はてなキーワード: ムラ社会とは
大学入試の英語民間試験導入の経緯で「有識者会議」の議事録がないとか話題になっている。本来それがないはずはない。形式主義のお役所で基本中の基本である議事録をつくらないわけはないので、実際には存在する議事録を「いや、それは職員のメモで…」みたいな言い訳をするつもりなのだろう。実際、決済者のハンコがないとかなんとかで、正式な議事録扱いにはなっていないのかもしれない。ただ、それはお役所の内部の手続きだけの話であって、記録を残さないような杜撰なことは役人はしない。
それはともかく、この「有識者会議」、だれがよばれるんだろうと思う人がいるかもしれない。大学教授なんかは、想像がつきやすいだろう。私も身内にそういうのが一人いるが、深刻ぶった顔をして、いそいそと出かけていく。その話は後でするかもしれない。
ただ、そういう「学識」系の人ばかりがよばれるわけではない。「学識経験者」の後ろ、「経験者」の方は、かなり広範な対象から選ばれる。選ぶのは役人だ。彼らの基準がどうなっているのか知らないが、たぶん、影響のありそうなところから文句が出ないように、バランスを考えて選ぶのだろう。民主主義でもなんでもない。彼らのアンテナの感度が悪ければトンチンカンな人選にもなるし、あるいは政治的な圧力が入りやすいところでもあるだろう(たぶん)。
そうこういう私も、なぜだか「学識経験者」の端くれとして、ある会議によばれたことがある。さすがに国の省庁レベルの会議ではない。もっと末端の、県庁レベルの政策を決めるための会議だ。実は、「経験者」枠だとこういう会議によばれることは決して珍しいことではないらしい。というのは、後になってある団体の非正規雇用で安い報酬である事務所に詰めていたとき、隣の席の私同様に冴えないおっさんが、やっぱり彼の専門分野で(確か電気系の技術職をどっかの会社でやっていたはずだ)何かの有識者会議によばれたことがあると話していた。だから、これを読んでいるそこらのおっさん、おばさんであるあなたも、県レベルくらいならある日突然に会議に招かれることがあるかもしれない。
ともかくも、私がそういう場によばれたのはもう16、7年も前のことだ。ずいぶん古い話になってしまったが、お役所仕事はどうも驚くほど進化しないようなので、雰囲気はたいして変わらんだろう。いろいろあってちょっと欝気味で引きこもり気味だった私のところに電話があって、確か日当1万円ぐらいだったと思うが、3回連続の会議に出てくれと言われた。ちなみに内容まで言うといろいろアレなので言わないのだが、なんで私に声がかかったかと言うと、それはその頃、私があるメディアの事務仕事をやっていたからだ。ちょっとちがうかもしれないが、保育園問題を検討するのに匿名日記のサーバー管理者に声がかかったようなイメージでももってもらえればいいんじゃないかと思う。もちろん私は「もっと適切な人がいますから」と断わったのだが、こちらが別の人を紹介するつもりで話しているうちに、いつの間にか役所の担当者に丸め込まれてしまった。このあたりの詭弁は、なかなかたいしたものだ。
で、会議の方だけれど、確か「学識」側が3人、「経験者」側が3人くらいだったように思う。私以外はみんな顔なじみらしく(「経験者」枠の1人は私同様だったかもしれないが、学者同士は同じムラ社会をつくってるようだった)、私はけっこう居心地がよくなかった。広い会議室に、基本はその「有識者」たちが討論をするのだが、事務方が何人か座って(一応、「議長」は有識者から互選するのだけれど)、議事進行をつとめた。驚くのは、その会議室の後ろ半分には役人たちがたぶん20人くらいはいたと思うが、ずらりと傍聴している。もちろん書記方もいる。なんやかんやで、四方を取り囲まれたようななかで、会議ははじまる。
手元には、分厚い資料のコピーがある。そのコピーに記された議題通りに議事は進行する。頭のいい役人がつくったのだろう、実によくできている。よくできているというのは、もう結論がわかりきったようなことしか書いていない。「皆様はどうお考えですか」と議長に言われても、「いや、そりゃそうでしょう」と頷くしかないようなことしか書いていない。
では、それで問題はすべて解決するのか、といえば、そうではない。そもそもその問題の切り取り方がおかしいんじゃないの、ってことはすぐにわかる。けれど、そこまでちゃぶ台返しをしていいもんだろうか? 枠組みを示されてそれにもとづいて知恵を出せと言われているときに、出発点から疑うようなことが許されるだろうか?
