はてなキーワード: 小中学生とは
僕の頃(小中学生)はまだ携帯電話も高くて持てなかったし、メールアドレスもなかった。
手紙と電話しか連絡手段がなかったけど、それって結構ハードル高い。特に異性とか。
で、電話帳簿もあるんだけど、何年もたってからこれ使ってかけるにしても、ねえ。
でもさ、今なら小学生でも携帯電話持ってるし、スマホ持ってるし、Twitterできるし、Facebookできるし、mixiでもいいけど、はてなアカウントでもいいけど、とにかく気軽にできるじゃん。ゆるいつながりの最大のメリットを遺憾なく発揮できるじゃん。写真もこんなことあったよ~ってちょっと撮ってぱって送れるじゃん。いいよね。素晴らしいよね。
というわけで、父の転勤のお陰で中学校までの交友関係がズタボロな30歳が書き込みしました。
幼馴染いいよね。男でも女でもクンカクンカしたい。
ああ、あとこういうので「古い人間関係に縛られてるのはよくない」とか言うけど、ふつう引きずるもんじゃん?
新しい交友関係ができてないわけじゃないし、携帯GETした高校以降はアドレス更新告知もしてるし、年に一度は会える。
もう幼稚園レベルで同窓会したいよね。人のおもちゃを黙ってくすねるあいつや結婚して~って追いかけてくるあいつやおとまり保育で隣だったあいつが今何してんのかとか、すごい興味あるじゃん?そりゃあセレブでノマドでビジネスマンな輩にとっては、生産性のないつながりとかさっさと切り捨てて身軽になりたいとかあるんだろうけど、むしろ仕事して長くなるに連れてこういう欲求が高まって高まってしょうがないよね。
あのノリでつぶやいていたら、まだ小中学生の女の子やメンヘルな人が炎上の標的になった場合
昔2chであった音ゲー絡みで中学生の子がネットいじめで自殺したケースと同じバットエンドルート辿るかもねー
っていうかそういう事態になるまでは誰が忠告しても聞き入れないでしょうね
同志だけで肯定しあって標的一人を集中して攻撃して「黙らせた」と勘違いし続けとけばいいんじゃない?
所詮はTwitterの一角にある極小「テラリウム」の域を出ないつぶやき群に過ぎないのだから
増田で同意求められてもねー 食いついたら離れないスッポンが何匹も入っている「テラリウム」の水槽の水をはてな村にこぼすなと元増田には言いたい
何か人と付き合うことにしっくりこない感覚、というものをかれこれ15年以上は持っている気がする。どうも振り返ると、小中学生の頃くらいからの軽度の人間不信をずっと払しょくできずに、ここまで生きてきている気がする。その感覚を持つに至った原因については自分なりに把握しているつもりだが、それを匿名であっても、女々しく書き散らすことを、どうも自分のつまらないプライドが許さないようなので、大人しくそれに従うことにする。あるいはもしかしたら、世代的なものかもしれないな、と期待してみたり。ちなみに「軽度の不信」というのがポイントで、この手のコミュニケーション的な問題が重度である場合は日常生活もままならないのであろうが、軽度の場合は自分なりの適切な処置、たとえば少しうんざりしたら人と距離を置くとか、そういったことでなんとなく誤魔化して、社会に適合するフリができてしまうのだ。そうやってだましだまし過ごし、根本的な治癒を得ずにここまできた結果が、目に優しくないいびつな心の形であり、時折迫りくる妙にうっとうしく深刻な思いつめたような憂鬱の正体なんだろう。
しかしその実、自分は安楽椅子に寄りかかりながら、分厚い本を眺めてひたすら自己満足を発電し続けるようなタイプではなく、明らかに他者との交流を必要とする人間だ。だから他者に触れることで傷つくのでは、と怯えつつも、それでも他者との接触を必要とする、矛盾した二つの感情が風鈴の風受けのようにふらふらと揺れながら、どこまでも曖昧に自分の人生を決定してきた。思い返してみれば、自分が妙に「作品」的なものにこだわるのは、そういう創作物が、両者の溝を埋める役割があるのではと期待しているからではないのか。