はてなキーワード: 現実逃避とは
1年ぐらい前、依存症から抜け出さざるを得なくなって離脱症状に苦しんでた。
頭の中が曖昧で何も食べられずストレスで眠れなくなって、だからあらゆることができなくなった。
そんな中で布団に籠ってずっと聞いてた曲があった。
箱の中の音楽が広大な空の向こうに流れていく感覚が好きで、元々ストリングス入ってる曲が好みだった。
鬱(病名ではない)の真っ只中現実逃避するみたいに、希望に満ち溢れた歌詞をずっと耳から入れていた。
歌詞が現状に合うとかじゃない、もっと物語じみた綺麗な感じの奴。ただ端々からそういう綺麗な物語を取り入れて忘れようとしていた。
その当時を思い出すみたいで嫌だったからしばらく聞いてなかったけど、改めて聞いてみたら体が覚えている。
やっぱり歌詞というより旋律の方が深く刺さっていて、その電子音とストリングスを聞く度涙が出そうになる。ベッドの中で死んでいた時を思い出すし、朝3時に眠らなきゃと念じていたことも思い出した。
K-POPに関しては大昔の少女時代くらいで知識ほぼ止まっていたし、最近だとせいぜいBTSなど見て楽曲の良さに感心したりする程度。
そんな中でついさっきたまたまYoutubeで見かけたのがNewJeansなんだが、このMVが最高すぎたのでその勢いでこれを書いてる。
このグループは最近出てきた5人組のガールズグループでデビューは2022年7月くらいらしい。
曲名は「Ditto」でMVとしては同じ曲でSide A とSide Bというふたつのバリエーションがある。
https://www.youtube.com/watch?v=pSUydWEqKwE
https://www.youtube.com/watch?v=V37TaRdVUQY
ある少女が学校でビデオカメラを回しており、NewJeansのメンバーがそこに映って一緒に楽しく学生生活を過ごしてる風景が続く。
教室、屋上、校庭などで楽しそうに踊るメンバー。ポップでありながら儚さも感じる美しい楽曲と併せてなんだか切ない気持ちにもさせられる。
曲が終わりかける頃、とつぜん子鹿が現れる。
教室や屋上でビデオを撮っているシーンが繰り返されるが、NewJeansのメンバーはそこにはいない。
え、なに、こわ・・・
MVはそのまま一人ぼっちで雨の中下校していく少女の背中を写して終わってしまう。
自分の解釈では、映像に映り込むNewJeansのメンバーは撮影してる少女のイマジナリーフレンドであり、実在してしない。
はっきりと説明されてるわけではないけど映像的にそう考えるのが自然かなと思える。
つまり孤独な少女が心の支えとすべく、NewJeansのメンバーを生み出したということなんだろうと。
これ、つまり同時にアイドルという存在そのもののメタファーにもなっているのだ。
人がアイドルに夢中になるときってどこか現実逃避だったりする部分が大きい。MVとしては少女の頭の中に存在するものとして描かれているが、
そのまんま現実のNewJeansのファンになるというストーリーでも成り立つと思える。しかしそれだと陳腐すぎる。
思春期の不安定さを感じさせるのに、ビデオカメラを回してその映像にだけ存在するというのは絶妙な演出だと思う。
ただそれだけだと、なんとなくアイドル批判っぽさが出てしまってないだろうか?しかしこのMVにはさらに展開がある。
SideAではよくわからないんだが、SideBではある男の子が重要な鍵となることが分かる。
序盤こそSideAと同じように踊ってる場面などが出てくるが、SideAに比べると引きの絵が増えていく。
カメラを回してる少女とNewJeansのメンバーとの距離が出ているのだ。
下校時に雨が降っている中、少女は一人で、ただし今度はちゃんと傘をさして歩いて行く。それをNewJeansのメンバーが見送る場面。
そしてSideAでも一瞬出てきた男の子が再登場し、少女はその男の子と手を繋いで帰っていく場面が出てくる。
メンバーの一人から少女の携帯に着信がある場面もあるが、少女は出ようとしない。
では少女は彼氏が出来て心の支えができたからNewJeansのみんなを忘れちゃったってこと?あんなに仲良く楽しそうだったのに?
