はてなキーワード: モー娘とは
今日、急に不眠になった
ベッドに横になっても、なんつか身体が硬くて猛烈に反発してるイメージで寝るどころではない。ストレッチしてもダメ
思い当たって、セロトニン不足では?と思い軽く筋トレをするとやはり多少マシになった
それでもやっぱり違和感があって、少しするともうベッドが全然身体を受け付けてくれなくて、つか体に触るもの全部違和感でやばかった
必死にモー娘のLOVEマシーンを歌って踊る(もちろんフリで)ことでなんとか体の支配を取り戻した。LOVEマシーンなのはたまたま先日入ったラーメン屋で流れてて懐かしいなあと思ってたのでパッと思いついた
で、横になりながら昔めちゃくちゃブクマを稼いだ自分の増田を見た
たぶん承認欲求が強烈に満たされた経験として記憶されてたんだろうな。あとこの経験を書いて誰かに伝えたかった
トラバとかブコメ読んでると急にいつもの感覚に近くなって、身体がほぐれるのを感じた。まだ眠くはならないけど
明日医者行くけどこれが世に言うセロトニン不足?鬱の症状?なんだろうなあと
思い当たる節を考えてみた。昔から楽観的な方でこういったこととはまったく無縁だった。
最近、気分屋で怒鳴り癖があって恐ろしいと感じてる家族を怒らせることが怖くて、先回りして機嫌取りするようになった。事情があって今は物理的に距離を取れない家族。おかげで平和になったきがしてた。私も怒られないし、家族は機嫌いいし、最高じゃん万事解決、みたいな。
他にもあるかもだけど、最近変化したのはこれ。なんか書いてるうちにより身体がリラックスしてきたので、やっぱりこれなんだろうなー……と。やっぱあかんのねこういうの
これの解決はこれから医者やケースワーカー?と模索するとして、とにかくこれが鬱か?セロトニン不足か?と思ったので記念カキコ
他称による賞賛としての「アイドル」ではなく、職業としての「アイドル」だ。
とはいっても、冷静に曲を聴くと「わりとちゃんといい曲だなあ」と思ったりする。
基本的に派手なショー的なものは好きなので、ライブも行ったら面白いのかもしれないと思う。
でも、好きじゃない。
何がこんなに嫌なんだろうなと思うんだが、
なんというか、思い出すのは、その昔バラエティでやってた「ポケビ」と「ブラビ」である。
バラエティ番組の中で、彼らはときにライバルとして競わされ、ときに意味の分からない像を手売りさせられ、
「これに負けたら解散」「これができなきゃCD出させない」と散々に追い詰められていた。
当時子どもだった私は追い詰められる千秋やビビアンを心から気の毒に思っていたし、番組のゆくえにハラハラした。
そういう幾重の困難を乗り越えて出された曲も覚えて何度も口ずさんだ。
けど、不意に気がついた。
こんなの全部うそっぱちだな、と。
くだらない試合だの課題だの、それができなければこの世の終わりみたいに演出されてるけど、
そんなの全部番組のさじ加減一つだ。
彼ら彼女らはすごく一生懸命がんばっている(ように描かれている)けど、
そのがんばりは、言ってみれば、誰かがつくった回し車を一生懸命回しているだけだ。
あれだけボロボロになって涙を流してがんばってるのに、その努力の方向は「私たちはこんなにたくさん回し車を回せました!」なのだ。
そんなの見ていられない、と思った。
歌いたいなら歌えばいいのに、なんでそれじゃだめなのだ。
(ASAYANが同じことをしてモー娘を売り出していたが、それは見てなかったのでよく知らない)
今となってはあそこまで露骨にリアリティショーめいた見せ方をするアイドルも少ないだろうが、
結局、今もアイドルというものの売り方はそう変わっていないんじゃないか、と思う。
彼らは、基本的に、その狭い枠のルールの中で競い、勝ち取り、メディアに露出する。
そしてファンたちもまた、そのルールと規範を共有し、事情通がそれを解説したりする。
彼らがいま売り出されてるのはこうこうこういう理由なんだよ。
そういう誰かがつくった、狭い世界の中の狭いルールで競うスポーツである。
あそこで華やかにライトを浴びているのは、その、せっまい世界のスポーツの勝者というだけだ。
彼らは歌唱力やダンスなど、本来の売り物については、非・アイドルに比べ多くを求められない。
というか、グループ内での優劣は苛烈なまでに強調されグロテスクなまでに書きたてられるのに、
