はてなキーワード: 夏フェスとは
ずっとこの日を待っていた。
ELLEGARDENの復活の日。10年間私はそのために生きてきた。
よくよく私は生きることに関する意欲のない人間だった。
食べることも寝ることもさして好きではない。家事なんて高度なことはほとんどできない。
こだわりもなく、思い入れのようなものもない。仕事でも、お前はロボットのようだと言われることがある。
そんな中、唯一私が心を動かされたのが、音楽だった。
ELLEGARDENを初めて聴いて以来、ずっとどこか、拠り所のようにしてきたように思う。
ここで才能のある人間ならば、音楽の道を志したりするのだろう。
残念ながら私は、無才で凡庸で弱い人間だったので、そんな妄想を時たまするくらいだった。
当時、私は高校生だった。
お前は何者になりたいのだ、と沢山の人々に問われながら、何者にもなりたくないなどとゴネまくっていた。ただのモラトリアムだ。
そんなときに拠り所としていたのがELLEGARDENだった。何の、と言われても困るけど。
ELLEGARDENが活動休止を発表したとき、私は、突然に基軸を失ったのだと気付いた。
実物を目にしたのは、夏フェスでのたった一度だけだ。
復活をするときには、必ず会いに行く、と何かに誓って、生きてきた。
そして、突然の活動再開。
会いに行くこと叶わず。
それでも諦めきれず、今年、やっとフジロックで彼らを見ることができた。
ここで感想を書きたいところだが、記憶が断片的で今ひとつ繋がらない。
再来月にナナイロを見たら、もうあと人生にやり残すこともない気がする。
もうすぐ多分私は最終回なのかな、という気がする。
とても楽しみだ。
高校時代は理系科目が苦手で明らかに文系人間であるのに理系女子への漠然とした憧れから理系を選択。
思うようにいくわけがない。
そうして一度挫折し文系への転向を試みて文理が融合した学部を選んで大学に入るも結局は憧れを捨てきれずに理系を選択。
でも学部での授業は専門性などなく、学部名を言うといったい何をしている学部なのかと嘲笑混じりに尋ねられる。
私はなぜこの学部に来たのかどうして苦手な理系にこだわるのか、そしてどうして修士に進んでしまったのか・・・
先生からは研究への理解が浅い、基本がわかっていないとダメ出しばかり。
同期は能力も意欲も私よりはるかに高く先生からも期待されているのに対し、私は結果を碌にあげられない。
努力が足りないのはわかっている、でも全く頑張っていないわけではない。
でもこんなことを言っても誰かに認められるわけでもなく、実際結果が出ていない時点で努力とは言えないのだろう。
結局選択して後悔してどうにかしたら引き返せる状況でも変な意地が邪魔をして引き返せない。
もう腹をくくって進むしかないとはわかりながらも将来には不安しか抱けない。
もっと妥協して楽な道もあるけど、妥協したら自分のプライドまで捨ててしまうみたいでできない。
将来はこんな仕事がしたいと夢を語っていた友達は学部卒で全く関係のない仕事についている。
そうはなりたくないという思いが変なプライドを作り上げているのだろう。
サブカル大好き!黒髪ボブにバンTにサルエルパンツに派手なスニーカー!大好きなバンドのアルバムは絶対フラゲ!ライブも夏フェスも大好き!
典型的なロキノン厨だった私は母になった。毎日働いて家事して子育てしておばさんになった。音楽はSpotifyのフリープランでしか聴かなくなった。それで適当にシャッフル再生してたら流れてきたあっこゴリラのグランマって曲
気づいたら泣いてた。保育所のお迎え向かう車の中だったから慌てた
おいおいヒップホップってドラックと、女と、バイクで事故って死んだダチへのメッセージだけで構成されてるんじゃないのかよ
前提として抜けてるので補足したい。
これだと、MCで絶叫したと捉えられかねないのだけど、そうではない。
『音楽を捨てよ、そして音楽へ』という曲は、大森靖子の代表曲で、夏フェスでもワンマンでもほぼ確実に、ラストとかのクライマックスに持ってくる曲だ。
その曲で、何回も何回もしつこいぐらい繰り返されるのが「音楽は魔法ではない」という歌詞。
https://m.youtube.com/watch?v=4668uGkrHc8
彼女の音楽自体がそうなんだけど、好き嫌いは相当別れる曲だと思う。でも、本人やファンからしたらたぶん一番大切にされてる曲だ。
幅広く愛される曲ではないかもしれないけど、刺さる人にはすごく刺さる曲なんだと思う。
で、何度も言うけど、この曲や大森靖子の人間性の好き嫌いとはまた別の次元の話で客観的に考えてみてほしいんだけどさ。
この手のメッセージ性の強い曲を、フェスのラストに演奏し、恐らく会場にまだ余韻が残ってるであろう中で、その直後に「音楽は魔法だよー」と、真っ向から否定するMCをすることは、シャレだとしても不粋すぎるし、そういうヨギーの空気の読めなさが、一番問題なんじゃないか。普通そこイジるか?
