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2017-02-16

いまのはてなブックマーカーのなにが嫌かって、互助会以上に

自分の頭で30秒もろくすっぽかんがえてもいないゴミゴミクズのくせに、

脊髄反射自分にとって心地いい方向に他人を捻じ曲げようとするサイコパスっぷりを発揮しつつ、

言語化した自分によって自省することなしに絶頂に達してるとこなんですよ。

そこから進化して自分にとって心地いい方向に他人を捻じ曲げるために

知識屁理屈や、統計を元にして相関から因果関係を導く誤誘導などで誤魔化すクズことはてなブロガー記事を見て、

自分にとって心地よけりゃ同意してそれが結論であるかのように思い込むし、

自分にとって心地悪けりゃ殺す勢いで否定しまくってスッキリするし、

おまえ情報を得てなんにも変化する気ねぇなら意味ねぇから死ねよという感想しか湧かないんですよね。

他人の考えをどうにかしたくてコメントを書いてる人そんなにいるのだろうか。自分に関わりの無い人になんらかの攻撃をされていると思ってしまうのは、心が疲れている証拠なので、お大事にしてほしい。 - sisya のコメント / はてなブックマーク

自省したことのないクズ自分発言がどういうところから出てくるのか考えたこともないのだとよくわかるな

しかもなぜか俺が捻じ曲げられる側の人間に違いないという脳内妄想全力で振りかぶっちゃう論理性のなさね

他人に影響を与えようとしてないならどうぞさっさと非公開にしてくださいね

他人のコメント見たらそれが全部他人の意見を捻じ曲げるためだと判断するとかどんだけ感受性豊かなんだ。まずネット上の意見なんて指向性ないもの腐るほどあるし、みんなそんな簡単に影響受けねえよ。 - moko_chan のコメント / はてなブックマーク

他人コメント見たらそれが全部他人意見を捻じ曲げるためだと判断するとかどんだけ感受性豊かなんだ

「私はコメントを見たらそれがすべて他人意見を捻じ曲げるためだと判断している」とはどこにも書いてないんですが。

論理性がないアホは脊髄反射コメントするから命題を踏まえた意見を述べられないんだとよくわかるな。

ネット上の意見なんて指向性ないもの腐るほどあるし

はてブの話をしてるんですけど?

あと他人を捻じ曲げようの部分にしか反応してないバカ多いけど

30秒もろくすっぽかんがえてもいない脊髄反射コメントして言語化した自分に酔って自省することなしに絶頂に達してるということや

自分にとって心地いいかいかコメントしてるクズばっかという事実はお認めになってくれてるんですかね?

