はてなキーワード: 権力とは
女だって包丁を持って殺人なんてしまくってるぞ。単純に力不足で殺せないだけで。権力を持った女が人殺しするなんて、日本赤軍をみれば明らかだろ。それに「歌舞伎町のメンヘラ殺人事件」「阿部定事件」とかあったけど、女は不意打ちしないと人を殺せないの。力不足で。女が刃物を使った犯罪が多いのは、銃は力不足で使いこなせない、鈍器も力不足で持ち運べない、となると失血死しか殺人手法がないからだぞ。
色んな経験してきて思うのは、名誉男性の女とそうじゃない女の対立がほとんど
男からどう思われるか?を中心に思う女が
自分たちのやりたいように生きる女を気に入らないみたいなケースはすごく良くある
例えば飲み会で誰がお酌しなかったとかサラダ取り分けなかったとか…
名誉男性の女たちによるそういう陰口は何回も聞いてきた
「気が利かない」というもっともらしい切り口で
逆のケースもわかりやすくて
男が不在でも、だ
ちなみにヤリマン(仕事じゃなく)の男好きは大体名誉男性になる
マンコ使って男に守られてきているので、男に擦り寄らないと生きて行けません
権力者ってのはつまり30代女性とか、自分の娘が高校生くらいの40代男性みたいな
16歳で風俗に行っても別にいいと思う。それまでは義務教育で最低限の事学ぶんだし
俺には婚活してる女性より普通の生活送ってるJKの方が性や結婚についてまともな価値観持ってると思うよ
と言うよりもっと高校生に権力持たせていいと思うわ。投票権、契約権とか
ひろい意味でいえば、宣伝とは、ある事実や思想を、文書やラジオや講演などを通じて大衆に知らせる方法である。だから、一つの目的をもっておおぜいの人々を感化し、大衆をそれにかなったような行動に導くための報道は、すべて宣伝であるといってよい。しかし、前にも言ったように宣伝は、きわめてしばしば悪用される。そういう悪い意味での宣伝とは、利己的な目的をわざと隠して、つごうのよいことだけをおおぜいの人々に伝え、それによって自分たちの目的を実現するための手段なのである。
たとえば、ある種の雑誌や新聞がある政党と特別の関係を持っているとする。それらの雑誌や新聞がその党から金を出してもらっているという事実を隠して、この党の主張に有利なような論説や記事を載せるとする。その場合、それらの新聞雑誌はこの党の宣伝の道具になっているのである。そのほか、おかかえの弁士が大衆の考えを変えさせるために派遣されることもある。多くの資金を投じて映画や芝居や小説を作らせ、それを見、それを読む国民が、しらずしらずのうちに一つの考えだけをほんとうだと思いこんでしまうこともある。
日本国民に大きな悲劇をもたらしたあの太平洋戦争でも、政府や軍部が権力と金とを使って宣伝したために、初めは戦争をしたくないと思っていた人々も、だんだんと戦争をしなければならないという気持になり、戦争に協力するのが国民の務だ、と信ずるにいたった。実際には負け続けてばかりいたのに、まことしやかな大本営発表などというものにあざむかれて、勝ちいくさだと思いこんでしまった。戦争が済んで、これほどまでにだまされていたのかとわかっても、あとのまつりであった。宣伝の力の恐ろしさは、日本国民が骨身にしみるほどに知ったはずである。
それは、国民をめくらにし、権力者が宣伝機関を独占する最も危険なやり方である。言論機関に対する統制と検閲こそ、独裁者の用いるいちばん有力な武器なのである。
だから民主国家では、かならず言論・出版の自由を保障している。それによって国民は政府の政策を批判し、不正に対しては堂々と抗議することができる。その自由があるかぎり、政治上の不満が直接行動となって爆発する危険はない。政府が、危険と思う思想を抑圧すると、その思想はかならず地下にもぐってだんだんと不満や反抗の気持をつのらせ、ついには社会的・政治的不安を招くようになる。政府は国民の世論によって政治をしなければならないのに、その世論を政府が思うように動かそうとするようでは民主主義の精神は踏みにじられてしまう。
政治は真実に基づいて行われなければならない。しかも、その真実は自由な討論によって生み出されるということこそ、民主主義の根本の原則なのである。甲の主張と乙の立場とを自由に討議させる。甲は宣伝によって国民の心をひきつけ、選挙でも多数の投票を得て、乙に対する勝利を占める。しかし、もしも甲の宣伝が真実でなかったならば、その勝利はいつまでも続くだろうか。国民が真実を発見する能力を持たなければ、真実を言った乙の立場はいつまでも浮かぶ瀬はないであろう。これに反して、国民にその力さえあれば、甲の人気はやがて地に落ちる。そうして、少数だった乙の立場の方が有力になってくる。いや、もしも国民がほんとうに賢明であるならば、初めから甲の宣伝にのせられて判断をあやまることもないであろう。
それでパラリンピックは強行されたとして、今同じコロナの状況だったとして、「オリンピックだけでも中止にしろ!」って言ってたと思う?
