なんでぼくたち同士がいがみ合わなければならないのだろう。なんでいちいち喧嘩するのだろう。そんなことしないほうがいいのではないか、とぼくは思うのだけど。
いったいなんの話をしているのか。これは、一方ではセクシャルの話であり、他方ではメンタルの話であり、またもしかしたらオタクの話なのかもしない。
「ぼくたち」と最初に書いたのだけど、この表現はたぶん正しくて、わざわざこんな駄文を読んでいるのだから、どこか性格的に類似した「ぼく」の部分があると思う。あくまで感覚的にだけど、でもそんな気がする。その感覚を信じて書いていきたいと思う。
ぼくと似ているとはなにを意味するのか。たぶんそれは「被害者」であるということだと思う。ぼくの具体的な経験については今回は書かない。
これを読んでいる人の中には、現在進行形で辛い思いをしている人もいると思う。なにかよい方向に進めばと心の中で願っている。心の中で。
ぼくがここで書きたいのはまったく逆のことで、それは、いま辛い思いをしている人、つまり被害者というのは、はっきり言ってどうでもいい存在だということだ。なぜならば、それは他人事だから。シンプルにぼくには関係ないからだ。
そう言うと不快に思う人もいるかもしれない。しかし、だからこそ、ぼくは言いたいのだけど、「あえて」他人事でないかのように振る舞うことがそんなに大切なのだろうか。他人の問題に対し、個人的に感情移入をすることがそんなに大切なのだろうか。
ぼくは思うのだけど、ぼくたちがやるべきことはむしろ、「他者」としてその問題に関わることではないか。そしてそれこそが被害者のためになるのではないだろうか。それはどうでもいい他人の問題に対し、どうでもいいと言うことを含む。
なんでこんなのも書いているのだろう。自分でもよくわからない。もう少しだけ書こうと思う。
最近ツイッターを見ていると悲しい気持ちになる。いくつもの考えるべき重大なニュースが、ブームのように、盛り上がって忘れられてを繰り返している。ぼくは忘れてはいけないものがあると思うのだけど。なぜそうなってしまうのか。ぼくは、それは他人事だからだと思うのだ。個人的なものについてはそう簡単に忘れられないだろう。
このことをしっかりと理解する必要がある。ツイッターで怒る人の多くは、彼らなりの良心なのかもしれないが、これらのニュースに対して「当事者」として興味を持て、と言っていることが多い。しかし、そんなことはできるわけない。なぜなら他人事なのだから。
すべては他人事である。しかしながら、ぼくはそこに光を見たいと思う。他者が他者として問題に関わることができたらどれだけ素敵なことだろうか。
以上。
なんでこんなの書いたのだろう。
他者=非該当者 ってことですよね
うんち
もめ事に割り込んで 「うっせーな」「カンケーねーだろ?!あァ?」 …と言われた時に 「いや、関係がなかったら口出ししてはいけないんでしょうか?」 と冷静に返してるみたいな面白...
敵に味方する奴は少ないほうが都合が良い。
発言に責任が持てないから嫌がられるんじゃないですかね