はてなキーワード: シルバーシートとは
それまでふぞろいの林檎たちや岸辺のアルバムくらいしか知らなかった山田太一だが、
昨年、NHKで再放送されていた「男たちの旅路I~III」を初めてみて、山田太一の世界は奥深いと、認識を改めたのを覚えている。
ある種、衝撃を受けた。
「男たちの旅路I~III」は戦中派のイメージが強い鶴田浩二を山田太一が説得して、鶴田の初テレビドラマ出演となったいわくつきのドラマだった。
このドラマのすごさは、戦中派の鶴田あるいは特攻世代の鶴田の、ある種、ブレない、英霊に操を立てる保守の固まりみたいな偶像を粉々に砕いたところだ。
戦中派保守というと、三島由紀夫や吉田満といった1920年代半ば生まれで、10代の思春期に国家への忠誠を純粋培養で叩き込まれた世代。
その世代のブレなさに憧れて、保守を自認しているのが、昨今のなんちゃって感の強い保守たちだ。どんなに差別的な発言をしても非を認めず一貫している、みたいなアレも含めてね。
特攻で死んでいった仲間に義理立てして結婚も恋愛もしないという役柄(鶴田)だったが、死の病に直面した部下の女性(桃井かおり)に愛を告白され、戸惑いながらも、一線を越えようとしない。山田が脚本のなかでやってのけたのは、そうした戦中派世代のこだわりを、戦前派の世代(ドラマのなかでは上司として登場する池辺良)がなんで抱いてやらんのだ、お前は分別のかたまりだ、と一蹴するところだ。
池辺良の役柄には、戦争中、終戦直後に上官の立場として、清濁を飲み込みながら必死で生き延びてきた池辺自身経験が反映されている。
また大正昭和初期にモダンなカルチャーを受容する過程を経て、いつしか日本社会全体が国家主義へ傾倒してゆく日本の変遷をまざまざとみてきた世代でもある。その世代から下の世代としてみる、特攻世代というのは、若者の思い込みの強さを強く感じ取っていたに違いない。人の考えも社会も時が経てば変わる、それを知っているのが戦前世代。それに対して、敗戦後に変貌した日本社会を目の当たりにした戦中派は、国を信じて死んでいった仲間を忘れることはできない。
そうした世代間のギャップが、鶴田を悩みに悩ませる演出によって見事に表現されているのが、男たちの旅路第3部最終回だ。
このドラマを通じて、鶴田浩二に興味を持った俺は、八千草薫と共演した【シャツの店】もぜひ見てみたいと思った。
また、保守というのが、靖国神社に強いこだわりをもつ戦中派の前の世代として、戦前派の保守というものが存在していたことにも思い至り、改めて福田恆存なども読んだりしてみた。昔の保守を知れば知るほど今の保守がばかばかしくなった。
山田太一のものの考え方でいえば、第二部で描いた「シルバーシート」は圧巻だった。老人が都電車庫に立てこもり反乱を起こす。あえて社会に迷惑をかける意図的な行動に出た。
有形無形に、社会に迷惑をかけるな、と社会から言われ続ける老人の気持ちのやるせなさをここまで訴えかけるドラマはない。
誰しも、迷惑をかけずに老後を過ごせるなんて、誰にもわからない。認知症になるかもしれないし、長い闘病や介護で社会に負担をかけるかもしれない。
立てこもる老人たちを説得する役を演じた鶴田浩二に対して、笠智衆がいう。あんたには若いからわからないのだ、老人になったときはじめてわかるときがくる、と。
大人の分別という鶴田の説得が通用しなかったという、ここでも出てくる鶴田の敗北の演出もさることながら、老いて初めて分かる、というリアルなセリフが心に残った。
高倉健と大原麗子という因縁の二人(参考:居酒屋兆治)を軸に、やっぱり山田は高倉健の偶像を破壊するような脚本を書いている。
リゾート法によって急速に全国で展開されたテーマパーク開発はバブル経済の華だった。
炭鉱の閉山で疲弊する地域経済の起爆剤としてテーマパークを呼び込む北海道の炭鉱の町。
しかしバブル崩壊に伴い、計画が構想され、着工寸前まで来たものの撤退を迫られることになったのが90年代初頭の社会像だった。
町の期待をよそに、寡黙なキャラの高倉が現場担当として町にやってきたことから、開発会社の本社からは撤退の後始末を、という隠れた命題を高倉に任せたのではといぶかる町。そんななかでも、慣れないサービス業に苦心し、町を盛り上げようと市長を応援する高倉健の姿は、居酒屋兆治で演じた姿とはやはり違う。
阿部寛は、若い頃に、建設現場社員というチョイ役で出演したこのドラマから多くのことを学んだ、とどこかで言っていた気がする。
「ふぞろいの林檎たち」もすごいドラマだった。大学生役の中井貴一が初めての風俗でテコキで抜いてもらった挙句に、風俗嬢にこんな仕事やめなよと説教するシーン。リアルにおっぱい出しているのも80年代らしい。こういう演出はもう昨今のドラマではありえないだろう。
長くなった。
ともあれ、大きな存在が亡くなった。
ここ5年くらい、脚本を書いておらず、闘病を続けていたと聞く。
合掌。
汗、ワキガ、体毛の匂い、服の生乾き臭、様々な匂いが強烈な勢いでまき散らされます。
非常に強い匂いを発するんですよ。
空調服って「自分の服の中の匂いを周囲に撒き散らす装置」なんですよ。
これって本当にかなりヤバイです。
たとえば貴方が通行人に自分の着てる服を覆いかぶせたらそれはもう変態以外の何物でもないですよね?