そうなんだと思う。思春期の頃なんてそんなもんだ。
しかしMVはまだ終わらない。終盤で少女は大人になって再び現れ、箱の中からビデオテープを出して再生する場面が出てくる。
そのビデオテープには楽しそうにはしゃいでいるNewJeansのメンバーがしっかりと映っている。
そう、少女は孤独で心の支えとしてNewJeansに出会い、そして現実の恋に落ちて彼女たちから離れていった。
でも彼女らと一緒に過ごしていた事は彼女に取ってウソではなく、間違いなく存在していたという事実であるということ。
これぞまさしく「アイドル」そのものだと自分は感じて感動してしまった。
現実がどうあれずっとアイドルを応援し続ける人もいて、そういう人がいても自分は全然良いと思ってる。その熱量がうらやましいくらいだ。
ただ自分にとってはアイドルって子供時代や思春期に夢中になることはあっても、大人になるにつれ興味が薄れてしまうようになった。
だけどそうだよな、アイドルってそういうのだったよなというのが一気にこみ上げてきて思わず泣いてしまった。
MVの中でNewJeansがけなげに楽しそうにはしゃいだり踊ったりするのを見ればみるほど楽しいような切ないようなよくわからない感情になった。
ほんの10年前まで「ラノベとか二次エロ漫画なんか読んでるのは、現実でモテないやつの現実逃避だ。現実を見ろ」って言ってたじゃないですか。
その通りなんだよ。わかってたんじゃねえか。
ツイッター検索したらたくさん出てくるよ。「オタク 現実逃避」で2010年以前の日付検索してみてよ。
あまりにオスは有害だの、オスは獣だから檻へ入れろだの言うもんだから、うんざりして自ら檻に入ったのがオタクじゃん。
いつからそういうオタク像が「現実の女性に性欲をぶつけてくる」みたいな現実とズレたイメージに変わってきたんですか。
そのころから「オタクは不愉快」「オタクは気軽に殴っていいもの」ってのは変わってないけどさ、同じ嫌悪感にしてもこのころのほうが正直でよかったよ。
ポリコレが浸透してきて「ナチュラルな差別感覚でオタクを殴るのが難しくなった」から、オタクを必要以上に悪者にする必要が出てきて、加害性を生やし、犯罪者と結びつける作業をやってるだけですよね?
なんでこういう変なこと言いだしたかもなんとなくはわかるんですよ。
昔は単にオタクを気軽に馬鹿にしてたんだけど、ポリコレが進展するにつれて、昔と同じノリでやってたら「自分たちがいじめっ子」として糾弾されるリスクが出てきたからですよね。
だから、自分がたたいてる者はもっと悪者じゃないと都合が悪くなった。
その結果、どんどん変な理屈が生え始めた。
いらないよそういうの。
別に「私が見下している貴様らオタクが勝手に女性の表象を使ってシコるな!キモイ!」って率直に言ってくれたほうがよっぽどこちらは気分が悪くないよ。
むしろ、叩くためにそういう取り繕いの努力までされると「そこまで嫌いなのか……」って気持ちになって余計気分悪いわ。
さすがに自分が被害を受けた痴漢と結びつけるとかさあ、こういうマンガを読んでるやつは現実の女性にもそういう欲望を抱いてるとか、そういう「冤罪」を平気でやってくるのはやめましょうよマジで。
せめて「性的加害を促進する」とかじゃなくて、本来の「女性表象を使ってもてあそぶのは不快だ」って議論に戻りましょうよ。
どう考えてたって、今のフェミニズムの皆さんが言われてることって現実に即してないんですよ。
タイトルそのままの内容なので閲覧には注意されたい。一部の人にはつらい記憶を思い出させてしまうかもしれない。女性視点の体験記は数多くある一方で、男性視点のものは少ない。妻が妊娠すると男性も覚悟を決める。しかし、(過去の自分も含めて)何が起こり得るかはぼんやりとしか想像できない。稚拙ながらも自分の体験と後悔を書き残しておけば、その解像度が上がるかもしれない。そう思い投稿する。
分娩室。妻につながれた医療モニタが歪なサインカーブを描いていた。正確にはサイン波の絶対値のような概形でゼロ区間が長い。波形がピークに近づくにつれて妻のうめき声が大きくなる。これが陣痛発作だ。間欠的な小休止を挟みつつ、数分おきに発作が起こる。モニタの値が妻の痛みを表している。全力で妻をサポートしたいなら、助産師の動きを脳裏に焼き付けて、完全に模倣すればよい。一挙手一投足に意味がある。プロの動きを邪魔しないように、分娩室の俯瞰映像を想像して立ち振る舞う。男性は手が大きいので、より効果的にさすることができる。胎児の心臓が止まっていると分かったのは、6時間前のことだった。