グループの外の人間とは、比較されることもないし同じだけの技量を求められることもない。
あたりまえだ。彼らのスポーツはグループ内でしかルールを共有されていない。
仮におなじ「アイドル」と呼ばれていたって、他のグループならば違うスポーツをしているのだ。
どこかのドラマに出たって、舞台に出たって、彼らは過剰な期待はされない。
外の人間も、「アイドル」という枠組み以上の技能がないことはある程度当然として受け止めるからだ。
けれどもなんだか釈然としない。
彼らが「アイドル」というマイナースポーツに興じているのは勝手だし、その勝者としてたたえられるのも勝手だが、
マイナースポーツの一流選手だからといって、他のジャンルでまで彼らを尊重する理由があるだろうか。
ポケビやブラビの対決に一喜一憂していたころ、私は「ウリナリ」というマイナースポーツのルールを把握して、その枠組みの中にいた。
けれど、今のアイドルたちのルールにははまれない。なんだかばかばかしいからだ。
音楽もダンスもバラエティもドラマも好きだけど、そのどの分野もきちんと優劣を競い優れた結果を残してる人たちがいる。
内輪のマイナースポーツでいちばんになることに全力を注いできた人たちに、特別用はないのである。
かんけいないけど「タイミング」は未だにいい曲だな…と思うし
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>スポーツも嫌いなのか
正直あまり興味がないので詳しく知らない。
が、別に嫌いでもない。
スポーツは各種競技、ルール制定に関して公正であろうとしてる(と、信じてる)し、
スポーツのルールは別に選手たちを遮二無二「努力」させて、その過程を見世物にしようと言う意図で作られてないからだ。
サッカーのルールに準じて得点を得ようとする行為はべつに嫌いじゃないけど、
「これから試合まで、いちばん練習時間が長かったチームに、3点を追加する」みたいなハウスルールを作ったりしたら嫌いだと思う。
現実のアイドルの有様を踏まえたうえで成り立ってるエンタメだと理解してる。
なので好きではない。
てか、このエントリを書こうと思った動機は、知人に某アイドルソシャゲを猛プッシュされ
「嫌だ、どうしても嫌だ、アイドルってだけで正直やる気なくす。でもなんでこんなに嫌なんだ」
知っている。それにもいくつか段階があって、
「アイドル枠で客寄せに出てるだけかと思ったら意外と善戦してた」
「アイドルファン向けの舞台だけど、作品として作り込まれてた」
などあって、一、二段階目はやはり「過剰な期待はされていない」し「アイドルという枠を出た実力は求められていなかった」結果だと思ってる。
三段階目にあたる人が全くいないとは言わないけど、全体としては少数、例外だと思う。
あとベテランレベルでアイドルだったこと自体忘れ去られてる人か。
ただ、そもそも私は、活躍するアイドル出身の個人を否定する気はない。
だれか個人が嫌いなわけじゃなく、現代のアイドルというシステムが好きになれないのだ。
(余談だが、蜷川氏なんてのはまさに商業的理由からアイドル起用してた人なので、反論として出されるのに疑問がある。
起用理由に関してであって、舞台上での個人の努力を疑うものではないけれど)
>曲は残る
そう思う。あと10年して、アイドルのありようとかがどうでもよくなったら、
その時はじめて、曲としてフラットに聞けるんじゃないかと思う。
アイドル以外にも聞く曲はたくさんあるので、
だってめちゃイケって課題みたいなのを見つけて挑戦するってバラエティ番組なのに視聴者が一切望んでいない番組作りをしてるから。
SMAP、モー娘、EXILEに岡村がダンスで絡むというコーナーは理解できるし、過去に岡村に挑戦状送りつけたヨモギダも理解できる。
だけど、三中にみちのくプロレス入りするコーナーって誰が得するの?一切理解できない。
みちのくプロレスって設立者のグレートサスケなんて野々村竜太郎と同じく政務調査費を岩手県から騙しとったクズだし、そもそもプロレス自体が過去から現在まで超絶ブラック企業でプロレスラーなんてごくわずかしか視聴者に知られてないのに、それを素人の三中に強要して苦しんでる様子を流す番組作ってどこがバラエティ番組なの?どこに笑いがあるの?
