はてなキーワード: よっちとは
いえいえ、こちらこそ。
解釈はだいたいあってると思う。
「結婚したからおとなしくする」ってこともないし、子供が生まれて家庭を守っていかなきゃってこともない。
どうせ日陰者の俺たちがお上品なこといってどうすんの? てのもあるしな。
あと、ぶっちゃけやっぱり性欲の発露の仕方が「男」の人が多く(オネエ言葉とか使って、いわゆるジェンダー的に女っぽい人であっても)、
「やりてぇ」なモードな二人が出会えば、そりゃすぐやっちゃう傾向はあるかも。
「ヤリ目的」な出会いの場が、リアルにもネット上にもあるし、男が男に体を売っても「売春」で罰せられることもないし。
(日本の法律では、「性器の結合」がないと売春と認定しない)。
発達障害者は集中したいものに対してはなかなか集中できないのに、自分にとって無視したいものを無視することができない。
普通なら無意識に気にしないようにできることに、何故か強制的に意識がフォーカスされてしまう。
集中したくもないものに集中してしまったらきつい、その対象が気になって気になってしょうがなくなる。
たとえその対象から離れたとしても、気になってしまった時点で容易に意識を切り替えることができなくなるのだ。
この意識を切り替えられないってのが本当にやっかいで、1日のうちにがっつり嫌な気分を一回でも感じてしまったら、もう寝てリセットするしかなくなる。
じゃあそれは具体的にどんな感じなのかと、
例としてあげるのがクチャラー。
要は食べ方がきたない人たちのことだ。
あれが自分にはキツイ。本当にキツイ。生理的に気持ちが悪すぎて吐きそうになる。
普通の人にとっては一瞬イラっときたとしても、クチャラーのいる場所を離れたらそれで話は終わりなのだが、自分にとってはそうではない。
もしその場を離れたとしても、
「クチャラーがそのまんま意識に残り続ける」ため、「そのときにその場で感じていた嫌悪感」が「ひたすら頭に残って離れない」
具体的に言えばだいたい2〜3時間くらい、ひたすらそのくっちゃくっちゃ言わせてたおっさんが頭から離れなくなる。
悲惨だ。
中学(田舎の公立)の同級生の50人の女の子のうち、なんと10人弱が高校もしくは短大で妊娠したのだ。
おいおい、おいおい。バカか。まあ、頭悪かったもんな。ってバカにしてた。
さて、月日は流れ、わたしは32才。
このまま結婚できないのかなと思い始めてる。
海外旅行して、コンサート行って、舞台観て、映画見て、ゲームして、マンガ読んで、小説読んで、遊んでる10年の間に、
あのコ達は子供を産んで、育てて、人によっちゃ離婚して、たぶん早い子だともう子供は中学生なんじゃないかな。
10代で出来婚なんかでできた子供なんて、言っちゃなんだが、育ち悪くて頭悪い子になりそうだし、
旦那さんだってきっとそんなに稼ぎもよくないだろうし、パートしないといけないかもしれない。
わたしは子供は中学から私立に入れたいし、結婚10周年にはハリーのエタニティリングがほしい。離婚なんかしたくない。
それに中途半端にパートで稼ぐくらいなら、専業主婦の方が得だと思ってるし。
この感情は、もうすぐ子供産みにくくなるから、本能からの指令なのかしら?
横だけど「子供作れるのが今んとこ女しかいない」が一番の原因じゃねえかと思う。
だって大黒柱が妊娠出産で産前9ヶ月のパフォーマンス低下、産後最低6週間の欠勤を余儀なくされ、肥立ちによっちゃ元通り働けなくなるリスク迂闊にしょえないだろ。奥さんがどんなに頑丈な身体で、子供が健康そのもので、亭主が家事育児バッチリのハイスペックイクメンですら「最低でも」上記のようなリスクがかかるんだから。
「男女共に絶対に一生子供いりませんて主義で、男性が家事有能で、女性が高収入」くらいレアな条件の組み合わせか「子供が旦那さんメインの育児でも回るくらいまで育つ+奥さんが元通り職場復帰できるまでは兼業でしのぐ」という折衷案を取るんでもなきゃうまく行きっこない。
まして現代日本じゃ「結婚=子供」って風潮はもんのすごく強い。
貧乏だろうが不細工だろうが無能だろうがお構い無しに「結婚すりゃ子供を作るもんだ、作れるもんだ」と思い込んでる想像力もない考え無し(これは弱者男性に限った考え方でもなく、日本人全員に共通する)揃いのお国柄だし、作らないんであればそうしたマジョリティの人々にとっては結婚する意味そのものがない。男ですら小梨専業なんて寄生虫飼うなんざありえんわってのが大多数の現状なんだから女も同じ事だ。
人工子宮が出来て、大黒柱の女性が一切の健康と時間を損なう事なく子供を持てるようになるか、男性も妊娠出産可能になるかのどっちか待ちだと思うね。
「日本は身勝手な国といわれる」移民受け入れ、早急な議論が必要(産経新聞)
http://www.sankei.com/premium/news/150201/prm1502010002-n1.html
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150201-00000569-san-asia
Aではインドネシア語、Bではスペイン語、Cでは中国語、Dではタイ語、etcetc.
