はてなキーワード: 司馬遼太郎とは
自宅最寄りの駅を、同じ学校のすげぇ美人な先輩が偶然にも使っていた。
高架駅だったのでホームへは結構急な階段をのぼらなければならなかった。
高低差を利用してあわよくば美人先輩のパンツが拝めないかと毎日チャンスを伺っていたが、
絶妙なところでカバンや手でガードされるので、結局一度も拝することができなかった。
だがそれがよかった。俺の性癖が歪んだ瞬間だった。
休みの日、遠い場所に住む友達の家にゲームをしにいくために、始発に乗っていた。
「ネオジオ」というウン万円もする、高校生が手にするにはなかなか難しいゲーム機をもっていた友達の家に、それこそ一時期は毎週末欠かさず通っていた。
でも、当時ハマっていた司馬遼太郎の小説なんかを読みながら過ごしていたので苦ではなかった。
今はもうたまの休みの日に朝一番から一時間半も電車に揺られるなんてとても考えられない。
そのような体力も気力もない。
他にも電車にまつわる思い出はたくさんある。
しかし現在はもっぱらクルマでの生活なので電車に乗る機会なんて年に2~3度あるかないかになってしまった。
俺以外にも、”電車”にはなんらかの思い出・ドラマが誰にでもあるんじゃないかな。
とりあえず色々な思い出をありがとうと言っておこう。
エンタメが無罪なのではなく、エンタメであるかエンタメを諦めるかの2択であるってだけだよ。
お前の言ってる全く逆だ。
歴史こども漫画がエンタメなわけねーだろ。あれはわかりやすい教科書。面白くあることが目的ではない。
司馬遼太郎はエンタメだ。面白くある以外の目的はないし、他のことをする余裕は全くない。
両立は不可能。難しすぎて、二兎を得ることはできないのよ。
エンタメとか、手抜きでも適当にできるっしょ?wとかお前は思ってるんだよね。
お前は自分が真面目だと思ってるけど、実は真剣味が全然足りない。
どうすればそれができるか、というイメージがまったくないから、
>読者に不安なく、不満なく娯楽供給し続けるため、いくつもの自主的な線引きを行い
こういう能天気ことが言える。
読者が無知っていう現実がまずあって、無知な読者がいるって状況でどう描くのが一番面白いのかを追求するのがエンターテインメントの責任であって。
司馬遼太郎はそれをやってるだけだとしか言いようがない、と俺は思う。
そんなん配慮してつまらん小説書く方がよほど罪だし、そんなん配慮するからつまらんものしか書けないのだ。
歴史小説としての作品と認識している限り問題ないのですが、一番の問題は司馬遼太郎史観を本当の歴史と勘違いして大河ドラマを創るNHKと、司馬遼太郎信者の日本史学者が、小説の内容を史実として事実に織り交ぜる事。
司馬遼太郎が、相当の史料を基に歴史小説(フィクション)を書いていますが、既に元になった多くの史料は既に時代遅れの情報になっていますね。
司馬遼太郎無罪って言うやつ多いけど、実際に読むとわかるが読者の誤読を期待した書き方で、なろうより余程ギルティ
実在の人物、実際の出来事を固有名詞そのままもってきておいて、小説のなかでの謎うんちくを披露するときは登場人物に言わせるわけじゃなく「作者の説明」として地の文で披露する上に、小説そのものの中ではなく後書きで読者からの批判に対し「ちゃんと調べてる」と反論してる
作家司馬遼太郎のうんちくが小説の価値みたいに思わせるよう、小説の外側まではみ出す形で作家自身で自己演出してる
あれ読んで「読者の自己責任」はない