頭おかしいよね、あれ。

庵野:あれは凄いですね。

鈴木:俺、どっちが先か判らないけれど、僕は……誤解も与えますが、宮さんの一番すごい仕事って、やっぱり『ホルス(太陽王子 ホルスの大冒険)』だと思うんですよ。最後モブシーン。あれ宮さんだよね。いろんな人が縦横無尽に動く。それで空間がどんどん広がっていく。あれはちょっと舌を巻くんですよ。

庵野:宮さんのモブは本当にすごいですよね。

鈴木:うん、それで……あれ以来見たことないんだよ(笑)

庵野:やっぱり若いというのはね。

鈴木:いやー、あれはすごいよね。

庵野:すごいです。

鈴木:こんな風に人がね、動いて、しか人間の手で描いて、こんなシーンが作れるのかって。最初に見たときラストシーンどういう人がこの画を描いたんだろう、設計をしたんだろうって。それで後で聞いてね、やっぱり宮さんだってことがわかって。うーん、「すごかったんだなあ」なんていうと怒られちゃうけれど(笑)

庵野:いやあ、アニメ-ターとしては超一流ですよ。『(空飛ぶ)ゆうれい船』とかも好きですけどね、宮さんの仕事だと。

鈴木:やっぱり過不足なく描いてたものね。

庵野東映で、ここはすごいっていうところは大体宮崎駿原画のだったりしまからね。

鈴木:ああ、なるほど。……宮崎駿のことはいつ知ったの?

庵野:「アニメージュ」だと思いますけどね。

鈴木:じゃあ大学生とき

庵野大学……いや、高校のときですね。意識したのは『(未来少年コナン』ですね。その前も好きでは見てたんですけど、なんだろう、ちゃんと見るようになったのはやっぱり『コナンからですね。

鈴木リアルタイムで見たの?

庵野リアルタイムですね。妹とチャンネル権の争いで、なんとか。

鈴木:えっ、裏になんかあったの?

庵野:裏は『(女王陛下の)プティアンジェ』っていうアニメが。

鈴木:『プティアンジェ』ってのがあったの(笑)

庵野NHKからっていうのでなんとか親を説得して。

鈴木:「NHKから(笑)

庵野1話を見たら、親が続きを見たくなってくれてですね。そのあとは毎週ちゃんと見れるようになった。それまでは『プティアンジェ』でしたからね。

鈴木:そうなんだ(笑)

庵野:『プティアンジェ』、オープニングだけ見ればいいんだって

鈴木:そうなんだ。……それ以来ずっと注目してるの?

庵野:そうですね、あとは『カリ城ルパン三世 カリオストロの城)』ですね。

鈴木1978年、79年か。

庵野:あれは劇場に見に行きましたね。

鈴木:満足しまたか

庵野:2回見ましたね。僕のほうは田舎だったので同時上映があって、そのあいだはロビーに出て。

鈴木:『カリオストロ』はねえ、たしかにねえ。僕が初めて(宮崎駿に)出会ったころです。

庵野:いいですよね。

鈴木:よく働いてた……。

庵野:あれが(制作期間)半年ってのはやっぱりすごいと思います

鈴木:作画4ヵ月だもんね。

庵野:ええ、あのスピードはすごいですね。

鈴木会社から言われたのは3ヵ月で、それで1ヵ月余分にもらって。

庵野:あとでなんかあって「もう1ヵ月あれば」って言ってました。

鈴木だってコンテ描き直したもんね、あのローマ水道のとこ。

庵野:あそこは僕にもなんか悔しいって言ってましたね。

鈴木:でも宮さんって、そういうときに描き直す人なんだよね。

庵野:まあ現実的でいいですよね。できる範囲のものに落とし込むっていう。

鈴木:だから……見てて、よく宮さんがね、「理想を失わない現実主義者」って。これ宮さんも言うし、実は元は高畑(勲)さんかなっていう気もするんだけど。ふたりともそうなんだけど、その理想現実の――なんて言ったらいいかな。微妙ふたり違うんだよね(笑)微妙に違うんだよ。

庵野高畑さんはそんなに詳しくないんで……。

鈴木:よく知ってるくせに(笑)