だからモノづくりの会社に入った時は、自分の願望、つまり「距離を取る濃密なコミュニケーション」が、創作物によってかなえられるのではないかと思っていた。しかし問題はその製作過程にあって、そこではチームメンバーとの非常に濃密なコミュニケーションが必要とされるのだった。しかも会社員としてこれをする以上、「距離を置く」、「逃げる」、「関係を断つ」といった、自分がこれまで問題に達したときにやっていた対処法を実践することができない。心の弱さと直接向かい合うことに慣れていない自分にとっては、それは非常に苦痛だった。問題を解消する努力をしてこなかった代償を、思いっきり払わされた形になった。
そしてもうひとつ思い返してみれば、自分が必要以上に語学を欲するのも、間接的にコミュニケ―ションの欲望をかなえようとしているに過ぎないのかもしれない。だとしたらお笑いな話ではある。語学とコミュニケーションの濃密さは、本質的には関係がない。英語もフランス語もなにも喋れなくても、外国ですぐに人と人との輪に飛びこめてしまう人間というのは居て、そしてその逆もしかり。形式は形式で、それは時に効果的な会話の一助になるのかもしれないが、しかしコミュニケーションの実態や本質とは離れた別のところにある。
「代償を払わされた」、と書いたが、負債はまだ返し切れていない。桁が大きすぎる。おそらく今後一生、心にこういう不安を抱えながら、少しずつ返済していくしかないのであろう。そういう負の要素が人生の枠組みを形づくるというのは、指針がなにも無いよりは、もしかしたらましなことなのかもしれない。ただ少なくとも、あまり気持ち良いものではないのは確かだと思う。
小さいのに露出度の高い格好してたら、そりゃ襲ってくれと言ってるようなもんじゃん
正直犯人は許されないけど、被害者にも同情はできない。だって襲われるような恰好してて襲う奴が悪いって発想だもん
ナンパも互いの同意がなければ半ば売春買春のそれと同じなわけで同意があっても最近は逮捕者出てるでしょ。
金さえせしめれば男の人生は終了でいいっていうような女の子が最近増えてるのも分かる。
ましてジャニタレに物凄い執着する小中学校の女の子からすれば理想は当然高い。AKB48とかいう売春集団もプリクラ流出とかで見かけるけどアレ皆DQN系のジャニタレみたいな子ばっかじゃん。今のトレンドを象徴してるでしょう。そうなるとジャニタレ未満のフツメンはブサメン同様通報されるのかな?
面白いよね、最近小中学生に対する需要(ロリコン)が増加していくけど一方で逮捕者も増えてるじゃん。
しかも逮捕されるのは実名で下手したら住所もバレて村八分じゃん。そこまで危険を冒す奴も阿呆だけど、そういうのを相手にして商売してるJSJCはホント末恐ろしや。
警察も警察で検挙数・率で昇給が決まるから女の子が売春しようが見て見ぬ振りをし続けるところは面白いね。そりゃ犯罪増加するわ。
つまり一連の事件っていうのは、小中学校の女の子が売春婦の格好して阿呆なおっさん捕まえて金貰ったら通報して警察に逮捕される構図なわけ。要するに警察もグルってことだよね。
僕は素人童貞です。
小中学生の時は告白なんて時々あったけど、結局付き合ったことはなく、全てお断り。
小学生の時は興味がなかったから、中学生の時は相手がちょっと…な感じ。高校はキモオタなのでまあモテナイですね。
大学生になって、そう1年生の終わり、同回生が好きになってようやく「付き合う」ことにチャレンジ。キスでおしまい。
次に後輩と良い感じになって、彼氏から寝とるような形になりかけたのだけど、僕がうじうじしちゃったので
結局その子とは付き合うとかはなく、ちょっとペディングまで行ったところで終了。
その後無性に悲しくなってちょんの間に駆け込み、貴重な童貞をころっと失ってしまったのです。
さあここからドッコイ。
3回生になってバイトもしたり、講義での出会いがあったり、何だかんだで仲が良くなる女の子は多くなってきました。
そして彼女ができました。もう1年近く付き合っているんでしょうか。
本番以外は全部やりました。後は息子さんに頑張って入ってもらうだけですね。
