はてなキーワード: 菅原道真とは
51.平城天皇(806~809)
官司の統廃合、観察使の派遣など行政の立て直しに取り組んだ。藤原薬子を寵愛したが、譲位後薬子の変が起きたため、出家した。
薬子の変を鎮圧。弘仁格式、新撰姓氏録を編纂した。三筆の一人にも数えられる文化人
在位中に令義解が施行され、日本後紀が完成した他、承和の変が起き藤原氏繁栄の基礎となった。医学、書道、和歌など初学に精通した知識人
55.文徳天皇(850~858)
続日本後紀の編纂を開始した。病弱であったため、政治の実権は藤原良房がが握った。
56.清和天皇(858~876)
幼くして即位したため、良房が実権を握り、元服後も握り続けた。在位中に貞観格式が編集された。
57.陽成天皇(876~884)
乳母子を殺す、宮中で密かに馬を飼うなどの奇行が多く、藤原基経に譲位させられた。
58.光孝天皇(884~887)
55歳という高齢で即位し、基経に「実質的な関白として政治を任せた。
阿衡の変により、藤原氏を疎み、菅原道真を重用した。在位中に多くの歌人が輩出され、遣唐使が廃止された。
60.醍醐天皇(897~930)
藤原時平の讒言を信じ、道真を左遷した。在位中に古今和歌集の勅撰、三代実録、延喜格式の編纂が行われ、その治世は村上天皇と共に延喜・天暦の治と称された。
在位中は天災が多発し、平将門・藤原純友が乱を起こすなど、多難な時を過ごした。
63.冷泉天皇(967~969)
病弱であったため、藤原実頼が関白として実権を握った。安和の変の後は、摂政・関白が常置されることとなった。
64.円融天皇(969~984)
藤原氏の政権争いに翻弄され、出家、文化人として風流な生活を送った。
在位中藤原道長が実権を握り、紫式部、清少納言、和泉式部などの文化人が活躍した。
道長の孫。在位中は道長・頼通が実権を握り、藤原氏の全盛期を迎えた。
在位中は頼通が関白として実権を握った
藤原氏を疎んじ、新政を行った。記録所を設け、成功、重任を禁じ、宣旨枡を定めた
在位中に富士山噴火、後三年の役が起きた。譲位後、院生を行った。
在位中は院生が行われたが、藤原師通の補佐により自らも政治に関与し末代の聖王と称された。
譲位後、崇徳~後白河の3代に及ぶ院政を行った。崇徳院を無視して、後白河天皇を即位させたことが保元の乱の原因となった。
鳥羽上皇に冷遇され、譲位させられた挙げ句、息子の即位も阻まれた。これを不満とし、保元の乱を起こすも敗れ、讃岐に流された。死後怨霊として恐れられた。歌人としても名高い。
76.近衛天皇(1141~55)
17歳で亡くなったため、崇徳院、藤原忠実・頼長親子に呪われたのではないかと噂された。
77.後白河天皇(1155~58)
保元の乱で崇徳院を破った後、譲位し院政を行った。平治の乱、治承・寿永の乱、鎌倉幕府成立などの激動の時代の中、権謀術数を巡らせ朝廷権力を維持した。
78.二条天皇(1158~1165)
崇徳院の子を差し置いて、皇子になったため、保元の乱が起きた。即位後は後白河院の院政に抵抗するも病気のため叶わなかった。
自身への敵対勢力に擁立されることを恐れた後白河院によって、わずか4年で譲位させられた。
80.高倉天皇(1168-80)
81.安徳天皇(1180~1185)
壇ノ浦の戦いで入水した。日本史上最も短命な天皇で、わずか7歳で崩御した。
82.後鳥羽天皇(1183~98)
譲位後、土御門~仲恭の3代にも及ぶ院生を行う。承久の乱に敗れ隠岐に流された。
父である後鳥院とは不和で承久の乱にも加わらなかったが、自ら望んで土佐に流された。
85.仲恭天皇(1221)
わずか10歳で即位したため、天皇になったことのない守貞親王が後高倉院として異例の院政を行った。
