はてなキーワード: 感情移入とは
歌詞を捉えること、解釈することにリソースが取られて、テキストに感情移入してしまい、音楽に集中できない。
だからこそ、いい詞だなと思うこともあるけれど、結局聴くのに疲れてしまうから聴かなくなる。
訳文や所々わかる単語から、形にならず、ぼんやり感情が伝わってくる。
曲調もシンプルなものが多くて(同じコード進行繰り返すだけとか)、電車に乗っている時のような心地よさがある。
クラシックもいい。
緊張感や迫力、夢見心地など、自然の中を彷徨っている気持ちにさせられる。
何より音と時間に心を集中できるのだ。
時代背景や作曲家の生い立ちを考えると、伝わってくる意思もあるが、あくまで聴き手の解釈だ。
なかなか理解されないが、ケンリュウの小説に自国語の音楽が苦手って登場人物がいて、嬉しくなったのを覚えている。
私はJpopが悪いとは全く思ってない。
むしろ、伝える力が強すぎて、あまりにも情景がはっきりと浮かびすぎるのだ。
1つ目は、身体が役目を終えるとき。これを「物理的な死」としよう。
2つ目は、その人のことを皆が忘れてしまうとき。こちらは「認識的な死」だ。
どちらが先に来るかは人それぞれだが、ほとんどの人が「物理的」→「認識的」の順番で死ぬだろう。
みんながその人のことを覚えていてくれるから、葬式ではその人を悼んで泣くのだ。
身体は死んでも、誰かが覚えているかぎり、その人は未だ完全に死んではいない。暴君や独裁者すらも例外ではない。
それをある青年が名乗り出て、迷宮に踏み込み、殺した。そして、青年は英雄となった。
という神話が残っている。私の推しーーアステリオスもまた、皆に存在を忘れられる前に、物理的に死ねた。
もし、彼が物理的に殺される前に、皆から存在を忘れられてしまったとしたら?
2018年4月4日、私のもう1人の推しが死んだ。というか私が殺した。
ロシアというギリシャ神話とは全く関係のない地で、私は彼に出会った。
同じようにアステリオスが好きな人達と同じく、私も衝撃を受けたことを覚えている。
一般的に語られている神話通りの「怪物」といえる恐ろしい相手だった。
最期に「向こう側=主人公たちの世界が羨ましい」と呟きながらも、笑顔を見せて、死んでいった。
FGOでは大抵、こういうセンセーショナルな出番を与えられたキャラクターが、主人公の味方として召喚できるようになる。
私は、彼にまた会える日を待っていた。
ずっと待った。
ずっと、ずっと待った。
誰も彼の話をしなかった。
誰も彼の絵を描かなかった。
絵を描いた人も、「ネタバレだから」と自粛ムードで絵を削除してしまった。
雑誌に載った、2部1章のキャラクター相関図には、彼は載っていなかった。
ならば、どうして出した?
そのうち、毎月増えていく可愛らしい☆5サーヴァントたちがプレイヤーたちから「可愛い!」「好き!」と言われてチヤホヤされている様子を見るのに嫌気が差した。
ギリシャが舞台の2部5章「神代巨神海洋 アトランティス」に微かな望みを懸けていたが、新規実装サーヴァントはどれも私の心を惹きつけなかった。
エウロペがアステリオスから見て義理の祖母にあたるのは知っていたけれど、そんなことはどうでも良かった。
アステリオスはモーション改修されなかったし、ミノタウロスも(いつも通りだが)いないことがショックだった。
読むのに十数時間かかる重厚なシナリオにはもう興味がなくなってしまった。
でも、ギリシャが舞台だ。もしかしたら、万が一でもミノタウロスに関する情報が得られるかもしれない。だから私は、ネタバレだけ検索した。
宮本武蔵やカルデアの者といった人気者や、実装されま新キャラに比べたら圧倒的に情報が少なかったが、なんとか事の全貌が見えてきた。
ミノタウロスは、誰かによって召喚されたサーヴァントではなく、ギリシャ異聞帯から「輸出」された、「まだ生きている怪物」だったこと。
現地住民は、とうの昔に怪物と関わるのをやめて、名前すら忘れていたこと。
そして、ある一つのスクショを見て、私はFGOを見限ることにした。
迷宮に主人公とともに踏み入ったと思しきシャルロット・コルデーが、
「汎人類史のミノタ……アステリオスはどんなお方だったのですか?」
と主人公に聞いた。
その台詞に対する主人公の返しの選択肢が私の精神を抉ったのだ。
「大きかった……と思う」/「優しかったよ」
私はアステリオスのことを人一倍知っているつもりだったが、FGOの主人公は違ったらしい。
私はアステリオスのことを忘れてなんかいない。勝手に殺さないでくれ。
主人公≠プレイヤーなのは重々承知だが、私はこんな主人公に感情移入できない。
つまり、公式からも主人公からも現地住民からもプレイヤーからも存在を忘れられたミノタウロスは、サーヴァントとしては未来永劫召喚できないということだ。
それだけ知れて、私は満足した。
私が物理的に殺す前に、彼はすでにギリシャの人々から忘れられて「死んで」いた。
でも少なくとも、私が彼のことを認識し、覚えている。
それだけで、彼は生きている。
Youtuber、ゲーム実況者、Vtuber、あとその他色々で
3人以上で何かする配信みたいなのが人気だ
何で人気かとか、バーターにすることで箱推しにしてもらう戦略だとか、そういうのは分かるんだけど
どうしても苦手だ
簡単に言えば疎外感を覚える
テレビ番組は絶対に視聴者を無視しない構成になってる、劇場型って言うんだろうか?
