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伊藤綾子の匂わせってやつ、根拠が「8.6秒バズーカは反日」レベルの被害妄想ばっかりじゃねーか
伊藤綾子の匂わせの何が嫌って、生活してて付き合ってる人の存在が言動からにじみ出てしまった感じではなくて、
アラフォーのくせに脳内お花畑で相手の職業や立場何も考えないで自分の彼氏自慢と存在アピールしちゃってる所。ジャニオタはコイツを叩かなきゃいけない。— クリーミィキティー (@6u6M2) September 17, 2019
伊藤綾子の匂わせの数々知らないくせに、叩いてるファン怖いとか言ってる人やばくない?()
ジャニオタが匂わせ匂わせ言うのって、「思い込み激しくない?」ってやつも沢山あるけどあれはもう誰が見ても、だしほんとに今までもこれからもあれを超える匂わせは無いと思う— クリーミィキティー (@6u6M2) September 17, 2019
伊藤綾子叩くなって言ってるジャニオタじゃない人マジであいつやばいんだよね。ファンを煽ってバカにするような人叩いちゃいけない理由何??まだまだあるけど全部載せた方がよき?? pic.twitter.com/ejVDrsz6BY— 🙉けー🙈 (@Kk_o1o1) September 17, 2019
伊藤綾子なあ、
まぁ、叩かれてもしゃあない。
アイドルだから。
男である前にアイドルなのよ。
ジャニオタってそーなの。
私もだけど。
ファンのこと考えてない恋愛に関しては誰だって叩かれるのよ。
匂わせする女と一緒になって欲しくないの。
隠し通してくれる女がいいの。
考え直してくれないかな— みゆう (@m0i3y1u3u) September 17, 2019
親戚に手紙を出したり、ファンレターを出したりするためにときどきレターセットや便箋を買う
親戚に出す手紙はかしこまったものなので地味め大人っぽいデザインにする。とても親しい祖父母相手なら私の趣味全開で乙女っぽい可愛いレターセットを使ったりする。祖父母が知らないキャラクターモノ等は使わない。
ファンレターは多少の遊び心を出してもいいものだと思うので派手でデザイン性の高い便箋や封筒で送ることがある。
男性声優や男性アイドルに少女、女児向けの可愛いレターセットで手紙を送る女性がいる。
自己主張強めでいやだと思ってしまう。送り先の男性がキティやマイメロディが好き、ディズニープリンセスが好き!と公言しているならともかく、「私はマイメロディが好きだからマイメロディのレターセットで手紙を送るの♪」と相手のことを考えず自分の趣味全開のレターセットを使う人が苦手。
送り先が女性アイドルや女性声優、女性漫画家とかなら、可愛いものを使いたくなる女の子の気持ちに共感してくれる可能性が高いのでまあいいのかなと思う。
私はサンエックスのセンチメンタルサーカスが好きなのだが、知名度が低く、送り先の人間が知らないキャラクター物のレターセットを使って手紙を書くのはどうかと思うのでセンチメンタルサーカスのレターセットが欲しいけど使いどころがないので買ったことがない。私が手紙を送りたいと思う有名人でセンチメンタルサーカスが好きだと公言している人間はいない。
でも、世間にはセンチメンタルサーカスのレターセットを使ってファンレターを書く人間がいることは知っている。送り先の人はセンチメンタルサーカス知ってるのか?まだディズニーやサンリオのキャラの方がマシではないのか?と思ってしまう。
ファンレターを受けとる人にとってはファンレターのデザインよりも中身の文章の内容の方が大切なので、知らないキャラクターモノのレターセットの手紙が届いたところで何とも思わないと思うが
アニメなんてなくても生きていける。
そう論じるのは簡単なことだ。
だが
人間はそもそも不完全なものであり、合理性のみで人生を全うすることは難しい。
それが出来る人間もいようがその数は決して多くない。
アニメに限らず、ゲーム、酒、タバコ、異性、ギャンブル、車、ゴルフ、音楽、アイドル、スポーツ観戦、特撮、映画、小説…