2017-02-13

夢は南海トラフ上野女史への反感―

本来、三大命題二つ目を書きたかったところだが、こちらの問題を先に論じさせてもらう。


この論考は以下のURLにたいする一人の若者から反論である

https://togetter.com/li/1080097

以上の新聞記事で、上野女史は「経済犠牲にしてでも、平和国家として衰退すればいい」と主張している。

この主張にたいする批判等は、本職の社会学者に任せるとして、ここでは私の純粋なる反感について述べていきたい。

平和国家という「ファンタジー

上野女史は無邪気にも、戦後日本を「平和国家」としてとらえている。

この考えはまったくの見識違いといわざるをえない。


そもそも、戦後日本社会体制1940年代の「総力戦体制を「経済最優先」の形として再編したものである

扶養控除、源泉徴収終身雇用制、護送船団方式のすべてが元々「戦争を想定して」造られたものだ。


社会実態についても、「平和」と呼ぶにはほど遠い。

1950~60年代には、「高度経済成長」の美称の裏で、世界でも稀にみる学生運動市民運動社会不安が吹き荒れていた。

70~90年代にかけては、家庭や企業社会体制のガタが入り、人々を「死へと誘う」システムへと変貌していった。

これが少年非行いじめ過労死などの狂気的な状況を引き起こした。


戦後日本とは、世界的にも稀にみるただの「ゆたか社会である

まったく「平和」でも「民主的」でも「自由」でもなかった。ただただ「ゆたか」だっただけである

後期近代―不確実な私、国家社会

しかも、「ゆたか社会」は90年代2011年にかけて完全に崩壊した。

まず、政府安全神話が崩れ、

企業身分制保障崩壊し、

最後に、原発事故とともに社会安全神話が吹き飛んでしまった。

この事実について語らない者はすべて、今の時代にたいして不誠実である


では、現在社会とはどのような社会なのか。

それはギデンズやバウマン、ジョッグ・ヤングなどを見てもらえば分かるが「流動的、効率的である

企業におけるセーフティーネットが「生産性自己実現神話」の名のもとに縮小され、

パートフリーターという不安定生活者が生まれた。

政府が担っていた安全保障は「構造改革」の名のもとに縮小され、

監視カメラSNS監視なしに、人々は安心して生きることができない。

不誠実な脳科学認知神経科学AI研究によって人間という「私」の特権性が失われ、

人々は常に失職と人間尊厳消失心配するようになっている。

そして、このような多様な人々が同じ町で同じように暮らしている。


このように、後期近代社会とは

当たり前だったものがすべて崩れ去り、人間永遠の虚無へと投げ出すのである

相対的剥奪感と存在論不安

このような状況では、人々は二つのレベル不安を抱えることになる。

一つは生活レベル不安相対的剥奪感―

もう一つは存在レベル不安存在論不安

である


私たち人生ほとんどを仕事をして、生きている。

しかし、その仕事価値が急速に低下してしまった。

人生の多くを占める活動である仕事にふさわしい「対価」が支払われなくなってしまった。

一方、ただ一日中パソコンを見つめて投資とやらというギャンブルをするだけでも「対価」を得られる人々もいる。

この二極化する現実は人々に

「不当な地位にいる!」

「ふさわしい金額、敬意をもらっていない!」

という相対的剥奪感を抱かせる。


また、後期近代社会はいわゆる「コミュ力」の高い人々が成功する。

軽薄に仕事にたいする敬意なく、強者追従する人々が「評価」され、グローバルエリートとして出世していく。

そして、仕事に真面目ながらも報われない弱者は常に「自己批判」と「変革」を迫られる。

二極化する現実に人々は「私は人間らしい扱いを受けていない」という存在論不安を抱かせる。


しかに、ここであげた例は極論である

しかし、似たような体験をする人は多いだろう。

そして、人々はつねに不平不満をもらすのだ。

「私はこうなれたのに……」

「私もこうしたかった……」

ここでは深く述べないが、この可能性としての私=‹他我›にたいする深い怒りの感情現代社会不安の核心にあるように思う。

上野女史は「みんな貧しくなる」ことによって、この怒りを無くせるなんて無邪気にも思っている。しかし、それは不可能である

この感情こそが永遠の虚無において、私を生きることのできる唯一の鍵だからである

夢は南海トラフ赤木理論の失効―

――常に人々に嫉妬を抱かせながら、その嫉妬を用いて欲望を加速させる。そして、その嫉妬を全身に受ける者は高笑いしつづける。


このような後期近代グロテスクさに最初に抗議をあげたのが赤木智弘だった。

彼はある論考で「夢は戦争」とドゥルーズ的な集団自殺理論を主張した。

しかし、私は「戦争」を夢にはできない。

今や「戦争」こそが「富裕層」を富ませ、「貧困層」を殺すことを知っているからだ。

今や「自殺」ですら「富裕層」を富ませる資本である

加藤智大植松聖などの社会的自殺者は、情報として処理され資本となる。

そして、情報となった「自殺」は「貧困層」による社会転覆不可能性を解き、

「後期近代」の隊列にから逸脱しないことを促進させる。

後期近代において、「自殺」こそが「富裕層」へのもっと積極的な「支援行為なのだ


私の夢は「南海トラフである

防ぎようのない「天災」によって、

嫉妬の中心地である太平洋ベルト東京

ありとあらゆる社会資本が壊され、嫉妬の根源が無化される。

私はベンヤミンのいう「法維持暴力」に立つ者であるが、

この瞬間を心の底から待ち望む。

私はそのとき、心の底から嗤うことができるだろう。

109崩壊し、秋葉原が灰塵に帰し、大手町サーバーがダウンし

白金の御婦人たちが焼け出され、お台場の子どもたちが押しつぶされるとき

後期近代はその柔らかな恥部を表出する。

私は笑顔でその恥部憎悪の限りをぶつけてやり、

後期近代を殺し、末期近代を出現させてやるのだ。


そのときに来るのが、

東のいう変質したファシズムなのか

笠井のいう生存のためのサンディカなのか

佐藤のいう無慈悲アナーキズムなのか

知ったことではない。

私が心の底から嗤いたいのである

相対的剥奪感や存在論不安に晒されることなく嗤いたいのである


そして、私は嗤いながら確信する。

東北の「土」と「血」が正しかったことを

東京の「コンクリート」と「鉄道」が虚妄であったことを


このような自己破滅願望について納得する解答を提示できない上野女史に

後期近代現代社会を語る権利はない。

彼女はせいぜい自らの理念後生大事に背負って、大学瓦礫に押しつぶされて死ぬのがお似合いだ。

2017-02-10

[]神あるいは物語絶対的命令者―後期近代の根源的難問

この命題はこれから語られる三つの命題いちばん根本位置する第一命題である

神は存在しない。

神は存在しない。

私たち私たちの外側から定め、その実在保護してくれる神というもの存在しない。

私は私のみの神、物語絶対的命令者を信じている。

今まで神が存在したのは各々の神が一致していると思っていたからだ。

私はこの神を「表象としての神」と定義しようと思う。

しかし、私たちは神を信じる。

神は存在しない。

しかし、私たちは神を信じる、「表象としての神」を。

私たちは神を信じることで繋がることができる。

各々が各々を各々の世界繋ぎとめ、各々を各々として生かすことができる。


しかし、この連帯は時として息苦しく感じられる。

なぜなら、それは私たち可能性を封じ、まったく不自由ものにするからだ。

私たちは神を殺して自由になった。

そのため、私たちはこの連帯から逃れたいと思うようになった。

それは近代という神によって、考える葦という自己認識を与えられたからだ。


しかし、人々はこの知恵を授けられた瞬間に、呼吸不全になった。

今まで吸っていた連帯空気を吸えなくなり、

自由空気を求めるようになったかである

そのために、私たち個人は一致して、近代という神を自らの不信によって殺した。

私たちは虚無に解き放たれた。

私たち個人自由になった。


しかし、私たち個人造物主を失った途端に、この世界を失った。

私たち個人連帯は神を殺したときから消滅し、

私たち個人意味はなくなり、

私たち個人実在は虚無に解き放たれた。


私たち個人保護してくれる神はもういない。

私たち個人の足場はもう存在しない。

私たち個人証明してくれるものはもう何もない。


私たち個人は今、究極の虚無に、剥き出しの世界に相対している。

私たち個人は一時として安心することはできない。

から神殺しは神を求める。

から神殺しは神を求める。


私たち個人世界を取り戻すために、

失われた過去を取り返し、

約束された未来を取り返すために。

 

神殺し神殺しを許してくれる神を求める。

時に神擬きに騙されるかもしれない。

神なんていないと斜に構えたくなるかもしれない。


しかし、私たちはそれでも神を求めざるを得ない。

私たち意味を与えてくれる確固たる存在がなければ、

私たち私たち存在すら確固たるものとして捉えることができないのだから

2017-02-02

友達やめた話

何ヵ月かに一度、相談を持ちかけてくる友達がいた。

その内容は何年も前から

『痩せたいかダイエットしてるの、でもおやつがやめられない』というような話だ。女性によくある話だね。

痩せたいとか言うなら食べなきゃいい。もしくは運動しなよとしか思わない。

私はダイエットしたことはあまりないし、彼女アドバイスを求めているのではなくだらだら自分語りをしたいようだった。(たぶん)

いろんな話題を挟みつつだらだら話を聞いて、またしばらく音信不通になる。そんな友達とも言い切れないような薄い交流が5,6年続いていた。私は人の話を聞くのが好きだったか特に苦ではなかった。特に返信も急かしてこないし。

その間お互い大学卒業し、就職もして、生活がどんどん変わっていっても彼女相談内容は変わらないのだ。ずっと痩せたい~食べたい~

いい加減うんざりしてきた。彼女は一生この悩みを熟成させて生きていくつもりなんだろうか。

女性にとっての命題であることは理解できるのだが何分異性のわたしには何度語られても理解できない。女子会ツイッターでやってくれ。

先日も同じことを垂れ流していた彼女に私は

『何度言われてももう私には同じ返答しか出来ない、痩せたきゃ食うな』

彼女の返答は

『女はみんなそうなの‼ホルモンバランスとかあるし、チョコとか目の前にあったら我慢できないの!』

続けて『あなた彼女だってそうでしょ?あなたの知らないところで暴飲暴食してるよきっと。そのうちすぐデブるよ』

女性はみんなそうなんだからわたしがそうでも仕方がない。

知るか!

