はてなキーワード: ズバリとは
幸せって何だろう。
……なんてことをシラフで管まく奴がいたら、それは人の温もりに飢えているドランカーか、時間を持て余したバックパッカーのどちらかだ。
「幸せとは水が沸騰することだよ。外圧によって変化する沸点こそ、幸せの有り様さ」
弟は以前に、そんなことを意気揚々と語っていたが、とどのつまり“人それぞれ”ってのを言い換えているだけだ。
陳腐な結論を捏ねくり回したり、とっぽい言い回しで着飾りたい年頃だったのだろう。
本人は「山登りの疲れでハイになってた」って後に釈明していたが。
いずれにしろ、ナンセンスなことで夢想したり、使い古された話で盛り上がれるのは若者の特権さ。
「無人島に何を持っていくか」だとか、「カレー味のウンコorウンコ味のカレー」だとか、そんな話を大人になってからするもんじゃない。
言うまでもなく、幸せってのが如何に不安定で、捉えどころのないモノなのかは自明の理だ。
例えば俺にとっての幸せは、自分の時間をスムーズに使いこなすこと。
弟は不安や不満のない、退屈しない程度に刺激的な、メリハリのある毎日を過ごすこと。
父は余裕を持ったスケジュールで仕事を終えることで、母は家族と一緒にいられることだと言っていた。
キトゥンは知らない。
まあ、このように身内の間だけでも多様なのだから、幸せをズバリ「こうだ!」って答えるのは無理な話なんだ。
弟のようにガワだけ取り繕っても、単なる言葉遊びにしかならない。
だが今回の話に出てくる“とある人物”は、それを壮大かつ究極的に追い求めた。
最初は順調だったんだ。
その日、家族はそれぞれの事情で外出していて、文字通り猫の子一匹いない状態。
自宅には俺一人で、都合よく予定も埋まっていない。
それはつまり、俺は俺のためだけに時間を使えるってことを意味していた。
「9、10、11……いや、もう20回くらいやったっけ……まあいいや、最初からやり直そう」
周りに誰もいないのを承知の上で、あえて独り言を呟いてみたりもした。
勿論これは客観的な見解ではないが、異論を挟める人間は今この場にいないんだ。
「やあ、マスダ!」
「……」
一切の誇張なく、本当にいきなりである。
しっかり戸締りをしていたし、入ってきた気配すら感じなかったのに、いつの間にか部屋の中にいたんだ。
だがガイドの普段の振る舞いを知っている俺からすれば、これは驚くに値しない。
「……どうやって入ってきた」
あと、人のテリトリーにずかずか入ってきて、一方的に「こっちの事情を汲んでくれ」と主張してくるのも随分だ。
「不躾なのは百も承知さ。それでも優先したい事柄だから、こうやって来たんだ」
自分が未来に生きているって驕りが、所々に見え隠れして鼻につく。
己の価値観や振る舞いが相手とは違うって前提が、まるでないように動いてくる。
「ちゃんと聞いてくれよ。キミが今いる世界、ひいてはボクたちのいる世界が消滅する可能性もあるんだ」
なんとも大仰だが、ガイドの言葉は結果的に真実であることが多い。
それは分かっている。
分かっているのだが、真面目に聞けというのは無理な話だ。
いやもうほんとズバリこれ
いろんな見栄っ張りっているけど、カッコつけてるっていうのも見栄っ張りの一つだと思うんだよね俺。
カッコつけによって生まれるかっこよさって見栄だよ。単なる見栄を具現化した状態。
世の中には「かっこいいことをしている俺イケてる」思ってる人が多いっしょ。見栄を具現化して「ドヤぁ」的なね。
スターウォーズのフィギュア陳列マンってズバリそうなのでは?って主張したいわけ。
でもまあずらーっとフィギュアが並べてあるのはそそられる。男だからわかるよ。それはそれとして置いておこう。
でもなんかそれってナシじゃないですか?
スターウォーズフィギュア、大量にあるけどさ、あれってそれぞれのキャラにドラマなんてなくね?