庵野:でも、こわい人だとは思いますけどね。

鈴木:でもよく覚えてるんだけど――『ホルス』だとね、村があるんだけど、一人狡猾なおじさんがいるじゃない。その人がいることによって村が成立している。(『風の谷のナウシカ』の)風の谷の方はね、300人くらいいて、ああいう悪い人がひとりもいない。

庵野:ええ、みんないい人なんですよね。

鈴木:一種、理想主義に貫かれてるでしょ? それで映画見るとね、高畑さんは一方で現実映画のなかに入れようとするし、宮さんはその現実は置いといて。ところが映画作り始めると、宮さんは間に合わないと思ったらコンテを変えてでもその映画を完成させようとするっていう現実主義があるのよ。高畑さんは違うんだよね。

庵野:変えないですよね。

鈴木:変えない。それで遅れたときもね、「それは僕には責任ない」と。「それはプロデュースサイドがコンテができたときに把握してるべきだ」って貫くんだよね。映画のなかは非常に現実主義なのに、映画のなかは。やり方は理想主義というか(笑)

庵野:まったくです。

鈴木:でもふたりのそういう差って、なんですかこれは。

庵野:なんですかねえ。

鈴木:で、宮さんなんかは非常に面白いって思ったのは、結局、『ホルス』作ったあと、それこそ『コナン』もそうだけど、『ナウシカ』もそうだけど、『ホルス』をひきずるでしょ?

庵野はい

鈴木高畑さんは違うんだよね。全然違うものを作り始めるんです。

庵野:まあ宮さんのほうが根っこがいい人なんじゃないですか。

鈴木高畑さんに聞いてみたことがあるんですよ。なんでファンタジーやらないのか、って。そうしたらやっぱり『ホルス』で創造できるもの創造し尽くした、と。でも、唯一その世界に持ち込めなかったのが『思想』である、と言ったんだよね。そうするとファンタジーっていうのはそれが出来る人がやらなきゃ意味がない、それが自分の総括だ、って。僕が聞いて、高畑さんいまになると違うって言うかもしれないけど、すごい印象に残って。だから宮さんが『ホルス』をひきずって。なんかっていうと『ホルス』みたいなのに戻るでしょ、宮さん。

庵野:ええ、基本はそこですよね。ずっと『ホルス』のリメイクをしてるようなね、感じがしますよね。

鈴木宮崎……オタクとしてはどう思いますか? なんつって。オタクじゃないか(笑)

庵野別に宮さんオタクじゃないですよ。

鈴木(笑)。でも面白いよね、そういう宮さんも『バッタ君』のアニメーションの部分って非常に着目してるし。

庵野:やっぱり宮さんは基本アニメーターからだと思いますね。僕もアニメーター上がりなので。

鈴木:やっぱそこなんだね。

庵野:今でもやっぱり原画とか動画とかやっちゃいますよ。

鈴木:ああ、自分で。

庵野:ええ。間に合わないときは。

鈴木:宮さんがいま、原画やってるんですよ、自分で。やり始めたんです。本編やってるでしょ、それでその横で美術館用の短編やってるんだけど、「スタッフがいない」って。最初1分でやるって言ってたのが10分になるからいけないんだけど。老骨に鞭打って。でも結構楽しそうに。でももう69なんだよ。アニメーターっていつまで描けるんですか?

庵野:目と手が動けば大丈夫じゃないですか。

鈴木:手が動けば大丈夫? 本人もう動かないって言ってんだけど(笑)

庵野:やっぱり、目と手ですよね。

鈴木:目は大丈夫なの?

庵野老眼きました。

鈴木:ああ老眼が。もう50になったんだっけ?

庵野:まだです。いよいよ。50代なんて来るとは思いませんでした。

鈴木:宮さん喜んでるよ。「庵野っていくつになったの」って言うから「もう50だと思いますよ」っつったらすごい嬉しそうに。

庵野(笑)

鈴木:「そうか!」つって。「歳取れっ」って。「俺の苦しみがわかる」とかなんか言っちゃって(笑)

庵野:僕が50になったら宮さん70じゃないですか。

鈴木:でもみんな……歳を取ってきたんですね……。

内藤:その宮崎さんが「アニメーターをやる奴は見ておくべき」っていうインタビューをしたときに仰ってた言葉を(『バッタ君』の)宣伝の柱にしてたんですけど、やっぱりアニメーターを目指す方って一部じゃないですか。

庵野:すごく少ないと思います

内藤:もちろん、その人達にはできれば来て欲しいとは思ってるんですけど、やっぱりそれ以外の人に、どう魅力というか、アニメーターは目指していないけどちょっと気になるとか、そういう人に来てもらえるのかなっていうのを考えていて。どうしたら人の心に響くようにできるんですかね。

鈴木:あの作品を?