基本、農業や林業、漁業など、第一次産業をやって貰う。或いは伝統工芸の継承者。アニメーターもw
変化球として、主に日本人向けの介護施設を集めた特区を作り、そこのスタッフなども良い。
無論然るべく報酬は出す。
会場の係員が足りないってんで、5年ぶりくらい? で投票所の手伝いをしてきた。
場内で主に投票用紙の交付係をやってたんだけど、担当が最高裁裁判官の国民審査。
これ、渡すときの口上が長いのな。
国民審査「国民審査です。辞めさせたい裁判官がいれば×を、いなければ何も書かずにそのまま投票してください」
都合2,000人くらいに同じ事言ってたら混乱してきて「辞めさせたい弁護士」言いかけて訂正したりノド痛くなったり。
で、説明したところで大半の反応は「知らない」「わからない」「興味ない」「こんなの無駄」なのな。
地域によっちゃ「わからなかったらそのまま何も書かずに入れて」とか言ってる所もあるらしいし「わからんからこのまま入れるわ」て人もいた。
これ言う人はみんな「怒る」か「笑う」かで「恥ずかしい」って感じじゃない。
審査対象の裁判官について知らないことは「別に恥でもなんでもない」んだよな。
「知らない」「わからない」うん。今その手でイジってるスマホで調べればすぐ出てくるよ。
「興味ない」「こんなの無駄」うん。受け取り拒否して棄権する手もあるよ(実際に複数人いた)。
国民審査の方式そのものの欠陥(「バツ」印以外は無効とか、部分棄権ができないとか)もある。
判決や裁判官についての、プッシュ型の情報不足(報道も滅多にないしな。せめて投票所での閲覧用に国民審査の選挙公報くらいは置いても良いと思う)もある。
でも、選挙区の投票に来る人でさえ「知らない、わからない、興味ない」ことが「許される」空気は、完全に出来上がってて変えられそうにないなーと思った。
http://zemilog.com/article/intelligible_design_for_presentation
これ見たんだけど、「絶対に抑えたい5つのコツ」とかいいながらスライドを見せてるけど、
最後のスライドが見やすいのはそれらのコツが全く関係ないということに
コレ書いてる人も気づいてないのか?
1. フォントを選ぶ
に関して言えば余程変なフォントを選ばない限り変わらない。まあ、無難なHelveticaとか使っとけ、っていう程度なら分かるけど、大概デフォルトで良い。
2. 行間をとる
3. 余白をとる
まあ、ぎちぎちまで書くのはどうかと思うが「十分な余白」ってどれくらい?スライドが全部映らない様な
ところならそもそもまともにスライド見れないのでどうでもいい。
4. 揃えて、グループ化する
物によるとしか。特に左のはタイトルページじゃないのか?読みにくいのは最後に書くけど変な所で区切ってるからってだけ。
5. コントラストをつける
てかタイトルの方は最初から文字の大きさとか色々違うじゃん。。。
後、その薄い青は会場によっちゃ見えない、少なくとも見づらい。
スライドの端まで書くのはやめよう、とかよりよっぽど重要だろ。。。
で、最後のスライドは確かにそれまでのに比べてちょっと見やすいけど、
それは上の5つのこつは全く関係なく、単に文章の区切りの良い所で改行してるから、に過ぎない
右の方なんてリスト内の改行後には先頭を揃えるとかまでしてるし。
なんなんだろう?名前入った資料だから自分で作ったんだろうけど、
それともここに載せた人はまた別の人でその人が勘違い?
世の中のコンサルとかこういう適当なのが多いんだろうな。。。だから結局同じ様に言われたことをやっても何も上手くいかないとか。
俺がしばらくはてなを離れてる間に、増田削除に関するルールが変わってたんだね。
特定の人物への言及に対して、言及された当事者より削除の申立があった場合、原則として発信者への意見照会を経ずに削除を行うって、マジか。
http://labo.hatenastaff.com/entry/2014/09/04/182358
批判と誹謗中傷とを混同した暴挙としか思えないんだが、ブコメ見る限り反対の声が少ない感じなのが意外。
批判と誹謗中傷との混同という理論上の問題ばかりでなく、実際上の問題も多そう。
たとえば、俺がなにかしら増田を書いたとする。
これに対して、ブックマーカーの皆さんが湧いてきて、批判なり誹謗中傷なりのコメントをつけていく。
よくある光景だね。
で、皆さんのコメントを見た俺が、「ああ、全然分かってねえなあ」とか思いながらいくつかのidのコメントをとりあげて、「○○の意見はこれこれこうだから誤っている」と増田で批判(反論)する。
相手の態度によっちゃあ軽い煽りをいれるくらいのことはするかもしれない。
これって形式上は明らかに「特定の人物への言及」にあたるわけだけど、相手方からの申立てがあったら俺の反論は削除されちゃうわけ?