多くの人間は一見非生産なものにひと時その身を浸して癒やしを得、日々の暮らしにおける心の糧にしているものだ。
まずこういったものに批判をすること自体禁酒法時代のアメリカや天保の改革の風俗取締令のようなナンセンスさがある。
すでに多くの批判が寄せられているが、大阪芸術大学の純丘曜彰教授の例のコラムの改稿前のものを長くなるが引用し、思うところを述べていきたい。
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/夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。/
あまりに痛ましい事件だ。だが、いつか起こると思っていた。予兆はあった。たとえば、16年の小金井事件。熱烈なファンが豹変し、本人を襲撃。アイドルやアニメは、そのマーケットがクリティカルな連中であるという自覚に欠けている。
もとはと言えば、1973年の手塚プロダクションの瓦解に始まる。同じころ、もう一方のアニメの雄、東映も労働争議で多くの人材を放出。かれらは、それぞれにスタジオを起こした。だが、これらのスタジオは、アニメの製作ノウハウはあっても、資金的な制作能力に欠けており、広告代理店やテレビ局の傘下に寄せ集められ、下請的な過労働が常態化していく。
そんな中で74年日曜夜に放送された『宇宙戦艦ヤマト』は、視聴率の低迷以前に予算管理と製作進行が破綻して打ち切り。にもかかわらず、時間帯を変えた再放送で人気を得て、77年に映画版として大成功。当初はSFブームと思われ、78年の『銀河鉄道999』や79年の『機動戦士ガンダム』が続いた。しかし、サンリオ資本のキティフィルムは、80年に薬師丸ひろ子主演で柳沢きみおのマンガ『翔んだカップル』を実写化し、SFではなく、その背景に共通しているジュブナイル、つまり中高生モノの手応えを感じており、81年、アニメに転じて『うる星やつら』を大成功させる。
このアニメの実際の製作を請け負っていたのが、手塚系のスタジオぴえろで、その応援として、同じ手塚系の京都アニメーションの前身が稼働し始める。そして、その後のアニメ業界の大勢の方向を決定づけたのが、84年、この監督だった押井守の映画版オリジナルストーリー『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』。SF色を取り入れた学園コメディで、学園祭の準備が楽しくて仕方ない宇宙人の女の子ラムの夢に世界が取り込まれ、その学園祭前日を延々と毎日、繰り返しているという話。
アニメには、砂絵からストップモーションまで、いろいろな手法があり、セル画式だけでも、『サザエさん』や『ドラえもん』のようなファミリーテレビ番組はもちろん、『ドラゴンボール』や『ワンピース』のような人気マンガを動かしたもの、『ベルサイユのばら』『セーラームーン』のような少女マンガ系、『風の谷のナウシカ』や『AKIRA』のようなディストピアSF、さらにはもっとタイトな大人向けのものもある。
にもかかわらず、京アニは、一貫して主力作品は学園物なのだ。それも、『ビューティフル・ドリーマー』の終わりなき日常というモティーフは、さまざまな作品に反復して登場する。たとえば、07年の『らき☆すた』の最終回第24話は、『BD』と同じ学園祭の前日。エンディングでは、あえて『BD』のテーマ曲を下手くそに歌っている。つまり、この作品では、この回に限らず、終わりなき日常に浸り続けるオタクのファンをあえて挑発するようなトゲがあちこちに隠されていた。しかし、「エンドレスエイト」として知られる09年の『涼宮ハルヒの憂鬱』2期第12話から19話までとなると、延々とほとんど同じ夏休みのエピソードが繰り返され、『BD』に悪酔いしたリメイクのような様相を呈する。