会ったこともない私の恋人のことを引き合いに出されたことにいらっとした。私に恋人ができてからたまにこういうことを言うのだこいつは。

不快に思う旨を強めの口調で伝えた。たぶん彼女に怒ったのは初めてだと思う。

彼女は『あれ?怒った?( ´∀`)』

私は重ねて恋人バカにされて不快でないはずがないとキレ気味に伝えたのだが彼女の返答は『そっかーごめん!で、別の相談があるんだけど~…』

そこから返信していない。

どうかな、こうやってかけばあなたにも少しは私の気持ちがわかるだろうか。

私が何に怒ったのか分かっていないようだったけどもう言葉を尽くす気力がなかった。

わたしには彼女がいながら他の女性モテたい気持ちはわからないし、もう聞きたくもない。どうやったらうまくいくかなんてアドバイスできないし、したくもない。

彼女大事にしたいし結婚したい、でも他の女性とチャンスがあればその事について相談してくるあなたを心底理解できない。よく何年も同じようなことやってて飽きないね

これなんなの?彼は何を思って私に言ってくるの?わかるひと教えて。

あー疲れた

2017-01-24

http://anond.hatelabo.jp/20170124101432

いやだから抽象的にでもどんな事実があるのかと。根拠云々以前に判断基準ってものがあるでしょ。

いやだから抽象的な判断事実はないだろアホか。世間一般基準で見て抽象的にマイナスだということを述べた上でその要因を考察してるわけでしょ。

30代・40代マイナス評価20代以下と50代以上をプラス評価しているとするならば、その評価点は何なのか。

「Aがマイナスだ」という命題を述べると「A以外はプラス」だという命題帰結できるとかちょっとオツムが足りてない人だと確信されてしまうからやめておこうな。

自営業比較的早くに影響があったけど、バブル崩壊当時ってそんなに大事になると思われてなかったんだよ。あくま一時的不況で、まあ3-4年で日本経済ももう一度波がくるだろうと楽観視されてたので、サラリーマン給与についてはしばらくの間手を付けられていなかった。そこから日本の歴史を知っている感覚過去を振りかえると、バブル崩壊の瞬間に何もかも変わったように思えるかもしれないけど、俺の記憶ではかなりの間、楽観視して、ぼやぼやして何も手を打たずに数年放置されてたの。少なくとも、バブル崩壊が直接的に生活に影響を与えるまでにはタイムラグがあった。投資レベルではバブル崩壊からマイナス局面に入っているけど、生活レベルとしては消費者物価指数デフレになった1998年くらいからが、自分感覚としてもバブル崩壊のヤバさが生活に出てきてた感じ。

98年デフレ指標悪化消費税ますます悪化させたというだけでしょ

そもそも株価暴落自体は89年をピークに90年にかけて一気に起こってる

株価は景気の先行指標半年から一年をメドにやってくると考えれば91年と捉えるのは妥当だよ

大卒求人数は91年から削られてるし

2017-01-23

http://anond.hatelabo.jp/20170123113224

her/世界でひとつの彼女

エクス・マキナ



どっちもAI人間を超えるときにさぁどうするのってのが命題なんだと思う

その点では「チャッピー」も同じグループに属してるはず



「超えるまで〜超えた瞬間」のネガポジフォーカスされており

「超えたあとの世界」は描かれてないから物足りないのかもしれない




大穴で「銀河ヒッチハイク・ガイド

42だよ42!

