はてなキーワード: 命題とは
「絶対の権利者である原作者が蔑ろにされた!」って受け取るとこまでは良いんだけどさ、
なんでそこから、
「自分こそが真犯人をコテンパンにブッ叩く正義の使者だ!」に飛躍するんだよ?
原作者は「誰か個人を責めたいわけじゃない」ってメッセージを残してるんだぞ。
そうじゃなくても、人が亡くなってるのがわかってて犯人捜しを続けるって、「もうそういうこと」だろ?
しかもなぜか「正義感」に駆られて、悪いことをしてる自覚すらない。
イカレすぎだろ。
どういう脳みそなんだ。
そんな目的でコメントし続けてる奴に、誰かを責める権利なんてある訳ないだろ。
普段おまえらが馬鹿にしてるX(Twitter)ですら、「これ以上個人攻撃するのはゴミすぎる」って了解が当然のように広まってるぞ。
なのにはてブでは「誰々叩き」が正当な行為かのように、活動歴の長いユーザーが当たり前のように続けてる。
異常だよマジで。
自分ではコメントしてなくても、誰かが脚本家を責めてるコメントに、ニヤニヤしながらスターをつけまくってる。
なんなんだよこいつら。
だから「落ち着こう、頼むから冷静になってくれ」って趣旨の投稿がいくつもされてるのに、
それにすら「無理筋擁護」「論点ずらそうと必死」「どんな読解力?」とか半笑いでコメントしてる。
お前らこそどんな読解力だよ。
その命題に従ってみんな文章を書いてるのが、なんで理解できない?
お前ら、糞フェミとか糞ウヨとか、もはやそういうレベルですらなくなってるぞ。
あっという間に底が抜けてる。
「騒動の最中に人が死んでる」のに、匿名ですらない場所で、新たな死者を出そうとコメントし続けてるんだぞお前らは。
そんなつもりはない、無自覚だというなら、それこそ終わってる。
海外のネットと違って、コイツらは麻薬すら使わないでこの有様なわけだろ。
マジでどうなってるんだ。
前々から思っている。
中学校卒業後に3年間のベルーフスシューレ(Berufschule:職業学校)通いが義務付けられている州もあります。
ドイツの義務教育機関は、大きく分けてグルンドシューレ(Grundschule:基礎学校)とオーバーシューレ(Oberschule:上位学校)の2つに分類されます。グルンドシューレはすべての子供が同じように通う、いわば小学校にあたるもので、通学年数は短い州で4年間、長い州で6年間です。その後、成績や本人の進路希望によりギムナジウム(Gymnasium:中高一貫校)やレアールシューレ(Realschule:中学校)などのオーバーシューレで9〜13年生まで学びます。
続く高等教育機関には大学や専門学校がありますが、そういった機関で学ばない場合は、中学校卒業後に3年間のベルーフスシューレ(Berufschule:職業学校)通いが義務付けられている州もあります。
では具体的にどんな学校があり、どのような就学後の進路が考えられるのでしょうか?上述の通り、ドイツの学校システムは州によって異なるため、今回はバイエルン州の学校システムを例に紹介したいと思います。
全生徒共通のグルンドシューレ(Grundschule)を卒業すると、進路は3つに分かれます。進路を決めるものは、ほぼ成績です。成績が良い順からギムナジウム(Gymnasium)、レアールシューレ(Realschule)、ミッテルシューレ(Mittelschule)となります。ざっくり説明すると、義務教育後の将来的に、ギムナジウムは大学進学する子、レアールシューレは専門学校や職業学校で学ぶ子、ハウプトシューレは就職する子が進学するという感じです。
(1)ギムナジウム → 中高一貫校を修了後、卒業試験を経て大学進学
(2)レアールシューレ → 義務教育修了後に職業訓練を経て就職、あるいは専門学校を経て大学進学
(3)ミッテルシューレ → 義務教育修了後に就職、あるいは職業訓練
(2)レアールシューレ(Realschule)から(1)ギムナジウム(Gymnasium)など、途中で進路を変える道も開かれていますが、よほど成績が良くない限り難しいと言われています。ほぼ10歳で将来が決まってしまうと言われるのはこのためです。
【義務教育】 1〜4年生:グルンドシューレ(Grundschule) ※日本の小学校にあたる、全生徒共通の学校
- 進 路 の 分 か れ 道 ----------------------------
5〜10年生:ミッテルシューレ(Mittelschule)、レアールシューレ(Realschule) ※日本の中学校にあたる