それと一瞬しか映らないようなキャラのファンとかいるじゃん?設定がある?どうせ後付けっしょ。
「アンタが知らんだけだ」っていう意見もあると思うけど、いやー実際対してないだろ。
いちお全部見てっから主要登場人物にはそれ該当しないよね。それを加味してもうーーーーんて話。
それっぽいキャラをちりばめていて実際中身がないよ、みんなおもってるはず。
え、このキャラってよく見るけど、あー人気なんだ。なぜ?って。
いい年こいたおっさんが女子に下ネタ話すると「キモい」と言われることが多く、そんで最近は巷のおっさんたちは「キモくて金のないおっさんは社会的弱者だ」とか言って傷ついている様子が見受けられるけど、おっさんたちは女子からの「キモい」発言はむしろ歓迎すべきだと思う。お姉ちゃんたちはどんどん言った方がいい。それがおっさんのためでもあり、お姉ちゃんたちのためでもある。そんなことを思いついたのでこれからその理屈を勝手に説明する。おっさんである自分向けの話であり、女子からしたらふざけんな冗談じゃねえと思うかもしれないけど私は女子ではないので、そんなことは知ったことではない。
たとえば福山雅治がエグい下ネタをラジオでよくしゃべることは周知の事実だが、大半の女性ファンは全然平気である。しかし同じ内容をいい年こいたハゲがやると毛虫とかゴキブリくらい嫌われる。もちろんこんなことは誰でも知っている。「人は見た目が9割」とか「ただしイケメンに限る」とかそんなミームもありましたが、この状態をかんたんに言うと「好きな人の下ネタはキモくない」。
これを裏返すと「下ネタを言ってもキモがられないなら好かれている」。
つまり、下ネタを言うことでターゲットの女子にキャスティングボートを渡すのだ。
いくらキモいおっさんだって独身なら女子にアプローチする権利くらいある。でもキモいおっさんに口説かれることは大変なストレスですよね?わかります。つきましては「キモーい」。しかめっ面でも笑顔でもいいがこれだけ言っていただければ解決である。女子はキモかったらキモいと言うだけでいいので簡単だ。言外に拒否を匂わすとか高尚なことせんでいい。どうせおっさんには伝わらんから。
ほんでおっさんはキモい言われたらスッパリ諦めてください。どうせ負け戦だ。見切り千両、傷の浅いうちにさっさと撤退するべきだ。最初はただ親切にしておいて、隙を伺いながら徐々にスケベ心を出して口説こうというその性根がよろしくない。ゲラゲラ下ネタを言ってサッパリ振られたほうがいくらかマシである。
極端なことを言ってしまうと、おっさんが女子とのナイトプロレスを夢見て口説きにかかっているなら、どれだけ本性を隠して仲良くなろうとも結局いつか下のネタそのものズバリを披露しないわけにはいかないから、早めにコンセンサスを取っておいたほうがお互いのためでしょう、という理屈だ。たとえばおっさんがその気になって何もしないとかなんとか言ってホテルに女子を連れ込んでいざパンツを下ろした瞬間悲鳴をあげられてしまうような地獄は絶対に避けたい。そんなろくでもない目に遭っているお姉ちゃんはまことに気の毒に思うが、当のおっさんもそんな状況は望んでいない。おっさんだって普段は服を着ているし、皆が幸せであるほうがマシと思っている。その点では普段のキリストと何ら変わりがない。
【まとめ】
まえに増田にあげた
「桜を見る会」問題を引きずった未来が見える https://anond.hatelabo.jp/20191115111635
で言ったが、俺の予言通りになってきた。
野党とマスコミが懸命に攻めるけど、たかだか5000万円規模のことを騒ぎたてて、
それにブーメラン案件ということも、ズバリ的中。どうすんだよ、これ。
で、このぐずぐず騒動の最後は「安倍内閣支持率上昇」で終わり。
ブーメラン一覧
https://twitter.com/itallmatuzaki/status/1196414412946583555/photo/1
枝野&蓮舫大ピンチ!安住国対委員長、ニューオータニで一人当たり1191~2382円に値切り倒していた疑惑急浮上!