仮定だけど、たぶんそういう声は多く出てたんじゃないかなと思うんだよね。
今、パラリンピックだけでも中止しろ!って声はそんなに大きくないと思うんだよ。もちろんなくはないだろうけど、そういうコメントが例えばブコメにはあまり無いかなって。
その場合、そのオリンピックとパラリンピックに対する中止しろ!って思う違いって、なんだろう?
観客数が違うから?無観客だよね。
それにオリンピックやってるから飲みに行っていいんだ!っていう人が、パラリンピックなら飲みに行っていい言い訳にしないと思うかな?そんなことはないんじゃないかな。
はっきり言うね。仮定の話にはっきりというのは矛盾しているが、とにかくはっきり言うよ。それが【差別意識】なんだよね。
オリンピックもパラリンピックもアスリートに違いないしそこに差はないよ。ここは理解できるよね。
じゃあなぜパラリンピックは中止と言ったらいけないと(仮定の)あなたは思ってるのか?よく考えてみよう。よーく考えてみよう。なぜ中止と言うのか、言わないのか。その動機はなんなのか。
もし外圧に怯えてそれを言えないなら、それって世の中が言論を抑制してるってことになるよね?
君が大統領で、オリンピックは諸事情で止められなかったけどパラリンピックは止められる状況だとしたらどうする?またその逆なら?
よく考えてみて。差別ってのはみんなの心の中にあって、それは個々人が向き合わなきゃならない。偉い、権力のある連中だけ変われば変わるものじゃないんだ。言うべきことなら、外圧なんて気にせず言うべきだし、外圧があることそのものを糾弾しなきゃ。
ここで跳ね返って「パラ中止も主張してるし!」とコメントしてそこにスターをつけても、あなたの心の中は変わらない。差別をなくしたいならどうしたらいいか?よく考えてみて、行動して。世の中はどうあるか、どうあるべきか。
善か悪かと知能が高いか低いかを混同しちゃう人多いけど、長々と権力の座に居座ってるからには彼ら自身の目的を達成して美味しい思いが出来る行動を実行できているわけでな。
バカではない。
のらりくらいかわしつつ、最終的に無理っぽいですねって事で中止に持ち込むつもりだったんだろうなぁと
でもワクチンを人質に取られる格好で五輪を強行せざるを得なくなった
今回はEU(とイギリス)がかなり五輪開催を強く要望したっぽいんだよね
IOCは腐敗してる癖に無駄に権力を持った組織である事は確かだが、かといって現状で五輪を強行できる程の政治力は本来は無い
今回の場合はそれがEUの主要国(とイギリス)だったって事だわな
対中国のメッセージがやたら盛り込まれている事からも、今回の五輪は特に政治色が強い
まあ開催すると決断しちゃった以上、菅さんに責任が無いなんて事は絶対ない
貧乏くじだからといって、くじを引いた人間がその責任から逃れる事はできないからだ
結局ワクチンも出荷を絞られちゃったし、外交的に失敗だったと言われても仕方ない(他に選択肢があったとも思えんが)
自前でワクチンを開発できていれば、五輪中止で押し切る事もできたかもしれん
そういうところへの投資を怠ったツケを今払っているという事なんだろう
名古屋市民なんだが、河村市長は当然前々からいろいろと文句があったし、全く支持してないよ。
こないだの選挙の時もその前のときも対抗馬の方に投票した(その前は選挙権がなかった)。
実際前回の選挙は結構な接戦だったと思うし、「名古屋市民全員」の責任にされるのは納得がいかない。
都知事の行動に対して「都民の責任」にするって流れも最近何度も何度も行われていて、そのたびに自分は投票してないと
主張する都民も現れるってのが頻発してるけど、それと同じ話じゃん。
いい加減、「全員が当選した人に投票した」わけでもないことに留意してほしいんだが。
そりゃ自分が政治的影響力を持った人物で、市長選を左右できる何かがあったはずなのにしなかったとかなら責任の1つでもあるのかもしれんけど、
自分みたいな底辺層にはそういう権力なんてまったくなく、ただ一票を投じるだけだった。それこそ「トヨタで勤務してるような」上級の人間とも事情が異なる。
