はてなキーワード: 1954年とは
謎のニセ札事件(なぞのにせさつじけん)とは、1954年12月、日本で発生したニセ札事件である。
←ここ重要
1954年12月上旬、東京都中央区新富町にある印刷所に興信所の捜査部長を名乗る男が現れ、
「
に使うものだとして紙幣のようなもの1,000部の印刷を一部50円で発注した
←これを覚えておいてください
表面の左右にアラビア数字で「100」と印刷されその横に意味不明な文字があり、中央には旗を掲げ乗馬する白い騎士、そして裏面には昇る太陽とダビデの星が描かれていた。
ん?
表面の左右にアラビア数字で「100」と印刷されその横に意味不明な文字があり
すでに数字が書いてあるよ〜
依頼者の「
」との説明を信用した印刷所は“紙幣のようなもの”を注文通り刷り上げ
「ねー公安部長」
「なんだよー」
「いーよ」
公安部長…?
…数日間何をしていた?!見れば分かるだろ!
ダビデの星が印刷されていたことからイスラエル公使館へも問い合わせたが、やはり「この種の紙幣は通用していない」との返答を得るだけであった。
そんなことしてる暇があったらもっとさぁ…
中国に近代造船所が建設される 海軍不在の時代
アロー戦争 英仏連合軍に大敗、清には対抗できる艦隊は存在せず海戦は起こらなかった
洋務運動の一環として清朝官僚の曽国藩、李鴻章によって江南機械製造局(現在の江南造船所)が上海に建設される
ロシアによって中東鉄路公司輪船修理工場(現在の大連造船所)が大連に建設される
日露戦争後、川崎造船所(現在の川崎重工業)が大連造船所と旅順造船所を運営
1945年までに3度にわたり拡張され、中国最大の造船所になる
★清朝滅亡
イギリスの実業家Nils Mollerが上海に"Mollers' Shipbuilding & Engineering Works"(現在の滬東中華造船)を設立
日本軍が江南造船所を占領し朝日工作部上海工場と改名、三菱重工が運営する
日本軍が"Mollers' Shipbuilding & Engineering Works"を占領し三井造船所と改名、三井造船が運営する
海軍の礎が築かれる 教育・研究機関の設立 ソ連からの技術援助
★中華人民共和国が成立
古寧頭戦役/金門戦役 中国人民解放軍海軍は大量の漁船を徴用し金門島を占領しようとしたが大敗、これによって台湾侵攻を断念
戦争の歴史から、二度と繰り返してはならない、という思いを抱くのは日本だけではありません。中国もそうです。しかし、どんな教訓を得るかは、国によって異なります。
(略)
毛沢東は,1949年の中国人民政治協商会読第1回全体会議における開幕の演説で
「......どのような帝国主義者にも再び我々の国土を侵略させてはならない......我々は強大な空軍と海軍を保有しなければならない(......不允許任何帝国主義者再来我們的国土.....而且有一個強大的空軍和一個強大的海軍)」と指摘し,
1953年には
「わが国の海岸線は長大であり,帝国主義は中国に海軍がないことを侮り,百年以上にわたり帝国主義は我が国を侵略してきた。その多くは海上から来たものである(我們国家的海岸線視長,帝国主義就是欺負我僧没有海軍,一百多年免帝国主義侵略我臥大都是従海上乗的)」と軍艦の上で演説しました。
(略)
共通のできごとから「二度と繰り返すまい」と決意したとしても、国によって得た教訓は異なります。
いじめた側といじめられた側では、同じ出来事もずいぶん違った記憶になる道理です。侵略をして反省した側は「二度とあんなことはすまい」と消極的になり、侵略された側は「二度とあんなことはされまい」と積極的になるわけです。
そのために、国際政治の歴史の中では、あるときは羊のように餌食にされた国が、後には一変して狼のように振る舞い、そのことがかえって敵を増やしたりします。その逆だってあり得るでしょう。
朝鮮戦争勃発
劉華清 ソ連・レニングラードのクズネツォフ海軍大学校に留学、セルゲイ・ゴルシコフに師事
第一次台湾海峡危機 江山島、大陳島を中華人民共和国が占領される
★6607型駆逐艦(鞍山級駆逐艦/7型駆逐艦/グネフヌイ級駆逐艦)がソ連から供与される
1930年代にイタリアから技術導入をしてソ連が建造した艦で時代的には吹雪型駆逐艦と同時期
50型警備艦(リガ級フリゲート)がソ連から供与され、6601型(成都級)としてノックダウン生産される
第二次台湾海峡危機 金門砲戦 中華民国側が防衛に成功、以降中華民国と中華人民共和国の間に大規模な戦闘は発生していない
その後中ソ対立によってソ連からの技術援助が打ち切られたため中国は潜水艦の国産化を迫られることとなった
1948年 41人
1949年 76人
1951年 40人
1952年 34人
1953年 26人
1955年 19人
1956年 22人
1957年 25人
1958年 21人
1959年 14人
1960年 36人
1961年 18人
1962年 14人
1963年 16人
1965年 7人
1967年 13人
1969年 13人
1971年 7人
1972年 7人
1973年 5人
1974年 2人
1975年 2人
1976年 2人
1977年 2人
1978年 4人
1979年 4人
1980年 7人
1981年 3人
1982年 1人
1983年 1人
1984年 3人
1985年 2人