でも彼女は結構いたがるので、まだ先っぽしか入ってません。先っぽだけだから!先っぽだけだから!ってまさにそのとおりですね。
別に焦っちゃいません。時期が来ればその時でいいと思うんです。
でも結構大きな理由があって。
そう、オナニーで事足りてしまう。彼女が出来てからも他の女の子に誘惑されたり、色々揺れ動く時間がありましたが、
結局僕は素人童貞のまま。浮気も出来なければ彼女と本番をする勇気もない玉なし野郎です。
もちろん彼女が大事だから浮気はしませんでした。年取ってる人にちょっと相談すると、お前ってやつは遊びをしらんなー(笑)とか
茶化されたりしちゃいますが。別に浮気をしたいとかじゃないんですけど、多分僕はどこかで素人経験をしないと
ここから先に進めないんです。痛がるからオナニーで済ませちゃう今の自分から。正直焦ってます。
何時まで経っても子供。女の人と、本当はどのように接したらいいか感覚的にわかってない。
知識じゃなくて感覚。多分これ結構大事。自分の支えというか、やっぱり童貞ってやだなーって思う心みたいなのってあるじゃない。
さる一般開放された地域のコスプレ系イベントのスタッフ手伝いに行ってきて
疑問に感じたというか、言い方はなんだけど気持ち悪いなぁという感想を持ちました。
午後になると沸き出したのが
足だけは処理しているが、基本ノーメイクで、
不潔感があったりなど、贔屓目に見てもひどい…。
不審者感が丸出しで偉い人なんかは要注意視線を注ぎ出すし、
そういった方たちはずっとニヤニヤしていました。
その後ろに「私も入ります!」とか叫んで無理に入ってくる方も。
娘を連れたお父さんに「寄るな!」と一喝されたひともいました。
小さいお子さんも来るイベントでしたので、
ちょっと今後のことも考えると、
本当にああいう方々は何をどう考えて出てきているのでしょうか。
Studygiftの騒動で、家入氏について思うのは、彼はあんまネットみてないんじゃないかな、ということだ。そのくらい、ネットの空気感に対して鈍感になっているのを感じた。
まず最初に坂口を起用した点。「はあちゅう」的存在感全開の坂口を看板に建てるあたり、完全にネットの空気に対して鈍感になりはじめているとしか思えない。昔の家入氏ならその坂口的存在感をこそ笑っていたし、そういうネットゴロに対する健全なアンチ精神があったと思う(例えば夕日ばっかり投稿するサービスを作って、実は顔のアイコンだけで人気が決まるランキングを作るとか)。それと特に昔から面白くない(けど小中学生に人気があるから人気がある人に見えてしまう)ヨシナガ氏をプロデューサーにするとか、ほんと周りに人材いないんちゃうんかと思ってしまう。
こういう、実は「実は特に人気もないんだけど、フォロワー数や話題性で人気者風に見える人」をピークから遅れて起用するのはたいてい「数字しか見ていない業界人」の仕事(名前も聞いた事ないアフェリエイトの達人みたいなのが、さも有名人のごとくテレビに出ているときに感じるアレ。業界の中にいない人が業界を描こうとするときに生まれるあの周回遅れ感)そのもので、家入氏のアンテナの感度の低さを顕著に感じる。
(百歩ゆずってもし今回、坂口に寄付金を集めるのが本当の目的だったとすれば、先に適当な学生を何人か建てて、寄付を集めて、その後で坂口を登場させるべきだろう。)
いや、むしろ彼がそういう日本的なウェブ空間、業界のしがらみからあえて鈍感であろうとしているのも分かる。そういう異端児キャラを彼は自分のアイデンティティにしようとしているから。
ただそれならば、せめてその「あえて」感をこそ出すべきで、このやり方ではバカは騙せても、ネットの中枢にいるギーク層、論客層、はてな層、2chらーなど、「ラウドマイノリティ(少数だが影響力の強い人々)」にたたかれるのは、必然であったと思う。そこら辺を納得させる/牽制する要素が、サービスの中に何もなかったことに正直驚いた。(その辺り、ひろゆきなんかは周到に、馬鹿相手に話しつつも、常にその後ろ側にいる玄人ユーザーへの目配せを忘れていないし、はてなは逆にそこから抜け出せないんだが)