ベースの件とか、その後のいざこざは、尾ひれの部分だと思う。
これは別のアーティストに置き換えても同じでさ。
フェスのラストに、代表曲かつ、かなり重めの曲を演奏した直後に、別のバンドがMCで、そのメッセージと真逆のことをヘラヘラしながら言って、空気をぶち壊しにする。
これは無いだろ。これを面白いといえるヨギーのファンはどんな感覚を持った音楽リスナーなんだ。
大森靖子のキレ方が大人げないって意見は分かるし、そこに批判が出るのはしょうがないと思うよ。
けど、大森靖子はそういう人だから、としか言えんなーとも思うし、ヨギーよイジったらダメなとこイジったな、という感じ。
例えば銀杏の峯田とか、Coccoとか、かまってちゃんのの子とか、皆そうじゃん。イジっちゃダメなタイプでしょ。
今回の件だって、もし大森靖子がキレてなかったら、イジられた側はマイナスしか無いじゃん。せっかくいい感じでライブ終わったのに、その直後にイジって笑いに変えられて泣き寝入りするのは、本気でやってるアーティストからしたら、そりゃ無理だろ。
もし本当にヨギー側が大森靖子のファンなのであれば。というか、普通の感覚を持った演者であれば、フェスのラストに大森靖子があの曲をやったあとに、それをぶち壊すようなMCは無しだって分かりそうだけどなー。
夏フェスBAYCAMPにて大森靖子が「音楽は魔法じゃない!」と絶唱する
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次出番のyogee new wavesのボーカル角舘が「音楽は魔法だよ」とMC
急遽裏からスタッフが持ってきたベース(大森靖子バンドの)で演奏
ベース弦直って戻ってきたのち、上野「やっぱり自分の慣れた安いベースじゃないと落ち着かない」とMC
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ライブ後ファンが「大森靖子が音楽は魔法じゃないと叫んだあとヨギーが音楽は魔法だよと言ったのロックだった」とツイート
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上野「ベイキャン楽しかった」とツイート、大森靖子ファン、上野に攻撃、Wikipedia改変
角舘「弁明したい」とツイート
大森靖子バンドのドラム、サンプラザ中野(凛として時雨)、角舘にDM
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大森靖子出演
大森靖子ブログ更新し、「日本語が通じない」「ベイキャンのことはライブ以外なかったことにしよう」の旨記す
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夏の魔物は撮影禁止のため、主催者成田「え?」「人間不信」とツイート
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大森靖子「我慢して音楽聞いたが魔法ではなくインスタ映えだった」とツイート
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ヨギー盟友、SuchmosのYONCEとHSUがTwitterアカウント削除
ファンの間でヨギーの件でSNSに嫌気がさしたのではと噂される
同じく三英単語のヨギー盟友、never young beach、名前間違い巻き込みでちょっとだけ叩かれる
かつて大森靖子に叩かれたバンド森は生きているの岡田、意味深ツイート(削除済)
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ベイキャン主催者青木、「こういうことになって正直辛い、どっちも好きだからまた誘う」の旨ツイート
中野、「大森靖子とヨギー、成田の件関係修復に全力を尽くす」とツイート
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ちなみに僕はBAYCAMPにはいましたがtetoみてたためどっちもみてませんでした
