はてなキーワード: 「少年」とは
しがない社会人。恋人なし。交際・性的行為(キス、マスターベーションも含めて)の経験もない。
少しひねくれているけれど、優しくて、干渉しすぎず、趣味も合う。指の節や髪のくせも愛おしい。友達としても完璧だった。
1ヶ月前、告白された。当然舞い上がった。でも、咄嗟に「1ヶ月だけ待ってほしい」と言ってしまった。
自分の気持ち悪い部分を理解してもらえるだろうか、不安になってしまった。
中学生の頃、父の書庫にあった谷崎潤一郎の「少年」をこっそり盗んで読んだ時、気持ち悪さよりも憧れの方が勝った。
人間の気持ち悪い、深いところを突くような愛し合い方にひどく興奮した。
それからは、異性とそういう雰囲気になった時も、自分の気持ち悪い部分を曝け出す勇気も自信もなく、逃げてばかりだった。
AVでも見て発散したほうがいいのではないかと、この前初めてビデオを借りたものの、生理的嫌悪が勝ってしまいすぐに見るのをやめてしまった。
結局本を読み、写真を眺めて、自分に都合のいい妄想をして、自己嫌悪して、の繰り返しだった。
多分、好きな人と一緒にいたらいずれ我慢できなくなってしまうと思う。
胸の奥に燻っているものが吹き出してしまうんじゃないだろうかと不安で仕方がない。相手を傷つけたくないし、身勝手だから自分も傷つきたくない。
でも好きだ。頭がおかしくなりそうだ。
ごめんなさいと一言言えば済む話なのに、未練が残る。
1ヶ月も待ってくれているのだから、きちんと返事をしたい。期限は明後日。今回は何故か逃げられなかったから、何かしらの意味があるんだと思う。なかなか決着は吐きそうにもないけど。
人によってはなにを今さらという内容だろうけど。このゲームの第一印象は「理解力たけぇなおい」だった。
本家と言っていい艦これーー艦船擬人化はその前からあるけど、ゲーム的にーーのデザインをなぞりながらも、上手くアレンジしている、という感心だ。アメリカの航空母艦が野球のピッチャー風だったり、旗のような飛行甲板だったり(これは戦艦少女のほうが先ぽいけど一度もやったことがないのでちょっと脇に置いておく。好きな人ごめんよ)、あるいはミリオタ的こだわりより見栄えのするデフォルメを優先したんだろうなぁというアレンジもある。正直ドイツ艦の艤装とかかなりツボだ。
日本のアニメや漫画のパロディ、ネタがあちこち唐突に散りばめられているなど、良くも悪くも同人的な節操のなさは、人によっては面白く感じるだろう。
他にも、プレイヤーの分身たる指揮官が、はっきり「年少の男」「少年」と描写されているなど、間口を広く取るという点ではかえって壁になりそうなとこもさらっと飛び越えてくる。お前らそんなおねショタ好きか。
睦月・如月のデザインなんていろいろアウトである。なんだあれ。少年指揮官だけど画面の向こうの日本人はロリペド野郎ってか。その通りだよ!