5〜13年生:ギムナジウム(Gymnasium) ※日本の中学校と高校にあたる
- 進 路 の 分 か れ 道 ----------------------------
【それ以降の高等教育機会】
3年間:ベルーフスシューレ(Berufsschule im dualen System/Berufsfachschule:職業学校)
3年間:ファッシューレ(Fachakademie/Fachschule:専門学校)、ベルーフスオーバーシューレ(Berufliche Oberschule BOS/Berufliche Oberschule FOS:職業高等学校)
ギムナジウム修了後
4年間〜:ウニヴェルシテート(Universität:大学)
ミッテルシューレ(5〜9/10年生)は基礎的な学力を身に付けるための学校で、将来の就業に必要な知識などを中心に学びます。授業内容は職業・実務を重視したものになっています。修了後は即就職する道だけでなく、働きながら職業学校で学んだり、職業訓練(Ausbildung)を受けてより専門的な職業を目指すこともできます。
〜ミッテルシューレ修了後の進路〜
→ 就職
→ 職業訓練(Ausbildung)
レアールシューレ(5〜10年生)は、論理的思考を身に付け、幅広い職業を視野に入れて能力を磨くことを命題とした中間的レベルの学校です。修了後、職業に直結した専門学校や単科大学で学びを深めることを前提としており、成績によってはギムナジウムへの編入や、専門学校を経て総合大学進学も可能です。
→ 職業訓練専門学校(Fachschule über Berufsausbildung/Fachakademie über Berufsausbildung/Berufsoberschule über Berufsausbildung)
→ カレッジ(Kolleg)
ギムナジウム(Gymnasium)とは?
ギムナジウム(5〜13年生)は高等教育機関(大学)で学びを深めることを前提とした、日本の中学と高校にあたる学校です。幅広い教養と、アカデミックな研究につながる基礎知識・学力を身に付けることを命題としています。ギムナジウム修了試験(Abitur)の成績によって、進学できる大学や学部が決まります。
〜ギムナジウム修了後の進路〜
→ 総合大学(Universtät)
ドイツの就学時期
このように複雑なドイツの学校システム、何歳からスタートするのでしょうか?結論から言ってしまうと、明文化されたルールはありません。ドイツ在住の子供達が小学校に入学するのは、一般的に5歳(6歳になる年)〜6歳(7歳になる年)。少なくとも5歳以上であって、小学校の授業に付いていける能力が十分にあると判断されれば就学が可能なようです。特別な理由がなければ6歳になる年に就学するのが一般的ですが、ここ数年はコロナ禍で自宅学習やオンライン授業が増えたことに不安を持ち、就学を遅らせる家庭が以前より多くなったと言われています。
今回例に挙げたバイエルン州では、就学可能年齢になる約1年前(4〜5歳)に保健所(Gesundheitsreferat)から手紙が届き、専門医による就学前検診(Schul-Eingangs-Untersuchung、Gesundheitsuntersuchung zur Einschulung)で心身の発達をチェックして就学の可否を判断されます。ドイツは9月始業で、9月前後の誕生日の子供は日本でいう早生まれにあたるため(バイエルン州では7月1日から9月30日まで)、検診結果や親の希望、小学校や幼稚園からのアドバイスによっては就学を1年遅らせる(7歳になる年に就学する)という選択も取れるようになっています。
中学、高校卒業後に職業訓練校に通えるのは本当に良いことだと思う。
学校の勉強ができなくても、違う視点から同じ様な事を学ぶことができる。
「うぬぼれすぎ」と「非論理的」という2つの視点からあなたの考えが誤っていることを指摘します。
まず根本的な部分として、あなたは自分の行動が世界に及ぼす影響を高く見積もりすぎです。
あなたの行動は、世界を変える一要素になる可能性はありますが、あなたの行動だけで直接的に世界が変わることはありません。「おまえは神になったつもりか? 自惚れぬなよ人間。」