妻がついに妊娠した。待望の我が子で、出産月のコントロールなどとうに諦めていた。妊娠後の検査は全て正常、胎児の推定体重は発育曲線のど真ん中。妊娠週数を横軸としたグラフに推定体重を書き込み、発育曲線なる2本の曲線の間にあれば正常とされる。何も定量的な説明はなかったが、胎児の体重はおそらく正規分布に従うので、上下の発育曲線は平均±数σを表しているのだろう。曲線の離れ具合から、発育が進むにつれて分散が大きくなると読み取れる。ちょうどそのど真ん中で、初めての我が子は順調に育っていた。早々に名前をつけて、膨れ上がった妻のお腹に毎日のように話しかけた。
無痛分娩に興味があった。背骨と脊髄の間にあるわずかな空間に麻酔薬を注入して分娩にともなう母体の苦痛を軽減する。一定のリスクはあるが、メリットが大きく上回る。無痛分娩のためには麻酔科医の予定を抑える必要がある(※後で知ったがこれは産院によるらしい)。出産予定日は3月末だった。つまり、無痛分娩を選択することで子の早生まれが確定する。ひょっとしたら4月生まれになる可能性もある。そんな淡い期待を胸に、私たちは自然分娩を選択した。
私は3月生まれであることがずっとコンプレックスだった。早産の早生まれ、背の順は常に先頭、鬼ごっこではいつも鬼、50m走のタイムは肥満児より遅く、ドッジボールではただの的、組体操のピラミッドでは頂上から落ちて何度も死ぬ思い。身体的・精神的な発達の遅れに由来する傾向は「相対年齢効果」と呼ばれ、特に男子の場合は生涯賃金の観点で一生の足枷となる。これは歴然たる統計的事実として知られている(ちなみに、女子もしくは学力上位の男子ならばこの呪いの例外となる。興味があればGoogle Scholarで検索してみてほしい)。子の幸せを願う親として、自分と同じ思いをさせてはならないという使命感が、自然分娩の選択を後押しした。
出産予定日に陣痛が起こり、病院に着いてから胎児の心臓が止まっていると分かった。1週間前の検診では何も異常がなかったため、その間のどこかで突然死したことになる。我が子の突然死。目の前の現実を受け入れられず、ただただ夫婦二人でむせび泣いた。
分娩室。妻から我が子が押し出されてきて、一瞬の静寂が広がる。子はすぐに医師がどこかに連れて行ってしまった。分娩室は静まりかえっている。蘇生の可能性はゼロ。突然、遠くから赤ちゃんの元気な泣き声が聞こえてきた。我が子の声ではない。不快な、怒りに近い感情が湧き上がる。元気な泣き声がナイフのように心に突き刺さる。どうしてうちの子は。心に深い闇が広がる。妻の一言で、自分が強い嫉妬の感情を抱いていることに気づかされた。「向こうの子は無事に生まれて良かったね」妻はいつの間にか、すべてを受け入れていた。
妻と私、そして布で丁寧に包まれた我が子。一晩を一緒に過ごすことになった。「かわいいお顔を見せてくれてありがとう」口ではそう言いつつ、顔が明らかに赤黒く変色し、傷ついた皮膚から血が流れているのに言葉を失った。病室に来る助産師達はしきりにスキンシップや沐浴を勧めてくる。私はこれが全く理解できなかった。腐敗防止のために徹底的に冷やされている我が子を触り、その金属的な冷たさを感じるだけで心が締め付けられる。おくるみの下にはきっとドライアイスがあるのだろう。定期的に交換してくれている。なぜ進んで苦しい思いをする必要があるのか。言語化できない恐怖感があった。あまりにも触らないためか、助産師が手形と足形を取ってくださった。このとき抱いていたのは恐怖感ではなく、エゴ由来のただの現実逃避であったと後に気づく。
役所での手続きは事務的には簡単で、精神的には苦痛でしかない。病院で受け取った死産届に記入し、役所に提出すると火葬許可証が発行される。予め出生届の記入方法を調べていた。死産届の様式が出生届とほぼ同じであるのに気づき、スムーズに記入できたが、子の名前を書く欄はない。様式からも現実を突き付けられた。火葬業者によっては、代理で届けを出してくれるらしい。
火葬場では地獄のような時間を過ごした。大人と違って赤ちゃんの棺はとても小さい。100サイズの段ボール箱とちょうど同じくらいの大きさだ。棺は私が運んだ。今でも100サイズの同じくらいの重さの段ボール箱を持つと当時の記憶がフラッシュバックして涙が出る。火葬後のお骨上げはただただ拷問のようだった。赤ちゃんの骨は割り箸のように細く脆い。頭蓋骨は割れたプラスチックの破片のようだ。「産道を通るために赤ちゃんの頭は形が変わるようになっている」という知識が目の前の現実と急に結びつく。赤ちゃん用の骨壺はすぐには入手できない。仕方なく、急ぎホームセンターで入れ物を購入した。「こんなのでごめんね」