(追記)
たかだか生理だという理由だけでトイレにこまめに通わなくてはいけないの、ほんとに馬鹿らしいけど、そうでもしなきゃ大事故だし。
かくいう自分も、よりによって今年のロッキンと一番多い日が重なって参った。
モッシュで大暴れする予定だったし、何時間かぶっ続けて同じステージに居続ける覚悟までしてた矢先だった。
いつも使ってるお手頃なものじゃなく、少し金をかけようと思った。
薄くて、ムレなくて、長持ちしそうなやつ。
結果、
・ウィスパー COSMO(30cm)
・夜用タンポン
の二段構えで6時間くらい持ってくれました。
モッシュにも汗にも耐えてくれた。
薄いからごわつかないし、汗で毛羽立ったり、変にヨレないでくれたのは本当に良かった。
夜遅くまでいたら会場のトイレが閉まってしまい、流石に少し事故ってしまったけれど。
あ、匿名で説得力ないかもだけれど、P&Gの回し者では断じてありません。
しがないOLです。
自分と同じように、日が重なって残念な思いをしている誰かに届けばいいと思ったので書きました。
浪費癖は、ローマ皇帝カリギュラを筆頭に歴史を掘ればザクザク出て来る悪癖ではあるもののだよ。
溶かし尽くす感じではない。
で、絶対的な基準としての「浪費」ってのはすんごく少ないと思うのよ。
イーロン・マスクが使う適正な交通費と、栃木の一般的な男子中学生の使う適正な交通費は違うよな。
でも、中学生でもプロ選手がハイヤー雇って会場まで移動したって、浪費とは言うまい。
「その財政で」「オマエの立場で」「それは浪費だ」という3段オチのハズ。
で、そっから考えると、浪費家を見分けるのにサイゼリヤに行こうってのは、まずワードが悪い。
サイゼリヤが浪費って視点がまず無い。外食とかなんという浪費!みたいな。
5000円のランチだけどこりゃトンデモなくお得だ!みたいなフレンチもあるわけで。
だからこれは「価値観が合うか見分けるのにサイゼリヤに行く」じゃなきゃイカンわけだ。
そうすると、「ん?サイゼリヤがオレの価値観なの?」みたいな疑問がでてくるだろ。
マクドナルドがスンゲー好きなのに、相手がポテトを親の敵みたいに憎んでたら、
そりゃちょっと話し合いが必要な気がする。お互い歩み寄ろう的な。
奢るだのワリカンだのデートの行き先は一緒に決めるだの相手を試すだのとは全く別次元で、
まず大前提として「金銭面の価値観が合うかどうか知りたい」という欲求があるのであれば、
それは「相手が浪費家かどうか確認する」とは違うもんだよな、という話。
二郎ラーメン連れてくんでもゴア映画観るんでも夏フェス行くんでもオンナジだと思うわけよ。
なんじ試すことなかれという話でもない。
オノレの価値観と、カレシカノジョの価値観、果たして近いだろうか遠いだろうか。
そういう話じゃないのかい?というな。
鼻息荒くBlu-ray BOXを買う算段たててるなら、まずソレを相手に聞くところじゃないのかい?という。
良いんだよマスターグレードのΖガンダム積んだって。捨てられたくないだろソレ。
Nintendo switch買うんだって、人によっちゃずいぶんな浪費に見えるわけで。
「オレには無駄遣いに見えるカネの使い方が無いかチェックしたい」って
ずいぶんと高いところから身勝手な査定すすめてんなって思われるから炎上したんだと思うワケよ。
価値観の違いを「相手の金遣い」だけ確認して「ヨシヨシ慎ましやか」とか考えてると
「貴方のそのNゲージって、いっぱい買ってて浪費よね?」って言われて面食らったりするのよ。
「オレの金遣い的にカノジョとのデートでメシを食うのはサイゼリヤだけど、どう?」って主張に見えると
浪費家かどうかとは全く無関係に、自らのスタンスを相手に投げかけているように見えると思うなあ。
もう10日も前の話だけど、イナズマロックフェスの2日目に行った。
途中で中断されたことはニュースになったけど、あんまりレポを書いている人がいないので、自分用に残しておこうと思う。
現場にいた人間としては、滝のような雨と常に雷の音が近くていつ落ちてくるか、という感じだったので中止以外になかったと思う。
