はてなキーワード: 判別とは
今朝、自分で間借りしている事務所に出社するため歩いていたところ、ふとパチスロをやっていた昔のことを思い出した。
今はもうパチスロは打たないが、自分が投資を始める上で必要だった100万円ほどの資金は、パチスロから生み出した。
しかし今でも自分は、ギャンブルや投資に不向きな性格であることを自覚している。
自分がパチスロをやっていたのは15年も前のことなので、今は少し仕様も変わっているかもしれないが、人生を変えたいと願うすべての人に、何らかのヒントを与えられればと思い、当時の攻略法を書いてみることにする。
損益はトントンか、やや負けていて、7年間のトータルで見れば間違いなく負け組に位置していた。
投資の元手となった100万円をパチスロで生み出した。と言っても、トータルではパチンコ屋に吸われていたお金の一部を取り戻しただけに過ぎないのかもしれない。
合理的・論理的な人はギャンブルの確率論を忠実に実行し、パチスロでも安定して勝ち続ける。
しかし自分はどこにでもいる「普通の人」だったので、合理的・論理的な立ち振る舞いの出来ない負け組だった。
18時という時間はサラリーマンがパチスロで勝つ上ではとても適した時間だ。
夕方ごろになると、朝からパチスロを打ち、ある程度のメダルを獲得した人が、疲労や用事などの理由で席を空けはじめる。18時ごろから打ち始める自分は、「その日ある程度の実績を出した台」にすんなり座ることができるのだ。
1.ある程度回転している台(半日くらい誰かが打っていたと思われる台)
2.REGの回数が多いなど、当たり回数と総回転数を割り算して高設定が見込まれるもの
3.シマ(同じ台が並ぶ1列)の中で、1番目か2番目にBIGやREGの回数が多い台
※2.について、事前に機種ごとの機械割(出玉率)を把握しておく必要がある。高設定台はREGボーナスを引きやすいスペックになっていることが多い。機械割はパチスロメーカーの公式サイトで公表されている。
狙う機種は何でも良いというか、限定しないようにしていた。
地味な機種も、派手な新台もすべて、設定が高そうかどうか?で打つ、打たないの判断をしていた。
負け組だった頃の自分は、休日の朝イチからパチスロを打つのが好きだった。しかし、朝イチから打つよりも、既にある程度回転し、実績のある台を18時から打つ方が成績が良いことに気づいたのは大きかった。
1日の仕事を終えて、クタクタの状態でパチンコ屋に行き、仕事のストレスを発散する。
勝てばスカーッとするし、負ければ憂鬱な気持ちで帰宅し、次の日も朝から仕事に向かうことになる。
パチスロで負けている多くの人がこのような生活を続けているのではないだろうか。
自分が勝てるようになった要素の2つめは、打てる台がないときは勇気を持って帰宅するということだ。
仕事でクタクタの状態でパチンコ屋に入り、豪快なサウンドと積み上がったメダルを見れば、打たずにはいられない。
そうした気持ちを抑え、一度パチンコ屋に足を踏み入れ、打てる台がないかを冷静に確認し、条件に見合う台がなければ何もせず、そのまま退店するのである。
※打てる台とは、先ほど①に挙げた「1.ある程度回転している台(半日くらい誰かが打っていたと思われる台)」、「2.REGの回数が多いなど、当たり回数と総回転数を割り算して高設定が見込まれるもの」、「3.シマ(同じ台が並ぶ1列)の中で、1番目か2番目にBIGやREGの回数が多い台」の3つの条件を満たす台だ。
しかし、自分のようなごく普通のパチスロの負け組にとっては、入店後、何もせずに帰るなどという行動はとてもつらいことなのだ。
でも、これができるようになることが、勝ち組への大きな一歩につながるのである。
当時の自分がテリトリーとしていた、「出玉が期待できて上手く立ち回れば勝てる店」は3店舗あった。
まず最初に自宅から一番遠い店に足を運び、打てる台がなければ次の店に行く。
2番目の店でも打てる台がなければ、最後に自宅から一番近い店に行く。このようにして、少しずつ自宅に近づいていくようにしていた。
そうでもしなければ、もし3店舗まわって打てる台がなかったとき、帰宅途中にあった第4の店、第5の店にフラッと入ってしまうかもしれないからだ。