それでも私は、やっぱりそれが自分の存在意義だと思うから、オブラートに包んで、そういうことも言う。じゃあそこで議論がひっくり返って一から話がはじまるかといえば、そうはならない。「先生のご指摘はたしかに重要なことかと存じます。それに関しましては、さらに勉強させて頂き、次回の会議までには議事に盛り込むようにいたします。それでは次の項目に移らせていただいてよろしいでしょうか」と、実にそつなく無視される。そして、その次に行ってみると、私の爆弾発言はすっかり骨抜きされ、やっぱり「そりゃそうでしょう」と頷くしかないような項目に落とし込まれている。いや、そこまでいうんなら私はもう文句は言えないよ、でも、それってそうじゃないんだよなあって思っても、反論できない程度に役人たちの頭はいい。
結局のところ、私は3回のあの会議で(4回目は議長先生の個人的な都合と判断で開かれなかった)、ただただ渋い顔をして頷いていただけだった。すべての枠組みは予め決められていて、それをひっくり返すなんて、技術的にも不可能なぐらい完璧にお膳立てされていた。そして、仮にそれに反逆することができたとしても、「そのような意見があったことは十分考慮いたします」の一言でそれ以上の追求はできず、そして最後に事務局のさじ加減でそれがほぼ無意味なくらい矮小化されるのが関の山だった。
身内の大学教授に聞いても、基本的に有識者会議みたいなものはだいたいそういうことになっているようだ。ほとんど無意味じゃないかと彼に追求したら、「けれどそこで一言言って議事録に残しておくことに意味があるんだよ」と諭すように言われた。それはそうなのかもしれない。だからこそ、「議事録ないなんてありえないよなあ」と、こんな昔話を思い出したわけ。
東京の郊外にあるありふれたFラン大であるが、かなりバラエティに富んだ人間がいて頭悪いがそれなりに楽しい大学生活を送った。
通っていたFラン大の某学部は関西を除いて全国各地から学生を集めており、大学全体では所属学生が万単位でいる伝統的マンモスFラン大だ。
Jリーグに内定した選手やドラフト会議で球団から指名を貰いプロ野球で活躍してる人は何人もいるし、学力以外の分野で知名度を上げている大学だ。
そして地方でもそれなりに知名度がありOBもそれなりに多い方だ。そこらの専門上がりのFランとは格が違う。
そして、インターンの文字が掲示板を踊る3年生に無事進級することができた。(まぁ課題と出席回数クリアすりゃほぼ単位出るので進級できない方がマズイのだが)
就職を考える時に、まずやりたい職種や業種を絞り、その次に地元に帰るかか東京に残るかを選択する。
食堂で親しくしている友人と昼食ととっている時に就職の話題になり、ふと地元に帰るのか?と聞いてみた
「あんな田舎帰る気さらさら無いし、そもそも東京で就職するためにここ入ったんだよ」
とほとんどの地方出身の友人がこれに似たようなニュアンスの回答を寄越してきた。Fラン大と地方の闇が垣間見ることができた。
現代の高卒就職は、学校の推薦か就職課に届く求人票を基に連絡し就活するのが基本となっている。
ということで高卒就職を選んだ時点で一生地元にいることが確定するのである。
地元のFラン大進学を選ぶと、関東のFラン大と比較して知名度で劣る上、東京で働きたいのであれば交通費や宿泊費もバカにならない金額になる。
安いバイト代で就活費をやりくりしなければならない。専門進学にしても似たような話であり、就職時の待遇を考えると専門の旨味も少ない。
そもそも日本は専門や専攻よりやる気や協調性を求める企業が多いのだ。
そもそも地方出身の人にとって、地元は都会に出れない人の巣窟と化している。
地方の頭いい人は大学進学で優秀な大学を選択し、東京や大阪名古屋、札仙広福を目指す。地元の国立駅弁大学より優秀な人間はもれなく地元から離れるという地域はざらにある。
就職を機に地元に戻る人も一定数いるが、それでも半数以上は都会に残り就職する。それを100年ほど続け大学進学がメジャーになり、地方と都市で学力格差が生まれてきた。
そうなると都市では考えられないような世界が地方では当然のように広がっており、それが稀に来る優秀な人材(地元民にとっては非常識な人間)を排斥し、「ムラ社会」を形成するようになる。