滑石を用いたいたずらが原因で転倒し崩御した。
88.後嵯峨天皇(1242~1246)
譲位後、2代にわたる院政を行った。死に際して、帝位継承者決定を幕府に委ねるとしたため、南北朝問題の原因となった。
90.亀山天皇(1260~74)
大覚寺統いわゆる南朝の祖。父後嵯峨院に愛され、兄後深草院を差し置いて子の後宇多天皇を即位させたため、南北朝問題の原因となった。譲位後南禅院を建立
91.後宇多天皇(1274~1287)
大覚寺統。在位中に元寇があった。譲位後、持明院統の伏見天皇を即位させるが、続いて持明院統の後伏見天皇の即位には反対したため、両統送立が始まった。院政を行うが、後醍醐天皇と対立し、政治から身を引いた。好学の天皇として知られる
93.後伏見天皇(1298~1301)
譲位後、院生を行う。元弘の乱後、東国へ逃れるも捕らえられ出家した。
94.後二条天皇(1301~08)
大覚寺統。持明院統から2代続いて天皇が出たことに後宇多院が抗議したため、幕府の計らいで即位。両統送立が始まった。
95.花園天皇(1308~1318)
鎌倉幕府打倒に貢献した後、建武新政を行う。足利尊氏に敗れ吉野に逃れ南北朝時代が始まる。
高師直に攻められ賀名生に逃れる。一度京都を奪還するもすぐに北朝に奪われた。その後も京都回復を狙い、各地を転戦するも果たせなかった。
98.(南3)長慶天皇(1368~1383)
和歌を愛し、五十番歌合、五百番歌合などを催した。
足利義満の誘いの応じて、南北朝の和解を実現。しかし、義満の死後冷遇され、和平の条件であった両統送立も果たされなかった。
後醍醐天皇の失脚を受けて即位したが、鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐の廃位と光厳の即位が否定された。
足利尊氏の擁立により即位。譲位後、観応の擾乱によって南朝に捕らえられるが後に解放された。
北3.崇光天皇(1348~1351)
北4.後光厳天皇( 1352~1371)
後村上天皇の一統が破れると、足利市に擁護され即位した。南朝の攻撃に遭い、美濃・近江などに逃れたこともあった。
北5.後円融天皇(1371~1382)
一部の週刊誌などでは、高学歴だったことで逆に周辺住民の一部から馬鹿にされたりやっかみを受けていたとか
婿養子みたいな形でトンカツ屋を継いだから、義父との間で店の経営方針や調理方法などで確執があったらしいし
トンカツ屋を継いだことで学歴が無駄に高く見えてやっかまれたのでしょう
そう考えてみると、石原慎太郎は東日本大震災の被災者を天罰呼ばわりしたわけだけど、
無実の罪で島流しにされた?菅原道真公が雷神様になったとでもいいましょうか、
寧ろ、今回のオリンピックは、オリンピックを誘致した人たちへの天罰ではないか、
というわけで、
また教えてください。
☆今週読んだもの
推理小説を趣味で書くお父さんがその知識を総動員し、娘のために裏組織と戦う話。
今まで読んだミステリ?漫画中でもダントツに面白い。息もつかせぬスピード感と展開。読み終わるまで眠れない。
お父さんがすごすぎて悪漢がかわいそうになるレベル。絵が細密でうまいしキャラの性格に沿った描き分けがいい。
この作の方、推理小説とか書いてないのかな。最新刊読んだら検索してみる。面白い。
【異世界失格】
ハーレムというとそんな都合いい女いるかという気分になるが転生者が太宰治というだけで納得いく。
いやこんな女いるなー。私が間違ってた。絵は綺麗。内容はちょっと薄め。あんまり濃くできない理由はわかる。
同時期に太宰治が転生してると聞き検索して見たけど多分なろう連載小説かな?