あなたがある人を救うという行動は、その人を救う以上の意味はありません。これは、あなたがたいしたことをしてないと否定しているわけではなく、自分の選択が世界に及ぼす影響を過剰に見積もるなと言いたいのです。
ある人に対して何らかの行動をしたという事実は、それ単独で評価されるべきものです。それ以外の人についてはあなたは行動も意思表示もしてないのですから、それ以外の人について過度に責任感をもつ必要はありません。神ならぬ個人が気軽に世界を変えることはできないのです。
あなたの目の前にいなかったりあなたの手が届かない人は、あなた以外の誰かが救うはずです。そう信じて目の前のことに集中しましょう。
もし、より積極的に世界を変えたいと思うなら「俺は目の前の人を可能な範囲で救います。それ以外の人については他の人が救ってくれ!」と声を挙げるのは良い方法かもしれませんね。その積み重ねできっと多くの人が救われるはずです。世界を背負う時はあなた一人だけでなくみんなで一緒に背負いましょう。
次に、論理学的な側面からの誤り指摘です。つまり、あなたの考え方は論理的ではありません。
「AはBである(A is B)」という命題が真であるとき、対偶である「BでないものはAでない(~B is ~A)」という命題が真であることが知られています。高校数学で学びましたよね? 一方でそれ以外の命題、たとえば逆(B is A)や裏(~A is ~B)については不明(真かどうかこれだけではわからない)です。
そのため、ある人がとある命題Fを主張したとき、同時にFの対偶を主張したことになります。しかし一方で、言及していないそれ以外の命題については、「その人はそれについては触れてない(言及してない)」と考えるべきなのです。勝手に裏や逆などの命題を作って、その命題をその人が主張していると解釈すること自体が「非論理的」なのです。
「Aという人を救う」という行動による意思表示は、その逆である「Aでない人を救わない」という意思表示を意味しません。この「Aでない人を救わない」については、その人は意思表示をしていない(不明である)と考えるのが、論理的な解釈です。人生を生き抜く上で、求められてもいない命題について意思表示はする必要はありません。ましてや、非論理的で破綻した推論で自分の意思表示をねじまげて解釈され、自分の行動が制約されるなんて馬鹿らしいことです。
仮に何かを真実だと信じているとして(例えば日中動いているのは太陽ではなく地球だと信じているとして)、
その根拠が示せないなら、何も知らないのと同じことじゃないのか。
「誤った根拠と、正しい推論技法から、偽の命題を演繹し、それを信じている」人よりも、「根拠または推論技法を知らないがゆえに、自分で証明できない"真なる命題"を信じている」方が狂っているだろう。
「偽の命題から、誤った帰結を、演繹する人」よりも、「正しい根拠と、"誤った演繹"から、真なる命題を導き、信じている」方がよっぽど狂ってるといえるだろう。
フェイクを信じている人が狂っているのではなく、論理的正当化を示せない信念を信じる人の方が狂っているだろう。(たとえその信念が真なる命題であっても)
まず手塚治虫がデビューした頃の印刷技術の話になるんだけど、そもそも自分が書いた絵がそのまま印刷されるわけではない。
浮世絵なんかと同じでマンガ家の絵は原画で、それを版画の原板みたいに別の人が写して印刷する。
浮世絵ほど手間暇かけてないので、微妙な線とかは再現されない。
「のらくろ」なんか、田河水泡の原画は線がすごく美しくて感動するけど、印刷された「のらくろ」は潰れた線みたいな感じになってたりする。
手塚治虫の初期の頃も同様。
次に、マンガの根本的な技術命題として、たくさんのコマを連結するために、それぞれのコマの絵の登場人物の見分けがつかないといけない。
同じキャラクターのつもりで書いてても別人に見えてしまうとか、別人のつもりなのに混同されるとか、これは今でもしょっちゅう発生する。
これを上記のような未熟な印刷環境の中で発生しないよう、キャラクターの明確な書き分けをしないといけない。
なので、見分けのつきやすいパーツでキャラクターを構成する必要がある。
のらくろが他が白犬なのに一人だけ黒いのは、アメリカのフィリックス・ザ・キャットのフォロワーであるのと同時に、主人公を埋もれさせないため。
昔のマンガ入門なんかだとキャラクターの喜怒哀楽の表情のラインナップが並んでたりしたんだけど、
同じ登場人物なのに、泣いたり笑ったり怒ったりで顔を構成してるパーツがまるきり違うのに気づくと思う。
あれ?