自宅から一番近い3番目の店でも打てる台がなければ、「帰ってテレビでも見るか。」と、寄り道せず家に帰るのだ。
打たずに家に帰っても、もんもんとしてしまうのがギャンブル中毒の症状だ。しかし当時は、「良い台がなかったのだから打たずに帰って正解。」と、何もせず自宅に帰った自分を誇らしく思うようにしていた。
パチスロを打たずに家に帰れば当然、勝つことはできない。が、負けることもない。
そして負けることがなければ、気持ちは穏やかだ。
店を3件はしごして、打てる台が1つもないということもたまにはある。
そのようなときには、無駄な資金を投じることなくまっすぐ家に帰る勇気を持とう。
当時、1日の軍資金は2万円としていた。
今はどうかわからないが、当時は2万円あれば大抵、一度は当たりが引けた。
2万円というのはその程度の資金量だ。
ここからは、パチスロの勝ち組からすれば非合理的・非論理的なやり方になる。
しかし、自分のような普通の人の性格には、このやり方がとても良い結果につながった。
ポイントは、「その日、気分良く家に帰る。」ことを第一の目標にしていたということ。
言い換えると、「負けなければ、おのずと勝ちになる。」ことを大切にしたということだ。
高設定と思える台を確保したら、1日の軍資金2万円を使ってパチスロを打ち始める。
何も当たりが引けずに2万円が溶けたら、ため息を吐いて帰路につくだけだ。
ただ、決して追い銭はしない。これは徹底した。つまり、1日の最大損失額を2万円に抑えるようにした。
次に、軍資金の2万円以内で当たりが引けて、その後も順調に当たりを重ねたときは、当然閉店まで粘る。閉店まで出玉が止まらず、18時から打っても5万円以上のプラスになることもたまにはあるはずだ。
しかし、最も多いシチュエーションは、何度か当たりを引いても、その後、途中で当たりが引けなくなり、手元のメダルが減り始めることだろう。
このとき、自分が徹底した行動が「投資額を回収することを最優先にする。」ということだ。
ここが、勝ち組にとっては理解できない非合理的・非論理的な部分である。
例えば、2,000円で当たりを引き、ある程度メダルを積み上げたは良いものの、その後当たりがピタッと止んで大ハマリした場合。このような時は、今のメダルを換金すればいくらになるか?を計算し、投資額である2,000円分のメダルを残したところで、負けを認め、2,000円分のメダルを換金するようにしていた。
パチスロ経験者からすれば、2,000円分の少量のメダルを換金するなど、アホらしい行為だと思えるだろう。
「換金するぐらいなら、全部飲まれてから止めるわ。」という意見が大半だと思う。
しかし自分からすると、メダルを換金せず最後まで打ち続けて飲まれたら、その日は2,000円の負け。気分悪く帰宅することが確定する。最悪の場合、心理的に追い込まれて全部飲まれてから追い銭をやってしまいかねない。
逆に、負けないことを最優先にし、2,000円分でもメダルを換金すれば、その日は1円も負けることなく気分良く帰宅することができる。
この違いはとても大きかった。
別のシチュエーションについても述べておく。
仮に初期投資15,000円で当たりを引いて、6,000円相当のメダルを獲得したものの、その後それが全部飲まれたら、追い銭はせずに退店する。「今日は15,000円の負けで済んだ。5,000円手元に残って良かった。」と考える。
仮に初期投資15,000円で当たりを引いて、その後2~3度当たりが続き、2万円分のメダルを獲得したとしよう。このようなときは、これまでの出目から「この台は高設定ではない。」と判断した場合は、5,000円の勝ちで勝ち逃げ。「今日は5,000円も儲かった。これで十分。」
まだ設定の判別がつかない場合や、ある程度の高設定が期待できる場合は、獲得した2万円分のメダルのうち、5,000円分だけゲームを続け、メダルが残り15,000円分になった時点で換金してプラマイゼロで退店。「初期投資がかさんだが、プラマイゼロで逃げ切れてよかった。またチャンスはあるはずだ。」
座った台が例え設定6っぽかったとしても、負けないことを最優先に考えて立ち回った。