こちらは文体から凝ってて読み応えありそう。一緒に読むと2度おいしくていいと思う。
書籍化は川端康成サイドとの折衝にかかってると思うけど難しそうな気はする。
【応天の門】
まだ学生の菅原道真と在原業平が今日の都で起こる問題を解決する推理もの。
大河ドラマの時代考証やってるプロがついてるらしく、挟まれる講釈がためになって面白い。
漫画としての面白さよりなんかこう、知的好奇心で読むと良さそう。エンタメとしては薄味?
絵はざっくりした感じで好みは分かれそう。
幼馴染が都会にでて歌手になるのに利用され、貢いで尽くした挙句捨てられた少女が自分もアイドルになって見返そうとする話。
エキセントリックで体当たりなヒロインが自力で成り上がる姿が清々しい(?)
この作者さん、全作通して普通の王子様を待つ少女漫画なぞ描かないわよ、という気概があって、あんま少女漫画好きじゃなくても楽しく読めてたんだけど、最近はちょっとヒロイン上げが鼻につくような。典型的はわわヒロインになってる気がする。
でも夢小説が大流行だからそういうヒロインの方が世間受けはいいのかもしれない。仕方ない時代の流れ。
【ゴールデンカムイ】
あらすじ書くまでもない人気漫画。
最新刊読んだ。杉本かっこいい。妙に乙女なおっさんなだけではないところをたまには見せてくれる。
敵味方入り乱れすぎて似たような顔のキャラはどこ陣営なのかよくわからんくなってきた。
【ファブル】
なにわ友あれの作者の漫画。前回タイトル間違えててすいません。
殺し屋ファブルがボスの命令で一時休業し、一般社会で一般人として暮らそうとする話。
正体を隠したファブルが悪漢に囚われた美女を救う話で、こういう話を嫌いな人間がいるだろうか、いやいない。
相棒の小悪魔美女が暇つぶしにヤリチン男をうんちに沈める回も楽しい。
日本では個人の名前は「石川麻呂(いしかわまろ)」や「穴穂部間人(あなほべのはしひと)」といったふうに長い訓に漢字を当ててきたが、嵯峨天皇のころ遣唐使であった菅原清公の進言によって、男子の名前は漢字で二文字か一字、女子の名前は「○子」とするといった、漢風の名前の使用が進められ、定着した。
具体的な後世に残った事績としては、それまで和風だった人名のつけ方を唐風に改めたことが挙げられる。男子の場合「坂上田村麻呂」の「田村麻呂」のような形式から「菅原道真」の「道真」や「藤原基経」の「基経」といった二文字訓読みか「源融(みなもと の とおる)」の「融」や「源信(みなもとの・まこと)」の「信」など一文字訓読みという形式にし、女性の名前の「○子」という形式にすることは彼の建言によって導入されたものである。
まず単純に、名前の二文字目が「子」で固定されると、必然的に読みは三音になりやすい。
男性名だって、「○太」とか「○斗」といった形式だとだいたい三音で、二音や四音は少ないもんな。
で、貴族の実名に付けられるこの「○子」はいちおう庶民にも広まったらしいが、
室町時代からはそもそも女性に「実名」をつける風習がなくなり「通称」だけを持つようになった。
つまり「松」とか「亀」みたいな二音の簡単な名前がつけられて、
「お松さん」とか「お亀さん」とか呼ばれるようになった。
この傾向は江戸時代まで続いたけど、
貴族の名付けである「○子」は庶民の憧れだったので一気に増加する。
最初のうちは「〜〜氏」「〜〜女史」みたいなのと同じ敬称として扱われていて、
本名の「松」や「亀」に「子」をつけて「松子」「亀子」とか呼んでいたらしい。
それがだんだん本名として最初から「○子」と名付けられるようになった。
もとが二音、「子」を付けて三音、というのがここで増えていったわけだ。
明治安田生命 | 名前ランキング2018 - 生まれ年別名前ベスト10 - 女の子
「○子」のピークは1956年と言われていて、そこから「○美」が増えていったらしい。
