はてなキーワード: 病原菌とは
「大学教師が新入生に薦める100冊: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」のCSVファイルを重複排除・ソート。出現数3回以上だけを抜き出してみた。記号が統一されていなくて漏れてしまっているのもあるかも知れない。(ゲーデル、エッシャー、バッハ─
の長音風記号はなぜか統一されていて、Amazonでも全く同じ表記)
差別的発言や行為ってものすごい非難されたり罰を受けたりして、差別主義者を差別すると自己矛盾が生じないか?と常々思っていたのだけど、なんとなく自己解決した。
たぶん世の中には"いい差別"と"悪い差別"があって、例えば人種差別は悪い差別だけど、能力による差別は(多くの場合は)いい差別に分類される。
あといい差別には悪や穢れに対する差別や人間以外に対する差別なんかが含まれている。
悪い差別も人種差別とかは有色人種が人間と見られなかったり劣等とみなされたりして起きた差別だから、
それが信じられていたうちはいい差別だったけど、そうではないので今では悪い差別になっている。
男女差別ももとは能力差別から派生したものだろうし、思想・宗教差別ももとは悪に対する差別だったと思う。
病原菌の保有者を隔離したりするのは穢れに対する差別の亜種かな。
たいていの悪い差別はいい差別(のつもり)から始まって、でもそのうちに相手は人間だし悪でも穢れてもないし能力も劣ってないよね、
現状悪い差別である人種差別を行う差別主義者は悪なので、人種差別主義者を差別することはいい差別として扱われているのだと思う。
つまり全ての差別主義者を差別すると矛盾が含まれるかもしれないが、悪い差別主義者を差別することはいい差別であって矛盾はないということだ。
もし差別をなくしたり今より減らしたかったら、「○○は悪だから差別してたけど、そうじゃないから差別やめよう。」じゃなくて「○○は悪だけど差別やめよう。」
ってなったら違うと思うけど、そこまでの寛容さを他人に期待するのはたぶん無理だろう。行き過ぎると社会を維持できないだろうし。
最近暇なので、ブックオフとかで安く買えそうな所謂古典的名著?的なものを
色々読んでみようかと思った。
なんとなく興味が湧いたやつをピックアップしていった。
適当につらつら書くので、参考にするなりツッコミを入れるなり好きにしてくれ。
あと他にもこれ読んでおけみたいなのがあったら教えて欲しい。
正直ありきたりのラインナップで面白みが無いと言うことは先に言っておく。
一部、古典でも名著でも何でも無いやつが混じっているが、
これはまあ適当にAmazon眺めてたら目に入って気にはなっていたので追加した。
それを買ってみようかなと思う。
全部読み終わるのにどれくらいかかるだろうなー
http://anond.hatelabo.jp/20130528133141
世の中には色々な考え方があるのに、立場や状況によってモノの見方が変わることを理解できない原因が想像力の欠如にあるというのは、そうだと思います。でも読書をしないと想像力が欠如するというのは、違うんじゃないかなー。読書ばかりしてる人は、それはそれで想像力が欠如するんじゃないかなー。この方の書いた記事を読んで、そう思いました。
この記事を書いた方は、「時間を消費した代わりに、現実世界で役立つ知識が得られないと、意味がない」という考えが根底にあるように感じます。そして、現実世界で役立つ知識を得るには、読書が最も効率良いと考えてるのではないでしょうか。
実際に体験せずとも、いつでもどこでも知識を得られるというのは読書の良い点ですし、効率が良いとも思います。でも本以外にも、テレビやラジオ、映画、インターネット、その他のメディアも、充分に効率が良いんじゃないですかね。また読書では得がたい、実体験から会得できるような知識もたくさんあるんじゃないですか。それに、何らかの体験から得られるものは知識以外にも、富とか名誉とか、その他の何かとか、それらにも価値がありますよね。
実際には体験せず、擬似体験で知識を得ることもできます。私はビデオゲームが大好きなんですが、ビデオゲームにはそういう可能性があるように思ってます。わかりやすい例だと、シリアスゲームと呼ばれてるようなやつですね。『シムシティ』とか、そういう可能性を感じます。
ところで近ごろ私は、『銃・病原菌・鉄』の文庫版が出てたので再読してるんですけど、いやー、面白い。この本を読んでると、『シヴィライゼーション』というビデオゲームは実にうまく人類史をデフォルメしてるなあと思えてきます。
「肥沃三日月地帯とかズルくね? メソポタミアの連中はチートだろ、チート。最初に建てた都市の周りに、小麦と牛と馬と豚と羊と、全部あるじゃねえか。ワシの周囲にはトウモロコシしかありゃしねえ!」(インカ帝国のワイナ・カパックさん談)
読書以外で価値観の壁を超える方法が理解できないという点で、えらく狭量な方だなあと思いました。この方が書いてるのは結局、「趣味が合わないと話ができない。自分の趣味に合わせてみんな本を読め」ということじゃないですかね。
ゲームも新興宗教も、それ自体はコミュニケーションの妨げにはならないはず。コミュニケーションの妨げになるのは、自分の見える範囲しか見ず、それを絶対だと根拠なく信じこもうとする心持ちじゃないでしょうか。定番の決まり文句を言うと、書を捨てよ、町へ出ようってことですかね。そしてビデオゲームを買って家に帰ろう。今なら、『真・女神転生IV』が面白いらしいですよ。
君に『毎日良く頑張ってるで賞』を贈呈しよう。君は素晴らしい。
素朴な疑問なんだけど母親は何故いないのー?
