はてなキーワード: 漫符とは
まず手塚治虫がデビューした頃の印刷技術の話になるんだけど、そもそも自分が書いた絵がそのまま印刷されるわけではない。
浮世絵なんかと同じでマンガ家の絵は原画で、それを版画の原板みたいに別の人が写して印刷する。
浮世絵ほど手間暇かけてないので、微妙な線とかは再現されない。
「のらくろ」なんか、田河水泡の原画は線がすごく美しくて感動するけど、印刷された「のらくろ」は潰れた線みたいな感じになってたりする。
手塚治虫の初期の頃も同様。
次に、マンガの根本的な技術命題として、たくさんのコマを連結するために、それぞれのコマの絵の登場人物の見分けがつかないといけない。
同じキャラクターのつもりで書いてても別人に見えてしまうとか、別人のつもりなのに混同されるとか、これは今でもしょっちゅう発生する。
これを上記のような未熟な印刷環境の中で発生しないよう、キャラクターの明確な書き分けをしないといけない。
なので、見分けのつきやすいパーツでキャラクターを構成する必要がある。
のらくろが他が白犬なのに一人だけ黒いのは、アメリカのフィリックス・ザ・キャットのフォロワーであるのと同時に、主人公を埋もれさせないため。
昔のマンガ入門なんかだとキャラクターの喜怒哀楽の表情のラインナップが並んでたりしたんだけど、
同じ登場人物なのに、泣いたり笑ったり怒ったりで顔を構成してるパーツがまるきり違うのに気づくと思う。
あれ?
パーツが違ったら別人、別キャラクターなのでは?
……と、感情表現のつもりで異なるパーツを使うと、読む側が別のキャラクターだと認識してしまうかもしれない。
キャラクターの同一性が重要なので、顔が大きく変化させにくい。
アニメだと連続的にアニメートすることで激しい表情変化でも同一性は比較的らくに示せるが、マンガはそこが大変。
なんで縦筋や汗の漫符表現が必要なのかと言えば、表情が変わらないままで感情を表現するため。
複雑な長編ストーリーを描きたいが、そのためには必要な道具が多数ある。
まず登場人物がたくさん出てくるのを、見分けがつくように交通整理しなければいけない。
その複数の登場人物がストーリー展開によって複雑に変化していくのをわからせなければならない。
主人公だけでなく複数の人物の感情のダイナミックな動きをキャラの書き分けを維持しつつ表現しなければならない。
それができないとストーリーが示せない。
なので、絵の情報整理をやった。
有名なスターシステムは、キャラクターの書き分けのための土台。
劣悪な印刷環境で見分けがつくため記号化されたパーツを、それぞれの定番キャラクターごとに整理し、見分けがつきやすくする。
これで顔の構成パーツが大幅に入れ替わっても同一人物だとわかり、その人物の感情が変化していることが表現できるようになる。
手塚治虫が「マンガは記号だ」と説明したのを、なんか面倒な理屈でこねくりまわす人がいるけど、
複数の登場人物の複雑な感情の動きを表現してストーリーを描くために、記号の整理分類、使い分けを行ったんだよね。
これ、手塚治虫がアニメに進出したときに導入した「バンクシステム」と考え方が一緒なんだよね。
というか、マンガの改革の成功体験を元にバンクシステムを提案したんだろうけど。
「同じ絵を使いましてセル画を節約すればいい」という、「同じ絵」はつまり「記号」なんだよね。
「マンガは記号だ」と言った手塚治虫だから「アニメの絵も記号だ」という発想に行きつく。
こういう発想ってさ、「芸術家」じゃないわけでしょ。
芸術としての絵画は1枚だけのオリジナル性、作家の手に宿る技術の唯一性に依拠するわけだけど、
手塚治虫が優先したのは、ずっと、絵よりも何よりもストーリー。
だから絵を分解分類して記号にしていいし、アニメーションを分解整理してバンクシステムを作れる。
こういう人じゃないと、そもそも絵描きなのに絵を下に置けない。
ストーリーを描きたいという自分の目的のために、既存の仕組みを分析・解体して再構築し、現代日本マンガの基礎を作った。
AIを使えば無産のオレでも漫画が作れる……と思って作ってみました。
可哀想なのがダメな人と百合がダメな人はダメだと思うので、それ以外の18歳以上の人はぜひ。(完全版は有料)
https://www.pixiv.net/artworks/110940030
制作秘話も( https://note.com/wanwon/n/nad6849f5d236 )にまとめたけど、そっちには書かなかったことをここではいくつか。
Noteには格好つけて「読者の判断におまかせします」みたいに書いたけど、正直に話すと「まあ漫画としてはギリ読める」くらいのレベルかなーと思う。