庵野:僕が『バッタ君』を宣伝するんだったら、ビデオで宮さん撮って、それをテレビで流しますね。ワイドショー枠的なものとかで。それぐらいだと思います。だからバッタ君』を流すよりは宮さん流しますね。それでこっちにちっちゃく枠でそれを流して、なんか宮崎駿お墨付き、これ、っていう。そういう風に。

内藤:そこだけ切り取って。

庵野調子のいいとこだけ切り取って、もう編集して。もう、ほぼ捏造でもいいから、そういう風にして流しますね。それで、あとで宮さんには謝ります。ごめんなさいって。

内藤鈴木(笑)

(以下に続く)

http://anond.hatelabo.jp/20121204035509

2012-05-04

http://anond.hatelabo.jp/20120504140507

光線除去と物理除去の比較研究があるということは、前提としてある手法有用性を検証するためには比較研究をする必要がある、という合意歯医者世界にも成立しているわけだよ。

それなら歯石除去の有用性の比較研究もあると考えるのが自然じゃねえの。そこから延々と積み上げて現代に至ったと考えるのが常識的な推論ってもんじゃねえの。

もっとも、そういう古い論文検索ネット検索の最も苦手とするところではある。1940年代論文とかデータベースに入ってない可能性すらある。だから調べるとなると図書館に行って一日仕事になるかもしれず、正直おれも少々腰が引けないわけでもない。

それから最先端医学が後になって否定されていく、というのはあるだろうが、すべてが否定されているわけではない。自然に沿わせるというのは医療行為すべてを否定するってことだよね。

それともいいとこどりをするってことか。開業助産師が「自然なお産」とか言って自宅分娩勧めるようなものか。やばくなったら救急搬送的な。

2012-01-27

村上春樹の猛々しい想像力 (1/3)

Sam Anderson

2011年10月21日

訳注:長文注意。誤訳あったらごめんなさい。教えてもらえたらあとで直します)