そこらへん非常にうまく作られている
これらも感情移入する登場人物が居るか、そもそも主眼となるものがゲームそのものだったりするので問題ない
大変多くのコンテンツが有る中で
唯一と言っていいくらい、3人以上のコラボ配信が視聴者を向いていない
予想なんだけど、この構成は腐女子が一番適正あると思う(自分が空気になりたいみたいに言ってる人)
もちろん男性でもこれらのコンテンツに適正がある人はそこそこ居るようだ
同時に自分みたいに苦手な人もいるのかもしれない
4人コラボ配信の方が1人コラボより視聴率低いみたいなことがたまに見られるので
正月早々私生活が上手くいかなすぎて現実逃避したいので、増田の皆さん教えてください。
とにかく今、ヒロインを守る系のアニメがすごく見たい。ただアニメは普段見ないので、萌え系じゃない方がいいです。(萌え系って死語だったらすみません)
自分が好きなのはブルーシード(古すぎて知らない人多いかも)。小学校上がる前のアニメでしたが、子供ながらにハマって、今も時々観ています。
旦那に話したら鬼滅の刃をお勧めされたけど、妹を守る話って聞いてちょっと違う気がしました。
守ってくれるのは男の人で、兄妹とかじゃなくて恋愛要素をすこし含んだものがいいんです。
2020年になったっていうのに、私の頭の中のアニメは90年代(シティーハンターに至っては生まれてない)で止まっているので、もしかしたら今時こんなベタなアニメないんじゃ?って思ってたりするんですけど、、。
あるといいなぁ。
■追加(2020.1.17)
投稿して次の日見たらコメント皆無だったので放置してましたが、昨日気づいてすべてのコメント読みました。
未来少年コナンは名前だけ聞いたことあったけど、まさかヒロイン守る系アニメだったとは。たしか宮崎駿の作品でしたよね?
