はてなキーワード: リソースとは
本来としては、結婚して子を設けてそこにリソースをつぎ込むのってのが想定されてるんだろうけど…
最低でも9時間✕週5の時間を奪われる正社員って制度は家庭っていう狭くて深い繋がりを持てる人向けで、弱男には向いてないんだよな
給料の優先順位が低い人向けに、雇用が安定してて拘束時間も短い、みたいな働き方があればいいと思うんだけど
15時に仕事を切り上げてゲームバー行ってみんなで遊ぶ、みたいな生き方できれば増田みたいな人も減ると思う
増田が出している「神戸の経験が活きなかった」という記事だけど、半分その通りだけど半分違っているように思う。
さんざん言われていることではあるが地域性を考慮すると効率的な避難所運営の実績を活かすのは確かに難しい。
住民の希望上ニーズを集約してまとめて処理するのはできないので、今回は点在するニーズに対処するという仕組みづくりが必要になっていることが従来の被災地支援と違うところだろう。
しかしそれを通していると被災者支援のための物資の配送に滞りが出たり、人口以上にマンパワーが必要とされるなど非効率さや安全確保の課題が生じているのも事実だ。
住民の意思、住む権利は非常に大切だがそれにより脅かされる人名や目減りするリソースに対してどのように責任を取るのか。
どこからがニーズでどこからがワガママになるのか区別する時期に来ている。
もちろん強制的には動かすことができないので二次避難施設での生活が安全や安心が確約された生活であることを説いたうえで理解いただくという流れを作ることになるだろう。
「神戸の経験が活きなかった」というのではなく、「神戸での経験を活かすためにどうしたらよいか」という考え方が大切だと思う。
そして神戸での経験を活かせるようにあらかじめ自治体単位で二次避難(効率性を重視した避難所づくり)に関する取り決めも進めておくことが必要だろう。
「故郷から連れ去る」なんて行政は考えてもいないし検討されることすらまずありえない
行政が考えてるのは「残るのは構わないけど、行政も無限のリソースを持ってるわけじゃないし支援が行き届かなくなるよ。それを知った上で覚悟決めて住んでね」だよ
犯罪者にも人権をとかで、刑務所が居心地良くなっちゃって、刑務所入りたいから犯罪犯すような奴が出てきてるの、もうシステムの欠陥もいいとこだろ。
やっぱり犯罪を抑止するためにもあえて劣悪な環境と言うのは、人類にとって必要なんじゃないか?
面談に訪れた公務員女性の胸触り監禁した疑い 無職の26歳逮捕
https://mainichi.jp/articles/20240121/k00/00m/040/001000c
ここのブコメにも2人対応が常識と書かれてる。現状それはわかる話だけど、こんな愚行のお陰で毎回そこの人的リソースと人件費を割くハメになってるの、冷静に考えて馬鹿馬鹿しすぎない?
愚行のコストを真面目に頑張って生きてる側が支払わされてるの、理不尽じゃない?
で、こう言う奴捕まったところで数ヶ月そこらで出てくるかとか、即釈放とかで、がっつり強制わいせつやっても数年そこらでしょ?
純粋に悪い事してやろうって悪人に対してどんだけ社会が負担させられるの?
ついでに言えば今日本は減少減少傾向だぞ?
どの職でも人手が足りないとか言って人的エラーが起こっていく時代だ。
そんな時にこんなバカの面倒のために必ずそこに人的リソースを払わされ続けるの?
いいんじゃないかもう、進撃の巨人みたいな壁で囲った悪人用の区画でも作って生涯隔離で。
中身は男女別に、そこではトランスどうこうは関係なく生まれの性別で正確に分けてで。
監視は人権関係なく監視カメラや電子タグで満遍なく管理して、逃げ出さないかだけを監視する。
その他何が起きてもそれは問題ではない。
情けとしては最低10年で一回出るチャンスがあること。
でも2度目は生涯隔離が確定する。くらいでいいだろ悪人の人権なんて。
古典的だけど、どんなバカにもわかりやすく絶対に入りたくない最悪の場所と言うのを用意してやる事で抑止できる犯罪が今はあるんじゃないか?
幾つかレスついたけど、“区画隔離に関して無ければならないデメリット探し”に終始してばっかりね。
じゃあ今後も悪人の愚行のコストを真面目に頑張って生きてる人間含め社会的負担が増加していく事でOKって事なのかな?