パーツが違ったら別人、別キャラクターなのでは?
……と、感情表現のつもりで異なるパーツを使うと、読む側が別のキャラクターだと認識してしまうかもしれない。
キャラクターの同一性が重要なので、顔が大きく変化させにくい。
アニメだと連続的にアニメートすることで激しい表情変化でも同一性は比較的らくに示せるが、マンガはそこが大変。
なんで縦筋や汗の漫符表現が必要なのかと言えば、表情が変わらないままで感情を表現するため。
複雑な長編ストーリーを描きたいが、そのためには必要な道具が多数ある。
まず登場人物がたくさん出てくるのを、見分けがつくように交通整理しなければいけない。
その複数の登場人物がストーリー展開によって複雑に変化していくのをわからせなければならない。
主人公だけでなく複数の人物の感情のダイナミックな動きをキャラの書き分けを維持しつつ表現しなければならない。
それができないとストーリーが示せない。
なので、絵の情報整理をやった。
有名なスターシステムは、キャラクターの書き分けのための土台。
劣悪な印刷環境で見分けがつくため記号化されたパーツを、それぞれの定番キャラクターごとに整理し、見分けがつきやすくする。
これで顔の構成パーツが大幅に入れ替わっても同一人物だとわかり、その人物の感情が変化していることが表現できるようになる。
手塚治虫が「マンガは記号だ」と説明したのを、なんか面倒な理屈でこねくりまわす人がいるけど、
複数の登場人物の複雑な感情の動きを表現してストーリーを描くために、記号の整理分類、使い分けを行ったんだよね。
これ、手塚治虫がアニメに進出したときに導入した「バンクシステム」と考え方が一緒なんだよね。
というか、マンガの改革の成功体験を元にバンクシステムを提案したんだろうけど。
「同じ絵を使いましてセル画を節約すればいい」という、「同じ絵」はつまり「記号」なんだよね。
「マンガは記号だ」と言った手塚治虫だから「アニメの絵も記号だ」という発想に行きつく。
こういう発想ってさ、「芸術家」じゃないわけでしょ。
芸術としての絵画は1枚だけのオリジナル性、作家の手に宿る技術の唯一性に依拠するわけだけど、
手塚治虫が優先したのは、ずっと、絵よりも何よりもストーリー。
だから絵を分解分類して記号にしていいし、アニメーションを分解整理してバンクシステムを作れる。
こういう人じゃないと、そもそも絵描きなのに絵を下に置けない。
ストーリーを描きたいという自分の目的のために、既存の仕組みを分析・解体して再構築し、現代日本マンガの基礎を作った。
それまでふぞろいの林檎たちや岸辺のアルバムくらいしか知らなかった山田太一だが、
昨年、NHKで再放送されていた「男たちの旅路I~III」を初めてみて、山田太一の世界は奥深いと、認識を改めたのを覚えている。
ある種、衝撃を受けた。
「男たちの旅路I~III」は戦中派のイメージが強い鶴田浩二を山田太一が説得して、鶴田の初テレビドラマ出演となったいわくつきのドラマだった。
このドラマのすごさは、戦中派の鶴田あるいは特攻世代の鶴田の、ある種、ブレない、英霊に操を立てる保守の固まりみたいな偶像を粉々に砕いたところだ。
戦中派保守というと、三島由紀夫や吉田満といった1920年代半ば生まれで、10代の思春期に国家への忠誠を純粋培養で叩き込まれた世代。
その世代のブレなさに憧れて、保守を自認しているのが、昨今のなんちゃって感の強い保守たちだ。どんなに差別的な発言をしても非を認めず一貫している、みたいなアレも含めてね。