さっそく見てみたいと思います。
ほかにも、暁のヨナと無限の住人、ブルーシードの同一作者のサザンアイズとかも気になったので見てみます。
ちなみに、ゲームのICOは、当時ハマってました。ひたすら守られる(基本自分は守る側だけど)あの関係性良いですよね。久々にやりたいけどプレステがないっていう。残念。
あと地獄先生ぬ〜べ〜も数年前にハマって、魔法陣グルグルや俺物語は漫画も全部持ってて、改めて自分のツボは誰かを守る系なんだなと再認識しました。
考えてみたら自分は一人っ子で小さい頃からよくまわりに「増田ちゃんはしっかりしてる子だね」って言われてきて、親も厳しかったので、心の中で守られる女の子に憧れがあるのかもしれません。
最初にここに投稿した時も、仕事では上司からの圧力と膨大な仕事の量でパンクしかけてたし、プライベートでは夫から妊活に協力しないから一人で勝手にどうぞって吐き捨てられるしで、何もかも一人でやっていくことに限界を感じてたのかも。妊活なんて一人じゃ妊娠できないじゃんね。
辛い時ピンチの時誰かが自分を助け出してくれる、そんな物語を見て自分を慰めたかったんだと思います。
現実は自分のことは自分で守るしかないし、ピンチの時も自分で乗り越えていくしかないんですけど、たくさんのコメント見て少し気持ちが晴れました。ありがとうございました。
テッド・チャンの作品を初めて読んだのはもうだいぶ前になる。十数年前、おそらく大学生のころだ。自分は暇さえあれば本を読むといったタイプの人間で、そのころSFというジャンルにそこそこ興味がった。理系だったのもあって科学的な設定に興味をひかれたんだと思う。グレッグ・イーガンといった当時新しく出てきた作家に加え、アイザック・アシモフのシリーズやアーサー・C・クラークの「幼年期の終わり」、ジョージ・オーウェルの「1984」といった古典SFもすきだった。そんな中、ネットの記事でテッド・チャンという新人作家がいることを知った。まだ一冊しか本を出していないが、すこぶる評判がいいらしい。短編集ということで読みやすそうだとも思い、さっそくアマゾンで注文した。もうだいぶ前のことだし、大まかなストーリーも忘れてしまったが、確かにその本が面白かったことは心に残っていた。
時は変わって昨日、つまり2019年大晦日。年末年始は一人暮らしの自宅で過ごすことにしているのでありあまる時間があった。昔と違ってここしばらくは本をあまり読めないでいた。ネットサーフィンでとりとめもなく文字を追う行為が読書の代わりになっていたのかもしれない。そんな中、テッド・チャンの第二作目「息吹」が最近発売されたことを知った。十数年たってようやく新作が出たことに驚いたが、過去の作品にたいしていい印象を持っていたこともあり、Kindle版を購入してすぐに読み始めた。
前作と同様、「息吹」も短編集であり、9作品がおさめられている。ラフな感想をいうならどの作品も面白かったが、順番的には本の最後に位置する「不安は自由のめまい」について語りたい。量子論でいうところの観測による確率の揺らぎによる並行世界が存在し、その並行世界の自分と今いる自分とで会話ができる装置があるとしたらどうなるだろうか、という話だ。ただし、よくあるパラレルワールドものの話と違うのは、並行世界と今いる世界の差が限定されている点だ。「プリズム」という装置を介して並行世界と通信できるのだが、「プリズム」を初めて起動した瞬間に世界は分岐する。「プリズム」は最近普及してきたテクノロジーのため、長くても数年前に分岐した並行世界としか通信できない。量子的な効果はランダムノイズとして作用し現実世界と並行世界を異なるものにするが、数年間というのはノイズが大きな差異を生むにはあまりにも短く、基本的には細かなディテールが変わるのみとなる。では「プリズム」のご利益は何かというと、人は「プリズム」を介して過去の自分の決断を振り返ることができることだ。例えば、今後悔しているような決断を過去に行っていたとしたら「プリズム」で並行世界を眺めてみるといい。もしその決断がノイズ的なもの、つまり一時の気の迷いで行ってしまったものなら並行世界の自分はそのような決断はしておらず、したがって後悔もない可能性が高い。一方、その決断が運命的なものだった場合、つまり自分ひとりの力では変えることができなかったことの場合、並行世界でも同じように決断して同じように後悔しているか、あるいは違う決断をしたけれども結局は同じ結果に収束し、似たような後悔をしているかもしれない。