ケモミミ・妖怪化も、まことしやかに「お上に配慮した結果」と語られているのを見るけど、理由はなんにせよ、こっち方面のオタクなら「ミリ方面でケモミミ……あぁスト魔女か。空と海とはいえ被ってるかな」ってなると思うし(なるよね? ならない?)、艦船擬人化で一国家まるまるケモミミ・妖怪化という発想は、むしろ難易度が高いのではないか。
なんというか、キャラクターデザインやその配置にも、文法とか文脈みたいのがあってある程度共有されているのだと思うけど、そこから外れたものを出されたとき、「異国感」みたいのを感じるわけで。しかしこのゲームでは、ガワは完璧日本の二次元キャラしているせいで(むしろウケる画風という点では非常にハイレベル)、「なにこの、なに?」みたいになる。世界観やキャラデザだけを見る限り、戦艦少女が越えていなかったラインをあっさり越えてきた、という印象だ。
原爆ネタなんて爆弾仕込みながらこれを堂々と日本で出してくるというのは、一種の強みではないかとすら思う。しかもメチャシコエロい。林檎仕事しろ。
今さらなに言ってんだ、艦これが出てから何年経ってると思ってんだ、という話でもある。
これまで、海外のオタクたちの「もう日本人じゃねーか!」という言動を楽しんできたし、絵描きのひとりとして、ピクシブなどで海外ユーザーの実力は毎日のように目にしている。同人ゲーム・フリーゲームあさりのなかで、向こうの人たちが作るモノのすごさも理解しているつもりだった。
が、どれも同人止まりだったのだ。あるいはSteamや戦艦少女や鋼鉄のワルツ(これは戦車だけど)とかぐらいだったのだ。日本のアプリストアでセールスランキング5位に入るものなんて初めて見たのだ。上記の大陸産ゲームが艦これフォロワー的に人類共通の敵と戦う内容で知る人ぞ知るポジションだったのに対し、連合国側で日本の艦船ボコるゲームが大ブレイク。これは読めねえ。
艦これ最初期プレイヤーのひとりでもあるけど(だいぶ放置してるので胸張って提督とは言いづらいが)、このゲームに対してはいまのとこ肯定的だ。
世界観や内容だって、そりゃ向こうで日本中心の艦船ゲームなんて出せないでしょと思えば、そして深海棲艦的な黒幕がいて、最終的には連合国と枢軸国側が手を取り合って黒幕に挑む的流れになるんだろうなという予想を持てる限り、ある程度の納得もある。3-4掘りで飛龍ちゃんボコボコにしてると、ふと「……うん?」と我に帰る瞬間はあるものの、いつだって日本中心の世界観に浸っていたいというほどナショナリズムのなかで生きてはいない。
そもそも自国だろうが他国だろうが現実に存在し数多の命が関わったものを美少女化して半裸にひん剥いてる時点で、あまり偉そうに言えたもんでもない。
……が。それでも言い表せないもやっとした印象もたしかにあると、言っておかなきゃいけない。
まだ言葉にできないのでこれには書かないけれど、このゲームに触れて、咀嚼しきれない何かが芽生えたとだけは記しておきたい。それがこのゲーム固有のものなのか、それとも違うのか、いまはそれすら判然としないけれど、いつかそれを言葉にできるまで考え続ける、という決意とともにここまでとする。
ジャンプお色気騒動の件だけれど、子供に悪影響がどうのーこうのーという事で議論が白熱したけれど、自分がどう思うかというのを語っている人は少ない様だった。
でも私の見る限りではほんとうに自分自身はどう思うのかって言ってる人があまりいないんだよ。
私は、『少年ジャンプ』って名前に「少年」とついていても、もうとっくのとうに少年だけのものじゃ無くなっていると思うんだよね。
老若男女、読みたい人が読むでしょう。
「少年」というのは読者の範囲を絞るものというよりも、表現のレベルを大まかに示すものかと私は思ってた。
少年ジャンプなら、見ただけでゲロ吐きそうになるような酷いものはでて来ないだろう、みたいな。曖昧だけどそれなり安心感のある何かを期待していたというか。
『ゆらぎ荘の幽奈さん』は、私の中の「少年誌」基準を超えていた。これは無いわーと私は思った。
でも、あくまで私の想像する「少年誌」レベルだからね。自分でも私基準が確かって自信無いし。
もしかしたら自分は「甘口」ってバーモントカレーの甘口を想像していたけど、皆はジャワカレーの「甘口」が普通の甘口だと思っていたの?みたいな事を思ったりもした。
ともかく、私はゾーニングされてないとこに置いてある様な肌色面積とおっぱい頻度の漫画じゃないだろこれって思ったし、エロを読む気満々でない時に目に入ったら引く。
私は少年ジャンプにあそこまでのスケベを求めてはいないんだな。
昔からエロは普通に出る漫画雑誌なのは知っていたけれども、こんなに開いてびっくりしたのは初めてだよ。
ぬ~べ~やI"sがよく引き合いに出されてるけど、幽奈さんはそれらより裸体率圧倒的に高いじゃないか。
エロって肌色面積の問題だけではないのは分かって居るけど、でも単なる肌色面積も重要ではないのか?というのが私の考え。
そんであなた方はどう思うの?あれほんとうに普通?許容できるの?