同人誌だともっと酷いのも結構あると思うので、そういう意味では最低限の水準かなーと。
どうしてもクオリティ的に厳しいのは、コマによって線の太さに差が出やすいことだね。
その点も後半は色々と改善を図って大分マシになってきたのだけど、流石に前半まで全部遡ってやり直すだけの気力はなかった。
あと、AIと関係ない仕上げの部分でクオリティ大分下げている(書き文字とか漫符とかトーン処理とか)よね。
まあ漫画を作るのは全くの初めてなのでそこは許して欲しい。
逆に言えば、心得のある人がAIを使えば、現状でも結構なことができるんじゃないかなーと思う。
描ける人は自分で描いた方が多分早いので、メリットはあまり無いかもだけど。
いやー、楽しかったね。
もともと漫画はかなり読んでる方なので、あれこれ参考にさせてもらった。
エロ漫画の仕上げ方法については、かの有名なトップクラス同人作家の先生の作品の表現をかなり参考にさせてもらっています。
Noteにも書いたけど、他人の作品やキャラを明示的にプロンプトで指定したり、特定の既存キャラを選択学習させたLoRAは使っていないよ。
月曜日のたわわってめっちゃポリコレに気を使ってる漫画なんだよなあ…。
セクハラダメ!って話は毎回のように出てくる。「これは女性の自由意志、女性からの好意」という強調がむしろクドい位出てくる。
とか言ってる人がtwitterにいたんだけど、ここでいう「ポリコレに気を使ってる」って、〈配慮〉じゃなくて〈アリバイ作り〉、つまり周到な言い訳や逃げ道の確保のことなんだよね。
「たわわ」って「読者が自己投影する匿名的な主人公が、自らの主体的意思と行動自体はポリコレに抵触せずに、でも色々な事情でやむなく、積極的なJKやら天然な同僚社員やらの身体に接触したり鑑賞することになったりする、つまり何ら責任を問われることなく性的な興奮や愉悦や癒やしを感じられる筋立ての漫画」じゃん? その点では確かに「ポリコレに気を使ってる」とは言えるよ。でもそれは全然評価されるべき要素じゃないよね。
「セクハラダメ!って話は毎回のように出てくる」のも「「これは女性の自由意志、女性からの好意」という強調がむしろクドい位出てくる」のもそのアリバイ作りのためなのは、普通の漫画読みなら誰だってわかるだろう。自分のほうが能動的・積極的にアプローチしてるわけではない。たまたま状況がそのようになったり、相手が自分に好意を持ってたり、自由意志で行動した結果、主人公側がその女性身体の性的要素、胸の豊満さを堪能できる状況になってしまう。言い換えれば、「いや〜んエッチ!」というビンタの伴わないラッキースケベ。
第1話からして、「痴漢からアイちゃんを守らなければいけないので彼女の至近距離で密着する」というシチュエーションが作られ、その状況下で不可避の出来事としてアイちゃんがしゃがみこみ、自分の下半身に胸を押しつけて摩擦することになり、自分が意図せず興奮・勃起してしまい(ご丁寧に「💢マークつきの上向き矢印」という漫符で表現されている)、アイちゃんも薄々それを承知し、まんざらでもなく思っている。どれひとつとっても一切自分のせいじゃないけど、結果としてのお楽しみは自分が享受できる。全てが主人公にとって都合の良い世界。
そういう作り物の物語構造を理解したうえで「男性青年誌に掲載されてる、そういうのが読みたい読者層向けの漫画なんだから、別にいいやろがい」という擁護のスタンスをとるなら、まだわかるんだよ。でも、あれが女性の自由意志を尊重した女性主体の漫画だとか、胸にコンプレックスがある女性がそれを受け入れる女性のセルフエンパワメントの物語だ(後者は別の有名ネット論客の評)とか言い出すのは、単純に卑怯だよね。責任0リスク0のライトエロを堪能させてくれる物語構造に、気づいていながら気づかないふりをする読者。欺瞞的な物語に欺瞞的な迎合をするやつ。俺はそういうチキンなやつは嫌い。
「自分の子供の頃」と「最近見る子供達」の比較をすると「昔の地方の子供」と「今の東京の子供」の比較になるので、その差が「今と昔」によるものなのか「地方と東京」によるものなのか判断が難しいのですが。
いや、顔立ちというか「意思がハッキリしている顔」というか。
自分の子供の頃を思い起こすと、『クレヨンしんちゃん』のボーちゃん風というか、ウド鈴木風というか。
イマイチ焦点が定まっていない目をしていたと思うし、口は半開きだったと思うし、漫符ではなく実際に鼻水やヨダレが垂れていた気がする。
それに比べて今の幼稚園児って、しっかり意思を持った上で表情筋の制御が行き届いた顔をしている気がする。
気の所為?