そして、ときに2,000円程度の少額で当たりを引き、その後も連鎖的に当たりが続いたときに、大勝し、収支が大きく上向くという流れで利益を積み上げていった。
もちろん、一度席を立ったら他の台にははしごせず、退店する。
18時を大きく過ぎてからのゲームは、閉店時間を考えると不利になるからである。
「引き寄せの法則」というものがあるが、常に自分を気分の良い状態に置いておくことが、運を引き寄せるのだ。
引き寄せだ。運だ。というと論理性に欠けるので、現実に置き換えて説明するとこうだ。
心理的に追い詰められることなく、心理的な余裕を保つ行動をとることで、次回以降のゲームにおいて冷静な判断を続けることができるようになる。
ファイナルファンタジーでいう「バーサク状態」のようなものである。
冷静ではない彼らはいつも、足元をすくわれてカモにされる。
今、自分は個人投資家として生計を立てているが、ギャンブル・投資のどちらも「冷静でない人間から冷静な人間への富の移転」によって成り立っていると思っている。もしかするとこれは、日常生活やビジネスシーンなど、あらゆる局面で共通することかもしれない。
だからこそ、すぐに冷静さを失ってしまう自分のような人間は、たとえ非合理的・非論理的と言われようとも、心理的な優位を保つことを第一に考えるべきなのである。
ギャンブル中毒者は冷静でないからこそバカのように見えるだけであって、冷静であればどこにでもいる普通の人なのである。逆に言うと、どこにでもいる普通の人は、冷静さを失えば誰でもバカになってしまうのである。
最後に3つほど、パチスロで勝つ上で基本的な内容を補足しておく。
1.不人気店で打たない
当時の自分はコミュ障だったので、客の少ない、がら空きのお店でパチスロを打つことに居心地の良さを感じていた。
しかし大抵、客が飛んでいる店は「出さない店」なので、そうしたお店で打つ価値はどこにもない。
勝つためには、上手く立ち回れば間違いなく勝てるだろうという人気店だけを厳選すべきだ。
2.回転数の低い台で打たない
18時からパチスロを打つ場合、回転数の低い台を狙ってしまう。これも負け組の発想である。
言い換えると、処女の方が魅力的に見える。まだふたが開いてない箱の方が、何かすごいものが入っているのではないかとワクワクする。この考えは捨てよう。
パチスロで勝つためには、ある程度回転していて、実績が出ている台を狙う方が確実だ。
負け組だったときの自分は、回転数の低い台が持つ「隠れた魅力」に惑わされ、積極的にそうした台を選んでいた。
しかし、当たり回数が多く、総回転数が多く、当たり確率が高い台を18時から打つようになり、勝率が飛躍的に上がったのである。これは合理的に考えれば当然の話だが。
3.収支管理の徹底
社会学は哲学と同じ善だの悪だのバイナリゲームのお遊戯の一種なのでいいかげん学問になるかお遊びのままでいるか進む方向を選ぶべき
学び問う、問えるだけの情報整理と定義とそのための集積、それらと分け隔てなく接し理解するための時間を費やす学び、それらを合わせて学問
学問によって定義ができる情報群ができたとき、その情報を応用できる手段にしたものが論
多くの意見や情報や視野を集める学びを会す場をつくることが学会でそれを基軸に題名をつけるなら学、何々学
あつまりもしてないし意見も聞かないし問うに情報が整理されていない、ただ罵倒するためだけにつけた蔑称で独自の定義を披露する社会学はそれらのどれにも少しもあてはまらない
学問という文字から大きくそれた「社会学」なんてものはもう言葉遊び
西暦何年~何年までとする それ以外は「社会学以外からの引用や参照や比喩」として理解できる 逆に範囲内に言及する場合は学会の方針に沿う
実在した人物や組織の名前をそのまま使い、個人的な評価をその名前を付け合せて妙な名前を都度生成しない
結果や行動について集積、分類するために評価基準を定義する 大虐殺なら評価基準は人数なのか方法なのか効率なのか等 それにより救われた人数や伸びた産業はどう評価するか等
・共有する
これが一番問題なのだろうけど、定義基準ができたとしてそれを利用できなければ意味がない