私はあなた方の意見を読んで自分の意見を変える事は無いし、別に自分が異端であろうがなかろうがいいんだけど、皆さんそれぞれがどう思うのかを読んでみたい。
腐女子じゃないっていちいち書く意味があるのかと言っていた人がいるが
何故ならこの二つの文章を見比べる事により、これまで腐女子なフェミニストに感じていた違和感が浮き彫りになったから。
彼女達は男性作家の書くホモソーシャルを表面上は批判しつつも、それにより萌えという恩恵を得ているからだ。
サンジが女体を賛美しつつも女性の人格を尊重しない、それよりも男同士の絆を重んじるキャラクターなのは明らかだ。
サンジもワンピースの「少年」中心思考を形作る一要素だし、尾田氏のスタンスを批判するならば当然その批判の中に含まれるべきキャラクターだからだ。
だから作者のスタンスに批判的ならばサンジというキャラクターにも批判的になるし、サンジのファンならば作品まるごと受け入れる…それが自然。
キャラクターのファンであるが作者や作品に批判的というのは、少年漫画の場合ナミやロビンのような女性キャラのファンならば分かる。
NARUTOのサクラファンやブリーチのルキアファンがその該当キャラに肩入れして「所詮少年漫画における女の扱いなんてこんなものか」と失望するのも分かる。
しかしサンジは男キャラであるし、その中でも特に「女は若くて美しくなければ駄目!」という価値観を体現している。
カマバッカ島へ行くまでもなく、ドラムの時点でサンジのそういう人格は明らかだ。
本来の意味のフェミニストであれば到底支持できるキャラではないのである。
サンジよりもジョジョのホル・ホースの方がよっぽど女に優しい女好きキャラだと思うが
腐女子に受けるタイプのキャラではないからフェミニスト腐女子の旗印にされる事はない。
女をモノとしてしか見ていないホモソーシャルキャラのサンジは、男性同士の恋愛を妄想する上では実に都合のいいキャラなのだろう。
さらにこの遭遇の多段階化は、それが単なる素朴な設定の開示であっても十分な効果をもたらしうる。『小説の秘密をめぐる十二章』において河野は谷崎の「少年」を例にあげ、少年が穏健な家庭の子であることがほのめかされることによってこそ、のちの異常性愛への没入のインパクトが強化されるのだ、と指摘しているが、ラノベはこれをより極端かつわかりやすく行っていると言ってもいいだろう。
例えば『マリみて』における第一の遭遇が「印象的な絵面」であるとは述べた通りだが、そこで一度教室の場面を挟んで理想の素敵な女性像として有名なヒロインの評判が語られ、お礼を言いに行ったところで第二の遭遇が生じる。そこで描き出されるヒロインは、自分の嫌なことから逃げ出すためになりふり構わず主人公を利用し、スールになるよう強要するというものであり、主人公(ならびに読者)のヒロインに対する見方は大きく変わることになる。設定だけを見ればこれは新規性のあるヒロイン設定とは言い難い。が、筆者はこの遭遇から十分な意外性を受けており、それは河野が指摘した例と同じ効果によるものと考えている。
同じく例えば『イリヤの空、UFOの夏(以下イリヤ)』の深夜の学校のプールにおける第一の遭遇は単純なものであるが、ヒロインの手首に埋まったものに気づいたところで物理的異質さが、そして「なめてみる?」「電気の味がするよ?」において精神的異質さが明かされる。なぜそれがインパクトをもたらすかと言えば、それはヒロインの設定の奇抜さではなく、それまでの描写は彼女の異質さを感じさせるものではなかった、という一点に尽きると筆者は理解している。
溺れて必死で主人公にしがみつき、ビート板を使って恐る恐る水泳を教わり、やっと少し泳げるようになる、という一連の「普通の女の子」であることの描写こそがこの急転直下を強力無比なものにしているのであり、だからこそ「なめてみる?」の異様さが際立つのである。もしここで気まずそうに手首を隠してヒロインがうつむき押し黙るといった、つまり「普通の女の子」がしそうな行動がなされていたとすると、全くつまらない遭遇と化すことはすぐにわかることと思う。