それはどう考えてもおかしいでしょう。
もうちょっと複雑なケースも考えられる。
俺が誰かのブログ記事なんかを見て、「それはおかしい」と思ったとする。
内容は、元記事が特定できない程度に一般化してて、それ自体では特定の人物への言及とは言えないもの。
これに対して、俺の記事を嗅ぎつけてきたブログ主さんとかが現れて、「これは私のあの記事のことを言ってるんですよね!」とかなんとかコメントをつけていく。
俺は正直者だから、「ボカしたつもりではありますが、念頭にはありましたね」と答えるだろう。
その削除は妥当といえるのか。
俺は妥当でないと思う。
親は教育熱心なひとで、物心ついたときから近所の公立図書館に連れられて育った。
一方、実質母子家庭のような家庭環境で、そこまで裕福でもなかったうえに、完璧主義者の母親であったので、自分でお小遣いをもらって好きなものを買うという環境でもなかった。
母については、わたしたちのために苦労してきたのだなと申し訳なく思うし他にも色々思うところはあるのだけれども、それは本題ではないのでここには書かない。
とにかく、娯楽のない状況だったので、図書館で本を借りるか、サンテレビの野球中継を見るかくらいしかお金のかからない趣味はなかった。友達に漫画を貸してもらったりもしたけれども。正直、そのことをさして不満にも思わなかった。
(我が家にお小遣い制度というものはなく、欲しいものがあればその都度申告して買ってもらうという方式だった。本だけは何も文句を言われなかった。ありがたいことだと思うけれども、正直この制度は欠点も多いなと思っていて、わたしは今でも本なら自分で選んで買うことができるのに、服を自分で選ぶことができない。いつかお金持ちになったら、ドンキでいいなと思った雑貨を罪悪感を抱くことなく好きなだけ買いたい)
持てる限りの記憶力をハリー・ポッターの登場人物のプロフィールと呪文の暗記に注ぎ込んだ小学時代。はやみねかおるも好きで、小学6年生のとき図書室で『踊る夜光怪人』を見つけて、この世にこんな面白い本があるんだと思った。
中学生のころに森博嗣を好きになり、京極夏彦や西尾維新を夢中になって読んだ。今思えば、お前森博嗣とか大してよくわかりもしないまま読んでただろという感じだし、今でもだいぶわかってないと思うんだけどさ。荻原規子も茅田砂胡も乙一も島田荘司も恩田陸も読んだ。辻村深月が大好きだった。とにかく、中学高校時代と、講談社ノベルスに関わりのありそうな本はたいがい手を出した。近所の公民館でパソコンスペースがあったので、時間があるときにはハリポタやダレン・シャンのイラストや考察サイトをめぐって過ごした。
高校生の頃『活字倶楽部』という雑誌をたまたま見つけ、そこで『銀河英雄伝説』という小説があることを知った。当時は絶版だったので、近所の図書館の地下書庫から出してもらって一気読みした。そのままの勢いで友人に「とにかく、最初の20ページは飛ばしてもいいから読め! 2巻までは読め!」とすすめた。銀英伝が好きすぎて、その夏にすくってきた金魚すくいの金魚たちに提督たちの名前をつけた。
「おかあさん、ヤンが死んでる!」
ちなみに銀英伝ではないが「巽」と名づけた金魚もすぐに死んでしまった。今の実家では、フリッツとオスカーとアーダルベルトだけが生きているんだけれども、どの金魚もそろそろ寿命という感じだ。
進学させてもらって、大学生になってからはもう少し色々読んだ。
際立った傑作というのはない気がするんだけれども、カポーティが一番好きだ(正直『冷血』は好きじゃないしもっと彼らしい作品があるだろうと思う。ちくまから出ている短篇集がいちばん好き)。サリンジャーも好きだし、4月に亡くなってしまったけれどアリステア・マクラウドという作家がもっと知られたら良いのにと思う。
3年ほど前、人生で読める本は限られているなということに気付いて、それからは注意深く本を選ぶことにしている。最近好きなのは皆川博子と津村記久子とコナン・ドイルだけど、だから何だというわけでもない。
そんなわたしも、四捨五入してもう30という年になってしまった。
好みのタイプは?という話題になり「本が好きで穏やかで裏表があんまない誠実なひとがいいな」と答えたら「聖☆おにいさんのブッダでいいんじゃね?」と返され、