現在の社会学は他の社会学者が歌ったポエムにアンサーポエムを返したりしているだけ
社会学が学問として学が成り立ったとしたら次のような表現方法ができるはず
「ナチス」という一時期に存在した集団がとった行動の評価は「100(例として作った数字なので意味はない)」
これはAの時代のBという状態にあったCという組織や、同系統の例を定義上の要素で評価採点した方法による D論 の評価
のようになるべき
善だった悪だった悪だが民衆に好かれた、当時の価値観としては善だったが、などただの時系列を無視した正確性を欠くジャーナリズムでしかない
正確性も欠いているし時系列も現在とのつながりが話題性以外になく、善とか悪とかの価値観に巻き込まれた関係者の人数分布や思想の強度を行動や現象で数字化して比較するわけでもなく個人が判断しただけ等となると愚の骨頂
事実、現時点において何らかの問題を解決するのに歴史的な事象や統計にある手段を用いようとしたところで社会学のなにが方法としてだせるのか
大衆というものはとても貪欲で、普通の人が考えるよりも遥かにコンテンツを食べるんだよ。単位時間あたりに消費するそのコンテンツの量はゾッとするほどだ。
大衆向けのコンテンツで地位を確立するためには、質とか知名度とか味よりも、まずは量が必要となる。というか、ある程度の量がないと味わうことが出来ないから、コンテンツの味の判別ができないし、旨いか不味いもわからない。
そしてある程度認知されて、このコンテンツは旨いぞとなったあとにも、ファンをつなぎとめておくためにはまたまた量が必要になる。今度は単位時間あたりにどんどんおかわりを出さなきゃならないという、供給マラソンの始まりだ。
コンテンツ業界に置いて、アマチュアと商業を分けるのは、要するにこの供給マラソンを可能にする生産システムやインフラだ。
ブロガーが何者にもなれず吉本がYoutubeでも大きな顔をしていられるのは、大衆の貪欲=供給マラソンという現実にたいして応答できたからであって、それ以上でもそれ以下でもない。
しかし、冒頭にも書いたけれど、大衆のコンテンツ消費ってのはほんとに凄まじい消費量だよ。クリエイターとしてその怒涛に立ち向かうってのは、ほとんど大衆の奴隷になるってのに等しい。知名度や地位を確立して、業界の上位ほんの数%になれば自分のペースで仕事できるかもしれないけれど、それは本当に稀有な才能と天運が必要だ。そこにいたるまでには、週刊連載の漫画家がそうであるように、あるいは下積みの芸人がそうであるように、私生活を投げ捨てるような修羅が必要となる。
ブロガーが何者かになれない現実がもし仮にあるとしても、それはブロガーがブロガーであるからそうであるわけではなくて、ブロガーが修羅にならず人間のままだからそうであるに過ぎないと思うよ。そして別段それは悲観するようなことじゃないと思う。修羅より人間のほうが、大概の場合幸せだから。
AtCoderというサイトでは毎週末競技プログラミングコンテストが行われてる。競技プログラミングは算数みたいな問題をプログラミングで解くスピードを競うってやつなので興味出た人はちょっとやってみてほしい。
で、ついさっきもコンテストがあったんだけどそこで色弱には判別が難しい図が出題されたんだよね。要するに2種類の点を移動したりすることで重ねることができるか?っていう問題なんだけど、問題文の後の例題にxy座標面に赤と緑で色別された点が配置されている図が使用されていて色弱の人にとっては若干不利になる問題構成となっていた。
自分自身色弱なのもあって、コンテスト中に件の図を見たとき「うわっ」とは思ったけど問題文しっかり読めば割と対応できる範囲の不自由だったんだよね。それでコンテスト終了後にTwitter覗いてみたら、今回のコンテストの一番の話題といってもいいくらいに”色弱”が取り沙汰されていたから結構驚いた。
中にはかなりブチギレている人もいて、「企業としてありえない」等の結構強めの発言が飛び交ってる。一方で運営側は「事前に気が付くことはできなかった、そういった全てのことへの配慮は難しい」というような主張でそれがまた追いブチギレを呼んでる感じ。
俺は今回のキレている人に聞きたい。本当に困った???????