1 - 2 - 3

この夏、私は初めての日本への旅行を企てた。

村上春樹の作品世界にほぼ浸りきってやろうというつもりだった。

ところがその目論見は外れることになる。

私は村上の作品の影響下にあるまま、東京に降り立った。

期待していたのは、バルセロナパリベルリンのような街だった。

そこでは、市民はみな英語が達者で、さらにはジャズ劇場文学シットコムフィルム・ノワールオペラロックといった、

西洋文化のあらゆる枝葉に通じている……そんなコスモポリタン世界都市を私は期待していた。

誰かに聞いておけば分かっていたはずなのだが、実際の日本はまったくそんな場所ではなかった。

実際に足を踏み入れることができる日本は、どこまでも頑固に、日本的だった。

そう思い知らされたのが地下だったというのは、我ながらよくできていたと思う。

東京での初めての朝、私は村上の事務所に向かっていた。

アイロン掛けたてのシャツに包まれ、なんの躊躇もなく地下鉄の駅へと降りて行くや否や、

私は迷子になり、助けを求めようにも英語話者を見つけることができなかった。

最終的には(電車を乗り間違え、馬鹿げた値段の切符を買ってしまい、必死のジェスチャーで通勤客を怖がらせたあと)、

どうにか地上に出てはみたものの、もはやインタビューの時刻はとうに過ぎている。

私は絶望して、目的もなくあちらこちらへとさまよい歩いた(東京にはほとんど標識がないのである)。

そして蜂の巣状のガラスピラミッドのような建物の前で途方に暮れていたとき

ついにユキという村上アシスタントに見つけてもらうことができた。

このようにして私は東京の地下の洗礼を受けたのである

まりにもうかつな、アメリカ人的な私は、村上のことを現代日本文化を忠実に代表する人物として考えていた。

実際には彼は私が思っていたような作家ではなく、日本は私が思っていたような場所ではなかった。

そして両者の関係の複雑さは、翻訳を介して遠くから眺めていたときには想像しえないものであることが明らかになっていった。

村上の新作『1Q84』の主人公の一人は、自らの人生最初記憶に苛まれており、誰に会ったときにも、あなた最初記憶はなにかと尋ねる。

やっと村上に会えたとき、私は彼の最初記憶について尋ねた。

それは3歳のとき、初めて家の門の外に歩き出したときのことだという。

彼は道をてくてくと渡り、溝に落ちた。

流されていく先にあるのは、暗く恐ろしいトンネル

そこに差し掛かろうかというとき、母が手を差し伸べ、彼は助かった。

「明確に覚えている」と彼は言う。

「水の冷たさ、トンネルの闇、その闇のかたち。怖かった。僕が闇に魅かれているのはそのせいだと思う」

村上がこの記憶を語るとき、私は既視感とともに心の中でくしゃみをするような気持ちを覚えた。

その記憶には聞いた覚えがある、いや、不思議なことにその記憶自分の中にある、と感じた。

ずっとあとになって分かったことだが、私は確かにその記憶を持っていた。

村上は『ねじまき鳥クロニクル』の冒頭の脇役に自分記憶を写し込んでいたのだ。

村上を初めて訪問したのは、日本にしてもありえない夏の厳しさの最中

週の真ん中、蒸し蒸しする午前中のことだった。

それは非現実的なまでの災害の余波を受けた夏だった。

4ヶ月前に北日本を襲った津波で2万人が命を落とし、

いくつもの街が破壊され、原子力発電所メルトダウンした。

その結果、電力、公衆衛生メディア政治にも危機が到来した(当時の首相の辞職によって、5年間に5人目の首相が生まれることになった)。

日本を代表する小説家である村上に会いに来たのは、

大作『1Q84』の英語訳(そしてフランス語訳、スペイン語訳、ヘブライ語訳、ラトビア語訳、トルコ語訳、ドイツ語訳、ポルトガル語訳、スウェーデン語訳、チェコ語訳、ロシア語訳、カタルーニャ語訳)について話すためだった。

この本はアジアで数百万部を売り上げ、

まだ翻訳が出ていない言語圏ですらノーベル文学賞の噂が囁かれていた。

62歳にして30年のキャリアを持つ村上は、日本文学最高峰としての地位を確かなものにしている。

疑いなく、彼は母国の表層とかたちを世界に伝える、想像世界大使となった。

そのことは、関係者には非常に大きな驚きだったと言われている。

村上は常に自分日本アウトサイダーだと考えている。

彼は不思議社会環境最中に生まれた。

アメリカによる戦後占領を受けた1949年京都日本の前首都である

「これ以上の文化混交の瞬間を見つけるのは難しい」と John W. Dower は1940年代後半の日本について書いている。

「これほど深く、予測不能で、曖昧で、混乱していて、刺激的なものは他にない」という。

「瞬間」を「フィクション」に置き換えてみれば、村上の作品を完璧に説明することができる。

彼の物語の基本構造は、互換性のない複数の世界に根を下ろした普通の人生であり、

それはそのまま彼の最初人生経験の基本構造でもある。

村上は成長するまでのほとんどを神戸郊外で過ごした。

そこは、さまざまな言語の喧騒に包まれた国際的な港湾都市である

彼はアメリカ文化、とくにハードボイルド探偵小説ジャズに没頭して十代を過ごした。

そうして反逆のクールさを自分ものにし、

二十代のはじめには大企業の序列に入り込む代わりに、髪を伸ばしヒゲを生やして、両親のすすめを押し切って結婚し、借金をして「ピーターキャット」というジャズクラブ東京で開いた。