まあエリートなはてなーからしたら、そんな層に居る事自体が「けしからん」なのだというパターンなのかもしれんが。
そもそも名古屋市長選挙なんて、都知事選とかに比べて小さい扱いで、候補者も都知事ほどインパクトのある方が出てきているようには(失礼ながら)感じない。
市長はまだそれなりの人が出てきてくれたが、県知事なんて事実上の信任投票だった。
市長の対抗馬として出た人も、正直市議として実績があるからこそ、逆に選挙に出ることで「実績ある市議」が一人居なくなるわけで、それは名古屋市にとってはたしてプラスなのかと思った。
遂に臆面もなく躊躇すらもなく明確に自国民の命を切り捨てる段階に平然と足を踏み入れた菅義偉政権ですが、ここまで来ると人民が自らの生命と権利を擁護する為に享有する自然権たる抵抗権を行使して排除してもいい対象ですよ。民衆の生命をなおざりにする政治権力は人類史に共通する不倶戴天の敵です。— 異邦人 (@Narodovlastiye) August 4, 2021
抵抗権ってフランス革命とかアメリカ独立戦争のことを指すものだと思ってたけど、
ジョン・ロックに見てもらいたいもんだ
これはid:muchonovによる、id:rag_enさんのエントリ muchonovさんの提示した「判断力が未熟だから」論法では、年齢による“パターナリズム”を肯定するのは無理があるよという話と、あとリテラシー - Click Game. への返信です。
まず、rag_enさんがご引用くださっている、自分が増田で書いた文章「子供の権利は制限されているし、性行為に伴うリスクを判断できない」の位置づけなんですが、これはmuchonovが何か新しい提案をしたぞとか、今からそういう社会を作るぞ、という内容ではありません。このスレッドの親増田の「なぜ、子供が性を売ってはいけないのか」という疑問への応答として、今の社会がそういう風になっている理由として、法律的・社会的にこのような背景がありますよ、と説明するものです。言い換えると、これは〈べき論〉ではなく〈である論〉のつもりで書いたものです。このことは、ここから先の話とも繋がってますので、ひとまずスタート地点としてご認識ください。
rag_enさんは以下のように、「『社会的コンセンサスがあるから』という理由でのパターナリズムの肯定」や(判断力が未熟な当事者を保護する)「手段としてのパターナリズム」自体を強く批判されています。
未成年に対しては愚行権を含む自由権に一定の制約を課すべきだという社会的コンセンサスがあるからです。未成年に対しては人権を制約するレベルのパターナリズム(保護者的統制主義、当事者の能力やリソースの不足を社会が保護者として補い、庇護する)をとってもよいし、分野・状況によっては積極的にそうしなければいけない
いやもうこれ、『社会的コンセンサスがあるから』なんていう、ふにゃふにゃな理由での“パターナリズム”を肯定してしまっているの、控えめに言っても完全に思考が狂ってますよね。
そもそも『「判断力」によって峻別すべき』だと仰るならば、「ペーパーテストして免許制にでもすれば?」でほぼほぼ終了する話なわけです。『「判断力」によって峻別すべき』ならば、その「判断力」をテストする、というのはどう見ても最も正道な手段なのですから。“パターナリズム”などという手段を用いる必要は全くありません。
ここを読んでいて、最初「ん?」と混乱してしまったのですが、もしかしてrag_enさんには、「パターナリズム」という概念について重大な誤認がありませんか。rag_enさんが「“パターナリズム”などという手段を用いる必要は全くありません」という主張とともに、代案として展開されている「判断力によって(ある問題についての当事者能力や責任能力の有無を)峻別する」、そして、判断力がないとみなした対象の自由権を(当人の保護のために)何らかの形で制限する…という考え方は、まさに『パターナリズム』そのものではないですか?