悪人を隔離できない事でどんどん世の中が生き辛くなってる、、、刑務所に入るための犯罪が為され、それも数年で出てきてまた罪のない誰かが襲われ、その対策にはこれから減り続ける人的リソースを払わされ続け、男女の溝を無駄に深めるような言説も氾濫していると言う理不尽さに基づいての話なのだけど。
そっちの本質については皆、何も思うところがないと言う事か。
ご苦労様。
自治体同士は、災害時の支援協定などが地域防災計画に明記されていることが多いから
増田みたいに派遣されたり、という活動は、特に四の五の考えるまでもなく、自動的に動き始めることができる。
一方、社協はどうなんだろうね。社協のネットワークはやっぱり期待されるべきだろうかね。
集団移転をすべきなのか、
なんとかならないのだろうか。
本来は、こういう起こるべき事態を想定して、地域防災計画に事前に災害対応と復旧のシナリオが描かれてないといけない。
その場で答えを考えようとする余裕は、発災直後の現場のリーダーや行政職員にはないと考えるべきで、
その前提で、いざというときに自動的に決まったことを運用できるよう、ありとあらゆる判断基準を決めておくことが本当は計画で一番大切だった。
いざというときの現場の判断にかける負担を少しでも減らすのが計画というものの本質だから。
まるで老々介護だし、このままで持つとは思えない。
事前にこんなことがわかっていれば、何をやったかを考えると、、
例えば、保健師や介護士の派遣とか、そのテーマで考えてみても、
孤立した地域に踏み止まっている老健施設や老人福祉施設に一人や二人派遣してもほとんど力にならず、意味ないってわかる。チームを派遣する余裕もない。
支援によってベーシックニーズを満たすという優先目標が達成できるかどうかを先に考えるべき。
神戸の行政の方々が、能登の現実をみて、都市型の集中管理型が通用しないといって、くじけてしまった、というのはわかるんだけど、
でもだからといって「送る」「派遣」型の支援は無理ありすぎじゃないか?
やっぱり山古志式の全村民避難や三宅島全島民避難のやり方が安全だし、時間や人のリソースをきちんと生かせる。
一般ボラの立場からみても、支援したい人が陸の孤島と化している能登の奥のほうにいけない、という状況を打開するには、支援されるべき人を連れてくるほうがまし。
地域コミュニティごと、施設ごと、まるごとその単位で連れてくる、ということを最初から地域防災計画に予定しておいて、
平素から地域住民とコミュニケーションをとっておく、ということになるんだろう。
ただ、かつての山古志式のリーダーシップは、平成の大合併前の小さな自治体で首長が地域住民と顔の見える関係を築いていたからできた、ということも改めて思う。
だからこそ国は市という今となっては大きくなりすぎた行政単位でなく、地区防災計画という形での防災も平行して進めてきたところだったが、北陸では果たしてどうだったか。
*被災者に寄り添う支援であるべきだ、という意見がトラバであった。ただ、その支援によってベーシックヒューマンニーズが満たされないなら、そうあるべきだという理想にうっとりしたいだけの単なる自己満足じゃないかい?
→嫌味な言い方だったかもしれないが、そうも言いたくなる。
https://anond.hatelabo.jp/20240121103729
eternal_reflection なんと言うか国家公務員的な意見だなぁって。計画に集団避難を記載して平時にコンセンサスを得るってのもかなり理想論だと思う。結局そこで集落と調整する事をやらない人の意見だよね。人間相手だから難しいんだよ…
というブコメもあった。そうだね。頭でっかちだとは思ってるよ。
高齢者の2次避難は実際のところ、実は解決のしやすいタスクの部類。もっと難しいのは生計をもつ世代。生活者。地域の人間関係が社会的にも経済的にもより強い世代。
高齢者は生計の切断を無視してでも対処しうるけれども、働く世代はそうはいかない。例えば、地元の取引先があるのに、それを差し置いて自分だけ避難できない、といって車中避難を続ける被災者の言葉を紹介するニュースを目にしたとする。イメージとしては漁港の箱詰工場のひとだとか、除雪作業員でもなんでもいいんだけど、自分が逃げたら他の関係する取引先に影響を及ぼしたり、地域の状況がより悪化したりするひとってたくさんいるよね。
そんな訳無いじゃんw
男の発達障害が表に出やすいのは、就職・就労後や恋愛の段階で躓いて発覚する事が多いから。
逆に仕事に人生の比重を男ほどは置かなくて済む女、恋愛では受け身でも許される女は発達障害が目立ちづらいだけ。
理解ある彼くん漫画でも交際中に発覚しちゃいましたテヘペロ的な展開も見かけるよね。
ハッキリ言って良い?