昔の家入氏はバカを装いつつもコアな部分でネット好きというのがよく伝わってきたからこそバカからもギークからも愛されていたと思う。そういう空気にきちんとリーチしたものが、ペパボ以降の彼からはまるで感じられなくなってしまった。
虚構新聞の「橋下市長、市内の小中学生にツイッターを義務化」という記事がTwitterによって拡散されて、騙される人が続出するという事件がありました。
それに対して、虚構新聞は「もっと嘘だとわかるようにするべき」とkyoumoeさんやn-styleさんが指摘。
しかし、はてなユーザーには「嘘を嘘と見抜けないバカがわるい」という意見も根強くあるようです。
でも、結論からいうと、ネットメディアは『バカにわかるように』設計するべきです。
なぜなら、見出しだけ見て早合点して、RTするバカが世の中にはたくさんいて、その人達を啓蒙したところで、ジャンプのインフレバトルよろしく、また第二・第三のバカが現れるからです。
いくら「ソースはちゃんと読んだ上でRTしよう」なんて議論をしたところで、虚構新聞のネタにつられるような人達は、そもそもそんな議論見てすらいません。
「虚構新聞の存在を知っていればいいだけ」ただの中堅テキストサイトのローカルルールを、なぜ一般の人達が知らなければならないのでしょうか。
「虚構新聞は一見ホントっぽい嘘を楽しむサイト」といっても、普通の人はそんなことは知らない。
で、虚構新聞の存在も知らないし、ソースを見ない人にとっては虚構のネタって「ユーモア」ではなくて、「デマ」になってしまうのですね。
「ソースくらい読めよ」「虚構新聞っていうのはね・・・」なんてリテラシーを受け手に身に付けろというのは傲慢だし、おそらく徒労に終わる啓蒙主義です。
インターネット文化の中で、自由に引用・RTされると、自分の意図した情報が曲解され、デマなり、名誉毀損なりの形に変形してしまいます。それを書き手はコントロールできません。
本当に、正気の沙汰で、RTされた情報を見る不特定多数の人達が
・みんなソースを見て確認する
・みんな虚構新聞のジョーク性を理解して、ジョークとわかるようにRTする
すると思ってるの?本気?本気?ねぇ本気?
無理でしょ。どれだけ議論をしても、啓蒙をしても、その議論が届かないところにバカはたくさんいる。バカはやっぱり確認しないでデマを広げて、新たなるバカを呼び覚ます。
これ、しょうがないんだって。Twitterのユーザーは嘘を嘘と見抜く百戦錬磨の情強ではなくて、ネットによるまともな情報収集なんて3.11のときにはじめましたみたいな人ばっかりなんだから。
したがって、情報の書き手は可能な限り、「フールプルーフ(馬鹿でもわかるように)」情報を発信するべきだよ。
たとえば、虚構新聞なら、記事タイトルに「虚構新聞」とつければいいだけじゃない。それで解決するよね。自分がコントローラブルな部分で、最大限誤解に配慮したつくりをするべきです。
確かに、タイトルに虚構新聞をつけるとソース確認で生まれるPVを捨てることになるから、やりたくないのはわかる。
それに「ソースを見て、騙された」っていうのも虚構新聞の楽しみだからね。それもわかる。
けれども、人名を「橋元」にかえるとか、ジョークの範囲内で、ユーモアを達成することはできるじゃん。
「おもしろ」は人に迷惑をかけない範囲でやるから「おもしろ」なんであって、デマになる危険性があるのに、やるべき施策をしなかったらそれはデマゴーグじゃないですか。
かつて俺が現役中学生だったあの頃、ネットにはむしろ子どもしかいなかった。
まだブログなるシステムもなくてチャットと掲示版(と時々eメール)がコミュニケーションのすべてだった。
どこ見回しても一生懸命背伸びして大人に見せようとしている小中学生ばっかりだった。
高校生はマジ大人に見えた。大学生なんてガチの大人で年長者だから基本的にその意見は容れねばならないーみたいな長老的存在だった。
ゲーム攻略をコンテンツにして集客するサイトだったからかな? ターゲット層がもともとガキだったから?