多段階化していつつも見方が変わらない遭遇だとどうなるかの例としては『IS』が挙げられる。教室でのヒロインとの再会という第一の遭遇ののち、寮が相部屋であることが発覚するという二度目の遭遇が発生するが、出会う前後で主人公ならびに読者によるヒロインへの見方に全く変化がない。『マリみて』や『イリヤ』と比較して意外性が無く、筆者にとってはひどく印象の薄い遭遇である。
最後に見方は変わるものの一拍置いていない(つまり段階化されていない)例について触れておきたい。冒頭で触れた『俺ガイル』は最初の遭遇から間髪入れずにその「意外性のある性格」が開示されるものであり、多段階化されていない。なるほど『俺ガイル』におけるヒロインの毒舌はそれだけで魅力のあるものであり、それは単独で読者の興味を引くことができるものだとは言えるだろう(筆者も決して嫌いではない)。しかしそれは「レイアウトの仕方」ではなく「描写の仕方」による効果であり、ヒロインの毒舌がそれ単独で魅力を得られるほどのものではなかった場合、実に陳腐でつまらないものだと筆者は考える(逆に言えば描写力が優れていればなんとかなる、ということの証左でもあるだろうが)。
念のため補足しておくと、陳腐な遭遇しか用意できない作品は全て駄作である、と述べたいわけではない。例えば『狼と香辛料』は荷台にもぐりこんだ裸の美少女が狼の化身だと明かすという意外性に乏しい遭遇であるが、ではこの作品が駄作かといえば筆者はそれほど悪くない作品だと思っている。ただし、その遭遇にインパクトを受け、興味を抱くことは無かったことも確かである。ここで張った伏線をクライマックスで回収しているため最後まで読んでみればなるほどと思えるが、もし立ち読みで眺めたのであればその場で本を置いていたと思う。
「ボーイミーツガール」の関係構築では、主人公とヒロインの恋愛感情が醸成されることは必須ではない(例えば『トリニティ・ブラッド』では恋愛感情は仄めかしすら無い)。一方で両者間の信頼関係の構築は必須と言っていいと筆者は考える。また信頼と似た効果を持つものとして敬意も有効に機能する。
さて、関係構築とは主人公とヒロインの一方が他方に何かをすることによって培われるものと言っていいだろう。その内容は小説それぞれによって様々であるが、一段階抽象化してみると次のような行為に類型化が可能であると思われる。下記で全ての行為が類型化されているわけではないが、いくつかまとめた上で、それらをどう組み合わせることが効果的な演出になりうるのかを述べたい。
遭遇の類型として「秘密の漏洩」を上げたが、あれが当人の意に沿わざるものであるのに対し、「秘密の共有」は意図的に自らの秘密を相手に共有するものを指す。
「秘密の共有」は信頼の表明がなされたという暗黙の読者の認識が得られる点で効果的であり、そして「秘密」は多くの場合、プライバシーと同義である。軽度な秘密から徐々に重大な秘密の吐露へと段階を踏まえて内容は変化する。軽度な秘密の典型例は電話番号を教える、住所を教える、そこから一歩進んで自室に入れる、といったものが挙げられるが、最も多用される「秘密」は「過去」であり、昔の笑い話といった軽いものから過去のトラウマまで「過去」は幅広く使える便利な「秘密」であり、重さを任意にコントロールできるという点で優れている。
こうした秘密の共有は信頼の表明であると述べた通り、一定の信頼があった上でなされることで読者に違和感なく受け入れられるものと考える。十分な信頼がなされたと読者に理解がされていない状態でいきなり重い過去の吐露を始めるヒロインなどは、自己陶酔中のメンヘラ設定を明らかにしたいのでもない限り慎むべきだろう。