もっと言ってしまえば、京アニという製作会社が、終わりなき学園祭の前日を繰り返しているようなところだった。学園物、高校生のサークル物語、友だち話を作り、終わり無く次回作の公開に追われ続けてきた。内容が似たり寄ったりの繰り返しというだけでなく、そもそも創立から40年、経営者がずっと同じというのも、ある意味、呪われた夢のようだ。天性の善人とはいえ、社長の姿は、『BD』の「夢邪鬼」と重なる。そして、そうであれば、いつか「獏」がやってきて、夢を喰い潰すのは必然だった。
なぜ学園物が当たったのか。なぜそれがアニメの主流となったのか。中学高校は、日本人にとって、最大公約数の共通体験だからだ。入学式、修学旅行、学園祭、卒業式。教室、体育館、登下校。だが、実際のファンの中心は、中高生ではない。もっと上だ。学園物は、この中高の共通体験以上の自分の個人の人生が空っぽな者、いや、イジメや引きこもりで中高の一般的な共通体験さえも持つことができなかった者が、精神的に中高時代に留まり続けるよすがとなってしまっていた。それは、いい年をしたアイドルが、中高生マガイの制服を着て、初恋さえ手が届かなかったようなキモオタのアラサー、アラフォーのファンを誑かすのと似ている。
夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。グッズを買い集め、「聖地」を巡礼し、そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。それが拒否されれば、連中がどう出るか、わかりそうなものだ。
『恋はデジャブ』(93)という映画がある。これもまた、同じ一日をループで繰り返しながら、主人公が精神的に成長するという物語。この話では、主人公だけでなく、周囲の人々も同じ一日を繰り返す。つまり、主人公の成長を待ってくれる。だが、映画と違って、現実は、そうはいかない。終わりの無い学園物のアニメにうつつを抜かしている間に、同級生は進学し、就職し、結婚し、子供を作り、人生を前に進めていく。記号化されたアニメの主人公は、のび太もカツオも、同じ失敗を繰り返しても、明日には明日がある。しかし、現実の人間は、老いてふけ、体力も気力も失われ、友人も知人も彼を見捨てて去り、支えてくれる親も死んでいく。こういう連中に残された最後の希望は、自分も永遠の夢の学園祭の準備の中に飛び込んで、その仲間になることだけ。
起業する、選挙に立候補する、アイドルやタレント、芸人になる、小説やマンガの賞に応募する、もしくは、大金持ちと結婚する。時代のせいか、本人のせいか、いずれにせよ、人生がうまくいかなかった連中は、その一発逆転を狙う。だが、彼らはあまりに長く、ありもしないふわふわした夢を見させられ過ぎた。だから、一発逆転も、また別の夢。かならず失敗する。そして、最後には逆恨み、逆切れ、周囲を道連れにした自殺テロ。
いくらファンが付き、いくら経営が安定するとしても、偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身もまたその夢の中毒に染まるなどというのは、麻薬の売人以下だ。まずは業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別し、しっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。
まずはこの業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別する必要がある。もう学園祭は終わったのだ。休もう。番組も、映画も、穴を開けて休もう。あれだけの京アニの惨事を目の前にしながら、よりタイトな状況で黙々と規定の製作スケジュールをこなそうとしていることこそ、異常だ。こんなときくらい、京アニにかぎらず、業界の関連全社、いったん立ち止まって、仕事や待遇、業界のあり方、物語の方向性、ファンとの関係を見直し、あらためてしっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。