そして排斥された人や醜悪な待遇に痺れを切らした常識人が都市に流れていくのを横目に「人手不足だ!」とか「東京一極集中だ!」とか騒ぐのである。
高校進学率はほぼ100%になったが、大学進学率は50%と割合で見るとまだまだ低い。
偏差値40程度のFラン大学とは言えだいたいは高校偏差値が50前後、受験に失敗した人なら60以上の高校出身の地元ではそこそこ頭のいい連中がFラン大に潜り込んでいるのである。
知名度のあるFラン大は地元を離れたい学生のセーフティネットとしての役割を果たしていたのだ。
地元から抜け出すためだけにバイトを入れながら奨学金と仕送りもやりくりし、女子大生であれば体を売ってまで激狭アパートで一人暮らししているのである。
単にメディアとインターネットで起こっている現象が面白いなあと思っているという、ただそれだけの話なんだけど。
10年くらい前から、あるブロガーさんがごく個人的にはじめたオフ会に参加していた。
それは年1回開催されるわりとマニアックなオフ会なのだけれど、そのジャンルではそこそこ名の知れた存在で、
毎回、どこからともなく50人以上がやってくるイベントとなっている。
で、そのオフ会の初期のメンバーにマンガ雑誌の編集者さんがいて、その人自身もその分野でとても熱心に活動している人だったので、
しばらく後に趣味と実益を兼ねたマンガ作品が登場してそこそこ人気を博し、さらに後にアニメ化され、そこで多くの若い世代の注目を集めた。
ムラ社会になりやすいニッチな世界で裾野が広がるのは素直にとても素晴らしいことだと思う。
その作品の中では、古くからのメンバー(マンガやアニメとはほとんど縁が無い、その趣味の世界の人達)が
ごくローカルな行きつけにしていたお店がまんまそのまんま実名のまま登場し、私達にも馴染み深い街や川や山が描かれ、
そして、そのオフ会が「元ネタ」としてやはりまんまそのまんま実名で登場した。
古参(というか実物)の人たちの内心のすべてはわからないけれど、とても愛着があってリスペクトのある表現が為されており、
作品としての評価は置いておいて、好意的に歓迎されたなかなか幸せなコンテンツであると思う。
すると、今どきの出来事として当然、作品に登場した場所は「聖地」となる。
おじさんたちのオフ会は「作品で描かれたイベント」として、コンテンツとして認知されていく。
大洗とか身延のような大ヒットということにはならないけれど、身の回りでもグッズを身に着けた人たちを
ちら、ほらと見かけるようになって、オフ会に作品を見て飛び入りでやってきる人たちがちら、ほらと増えてきた。
そのまま皆で話し、気が向いたら飲みに行く。正直に、とても素敵なことだと感じる。
※ただ、「女子高生や女子大生がたくさん集結しているはずなのに!来てみたらおっさんしかいない!訴訟!!」
みたいなことになってるんじゃないかという一抹の不安はあるのだけど。
一方で、こうなってくると、元々オフ会を主催した人たちとは全く関係なく、
ネット上では「聖地」としてこのオフ会の名前が語られるようになり、もちろん「元ネタ」を知らない人たちが
オフ会を語り、聖地巡礼という形で「参加」し、知り得ぬところで新たな「イベント発起人」が結成されていたりという、
私はそれでもいいと思うし、たぶん最初にこのオフ会を始めた伝説の個人ブロガーさんもそれでいいと思っているし、
世界ってそうやって広がっていくのかなあ、なんてことを考えたりもする。
もっと大げさな話になってくると著作権とか肖像権とかそういう話も出てくるのかもしれないけれど、
今は純粋に、元ネタとは乖離した場所で私達のリアルな世界のパラレルワールドが展開し、
自分が参加しているはずのイベントが別の日に「開催」されていたり、
コレ大事。遠征とかすると「結局、都会に住んだほうが良くね?」とか思うので、東京・大阪・福岡近辺以外に住むならオタクをやめるのがベスト
もちろん続けても良いが、ストレスばっか貯まるので割り切れない性格の人は止めるべき
都会の自慢:その他 = 3:7 以上の奴は縁を切れ。ただフラストレーションが溜まる。
よく出る「ムラ社会」だが、そんなんほぼ無いわ。ポツンと一軒家レベルの村ならあるだろうけど