そのコーナー以後めちゃイケって見ても笑えなくなってしまった、ブラタモリの方が断然面白く土曜の夜はフジテレビからNHKに移ってしまった。
フジテレビがテレ東よりも面白く無い理由、それはバラエティ番組で笑えないからでしょ。
お笑い番組でプロレスラーを育成するのって違うでしょ。それが理解できないフジテレビはとっとと新規番組を作らず過去のドラマやアニメのみを再放送して下さいね。
一時期、ラブライバー界隈で話題になった劇場版ラブライブ!の批判記事があった。
それは、おりあそ氏による
「アイドルはなぜ魅力的なのか? あるいは、劇場版『ラブライブ!』はなぜ失敗作なのか。」http://oriaso.seesaa.net/article/421134088.html
である。
自分はTVアニメ第2期以来ラブライブ!という作品にうんざりしており、ほぼ既に内容に希望を抱くことを諦めた立場だった。
そのため、劇場版の内容を目の当たりにしても、2期の調子から続きを作ったらこんなものかという程度に軽くとらえていた。
批判記事についても早い段階で拝読の機会を得ており、概ね同意はしたのだが、批判へ寄せられた賛否両論の意見の軽さと2期以来の作品の現状の救いようのなさに呆れていたこともあり、あまり触れないようにしていた。しかし、ラブライブ!(以下ラブライブと表記)という作品が何と言おうとフィナーレを迎えようとしている今になって、少しは気分が落ち着いたこともあって改めて自分なりに読み解いたものを記しておこうかと思う。
彼の批判文の序盤はTV第1期から劇場版の終わりに至るまでの説明なので割愛。その直後の文章から批判と問題提起が始まる。
しかし、アニメ『ラブライブ!』のラストを飾るイベントが、このようなものであっていいはずがないのである。
問題点を明確化するために、3年前に現実世界で開催されたあるライブイベントと対比してみたい。それは「ゆび祭り ~アイドル臨時総会~」といって、普段はライバル同士である人気のアイドル10組が一堂に会し、次々にライブを行うというイベントであった。このイベントが話題となった最大の理由は、指原莉乃という当時AKB48で人気を急上昇させていたメンバーが自らプロデュースをしたことにある。つまり「ゆび祭り」は、μ'sが企画してライバルであるスクールアイドルを集めた、劇場版のクライマックスを飾ったあのお祭りと非常によく似たイベントだったと言えるだろう。
実は「ゆび祭り」は感動的なイベントであった。それは何故かというと、指原莉乃というアイドルの人生物語を象徴するイベントだったからである。もともと指原は故郷の大分県において、熱狂的なアイドルファンとして育った。モー娘の全盛期に小学生時代を過ごし、様々なグループのライブに通い詰める重度のアイドルオタクになったのだ。そしてアイドルへの憧れが高じて上京、自分自身がAKBのメンバーとなり、ブレイクを果たしてこのようなイベントを企画できるほどの地位に登りつめた。つまり「ゆび祭り」は、指原のアイドル愛が余すところなく表現されたイベントであり、アイドルオタクの成り上がりストーリーを体現したからこそ、感動的なイベントだったのである。
この部分、ある意味では三次元アイドルへのアンチテーゼ的な役割が求められる二次元のアイドルアニメというジャンルの批評に実在アイドルのAKBを持ち出したきたことで一瞬、辟易した読者も多いことだろう。自分もその一人であったが、よく読んで考えれば、その意図も分かるものになっている。
実際、AKB指原がAKBとしてデビューする以前からアイドルオタクだったことは有名な話らしくいろいろとエピソードや写真が残っているようである。
そんなアイドルオタクが、一応トップアイドルとなり、事務所などの枠を超えて自分がリスペクトしてきたアイドルを集めて「ゆび祭り」という大きなお祭りを主催したことは確かに快挙である。
そして、この「ゆび祭り」というイベントのチケット代は指原の愛称「さしこ」にちなんで345円という特価であったらしい。自分の好きを極めて走ってきた上で積み重ねてきた成果を現在のアイドル達やアイドルオタクに還元するという意味で確かに素晴らしいイベントだったといえよう。
それに対して、劇場版ラブライブにおけるお祭りが比較されながら述べられているのが以下である。