1.ある日、同じように汚い行動を取る父親を前に、真剣だが何だか悲しそうな表情でうつむく。
2.父親が気になりだしたタイミングで、父親への日頃の感謝の念を伝える。
3.突然のことに動揺と喜びの感情で目が点『(・_・;) ←こんな感じ。』の父親に、実はいつも気になっていた汚い行動を指摘する。
4.しかし、怒り出す可能性もあるので、タイミング良く感謝の念というジャブをを打ち続け敵の行動を止める。
5.最後にこんなこと言ってゴメンナサイ(涙、演技) 感謝してるしなかなか言い出せなかった・・・っと相手の心に全体重を込めてストレートパンチを決める。
6.敵はかなりのダメージを受け、更に汗が滝のように流れ出し、君の布団はもうオシマイだが、敵に勝つには耐える時間も必要だ。
7.反省し、風呂に入り衛生的になった父親を布団に寝っ転がせてやる。または、汚い行動を取りづらくなり、君の布団は平和と取り戻す。
8.パパが(´・ω・`)ショボーン ←日々こんな感じで生活するようになったら、敵に塩(プレゼント)を送る。日頃の感謝の念を形と行動で示せば敵は完全に君の思いのままだろう。
これ読んで思い出したが、仮に「どこでもドア」が実用化されても、殆ど使い物にならんと思う。
子供の頃に父が言ってたが、離れた二つの場所をいきなりつなげてしまうと、ほぼ同じ気圧差じゃなければ高い方から低い方へ凄まじい風が吹き荒れて、人や物が通れるレベルじゃなくなるそうな。作中では南極に行こうとしてのび太の部屋に猛吹雪が吹きあれる、なんて描写があるが、実際はそれどころじゃないとか。
気圧の問題は人体にも影響を引き起こすので、たとえば登山や飛行機の場合は段階的に変化していくから人体は対応出来るが、一瞬で気圧がジャンプするように変化する状況に人体が耐えらるかどうかは微妙な所らしい。たとえば海抜0メートル地帯からいきなり富士山の山頂に行ったら人間の体はどうなるか。
あと病原菌や害虫等が容易に行き来できてしまうから、おそらく法律的に少なくとも人間の通行は禁止される事になるだろうとも言っていた。
いじめを根絶することは非常に困難。少なくとも今まさにいじめられている自分が恩恵を受けるということはない。しかし、未来永劫というわけではない、人を介して媒介されるのが病原菌なら社会(共同体)を介して媒介されるのがいじめ。天然痘は撲滅された。
いじめは、食物連鎖、封建制度、カースト制度ではない。システムから抜け出すことは可能。当事者(いじめる側、られる側)・調停者(先生や親)・傍観者(大多数の他人、クラスメイト)という3者の関係が有ることを理解する。
勉強はできたらやったほうがよいが、無理には必要ない(学業という重みからの開放)。何でもいいからやれることをみつけることが大切(現実逃避手段やストレス解消手段になる)
いじめをうけたらやり返さない→権威を利用するときに効果が現れる!(相手に手を出させる、証拠をつかむくらいの狡猾さが必要)写真に収めたり、スマホなどで録画、録音も有効
なるべくオプティミズムを保つ→いじめとか誰でもできる経験じゃない。物事を前向きに考えるようにすることは重要(皮肉屋になっても良い)
人間関係:生徒との関係より、教師との関係を優先すること
弱いものがいたらいじめたくなるのは人間性から切り離せない。加害者個人だけの問題だと思いつめない
あまり被害者面をしない(しても良いが、時と場所を選ぶこと、人としての尊厳は保つこと)
あまり「いじめられている自分」を意識し過ぎない→挙動が不審になりやすくなり、逆効果(進んで餌になりに行くようなもの)
弱者のステータスを上手く利用することを考える(やりすぎは禁物、信用をなくす。あくまで交渉のためのカード、ブラフとして用いる)
自殺というカードはある意味いつでも切れる一方で、挽回の機会を永遠に失うことになる(リスカなどの未遂行為は禁止)。だから他の手を尽くしてみるのが先
更生するにはいろいろとカネがかかる→保険と同じで事前に対策するのは無駄ではない
いじめに関する精神的なケアを両親に期待しない→事が終わった後の関係に差し支える(例えば将来親との間に揉め事が起こった時に、昔のことを持ち出されるといろいろ苦しい。良い関係を維持するのは難しくなる)