空調服を使って自分の服の中の匂いをばら撒くのは、匂いという一点に絞ればそれと同じことをやっているも同然なんです。
普段服を着ている状態のワキガなんて目じゃないんですよ空調服ワキガは。
なんだかんだ一度中で匂いが籠もった上で吐き出しているので、水着を着てワキが常に開放されている状態よりももっとずっとエグいです。
蒸された上で、そこら中に振りまかれるんです。
服をちゃんと着てたら蒸されても服によって匂いの通り道は塞がれます。
空調服は違う。
そもそも空調服の空調って、お腹や背中のあたりを通るだけでワキの部分は普通に蒸れるんですよね。
でも服の中にはたっぷりとワキのニオイが漂っていて、それが周囲に発射される。
地獄ですよコレは。
周囲は本当に辛い。
本当に犯罪的なので。
ワキガに産まれたことに罪はなくても、社会生活を営むために適応する努力はしてください。
たとえばオシッコを漏らしてしまうお爺ちゃんは電車に乗る時にオムツを履きますよね?
ワキガの人間がケア用品をちゃんと使うのはそれと同じエチケットなんです。
もしもお漏らしがとまらないおじいちゃんがステテコで電車に乗って、シルバーシートに水たまりを作っていたらどう思いますか?
テロ行為なんですよ。
シルバーシートだった。
途中駅から足が悪そうなおばさんが乗ってきて、私の前に立った…ら、横の女性が「次で降りますので」って席を立った。
おばさんは「ありがとうございます」って言ってそこに座った。
手元のタブレット見て、しばらくたったころ、横のおばさんの「あの、席替わりましょうか?」って声がした。
目を上げたら、私の前に妊婦さんがいた。
声かけられ、座りたくはあるんだけど、でも、この人だって足が…? みたいな戸惑った様子。
だから「私が立ちます、どうぞ」って言って席を立ち、その場を離れた。
ラッシュのピークは過ぎていたから、その後降車駅までずーっと押しつぶされて…密で…みたいなことはなかったんだけど。
ふっと悲しくなった。
2週間前から同僚が「精神状態を整えるため」の休暇を取っており、これまで3人で回していた仕事を2人で回さなきゃならなくなった。
おり悪く週末に参加しているサークルの雰囲気が悪くなりはじめ、それに伴い任されてる役割が重すぎて、参加することが精神的体力的に苦痛。
という2つの主な理由(他にもいろいろあるけど、すべてこの2つに帰属する)により、毎日、とっても重い気持ちで過ごしている。
夜寝る前に「このまま目が覚めなければいいのに」と思い、毎晩、わけのわからない夢を見て、目覚めて、続く今日を思ってガッカリする。
「死にたい」「逃げたい」「疲れた」…をスマホで検索していのちの電話やカウンセラーさんのブログを紹介されたり、自殺の方法やその結果について知ったりしてる。
でも、人前で笑えるし、おしゃべりもできるし、おなか空くからご飯はちゃんと食べてるし、桜見て綺麗だなって思ったりする。
辛さの行き場がない。
なので、ここに書き捨てる。
ありがとうございました。
足不自由な人はEV使えとかマジ現人鬼かよw EVは奥まったところにあったりしてかえって歩く距離が長くなったりするし、これだけバリアフリーが普及しても必ず設置してるわけでもない いやぁこぇなぁはてブは。
歩くな派は大体こういう「足不自由な人」を盾にするコメントを上位に押し上げるけどさ。
エスカレーター乗ってる人で階段上れないほど足不自由そうな人なんてむしろ少数派に見えるんだが。
大半は単に階段上るのだるがってるだけですよね?