『涼宮ハルヒの憂鬱』における曜日と髪型の関連の指摘や、『俺ガイル』における主人公がヒロインに友達がいないだろうという指摘など、観察によりヒロインのなにかに主人公が「気づく」ことを指している(ヒロインが主人公のなにかに気づくことも含む)。これはヒロインが主人公の評価を改め敬意を抱くきっかけとして、また主人公がヒロインに対する評価を改め、敬意を抱くきっかけとしても効果的に機能する。
余談ながら観察力のある主人公であることを印象づけることは、特にバトルものにおいても有効に機能するように思われる。例えば『禁書』や『バカとテストと召喚獣』、『エスケヱプ・スピヰド』はいずれも勝利をつかむきっかけとして敵に対する観察と気付きを用意しており、そこから作戦を練っている。最終的に単なる力比べになり、最強能力者である主人公が必然的に勝利するという陳腐さは、しかしそうした観察と気付き、そこからの作戦の演出が事前になされていることで読者に対する一定の納得感を与えるように思われる。もちろんそうしたものがなくとも最強主人公が敵を圧倒する物語に興奮できる読者がいることは事実だが、それにウンザリする読者も相当数いることも事実である。より幅広い読者を意識するのであれば、そうした演出一つを入れておく価値は十分にあると考える。
秘密の漏洩、共有や観察による発見など、なんらかの情報が得られる行為類型の結果として、共通点、すなわち似た者同士であることが発覚することは相手に対する親近感を惹起する。これは読者にとっての共通点でも同様であり、感情移入や共感を誘う要素と言っていいだろう。
素朴な行為であるがゆえに、信頼と好意を「少しだけ」喚起する点で高い効果を持つ。例えば大きな好意が得られる「救助」は大仰なものであり、特に好意や信頼を寄せてもいない赤の他人に対してそうした行為をする人物は、十分な理由づけが無い限り胡散臭いヤツという認識を与えるだけだろう。
これに対して「親切」はそれが当人にとって大した手間でない場合に実行されるものであり、人間関係が破綻していない限りは合理的な行動として読者に受け入れられ、その結果ほんの少し信頼と好意が得られることが自然に読者に認識されることになる。『シャナ』において主人公がヒロインにコーヒーを持って行ったこと、『とらドラ!』において主人公が朝食をヒロインにも分けてやったことなどはこの好例と言えるだろう。
相手を名字で呼ぶのか、名前で呼ぶのか、といった呼称の変化は古典的ながら現在も極めて強力にその認識の変化を読者に理解させる。『僕は友達が少ない(以下はがない)』におけるあだ名であったり、また『デート・ア・ライブ』のようなヒロインの名前を付ける、という行為も同じ効果を持つと言えるだろう。
なお、呼称の変化は一度しか使えないものではない。ある呼称を用いたのち、それを使わなくなる、という演出はその呼称を用いるようになること以上にその変化を強調する。遭遇時においてではあるが、こうした「呼ばなくなる」ことを用いた好例としては『星界の紋章』があげられよう。
一方から他方へなんらかの依頼(命令を含む)がされ、受け入れられることを指す。このとき、その依頼は明示的なものであるとは限らない。「ボーイミーツガール」における両者間のほとんどはこれに該当するが、物語を先に進める意味合いが強く、関係構築に向けて目立った効果をもたらすものではない。
一方でこの行為類型が「期待に応える」を伴って実行された場合はまた異なった効果をもたらす。最初からヒロインが主人公に対して好意を表明していたり、信頼を寄せていることが暗黙に前提となっているような「ボーイミーツガール」は珍しいものではなく(『イリヤ』『ベン・トー サバの味噌煮290円(以下ベン・トー)』など)、また物語の途中でヒロインが全幅の信頼を主人公に対して寄せるようになるものも多い(『SAO』『ココロコネクト ヒトランダム(以下ココロコネクト)』など)。