長くなるので結論が知りたい人はこれで止めてもらってOKです。
初めての参加だったのでお昼前には会場に着くようにしたものの、まずバス乗り場の運動公園のグラウンドがぬかるんでいて靴に水がしみこむ。
その時点で雨はもう降っていたので、カッパ着用の人が多かった。
バスは台数も多くてそんなに待たずに乗れたが、会場近くになると道路が片道一車線でなかなか進まない。
普通の路線バスを使用していてぎゅうぎゅうに人が詰めこまれている中、20分の予定が40分くらいは立ちっぱなしだったと思う。
会場に着くがグッズ売り場もそんなに人はおらず、みんなフードエリアのテントの中に閉じこもるか、雨の中お昼を買うために飲食店に並んでいる状態だった。
私もとりあえずまだ人が少ない店にならんで、とりあえず腹に詰めこむ。この時点で確か1時前くらい。
市長挨拶の直前に有料エリア(C4)に入る。その間土砂降りの雨が降ったりしたので心の中では「もう帰りたい…」と思っていた。
2時になってやっとオーラルが始まる。この頃はまだ雨の強さは顔を上げられるくらい。みんなも元気だった。
2時半、とにかく明るい安村。安定感がすごい。指先がふやけてきたのでヤバいな、と思った記憶がある。
3時、HKT。雨が上がってきた。カッパが脱げるくらい。HKTのグッズはサイリウムのみだった。男らしい。
4時、ゲスの極み乙女。。演奏は良かったけど川谷氏のMCは早口すぎてよく分からず。演奏開始あたりからまた降り始め、途中から雷の音が遠くでし始める。
4時半、さらば青春の光。ステージを見るどころじゃない。雨粒が大きく滝のような雨なので、俯いてじっと耐える。
その後MCの方が出てきて「様子を見て、5時半まで待つ」とのアナウンス。雷が近いので、しゃがんで待つよう指示。足元が芝生でぬかるんでいるため座ることができず、皆立ったり座ったり。
これからが本番という人が多かったので、帰る人はあまりいなかったと思う。気温は高かったので寒くはないものの、雨がひどくなるばかりで不快感がとんでもなく、とりあえず我慢するしかなかった。
5時過ぎ、貴教が出てきて中止のアナウンス。最後方エリアなのでどうせ規制退場の順番は最初だろうと思い、出口へ。
エリアの出口で思いっきり泥に足を突っ込みながらもバス乗り場へ向かう。地図を見ないと分かりにくいが、歩いたのは一般入場口にから出た、フリーエリアの後方にある道。
バス乗り場の行列はフリーエリア内のアーティストグッズ物販エリアに隣接する道にできていたので並び直す。列自体は進みが早いように思ったが、乗れたのは6時半くらいだった。
この時乗り場の案内のお兄さんが「あと2万人残ってます」と言っていた。みんな最初は雷の音にビビっていたものの、だんだん気にせず歩くようになっていた。
とりあえず前に人についていく、ぐらいの思考能力しか残っていなかったと思う。正直、その辺の記憶があんまりない。
運動公園に着いたのは7時半くらい。グラウンドの泥水を蹴飛ばしながら歩き、電車に乗れたのは8時過ぎくらいだった。
駅で使えなくなったカッパを回収していたのには本当に助かった。途中で少し破れたので迷わずブチ込ませてもらった。
私はまだ早い方だし、今回クロークの出し入れが遅かったらしいので、預けていた人はもっと大変だったと思う。
天候のせいなので誰が悪いわけでもないのだけれど、今年唯一の夏フェスだったので残念なことになってしまった。
みんなお疲れさまでした。
映画館もクラブもライブもパチンコも、どうも音が大きすぎて、10分くらいで頭が痛くなって、その場にいられなくなるから楽しめない。
それぞれの娯楽にはそこそこ興味はあるんだけど、どうにも体がついていかない感じ。
パチンコは入口開いた状態で前通るだけでウワッとなるので入ったこともないけど。
音が大きくて迫力がある!っていうのをポジティブに受け止められないので、何かと不便を感じる。
パチンコとかは温泉旅館のさびれたゲームコーナーにあるやつ見つけると喜んで2、300円分だけ遊ぶ。
仕事の付き合いで行った夏フェスで、会場の端の方でフランクフルト片手にビール飲みながら聞いてるのとかは割と楽しかった。