色弱って先天的な機能の不具合、障害としてはかなり軽めの方だと思っていて、いわゆる色弱に当たる人のほとんどがそれで強い不自由を感じたことはないんじゃないかな。自分自身、高校で希望制の色の検査があったときノリで受けてその時初めて自覚したくらい。自分から見ると今回のひと騒ぎはマジで日常生活に支障が出ない”色弱”に数カ月から数年に一度のスポットライトが当たった結果、鬼の首を取ったように自分のアイデンティティとして主張したくなった人達の自己表現スピーチのように見える。言い方悪いけど。
そもそもこの手の障害っていうものは基準となる一般人モデルと比較して何かが足りてなかったり向きが違ったりという状態で、そうした基準モデルから外れた存在も平等に暮らせるようにしようという思想は素晴らしいし納得できる。ただ、基準モデルから外れた存在も基準モデルと同じ待遇を受けられなければならない、受けられるべきだという主張には個人的に納得できない。いまの時代そういった「基準モデルから外れたアイデンティティ」が何よりも強い時代だからこそ、余計にそう思う。
そもそも、今回の問題って”色弱を虐げている”のかな?足が無い人にジャンプしてみろよとか言うなら、それは明確な攻撃だけど、今日は東京武道館に集まった数万人の観客にコールアンドレスポンスでジャンプを要求してるわけでしょ。そのなかに足のない人がいたなら、謝罪こそするけど別に傷つける意図はなかったわけじゃん。今回のもそう。色弱ってのは一桁パーセントだけいる基準モデルから外れたステータスなんだから、そのマイノリティを100%カバーすることなんてできないわけ。だからこそ自分の考えは「マイノリティが共生できる社会を目指していこう」であって「マイノリティが暮らせなければならない」ではないわけ。今回の騒動で次回以降は多分対応してくれるでしょ。その色弱に配慮してほしいという要望を乱暴な言葉で、直接じゃなく多くの人の目があるところで声高に主張する必要はあったのかな?