1986年 0人
1987年 7人
1989年 5人
1990年 7人
1991年 4人
1992年 5人
1993年 7人
1994年 3人
1995年 3人
1996年 3人
1997年 4人
1998年 7人
1999年 4人
2000年 6人
2001年 3人
2002年 3人
2003年 2人
2004年 14人
2006年 21人
2009年 15人
2013年 8人
2014年 7人
2015年 2人
2016年 7人
2017年 2人
2018年 2人
2019年 5人
2021年 4人
2022年 0人
2024年 1人
所感
指輪物語(The Lord of the Rings):1954年。
小説、映画。それまで妖精として使われていたエルフ、ドワーフを亜人類として登場させたファンタジー小説の原点といえる作品。
ホビットの名称は権利関係のため他の作品では使われなくなった。
ダンジョンズ&ドラゴンズ(Dungeons & Dragons、D&D):1974年。
世界最初のRPG。テーブルトークという紙とサイコロを使い会話で遊ぶスタイル。人間、エルフ、ドワーフなどの種族、戦士、魔法使い、僧侶などの職業がある。
ロードス島戦記:1988年。ライトノベル。パソコンゲーム雑誌「コンプティーク」に掲載されたテーブルトークRPGのリプレイから派生した
日本のファンタジー長編小説。ディードリットはエルフのパブリックイメージと言えるキャラ。
ウィザードリィ(Wizardry):1981年。コンピュータRPG。3Dダンジョン探索型ゲームの原点。転送失敗や蘇生失敗でキャラが消えるペナルティがある。
ダンジョンマスター(Dungeon Master):1987年。コンピュータRPG。魔物を食べる要素が登場。パソコンゲーム雑誌「コンプティーク」でコミカライズが連載されていた。
要約 有名なカクテルのマティーニやギムレットはジンを使ったカクテル。バーに行ったことがなくてジンも飲んだことが無いならバーに行く前に家でジンを飲んでジンが飲めるか確認してみるといいよ。
自分はバーに行くのが好きだ。だからバーに行ったことがなく酒の知識もまだあまり持っていないけどバーに興味があるような人にバーを行くことを後押しするような記事を書こうとした。(ここで言うバーはいわゆるオーセンティックバーのことである。オーセンティック(authentic)とは本格的なとかの意味で
淡い照明で落ち着いた雰囲気の中、白いシャツにタイをしたバーテンダーがカクテルを鮮やかな手さばきでサービスしたり、バックバーに見たこともないボトルがズラッと並んでいる(https://liqul.com/entry/1876より)
ような店を想定している。)どんなことを書こうか考えているうちにバーに行ったこともなく酒の経験も少ない人はバーに行く前にジンを試してみるといいのではないかと思ったのでまずこの記事を書く。
バーに行ったらぜひカクテルを飲んでほしいと思うのだがカクテルに使う4大スピリッツ(蒸留酒)といわれている酒の種類がある。ジン/ウォッカ/ラム/テキーラの4種類である。
この中でウォッカは主張の少ない酒であるのでウォッカを使ったカクテルは酒が飲めるなら特に問題なく飲めると思う。後の3つはそれぞれ癖があるのだけれどジンが好みかどうか事前にわかっているといいことがある。よくカクテルの王様と言われるマティーニや「ギムレットには早すぎる」というセリフで有名なギムレットはジンを使ったカクテルだがこれらはジンの味を強く感じるカクテルだ。ジンが飲めるとわかっていればこれらを安心して頼めるのである。逆にジンが好みでないなら最初からこれらは選択の対象外にできる。
名前だけ聞いたことがあるマティーニやギムレットを頼んでみたもののまったく自分の好みではない味だったら飲み干すのがつらくてバーの経験そのものが嫌なものになってしまう。それを避けるためにとりあえずジンの味が自分に合うか確認しておくことを勧めるのである。
ジンはジュニパーベリー(杜松(ねず)の木の実)等で香り付けをした蒸留酒である。バーに行く準備として飲んでみるお勧めのジンの銘柄は以下の3つである。
ゴードンズ
理由はバーでカクテルに使われることが多いということと入手しやすいこと。特にビーフィーターならコンビニやスーパーでも売ってる。しかも安価だ。物価高の今でも700mlビンが2千円でお釣りが来る。マティーニ1杯の値段がそれくらいということもある。高めに見積もって2千円として仮にジンが苦手で同じ2千円無駄にするとしてもバーで1杯のカクテルを持て余すよりも家で1本のビンを無駄にする方が精神的に楽である。
ビーフィーター、ゴードンズ、タンカレーのどれかひとつと一緒にトニックウォーターと炭酸水も買っておこう。トニックウォーターが苦手だとわかっているならトニックウォーターは買わなくて良い。あとロックアイスを買ってきても冷凍庫で氷を作っても良いから氷を用意しよう。目的はジンの味見なので細かいことにこだわらなくていい。
ちなみによく広告を見るボンベイサファイヤは銘柄を指定しない限りカクテルに使われることは上記3つより少ない気がするけど飲んでみたければそれでもいい。また名前が漢字など和風のラベルのジンも酒販店でよく見かけるがやはり銘柄を指定しない限りカクテルに使われることは少ないので今回の目的には合わない。