http://seijichishin.com/?p=28394
「ひとまず見守ればよろしいのでは」
「自分の身内が良く分からないものに入れ込んでいて、何も言わないってわけにもいかないだろ」
「信仰心がなくとも、相容れずとも、敬虔であることは矛盾しません」
「弟はそういうレベルで放っておけないんだよ」
別に“ああいう”のが悪いとまでは言わないが、それの良い面だけ無闇に信じているのがマズいんだ。
サンタは良い子と悪い子を区別してプレゼントを配ったりはしないし、俺たちはプレゼントの中身を選択できない。
ああいう自己啓発に容易く食いついてしまっている弟が、そのギャップに耐えられるとは思えなかった。
あそこで語られたハウツーの効果が、実際どれほど効いているかなんて分からない。
多少は関係あるかもしれないが、他の様々な要因が絡み合って、たまたま運が良かっただけってこともあるだろう。
大した根拠もなく「こうすればいい」だとか「これのおかげだ」と吹聴し、他の人にも伝染させるのは危険だ。
「まともな六面サイコロは、三面を見ただけで全ての数字が分かる。だが、それが本当にちゃんとしたサイコロかを確認するには、結局は転がして見なきゃあ分からないんだ」
「えっと、ごめんなさい。その例えはよく分かりません」
「……つまり弟には、もう少し冷静になってほしいってことだよ」
弟は、あの自己啓発をどんどん吸収していっている。
「仮に弟くんがそれを信仰しているとして、直ちに問題というわけでもないでしょう」
絶対的な根拠があるわけじゃないが、あいつはどこかで躓くという予感があった。
今のままじゃあ、いずれ盛大な転び方をするだろう。
まだまだガキの弟が、周りをちゃんと見ないで走れば大抵そうなる。
弟にその危機感と、転んだときに耐えられるだけの柔軟さがあるかというと疑問だった。
「そうですねえ……対策をしたいとお考えなら、やれることはあるでしょうね」
「何か方法があるのか?」
俺の意志が伝わったのか、ここに来て教祖は“とある案”を匂わせた。
しかし匂わせておきながら、随分と歯切れが悪い。
「いや、そこまでではないんですが……私の立場で、こういうことを口添えしていいものか。明日は我が身かもしれませんし……」
強制的ではないが、あまり“良いやり方でもない”ってことなんだろう。
「とりあえず言えよ。それを実行するかは別の話なんだし」
「うーん、では言いますが、やるというのなら私の顔は思い出さないでくださいね」
そう断りを入れてきたが、教祖は語りだす。
「新興宗教の多くは最初の数年で躓きます。自己啓発が信仰体系の一種だとするならば、それらの過去を顧みて応用が可能でしょう」
だが、そのままズバリ答えを言ったりはせず、迂遠な言い回しでヒントを出した。
「つまり、どうすればいいんだ」
「『生活教』をやっている身として、これ以上は踏み込んで言えません」
あくまで俺自身が考えて、行動するかどうかを決めろってことらしい。
責任がとれないし、とりたくもないので、そういう体裁が欲しいのだろう。
更に、その中から俺が出来ることで限定するならば、必然的に答えも導き出される。
そして、それは予想外に単純なものであり、予想通り良いやり方でもなかった。
昭和天皇の肖像を燃やしたり慰安婦像置いたりとやりたい放題の展覧会『表現の不自由展その後』
「こういう表現であっても認められるべきだ!」という賛成意見と「さすがにダメじゃない?」と反対意見、日々議論が白熱している。
私は賛成でも反対でもなく、こういった状況になることが企画者の意図、
……かと思って傍観していたんですけど展覧会が中止されたりかと思えば再開されたり、入場制限が行われたり市長による抗議活動などヒートアップするよくわからない状況。
と思って色々調べていたところ、そもそも企画者の意図していたことが全然違った。ちゃんと説明した方がいいよ。
まず前もって知っておいて欲しいのは『現代アート』そのものについて。
定義としては過去の美術、芸術に囚われない、『前衛的で新しい芸術』だろうか。
時代性を反映していることが現代アートの条件とされている場合もあるが、作家によってはそこまで意識をされていないことも多い。
最先端の技術で作られた作品であったり、今までなかった発想やテーマ、思想で作られたりと従来の美術や芸術の枠組みに入っていなければ現代アートと呼んで問題ないと思う。
アートのくくりだからといって美しいとは限らないわけです(ここを勘違いすると現代アートのなんでもありな表現に嫌悪感を覚えると思う)
で、自分が思っていた『表現の不自由展』とはこういった過激な作品を展示した上で、『表現の自由』とはどうあるべきかを考えてみよう!
で、調べた。全然違った。
これがこちらです
https://bijutsutecho.com/magazine/series/s16/19768
長い!よくわからん!