男は基本的に正社員として仕事にかなりのリソースを割く必要があるからエッセイ漫画なんて描いてる余裕なんかねーんだよ。
理解ある彼くん漫画描いてる女って大半が理解ある彼くんやら夫くんに経済的に依存してるじゃん?
余裕があるから世間に発信できちゃうんだよ。分かってて煽ってんでしょ?性格悪っw
男はよく女は理解のある彼くん居ていいよなーと揶揄してるが、発達障害女は男に感謝をするけど、発達障害男は女に感謝しないって話にすぎないのではないか。
同じ働きしてるなら時給同じでもいいと思うけど、実際はそう簡単ではないのよ
Excel使えます!みたいな能力だけではなく、今何をやっているのか、どういう背景があってプロジェクトがこう進んでるのかを理解した上での仕事なんだよ
ブランクなくやってれば同じ時給ではたらけるかもしれないけど、大体はブランクある
ブランクあったらプロジェクトがどう進んできたのか把握できない。把握するための時間、教えてくれる人のリソースを奪いながら、時短勤務の中で同じレベルまで持っていって、残業とかもできないなら、当たりがでかかったり時間かかるような仕事は任せられない。
実際は同じ働きできてない場合が多いと思う
法哲学の議論を参照して「愛らしいから」=「他とは区別される特定の属性を持っているから寄付する」という考えが正義にもとることは肯定しつつ,寄付するべきではないという考えを批判してみる.
まず,正義は「等しきものを等しく扱う」ことが本質だとしばしば定義される.
かわいそうなポメラニアンと,かわいそうな黒い大型犬はどちらも「かわいそうな犬」という属性で等しく,両者に対して異なる扱いをすることは正義にもとる行為にあたる.
他方,慈悲,あるいは愛は,「等しきものを等しく扱わない」.
個体の属性ではなく,今まさに存在する「この個体」を救うことに関心があるからだ.
「かわいそうな犬」だからではなく,「この」かわいそうなポメラニアンだからこそ人は憐憫を垂れる.
法哲学者の井上達夫の言葉を借りれば,「愛の本質である個体性への関心と配慮が正義の普遍主義的要請と対立する」(井上達夫. (1986). 共生の作法: 会話としての正義. 創文社. 117.).←たしか近年新版がでている.
では我々は,正義にもとるということを理由に,特定の属性を持つ人々のために自発的に寄附を行うべきではないのだろうか.
何が「等しい」のかを民主的手続きに基づいて決定し,一応の正義を認めることができる主体である民主主義国家による再分配に我々の持つ金銭というリソースは委ねられるべきなのだろうか.
そうではない.
なぜならば,民主主義国家によって達成される正義は手続的正義にすぎないからである.
「正しい手続きを踏んだから,かわいそうなポメラニアンを救済することにし,黒い大型犬は放置することにした」.
これは本当に正義だろうか.
何が正義なのか,何が「等しい」のか,やはりその実体に踏み込んで考える必要がある.
この実質的正義と寄附を考える上で注目すべきが,この十年で存在感を増している「効果的利他主義」である.
昨今のオープンAIのアルトマン解任騒動で目にしたことがある諸兄もいるかもしれない.
効果的利他主義とは,簡単に言ってしまえば「社会全体にとって最も費用対効果の高い良いことをすべき」という考え方である.
ここでの費用には,金銭だけではなく,自分の時間・労働も入る.
かわいそうだから,というある種偶然に基づいて他者のためのリソース投下をするのではなく,コスパという等しい基準を置いてあらゆる利他的活動を比較評価し,最もコスパが良いものに投資する.
この比較には,「リソース投下に対する社会的インパクトを定量化できる」のが大前提になっている.
社会科学の素養がある人間ならばすぐに気がつくように,あらゆるものを同じ基準で定量化することは不可能である.
例えば,生命という多くの人が合意するであろう基準に関しても,単に生きていれば良いのか,健康寿命なのか,QOLによって測り方が変わる.
定量化の前提は,効果的利他主義の限界の一つとして指摘できるだろう.
効果的利他主義において,個体性への関心はどのように扱われているだろうか.