両親には学校との連絡や送迎、金銭が絡むことなどだけ頼る(立ち直るにはカネがかかる、そうなってからでは遅い、普段から子どもとのコミュニケーションはしっかり取る、それで必ず防げるわけでもないが)
いじめを傍観するという行為を責めることはできない(積極的にいじめに介入するには誰にでもできることじゃない。同時に、このレトリックは多数派である傍観者を敵に回さないためにも有効)
言葉を大切にするという姿勢をもつ。口汚い言葉を浴びせられてこそわかることである
いじめられる側にも、問題があるというのは認めにくいが一理ある(僕は何もしてないのに〜はたしかに事実だが、それといじめられることにはあまり関係はない。独善に固執しないよう心がける)。
昨夜、おとなしく地に座している鳥を発見した。体のどこかしかを負傷したらしく、上手く飛べなくなっているようだった。特に気にする必要も無いし、そのまま放っておいても問題なかったのだが恐らくの垂れ死ぬのだろうと思い、気まぐれで連れ帰ることにした。動機としては、私の心に内在する少量の善意や同情なる心理的情動機能がものが作用した為だろう。半日程度世話を焼いてみたが、どうやら餌を食べられないようで、何を与えても口に入らない。このままでは外でも中でも関係無く死ぬと判断し、結局野に放して自由にさせてやることにした。飼育が困難なのも理由の一つではあったが、何より鳥自身が外に出たがっていたことが最大の理由となった。やはり空を飛び、空を愛する存在にとって建築物のような閉鎖的な空間は息苦しく感じるのだろう。この鳥の行動を見た時、私は判断を誤ったと感じた。そもそも動物を保護しようとする行為自体、偽善行為なのである。普段我々は鳥はもちろん、牛や豚の命を殺し、料理の材料として扱っている。それは、我々にとって生き物ではあるが、食べ物としても認識しているからだ。何かを食べる時、その食べられる物質に命が宿っている場合は、その命を殺傷しなければならない。人はこうした殺伐とした生存的事情から、生き延びるために生物の命を原始時代から狩り続けてきた。命を弄ぶ魔の手は陸上の生物だけでは飽き足らず、海上の生物の命まで奪い、無惨に横たわった肉を調理し、欲の限り貪ろうとする。猟師は自らの殺傷行為を職業として正当化し、身を隠しながら己の飢餓を満たしてくれる野生の動物を虎視眈々と付け狙う。漁師は海上に捕獲用の網というトラップを張り巡らし、獲物が引っ掛かって人間の為の供物と成り果てることを満面の笑みで待ち構えている。動物園では野生から拉致してきた動物を見世物として扱い、サーカスでは人間を喜ばせるために動物自身の意志とは無関心に芸を仕込み、ペットショップでは金銭的価値を付加し、奴隷扱いする。このような半ば常識とされている事態を直視すれば、動物を保護するということが如何に欺瞞に満ちたものであるかは周知の事実であろう。まして動物愛護など所詮個人的な自己満足である。鯨を保護し、鮪を保護しない愛護団体にどれほどの善意が存在するのだろうか。そんなものは個人的劣情に基づいた偽善だと気付く筈である。ひとたび鯨が致死性の高い病原菌に感染すれば、愛護団体は彼らの愛する鯨達を鳥インフルエンザにかかった鶏の如く、容赦無く殺処分し捨てるだろう。まして愛護する対象が百獣の王とまで呼称されているライオンともなれば、恐怖に支配されてムツゴロウでもない限り近寄ることすら困難だろう。利己的な彼らの心に愛などという高尚な成分は含まれていない。愛という概念は常に利他的、自己犠牲的であり、決して個人的欲求のみを満足させるものではない。特定の動物を愛し、保護しようとする彼らの行為はまさに個人的欲求が反映された結果であろう。愛とは、生きとし生ける全生物に反映されるファクターでなければならない。人は、偽愛をもって動物の命を弄んでいるのである。この観点で進めると、私の行為も所詮は偽善ということになる。結論として私は判断を誤った、ということだ。全てではないかも知れないが、人間が語る愛とは、大抵が自身の身の安全保障が約束された、ご都合主義に則ったものだと言えるのではないか。