現行の日本の法律が、年齢によってその人物の判断能力を推認し、それが十分でないとされた年齢に属する児童を保護するために彼らの自由権を一部制約するのも、別の方法で判断能力を吟味・裁定し(たとえば精神的な障害を持つ人や依存症に苦しむ人や認知症患者などを、家裁の判断によって成年被後見人とすることなど)、彼らを保護するために彼らの自由権を一部制約するのも、どちらも法学の分野でいう「弱いパターナリズム」だと思います。
憲法学の世界で「パターナリズム」といえば、まず未成年者の人権制約の場面が思い浮かぶ。すなわち、十分な判断能力のない未成年者については、親が子に干渉するようなやり方で、国が未成年者の人権を制約することが認められると考えるアプローチである(1)。たとえば佐藤幸治は、未成年者の人権制約について、未成年者が「成熟した判断を欠く行動の結果、長期的にみて未成年者自身の目的達成諸能力を重大かつ永続的に弱化せしめる見込みのある場合に限って正当化される」とし、これを限定されたパターナリスティックな制約としている(2)。このようなパターナリズムは、個人の判断能力の不十分さを補うために後見的措置を行うことから、弱いパターナリズムと呼ばれる(3)。
そして、未成年や年齢が低い児童の判断能力が不十分とみなされる理由は、法学の世界では、彼らの判断が、それ以上の年齢層による判断に比べ、①知識や情報を得た上での判断・②適切な理解に基づく判断・③強要なき自律的判断・④実質上も自発的な判断ではない可能性が高く、それによって、当事者自身が想定しない結果や不利益をもたらすリスクが懸念されているからです。[^1]
[^1]性的自己決定に関しては、古い調査ですが、10代の人工妊娠中絶についてのアンケート結果(https://www.jaog.or.jp/sep2012/JAPANESE/MEMBERS/TANPA/H15/030217.htm)を読む限り、確かにそのリスクは存在しているといえます。10代の妊娠中絶経験者の68.1%は妊娠して「困った」と回答しており、その多くが①②膣外射精や安全日など誤った避妊方法を選んだり(情報や理解力の不足した判断)、③相手が避妊をしなかったり(強要された判断)、④経済的事情などを踏まえれば出産・育児は不可能なのに妊娠する可能性のある行為をしてしまう(実質的には非自発的な判断)など、当人の判断能力の不足によって、望まない妊娠と人工妊娠中絶に到っています。
この前提において、当事者の自由権を法と社会が一部制約することが正当化されています。これはmuchonovが勝手に言ってることじゃなくて、法学におけるパターナリズムの議論の中で整理されている話です。
「ソフト(弱い)パターナリズム」が自由への介入を正当化できるのは、人の行為が以下の何れかに因って判断された場合です。
1. 実際に情報を知らされないで判断した場合(not factually informed)、
2. 適切に理解していないで判断した場合(not adequately understood)、
4. その他、実質的に自主的にではなく判断した場合(oterwise not substantially voluntary)。
http://www.fps.chuo-u.ac.jp/~cyberian/personal_responsibility.html
そして、未成年者や特定年齢に満たない児童に対する「弱いパターナリズム」に基づく人権制約は、日本を含め、大半の近代国家の法制度に含まれています。性交同意年齢という概念もそうですし、制限行為能力者という概念もそうですし、ある面では責任無能力者という概念もそれに関わっています。そのような、未成年者や児童の人権を明らかに制約する仕組みが各国の法制度に組み込まれているのは、当然、その国家が議会立法などの民主主義的手続きを経てその法律を定めた結果であり、『社会的コンセンサス』の賜物でしょう。
だから先ほどのrag_enさんの、「『社会的コンセンサスがあるから』なんていう、ふにゃふにゃな理由での“パターナリズム”を肯定してしまっているの、控えめに言っても完全に思考が狂ってますよね」とか、「muchonovさんの提示した「判断力が未熟だから」論法では、年齢による“パターナリズム”を肯定するのは無理がある」という指摘は、日本だけでなく、性交同意年齢や制限行為能力などの概念を法制度に組み込んでいる全ての国家や社会に対して「完全に思考が狂ってますよね」「論法に無理がある」と非難していることになりませんか。