買ってきたジンはできれば冷凍庫に入れて冷やそう。これらのジンはキンキンに冷やして飲むとストレートでも(ジンが好きなら)美味い。でも冷凍庫が狭くて冷やせなくても今回は氷も入れるから気にしなくていい。
トニックウォーターも飲んだことがなければまずはトニックウォーター単体で少し飲んでみよう。トニックウォーターが苦手だったらトニックウォーターをとばしてジンを炭酸水で割ってほしい。
トニックウォーターが苦手でなかったら次にジンをトニックウォーターで割って飲んでみよう。グラスに氷を多めに入れてそこにジンをグラスの1/5程度まで入れる。そしてそこにジンの3倍ほどの量のトニックウォーターを注いで軽く混ぜる(この混ぜ方も下から上に氷を動かすようにとかあるけど今回は気にしないでいい)。これですでにジントニックという立派なカクテルである。濃いと思ったらトニックウォーターを増やして薄いと思ったらジンを増やせばいい。
ジントニックの次はトニックウォーターのかわりに炭酸水(ソーダ)で割ってみよう。ジントニックよりもジンの味がわかると思う。
さらに氷の入ったグラスへジンを注いだだけのジンのオンザロックやストレートでも飲むとジンの味がさらにわかる。オンザロックやストレートを試すのは少しでいい。かなりきつく感じる人が多いと思う。マティーニやギムレットはオンザロックのジンよりも飲みやすいので安心してほしい。
ここまででジンの味が苦手でなかったらバーでジンを使った(「ジンベースの」と言ったりする)カクテルを頼んでも大丈夫。興味があればマティーニやギムレットを飲んでみるといい。
ジンの味が苦手だったらバーで「ジンは苦手だからジン以外のベースのカクテルのお勧めはありますか」と聞けばいい。
「ギムレットには早すぎる」について補足
このセリフはレイモンド・チャンドラーの私立探偵フィリップ・マーロウシリーズのロング・グッドバイ(長いお別れ)の中のセリフ。自分は村上春樹の訳で読んだ。とても有名なセリフなのだけどネットで検索するとなぜかまったくもって間違っていることが書かれていることが多い。また正しいようなことが書かれていても解釈としておかしいと思われることが書かれているものもあった。このセリフを正確に解説するとネタバレそのものとなってしまうこともこの状況の一因であろうが1954年の小説である。ネタバレ覚悟で読むのなら問題ないと思うのでそこそこ正しく書いているサイトを紹介しておく。ただネタバレとして書かれている中で「何者かに殺されてしまいます」は「自殺してしまいます」が正しい。
http://oldfashioned.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-2284-1.html
平等から階層へ、男女平等から著しい男女不平等への転換は、一般に農業と関連しており、このことはグレーバーとウェングローにかなりの問題を突きつけている。彼らは選択に関心があるため、唯物論的な議論を避けたり、環境が人々の選択を条件づけ、制限する方法について考察したりすることに固執しているようだ。
農業は、約1万2千年前から世界の多くの場所で独自に発明された。狩猟採集民は食料を共有し、持てる以上のものを所有することはできなかった。しかし農民たちは定住し、畑や作物に投資するようになった。そのため、一部の人々が自分の取り分以上の食料を手にする可能性が生まれた。
やがて、凶悪犯やいじめっ子の集団が集まって領主になることもあった。窃盗や略奪、家賃、小作料、労働力の雇用、税金、貢納、什分の一など、さまざまな方法でこれを行った。どのような形であれ、このような階級的不平等は常に組織的暴力に依存していた。そしてこれこそが、ごく最近まで階級闘争が対象としてきたものなのだ。
農民は狩猟民族にはない弱者だった。彼らは自分の土地、畑を開墾し灌漑するために費やした労働、そして作物の貯蔵に縛られていた。狩猟採集民は離れることができた。農民はそうではなかった。
しかし、グレイバーとウェングローは、農民が余剰を生産し、蓄えることができたからこそ、階級社会、搾取、国家、そして偶然にもジェンダーによる不平等が可能になったのだという、この物語に立ち向かった。
2012年、考古学者のケント・フラナリーとジョイス・マーカスは『不平等の創造』という素晴らしい本を出版した。彼らは、世界のさまざまな地域で農業がどのように不平等をもたらしたかをたどっている。
しかし彼らは、その関連性は自動的に生じたものではないと主張する。農業は階級を可能にしたが、多くの農民は平等主義の社会で暮らしていた。農業の発明と階級の発明の間のギャップは、数世紀単位で測られる場所もあれば、数千年単位で測られる場所もある。
フラナリーとマーカスはまた、地元の凶悪犯や領主が権力を掌握しても、後に打倒されることが多いことを、注意深い実例を通して示している。多くの町や都市では、エリートが考古学的記録に現れ、その後何十年も姿を消し、また現れる。事実上、階級闘争は決して止まらないのである[5]。
ジェームズ・C・スコットフラナリーとマーカスの壮大な比較研究は、人類学を根本的に変えた1954年のエドモンド・リーチの著書『ビルマ高地の政治制度』や、アナーキスト政治学者であり人類学者でもあるジェームズ・C・スコットの研究において先取りされていた。[2009年、スコットは『統治されない技術』(An Anarchist History of Upland Southeast Asia)を出版した。同書は数世紀にわたる東南アジア全域を対象としている。