掃除をして、音楽を聞いて、サンドイッチを作って、酒を注いで、

彼は約10年間をその仕事に費やした。

作家としての村上キャリアの始まり方は、彼のあの作品スタイルそのものだった。

どこまでも普通の設定で始まり、どこからともなく神秘的な真実が主人公に降りかかり、その人生根底から変えてしまう。

29歳の村上地元野球場の芝生でビールを飲みながら、デイヴヒルトンというアメリカ人助っ人バッター二塁打を打つのを見ていた。

平凡なヒットだったが、ボールが飛んでいくのを見て村上天啓に打たれた。

自分小説が書けると気づいたのである

そんな望みはそれまでなかったが、いまや圧倒的なまでだった。

そして彼は書いた。

試合が終わった後、書店に行きペンと紙を買って、

数ヶ月のちに『風の歌を聞け』を書き上げた。

それは名もなき21歳の話し手が語る小さく凝縮された作品だったが、冒頭から村上らしさが見えていた。

アンニュイとエキゾチシズムの奇妙な混合。

わずか130ページで、その本は西洋文化をぶつ切りにして引用してみせた。

名犬ラッシー』、『ミッキーマウスクラブ』、『熱いトタン屋根の猫』、『カリフォルニア・ガールズ』、ベートーベン第三ピアノ交響曲フランス映画監督ロジェ・ヴァディム、ボブ・ディランマーヴィン・ゲイエルヴィス・プレスリー、『ピーナッツ』のウッドストックサム・ペキンパーピーターポール&マリー。

以上はごく一部に過ぎない。

そしてその本には(少なくとも英語訳には)日本芸術引用がまったくない。

村上作品のこうした傾向は日本批評家をしばしば苛立たせている。

村上は『風の歌を聞け』を権威ある新人賞に応募し、受賞した。

そして一年後、ピンボール機を取り上げた次の小説を出したのち、執筆時間のすべてを費やすため、ジャズクラブを畳んだ。

時間のすべて」という言葉には、村上にとっては余人とは異なる意味がある。

30年を経て、彼は僧侶のように統制された生活を送っている。

すべてが作品を作り出すのを助けるように調整されている。

彼は毎日のように長距離を走り、泳ぎ、健康的な食生活を送り、夜9時には床につき、朝4時に起きる。

そして起床後5、6時間は机に向かい執筆に集中する(2時に起きることもあるという)。

彼は自分の事務所を監禁場所だとみなしている。

「ただし自発的な、幸せ監禁だけれど」

「集中は僕の人生もっと幸せものだ」という。

「集中できないとき、人はあまり幸せではない。僕は考えるのが速くないけれど、何かに興味を持てば、それを何年も続けられる。退屈することはない。僕はヤカンのようなものだ。沸かすのに時間はかかるけれど、いつまでも熱い」

そうした日々の湯沸かしが続いていって、世界でも類まれな作品群ができあがった。

30年の歳月を経て積み重ねられたそれには人を虜にする不思議さがあり、様々なジャンルSFファンタジーリアリズムハードボイルド)と様々な文化日本アメリカ)をつなぐ位置にある穴を埋めている。

どんな作家にも、少なくともこれほど深くまでは、埋められなかった穴だ。

時とともに村上小説は長くシリアスになる傾向が強くなった。

シットコム引用もその傾向に調和している。

そして今、とりわげ激しく長い湯沸かしの結実として、もっとも長く、奇妙で、シリアスな本が上梓された。

低く深い声で村上たくみ英語を操る。

彼は翻訳者を通して会話するのが嫌いだという。

なまりは強く、落ち着くべき箇所で動詞の活用が劇的に現れたり消えたりする。

はいえ相互の理解に支障を来たすことはまずない。

特定の熟語("I guess" 「ではないか」、 "like that"「というような」)が、ときたまおかしな位置で使われることがある。

安全言葉いから逸脱するのを楽しんでいる節が彼にはあった。

英語即興の遊びをしているように感じられたのである

私たちは東京にある彼の事務所で席を持った。

その事務所は半ば冗談ながら村上製作所と名付けられている。

数人のスタッフが靴を履かず他の部屋で作業をしている。

村上は青いハーフパンツと半袖のボタン付きシャツで現れた。

彼のキャラクターと同じように、アイロン掛けしたばかりのように見えるシャツだった(彼はアイロンけが好きだという)。

靴は履いていない。

彼はペンギンのある本の表紙を模したマグカップブラックコーヒーを飲んだ。

その本とはレイモンド・チャンドラーの『ビッグスリープ』、彼の昔からお気に入り小説であり、今日本語訳をしている小説でもある。

話を始めながら、私はあらかじめ用意していた『1Q84』をテーブルの上に置いた。

村上純粋にびくっとしたようだった。

その本は932ページあり、ほぼ30センチのその厚みは本格的な法律書を思わせるほどだ。

「大きいな」と村上は言った。

電話帳みたいだ」

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