[][][]慶応大正・ショウワから元号および伝統を考えてみ

昭和時代元号選択肢慶応まれの扱いはいかなるものだったか

60年代から70年代まで慶応前生まれの人はいた。その代表として泉重千代氏はあまりに有名だった。

にもかかわらず、お上は生年の選択肢は「明・大・昭」のいずれかを選ぶことを強制していた。

そういったケースで慶応まれの人々はどれだけ不便を強いられたのだろうか。

雁垂ふたつを書いてなかにラテン文字でKOと書かされたのか、単にKとだけ書いていたのか今となっては確かめようがない。

長寿者として丁重に扱われた一方で、「普通の人」扱いでなかったことは容易に推察される。

慶応以前/明治以後

なぜか同じ元号でも慶応以前と明治以降の扱いは格段に異なる。

公共放送において慶応以前には西暦を付すが、明治以降西暦換算を視聴者強要する。

これはおかしい。なぜなら、戸籍謄本には文政だの天保だの安政だのが当たり前に出てくるわけで

一様に西暦を付すことはないからだ。元号使用するなら初志貫徹せねば筋が通らない。

伝統」を重んじる立場からは、戸籍同様和暦統一すべしとの異論が頻出するはずだからである

明治以前・以後で元号差別があってはならない。「伝統」を軽視しているとのそしりを免れないであろう。

今後某公共放送には和暦を使うのなら、和暦のみ(もちろん南朝年号北朝年号さらには地域独自の私年号記載通り使用する)にするか、

西暦に絞るかのいずれか選択することを求める。

必然的に大化以前については「推古4年」のように表記することが「伝統」を重んじる立場からは望まれるはずである

考古学時代については持論は持ち合わせていないのであしからず

なお、宇宙関連の同じニュースの中で海外ロケット打ち上げ年を西暦で、

日本のそれを和暦で伝えるので時系列がわからなくなる点も指摘しておきたい。

意地悪なだけかもしれないが。

さらに細かいところを指摘するとその局の統計には昭和64年数字存在しない。

1989年数字平成元年に紛れ込ませているのだ。

昭和64年平成元年1989年であるが、この命題の逆は真ではない。

これを些末というなら、昭和平成の違いをことさらあげつらうこと自体否定することになり、

ひいては元号制の否定に繋がる。

元号制とは実にセンシティブ制度なのである

大正タイセイ

16世紀ベトナムにて大正という元号が使われていた。読み方は「タイセイとあるしかし、これはベトナム語発音ではあるまい。

ベトナムはもともと漢字圏に属していた。しかフランス植民地支配後はラテン文字使用するようになった。

これはロシア革命後にソビエトの「衛星国」と揶揄されたモンゴルが、モンゴル文字からキリル文字に切り替えた事例と似ている。

同じ漢字である大正」は二番煎じだったともいえよう。

ショウワ

「ショウワ」と読む元号は「正和」と「昭和」のふたつが存在する。漢字は同じものを使わないのが政府方針だそうだが、

読みについての規準はかなりゆるいようだ。したがって「タイカ」だろうが「メイジ」だろうが「ヘイセイ」だろうが字を変えればよいという向きも当然あると思う。

2010年代では「ヨウロウ」はやめた方がよいし「メイワ」は9年になると「迷惑年」になるのではずした方がよかろう。

文化の日」を「明治の日」にすべし、という意見もあるようだが、文化という年号歴史から抹消する意図がわからない。

応仁・文明の乱があるように「文明」も印象がよろしくない。

神武ベトナム使用済みである

おわりに

元号中国古典からある一節を抜き出し、そこから漢語となる二文字構成される。

明和昭和の出典は同じ一節であるが、選ばれた文字の組み合わせを変えたようだ

2017年1月下旬、ある複数日本企業が相次いで炎上している。その原因は東アジア近代史に関する認識の違いにあるようだ。

したがって漢籍から漢語を選ぶという作業にご納得いかぬ向きも少なからずいると思う。

前例にとらわれず、日本固有の「伝統」を重視する立場からは、当然日本古典から大和言葉元号とすべし、という意見も出てくるだろう。

個人としては、メートル法尺貫法が混在しているようで、頭の切り替えができないし、

時系列ニュースで混在していると大きな負荷がかかる。

元号方式システム障害を引き起こすリスクを、さらコストをかけて積極的にかかえる点で、合理的でないし、将来に禍根を残すだろう。cf.Y2K

かつて旧厚生省日本の将来人口予測する統計作成されたことがある。

そこに「昭和200年」という記載があった。

日本書紀によれば、神武天皇時代狩猟・漁労・採集に、縄文農耕程度が加わったくらいの経済段階だったようだ。

そのような食料状況と医療技術考慮すると、

100歳を優に超える天皇10人程度(その頃の平均寿命20~30歳)いたのだから

20世紀天皇200歳を超えてまで健在と考えたのも無理からぬことであろう。

さらにいえば、元号制の実態西暦にもとづいたカレンダー和暦という装いを施した体裁だけのものともいえる。

昔、日本は最大のコスト(人的資本)をかけて、最小の便益を得るという経済原理にしたがって戦争を戦っていた。

元号もまたコストの最大化と便益の最小化という原理にしたがっている。

選択と集中を日々唱える方々もこの点では宗旨替えされているようだ。

西暦1年がキリスト生誕の年ではないことも、クリスマスイエス誕生日でないことも今や周知の事実である

宗教色が薄れた上、西暦共通言語である英語公用語化というならこちらにもご配慮いただきたいものである

官公庁においても生年の選択肢は「明治大正昭和平成西暦から選べる時代だ。

外務省発行の公文書たる旅券和暦記載は一切ない。

和暦西暦混同で、昨年渡航先で入国拒否されたとも聞く。

こうした不幸な事故を防ぐ意味でも「伝統」に拘泥するのはいかがなものだろうか。

90年代日本文書の規格がB5版からA4版に変わったことがあった。

B版は和紙の規格からまれ伝統であったにもかかわらず、国際標準のA版に合わせるためだった。

この動きに、伝統を重んじる立場から反対したという話はいまだ聞かない。

おまけ

そういえば前都知事が泊まったホテル領収書は印字されたもの西暦手書きのもの元号記載されていない和暦のものだった。

[] #13-1「弟が出来るまで」

「俺ってどうやって生まれたの?」

ある日、弟の投げかけた言葉である

ああ、とうとう来てしまたかと思っていたにも関わらず、両親は動揺した。

命題であることもそうだが、弟は知の探求家なのだ

一度、疑問を持てば自分が納得する答えを探し求め、その労力を厭わない。

魔法少女の正体を暴いたり、エベレストだって登る。

そんな弟に、生半可な回答は危険なのだ

「そうね……よく知らないの。ほら、私ってサイボーグでしょ?」

サイボーグだと生まれないの?」

「まあ……」

我が家ならではの誤魔化し方であるが、後々ややこしいことになりそうなのは目に見えている。

「母さんが本格的にサイボーグ化したのって、つい最近だろ。そもそもサイボーグであることと、知っているかどうかとは関係ないし」

「あ、それもそうか」

俺は横に入って訂正をせざるを得なかった。

具体的にどうこう言えというつもりはないが、誤魔化すならもう少し支障がない方向性でいくべきだろう。




「……」

「……」

両親の回答に、俺は思わずため息が漏れた。

回答というか、要は“沈黙である

当然ながら弟は納得しない。

「ちぇ……なんだよ、それ。じゃあ兄貴は知ってる?」

そして両親がその調子であれば、次に訊ねられる身内は俺しかいないことになる。

父が目配せをする。

どうやら、さきほどの俺の訂正と同時に、回答権を俺に譲った形にしたつもりらしい。

「なあ、兄貴……」

「待て、説明するには言葉選びと構成大事なんだ。それを考えている……」

正直なところ、俺は皆がそこまでして誤魔化す理由すら把握していない。

しかし、漫然と「今じゃない」という思いが横たわっているが故に苦心する。

まり、恐らく父と母は「今じゃない」と判断したのだ。

それを汲み取るべきかは知らないが、かといって返答に窮することは変わらない。

俺の知識ボキャブラリでは、言えることに限界があるのだ。

コウノトリだのキャベツ畑だのは陳腐すぎるが、無修正ポルノを例に説明するのが愚策であることもさすがに分かっている。

かといって、ここで両親と同じく沈黙を貫いたり下手なことを言ったりすれば、その被害我が家だけではすまないことになるだろう。

いわば、意図せずして俺は弟の知的好奇心を止める最後の砦となってしまったのだ。

なんだか、こういうこと前にもあったな……。

ああ、関係のないことまで思い出して、考えがまとまらなくなってきた。




「いや、待てよ」

わずからこぼれる。

俺はそうして思い出した記憶の中から、一つの光明見出したのだ。

「俺も所詮ティーンエイジャー。言える事は少ない。だが、それでも言える事はある」

「お、なになに?」

「お前が生まれる前の話だ。第三者から見えてくる、誕生真実ってのもあるんだぜ」

俺の意味深な語り口に、傍観を決め込んでいた両親もソワソワし始める。

真実……?」

「まあ、聞け」

(#13-2へ続く)

2017-01-19

慶応大正・ショウワから伝統を考えてみた

昭和時代元号選択肢慶応まれはいなかったのか?