まずそこで平然と嘘ついてるのが気に入らないんだけど。
本当に足の不自由な人の為の装置としてのエスカレーターを擁護してるならそれは文句はないよ。
嘘じゃないならな。
そんならまず1列幅にしようよ。
本当に足の不自由な人だけのためならそれでも十分なはずだから。
現状足不自由な人用設備に乗り込んでいる健常者に周知して遠慮してもらえば十分間に合う。
それでエスカレーターはシルバーシート並みに「足不自由な人の為の物」っていう表示を強調しよう。
健常者がエスカレーター使うのは車椅子用駐車場に健常者が駐車するレベルに恥ずかしいことって風潮を広めようよ。
健常者だって困らないよ。
エスカレーターを減幅した分、たいてい併設されてる階段のスペースが広がるから。
俺ら健常者は階段を使おうよ。
いまエスカレーター使ってる奴らには明らかに健常者が多いから。
みんなエスカレーターやめて階段を上り下りして太い大腿筋に血をめぐらせて健康になろうぜ。
でもそれだとお前らは困るんだろ?
立ち止まれ派はさ。
お前らの本音は単に「だるいからボーっと楽したい」っていうだけじゃん。
「足の不自由な人のために」とか平気で恥知らずな嘘ぶっこいてるお前らのことだよ。
お前らは堂々とその本音を主張せずに「足の不自由な人が」とかお為ごかしぶっこいてるんだから。
悪いとか恥ずかしいとか内心で思ってるのはお前ら自身てことだろ。
そもそもエスカレーターなんて歩かないならスペース的にも輸送力的にも非効率甚だしいんだ。
健常者でも階段上るのが大変になるような高いビルならでかいエレベーター数基と補助の階段でやってるだろ。
なんで駅をこんなにエスカレーターだらけにしちゃったんだろうな。
それで健常者が「通路でダラダラする権利」を「足の不自由な人のため」にすり替えながら主張する状況になってしまった。
自分が楽したいためだけに嘘をつく、
その嘘の道具によりにもよって障碍者とかそういうものを持ち出して
彼らへの社会配慮を自分のズルっこのために平然と利用するような恥知らずは死んだほうがいい
ってことだよ。
ある社会制度が差別的ではないかという不断の提起と検討は、差別のない社会を実現するうえで極めて重要なものである。女性専用車両が男性差別ではないかという提起も例外ではない。
だが提起の妥当性は、「他の差別と外形的な一致をみるから」という一点のみによって証明されるわけではないし、議論をそこでやめるべきでもない。...(中略)
その議論の過程においては、「痴漢被害経験のある男性」の存在が指摘されるだろうし、セクシャルマイノリティを包括した社会制度の必要性といった論点も出てくるかもしれない。
元増田は外形的な一致のひとことで済ましてしまっているが、そもそも差別(元増田の言う意味の)かどうか、その区分けの非合理性を論ずることは重要だ。
女性専用車に男子中学生が入ることは推奨されていないが、かく言う俺も中学生の時に痴漢にあったことがある。同じような境遇の子どもたちが議論の外に漏れてしまっているかもしれない。だとすると彼らは選択の余地無く痴漢の的にされていることになる。
元増田の論に乗った上で「差別だと認めろ」の要求に反論するためには、区分けの合理性を主張するしか無い。差別が悪だという認識がある中で、それは再検討への圧力になる。貴方の考える議論が促進されることになるだろう。その意味でも元増田の主張は意義深いと思う。
元増田が導入した視点は、現状、区別・差別が曖昧に理解されている中に、「差別か」「であるならば現今の環境下では許容せざるを得ないか」の二段階に分けて考えることを提案したことだ。
前者の視点でシルバーシートは差別でないと判断できる。後者の視点で日本人専用車は許容できないと検討しうる。この部分は別の増田と同じ意見だと思う。
元増田: 不当な差別と現今の環境下では許容せざるを得ない差別は、外形上区別できない。だったら、変な理屈をこねて後者を「差別じゃない!」と言い繕うべきじゃない。それは前者をも免罪してしまう。
明示されているわけではないが「変な理屈」というのは例えば、”被害者の助けになっているので、女性専用車は差別では無い”のようなものだろう。
たしかに差別の実質について、倫理的・技術的・合理的・歴史的観点で精査することは意義深いと思う。慎重に検討された多角的な評価は、天下り的な定義に比べると説得力を持つ。問題なのは、それらを組み合わせた総合的な判断で差別かどうかが判定されることの危険性だ。どの基準の判断をどれだけ重要視するか? 議論の結果には発言者の立場や権力が大いに影響しうるし、文化や偶然によって結果が決まると思う。
ケースバイケースで意味を柔軟に引き伸ばされて運用される。少なくとも市井のフェミニスト・リベラリストの間では差別概念はそのように扱われている。元増田はこの事態に警鐘を鳴らした。