便益を最大化することにこだわることは,特定の目標との個人的な結びつきを否定することになる.例えば,「家族ががんでなくなったからがんの撲滅に情熱を注ぐ」という行動は否定されるべきなのかという批判に対しては,次のように反論している.
たまたまの理由だけで一部の人々のニーズを優先していることになり,もっと効果的に手を差し伸べられる人々に対して不公平である,と.(ウィリアム, M.. (千葉敏生訳). (2018). 「効果的な利他主義」宣言! : 慈善活動への科学的アプローチ. みすず書房. 42-43.)
そろそろ疲れてきてしまったのでまとめよう.
特定の属性を持つという偶然を理由として寄附をすることは正義にもとる一方で,民主主義国家を通した再配分には手続き的正義に留まるという限界がある.
実質的正義を追求するには,効果的利他主義のような一定の基準を持った上で,最終的には自分なりの正義を追求して寄附を行うべきなんじゃないだろうか.
なお,筆者自身は効果的利他主義者ではなく,単におもしろい考えの一つとして注目しているに過ぎないという点を申し添えておく.
黒い犬もポメラニアンもどっちも救って、公平性を担保するような寄付が望ましいと思うが世の中にはリソースが足りない。
可愛いもの、美しいものには資本が集中して歪みが出る。醜いものにはお金が行き渡りにくい。
なので、寄付を行うものは本来効率性と公平性を満たすような行動が求められる。俺はもっとお金持ちになって、それを実現したいと思ってるよ。ビルゲイツは割とそれを正しく行ってるんじゃないかな?
正しくない。当たり前だ。
それが許されるのはリソースが限られていてどちらかを選ばないといけない時だけだ。トリアージと呼び、緊急避難と呼ぶ。
では、苦しんでいるポメラニアンの子犬と苦しんでいる黒い大型犬が並んでいて、それぞれ100円を寄付すれば助けられるという状況において、ポメラニアンにのみ100円を寄付するという行為は正しいのか?
マジレスしてみる
個人の感情に任せた場合に、大型犬よりポメラニアンの方が寄付が集まりやすいという前提は正しいと思う。
ポイントとなるのは、寄付が集まりやすい順番に救済されていった結果、最終的には大型犬を含むすべての苦しんでいる対象が最低限必要な水準に至るまで救済を充足できると寄付する人間が信じているか、だと思う。
つまり「順番に多少の前後はあれど、ポメラニアンが救済されれば次には中型犬、大型犬に同情が集まるようになり、結果としてすべての犬が救済されるはず」と信じている人にとっては、とにかく目についた可哀想な犬に寄付を行うのは、(最善ではないにしても)概ね正義にもとる行為ではないと思われる。
一方、諸々の理由により救済が大型犬に行き渡ることはないと考える人ならば、寄付を正義にもとる行為だと感じる傾向が強くなるだろう。
救済が大型犬に行き渡らないと感じる要因としては、
・救済に充てられる全体のリソースが明らかに不足していると感じられる場合
などが考えられる。
そして、この中でより考え方の違いが出やすいのは後者の「救済されたと見なす水準が高い場合」ではないかと思われる。
救済を急迫した危機からの脱却(必要最低限の状態の確保)のためだと考えている人ならば「とにかく今、危機的状況にある人には手当り次第に支援を行うことで、世の中から危機的状況にある人をゼロにすることができる」というロジックは比較的すんなり受け入れられるものだと思うが、救済を可哀想な要因の完全な排除(対象の状態を世の中の平均水準まで押し上げること)だと考えている人ならば「そんなリソースあるわけ無いじゃん→個人の感情で救われるやつを選別するのか?」と感じるのも自然だろう。
朝日の「人災」「阪神の教訓ゼロ」という批判記事がひどい「ボランティアが少なかったから水、食糧がない」「すぐ自衛隊等を大量派遣すべきだった」
自分も共産と立民の間ぐらいの左翼なので、自戒や自省を込めてということなのだが、日本の左派とかリベラルとか言われる人の何が一番ダメかというと、本田由紀先生のコメントに象徴されるように、「現場で仕事を担っている人」の顔を思い浮かべようしないところ、言い換えれば、自分がその仕事をやれと言われた時に、できる気がするかどうかの想像力を働かせようとしないところだと思う。