スコットは、平原の王国の稲作農民の多くが丘陵地帯に逃亡したことに関心を寄せている。彼らはそこで、「焼畑」移動耕作者の新たな民族集団として再出発した。彼らの中には、より小さな階級社会を作り上げた者もいれば、階級を持たずに生活した者もいた。そのすべてが、下の王国や国家からの絶え間ない奴隷化や軍事的襲撃に抵抗しなければならなかった。
ある意味では、グレイバーとウェングローはリーチ、スコット、フラナリー、マーカスの仕事を土台にしている。ウェングローは結局のところ、フラナリーとマーカスが要約している考古学の変化の一端を担っている。そして『万物の黎明』には、スコットの影響が随所に見られる。
しかし、グレイバーとウェングローは、一方では技術や環境と、他方では経済的・政治的変化との間にある、他の著者たちの結びつきを好まない。
フラナリー、マーカス、スコットの3人は、テクノロジーや環境が変化を決定するのではない、と注意深く述べている。それらは変化を可能にする。同様に、穀物農業の発明が自動的に階級格差や国家をもたらしたわけではない。しかし、それがそうした変化を可能にしたのである。
階級関係と階級闘争技術と環境の変化は、階級闘争の舞台を設定した。そして、その階級闘争の結果が、平等と不平等のどちらが勝利するかを決定した。グレーバーとウェングローはこの重要な点を無視している。その代わりに、彼らは常に、そのような変化を即座に必然的なものとする段階論の粗雑な形式を問題にしている。
この生態学的思考に対するアレルギーが、彼らが人類の進化に関する新しい文献を扱おうとしない背景の一つであろう。
これらの文献はすべて、人類となった動物たちが、自分たちの住む環境、自分たちの身体、競合する捕食者、自分たちが発明できる技術、生計を立てる方法に対して、どのように社会的適応を築いたかを理解しようとするものである。偶然にも、彼らはその生態系と状況に対処するために平等主義的な社会を築いた。それは必然的な結果ではなかった。しかし、それは適応だったのだ。
一方、グレーバーとウェングローは唯物論者ではない。彼らにとって、生態系や技術について考えることは、彼らが望む選択や革命を不可能にする恐れがある。例えば、古代メソポタミアに関するスコットの本が、特に穀物農業が不平等をもたらした物質的な理由を強調しているため、彼らが満足していないのはこのためである。
これは些細な問題ではない。私たちが今直面している気候危機は、人類が新しい技術と新しい環境に適応するために、社会をどのように変えていくかという問題を浮き彫りにしている。平等や人類存続のための政治は、今や深遠なまでに唯物論的でなければならない。
グレーバーとウェングローが環境や人間存在の物質的基盤にほとんど関心がないことは、これまで見てきたとおりである。
同じように、彼らは階級という概念や、階級関係や階級闘争についての議論をほとんど宗教的に避けている。グレーバーは確かに、そしておそらくウェングローも、階級関係と階級闘争について理解している。彼らは、階級が何をするのか、そして実際、自分がどの階級の人間なのかを知っているが、階級関係を社会変革の原動力として扱うことはできないし、また扱おうともしない。
これと同様に目を引くのは、グレーバーとウェングローがジェンダーの社会的構築に対して関心を示さないことである。彼らはミノア・クレタ島における母系制のほぼバコフェンを再現する一方で、女性は養育者であり、男性はいじめっ子であるという家父長制的なステレオタイプを散見する。
不平等は常に私たちとともにあったというのが彼らの主張であるため、グレーバーとウェングローは、人類の性別による不平等の起源についてほとんど何も語っていない。
男女関係の進化については、基本的に3つの学派がある。まず、進化心理学者たちであるが、彼らの主張は非常に保守的である。ジャレド・ダイアモンド、ナポレオン・シャグノン、スティーブン・ピンカーは、不平等、暴力、競争は人間の本性の基本であると主張する。彼らは、男性は進化によって他の男性と競争するようにプログラムされているため、強い者が女性を支配し、より多くの子どもをもうけることができるからだと言う。これは残念なことであり、幸いにも西洋文明はそのような原始的な感情を部分的に手なずけてきたとピンカーは言う。
偉大な生物学者であり、トランス活動家であるジョーン・ラフガーデンは、こうした考えを『薄く偽装されたレイプ物語』と正しく表現している。このような議論は実に忌まわしいものであり、そのためだけにグレーバーやウェングローが否定したのは間違いない。
非常に長い間、フェミニスト人類学者の間では、第二の学派の考え方が支配的であった。この学派もまた、女性と男性の間の差異を本質化し、女性と男性の間に何らかの不平等があることをあらゆる社会で当然のこととして受け入れていた。
私たちが支持するのは第3の選択肢である。歴史学、人類学、考古学の記録に顕著な特徴がある。人々が経済的、政治的に平等な社会で暮らしていたほとんどの場合、女性と男性も平等であった。また、経済的に不平等な階級社会が存在したところでは、そこでも男性が女性を支配していた。
私たちにつきまとう疑問はこうだ:なぜなのか?