本作品はこのコンセプトをもとに、アウトサイダーな雰囲気をもつプリズム販売員ナットとプリズム中毒者の面倒をみるカウンセラーデイナの物語を描いている。ナットはもと薬物中毒者であり、恵まれない子供時代の経験があった。現在は堅気の職についているが上司の命令で犯罪に近い行為に関わってしまう。その過程でナットは自分が悪の道を運命づけられているのかと、悩みを持つようになる。一方デイナは誰からも信用を勝ち取るような立派な人で、充実した仕事生活を送っている。しかし、デイナにも後悔するような、トラウマチックな出来事があった。
最初二人の物語は独立して進んでいくが、あるところで相互作用しはじめる。ネタバレを防ぐため詳細はぼやかすが、ナットはデイナに影響されて運命を乗り越えようとし、またナットはその決意としてデイナに贈り物をする。
自分は、その贈り物がとても意外なものだったので驚いたが、読み進めてその意味が分かった時、心を大きく揺さぶられて、泣いた。体が震えながら、涙が何滴も流れた。本の登場人物であることを忘れて、ナットとデイナに心から感情移入した。前に本を読んで泣いたのはいつだろう。下手したら10年も前かもしれない。
本当はもっと語りたいのだが、未消化のため今はこれ以上のことは言語化できない。このような読書体験ができたことに感謝し、感想文を終えたい。
逆に若い腐女子だと夢女子系で、受けの小型化、無毛化、華奢化を感情移入の取っ掛かりにしてる人も多いよ
すね毛や陰毛や肛門まわりの毛がきっちりあるBL読んでると「感情移入できる・できない」の谷を行ったり来たりしてる気分になる
なんでぼくたち同士がいがみ合わなければならないのだろう。なんでいちいち喧嘩するのだろう。そんなことしないほうがいいのではないか、とぼくは思うのだけど。
いったいなんの話をしているのか。これは、一方ではセクシャルの話であり、他方ではメンタルの話であり、またもしかしたらオタクの話なのかもしない。
「ぼくたち」と最初に書いたのだけど、この表現はたぶん正しくて、わざわざこんな駄文を読んでいるのだから、どこか性格的に類似した「ぼく」の部分があると思う。あくまで感覚的にだけど、でもそんな気がする。その感覚を信じて書いていきたいと思う。
ぼくと似ているとはなにを意味するのか。たぶんそれは「被害者」であるということだと思う。ぼくの具体的な経験については今回は書かない。
これを読んでいる人の中には、現在進行形で辛い思いをしている人もいると思う。なにかよい方向に進めばと心の中で願っている。心の中で。
ぼくがここで書きたいのはまったく逆のことで、それは、いま辛い思いをしている人、つまり被害者というのは、はっきり言ってどうでもいい存在だということだ。なぜならば、それは他人事だから。シンプルにぼくには関係ないからだ。
そう言うと不快に思う人もいるかもしれない。しかし、だからこそ、ぼくは言いたいのだけど、「あえて」他人事でないかのように振る舞うことがそんなに大切なのだろうか。他人の問題に対し、個人的に感情移入をすることがそんなに大切なのだろうか。
ぼくは思うのだけど、ぼくたちがやるべきことはむしろ、「他者」としてその問題に関わることではないか。そしてそれこそが被害者のためになるのではないだろうか。それはどうでもいい他人の問題に対し、どうでもいいと言うことを含む。
なんでこんなのも書いているのだろう。自分でもよくわからない。もう少しだけ書こうと思う。
最近ツイッターを見ていると悲しい気持ちになる。いくつもの考えるべき重大なニュースが、ブームのように、盛り上がって忘れられてを繰り返している。ぼくは忘れてはいけないものがあると思うのだけど。なぜそうなってしまうのか。ぼくは、それは他人事だからだと思うのだ。個人的なものについてはそう簡単に忘れられないだろう。
このことをしっかりと理解する必要がある。ツイッターで怒る人の多くは、彼らなりの良心なのかもしれないが、これらのニュースに対して「当事者」として興味を持て、と言っていることが多い。しかし、そんなことはできるわけない。なぜなら他人事なのだから。
すべては他人事である。しかしながら、ぼくはそこに光を見たいと思う。他者が他者として問題に関わることができたらどれだけ素敵なことだろうか。
以上。
なんでこんなの書いたのだろう。
わりとみんな言ってるけど、今大会のキーワードは「人を傷つけない漫才」「ツッコミの時代」。
【ニューヨーク】
トップバッターの不利よりも、彼ら本来の毒のあるセンスのキャラが今大会に向いていなかった。毒のあるキャラはコントだと役柄の設定ということにできるが、漫才だとそのまま本人の人柄に見えてしまう。本人たちもそれを意識したようで、M-1向けに普段よりもソフトに好かれやすくネタを調整した結果、持ち味がさらにぶれてしまった。