なんでこの時期に「○美」が増えたのか分からんが、
高度経済成長時代に入って社会の雰囲気が変わったのもあるだろうし、
そのちょっと前から「由美子」「久美子」「恵美子」「美代子」「美智子」などと「美」入りの三字名の人気があったから、
1953年入団の宝塚歌劇団40期生あたりから「○美」が増えている気がする。
「当時、こういう名前がかっこいいと思われていた」という傍証になりそうだ。
(もうちょっと遡ってみたら33期生だけ特異的に「○美」が多いな…何かあったんだろうか…)
1970年代に入ると「美香」「美穂」「香織」「恵」「愛」などがランキング上位に登場してきて、
ようやくバリエーションが増えていったという流れ。
一方で、男性のほうのランキングを見ると、思ったよりも三音の名前が多い。
「清」「正」「茂」のような一字名はもちろん「正治」「和夫」「達也」なんかも三音。
四音の名前は「○一」「○郎」「○介」「○平」などの形になる。
これらはだいたい「生まれの順番を表す字」か「官位名に由来する字」なので、
女性名に見られないのは納得。
武士の時代が長く続いたなかで男性名だけが多様化していったのだと言えそうだ。
ちなみに「○郎」の由来は「○子」と同じく嵯峨天皇な。
社会的地位の低かった女性は人名接尾辞のバリエーションが少なかったからだ、
と言えるのではないか。
最近は歴史を自分の都合の良いように解釈、改変して利用すると「歴史修正主義だ!」と批判される事は増えた
ただ例えば西日本各地にある「平家の落人伝説」などを「歴史修正主義だ!」と批判する人はあまり見かけない(探せば居るのかもしれないが)
大抵の場合、その土地の住民が箔を付ける為に騙った話であった可能性が高いにもかかわらずだ
太宰府名物の「梅が枝餅」は太宰府に左遷され落ち込んでいる菅原道真に、老婆が梅の柄に餅を刺して格子越しに差し入れたという伝説から来てる
おそらくこれも史実ではない
だが梅が枝餅を売っている店を「歴史修正主義だ!」「歴史を剽窃した商売だ!」と批判する人はよほどの偏屈者くらいだろう
しかし近代以降、特に太平洋戦争辺りの話になると、少し都合の良い解釈をした程度でも厳しく批判される傾向にあると思う
これは一定以上昔の伝承に関しては、歴史修正主義批判の対象外という事なのだろうか?
仮にそうだとしたら、その境目はどの辺りなのだろう?
春月庵を出てしばらく歩き、大橋駅から大牟田線線に揺られて暫くすると太宰府に到着した。
太宰府では参道にある隈研吾設計のスターバックスも見たかったが、あまり寄り道をしていると日が暮れてしまう。
入り口前で既に多くの外国人の興味を集めているそれを通り過ぎ、天満宮に向かう。
何だろうと覗いてみると、天満宮の象徴の一つ、御神牛が石座の上に蹲っていた。
一枚撮ろうと並んでみる事にする。
待ってる間に御神牛について調べてみると、頭をなでれば頭が良く、疾患のあるところを撫でれば快癒するらしい。
良く見れば御神牛の頭は磨かれてピカピカだ。
自分の番が来てファインダーに収めたのち、折りたたんでいる前足をさすった。肘の痛みが治れば良いのだけれど。
鳥居を潜った太宰府天満宮は、その隅々までが美しく、息を呑んだ。
島の自然の中、雄大で幻想的な美しさを湛えていた厳島神社とは全く違う、配色まで計算して端整に造り込まれた様な美しさだ。
店内を撮り、店員のお姉さんと香港名物 鴛鴦茶風の仕上がりを再現できるカスタマイズについて話し合った後に一休み。
行きに通り過ぎた時に入り口で写真を撮っていたのもおそらくは中国人だったが、店内にも中国、韓国、香港、或いは台湾から来たと思しき人は多い。
残りの滞在時間に福岡でできることは多くないが、博多駅から驚異的な近さの国際空港、福岡空港国際線ターミナルは見てみたい。
降り始めた小雨に、折り畳み傘を広げ、スタバを出た。