あとここからは愚痴。競技プログラミングは数学や情報系の遊びということもあっで学問の道に興味がある優秀な人が傾向として多いんだけど、結構根っこの方は子供っぽいというか感情的な発言が目に付く。よく言えば、負けず嫌い、勝負事命みたいな感じで解けなかった問題が多い回とかはコンテスト自体に対しての文句が見受けられる。今日のコンテストは運営側の想定より難易度の高い問題が多かったこともあって、たまったフラストレーションがこの色弱問題に集中した感じもある。
今更音声なんて、という感じがするが、いざ制御しようとすると調べても出てこない。
世の中に色んなプラグインが出ているが、自然な修正をするのはない。出ているのは機械っぽくするのばかりだ。
論文に関しても探し方が悪いか、サーベイが足りてないのか、出てこない。
そもそもどうして機械っぽい音声になるのか、原因を可視化出来ていない。
AIに関しても、誰かの声を再現するという方向ばかりで、誰でもない声にするというパラーメータや制御方法は出てない。
しかもAIでありがちなアーティファクトが気になって仕方ない。
画像だと回転させたり、縮小したり、切り出したりして学習データを水増しするが、
音声の場合、音を高く/低くするといった制御が不自然になってしまうため、学習データ水増しも用意ではない。
新型コロナ感染症が広がっている状況で、非常にまずい行動だと思う。
また、既婚者が風俗に行くこと自体、まったく褒められた行為じゃないだろう。
ただ、妻が3ヶ月ほどの出張で会えない状況で、コロナの完全在宅で同僚とのやりとりもビデオ会議などに限られ、何か新しいことに挑戦しないと気分が緩やかに落ち込んでいくという状態での体験記だと思って読んでいただければ幸いだ。
その一二週間後に、週末が充実してなさすぎてオンラインキャバクラを初めて体験してみた。
キャバクラ自体が初めてだったので、指名などのシステム含めていろいろリサーチし、もろもろ割引もあって、女の子と40分くらいオンライン で話した。
教訓は、Zoom飲みにビールは向いてない。二本飲むとゲップを我慢するのが大変だった。
大学生らしき子は可もなく不可もなくという感じで、また気分が落ち込んだらオンラインキャバクラやってもいいかなと思ったが、結局やらなかったので、あまり価値を感じなかったということだと思う。
今日の経験から振り返ると、自分は女性と話すのは好きだが、10分以上たいして会話がもたないのだ。趣味もそれほどないし。
それで、もろもろ生活改善を志すうちに週末に散歩の習慣が生まれ(今年の5月から6月の東京は、暑過ぎず、なんだかんだあまり雨も降らず、風は気持ちよく、結構散歩に向いていた)、2年前に引っ越してきた近所の、これまであまり行ったことがなかった方面を自分の足で開拓していると、そういえば家から40分ほど歩いた街は有名な風俗街なのであった。
それで先週は、まずはその街でガールズバーを検索して足を運んでみた。
検索してガールズバーが何軒も固まっているあたりを歩くと、もっと即物的なお店があるではないか。
そしてそうした即物的なお店の方が、その時の自分の脳と股間にきた。
看板などから業態などはよく判別できなかったので、道路の向かいの店の名前を覚え、角を曲がったあたりで店の名前を検索するとそこはピンサロだということがわかった。
ここでまた、ピンサロが何をどこまでできるどういう業態かが分からないので、キャバクラのときのようにググる。
キャバクラよりも短時間で花びら回転などのシステムも把握できた。
(ちなみに、幼少期の床屋などで読んだ本気(マジ)などで学んだであろう花びら回転という言葉の意味を、二十数年ぶりに理解できたことには小さな感激があった)
ただ、その日ピンサロに突撃まではしなかったのは、あれだ、仮性包茎のチンカスを洗っていなかったからだ。
サービス内容にフェラチオが含まれることを知り、今のコンディションで入店は許されないと判断したのだ。
余談だが、妻は非常に鼻がよく、ことを致す前にチンチンをしっかり洗うことはマストだ。
一度旅行先で洗いが足りず、ただでさえレス気味なのに、その後もう一度やるところまでがすごく長くかかった。
そして、昨日の金曜日は有給を取り、ずっと見たかったクルエラも映画館で観て、