グレーバーとウェングローはこの問いに取り組んでいない。彼らは性差別について何の説明もしないし、男女関係がどのように、あるいはなぜ変化するのかにも関心がない。しかし、彼らは性差別主義者ではない。彼らは何度も女性抑圧の事例に触れているが、それは一過性のものである。彼らの関心事の中心にはないのだ。だから、私たちには印象的な一致に見えるが、彼らにとっては蜃気楼なのだ。
グレイバーとウェングローの説明の重要な部分は、農耕と階級的不平等、そして国家の出現との関連を軽視しようとする決意のもと、階級的不平等や戦争、さらには奴隷制さえも存在した狩猟採集民のグループに焦点を当てている。考古学者は彼らを「複合狩猟採集民」あるいは「複合採集民」と呼んでいる。
グレバーとウェングローは、先史時代の人々が無国籍で平等主義的であったか、暴力的で不平等であったかのどちらかであったという証拠として、これらの人々を取り上げている。それは証拠が示すところとは違う。[7]
典型的な例は、フランツ・ボースによって研究されたクワキウトル族と、カナダの西海岸、コロンビア川とフレイザー川の近隣の人々である。この川と海岸では、莫大な数のサケが遡上していた。限られた数の隘路や漁場を支配する者は、莫大な余剰を蓄えることができた。コロンビア川のギャレスがその一例だ。少人数で10万ポンドのサケを獲ることができた日もあった。
それは例外的なことだった。場所によって差はあった。しかし、沿岸部や河川全域にわたって、サケの資源が豊富であればあるほど、考古学や文献記録には階級間の不平等が表れている。富の不平等はしばしば極端であった。また、これらの人々は複雑な軍事技術を持っており、大勢の戦士を乗せ、数人で何カ月もかけて作るような大きなカヌーを使っていた。
事実上、農民が田畑に囚われていたように、これらの人々は漁場に囚われていた。そして農民と同じように、サケ漁師たちにとって貯蔵は不可欠だった。考古学上の記録を遥かに遡ると、彼らの骨や歯を調べると、年間の食生活の40%から60%がサケからもたらされていたことがわかる。サケは数週間しか獲れないので、その食生活の大半は乾燥サケによるものだったに違いない。
農民と同じように、環境的制約と新技術が階級社会の可能性を開いていたのだ。こうした過程は、『万物の黎明』にはまったく見られない。そのかわりに、50年前の学部生がクワキウトル族について語った、浪費的で貪欲なポトラッチの饗宴の民という、お決まりの説明がなされている。この説明は、その後の膨大な研究成果を無視している。
天然痘と梅毒で人口の6分の5を失い、金鉱探鉱者によって征服され、そして蹂躙され、最終的にはカナダ政府によってポトラッチの宴が禁止された人々の中で、あの無秩序な宴は、権力にしがみつこうと必死だった支配階級によって管理された伝統的な生活の祭典であったことが、今ではわかっている。深い物質的な悲劇が、非合理的な茶番劇として語られている[8]。
西海岸の漁民だけが「複雑な採集者」だったわけではない。世界中には他にも例がある。しかし、それがいかに少ないかは注目に値する。さらに考古学者たちは、現在より7,000年前より古いものはひとつも見つかっておらず、14,000年前より前に戦争があった証拠もない。
複雑な採集民の数が少なく、その起源が新しいのは、技術の問題かもしれない。確かに、カリフォルニア沿岸のチュマシュ族が不平等と戦争を発展させたのは、紀元600年以前に大型の外洋用板カヌーの建造を習得してからである。
彼らは「複合型採集民」の第三の例として、フロリダ南部のカルーサ族を選んでいる。ある意味では、これらもまた、支配的な首長、戦士、階級格差、奴隷制度、高価な戦争用カヌー、海の哺乳類、ワニ、大型魚の漁業に依存する漁民であった。
グレーバーとウェングローは、カルサ人を「非農耕民族」と表現している。しかし、彼らが認めているように、カルサの漁民はもっと大きな政治の中で支配的なグループであった。他のすべての集団は農耕民であり、カルサ人の支配者に大量の食料、金、奴隷にされたヨーロッパ人やアフリカ人の捕虜を貢納していた。その食料によって、カルサ族のエリートたち、そして300人のフルタイムの戦士たちは働かずに生活することができた[10]。
原爆を悪の兵器だと考えているのは日本人とドイツ人くらいではないか。それくらい珍しい。
「原爆のおかげで第2次世界大戦を早期終結し被害を最小に防げた」と習うだろう
日米の原爆に対する反応の違いは教育の結果であるということは意識した方が良いと思う
アメリカ・イギリス・ロシア・フランス・中国のみが保持して良い。他の国は禁止するという立場。
ただしちょっと複雑なのは、日本国としては核拡散防止条約に批准しているのである。
国としては核不拡散、国民一人一人の思想としては反核という少し不思議な国なのだ。
一方、現在のアメリカの立場として核兵器の放棄ができないというのはなんとなく感じるところだと思う。
アメリカが国民に反核教育を施すことはこれからもおそらくないだろう。