もちろんマイルドヤンキー(古!)が首突っ込んできたりするかも知れないが、移住なら下見で判断出来る内容。やけにフレンドリーでBBQとか好きな青年団とか絶対ウザい
会ったら挨拶。貰ったらお礼。ギブとテイクは決して同量じゃなくても良い。もちろんうるさいのも居るけど、最近はそいつらだいたい寿命で死んだか寝たきり
コレ一番。雇われより雇い主に。ちょっとした観光地なら駐車場とエスプレッソマシン導入してカフェやると良い。味よりインスタ。あと居心地。ケーキとかは近所の店に卸してもらえ。土日祝日頑張れ、平日捨てろ
農業も良い。付き合い面倒になるけど大概喜んで教えてくれる。比較的若い農家が多いと気楽。ジジババばっかだとJAの狗
繰り返すが、週末は都会にって生活していると金は都会に住むより使うことになる
極力生活圏内は狭くする。趣味もアウトドア系にすると良い。海が近けりゃ釣り。山ならジョギングやサイクリング。DIYでも良い。BBQだって趣味だ
Amazon使ってアニメとゲームはとにかく病む。ソシャゲは全てアンインストール。パチンコは死んでもやるな
子供が駄々こねるかも知れないが、イオンモールに連れてきゃ良い
スーパー大事。手当とかそんなのは後回し。まず試しに住む。出来れば1週間。平日と土日、昼と夜を体験する。可能なら1年計画で季節も。
あと市のHPとかで年齢別人口とか調べる。SNSでエゴサーチ。とにかく調べる。移住先が家を準備とか言うならその周囲も調べる。ジジババしか居ない場合は1億積まれてもキャンセル
田舎産まれには決して出来ない唯一の強みは事前に調べられること。オススメは田舎の新興住宅地。ジジババ居ない。付き合い薄い。駅にも比較的近い。家賃収入だけで対して努力もしない駅前商店街とかと絡まなくて良い。最高
好き勝手書いたけど、都会に車で2時間で行けるくらいの田舎に住むのがオススメです。イオンモールには1時間くらいで。そんなの田舎じゃない?それ以上の場所は移住するべき場所ではない
いや無理だろ。確かに『どこが濃いねん』ってトラバが↓に付いてたよ。
https://anond.hatelabo.jp/20190618093950
それは同感だけど、じゃあ本当に『内容の濃い記事』にしようと思ったら色々無理がある。
なんせ、理解の前提となる知識が絶望的に普及してない。ざっと考えても、
に入る前にまず、
で、だ。
1.はまあ、いわゆるムラ社会のことだから多少は説明をショートカットできるけど、
2.は地獄のように分量が増える。ちゃんとしようとすると、どんどん遡っていく必要がある。
ざっと考えても、
2-1-1.なぜそんな構造になったのか~スデイリ7と宗教と石油
2-1-1-1.スディリ7とは何かを説明するためのイブン・サウード(アブドゥル・アジーズ)王の来歴
2-1-1-2.宗教的傾向を説明するためのワッハーブ運動とサウジ建国前後からの略史
2-1-1-3.オイルマネーがもたらした西側との歪んだ関係を、冷戦期から現在まで軽く説明
ぐらいは用意して、その上で、
を書く必要がある。
3.も酷い。イラン革命以後の全史がほぼ必須。パーレビ王朝の説明はサウジの説明を流用して最小限に抑えたとしても、それ以降は、
このぐらいやれば多分、
を書けるようになるはず。あまりにも遠い。
人生はパンティーのようなものである。幾多もの人々と関わり合いながら、履き、被り、食べ、そして死ぬ。中学の時、先生から「人間は社会的な生き物であり、だからこそ発情期というものがなく一年中盛っており、そして自然界では到底ありえないほど乳幼児が弱い為に親の庇護、ひいてはムラ社会が組織されがちだ」と習った。たしかにその通りかもしれない。今、40歳を迎える年齢に達しようとしているが、恩師のその言葉が胸に湧き上がってくる。そう、人間とは社会的な生き物なのだ。この増田の下らない、パンティーというコンテンツとて我々が社会的な生き物である事の証左ではないか。社会的、というのはつまりパンティーという事だ。
人生はパンティーのようなものである。この言葉がお前らに届くという事は、人間が社会的な生き物であるという事を証明する一端なのだと考え、筆を置くとしよう。