では、アニメ『ラブライブ!』のストーリーを締めくくったあのお祭りは、どのような物語性を内包していたのだろうか。筆者の考えでは、残念ながら「どのような物語性もない」のである。あのお祭りでは、「スクールアイドル」がキーワードになっていた。しかし今までの『ラブライブ!』で、「スクールアイドルはいかにあるべきか」とか「スクールアイドルの未来」とかいったことが主題になったことは一度もない。穂乃果たちは、今まで他の(A-RISE以外の)スクールアイドルのことなんかちっとも考えてこなかったのである。最後の最後になっていきなり《スクールアイドルという問題》を提示されても、あまりにも唐突だと言わざるをえない。
指原には長年アイドルオタクとしてアイドルに憧れ続けてきた上でトップアイドルになり、先述のお祭りを主催したというプロセスがあるのだが、ここで述べられている通り、μ'sもとい穂乃果にはそんなプロセスはない。
廃校を阻止しようという目標が最初に生まれたが、スクールアイドルという手段は後付けであり、(スクール)アイドル活動は積み重ねてきて目的となるような価値としては弱いものだったといわざるをえない。TVアニメ第1期途中で廃校問題が有耶無耶になり、自分達はアイドル活動をこの9人でしたいんだという方向に物語は動いたのだが、それも行き当たりばったりで賛否両論であった。作中でもまだ比較的まともだった頃の矢澤にこに「穂乃果の(アイドルへの)好きはいい加減」と批判されている。
また、自分達のスクールアイドル活動には目を向けても、他のスクールアイドルに対して何らかの注目を向けたのは穂乃果にアイドル活動をさせるきっかけを作ったA-RISEくらいであり、それも主に廃校阻止や後のラブライブ出場&優勝という目標を達成するための当面の壁やライバルとして注目された程度に留まっているため、おりあそ氏の批判にある通り、指原のような他のアイドルへの想いが高じて開催につながったイベントと比較すると、劇場版で急に穂乃果やμ'sの「スクールアイドル」に対する想いが打ち出され、スクールアイドルを集めてイベントをやろうと言い出すのは唐突であり、付け焼き刃だとか行き当たりばったりといった表現で揶揄されても仕方がないものといえる。
一方で、そのイベントや発想自体は悪いものではない。スクールアイドル全員で楽しい大きなお祭りをしましょうというのはとても魅力的で素晴らしいものである。しかし、作品上仕方ない部分もあるとはいえ、「スクールアイドル」全体のお祭りへの想いを一旦は語り、イベントを開催してみたらμ'sしか目立っておらず、他はバックダンサーに近い扱いというのは、劇場版という大きなお祭りという面を考えてもどうにかならなかったのかとか、他のアイドルやファンへの還元の面でも現実のアイドルに大きく負けているのはどうなのだろうとか考えてしまう。
したがって、あのスクールアイドルのお祭りは作中における開催への過程や内容の意味だけでなく、ラブライブの劇場版というお祭りの観点でも説得力と盛り上がりに欠ける粗末なものだったといえるのではないだろうか。
今回の劇場版ラブライブ!でとにかく目につくのが、このように行き当たりばったりで物語の流れを無視したストーリーである。映画の前半では、脈絡の無い強引な展開でニューヨークに行くことになるが、そこで何かを得ることはなく、後半ではまったく無関係なストーリーが始まってしまう。後半のストーリーから逆算すれば、前半では「スクールアイドル」の問題が提示されていたり、μ's活動終了への伏線が描かれていたりしなければならないはずだが、そういったことは全然なく、ライブ場所を求めて街を探検したりアメリカ人と交流したりするだけである。また、ニューヨークで迷子になった穂乃果は、彷徨っているうちに一人の女性シンガーと出会い、ホテルまで連れ帰ってもらう。この女性シンガーにはいろいろと不思議な点があり、穂乃果以外のμ'sメンバーには見えないなどの設定があるため、「未来の穂乃果」だというのがネット上では最も有力な説である。この女性シンガーは帰国後にも一度穂乃果の前に現れるのだが、それっきりストーリーからは退場し、穂乃果に思い出されることもなく、謎も一切明らかにならない。映画のキーパーソンであるかのように登場しておきながら本筋にはちっとも絡まないというこのキャラクターは、何のために出てきたのか本当に謎なのである。他にも、映画冒頭で描かれる、穂乃果が水たまりを飛び越えるという過去エピソードがこの映画のストーリーに全然そぐわないなど、とにかくこの映画の脚本はいたるところが継ぎ接ぎだらけの雑なものであり、一貫したテーマがないので物語性を感じられない。「物語性がない」と言うと、『けいおん!』なんかの例を持ち出してくる人がいるかもしれないので予め書いておくと、『けいおん!』にはストーリーはない(大したことは起きない)が、物語性はある(一貫した主題がある)。それに対して劇場版『ラブライブ!』には、ストーリーはあるが物語性がないのである。