っていう人もいると思うのでざっくり説明すると
アート界隈、戦後民主主義は『個(個人)の時代』だったけど今は『公の時代』!
↓
昔の『公の時代』といえば社会の抑圧や検問が厳しかった戦前の大正あたりだ!
↓
戦前と戦前の美術の間には『意識の断絶』があるように感じる……
↓
ドイツではそんなことおきていない、なぜ?
↓
↓
これです。いや、わかりにくい!
この騒動で読みにきた人は『ドクメンタ』って何〜?っていう人がほとんどだと思うのでウィキを貼っときます。(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ドクメンタ)
あいだに出てくる『退廃芸術』も重要ワードなので貼っときます。(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/退廃芸術)
ーーーーーーーーーーーーーーー
戦時中ナチスドイツは模範的な美術作品を設定して『大ドイツ芸術展』を開催、一方で近代美術や前衛芸術を集め『退廃芸術展』を開き晒し者にした。
戦後、その晒し者にされ弾圧された『退廃芸術』名誉を回復しよう!と開催したのが『ドクメンタ』、1955年からスタートし今もなお毎年開催される現代アートの展覧会。カッセル市やヘッセン州の出資によるドクメンタ有限会社が企画、運営している。
ーーーーーーーーーーーーーーー
日本は戦後今まで排除してきたものにアートとして向き合ってないから、戦前と戦後で『意識の断絶』が起きている。
そんでもって公的な立場でやるとなおいいよね!っていう感じです。
ざっくりなので違ったらすみません。というかここまで問題になった訳ですから、公的にわかりやすい文章を出した方がいいですよ。
この展覧会がめちゃくちゃ炎上した原因となる1番の問題点だと思うのが、
これです。
なんて巷では議論が白熱していますけども、この展覧会がやりたかったのは『表現そのもの』に対する可否ではなく、今まで向き合ってこなかったものに対して受け入れたり、考えたりしていこうよ、ということ。
こんなタイトルが付いてるから作品が『表現』そのものに対してのジャッジの道具に使われている。
「表現の自由だからこういう作品であっても認められるべきだ!(賛成派)」「いや、こんな表現は到底受け入れられるものではない!(否定派)」
といった議論ではなく、
「今まで触れてこなかった考えを知ることができた(賛成派)」「こういうのはどうかと思うけど、どういった思想で作ったのはわかった。その上でこんな表現はいけないと思う(反対派)」
という議論がかわされるべきだ。
この展覧会を擁護、または批判している者の中に、企画者の意図を理解している者はどれだけいるだろう?
というか、こんな意図を説明なしにわかる人はエスパーだと思う。
企画者の意図を考えると、『表現の不自由展』というタイトルはふさわしくない。
インタビューから考えるならば、『意識の断絶』がこの展覧会を企画するにあたっての1番のキーワードではないかと私は思う。
企画者の考えとして、表現の不自由が起きている根本の原因は戦前戦後のアート界隈での意識の断絶、と読み取れたからだ。
『意識の断絶』というキーワードを元にタイトルを考え直した方がいい。少なくとも『表現の不自由展』というタイトルよりは誤解を与えずにすむだろう。
『表現の不自由展』、企画展名のインパクトを狙いすぎたため、意図が大きくぶれてしまっているのではないか。名前だけしか見てない者にも邪推をされまくっている。
やっぱどうしても我慢できなくなってきたから、じゃあズバリ「芸術」と見なされるために最低限必要なルールを説明してみる。
たったの2つだ。
芸術家も人間なので、主義主張はあるし、作品を通して伝えたい政治的なメッセージもある。公にそれを語る人もいる。
しかし最終的に求めているのは「作品に対する評価」だけである。背後にどんな大層な思想があろうが、作品が作品として評価されなければ丸っきり意味がない。そう考える人種を芸術家と定義する、と言ってもいいかもしれない。
(現代日本でなら、漫画やアニメの作者で例えるとわかりやすいかもしれない)
芸術家は、自分の作品が、個人的な経験や思いつきを超えた、もっと普遍的な価値に通じる何かだと信じている。
そうでなければ、何の実用的価値もなく、美しくも楽しくも何ともないような作品に、人生かけたりはしない。
しかし作品は常に「それは単にあなたの意見ですよね?」と相対化される危険に晒されている。
だから必ず、過去において普遍的な価値を持つとされてきた作品と、自分の作品とを関連づける。その形は継承であったり否定であったり様々だが、長い長い人類の芸術の歴史の一部なんだと立証することで、初めて
「これは"芸術的価値"があるね、だから大勢の前で展示したり、高い値段で取引する正当性があるね」
と認められるようになっている。
(お気づきのとおり、芸術史とやらの価値を証明する客観的な手段はない。その価値は長い歴史そのものと、現実社会に与えてきた影響の大きさによって担保されている)
以上が芸術と呼ばれる営みのルールだ。作品の評価が全て。作品の価値は芸術の歴史に立脚する。たった2つだ。
では、津田芸術監督は、会見で何を語った?「問題について議論するきっかけ」だの、「物議を醸す企画を公立の部門でやることに意味がある」だの、「劇薬」だの……何だそりゃ?