そんで幾人かのたぶん高校生&大学生が、技術的なことなんかで時々相談受けたりアドバイスしたりしながら動かしてたサイトだったはず。
厨二病まっさかりの俺にとって、その運営陣のウチワの空気がどんだけ羨望と嫉妬をあおったことか。
あの頃には絶対戻れない。今更。
タイムマシン開発されてないしーとかいうことじゃなくて、あの程度の簡易システムを今実装したって人が集まらないだろうってこと。
いろんな人がいーっぱいいてそいつらと趣味とか好きなものをキーワードに交流できる! がウリの大規模SNSに匹敵するようなものになるわけがねー。
橋下大阪市長が府知事時代におこなった行政改革を陰ながら応援していたものの、
彼を今ひとつ信用出来なかったのは、長い間、島田紳助の盟友だった、という事実のせいだ。
昔の交友関係だけで人を判断するのは間違っているのだから、随分と私の心は狭い……。
そう自分を責めていたが、最近の彼の言動を知ると、直感の方が、どうやら正しかったようだ。
島田紳助が昨年引退したのは、暴力団との親密な交際が発覚したという理由だった。
だが、彼が責められるとしたら、それ以上の理由があるだろう。
吉本の女性社員を、人気のない部屋に引きずり込んで、壁に顔面を4、5発以上もたたきつけ、ツバをはきかけた。
これまでも立場の弱い者に対して、裏では暴言や暴力をふるっていることが関係者から暴露されていたが、
彼の嗜虐性、異常性、卑怯性、利己主義ぶりなどが明らかになった。
事件が発覚してもなお、数年もの間、なぜ、人気司会者として、テレビという公器で権威をふるい続けられるのか。
これほど理不尽な話はなかった。
橋下は、紳助の暴力行為の発覚後も、紳助の番組で長い間、出演を続けていた人気弁護士の一人。
弁護士が、最低な人間の人権を守るために活動しなくてはならない場合は、たしかにある。
だが、紳助の番組に出演することは、弁護士の倫理観とは別物だ。
むしろ倫理を重んじるならば、潔く番組を辞めるべきだったが、橋下はそうしなかった。
つまりは彼の価値観では、紳助が弱者を殴りつける行為は、許容範囲だったのだろう。
教室の中で勉強がわからない、と心の中で悩むことと、同級生の友人から引き離され、一人、劣等者として教室で孤立することとは、大きな違いがある。
前者の記憶は薄れるが、後者の惨めさがどれほど辛いものなのかは、海外の昔の小説や映画で、いくらでも描かれているではないか。
高校生で留年が認められるのは、それに耐えうる精神力があるからだが、小中学生の未熟な精神にとっては、それは限界を超えたトラウマだ。
そのトラウマは、小学校の知識を習得することよりも、もっと深刻な悪影響を与えるだろうと、彼は考えないのだろうか。
小学校で授業についていけない子供の中には、知能には問題がなくとも、精神力や意志力が弱く、勉強が続かない子供たちも多いだろう。
精神力がそもそも弱いのだから、そのトラウマがどれほど彼らを蝕むのか、想像力に難くない。
思うに橋下は、努力ができない人や、いくら努力をしても結果を出せない人々に、共感できないのではないか。
彼の周りに集まる人々を見ればいい。
低所得層からのし上がり、基礎能力やコミュニケーション能力が大変高いという点で、共通しているが、何より両者は努力家だ。
努力家は得てして、他人の数倍の努力ができるのは、それだけの精神力や体力を持ち合わせた者に許された特権だということが理解出来ない。
だから渡邉は、従業員が過労死をしても、それが悪いことだとは考ない。
自責の念に囚われることもない。
生まれつき、精神力や意志力の弱い人々がいることが、理解出来ず、もっと頑張れと声を張り上げ、叱責し、責め立て、罰を与えることは当然だと考える。
精神論者はここが怖い。
橋下が嫌われるのは、ドラスティックな改革手法のせいもあるが、何より激しい痛罵の仕方にある。
そうする権利が自分にはある、というのが橋下の考えなのだろう。
怠惰な連中を恵まれた独占的地位から排除するのには大いに賛成だ。
だが、人並みの努力をして、人並みの結果を出せない人々に罰を与え、精神的に追い込むことも、強者に許された権利なのか。
……そうではないだろう。
橋下の目には、帰国子女という恵まれた立場でありながら吉本のマネージャーをしている女性などは、努力を怠った怠惰な人間に見えたのかもしれぬ。