そもそも例のニコ生事件以来あまり良い印象は持っていなかったが、今回の審査員コメントのところでも同じ過ちをしているように見えた。それは「今の時間主役は誰か?」をわからずに番組を壊してしまうということだ。審査員がしゃべっているとき視聴者は少しでもたくさん審査員の評価・解説を聞きたいと思っている。今大会でこれまでよりもその時間を多くとったのは成功していると思う。この時間は漫才師は脇役で、むしろ一言もしゃべらなくても良いくらいなのにニューヨークは自分たちのプロレスで評価・解説の時間を大きくロスさせてしまった。最初の「最悪やー」は特に悪くないが、その後すぐに松本の話に戻すべきだった。結局あの時間で松本が言いたかったことの半分くらいしか聞けなかったのではないか。
【和牛】
普段の和牛に比べると少し落ちる評価が多いが、今年のネタは彼らなりの「人を傷つけない漫才」であるところが自分はとても好きだった。通常は水田のサイコパス風の男に川西の演じる女性やお年寄りキャラが振り回されるネタが多く、川西に感情移入すると少し心が痛む。今回は不動産屋と客という関係性で川西が明確な弱者ではない。また前半水田に振り回されるのはいつも通りなのだが、最後の物件で川西の狂気が発動してむしろ上回って痛快だった。
【見取り図】
フット後藤や南キャン山里らによって急激に高度に昇華されたワードセンスによる「たとえツッコミ」。それをさらに純化させてツッコミでさえない「たとえ」を軸にしたネタになっている。「あおり運転の申し子」は最高。
ナイツ塙に鼻を触る手の動きを指摘されていたけど、そういえばアメトーーク!「ツッコミ芸人が選ぶ、このツッコミがすごい!!」で博多華丸が手の動きにムダが多いのは駄目と言っていて塙も同意していたのを思い出した。
【インディアンス 】
インディアンスにとって不幸な偶然であるが、先月10年ぶりにアンタッチャブルがテレビで漫才を披露したのは地味に効いている気がする。当時と変わらないかそれ以上のザキヤマのパワフルな動きが目に焼き付いていると、それと同系統の田渕のボケが若干見劣りしてしまった部分もあると思う。
【ぺこぱ】
キャラが定まらず迷走した結果、ひとつの方向性を見つけたのではなくて、迷走したまま洗練されてしまった感じがすばらしい。今大会「人を傷つけない漫才」「ツッコミの時代」の代表格。NON STYLE井上の正解はこれだったんじゃないかとも思わせる。「ノリつっこまない」と評されていたが、詳しく見ると長いツッコミフレーズの前半でセオリー通りの厳しいツッコミをやりかけて、後半で急激に優しさにハンドルを切る構成になっている。面白く、新しいだけでなく、松本がよく言う「緊張と緩和」をツッコミの1センテンスの中に詰め込んでいるのがテクニカル。
【かまいたち】
1本目は山内の狂気に見てる方がちょっと引くいつものかまいたち、2本目は少しソフトになった屁理屈漫才。好みはあるだろうが自分は2本目が今まで見た中で最も完成度が高い完璧な漫才に見えた。
【ミルクボーイ】
会場での最高評価のわりにネット上の感想ではまったく受け付けない人もいるミルクボーイ。大人から子供まで誰もがわかる「人を傷つけない漫才」というところに目が行きがちだが、かなりテクニカルでもある。ボケ、展開、オチはあえて全然面白くない作りなので、そこを重視する人には好まれないのだろう。ツッコミのワードセンスと声のトーンのみで笑いを作り、それを何度も重ねていく競技のようなストイックネタである。それだけにツッコミのフレーズや間は完璧に磨き抜かれている。ひとりごっつやIPPONグランプリなどストイックなボケ企画を生み出してきた松本がもしツッコミだったらこういうスタイルの笑いの実験をやっていたかもしれないと思った。
そういう点でミルクボーイもまた「ツッコミの時代」の象徴的なコンビだった。笑いはほとんどとらないが正確にトスを上げつづけるボケ?側も高い技術が必要なのは言うまでもない。
そりゃあもうお気持ちよ。
別にお気持ちだから悪いわけじゃあない。味方を殺してはいけない、人間が人間を殺してはいけない、っていうのも倫理どうこう利益どうこう以前にお気持ちなわけだ。そこに計算とかはない。
そして人間のお気持ちってのは柔軟にできてるから、人間以外のものも人間同様として感情移入できるわけ。爬虫類や虫や、生き物以外のお人形や、道具にすらお気持ちを投影できる。ならば犬猫や猪を人間のように感じるのはむしろ容易だ。
そういう感情移入が発生しちゃうと、猪だろうとなんだろうと、殺したくなくなってしまう仕組みなんだなあ、人間というヤツは。
ちょっと前、TOKIOが鉄腕DASHでプレコって魚(ペットが野生化して沖縄で害獣化)を駆除したときに、プレコを今でも飼っているやつらから苦情が来たんだってさ。可哀想で見てられないとか。そういうのが典型だよね。