http://anond.hatelabo.jp/20090603180702
オレなりの考えを加えてもう少し論を進めてみる。
それはあの白い服に特別な扇情効果があるというワケでは無くて、看護婦の持つ献身的なイメージが好きなのだと思う。
セーラー服もそう。
女学生の持つ処女性や清純さを感じたいからこそのセーラー服で、そこに学歴とか実際の学籍とかはあまり関係無い。
要は記号なのだ。
もっとも長く接していれば制服を用いなくても献身さや清純さを感じられる事は出来ると思うがそれは現実の世界。
小説漫画の限られた表現世界ではそういった特徴を表現するには制服その他の記号を使った方がてっとり早い。
レイプ描写もその一つ。
それが描いてるのは支配欲や征服欲。
そしてそれをおかずにするというのは支配欲や征服欲を充足させたいと言う事。
支配欲や征服欲は男なら誰しも多少は持っているもの。それを持つ事が悪でも無いし犯罪でも無い。
そしてそれを満足させるのは現実世界ではレイプだけに限らない。
ナース服を着てもらえなければ献身さを感じられないとは限らないように。
指輪を買って相手に贈る、なんてのもその一つだよね。
http://anond.hatelabo.jp/20090219220621
上の記事では大槍が技巧派の例として挙げられている。俺もかつて大槍の絵に魅了された者の一人だ。2004年頃までの彼は神がかっていたと言ってもいい。だが2005年から彼は迷走し始めてしまった。姉歯偽装マンションで損失を被ったことの影響を云々するのは下種の勘ぐりでしかない。しかしその時期から「大衆」受けを狙った画風に意識的に手を出すようになる。2005年、ロマQでピンク髪を解禁。2006年、リトルウィッチファンディスクを発表。ここで白詰の追加シナリオを挿入したことにより、2003年時点(白詰オリジナル)との絵柄の差がファンの目に明らかになった。以後、少しずつだが確実に画風を修正しつづけ現在に至る。
変化はおよそ以下の4点にまとめることができよう。
かつて大槍の描く少女は物憂げな眼差しを特徴としたが、2005年以降は急速に明るくなっていく。グラビア写真のように屈託なく微笑む構図が多用され、また漫符に代表されるように「軽い」感情表現が増えていく。憎悪や嘲笑、虚無感といった振幅の大きい感情はネタとして戯画的に表現されるか、排除される傾向にある。
触れたら折れそうに細い手足と胴、手のひらに収まるほど小さい尻、というのが大槍の基本スタンスであった。このフレームを非ペド層にも受けようと成人女性への拡張を図った結果、俺が洋ナシと呼ぶところの肉体表現ができあがった。細い肩や胸囲は変わらないまま、骨盤を大きくし、それを起伏のないなめらかな曲線でつなげる。頭部は大きく、手足は細く小さく。四つんばいになったところはちょうど、盆に供える割り箸を刺したナスの馬に似ている。この肉体表現を少女に対しても逆輸入することで、古参ファンを絶望させたことで名高いメタボ透花が作られるに至った。
元々大槍絵は「脳勃起」と言われるほど、頭部に占める顔面の割合が小さい。頭部輪郭線の下半分に口から眉までが収まっている。これは幼児を描くときに多くの画家が利用する表現だが、大槍の場合は成人にも適用される。また横顔を描いたときに耳が中心ではなく前寄りになる(この結果、額から後頭部が顔に対して非常に大きくなる)。近年はこの傾向が進み、頭部のおよそ下五分の二に顔が描かれるようになりつつある。またこれと並行して目の巨大化がはかられた。耳や顎のラインにはあまり変化がないため、まなじりと耳が接し、もみあげは介在する余地がない。
少女の衣装に顕著に見られる変化である。従来の大槍は基本色に白無地を据え、そこに濃く暗い色をかぶせていくことを旨としていた。近年はピンクや水色、黄といった華やかな色を地にすえることが多い。桃白ボーダー、黒地水色水玉など派手な柄が登場することもある。ピンク髪は上述の通り2005年に解禁されたが、その後に青・赤・紫と何でもありになりつつある。このぶんだと近い将来には緑も加わることだろう。家具などの小道具大道具も、以前はアンティークを強く意識した陰影と重厚感の表現が見られたが、現在はむしろ清潔感・現代性を前面に出しているように思われる。総体として絵全体の彩度明度が高い。
以上のような変化のため、現在の大槍絵は残念ながらもはや俺の好みから外れつつある。もっとも当の大槍にしてみれば、総数としての支持者の数が増えれば成功であって、俺のような人間が去る代わりに同数以上の新規ファンが入ってくれば良い。この画風改革が間断なく続いているという事実は、新しい傾向を支持する者が多いことを示唆する。俺涙目。まあいいさ次行こう次。