こうした例においてヒロインから主人公へ強い信頼に基いて依頼がなされている場合、依頼の達成に失敗することが強力な効果を持つ。ヒロインから主人公へ依頼した仕事の達成に主人公が失敗し、しかしヒロインがもう一度仕事を依頼することは主人公に対する深い信頼の表明として機能する上、主人公が次こそヒロインの信頼に応えようと努力する様は概ね読者の共感と応援を得られると考えられる。
例えば『ソードアート・オンライン(以下SAO)』ではヒロインが主人公に仕事を依頼し、主人公は成功し続け、それをもってヒロインが主人公に惚れこむという構造を取る。一方で『とらドラ!』においてはヒロインが主人公に対して依頼した仕事は失敗し続けるが、ヒロインが主人公に失望することは一度としてなく、最後にヒロインから主人公に同じ仕事を改めて依頼するという構造を取る(定義を読んでいれば誤解は無いと思うが、本稿ではいずれも1巻の内容のみを対象としており、シリーズを通してどうかは検討の範囲外である)。両者を比較してみると、筆者は『とらドラ!』の方がよく出来ているという認識を持つ。
『AURA 〜魔竜院光牙最後の闘い〜(以下AURA)』で繰り返されるような単なる拒否は効果を持たないが、相手に対する尊重を以て拒否することは(一時的にはともかく)相手の不快を買うものではなく、むしろ信頼と敬意を勝ち得る効果を持つ。『マリみて』において主人公がヒロインからのスールの依頼を拒否したことは典型例と言ってよく、『のうりん』におけるデビークの手助けを(これまで助力を惜しまなかった)主人公がしない、ということもこの一形態と言っていいだろう。
この時、主人公にとってはその依頼を受けた方がメリットがあることが望ましく、そうした自分の利益を捨て、相手に嫌われる覚悟の上で拒否することはヒロインのみならず読者からの信頼も勝ち得る効果があると思われる。
単純な愛の告白のような直接的な好意の表明に限らず、嬉しそうに何かをする、微笑むといった行動によっても十分に好意の表明として読者に認識される。物語最後の場面においてヒロインないし主人公がこの行為類型を取ることが多く、ハッピーエンドとしての印象を読者に意識づけることで効果的と言えるだろう(『イリヤ』や『ALL YOU NEED IS KILL』がハッピーエンドか否かは意見の分かれるところであろうが)。
相手に伝わる形で行われるそれと、相手に伝わらない形で行われるものがあり、特に本人のいないところで信頼や好意を表明することは読者の理解と共感が得られやすいように思われる。好意の表明は繰り返し使うとむしろ好意の薄っぺらさを強調することになりかねないが、『ココロコネクト』のように相手に伝わらないところでそれがなされる段階を踏まえてから、相手に伝わる形でこれを行うことは効果を増すと思われる。
窮地に陥ったヒロインを主人公が助け出す、という行為類型は『禁書』『AURA』など非常に古典的ながら多くで用いられるものである。救助された側から救助した側に対する好意を含む感謝が読者に理解されやすい点で効果的だが、あまりにもわかりやすく、またありがちなものであるがゆえに陳腐な展開という印象を読者に与える危険性がある。
例えば『僕は友達が少ない(以下はがない)』におけるプールで絡まれたヒロイン2を主人公が助け、それによってヒロイン2が主人公に好意を抱く、という展開は筆者にとってひどく陳腐なものであった。
他方で『俺の彼女と幼なじみが修羅場過ぎる』におけるチンピラに侮辱されたヒロイン2を主人公が助ける展開や、『さくら荘のペットな彼女』におけるラブホに連れ込まれかけるヒロインを主人公が助ける展開はそれほど嫌いではない。
その違いはなにかといえば、おそらく単純にその救助行為が主人公にとってリスクの低いものか高いものか、という点と、救助の際に主人公が負傷している、すなわち自己犠牲を伴う点にあるように思われる。救助は主人公にとってリスクのあるもので、かつ、怪我を追ってまで勝ち得たものであるとき、救助された女性から主人公に対して寄せられた好意の大きさは「それだけの価値のあるもの」として裏付けられると考えられる。