米ソ冷戦時代には日本の核武装も盛んに議論されていた。世論が一気に反核に傾いたきっかけは第五福竜丸事件である。
1954年、ビキニ環礁でアメリカ軍により行われた水爆実験に巻き込まれ被爆した。
シンゴジラでは役人達の群像劇だったが初代ゴジラは研究者達による群像劇である。
水爆実験で生み出されたゴジラが街を破壊し始める。そこに三人の研究者が登場する。
上の二つは 核武装、原子力発電 のことである。三つ目は当時原子力委員を務めていた湯川秀樹の主張である。原子力発電を輸入する前に基礎研究を進め理解することを訴えたが受け入れられずに辞任した。以降湯川は反核運動を率いた。
初代ゴジラの主人公もまた研究者である。ゴジラを倒す兵器オキシジェンデストロイヤーを開発するが、それを公表すべきか苦悩する。使えばゴジラを倒せる。でも戦争で新たな犠牲者を生むかもしれない。
主人公はオキシジェンデストロイヤーを使いゴジラを倒した後、ゴジラと共に海に沈んだ。自らの命を断ち兵器の秘密を守ったのである。
以上が初代ゴジラのあらすじだ。当時の世相、そして原爆を生み出した核理論屋の苦悩を色濃く映し出している。
日本のアニメ・漫画・ゲーム等のコンテンツには悪の兵器として核兵器が登場することがしばしばある。
例えばメタルギアシリーズ。
メタルギアシリーズでは悪の兵器として核搭載二足歩行ロボが登場する。
初代の時点では特に他意なく、悪役の持つ最悪な兵器といえば核兵器、という日本のアニメでは特にめずらしくもない設定であったと思う。
ところがメタルギア・ソリッドが米国で大ヒットしたことで「アメリカの若者に反核思想を植え付けている」と批判の声が上がった。
小嶋監督がこの反応をどう受け止めたかわからないが、MGS2 以降ごそっと反核をテーマにした作品になった。
アニメやゲームが反核思想を広めるというのは興味深い動きだと思う
取り留めもなくなってしまいましたが
どうもですググって勉強になりました
日本における受容
海外の英語圏で流行していた「幸運の手紙」が日本で最初に流行したのは1922年(大正11年)のことで、外国に知人がいる上層階級から侵入したとみられている[2]。 戦前の「幸運の手紙」は大人の間で拡散するものであったが、1954年(昭和29年)頃から子供の間でも「幸運の手紙」が広まり始め、1970年(昭和45年)秋頃には「幸運の手紙」は「不幸の手紙」へと変質し、子供の間で流行した[3]。
また「幸運の手紙」は商品の広告や選挙活動のほか二次大戦中には反戦運動にも利用され、特高警察が取り締まりを行っている[4]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB
東京都の事例
スヴォボダおよび田中の調査によれば、1946年4月4日の深夜、3台の軍用トラックに便乗した米兵50人が東京都大森区(現・大田区)の中村病院に侵入し、号令の笛とともに約一時間の間に女性患者40人、女性職員37人を回姦凌辱した[16]。被害者のうち、2歳の幼女は事後床にたたきつけられ死亡したほか、止めに入った男性職員一名が殺害された[16]
名古屋市の事例
また、田中によると、同1946年4月11日に名古屋市の住宅街に侵入した30人から60人の米軍兵士が地域内の電話回線を切断後、各家屋に同時に侵入し、10歳から55歳の女性を強姦している[17]。
ダワーの調査によるとRAAが活動終了した1946年以降、日本人女性に対する占領軍将兵による強姦件数は一日平均40件から一日平均330件に急増した[13]。
在日米軍による犯罪は続き、1952年5月から1953年6月の警察資料でも殺人8、過失致死435、強姦51、暴行704など合計4476件の犯罪が報告されており、1954年2月には宇治市大久保小学校4年生の女子児童が強姦されたあとに陰部から肛門まで刃物で引き裂かれる事件が発生し、ほかにも4歳の幼児が強姦され、危篤状態になった事件や、突然狙撃されて死亡した事件などが多発した[9]。
※ほぼメモ書きです。
ローズマリー・サトクリフ(Rosemary Sutcliff, 1920-1992)といえば、『第九軍団のワシ』をはじめとするローマン・ブリテンシリーズで有名な作家である。このシリーズは、一般にローマン・ブリテン三部作(『第九軍団のワシ』、『銀の枝』、『ともしびをかかげて』)ないし四部作(『辺境のオオカミ』も加える)と呼ばれている。岩波書店でもそう書いている。
https://www.iwanami.co.jp/book/b269788.html
一方、英語版Wikipediaのサトクリフの項目を見ると、『第九軍団のワシ』シリーズは他にもある。要は、4部作で終わっているというわけではないのだ。ファンサイトSutcliff Wikiでは、正式名称ではないとしつつ、"Dolphin Ring"と呼称している(一方、第九軍団のワシ、銀の枝、ともしびをかかげてを指してRoman Britain Trilogyという言葉遣いもされている。実際、1980年にThree Legionsというタイトルでセット本が出ている)。その作品群について整理しておく。