つまり作品を、社会に波風立てるための手段に利用しただけ、ってことだ。ただ純粋に作品を鑑賞して評価してもらう、自分が惚れ込んだ作品の力を信じる……そんな考えはサラサラないらしい。
芸術史に対する言及もまったくない。つまり作品の芸術的な価値をわかってもらおうと思ってない。芸術展の場なのに、だ!
つまりコレは芸術の営みと認められない。芸術家にとってとんでもない侮辱と言っていい。
……
少女像他の作者が、そういう意味での「芸術家」かどうかは知らない。別に芸術が政治活動より尊いと言いたいわけでもない。
ただ、芸術の場では芸術を尊重しろよ、尊重する気がない人間を運営に入れるなよ、そういう話だ。
(言うまでもないが、私個人の考えだ。暗黙的に感じられるルールを言葉にしてみただけだ。きちんと証明する力量はない。ただこの意見を通して、芸術について何か一つでも「ああそういうことか」と納得いく点があれば幸い)
WordPressにはパーマリンク機能があるんだけどそれは内部のrewrite_ruleとかいう機能で実装されている
そんで、rewrite_ruleはまぁ文字の通り書き換えルール何だけど、リクエストパスを良きように読み替えてくれる機能です。
んで、どうやってrewrite_ruleを書き換えるかと言うと、add_filter で 'rewrite_rules_array' にルールを追加するのが一般的っぽいです。
それを更新するために $wp_rewrite->flush_rules() を実行するんだけど、これ実は、アクセスごとに実行しては行けない機能っぽい。下記みたいな記事でinitフックで実行する用例がネット上には転がってるんだけど、これを鵜呑みに実装するとバグる。
https://qiita.com/M-Ikezawa/items/22d24455f776065865ea
wpdocs.osdn.jp にすらこの方法が書かれてるの…まずくね?
具体的にどうバグるかと言うと、rewrite_rules_array に設定した関数がときどき実行されません。
なんで rewrite_rules_array に登録した関数が呼ばれないかと言うと、WP_Rewrite::wp_rewrite_rulesっていうメソッドの中でget_option('rewrite_rules') して、DBに保存していたルールがなければ、新規にルールを作成するっていう処理をしている。その新規にルールを作成する処理ってのの一環でrewrite_rules_arrayに登録した関数も呼ばれます。
まぁこのDBにアクセスしているのが怪しいですね。怪しいんですよ。そのものズバリflush_rules()を実行するとこのDB値を一旦削除して、ルールを作り直すっていう処理が動くんです。
なので並列アクセスしていると、DBの中身が作成されたり削除されたりといった動作が繰り返され、「flush_rules()実行しているのに、rewrite_rules_arrayに登録した関数が呼ばれない」といった動作になります。つまりバグります。
そもそも rewrite_rules_array に登録された処理はアクセスごとに実行されるべきものではありません。WordPressでのリライトルールは上記の通りDB管理されていて、DBに保存されたものを使い回すので、rewrite_rules_array の実行は一度だけ行われれば十分になるような処理を書くべきです。rewrit_ruleは処理が重いので毎回ルールを書き換えるような利用は想定外なのでしょう。
そして rewrite_rules_array に登録した関数を変更したら、WordPressのパーマリンク設定で設定を変更するボタンを押せば、処理内部でflush_rules()が実行され、rewrite_rules_array に登録した関数の処理が適用されます。
できるといえばできるけど、毎回アクセスごとに動作させるのがNGとなると実質出来ないってことになります。rewrite_ruleで対応するのは諦めましょう。