その意味で、無傷でほとんどリスク無く救助したことで得られた好意はほとんど無いに等しいはずであり、にも関わらずヒロインが大きな好意を寄せる状態となり、そこにちぐはぐさと薄っぺらさを感じるように筆者には思われる。
『禁書』では記憶を喪失し、『AURA』では中二病を世間に露出し、『俺妹』では自分は変態だと言って父親へ立ち向かい、『タイムリープ』では自分の過去(未来)が変わろうが知ったことかと手紙を書く。自己犠牲は主人公がこれまで大事にしてきた何かを失ってでもヒロインを守ろうとする意思の明示としても機能し、ゆえにその対価として大きな好意と信頼が得られることに読者は納得がいくものであろう。
それ以前にお前は「少年」じゃねえだろ。
1960年に日本社会党委員長の浅沼稲次郎が右翼の少年山口二矢に刺殺されるという事件があった。
当時の言葉でいえば暗殺、今の言葉でいえばテロだ(あんまり変わらんか・・・)。
この犯人は「少年」だった。当時17歳である。そのことは覚えていた。
しかし、今日この記事を書こうと思うまで、わたしはこの事件を戦前の事件だと思い込んでいた。
ところがちょっと調べてみると実際には、学生運動盛んなりし頃、まさに1960年のことだった。
驚いた、というか自分の思い違いを恥じた。
ここで、不謹慎ながら、いまのみずぽを暗殺しようとするやつがいるだろうか、と考えて
失笑とも落胆ともつかない思いに駆られた。
いや、Cだろうが、管だろうが鳩山だろうが、小沢だろうが(そのほかもろもろ)
いまこの日本で暗殺されることで世の中に衝撃を与える政治家がいるだろうか。
やれやれ。
いわく、これだけ世代間格差があるのに抗議もしなければデモもやらない。
人口の年代別構成率の上でも少ないのに、さらに悪いことに投票率も低い。
政治家というものは、民衆の意思を"集約"する「仕組み」である。
それがどこまでいっても"集約"である限り、多数決の原理は覆らない。
では、高齢者が「自分たちの利益ばかりを優先していてはこれはまずい!!」と思い直すにはどうすればいいか。
「社会を構成していることになっていても、そのじつ、構成していることにはなっていない(つまり、これまで価値を生み出していなければ、今も生み出していないような)有権者を効果的に削減していく」ほかない。
「で、それはどのようにして?」とな?
それはおぬしで考えよ。
古いジャンプ読者さんで、
↓
しかも面白くないのに続いている
↓
という人が非常に多いのですが、そういう人はたいてい「少年」ではなく、ジャンプ編集部が想定するターゲットから外れているのは自分だということに気付いていないんですね。なのに、昔自分がターゲットだった感覚から抜け出せなくて、自分の審美眼が正義だと思っちゃう。
コレとコレは(俺判断で)面白いから、載ってても良し。アレとアレはまぁ…面白くはないけど子ども向けだから、ジャンプにはああいうのも必要だろ。で、なんでソレとソレはジャンプに載ってるんだよ!腐女子向け!腐女子向け!俺のジャンプ汚すな!腐女子死ね!みたいなことを平気で言う。(コミケのあの寒々しい状況を見るに)特に腐女子が支持しているわけでもないのに、Dグレは腐女子向け、みたいなことを言っちゃう。
驚くことに、古い腐女子もまた若い腐女子を揶揄して、最近のジャンプ面白くない、若いキャラ萌え厨が支持してるからだ!自重しろ!あージャンプ黄金期に戻んねーかなー!DB・スラダン・幽白の時期とか最強だよねー!とか言い出す始末。アホか。
自分が面白いと思えない作品を、面白いと思う小中学生がたくさんいることを、絵がキレイな方がいいなと思う小中学生がたくさんいることを、そろそろ認めた方がいいと思う。人気作品の良さを理解出来ない自分の審美眼の方を疑いなさいよ。ジャンプはいつまでもお前らのためのジャンプではないのだ。