60年代から70年代まで慶応前生まれの人はかなりいた。にもかかわらず、生年の選択肢は「明・大・昭」のいずれかを選ぶことを強制していた。

そういったケースで慶応まれの人々はどれだけ不便を強いられたのだろうか。

雁垂ふたつを書いてなかにラテン文字でKOと書かされたのか、単にKとだけ書いていたのか今となっては確かめようがない。

ただ「普通の人」扱いでなかったことは容易に推察される。

明治以前/以後

なぜか同じ元号でも慶応以前と明治以降の扱いは格段に異なる。

公共放送において慶応以前には西暦を付すが、明治以降西暦換算を視聴者強要する。

これはおかしい。なぜなら、戸籍謄本には文政だの天保だの安政だのが当たり前に出てくるからだ。

伝統」を重んじる立場からは、戸籍同様和暦統一すべしとの異論が頻出するはずだからである

明治以前・以後で元号差別があってはならない。「伝統」を軽視しているとのそしりを免れないであろう。

今後某公共放送には和暦を使うのなら、和暦のみ(もちろん南朝年号北朝年号記載通り使用する)にするか、

西暦に絞るかのいずれか選択することを求める。

必然的に大化以前については「推古4年」のように表記することが「伝統」を重んじる立場からは望まれるはずである

考古学時代については持論は持ち合わせていないのであしからず

なお、宇宙関連の同じニュースの中で海外ロケット打ち上げ年を西暦で、

日本のそれを和暦で伝えるので時系列がわからなくなる点も指摘しておきたい。

意地悪なだけかもしれないが。

さらに細かいところを指摘するとその局の統計には昭和64年数字存在しない。

1989年数字平成元年に紛れ込ませているのだ。

昭和64年平成元年1989年であるが、この命題の逆は真ではない。

これを些末というなら、昭和平成の違いをことさらあげつらうこと自体否定することになり、

ひいては元号制の否定に繋がる。

元号制とは実にセンシティブ制度なのである


大正タイセイ

16世紀ベトナムにて大正という元号が使われていた。読み方は「タイセイとあるしかし、これはベトナム語発音ではあるまい。

ベトナムはもともと漢字圏に属していた。しかフランス植民地支配後はラテン文字使用するようになった。

これはロシア革命後にソビエトの「衛星国」と揶揄されたモンゴルが、モンゴル文字からキリル文字に切り替えた事例と似ている。

同じ漢字である大正」は二番煎じだったともいえよう。

ショウワ

「ショウワ」と読む元号は「正和」と「昭和」のふたつが存在する。漢字は同じものを使わないのが政府方針だそうだが、

読みについての規準はかなりゆるいようだ。したがって「タイカ」だろうが「メイジ」だろうが「ヘイセイ」だろうが字を変えればよいという向きも当然あると思う。

2010年代では「ヨウロウ」はやめた方がよいし「メイワ」は9年になると「迷惑年」になるのではずした方がよかろう。

文化の日」を「明治の日」にすべし、という意見もあるようだが、文化という年号歴史から抹消する意図がわからない。

応仁・文明の乱があるように「文明」も印象がよろしくない。

神武ベトナム使用済みである


おわりに

元号中国古典からある一節を抜き出し、そこから漢語となる二文字構成される。

明和昭和の出典は同じ一節であるが、選ばれた文字の組み合わせを変えたようだ

2017年1月19日現在日本企業が相次いで炎上している。その原因は東アジア近代史に関する認識の違いにあるようだ。

したがって漢籍から漢語を選ぶという作業にご納得いかぬ向きも少なからずいると思う。

前例にとらわれず、日本固有の「伝統」を重視する立場からは、当然日本古典から大和言葉元号とすべし、という意見も出てくるだろう。

個人としては、メートル法尺貫法が混在しているようで、頭の切り替えができないし、

時系列ニュースで混在していると大きな負荷がかかる。

元号方式システム障害を引き起こすリスクを、さらコストをかけて積極的にかかえる点で、合理的でないし、将来に禍根を残すだろう。cf.Y2K

かつて旧厚生省日本の将来人口予測する統計作成されたことがある。

そこに「昭和200年」という記載があった。

100歳を優に超える天皇10人程度(その頃の平均寿命20~30歳)いたのだから

20世紀天皇200歳を超えてまで健在と考えたのも無理からぬことであろう。

さらにいえば、元号制の実態西暦にもとづいたカレンダー和暦という装いを施した体裁だけのものともいえる。

昔、日本は最大のコスト(人的資本)をかけて、最小の便益を得るという経済原理にしたがって戦争を戦っていた。

元号もまたコストの最大化と便益の最小化という原理にしたがっている。

選択と集中を日々唱える方々もこの点では宗旨替えされているようだ。

西暦1年がキリスト生誕の年ではないことも、クリスマスイエス誕生日でないことも今や周知の事実である

宗教色が薄れた上、西暦共通言語である英語公用語化というならこちらにもご配慮いただきたいものである

官公庁においても生年の選択肢は「明治大正昭和平成西暦から選べる時代だ。

外務省発行の公文書たる旅券和暦記載は一切ない。

和暦西暦混同で、昨年渡航先で入国拒否されたとも聞く。

こうした不幸な事故を防ぐ意味でも「伝統」に拘泥するのはいかがなものだろうか。

90年代日本文書の規格がB5版からA4版に変わったことがあった。

B版は和紙の規格からまれ伝統であったにもかかわらず、国際標準のA版に合わせるためだった。

この動きに、伝統を重んじる立場から反対したという話はいまだ聞かない。


おまけ

そういえば前都知事が泊まったホテル領収書は印字されたもの西暦手書きのもの元号記載されていない和暦のものだった。

2017-01-03

塾講バイト中学生必要条件十分条件を教えた

私は某大学数学科学部生です。塾でアルバイトをしており、先日、中学1年生のクラスで1次方程式の解き方を教える機会がありました。その際に起きたことについて書いておこうと思います