大牟田線を天神まで引き返して、案内カウンターのご婦人に福岡空港までの行き方を尋ねると、バスが出ているという。
天神駅3階のバスターミナルに向かい国際線ターミナル乗車の列に並ぶ。
一緒に並んでいるのは当然だが外国人で、言葉を聞けば韓国の人だった。
あっという間に着くと思われた空港行きバスは遅々として進まず、結局国際線ターミナルまでは1時間30分程の乗車。
しかし、その大半は駅前の渋滞に巻き込まれていて、渋滞しない時間帯なら天神バスターミナルからは30分足らずで着きそうな距離だ。
降り立ったターミナルは思いの外落ち着いた雰囲気で、ややコンパクトな印象だったが、綺麗で近代的だった。
到着便の出発元は
桃園
全てアジアだった。
どうやら時間帯によってアムステルダムやグァムの便もある様だが、21:00過ぎには閉まってしまう福岡空港国際線ターミナルにあって、19:00過ぎのこの時間帯ではほぼアジアの到着便しかない様だ。
何れにしても全ての時間帯で東アジアからの到着便が一番多いのだろう。
歴史的な経緯からか、外国人の中で意外と欧米人の比率が多かった広島と違い、福岡は日本におけるアジアの空の玄関口である様だった。
行きの天神で、バスは渋滞に巻き込まれて正確な時間を計れないので、今度は国際線から国内線の短距離送迎バスを経由して、地下鉄を利用する。
このルートで戻ると、国際線ターミナルから博多駅はわずか20分だった。
これは、仁川から国際線に乗れば、出入国手続きやチェックインに1時間30分ほどかかったとして、フライトが1時間30分、諸々の待ち時間が30分あまりあっても、4時間あれば博多市内にやって来られる事になる。
韓国のLCC エバー航空で1週間後の往復便の価格を見れば、1万円余り。
韓国人にとって一番身近な外国の大都会が、北京、上海と、この福岡だった。
ネットで韓国の芸能人がナショナリズムめいた騒動に巻き込まれると、すぐに「Kの法則」だの「縁を切れ」だのと言った意見が書き込まれるが、そういう人はどうやって韓国人を御断りする気だろう。
日本旅行記を書く韓国人に「放射能まみれの汚染食品で死ね」「塩分過多で成人病まっしぐらだね御愁傷様」と海を挟んだ半島側で書き込む人々と、こちら側で「本当に…気持ち悪い…来なくていいです。」「チョウセンヒトモドキ」と書き込む人々はお互い相手の国に行った事があって書き込んでいるのだろうか。
そんな人々にきっと目も向けることなく、たくさんの韓国人、日本人がお互いの国を訪れ、ソウルや福岡の食べ物を食べ、街を見て、お土産を手に、思い出を胸に祖国に帰っていく。
この目で見てこの身体で感じない事を「知っている」ということは出来ない。
BBCで昔、「100名の最も偉大な英国人」て企画があったけど日本だとどうなるかね?
イギリスだと一位から、チャーチル、ブルネル、ウェールズ公妃ダイアナ、ダーウィン、シェークスピア、ニュートン、エリザベスI世、ジョン・レノン、ネルソン、クロムウェルと二位のブルネル以外は日本でも有名で政治家、軍人、王族、科学者、芸術家などで、まあそうだなって感じ。
日本だと、うーん、徳川家康、織田信長、豊臣秀吉、あと各幕府の創始者や足利義満、北条時宗、天皇だとどこから史実認定していいか微妙だけど、桓武や天智、明治昭和平成あたりが候補かな?宗教だと空海、最澄など仏教の開祖あたりかね?芸術だと、前近代だと北斎、松尾芭蕉、紫式部、近代以降なら夏目漱石、宮崎駿、黒澤明、手塚治虫、ギリで鳥山明くらいかな?科学だと湯川秀樹や江崎玲於奈などのノーベル賞受賞者たちか。
近代の政治家だと、田中角栄、佐藤栄作、伊藤博文あたりが入りそうだが、山県有朋や岸信介はかなり微妙?
軍人枠だと東郷平八郎と山本五十六、あと秋山真之、西郷隆盛、土方歳三?
企業家だと、河村瑞賢、岩崎弥太郎、本田宗一郎、豊田佐吉とかあたり?