特攻で死んでいった仲間に義理立てして結婚も恋愛もしないという役柄(鶴田)だったが、死の病に直面した部下の女性(桃井かおり)に愛を告白され、戸惑いながらも、一線を越えようとしない。山田が脚本のなかでやってのけたのは、そうした戦中派世代のこだわりを、戦前派の世代(ドラマのなかでは上司として登場する池辺良)がなんで抱いてやらんのだ、お前は分別のかたまりだ、と一蹴するところだ。
池辺良の役柄には、戦争中、終戦直後に上官の立場として、清濁を飲み込みながら必死で生き延びてきた池辺自身経験が反映されている。
また大正昭和初期にモダンなカルチャーを受容する過程を経て、いつしか日本社会全体が国家主義へ傾倒してゆく日本の変遷をまざまざとみてきた世代でもある。その世代から下の世代としてみる、特攻世代というのは、若者の思い込みの強さを強く感じ取っていたに違いない。人の考えも社会も時が経てば変わる、それを知っているのが戦前世代。それに対して、敗戦後に変貌した日本社会を目の当たりにした戦中派は、国を信じて死んでいった仲間を忘れることはできない。
そうした世代間のギャップが、鶴田を悩みに悩ませる演出によって見事に表現されているのが、男たちの旅路第3部最終回だ。
このドラマを通じて、鶴田浩二に興味を持った俺は、八千草薫と共演した【シャツの店】もぜひ見てみたいと思った。
また、保守というのが、靖国神社に強いこだわりをもつ戦中派の前の世代として、戦前派の保守というものが存在していたことにも思い至り、改めて福田恆存なども読んだりしてみた。昔の保守を知れば知るほど今の保守がばかばかしくなった。
山田太一のものの考え方でいえば、第二部で描いた「シルバーシート」は圧巻だった。老人が都電車庫に立てこもり反乱を起こす。あえて社会に迷惑をかける意図的な行動に出た。
有形無形に、社会に迷惑をかけるな、と社会から言われ続ける老人の気持ちのやるせなさをここまで訴えかけるドラマはない。
誰しも、迷惑をかけずに老後を過ごせるなんて、誰にもわからない。認知症になるかもしれないし、長い闘病や介護で社会に負担をかけるかもしれない。
立てこもる老人たちを説得する役を演じた鶴田浩二に対して、笠智衆がいう。あんたには若いからわからないのだ、老人になったときはじめてわかるときがくる、と。
大人の分別という鶴田の説得が通用しなかったという、ここでも出てくる鶴田の敗北の演出もさることながら、老いて初めて分かる、というリアルなセリフが心に残った。
高倉健と大原麗子という因縁の二人(参考:居酒屋兆治)を軸に、やっぱり山田は高倉健の偶像を破壊するような脚本を書いている。
リゾート法によって急速に全国で展開されたテーマパーク開発はバブル経済の華だった。
炭鉱の閉山で疲弊する地域経済の起爆剤としてテーマパークを呼び込む北海道の炭鉱の町。
しかしバブル崩壊に伴い、計画が構想され、着工寸前まで来たものの撤退を迫られることになったのが90年代初頭の社会像だった。
町の期待をよそに、寡黙なキャラの高倉が現場担当として町にやってきたことから、開発会社の本社からは撤退の後始末を、という隠れた命題を高倉に任せたのではといぶかる町。そんななかでも、慣れないサービス業に苦心し、町を盛り上げようと市長を応援する高倉健の姿は、居酒屋兆治で演じた姿とはやはり違う。
阿部寛は、若い頃に、建設現場社員というチョイ役で出演したこのドラマから多くのことを学んだ、とどこかで言っていた気がする。
「ふぞろいの林檎たち」もすごいドラマだった。大学生役の中井貴一が初めての風俗でテコキで抜いてもらった挙句に、風俗嬢にこんな仕事やめなよと説教するシーン。リアルにおっぱい出しているのも80年代らしい。こういう演出はもう昨今のドラマではありえないだろう。
長くなった。
ともあれ、大きな存在が亡くなった。
ここ5年くらい、脚本を書いておらず、闘病を続けていたと聞く。
合掌。