ほぼ身内だから言いにくいけど、コロナ禍のときの左派は本当にひどかった。専門家が口を揃えて無理だという「全員検査」「ゼロコロナ」を強硬に主張し、やらないのは「無能」「やる気がない」「五輪のために隠蔽」と当時の安倍政権を糾弾していた。しかし、「全員検査」「ゼロコロナ」に対応するための人的リソースや能力が行政や保健所・医療機関にあるかどうかは、全くと言っていいほど言及しない。逆に、現場から「絶対無理」という悲鳴をあげているのに、全てことごとく無視。もちろん現場の言うことが常に正しいというわけではないが、それが間違いだという具体的なエビデンスや分析は何一つ出てこない。
日本の左派は何かというと「新自由主義」を批判するけど、「政権と政府は無能でやる気がない」という認識については、日本の左派と新自由主義者は奇妙なほど一致している。かつて竹中平蔵が労基法違反の多さについて問われた時に、「役人が仕事をさぼっているからですよ」と笑いながら答えていたのを思い出すが、この点に関して言えば、コロナ禍や能登半島地震で自民政権を批判している日本の左派と何一つ違いはない。
多様性という生存戦略を、遺伝子の進化だけじゃなく思想(ミーム)の進化にも使っているから。
生命は突然変異した遺伝子が、環境に応じて生き残ったら次の世代に伝えていく、という戦略を取っています。
こうすることで全体としての多様性を確保し、カンタンに全滅するのを防いでいるのです。
逆に人間が調整して作り出したバナナは一様なクローンなので、栽培しやすい反面、ひとつの木が疫病にかかれば、すべてが共倒れするリスクがあります。
人間の頭の中にある考え、ミーム、もまた、他者に伝達される中で変化していきます。
keshimini 属性による偏りが問題になるのは例えば税金のような公正な分配が求められるリソースであって、増田の財布の中身は増田の好みで自由に使って良いんだよ。増田の考えは究極まで突き詰めると私有財産の否定になる。
IthacaChasma 増田が吉野家で牛丼を食べることが、すき家で働くバイトや、マックの食材を生産してる農家や、サイゼリヤの経営者を差別していることになるか? 答えは「ならない」。私有財産の使い道を選択しただけ。
おそらく、どちらかが一方に影響を受けて書いているでしょう。
ポメラニアンに財産を割くのを正当化する一方で、黒い犬を助けると言っている人もいます。
日本政府が完璧ではありません。おそらく、完璧になるのは難しいでしょう。
言論による自由なミームの交配を促すことで、増田さんがなさったようにミームを競争にさらし、向上する余地を与えて
言いたいことはすごくわかる。
純粋にリソースの充て方という意味では募金も一つの使い道でしかないわけで、募金に使われなかったとしたら生まれていたであろう利益をつぶしているという見方もできる。
今回の地震が無く募金が無かったら夕飯がほんの少し豪華になって、募金で使っていたお金が八百屋さんか肉屋さんの懐に入っていたのかもしれない。逆に募金をしたことで彼らの売り上げは落ち、状況次第では買えたはずのものが買えなかったりサービスを受けられなかったりということが起こっているかもしれない。
彼らの懐に入っていたら彼らの生活がまたほんの少し良くなって、という感じでお金を使うことが回りまわって誰かの生活を助けているという社会構造からみると「被災地がピンチ!とにかく募金!」という行為が本当に正しいかどうかはよく考える必要があると思う。
募金で~円集まりました!ありがとうございました!ってやっている裏で損をしている業界があるのかもしれない。
預金から出しているだけだとしても、回りまわって自分が使うであろうリソースを蒸発させているだけのように思う。
実のところ自分は共同募〇会に近しい業務をしている団体職員だが現行の募金システムには疑問を感じている。
困っている方の支援や被災された方の話を聞いたりしたが、募金は社会システム上困っている人を助ける行為は無くてはならないもので、そしてその助ける行為の中で一番合理的で喜ばれるのはかさばらず臨機応変に使い分けられるお金渡しというのは間違いない。純粋な善意で募金してくださる方には頭が下がるし、募金をすることで善行を積んだ気分を買うのが好きな方も困窮者は助かるのでやらない善よりやる偽善という言葉の通りぜひ続けて募金いただきたい。
しかし募金というシステムが始まった昔とは違い今はデジタル化が進み、リソースの交換や変換のされ方が自由になっていると感じている。
救世軍のころから続く街頭募金や戸口募金みたいな善意や社会的同調に基づく徴収をして様々な団体を通して当事者へ渡す形より、直接的に困窮者へ届ける形がもっと広がるといいと思う。