現実に存在する人間の心は、ドラマや映画のように美化できるものではない。しかし、「やらない偽善よりやる偽善」ということわざが存在するように、時と場合によっては同情に駆られて衝動的な行動を形成することもあるし、何より人の善意が全て偽善だと一蹴するのも暴論だろう。それでは救われないし、そうした偽善で命が救われるのも確かである。従って全否定するスタンスまでは取れないが、「善意が如何なる成分で構成されているか」を吟味しようとする姿勢ぐらいは覚えておきたいものである。この論述は非常に理想的である。現実的でもなければ実存的でもない。この文章はただ自身の体験を交えて、安定を求めて嘘や欺瞞をバラ蒔きたがる人間の心理という厄介なものに少々メスを入れてみただけである。
主に精神的な暴力に見舞われていた。「キモい」腐るほど聞いた言葉だと思う。
よく「キモい」と言われていた。実際鏡を見ると肌がキモかった。どうしようもないなと小学校2年にして思った。悟ったような心地だった。どうしようもないのでどうしようもないとしか思わなかった。
だが人にいじめられるのは辛かった。
でもそれよりも辛いことがあると知った。
ある時気付いたが、俺は何もしてなくとも、俺の存在がアンタッチャブルになっていると知った。俺の机や椅子が病原菌の発生源扱いされているのだ。『気持ち悪いのが移る』といった、菌が移るとか、放射能が移るとか、そういった扱いだ。
いつのまにか俺自身が罰ゲームの道具と化していた。同級生が遊びで罰ゲームの流れになった時に、罰の度合いによって、俺の椅子を触る、俺の机を触る、俺の頭部を触るというふうに設定されていた。俺と握手をするといったものもあった。俺と握手をすることは、それだけで極めて罰ゲームの対象になるほどの扱いだったらしい。とにかく、俺個人だけが他人と接することは罰に値する行為と設定されていた。
懐かしい話。
小学校給食の時、俺に絶対に配膳をしないで欲しいと頼まれたことがある。私がやるから!と。
同級生の転校見送りで全員と握手。俺だけ飛ばされた。
席替えの時、俺と隣の席になっただけで泣いた女子がいた。俺の席は地雷扱い。とても悲しかったが、俺よりも泣いている女子が被害者扱いされていた。○○ちゃんを泣かすなと言われた。なんだか自分が犯罪でもしたような気持ちになり、謝った。
林間学校。同じく略。
中学に入ると更に悪化した。ニキビが酷い。もうどうしようもないので諦めることにした。
ちゃんと洗顔してるの?などと言われたり、不潔にしてると嫌われるよ?と説教されたりしたが、説明すら面倒なので、他人との関わりは事務的に対処することにした。
小学校の頃は泣くこともあったが、それはなくなった。「キモい奴」の感情は、それがどんなものであっても、須らくキモいと扱われることを学習した。泣いても誰も慰めてくれるわけではないのだ。「うわ、泣いてるよキモーイ」という言葉は飛んでくる。泣いたとき、誰かに慰めてもらい、誰かに甘えることができるのは、泣き顔のかわいい子供だけに与えられた特権だ。かわいいは正義。
高校の時にネットを始め、その時既にあやしいは現役ではなかったが、油日記(復刻版)を発見した。俺の虐められ方とは違ったし、創作だが、同調した。その後2chに行き着き、喪板などを読んだ。わりと面白く、同胞感を得た。
基本的に話したことは「一般人」の世界観に沿って理解されると学習した。
こういった経験がある。
自分は彼女が欲しいなどと他人に表明したことは一度もないのだが、何故か「つまりさあ、彼女欲しいんだろ?それならもう少し清潔な格好をしろよ!それくらいしないのに彼女が欲しいと考えるのは甘えだろ!くどくど・・・」と説教された覚えがある。
意味が分からない。はじめの「つまり」は、何がつまりだったのか今も理解出来ない。
他にも「それオナニーのしすぎでしょ? エロゲ? もう少し運動したほうがいいよ 汗かくと肌の調子良くなるって知ってる?」
皮膚炎が故に面倒なので、オナニーとか殆どしないんだが。下手に汗をかくと悪化するんだが。ちなみにオタ趣味も特にない。