と、ここも個人的に意見の相違はないのではあるが、突っ込みたい点が何点かある。
そもそも行き当たりばったりで物語の流れを無視したストーリーというのは劇場版に限らず、第1期から指摘できる問題点であり、ラブライブというよりも花田十輝氏の脚本によく見られる傾向ともいえる部分である。その点を、恐らくブログ著者は第1期を評価したい立場であるために触れないでいるのだろうが、後々2期や劇場版でそれが起因して物語性やキャラクター性の破滅につながっていることは無視できない。
たとえば2期においても用いてプロジェクト開始初期から掲げていた「みんなで叶える物語」というキャッチフレーズ。それが本来はコンテンツ全てを統括する一つの物語性やコンセプトになるべきだったし、アニメ化以前は細かなキャラクター設定のブレはあっても、その点においてのブレはなかった。個性や事情を違えるキャラクターが集まった上で廃校阻止やアイドルになるといった目標を叶えること、また結果的に初期からそのコンセプトやキャラクターを支持してきたファンの思いを叶えるという意味にもつながってくることになる。
しかし、アニメにおいてその作中の物語性は破棄された。廃校阻止という目標がプロジェクトを束ねる大きなコンセプトの一つだったが、それは第1期で大会に出たわけでもなく他のアイドルと大々的に競ったわけでもなく達成される。その後μ'sは文化祭における穂乃果の件もあり活動休止となることもあり、せっかく大きな目標を達成できたのにカタルシスが弱い。
アニメラブライブに肯定的なファンの間では「アイドル活動で廃校阻止というコンセプト自体に無理があるから、1期でそれを消化したのは悪くない」という見方があるが、無理があることを簡単にあっさり達成・消化させてしまったたものをよしとする神経や論理にこそ無理があるように思える。
また、裏を返すと、大会に出ずとも廃校阻止につながるくらいにスクールアイドル活動の影響力や効果が大きいことを描写してしまったともいえる。さらに2期では、次に開催された大会に出場し、プロのアイドルを上回るとも言われていたA-RISEをも倒し優勝を達成してしまったのだから、その後のμ'sの人気や知名度は絶大なものとなっていただろう。少なくとも地元東京や関東地区では。
脈絡の無い強引な展開でニューヨークに行きライブを行い、間違いなく関東の空港である日本の空港に帰ってきたところでファンに出待ちされて知名度を得た自分達に驚くというシーンについてであるが、既に廃校阻止や大会優勝の時点で雑に考えてもかなりの人気と知名度を得ていたはずである。ましてや地元であり、さらに出迎えたファンは同年代であったから今さら驚くことではないはずだが、それに初めての体験であるように驚く描写を入れてしまったことで、劇場版やアニメラブライブという作品自体がどの場面においても何かを得ることはなく、いつもまったく無関係なストーリーが乱雑に入れられるだけの作品だと物語っているかのようである。
続いて、ブログではそのような内容や批判を受け入れるファンの態度についての批判が述べられている。
さて、劇場版『ラブライブ!』は以上のように脚本に重大な瑕疵を抱えているにも関わらず、この劇場版が良かったという人々の多くがこのことを大した問題ではなかったと考えているようだ。ここがポイントである。もし以上で挙げたようなことがそもそも物語上の瑕疵ではないと言うのなら、それは根本的なセンスの違いだからどうしようもない。しかしそうではなく、瑕疵だとは認めつつもそのことによってこの映画の価値が損なわれないと考える人々が多くいるという、その点にこそ本質的な問題がある。なぜなら、これほど重大な物語的欠陥を目にしておきながらそれを大した問題ではないと言うのは、「アイドルアニメなんだから可愛ければそれでいいじゃん」「百合さえあればなんでもいいじゃん」という物語性軽視の態度に他ならないと考えられるからである。
『ラブライブ!』はTVアニメ第1期以来2年半のあいだ爆発的に人気を拡大し、日本の二次元コンテンツを代表する作品の一つにまでなったが、残念ながらそれと同時に、物語性をひどく軽視するファンを増やしてしまったように思う。そういった人々は、μ'sを一方的かつ即物的に消費するだけであり、μ'sのメンバーに共感したり、あるいは彼女らから何かを学んだりしようとするチャネルを持たない。そしてそういった人々の消費態度は、実際に『ラブライブ!』の作品そのものに反映されるようになってしまった。その結果がこの劇場版における脚本の崩壊だと考えられるのである。