音楽に合わせて踊るみたいなのは夜中に一人で踊って発散している。
折角イベントごとに誘ってもらってもお断りすることが多いので、その度に不便な体だなあ……と落ち込むけれど、
2020年東京オリンピックが決定した9月8日早朝。その日、我々日本人は否が応でも7年後の日本を想像せざるを得なかったわけだが、日本の未来を予感させる出来事は同日夜の恵比寿リキッドルームでも起きていた。
今回のライブは、ceroとして久しぶりのワンマンライブだった。タイコクラブに始まりライジングサンに至るまで、全国津々浦々と様々な夏フェスに出演してきた彼らは、一回りも二回りも成長した姿を見せてくれた。ボーカルの高城は自ら今回のライブを「文化祭」と形容したが、オープニングアクトの表現(Hyogen)や、サポートメンバーの面々と力を合わせて作り上げられたステージには文化祭のごとく熱いエネルギーが集約されていたと言えるだろう。
満員のリキッドルームで観客たちが開演を待ちわびる中、開幕したステージに現れた高城。ZAZEN BOYSよろしく「死ぬほど練習をして、マツリスタジオで練習をぶちあげてきたので」と観客から笑いをとる。そして、告知されていなかったオープニングアクトである表現を紹介するとさっと身を引き、表現の演奏が始まる。
アコーディオン、バイオリン(一曲目のみ)、アコースティックギター、ウッドベースの4人組からなる表現はceroと関わりの深いバンドだ。ギターの古川は高城と高校の頃からの知人であり、その後もceroと表現で互いに切磋琢磨してきた仲だ。お互い尊敬しあえるバンドとして成長を遂げた両者が集い、久しぶりの対バンとして出演する彼らを見て高城は舞台袖で涙を流していたそうだ。
さて、表現の演奏はというと、全員がコーラスを務めているのが特徴的だ。セリフのような歌詞をメンバー全員が声を張って歌いあげる様はまるでミュージカルのようである。スキャットやハミングを多用し、途中ポエトリーリーディングのようなシーンも挟まれることによって、声の持つ魔力を改めて感じさせられた。もちろん楽器の演奏も素晴らしく、アンプラグドな楽器のアンサンブルによるオーガニックなサウンドは、その名に恥じぬオリジナルな「表現」となっていた。ceroがコンテンポラリーでエキゾチックなロックオーケストラであるのと同様に、彼らもまた名前通りに素晴らしいバンドであった。
ceroを見に来た観客も大満足のオープニングアクトであったが、ceroの開演までは20分ほどの転換があった。幕の裏から聞こえてくる様々な曲の断片は、これから始まる演奏への期待を高めるには十分だった。
いざ幕が上がり、「セロセロセーロ」と叫び続ける入場曲と入れ替わりで始まった一曲目は“水平線のバラード”。ステージには点滅する6本の蛍光灯を背景に、メンバーが立っており、イントロはスタジオ版にないトランペットから始まった。しっとりとした雰囲気で始まったステージだが、ノルウェイの森風のイントロから入り軽快なラップが冴える二曲目“ワールドレコード”でフロアのテンションは急激に引き上げられる。続く三曲目“マウンテンマウンテン”の4つ打ち部分では後ろの方までほぼ全員が音に身を委ね踊っていた。
盛り上がった後一息つくかのように挟まれたMCで、高城はceroと表現の辿ってきた道を振り返る。そして「世界で唯一表現の全員とデュオを組んだことがある人」と名乗る荒内を「音楽ビッチ」呼ばわりするなどしてステージが暖かな笑いに包まれたところで次の演奏へ。
いつの間にかステージから消えて戻ってきた高城。傘を片手にレインコートを羽織った高城が歌うのは“21世紀の日照りの都に雨が降る”だ。続く“エキゾチックペンギンナイト”では「パーパパパー」と全員が高らかに叫び、フロアをより一層祝祭的空間へと引き込む。少し落ち着いて始まった“クラウドナイン”も結局はcero特有の「祭」感へと収束していくのだった。