現在の日本では、性交同意年齢(13歳)未満の男女と「性交等」をすることは法律で禁じられており、もしそうした場合、それが13歳未満の側の当事者の主体的判断によるものであっても、相手は強制性交等罪(非親告罪)で処罰されます。13歳未満の側の当事者には、必ずしも性交に関して正しく判断する能力が備わっておらず、その能力の不足による誤った判断の不利益から彼らを保護しなければならない、とみなされているからです。これも「完全に思考が狂っている」「無理がある」論法でしょうか。
私はrag_enさんがそういうチャレンジングな主張を展開されるのは別に構わないと思っていますし、繰り返しそう申し上げてもいますが、だったらその主張はmuchonovという個人に向けて言うべきことじゃなくて、そうした法制度を運用している国家やそれを是認している国民に対して言うべきことなんじゃないかな、と思います。だから自分は、再三「rag_enさんのお考えを、広く世間に問えばいいと思います」と申し上げているんですけども。
あと、これはこちらの邪推ですけど、おそらくここでrag_enさんが問うべきだったのは、「性的自己決定権をめぐるパターナリズム的な人権制約の適用対象を決める上で、年齢という指標を用いて一律に決める(現在の法制度に組み込まれている)方法と、ペーパーテストを行って免許を付与するという(rag_enさんが提唱する)方法の、どちらが制度設計として筋がよいか」ということだったのではないでしょうか。そうではなく「パターナリズムという手段ではなく、ペーパーテストと免許制という手段を使えばいい」と主張されている姿勢から、rag_enさんのパターナリズムについての認識は、一般的用法とズレがあるように感じました。もし「そうではない」ということなら、そうおっしゃってください。
※ここでもし自分がrag_enさんを先回りして擁護するとしたら、「rag_enさんの言うペーパーテスト+免許制という提案は、パターナリズム的な観点(判断力が未熟な当事者を保護するため)に基づくものではなく、その行為による他者危害のリスクなどを鑑みて、本来は無許可では行ってはいけない諸行為に対し、当事者の能力・知識・技術を総合的に認証したうえで特別にアクセス権を付与するもの、つまり自動車免許や医師免許に相当するものであるから、パターナリズムにはあたらない」という立場は、かろうじて取りうると思います。未成年や児童が関わる性行為について、当事者の不利益よりも他者危害のリスクを先に考慮しなければいけない状況というのは自分には俄には思いつきませんが、まあそこはよしとしましょう。
しかし、そのような制度---国家が国民の性行為に関わる知識や判断能力をペーパーテストで弁別し、それが当局の定めた水準を満たしているかどうかによって、セックスの権利を与えたり奪ったりする制度---というのは、自分は国家による生-権力的介入・管理のアプローチとしていささか度が過ぎていると思います。というか、「規律化による〈従順な身体〉の構築」というフーコー的テーゼをそのまま戯画的に具現化したような感じすらします。
また、自動車免許の社会実装コストについてのrag_enさんの記述を踏まえると、rag_enさんは、その「セックス免許」の仕組みを社会実装するコストも、免許取得費用として「受験者」から徴収して賄えばいい、とお考えのように見えます。セックスへのアクセス権を求める市民自身から試験料を徴収して、セックス免許センターで受験者にテストを行って、合格者に免許を発行する。もしそういう制度運用をイメージされて仰っているのなら、この構想が現行の法制度にある「年齢によるパターナリズム的保護」の仕組みよりもメリットが多くデメリットが少ない現実的な提案だと感じる方は、あんまりいないんじゃないでしょうか。もちろん、rag_enさんのような考え方の人たちが社会運動などを通してそのアイディアを人々に受け入れさせて、社会的コンセンサスを変えていくことができれば、その状況も変化する可能性はあると思いますが。