ここまで来るともうどうしようもない。そもそも思ってないことを俺が思ってるかのごとく決めつけて説教してくるわけなので、反論すらできない。反論しても「自分のことを隠すのはよくないぞ!友達が出来ないのは自分から拒絶してるからだよ!」と、ズレた説教をされるので、もはや相互理解不能であるとして諦めることにした。
大学に上がる頃には最早、人と接する場合は出来るだけ機械的事務的に接する癖がついていた。情緒的交流を行うと、キモがられると理解したから。キモいやつが「人間らしく」話しかけるとキモがられるんだ。経験則である。だから機械的事務的な交流に徹していた。もちろん打ち解けたいとかいう欲求はあった。でも、無理だから。ずっとキモがられて拒絶されてたから、諦念。実現不能な欲求は消すに限る。
で、俺は出来るだけ全般的に対人交流では機械的事務的に接していた。その中で事務的な理由で同学年女性と交流する必要が出てきた。それで事務的に交流をしていた。
その後数カ月したある時に女性の友人に話しかけられた。「下心」を持って○○さんに接するなと。嫌がっている。貴方に個人的好意は持ってないし、もっと言えば生理的に気持ち悪い、と。これ以上するならセクハラでもあるから気をつけて欲しい、と。
・・・は?となった。意味が分からない。俺は、出来るだけ、機械的、事務的に、接してたつもりなんだが。当然俺だって人間なので、感情的な部分が透けて見えることもあるだろうが、だが、一連の事務処理の流れの中でのみの対人交流だったはずだ。
弁明はしようと思ったが、「またか」という思いが強く、即諦めた。どうせこのタイプの「勘違い」をされたら、弁明不可能なのだから。そもそも無い下心でも、そんなものは無かったですと言った所で、もっと本心を認めろよ!自分のことを隠すな!とクソ下らない説教をされる経験が頭を過ぎった。
「下心」が見え透いていたらしくて申し訳ないね。自分は下心どころか、ほとんど、誰かに「本心」を表明しようとした覚えすら無かったつもりですが。その「本心」も、「セックスしたい」といった類ではなくて「もういい加減に誰か助けてくれないか」というものなのだけども。
セックス欲求は殆ど無い。ある欲求といえばただ。人並みに人と接し、出来るならむしろ、子供の時に、いじめられてた時に歳相応に人に慰めてもらい、もっと言えば甘えたりしたかった。それくらいである。
大学はやめようと考えたが、既に3年次だったしやめなかった。ここまで事が重なると人間、耐性が付くものだなと思った。
就職は女性との関わりが少ない職場となった。非定型発達的な気質を感じる職場で、その後はいくらか楽だった。今まで俺を容姿で差別してきた人間は主に女性だった。ただ、女性でも自閉症圏に属するような雰囲気を醸し出す個人には差別されなかった。推測だが男性より女性のほうが、特に対人コミュニケーションに長けた女性ほど、生理的に受け付けない人間への嫌悪感が強く、またそれを社会的に排除することに抵抗が無いのではと考えている。男性では女性に対して積極的“女性にやさしい”ほうが露骨に差別的だった。
しかしセクハラとはいうが。懐かしいな。小学校での、あの罰ゲームにそっくりだ。
俺はその時もまた加害者として扱われてたんだろう。だが俺は何の被害によって傷ついているんだろうな。俺の被害は誰も恢復してくれない。被害とすら扱われていないし、俺は常に加害者の地位に押し込まれている。
生理的にムリで申し訳ない。“俺が加害者“で悪かった。キモい、近寄らないで、と思わせてしまったなら謝るよ。
この社会では、人にキモいと思わせる雰囲気があったことが、存在するだけでセクハラでスティグマに値するんだろう。
生まれてきて悪かったね。
いや、生まれた時代が悪かったのか。
http://anond.hatelabo.jp/20111017090756
生活保護の年収もしくは月収を下回るワーキングプアには、差額の給付金を出すなどすればいいではないか。
憲法には、全国民には人権があり、最低限度の文化的生活と健康を保証する国家の義務が明記されている。ワーキングプアな若者を見ると、この定義では国家は義務を果たしてないともいえる。