私の認識では、中学数学において「4x-6=xを解く」とは「4x-6=xを満たす実数xをすべて求める」ということです。中学数学参考書は「4x-6=x, 3x=6, x=2」という書き方しかしておらず、これでは、「4x-6=x⇔3x=6⇔x=2」なのか「4x-6=x ∴3x=6 ∴x=2」なのか分かりません。前者であれば問題ありませんが、後者であれば論理的に不完全であり、x=2が実際に4x-6=xを満たすことを確かめねばなりません。

中学1年生にこのようなことを話半分に説明したところで、理解してもらえるはずありません。しかし、このことは本質的であり、また、中学校曖昧にしたまま方程式を解かせるから高校数学論理と集合で多くの人が躓くのだと私は考えています。そこで、1コマまるまる使って論理命題必要条件十分条件の授業を行いました。それから、1次方程式を解くときの式変形では式だけを並べるのではなく、式と式の間に⇔か∴を挿入し、その論理構造によっては検算も行うように指導しました。結果、生徒の多くは戸惑いながらも喜んで授業を吸収してくれ、小テストでも多くの生徒の理解確認することができました。

ところが全く予期しないことに、保護者数名から苦情が入ったようで、塾長からかなり厳しく叱られてしまいました。「教えるべきレベルを逸脱している」とのことでした。塾長英語国語社会担当数学素養がないのもあるのか、方程式を解くということについて必要条件十分条件概念本質的であり、教える必要があるのだと力説しても、「必要ないし、普通の内容を教えることに時間を使え。ここでの方針に従えないならしかるべき措置をとる」とまで言われる始末でした。

仕方がないのでそれからテキストに徹底的に従って授業していますが、指導方法について、私が間違っていたのでしょうか。モヤモヤしています

2016-12-18

http://anond.hatelabo.jp/20161218232954

それは最初命題仮定問題ではー。

愛してるか否かなわけで。

まあ、どうでもいいので、もう寝ます

http://anond.hatelabo.jp/20161218232428

日本を愛してる人と愛してない人の2パターンしか無いっていうのが命題として無理ありすぎるだろ

集団にその2パターンしか無い場合のみしかそれ成り立たないだろ?

2016-12-15

[]

前回、民法の偉い先生が、自身キリスト教信仰民法研究無関係であると言った講演について書きました(http://anond.hatelabo.jp/20161127222341)。

が、どうもこれが頭に引っかかってしまって思考が進まなくなってしまったので、とりあえず混乱したまま吐き出すことにします。



まず問題になるのが以下の2つの命題です。



(1) 民法研究キリスト教無関係だよ

「〔私にとってキリスト教信仰民法研究とは〕全く関係ありません。キリスト教は私の人間としての生き方の指針。民法学は私が民法研究者として、民法上の諸問題を一解釈学者として精一杯明らかにしようと務めているだけのことです。両者はその存在次元を異にしていますから、直接関わることはありません。」

「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」(コリント前書6-7)

「人を裁くな」(ルカ伝6-37)


(2) キリスト教における真理はイエスその人だよ

イエスは言われた。わたしは道であり、真理であり、命であるわたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ伝14-6)



一方で「民法研究キリスト教無関係である」と言い、他方で「キリストを通らなければ真理はない」と言われると、つまるところ法律学研究には真理はないということになるのでは?というのが今の疑問。



ぜんぜん関係文脈も違う2つの命題を繋げて何を言っているんだ、という感じなんですが、これ実感として「そうかもしれない・・・」と思えてしまうのが不安を持つ原因。



どういうことかというと、民法ちょっとややこしい(資本主義の影響が~とかになりそう)ので刑法を例にとると、刑法の事案を処理する際、法律家は(事実認定を除くと)大体以下のような作業します。

(1) 事案をよく見る。

(2) 適用条文を探す。

(3) 条文の要件を切り出し、解釈を通じてさらに具体化する。

(4) 過去判例裁判から重要と思しき事実ピックアップしてマトリクスを作る。

(5) マトリクスを作る過程過去裁判所判断を分けた重要事実が炙り出される。

(6) 本件に戻ってその重要事実の有無・相違を確かめる(自然結論も出る)。

(7) 上手くいかなければ(1)に戻る。

さらに学究肌の人であれば、以下の作業も行います

(8) ①罪刑法定主義、②結果無価値論、③責任主義観点から以上の作業特に(3))に問題がないか検証する。

ただこの作業、やってる最中は真理というものを全く意識しません。



(1)~(7)の作業が担っている機能は、よく考えてみると過去判例裁判例の結論平仄を合わせるものしかありません。

また、こうして出された結論が「国民常識」にかなっていることが多いと評価されることが多いのですが、よく考えてみるとそこでいう「国民」のほとんどは無神論者資本主義者です。また「常識」にかなっていたから何だ、という話もあります



他方、(8)の作業はいかにも真理っぽい作業なのですが、①②③の原則というのも、治安悪化の程度や警察捜査能力などによってその要請の強度が変わってきます

たとえば警察捜査能力がぜんぜんない国で、責任主義を徹底し、故意認定を厳格にするよう求めても、土台無理な話でしょう。

他にも、イスラエルのようにテロが頻発する国で予防拘禁を止めろというのもなかなか難しい話だと思います

真理というもの普遍的ものだと仮定するなら、やはりここでも真理というものは現れないように思えるのです。



そしてさらにこういう作業を綿密に経たところで、刑務所の中受刑者が思うことの多くは安部譲二塀の中の懲りない面々』や堀江貴文刑務所わず。』で描かれてるようなことでしょう。