(1)作中時系列順
2世紀:第九軍団のワシ(The Eagle of the Ninth)
3世紀:銀の枝(The Silver Branch)
4世紀:辺境のオオカミ(The Flontier Wolf)
5世紀:ともしびをかかげて(The Lantern Bearers)
9世紀:剣の歌(Sword Song)
1954年:第九軍団のワシ(Oxford University Press)→岩波書店、1972年
1956年:盾の輪(同)→山本史郎訳『シールド・リング ヴァイキングの心の砦』原書房、2003年
1961年:夜明けの風(同)→灰島かり訳『夜明けの風』ぽるぷ出版、2004年
1963年:落日の剣(Hodder and Stoughton)→山本史郎・山本泰子訳『落日の剣 : 真実のアーサー王の物語』原書房、2002年(2巻本)
1980年:辺境のオオカミ(Oxford University Press)→岩波書店、2002年
1997年:剣の歌(The Bodley Head)→山本史郎訳『剣の歌 ヴァイキングの物語』原書房、2002年
これらの作品群がファンWikiでDolphin Ringと呼ばれているのは、言うまでもなくアクイラ一家のあのイルカの指輪(=古代ローマ人のハンコ)が共通して登場するからで、時代の流れとしても共通した設定を持っているからである。ただ、『三銃士』シリーズのような一貫した主人公や陣営を描いているわけではない。第九軍団のワシの主人公マルクス・フラーウィウス・アクィラ(訳書には従っていない)は、元々属州ブリタンニアに駐屯するローマ軍団に属していて、家のルーツはエトルリアにあるから、もとはといえばイタリア半島の人間なわけだ。ところが、彼が色々あってブリタンニア定住を決め込んだことが指輪の運命を決めている。『銀の枝』の主人公ティベリウス・ルキウス・ユスティニアヌス(ジャスティン)とマルケルス・フラーウィウス・アクィラ、『辺境のオオカミ』のアレクシオス・フラーウィウス・アクィラ、『ともしびをかかげて』の主人公アクィラ(上の名前は不詳)は、いずれもマルクスの子孫にあたる。
もっとも、ローマ軍団が描かれているのは『辺境のオオカミ』までであり、『ともしびをかかげて』はローマ軍団がいなくなったあとのブリタンニアを描いている。基本、サクソン人とブリトン人との戦争が描かれる。『落日の剣』はその後日譚にあたるが、主人公はアンブロシウス・アウレリアヌス(この人は実在の人物で、サクソン人と戦っていたブリトン人の指導者)の甥アルトス(アルトリウス)となっている(もちろんアクィラも登場するが)。つまり本書はアーサー王伝説の翻案なわけである。しかも『ともしびをかかげて』よりも長い。『ともしびをかかげて』は、20年ほどを描くが、後者は40年ほどのスパンがある。本書は明らかに大人向けであり(ファンWikiにもFor Adult Readersとある)、児童書である他書と毛色がかなり異なる。
『夜明けの風』はアルトスよりも100年ほどあとの時代で、デオルハムの戦いで壊滅したブリトン人の王族の生き残りオウェインが指輪を持っている。『剣の歌』では主人公はヴァイキングの少年ビャルニ(指輪は、ウェールズで暮らす少女アンガラドが持っている)になっている。そして時代的にはもっとも最後にあたる『盾の輪』の主人公もまたヴァイキングの少女フライサと孤児ビョルン(後者が指輪を持っている)で、湖水地方に立てこもってノルマン人に抵抗する様が描かれる。
見ての通り、厳しい立場に立たされた者を主人公にするというプロットはほぼ一貫している。『第九軍団のワシ』は父親の不名誉(ちなみに時代はあのハドリアヌス帝の治世にあたる)、『銀の枝』はカラウシウス帝に忠義を尽くした故に叛逆者となってしまった二人(なおこの頃の皇帝といえばディオクレティアヌスだ)、『辺境のオオカミ』は軍人としての失態だが、同時にローマ帝国と辺境民族(ピクト人)との戦いが背景にある。『ともしびをかかげて』は撤退するローマ軍から脱走して敢えてブリタンニアに残った主人公の苦労が描かれるが、彼の立場を厳しくしているのは、サクソン人のブリタンニア侵入である。サクソン人と戦う側が主人公になっているのは『夜明けの風』が最後で、『剣の歌』以降はヴァイキングが主人公になっている。アングロ・サクソン人のブリテン島征服が一段落して平和になったと思ったらデーン人がやってきたわけだ。さらにそのデーン人もノルマン・コンクエストで痛めつけられる(ノルマン・コンクエストは、思いっきり誇張すればデーン人(+アングロ・サクソン人)対ノルマン人の戦いであり、こいつら全員元をただせば海賊である)。ローマ人、ピクト人、ブリトン人、サクソン人、デーン人、ノルマン人とイギリス史に登場する諸民族の融和がシリーズのコンセプトとなっている(それは第一作の時点から明らかで、イルカの指輪は父を殺害したピクト人の長老がマルクスに返却している)。