また、貧困層・ワーキングプアの増加は、感染症の保菌者の増加を招き、国家の疾病保安の関係からも好ましいことではない。多剤耐性菌、あるいは現存する抗生物質の効かない結核などが貧困層の間で保菌者が増えている。病原菌、ウィルスは、絶えず保菌者の体内でウィルス同士交雑したり、変異したりして新種、亜種を作り進化を続けていることからも、、、全国民の安全を脅かすものとなるだろう。
NHK クローズアップ現代の『どう教える”放射線”』にて、放射線に関する出張授業を取り扱っていた。
「アルファ線がヘリウム原子核のこととは知らなかった(意訳)」とインタビューに答えていて、
「おいおい、教師が教える内容を知らなくてどうするよ!?」とツッコミをいれたくなったが、ふと考えた、
(あれ?中学の理科で原子核とか放射線って習ったっけ?もしかして、高校では?)と。
学習指導要領を見ると、案の定、中学ではあくまで「物質は原子からなる」レベルの話しかしておらず、
高校になって
理科総合A「原子力に関連して,天然放射性同位体の存在やα線,β線,γ線の性質にも触れること。」
物理II「光や電子の波動性と粒子性,原子や原子核,素粒子における現象を観察,実験などを通して探究し,量子的な考えなど基本的な概念や原理・法則を理解させる。」
と定めているに過ぎない。
いやいや、これまずくないか?
高校生が通常のカリキュラムにおいて、放射線のことを学ぶ機会は理科総合Aか物理IIしかない。
自分が高校の時、1年は総合理科B(生物・地学)が必須で、2年から文系理系に分かれ、理系科目は物理・化学・生物・地学からの選択だった。
現在の一般的な高校も同様のシステムとすると、「理科総合Aを受けさせない高校に通っている、文系高校生または物理IIを選択しない理系高校生」は放射線に関して、中学生と同程度の知識しかない(=冒頭の教師みたいに原子核云々を知らない)ということだ。
うわあ、これじゃあ放射線に関するパニックが広がっても仕方ないわ。
「放射能が染る」とか言っちゃう人が出るのも当然だわ。
厚生労働省は10日、食べ物を落としてもすぐに拾えば食べてもいいとする慣習「3秒ルール」を禁止する方針を固めた。微量でも病原菌が付着する恐れがあるためで、食品衛生法を改正し、罰則をつけることも検討中。乳児やお年寄りなどが深刻な食中毒になるのを防ぐための措置だとしている。
3秒ルールは、主に高校生や大学生など、若者の間で広く知られている。はしなどでつまんだ食べ物が床などに落ちても、3秒以内に拾えば病原菌の付着もわずかで問題ないとするもの。「5秒ルール」など、地域によっては設定された時間が微妙に異なるものもある。
食中毒問題は今年に入り、牛生肉を加工した食品「ユッケ」による死亡例が出たことで注目が高まっている。厚労省によると、同省が今月、ユッケやレバ刺しの提供を禁じる措置を打ち出したことについて、国民からは「危険性が少しでもあればダメだというなら、3秒ルールも問題ではないのか」とする指摘がファクスで1件寄せられていた。
このため、厚労省の研究班が過去30年を調べたところ、3秒ルールによる食中毒が15件起きていたことが判明した。新潟県の男子高校生が自宅台所の床から2.5秒で拾い上げたマグロの刺し身を食べて下痢をした(1985年4月)▽埼玉県の男子高校生が校庭の砂場から1秒で拾い上げたアイス(ガリガリ君)を食べて下痢をした(1999年8月)▽福岡県の男子大学生がトイレ個室の床から2.2秒で拾い上げたメロンパンを食べて1週間入院した(2010年9月)――といったものだという。
禁止規定を盛り込んだ食品衛生法改正案は年明けの国会に提出し、実際の導入は来年秋ごろの予定。他人が3秒ルールを続けているのを見た場合には保健所に通報することも義務づけ、違反した場合には、懲役半年と罰金20万円の罰則を検討しているという。
厚労省研究班の班長をつとめる東京衛生大学の清木広教授(食中毒防止学)は「今のところ死に至るような事例は見つかっていないが、3秒ルールに慣れた人が親になって、抵抗力の弱い子どもに不潔な食べ物を食べさせたり、自分自身が高齢化して免疫力が弱ってきたりすれば危険だ。不衛生なものを食べるような不適切な慣習を放置できないと判断した」と話している。