「ルーピンは現実にいねーんだよ」と別の友人に説教され、正直今に至るまで毎日小説のことばっかり考えてて自分あたまおかしいんじゃないかなって思う。
これはただの、本を読むくらいしか趣味のなかった女の回想みたいなもので、なんのオチがあるわけでもない。
ただ、わたしは毎日ばかみたいに小説のこと――主に、その登場人物のことばかり考えながら生きている。
腐った妄想をしているわけでもなく、『白鳥異伝』の菅流かっこいいよなあ、とか考えながら生きている。
ハリー・ポッターの本命キャラが殺されたことを未だにねちねち言う。
島田荘司の作風の変化を残念に思い、既刊を全部読むのが勿体無くて法月綸太郎をちびちびと読む。
ちなみに、こんな感じの人間だったので、高校途中まではオタク仲間とつるんでいたんだけれども、一番好きなジャンルが違ったので在学中から疎遠になった。同じように本が好きな友人が1、2人いるので、彼女たちとは今でもよく話す。それは幸福なことだと思う。正直、他にも同じような本の趣味をしている同級生はいたし、当時はよくその話をした。ただ、彼女たちがわたしと同じように、未だに毎日現実かそれより重いレベルで小説の登場人物について考えているとは到底思えないので、積極的に連絡をとろうとは思わないし、話題が切り出せない。自意識過剰なんだろうけど、そんなふうに、未だに地に足を十分つけるわけでもなくふらふらしている自分をときどき怖く思う。
ジャンルを変えればどこにでもごろごろしている話なんだとはわかっている。長い上に固有名詞がだらだら出てきていやみったらしいのはわかっている。
追記:
ブコメありがとうございます。正直コメントがついたとしても「キャラ読みしかしてない腐女子」的なことしか言われないかなと思っていたので、共感してくださる方がいてびっくりしています。本当に、子どもに本ばっかり読ませても、子どもの性格によっちゃ、いつまでもこんな感じで現実に地に足つかない感じになる可能性もあるわけで、何事もほどほどが一番だと思います。黒出目金のジークフリードは早いうちに昇天し、コメットのフリッツは年をとってだいぶ動きが緩慢になってきました。
この世代のオタクの女の子には、アニメではなく講談社ノベルスや電撃、角川某レーベル系の文庫本、その他とにかく面白そうな小説を読んで、感想をお互いに共有しながら育ってきた子がいるのだということを少しでも知っていただけるとうれしいです。ミステリ界隈ではキャラ萌えだろうとよく批判されますが、みんな各々好きな読み方をして、好きな作家の新刊は未だに追いながらも、各々それなりに幅広く読んでいる感じです。今でも。すいませんだらだらと。
終電近くに友人と二人で地下鉄に乗っていたところ、50代後半(?)くらいのサラリーマン二人が大きな声で話をしていた。
誰それ(職場の女性社員っぽい)の格好が仕事にあるまじき格好をしててしかもそこのマネージャーは注意もしないとか、
そこから話は広がりそもそも今のあいつ自身(おそらく女子社員の上司)が身なりに気を使わないとか、
更に話は広がり部長クラスの顔ぶれが役員クラスの顔ぶれが、という感じにヒートアップされていた。
まあ、どんなギョーカイなのかどんな事情はあるのかなんてわからないし、仕事内容によっちゃ身なりに気を使わなきゃいけない場合もあるよねくらいに思って聞いていた(というか声がデカいので嫌でも耳に入ってくる)ところ、
友人がポツリと「あのおっさん出世できなかったんだな。今日みたいな真夏の糞暑い中馬鹿正直にスーツ&ネクタイをきちんと着用して何十年も一生懸命頑張ってきたのに」と言ってきたので、
まったくそうだよね。
自慢話する人って何か老けて見えちゃうし、場合によっちゃ「そんなもので鼻が高くなれるあんたが楽しいよ」みたいに思いたくなる。実際のびのび自慢話する人は団塊から上の年配の人が多い、私の経験したとこだと。
はてなも増田も、〔楽しくない自分〕がデフォだし、そうでないとならない縛りがあるのが何となくつまらない時は正直いうとあるけどさ。
あと他人の幸せを祝福する習慣がないと社会性が失われて大人社会ではヤバイことになるんだけど。
でも表面的な誉めあい鼻の高くしあいってサロン化してバカみたいで気持ち悪いし、はてな増田みたいなとこがあってもいいと思う。