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「京アニは学園ものだけ」という言説に対し、傷痍軍人の女性が戦後を生きる「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の存在意義が改めて燦然と光り輝いているという事実。劇場版も企画されており以降もシリーズ化されればそれはもう「学園ものだけ」という批判にはあたらない、はずだったのだが…。
また京アニオリジナルの源流をたどればMUNTOという異世界ファンタジーもあり、今後何が飛び出すか、その可能性は無限に満ちていた。
日本のオタク作品の大半が確かに学園ものなのは事実であるが、それは世界観の説明が容易であること、多くの視聴者が経験していて没入しやすいこと、といったアドバンテージがある、いわば「手堅い」ジャンルゆえ。
京アニは決して裕福な会社であったとは言い切れないし、またアニメ業界自体流行り廃りが激しく、そんな中で一定の収益を手堅くあげる選択をとっても批判されるいわれはあるまい。
エンドレスエイトがいまだに物議を醸す存在であるのは事実だが、話題性が1期よりは希薄になりがちな2期ハルヒを「語る」上で大きな要素になっているという点では意義のある存在ともいえるのかもしれない。
終わりなき学園祭としてひとつの象徴となった「ビューティフル・ドリーマー」、
うる星やつらが漫画版で約9年、アニメ版で約5年もの長きに渡り「途切れることなく」続いた学園ものであった記憶もあって、ことにアニメに対して古い感性の人間ほど「終わりなき青春」を延々続ける印象もあるが、
近年の製作ペースは1クール12話、月にならせば3ヶ月ほどのスパンが基準で、シリーズが続いても2クールか長くても4クールあたりが殆どで、1年を通して続くことはもはや一部の例のみで、1クールないし2クールベースの途切れ途切れの発表ペースになっている。しかもうる星が3年を超えて学生生活を描き続けたのに対し、妥当な時間経過とともに終わり即ち「卒業」があるのも近年の特徴。
しかもアニメファンは常にコンテンツの新陳代謝にさらされる中で、コンテンツの完結を一区切りとして、同じ制作会社だからといって次に提示される新コンテンツを必ず追い続けてくれるとは限らない。
1期で好評だったシリーズ物の2期ですら、1期以上に人気を得るのは実際難しい。
そしてこの御仁が憂うまでもなくアニメ自体卒業していく人間も確かに存在する。
そういった熾烈なレッドオーシャンで波間の泡のように浮いては消えていくのがアニメ制作会社の非情なる現実。
そんな熾烈な世界にあって健気に誠実に作品を作り続け、また大きな落ち込みもなく良質な作品を供給できる会社を存続させてきた、業界の良心の要石のような会社が京アニであって、それはこういう批判の俎上に上げるべき存在ではそもそもない。
事件前からかねがね用意されていたであろう「ぼくのかんがえた日本アニメ概論」をここぞとばかりに持ってきたのだろうが、世界的に見ても比類なきほど理不尽な、そして悲惨な事件に対して論じるにはあまりにも適さない代物であったと言わざるを得ない。
このケースは犯人の特性も含めて極めて異常であり、安易な因果応報的論説にははめ込めないほどの歪さ不条理さがあるのだ。いやしくも大学教授を名乗る立場にふさわしくない浅薄さであったと言わざるを得ない。
この御仁が禄を食んでいる大阪芸大は早くからサブカルチャーに特化した今やオタク御用達の大学であり、辺境にありながら高い人気を持ち続けているのはそれ故もあるのに、そこからオタク批判をすること自体、あたかも親の庇護を受けながらヤンキーやってるイキリ中学生のようであり甚だ滑稽でしかない。
まぁ一方で確かにアニメ作りすぎなのは事実であるが、それは業界全体レベルの話であり京アニを論って言う話ではない。それは数を作らないと食えないという業界構造にこそ問題があり、是正されるべきものであるのは論を俟たない。だが、かつて勇名を馳せた会社ですら粗製乱造なものも見受けられる中、ひとつひとつの作品を売れる売れないに関わらず本当に誠実に作ってきた会社を取り上げて言うことではない。まして「麻薬の売人以下」とまで蔑まれるいわれはない。