今日土曜日、これまでのリサーチから一番よいお店と思しきピンサロに突撃した。
ネットのクーポンを見せて、指名料をタダにしてもらい、6000〜7000円。
2人会えばどちらかは好みだろうと花びら回転のダブル。
で、あんまり細かいシステム的な予習はしなかったので、「急にボールが来たので」くらいばたつきつつパネルから1名を選ぶ。
最初は、パネル全体が候補だと思い、本日出勤のマークがない人を選んでしまった。
ただそのとき、今まで一回も活用しなかった、多分週刊現代とか週刊ポストの風俗探訪もので昔見た「パネルは実年齢より数歳上」という知識を急に思い出したりしながら、瞬間的な本能でチョイスを行う。
すぐに案内できます、と言われ、意味するところが分からなかったが、そっかまだお金払ってなかったと思い、お金を払い店内は。
こんな漫喫的なシートがずらずら並んでいるとは想像しなかった。
音楽も想像外だったが、とろサーモンの久保田のセクキャバ?かだかのボーイのかけ声を聞いていたおかげで、なんとかその延長上で理解をできた。
で、席に座り、あっ貴重品とか隠せる(というか盗撮対策でスマホとかをそこに入れないとダメ)と思いながら待つこと数分。
よっしゃ、きたー。
めっちゃ好み。
こういうお店が初めてであることを伝える。
最初にお姉さんがおしぼりを10本くらい開けるの、これもケンコバか誰かの話で一度聞いたことがあったのだと思うが、そんな忘れ去っていた記憶が一気にやってきて「あの風俗あるあるってこれのことかー」と小さく感動した。
で、ネットのピンサロ体験では、最初に5分くらいのスモールトークがあってと書いてあったが、ズボンとパンツ脱いで、おしぼりで拭いてもらうと、すぐに口内奉仕が始まった。
普段が皮かむりだからか、刺激に弱く、フェラチオ自体はそんなに好きじゃないけど、
こんなにあっさりとことが始まることに半ば感動しつつ、お尻とか、太ももの辺りをさわさわして、元気出るー的なことを言ってた。
肌が本当にすべすべで、めっちゃ当たりだわと思った。
こういう風に肌に触れて、体の重みを感じて、その回春的なもののためにここに来たのだー、という気持ちになった。
昨日の夜に抜いていたので(今日のために抜いたというより、寝る前の習慣になってるせい)フェラで行くことはなかったけど、
無理に喋らずに済んで、でもこんなに女性を感じられるなんて、なんて素晴らしいんだと感じつつ15分が過ぎた。
2人目の人も悪くはなかったけど、1人目の人ほどの感動はなかった。
ここでも射精することはなかった。
店を出て、いくつか調べ物をしつつ家に帰った。
次は2週間後くらいにまた行こうかなと考えつつ、新型コロナのリスクのことを検索し、その流れで性病の可能性もあるかというところで、
いややっぱ性病は妻にまずい、それが原因の不妊などだけは避けねばならない、これっきりにしようと思い、
メンズエステなら、性病はないのではと、そっちに舵を切ろうと思ったら、
いやしかしピンサロって店の子の定着率が低いというのを見て、いや、あんないい子、あと2、3回は会いにいかないと後悔すると思ったり、
しかし、それから店の体験談を見て、あらこの子、数年前から長く続いてる子だと学んで、じゃあそんなに焦っていく必要もないかと思ったり、
(関係ないことによる)消極的賛成/(現状維持を望む)消極的反対についてはまあ別にどっちでも良いんじゃねって思う
→多少は減るだろうけどホモ同士で結婚するホモはそもそも異性結婚して子供作らないのでは?※要データ
・犯罪が増える
→法案が可決されたところで犯罪は犯罪なので犯罪者が可視化されるだけ
・セクシャルマイノリティの幅が広すぎる
→これはそう どこからどこまでをカバーするかも現状活動家様の気分次第なのでこれについてはマジでなんとも言えない
→これは割と難しいところがある。LGBT用の場所を設けた上で、無い場所はお断りするぐらいは必要だとは思う
その場合どうやって判別するのかや場所の確保という問題はあるので割とこれが一番のネックな気はする
正直どこまで行ってもこの辺の施設に関してはちんこ有無で判断するしかない気はするんだよな現実的に
・ホモに襲われる
・ホモに襲われた
・LGBTのこと考えてるんじゃなくてただの権利ビジネスじゃん
→それは本当にそう思う