我が国における年間の自然死産数は約8000程度で推移している。その他、新生児死亡や乳児死亡も含めると、毎年約1万人を超える赤ちゃんが旅立っている。これほどまでにつらく悲しいことがあるのかと、絶望に打ちひしがれていたが、同様の絶望は人知れずそこら中で起こり、大きな悲しみを背負っている人達がたくさんいることを知った。死産を繰り返した人、出産で妻と子を同時に失った人。つらい経験をした家族達が集まって語り合う自助グループが数多くあり、「グリーフケア」という名称で様々な取り組みやビジネスがなされている。関連書籍も多く(「産声のない天使たち」「誕生死」等)、図書館には必ずあるだろう。供養の方法は複数あり、水子供養の場合はずらりと並んだ小さな骨壷を目にすることになる。「天国で友達たくさんできるかな?」
ポジティブに捉えると、妻と一緒に同じ苦難を乗り越えたことで、お互いの心の結びつきが一層強くなったように思う。妻との関係性が、これまでにない、かけがえのないものに変化した。妻の人柄や屈強なメンタルに、改めて敬意を抱いた。
後悔は二つある。
第一に、無痛分娩を選ぶべきだった。出産が遅れるほど分娩リスクは高くなる。無痛分娩であれば、出産予定日よりも前に強制的に分娩させられるため、リスクが相対的に低いのではないか(正確には医師に相談されたい)。本事例では、出産予定日の1週間前には無事であったため、無痛分娩であれば死産を避けられていた可能性がある。「4月生まれになるかも」などという勝手なわがままで我が子を間接的に殺したのでは、という自責の念に駆られている。
第二に、我が子ともっと向き合うべきだった。完全に冷え切った子に触れるのには勇気がいる。スキンシップや沐浴を勧めてくる助産師がサイコパスのようにさえ思えた。これは完全に誤りである。夫婦水入らずで、最後の姿をまともに見られるのは、このタイミングしか残されていない。火葬したら骨になってしまう。家族写真・手形・足形・遺骨だけでいいのか。せめてスキンシップだけでも、精一杯向き合って、家族の思い出を作るべきだった。
皆さん、心優しいコメントをどうもありがとうございます。お察しのとおり、子が旅立ったのはコロナ禍前です。ちゃんと言葉にできるようになるまで、事実を客観視できるようになるまで約2年半かかり、同時に、受容が進むにつれて記憶が薄れるのに気づき、一気に書き出しました。的確なご指摘が多く、勉強になると同時に、自分自身の認知の歪みにも気づかされ、励まされました。
本記事へのトップコメントはこちらからご覧になれます。つらい思いをしている方が、少しでも前向きに、励まされることを願っています。https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20221225220743
こういうのって一番最初に言いだしっぺの人はまぁ面白くないにしてもネタとしては一応評価できなくはないんだけどもつまらないね他にさらに天丼でこうやって重ねてくる人間というのは見ていてとても不愉快でございますとましてもし本人が天丼でやっているのだとしたらあまりにも頭が悪すぎて相手にならないですね
これだけこだわるのであれば当然分かっていると思うのですが。表現の自由戦士というのを自称している人間はとても少ないですおそらくお宅の中でも1%以下でしょう
表現の自由戦士というのはあなたのような人を差別したくてしょうがない人格のクズ野郎が他人を攻撃するためにも生み出した妄想の中のキャラクターであってあなたは妄想の中のキャラクターが現実に出てきて自分に都合のいいことを言ってくれないから癇癪起こしてるだけの幼稚園児のような馬鹿です救いようがありません。
どうしてそんなに頭が悪い人間に生まれついてしまったのでしょうかいや元々は親が悪いのではなく普通の人間として生まれ育ったはずですにもかかわらずあなたは自分の人生をないがしろにしてそうやって他人を馬鹿にすることによって自尊心を保つというつまらない生き方をしてしまった結果としてこうやって匿名で表現の自由戦士7と読む意味な言葉を弄んで喜ぶだけの存在になってしまったわけです。