そもそも、「アイドルアニメなんだから可愛ければそれでいいじゃん」「百合さえあればなんでもいいじゃん」という擁護を持ち出すのも苦しい点がある。
何故かというと、このアニメラブライブの脚本家である花田十輝氏や監督の京極尚彦氏は自分たちが志向する物語性を作るために、キャラクター性やプロジェクトの大きなコンセプト(一貫した主題)を変更して犠牲にした経緯があるためである。(電撃ラブライブ!3学期http://www.amazon.co.jp/dp/B00BW8MRVY等参照)
いくら結果売上が出たとか人気が出たとはいっても、道理に背く大きな決断を下したからには内容に責任を負うべきである。自らが企画し原案から打ち立てた作品なら構わないだろうが、ラブライブは三社合同のプロジェクトであり、原案は公野櫻子氏であるため、彼らは作品の物語性の中枢部分に適当にメスを入れられる資格はない。つまり覚悟を持ってメスを入れてしまったのだから、それ相応の義務や責任を負わなければ話にならない。
本来あったキャラクター性や物語性を軽視した上で、打ち立てたストーリーに不備が生じ、それを擁護するために切り捨てたものを持ち出すというのは都合が良すぎるし、つまりストーリーコンセプトの変更やキャラクター性の変更の失敗を証明しているようなものである。
日本三大美少女アイドルグループといえば、「おニャン子クラブ」「モーニング娘。」「AKB48」であるが、おニャン子は消滅してるし、モー娘は全盛期の勢いはない。一方、美少年アイドルグループたるジャニーズを見ると、若い頃から活動してても、人気を保ち続けるグループは多い(例えばSMAP、TOKIO)。この差は、ずばりグループの「核」の違いに起因する。
美少女アイドルグループは、その名の通り、「メンバーが美少女である」ことを最大の売りとしている。その為、いくら人気メンバーでも時間が経過すれば、「卒業」させざるを得ず、せっかく築いたメンバーごとの人気度がリセットされてしまう。一方の美少年アイドルグループは、「メンバーのキャラが立っていること」が最大の売りである。その為、メンバーが全員年をとり、「美中年アイドルグループ」になっても何一つ問題がない。そもそもメンバー交代自体が不祥事でもない限り、滅多にない。
最大の問題は、何故、美少女アイドルグループがそのままメンバーを交代せず、美熟女アイドルグループになることが許されない(あるいは一般的ではない)かである。それは女性アイドルが年をとると急激に人気がなくなるのと全く同じ理由である。ファンという生き物は、男性がとしとるのと比べ、女性が年をとることに大変不寛容なのだ。
では、AKB48はこのまま、おニャン子クラブや、モーニング娘。のように衰退してしまうのだろうか。そう話は単純ではない。AKB48の最大の強みは、「数の暴力」である。AKB48の正式メンバーだけで48名、AKBグループ全体では300名以上いるそうだ。これだけ人数がいれば、主要メンバーの同時交代による衰退が防止できる。企業のように、ベテランが若手を育てるゆとりが生まれるのだ。
あるいはPUFFYのように圧倒的個性で、年齢など関係ないと言わせられる活動ができれば、メンバー交代を、せずに女性アイドルグループを維持できる。職人になるか大企業を目指すか、いずれにせよ、女性アイドルグループの前途は多難である。
参考:AKBの人数
SMAPとかV6とか嵐とか、30歳40歳になっても結婚して子供が出来てもコンサートでバリバリ踊ってて、
対して、女性アイドルは10代20代前半が中心で、30歳になるとふっと消えてしまうイメージがある。
売れている人はバラエティで顔を見るけど、コンサートはやらないのだろうか。
芸能界なんて水商売なので売れなくなったら消えるのは当たり前なんだけど、
30代だろうが歌って踊れる女性はたくさんいると思うんだけど。
需要がなくなるのだろうか?
Perfumeはアーティスト寄りなので30代になっても舞台上で踊り続けてくれるのかな?
ファンとアイドルがとても近い距離で触れ合えるような。
男性が地下アイドルの形式で活動しているという話を聞いたことがない。
地下アイドルの現場を見て感じたのは、キャバクラのようだということ。
この男女差に見るアイドルの活動の仕方は何だろうか。
・女性は出産に年齢制限がある。出産の後には子育てをしなければならない。