2024-06-24

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死ぬまで求道は素晴らしい」

これが常識になっている。

「道」とは、剣道柔道茶道華道書道囲碁将棋スポーツマンガグルメ映画芸術政治経済法律教育など、「どう生きるか」の営み全てといえる。

これらの道を死ぬまで求めることを礼賛するのは、「完成したら味気ない、進歩がなくなるじゃないか」と思うからだろう。

オリンピック金メダルに輝いた時は、「今まで生きてきた中で一番幸せ」「チョー気持ちいい」と満足しても、しばらくの間である。追われるプレッシャーとの戦いや、連覇を狙う新たなレースが、すぐに始まる。

ノーベル賞の受賞会見で、さらなる研究意欲が示されるのは、科学医学「道」にも、完成はないからだろう。

私たち日常も、仕事子育て趣味人間形成など、一生懸命になるほど、未熟さと目指す高みが知らされる「道」ばかりである

このように、どんな道にも完成がないのは、「無限の欲」に動かされているかである

キリのない欲を、死ぬまで求め続け、苦しみ続けているのが、「死ぬまで求道」の真相である。そんな道しかないのなら、苦しむために生まれてきたことになってしまう。「それでいいんだ」とどうしていえるだろうか。

だが、ただ一つだけ、完成のある道がある。

それが、「なぜ生きる」を明らかにされた親鸞聖人の「平生業成」の教えである

生きている今、「人間に生まれてよかった」と心の底から喜べる絶対幸福になるために私たちは生まれてきた。

その人生の目的にのみ、完成があるのだ。

死ぬまで求道」の「どう生きる」しか知らぬ人生悲劇だが、「なぜ生きる」(人生の目的)がハッキリすれば、それに向かって、全てが生かされるのである

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