出版年代を見ると、最初の『第九軍団のワシ』とシリーズ最終作となる『盾の輪』がもっとも早く出ていることが分かる。そして63年の『落日の剣』まではほとんど2年おきに出している。それから間が空いて80年の『辺境のオオカミ』と遺作の『剣の歌』がある。特に『剣の歌』は推敲が十分でないように思われる箇所もある(作業途中で亡くなってしまったのだろう)。日本語訳では『ともしびをかかげて』が一番早い(おそらく、内容的に最も評価されているのではないかと思う。カーネギー賞もとっているし)。明らかに児童文学ではない『落日の剣』はともかく、児童文学作品でも猪熊訳と山本訳(と灰島訳)とに分かれる。版権取得の問題かもしれないが、あるいは猪熊の作業量の限界だったのだろうか(1928年生まれだし)。そもそも『夜明けの風』は『ともしびをかかげて』の割と直接的な続編といって良いだろう。なお、自分の親は子どもの頃に『第九軍団のワシ』と『ともしびをかかげて』を読んでいたようだ(サトクリフの名前を出したら「あの小説か」と反応があった。結局「三部作」を貸している)。年齢が結構高い人でも、その二つは知っているのではなかろうか。
英語圏では多分されていない「四部作」(第九軍団のワシ~ともしびをかかげて)という言い方も理由がないではない。この四つはシンメトリカルな構成をしている。『第九軍団のワシ』『辺境のオオカミ』と『銀の枝』『ともしびをかかげて』(つまり13・24)と並べられる。前者では、主人公は百人隊長として失敗したあと、北方辺境で名誉回復を遂げる。後者では、大陸への渡海という選択肢を捨て、ブリテン島南部で戦う。「四部作」はアクィラ家のアイデンティティがローマからローマン=ブリテンへと移り変わっていく物語なわけである(既に『銀の枝』でカラウシウス帝の口からローマ帝国亡き後にどうローマを残すのかというテーマが語られる)。そしてもはや「アクィラ」という名前が語られなくなった世でも、困難に立ち向かうアクィラ家の精神は、イルカの指輪に象徴されてあとからきた民族へと受け渡されていく。そして現代のイギリス人にも・・・というのがサトクリフの言いたいことなのだろう。
リベオタ=twitterで目立つリベラル思考のオタク、性別は問わない……という意味で用いている。
いや私自身もどちらかというとポリコレを支持しているし、リベオタなんだけどさ
ほんの僅か数ヶ月前の出来事に「黒人エルフを叩いていたのは男オタ」なる歴史修正をするのはやめてくれよ。当時の5chのログは普通に見られるよ
「『 男オタが』、黒人エルフを叩いていた」というとは全く事実とは異なる
まあ中には男もいたかもしれんが、男だけじゃなかった事は確かだよ
私は女だし、多分半数以上は女性だったと思う
しかもオタクはオタクでも最近用いられている、特定の作風のアニメ漫画ゲームのファンという意味のオタクではなく、『トールキンオタク』『指輪物語オタク』の方だ。
トールキンの指輪物語は1954年に原作が出版されてからというものから全世界で広がり、日本においても人気を博し、
エルフ語を本気で勉強したり英国留学したりするようなディープなファンが数多くいる
自分はピーター・ジャクソン版の映画から入ったけれど、それだってもうファン歴20年だ。
原作を読み、未邦訳の書籍を読み、オックスフォードに聖地巡りもした
映画版は今でも大好きだけれど原作ファンからしたら批判すべき点があるのも承知している
指輪物語のアマプラドラマ版の『力の指輪』はトールキン財団の協力は得ているといっても原作の時代設定や人間関係を大幅に変えており、黒人エルフのアロンディルの存在もその一部だ
原作にあるエルフの肌が白いという記述はエルフ全般ではなく上のエルフであるノルドールに限られるとの反論もあるようだが、
上のエルフを白い肌にして在野のエルフであるシルヴァンエルフのアロンディルを黒い肌にするのはそれはそれで差別的では?
このドラマではエルフに限らず人間もドワーフもホビットも、特に脈絡なく黒い肌のキャラクターが混じっているが、そのような人種のサラダ・ボール化は移動が盛んになった現代だから有り得るのであって、太古の地球を舞台にした世界観には合っていないよ
黒人エルフに批判的なファンであっても、東夷やハラドの英雄を描いてくれたら支持したという声もあった。
シルマリルの物語の方ではエルフに協力して戦った有色人種の英雄だって出てくるのに。
別当 薫(べっとう かおる、1920年8月23日 - 1999年4月16日)は、兵庫県西宮市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、解説者。
セ・パ両リーグ分立前後に走れる長距離砲として活躍した外野手で、
1948年から1953年まで6年連続でベストナイン外野手に選ばれた。
1948年に阪神に入団し、藤村富美男とダイナマイト打線の中核をなす。
最高殊勲選手に選ばれる。
1952年と1954年から選手兼監督を務めると、以降近鉄・大洋・広島で20年に亘って指揮を執り、監督としても1237勝を挙げた。
知名度、後世への影響、漫画史的意義などを独断と偏見で考慮した上でサブカルくそ野郎フィルターで濾した二番煎じを俺も作ってみたぞ増田ァ