あとアニメうる星はその後綺羅星の如く多くの俊英を生み育てる土壌になり、アニメ産業及びアニメ文化の嚆矢ともなったという意味で意義深い作品であり、とりわけビューティフル・ドリーマーはアニメ制作班の若き野心とオリジナリティに溢れた傑作であったことも付け加えておく。だがそれに内包されている批判精神は今や一周回って定番になってしまい、それをもってアニメ批判オタク批判をするには「今更感」で一杯で陳腐化していることも。
最後に
人的物的、そして心理的にも大きなダメージを負い再起すらも危ぶまれる中、これからの再起を表明した八田社長と京アニには、深い敬意を表しつつ、事件前に比肩する制作体制を整えるのはおそらくまだ時間がかかるであろうとも、その行く末を見守っていきたいし、微力であれ力添えもしていきたいものである。
そして、亡くなられた方のご冥福と、負傷された方のご快癒をお祈りしつつ、件のコラムのような浅はかな批判論を払拭する新たな可能性に満ちた作品群を期待したい。それがいつになろうとも。
作者:未詳
とても暑い、夏の日のことでした。
みぃちゃんがお小遣いを握りしめて、近くの駄菓子屋さんにお菓子を買いに行くところです。
「車に気をつけていってくるのよ。お菓子は家で食べようね。」
お母さんがみいちゃんに麦わら帽子をポンと被せながら言いました。
「喉が乾いたらこれを飲みなさい。」
みぃちゃんの大好きなキティーちゃんの水筒を、お母さんが首からかけてくれました。
「ポカリにしてくれた?」
「ううん、お茶が入ってるよ。でも帰って来たらカルピスがあるからね。」
みぃちゃんは少し残念に思いましたが、顔をつとあげるとお母さんに大きな声で言いました。
「いって来ます!」
駄菓子屋さんはみぃちゃんの家から直ぐですが、途中小さな川があり、みぃちゃんは赤い橋を渡らなければいけません。
みぃちゃんはいつものように橋のたもとに座り込み、じぃっと目を凝らして何かいないか川を覗き込みます。
そのときです。
キラッ
橋からほんの少し離れた川の真ん中に、何か光るものが動くのが見えました。
カワセミです!
とても不思議なことに、小さな、そして少し淀んでほとんど魚など居ない川に、綺麗な緑のカワセミがいるのです。
もちろんみぃちゃんには、それが何の鳥かなんて分かりません。
青や緑の羽が光に透けて、カワセミが飛ぶたびにキラキラと光ります。
わぁ、綺麗。
みぃちゃんはうっとりと魅入られたようにカワセミを見ています。
当たり一面にセミの声が響き、時折遠くから車のクラクションが聞こえました。
3分でしょうか、いいえもっと長い時間、みいちゃんはカワセミを眺めていたのかもしれません。
綺麗なカワセミを唯うっとりと眺めていたはずのみぃちゃんですが、何故だか次第にみぃちゃんの心のもっと奥の、みぞおちの辺りから、ムクムクと怒り、遣る瀬無さ、焦燥感、苛立ち、憎悪、嫌悪...様々な負の感情が沸き上がってきます。
ここがジクジクする。
お腹と胸の間辺りに手を置いて見ながら、みぃちゃんは思いました。
もう行こう、早くお菓子を買ってそして帰らなきゃ。お母さんが待ってる。
ジクジクの原因が分からないながらも、みぃちゃんはここにいてはいけないと感じ、その場を離れることにしました。
でも最後にもう一回、あの綺麗な鳥を見たい。
みぃちゃんはお別れを言うつもりで、もう一度カワセミを探そうと、頭を上げて川の方に目を向けました。
音もなく、みぃちゃんの顔の目の前に飛んできて、そしてそこにぽっかりと浮かんでいるのです。
「お前なんか生まれてこなきゃよかったのにね」
今回の判決文読むと「正当性が無いけど、その後吉牛に入ろうとしたりキティガイムーブで逃げ去ろうとしたのは流石に不審者やろ」って書かれてる。
少なからず定型発達マンならそこで警察経由で「別の方呼んでくださいオナシャス!」とかするしなんだったら身の潔白を証明してバイバイできるだろ、っていういたって普通の判断だと思われる。
更に江添自身が「自分は予備自衛官だと身分を証明している」みたいなことを強弁してるけど、フルメタル・ジャケットとかランボーとか見たことある人ならそう言う奴の方がヤバイって分かるじゃん…