二度目のMCはサポートメンバーの紹介から始まる。今までになく多くのサポートメンバーを迎えた今回は、ceroのメンバー3人+サポート5人の8人編成だ。トランペットやスティール・パンをこなすマルチプレイヤーMC sirafuのみならず、サックスやタンバリンを担当したあだち麗三郎、表現での演奏とは変わってパーカッションの古川麦、ドラムの光永渉、ベースの厚海義朗という5人のサポートメンバーがそれぞれ紹介される。
ひと通りメンバー紹介が終わると、スタジオ版に比べて遅く重厚な“大洪水時代”のイントロが始まる。この曲から始まったVIDEO TAPE MUSICによるVJは、フェイザーのかけられたノイズギターと相まって、我々を水中へと誘う。そして、ノイズの海の中へと一筋の光が射すかのように響き渡るのは、高城によるフルートの音色だ。最後には全員がしゃがみ、背景であったスクリーンが前景化される。水中の映像、そして流水音のSEと水の映像しか受け取ることの出来ない状況はまさに大洪水時代といったところか。そして、海つながりで次に演奏されたのは“船上パーティー”。VJには男女の横顔が交互に映り、高城は一人二役でセリフを言い合う。スタジオ版でも印象的な「ちょっと待った!」のセリフの後はじれったいほどのタメにより、聴衆をより一層演奏へと引き付ける。そうして引き付けられた我々観客が次に耳にするのは新曲、“我が名はスカラベ”。メルヘンチックな歌詞とVJは、初めて聞く我々も十分楽しめるものであり、聴衆はみなceroのニューリリースへの待ち遠しさを煽られたに違いない。
新曲披露後のMCでは、大洪水時代から加わったVIDEO TAPE MUSICの紹介。そして最近高城のハマっている「文化祭」というキーワードに関連してTwitterにおける高校生のつぶやきや、ceroのメンバーそれぞれの思い出などと話が弾む。
再びメンバー紹介から入った曲は“Contemporary Tokyo Cruise”。本ワンマンライブの表題曲とでもいうべきこの曲ではミラーボールがきらめき、最も「祭」感のある曲だったかもしれない。そして音は途切れることなく、思わせぶりな長い間奏から始まったのは“マイ・ロスト・シティ”。2ndアルバムの表題曲でもあるこの曲では「ダンスをとめるな」という歌詞、その通り踊り続ける客、ダンスをする人々を映すVJが一体となっていた。
短めのMCを挟んだ後、演奏されたのはまたもや新曲、“yellow mangus”。ムーディーなサックスから始まり展開されるのはceroお得意のディスコビート。そしてこれまた長めの間奏からはじまるのは“わたしのすがた”。途中挟まれる8ビートの部分では赤い照明が似合うほど激しい展開で、普段とは違った一面を見せてくれた。
最後の曲の前には今後の活動を仄めかすようなMCを挟み、演奏されたのは“さん!”。観客と共に「いち!に!さん!」と高らかに叫んだ高城は29歳の文化祭、最後の盛り上がりを演出した。
しかし、我々の文化祭はまだ終わらない。アンコールを期待する拍手に応えて登場したのは高城と橋本。残りのメンバーも続々と登場し、最後の最後に演奏されたのは“大停電の夜に”。ゆったりとしたメロディーはまるで蛍の光のように、我々を切なくも満たされた気分へと導き、文化祭は幕を閉じた。
実は、最後のMCにおいてなんとも頼もしい言葉があった。高城は、表現やVIDEO TAPEMUSICのような仲間たちを見ている中で「日本の音楽がこれからまたちょっと変わっていくんじゃないかな」という実感を述べた後に、「俺達が変えるぞみたいな気概を感じている」と宣言したのだ。変わりゆく東京の風景、そして変わりゆく日本の音楽シーン。7年後、東京オリンピック開催を前に我々はこの日をどのように思い出すだろうか。29歳の文化祭には「ここから何かが変わっていきそう」な予感、そして希望に満ちあふれていた。あの晩、もしかしたら我々は時代の目撃者となったのかもしれない。
そこの先生はプロのミュージシャンとしても活動している人だった。
「適当にやって、それでお金を稼げるようになるために、みんな努力しているんです」というもの。
言われたときはまったく理解できなかった。
適当にやってお金を稼ぐだなんて。なんて不真面目な考え方だ、そんなのおかしいと思った。