そうなると上の作業には、やはり真理はないと思われるのです。せいぜい国の治安維持政策としての意味しかないのではないか、と思われてならない。



これっていったい何なのだろう。キリスト教圏の法律家はどう考えているのだろう。

2016-12-11

為末大はわざと挑発的な書き方をしておいて、誘導された人物に対して「私はそうとは言ってませんけど?」という返し方をする。

最近連続ツイートである自由命題に関しても、他人自由に乗っかることを「断罪風に」書いている。

厳密には断罪していない体裁をとっていて非常にいやらしい。

2016-11-24

http://anond.hatelabo.jp/20161124171730

真偽と命題のことを仏教用語で有無と空と呼ぶってことですか。

それとも命題のうち存在を問う物が空という名前なんですか。

後者っぽい気がするけど、それを科学というのは微妙違和感あるな。

述語の真偽を問うのがギリシャ名詞の有無を問うのがインドって感じなのかな。

論理学はもはや何年も前に入門書も捨ててしまったんですけど、論理学上で仏教の空論を扱うというのは私も過去やった事があります

残念ながら、今はもうほとんど忘れてしまいました。当時も付け焼き刃だったし。

どう言えばいいのかよくわかりませんけど、「ある」「ない」ってすっごく単純じゃないですか。

そういうものすごく単純なところで考えるとわかりやすいかもしれないって思うんですよ。

元増田になる記事の人は難しいと仰ってたし、確かに世に溢れる空とか縁起について書かれた本とかクソ難解に書いてあるので、単純なところで考えてもいいんじゃないかなぁと思った次第です。

釈迦さんとか昔の仏教の人だってただの人間ですよ。ただの人間が知恵絞って考えただけの話でしかないと思うんですけど、何であんなにクソ難しくするんでしょうね?

 

ともあれ、固定観念をできるだけ捨ててしまって、アホみたいに簡単に考えると吉だと思います

http://anond.hatelabo.jp/20161124133323

真偽と命題のことを仏教用語で有無と空と呼ぶってことですか。

それとも命題のうち存在を問う物が空という名前なんですか。

後者っぽい気がするけど、それを科学というのは微妙違和感あるな。

述語の真偽を問うのがギリシャ名詞の有無を問うのがインドって感じなのかな。

2016-10-29

http://anond.hatelabo.jp/20161028204943

複数思想の集合に対して単一の「正しい」「間違ってる」は命題自体不適切じゃないかな。

その集合が正しいか間違ってるかに関わらず大元書き込み演繹の結果が実際の結果と違うから前提に誤りがあるのだと思う。

2016-10-23

http://anond.hatelabo.jp/20161023231826

この命題自体、正しいの?

私の頭がアホなの?

m=5とかでやってみても、なんかピンとこないんやけど。

2016-10-15

JKだけどウィトゲンシュタインにキレてる

ウィトゲンシュタインほんといけ好かない! 論理哲学論考は思った以上に短い本だったけど中見てみたら命題がいっぱい並んでるだけで、あんなのただの目次でしょ? 目次だけじゃ伝わるわけないじゃん、もっと何倍も紙数割いて解説パート入れなきゃだ~~れも理解できねえじゃん!

 

しかもさあ~! 「私の著作は、ふたつの部分から成っている。すなわち、ひとつは、ここに提示されている部分であり、もうひとつは、私が書かなかった部分である。そして、まさにこの第二の部分こそが重要な部分である。」とか言っちゃってさあ! 嫌な感じ~~!! どうせ頭いいんだろうけどさ、俺の思考についてこられないような奴に理解してもらう気はない、とでも言うつもりかい傲慢にもほどがあるっしょマジで! 工夫を凝らしてどうにか伝達しようという誠実さも見せずに圧倒的言葉足らずの独りよがり論考書いておきながら「言語限界」とか提唱されてもハァ~~?? って感じですよ!! いけ好かねえ~~!!!

2016-10-09

http://anond.hatelabo.jp/20161009172652

抑止力になると考える人が1人でもいれば、抑止力として有効である

が真であるとすれば、

あらゆる抑制政策は、提唱者1人は有効であると考えていることから有効であることになる

すなわち間違った抑制政策存在しないことになる

そんなことはありえないから冒頭の命題は間違い

http://anond.hatelabo.jp/20161009170047

死刑抑止力がないなんてのは、言ってる奴がいるだけで、正解でも何でもないけどなw

そもそも

死刑抑止力はない

の、ドモルガンの法則による反対命題

死刑抑止力となる人は存在する

なので、ある個人死刑になりたくないか犯罪は犯さないと思えば成立する。

死刑抑止力はないという言葉に一切の説得力がなく事実に沿わないのは、

多くの人がドモルガンの法則なんて知らなくても、それを肌で感じてるからだろう

そういう人間が、一定存在すれば社会にとっては十分な抑止力になる

それを否定したければ、死刑抑止力と捉える人間全員を殺しつくさないと始まらない訳でね

俺が生きてる限りは、死刑抑止力はある、んだよw

数字を好きにいじれるアムネスティ統計(よく反対論者がだしてくる奴なw)より分かりやすかろう


ドモルガンの法則否定したければ、大数学者になってからブール代数から否定してねw

死刑存置論者を殺しつくせば抑止力は消えるかもね

はい完全論破

2016-10-01

たとえ話で議論をしないことが常識になってほしい

たとえ話は、一見すると分かりやすい。

しかし、多くの場合議論におけるたとえ話は、欺瞞をはらんでいたり、議論拡散・混乱させる効果しかない。



例えば、「AはBであるか否か」の議論をしていたとしよう。

ここで、「AはBである」という論者が、Cのたとえ話をするとき、そこには、

①AはCにたとえられる(A≒C)

②CはBである

③①及び②ゆえにAはBである

という論理が背後にあるはずである



大抵の場合、たとえ話においては、②については異論がでにくいようなCが設定されるので、問題は①である

ときどき、②すらあやしいたとえ話もあるが、それは措く。)

多くの場合において、①A≒Cと言えるかどうかは議論余地があり、たとえ話によって結局、議論拡散してしまうのである

そもそも、①及び②が当然に認められるなら、「AはBである」ということにほとんど疑いはなく、「AはBであるか否か」ということが議論になっているということは、①か②を当然視しない人がいるというこのなのである



最近の例では、元アナウンサーブログ記事炎上に対する芸人コメントがある。

このコメントでは、「壁ド突いたら手の骨折ます、でもド突いちゃった」患者がたとえ話として出されている。

Twitterでのコメントであり、言葉不足となっているが、ここでいいたいのは、

自己責任人工透析を受けることになった患者と、壁を殴ったら骨が折れることが分かってるのに殴って骨を折った患者は同様である

②壁を殴ったら…の患者医療費は全額自己負担にすべきである

自己責任人工透析を受けることになった患者医療費自己負担にすべきである

ということだろう。



このケースでは、そもそも②が当然に同意できるものではない上、①についても、それらが同様といえるかについて議論余地がある。

結局、元々の議論に①、②という論点を新たに付け加えているだけであり、議論の促進に資するところがないばかりか、議論を混乱させるものだと言える。

(そもそも元記事炎上の原因は③の命題の当否ではないという点でも的外れ気味な擁護ではある。)