あなたが人間ではなくてプログラムが生み出したもっとであったならばどれほどよかったでしょう。しかし現実は残酷であなたはプログラムではなどではなくてれっきとした人間なのでしょうであるとするならばあなたを生んでくれた親に申し訳ないと思わないのでしょうか。もう一度自分が書いた文章を自分で声を出して朗読してみてくださいそこに感じ取れるのは醜いとても愚かな人間ではないでしょうか。あなたは本当にそう言った人間になりたくて今まで生きていたのでしょうかそうではないと信じたいです。
であるならばあなたがやるべきことは今すぐこのような意味のない書き込みを止めて親に恥じないような真っ当な生き方を目指すことではないでしょうかそれとも何か現実が辛いことだらけでこうやって現実逃避をして自分より下の人間を妄想してその人間を攻撃することによってしか自分を慰めることができないのでしょうかそれはちょっと辛すぎるので何か悩みがあるのであればしょうもない虚勢を張るのをやめて今自分が辛いと思ってることを素直に匿名で吐き出せば良いのではないでしょうか。
ここまでのことを1行でまとめるとどうしたん話きこうかというやつです。
あなたは多分どうしようもない塵のような人生を送ってきてあなた自身も塵のような人間になってしまったでしょうけれども大丈夫です今からでも人生やり直すことは可能ですこんなしょうもない書き込みを止めて今からでもちょっとでもまともな人間として生きるべく努力しましょうそのために助けが必要なのであれば先ほども言ったように虚勢を張るのを止めて自分の辛いことをまず吐き出してみましょう
自分の無能のせいで周囲に迷惑やストレスをかけ続けている実態に向き合わされるのがつらい
かといって無能を改善しようと思っても何もやる気が起きない怠惰な自分がつらい、それでもやらねばと思おうとしても失敗体験ばかりが思い起こされて自分自身で勝手にやる気を潰してしまう、意地でもやる気を出したくない自分を感じる
やるべきことにやる気を出せないのにやりたいことはやんのおかしくね?という心の声に潰されてやりたいこともやりたくない
そもそもやるべきことっていっても具体的に何やれば自分がもっとまともになれるのかあんまりよくわかってない
こんなのあまりに自分勝手すぎて誰にも相談できない、仮に相談しても相談された方だって「それでもやるしかないだろ」って呆れながら言うほかないだろう
それは単に目に入るものがマジョリティにとって魅力的な異性だから(ひっくり返して、醜い自身の投影たる同性を見ずに済むから)か、あるいは、ひとつハードルを乗り越えている時点で、私たちの夢想する愛に近いような気がするからか
恋人はいたことないけれど、誰かに愛されたいなぁと思う。願わくばその愛に、お金とか世間体とか絡んでない方がいいなぁ、とも思う。
あぁ、これは子どもとか結婚とか諦めなあかんかもなぁと思う自分と、女なんだから"普通に"結婚して子供産んで幸せになりたい自分に挟まれてぐちゃぐちゃになるから、そういう話が出てこないだけで安心感?がある。これは現実逃避ともいう。
久しぶりに同級生シリーズを読み返して、続編で佐条が草壁のほっぺたつまみながら言ったセリフに泣いてしまった。これは憧れずにはいられないよね。
キモくなってきてやめる。こうやって自分の行動や考えを曖昧にしてとらえてるから、色々な経験値を積み上げにくい(積み上げれない)脳みその構造になっているんじゃないかと見える。
好きなものの有無や、現実逃避や、人を見下すことや、これらがどうつながってるのかさっぱり分からないけど、(仮に時間をかけてコミュニケーションしてもこれらのつながりは第三者が理解できるようなものでなく)それは、あなたが頭のなかでふわっと物事を捉えているから、あなたの頭の外に出すことが不可能な状態、一種のバグのような思考になっているんじゃないかと思う。
みんな誰も、だいたいはじめは狂った考え方してる人ばっかりなので、つまり、出来ない終わりではなく、ひとつひとつよく考えて答え作ってきましょうということ。
高校時代2ch大好きでずっと見てて、最近になってなんかキモくなってきて見なくなった。
ツイッターも好きだったけど、なんかキモくなってきて見なくなった。
最近になってきて情勢が悪化してきて、時事ネタで遊ぶ人達を見るのも嫌になってきた。こういったスレッドももちろん建てた。「見るな」って言われた。当たり前だよね。
でも自分には何も好きなものがない。仕方なくソシャゲをいじってるけど、隙間時間にそういった不快な情報に自分から当たりたくなる。ネット断ちなんてできない。友達いないし。
要は今の自分には元から好きなものがなく、昔からネットで趣味のある人を見下してきた罰が下ったんだと考えている。もうどうしようもない。