けど最近、その言葉の意味が少しだけわかるような気がしている。
10年以上、毎年欠かさず参加している夏フェスがある。もちろん、今年も参加した。
そのフェスでは、ベテランミュージシャンから、新進気鋭の若手バンドまでさまざまな世代のミュージシャンが出演し、それぞれのパフォーマンスを繰り広げる。
私が見た限りの印象だけれど、若手のバンドは、数曲演奏するだけのステージでもものすごく気合いが入っている感じがする。
MCでは『僕たちの名前だけでも覚えて行ってください』と叫び、膨大なエネルギーをそのまま音に変換したような演奏をする。
一方、ビッグネームなベテラン勢には、若手みたいな気迫は感じられない。
もう、本当に何百回、下手したら1000回以上演奏しているのかもしれない。
だから必要以上に気合いとか気迫とか、いちいちこめなくてもステージはしっかり成り立つし、客側からしても、十分に観る価値があると思える。
ベテランの人たちは別に、最初から気合いとか気迫といったものを放棄していたわけではないだろう。
彼ら・彼女らが若い頃は「最近(現代)の若者にうけてるバンド」と同じような熱量を、何十年も通して繰り返しライブやレコーディングで発揮してきた。
いろいろと夏フェスに行ってきた。
いいアーティストもたくさんいて、もちろんすごく楽しんだんだが、どうしてもライブ中にスマホで写真やら動画やらを撮る輩が気になって仕方ない。
スマホ普及率が高くなっているこのご時世、いくら主催が「撮影禁止」とアナウンスし、そこら中にそう書いた紙を貼りまくっていたとしても、必ず一定数スマホを構えてばんばん写真を撮る人は出てくる。
フェスなんかで会場のキャパが大きいところになると、特にバイト程度の係員が必死に声を張り上げたとしても、もはや抑止力にすらならないというのが現実といったところだと思う。
主催側が「撮影禁止」にすることによって守りたいものといえば、アーティストの肖像権や音楽の著作権といったところだろうが、問題にしたいのはそこじゃない。
ライブに参加している身として声を大にして言いたいのは
「スマホを掲げて後ろの人の視界を汚すな」
この一言に尽きる。
目の前のライブを見ていたいのに、その視界の中にちらちら入ってくるスマホの画面の明かりといったら、邪魔くさくてしょうがない。
バラードを聴きながら自分に酔って、他に誰も使ってないペンライトやサイリウムを振りかざす奴らと同程度なんじゃなかろうか。
自分の思い出作りや他人への自慢のために撮りたくなる気持ちもわからんではないけど、後ろの人の迷惑をもうちょっと考えてくれ。極論かもしれないが、歩きたばこが知らず知らずのうちに後ろの人の吸う空気を汚してるのと同じようなものかと。
最近ではアーティスト公認で撮影OKのところも出てきているので、そういう場ではあまり気にならないんだろうけど、「撮影禁止」のところではせめてもう少しなんとかならないものなのか。
せめて子どもの耳のことを考えて、それなりの対策をして連れて来てほしい。
大音量の中に長時間居ると、大人でさえ苦痛に感じたり、耳に違和感や痛みを憶えたり、耳鳴りが起こる場合がある(音響外傷と呼ばれる症状)のに、敏感な子どもの耳が同じ状況下に置かれたらどうなるか、ちょっと考えればわかるはずだ。
それなのに、毎年、夏フェス会場で両手で耳を塞いで辛そうにしている子どもを見かける。そういう子どもの保護者はそのそばで、能天気に音楽を楽しんでいる。自分の子どもが辛そうにしている姿は気にならないようだ。これってどうなんだろう? よくないと思う。
そりゃちゃんとそばにいて面倒みてるんだから、放置するよりはいいのかもしれないけれど。
もちろん中には子どもにイヤーマフをつけさせている人もいる。外から見えないだけで、耳栓をしっかりつけさせている人も居るだろう。あまり音が大きくないエリアでのんびり楽しむなど、工夫をしている人も多いだろう。
でもそうじゃない人、特に「うちの子は嫌がってないから」とのんきに考えている人には、もう一度よく考えてみてほしい。夏フェスのスピーカーから放たれる大きな音が子どもの耳に与える影響について。