このようにたとえ話というのは、多くの場合百害あって一利なしである

議論においてたとえ話をしない、ということが常識として広まるようになってほしい。



※なお、本来A≒Cとして扱うべきところ、差別意識からA≠Cとして扱れている、ということを炙り出すためには、たとえ話が有用場合がある。男女を入れ替えるたとえ話がこの役割を果たすことは多い。もっとも、この場合でも、男女をいれかえることによって変化する要素がないか注意が必要である



※追記

ここでいうたとえ話というのは、比喩アナロジーであって、例示ではない。誤解している人もいるみたいなので念の為

2016-09-30

大学生挫折

大学生人生挫折しかけてる話を書く。

私はその原因をこう仮定している。

”心から嫌いだと感じる家族暮らしているという環境が原因で、人生肯定感を得られない”

家族関係は今までの人生の中で一番、ストレスのコーピングに大きなリソースを費やした。この家族はお互い仲が悪く、本当に居心地のいいものではない。小学校高学年の頃から夫婦間・そして兄弟間のトークは皆無。そんな状態がおよそ10年続いただろうか。しかし外部に対する体面だけはとても良くて、この10年間家族仲が悪いことは近所や学校関係の人々、また近しい親戚に対しても露呈することはなかった(ちなみにその親戚が後にそれを知ることになるが、それを知ったのは私が耐えきれずに相談を持ちかけたためである)。でも私の性格気質上”そのような環境に耐えなくてはならない”という考えが、大学の2年次程度まで抜けなかった。

中学の頃は、バドミントン部に所属していたことと、好きな子を眺めていられたという環境があったので、家族関係の悪さというストレス対処することができた。高校の頃は、周りに趣味の合う友人ができたこととTwitterで好きなことを呟きまくることによって、なんとかコーピングできた。受験シーズンになり私は、”材料工学に興味を持ったのでその研究をしたい”というでっち上げ的考えを持ち出すことで、その分野に強い地方大学一人暮らししながら通いたいという旨を両親に伝え、その受験資格を得た。実際のところ、”家族が嫌でそんな環境に身を置きたくないか一人暮らしをしたい”という気持ちが大きかった。

しかし、一浪して二度の受験を重ねたにもかかわらずそれはことごとく失敗してしまい、地元大学に通うことになった。偏差値的には充分合格圏内にいたので、これはかなりショックであった。

そして大学でもやはり思うような生活はできなかった。心機一転変わったサークルに入ろう!とか思っていたものの時期外れなおたふく風邪に罹ってしまい、様々なサークル見学する時期も過ぎ、最終的には高校の時の趣味の延長上にあったサークルを選んだ。まぁとりあえずどこかに入っとけばいっか。と言わぬばかりである。これはこれで楽しかったこともあったけれどやはり心の底から休めるかというとそうではなかった。

日々の生活進歩もクソもない、むしろ停滞、むしろ衰退していくうちの家庭環境に嫌気が増すスピードは一向に上昇していく。ある日思い切って母親に切り出してみた。

「どうして親父と仲良くしないの?」

「そうすることがストレスから。いつか家を出て行きたい」

意味がわからなかった。

この人がどのような思考回路を持っているのか理解できなかった。赤の他人意味のわからないことを言うのならそれはそれで心理学調査対象みたいなものだと思えるが、身内でこうとなれば話は違う。また、親父も親父で汗水流しながらこんな家庭を支えようとする意味がわからない。もしも自分が親になったことを想像したら、もっと子供幸せのことを考えてあげたいなと思った。

ところでこんな環境で真面目に大学卒業できるのだろうか。もし大学卒業したとしてもそれで自分で納得のいく社会人になれるのか。満足ゆく大人になれるのだろうか。そして、大学卒業する意味があるのだろうか?という疑問に当たった。現時点で大学卒業するメリットは、

就職選択の幅が広がる

海外で働きやすくなる

・親が子供自慢することができる

これくらいだろう。バイト先の先輩や近所の飲み屋、近しい親戚、親しい友人などなど相談可能な人には相談しまくったけれど、9割方は「大学卒業した方がいい。」と言った。一部少数派でやりたいことをやるのがいいという意見だった。留年は甘えというが正直今の環境では卒業というプロジェクトを完遂することはかなり高いハードルのように感じていた。

そのような環境に心折れ、私は一時期学校を休んだ。優先順位が(大学で学ぶという行為)<<<<(家族からくるストレス対処)だったため、この環境をなんとかしたいと強く思っていた。そこで休学してIT系アルバイトに明け暮れる生活をしていた。お金を稼いで一人暮らしすればいいかなと思っていた。この時点でもっと他にも方法はあったのかもしれないが視野が狭くてこうするしかないとしか思えなかった。案の定それは無理な話で惰性でお金を稼いでは一時的快楽に溶かす、という日を繰り返していた。そんなこんなで復学がやってくるのだが、ここまで来てようやく確信を得たのであった。やはり自分自身が弱かったのだと。井の中の蛙であったのだと。正直これを認識せざるを得なくなった時は鬱であった。

それでもやはり「生活環境が人間に及ぼす影響は大きい」という命題を私は強く信じたいし、どうすれば安らかな生活を送ることができるのか今後も模索し続けるのだろう。本当にこれでいいのかな。

2016-09-01

結婚したら仕事に身が入らない

結婚して半年ちょっと経ったんだけど、仕事に身が入らないのよね。


夫と住む部屋がホームでそれ以外アウェー

友人関係も同僚との付き合いも二の次

夫といるのが使命、至上、わたし生活


なんていうかこないだまで自分主人公人生で、

いまは夫主人公わたし黒子みたいな。

それが心地よくて、なんかいままで無理してた、みたいな。


上司気持ちが入ってない、キラキラしてないって言われて、

なんとなく自分でもわかってたけど、あーやっぱりっていう。


だっていま妻やるの楽しいし、命題だし、と思いつう、

共働き希望から社会人として仕事にウェイト置かないと

だめだって自覚したけど、ようやらん。


いやいや、仕事にウェイト置かないと今年も昇格逃す…。

そんなジレンマ

休み永遠に続けばいいのに。

仕事いま過剰な量感よね。

はー乗り越えられるのかしらん。

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