はてなキーワード: タトゥーとは
手のひらに眼のタトゥーをいれよう
女性が男性に並ぶには、爪を切るのがとりあえず一番早い。ぜひ爪を切ってほしい。お願いだ。
そもそも爪を伸ばしてマニキュアを塗るという行為は、「私は下働きをしない高貴な身分である」ということのアピールだ。
実際、中国やアジアでは貴族男性も爪を伸ばしていた。家事をしなくてもいいことの証明、ひいては富裕層であることのアピールだったからだ。これは肥満にも言えることだが。楊貴妃がその典型例だ。纏足、長い爪、豊満な体。それは全て富裕層の証だった。
とある儒者などは、生涯一度も爪を切らなかったことを自慢していたほどだ。儒者特有の「親からもらった身体を傷つけない」という価値観のせいでもあるが(この価値観はタトゥー問題として現代にも生きている)。
今はもうそのような時代ではない。どんな身分の人も、働く時代なのだ。
だからぜひ、爪を切ってほしい。
爪が長いままスマホを使ったりキーボードを操作したり家事をすると、バネ指(指の腱鞘炎)に非常になりやすいのだ。「女性はバネ指になりやすい」という話があるが、これは爪が長いままいろんな作業をやるからだ。
爪が長いと指先の力が使えない。だから指の腹を使って力を入れることになってしまう。これはとても不自然なことなので、「女性は力が弱い」ということになるのだ。
女性の方、瓶のふたを開けるのに苦労したことはないだろうか?男性の方は、女性に瓶のふたを開けてくれと頼まれたことはないだろうか?
これも爪による。指先の力をしっかり使えていれば、瓶の蓋は簡単に開く。
女性は力が弱いわけではないのだ。もちろん上限値は男に劣るかもしれない。しかし、日常生活で「男に劣る」場面ははっきり言って、ないのだ。
女性はいろいろな面で枷をはめられている。ハイヒールやスカートを履くから「活動的ではない」し、爪が長いから「力が弱い」のだ。
だからぜひ、まずは爪を切ることから始めてみてほしい。長い爪が必要な場面では、付け爪を。そして男性には、爪の長さを女性に求めないでほしい。
もう楊貴妃の時代ではないのだ。電動工具があるから大工だってできる。We can do it.の時代からもう半世紀以上たってる。
そして、何よりも、今はスマホとキーボードの時代だ。スマホとキーボードを使うためにも、ぜひ爪を切ってほしい。指の腹で打ちにくそうに操作している姿を見ると、とても心配になる。バネ指まっしぐらだからだ。
バネ指というのがわからない人は、「指のぎっくり腰」と思ってもらえばいいと思う。朝起きると指が折りたたまれて、動かない。恐怖の体験だ。身の回りの中年女性に聞いてみるといい。経験者は多いはずだ。
指先の力というのは本当に大事なものだ。指先の力を使えるかどうかで、力の出し方は全く変わってくる。これは武術をやっている人には大いに同意してもらえると思う。指先の力は本当に本当に大事だ。
爪が長いことが女性の上限値を大幅に下げている。纏足と同じだと個人的に思う。纏足の人に100m走で勝って「こいつは脚が遅いな」って言っているようなものだ。
この「指先が大事論」を実証するため、在宅ワークを利用して2か月ほど爪を切らないで生活してみた。爪の長い女性と同じ体験をしてみたのだ。爪を整え、割れないように気を使って生活をした。
すると、全く力が入らない。とんでもないハンデだ。袋を開けるにも苦労する。料理だって大変だ。キーボードで文字を打つと、肩甲骨のあたりが異様に凝る。なんというハンデだろう。これはもはや現代においては障害クラスなのではないか。
筋肉には多少の覚えがあった自分だが、爪が長いことによりパワーは半分以下に落ちた。筋トレをするにも、指先に十全な力が入らないので効率が悪すぎる。
爪を伸ばす前までは40kgのダンベルカールを2回ギリギリ行けるくらいだったが、爪を伸ばすと34kgで2回が限界だ。
指先ではなく指の腹に力を入れるので、利かせることが難しい。これは無理だ。
タイトルではハイヒールやスカートより、と書いたが、これらも同様な枷だ。
爪の影響は非常に大きい。本当に大きいのだ。
とにかく爪を切ってほしい。爪を切って(爪を気にせず)指先の力を使う世界は別世界だよ、と、全ての女性に伝えたいのだ。
そして男性にも。生爪よりも付け爪。付け爪のほうがネイルを盛りまくれるので楽しいしかわいいよね、くらいの価値観になってほしい。
爪が長いのは、貴族だけだということを覚えてほしい。
フィクトセクシュアルやフィクトジェンダー、その他スペクトラムのような、迫害を受けてきたマイノリティを批判の対象とする以上、批判側の論理は反論側よりもはるかに緻密で慎重なものである必要があるんじゃないですかね。
「Aは賛同するが、Bは賛同しない」という複雑な立場は、こんな風に論点がとっちらかっていたら答えられるものも答えられない。
など、語るべき論点があまりにも多すぎて「もう少し勉強してきてください」という感じだ。
一応答えておくと、見たいか見たくないかで言えば見たいですかね。
前述の通り、これを答えたところで何にもならないのですが。
一時期は「処女でもいいよ~」なんて言っていたけれど
現に女性と関わって遊ぶようになって、遊ぶなら非処女でもいいけど結婚するなら処女だなぁ~とうっすら思うようになってしまった
言うなれば「昔の男の名前のタトゥーが彫られてる」のに近しいものであって
それも「昔の男のチンポでつけられたもの」だと思うとちょっと引いてしまうと思う
気持ち悪い話ではあるが、ちょっとした明かりで女性の広がった膜を視認して
でもそこで何も思わない、傷つかないのは相手が遊び相手で、結婚する相手では無いという考えがあるからで
やはり根底には「男は女を養うものだ」というジェンダー規範があるのだと思う。
「自分の人生と命を捧げるのだから、相手は純潔であってほしい」という願いだろうか。
確かに結婚する人がバリキャリで自分を養ってくれて、普段はデートでもリードしてくれて、性についてもリードしてくれて、死にそうなときは身体を呈して守ってくれるなら別に非処女でもいいし
「彼氏が非童貞だった」という女性の悩みを聞く事もあるし、ジェンダー規範が薄くなる現代、逆の事象が増えているとも感じるが
ともあれ自分は基本的にはリードする側で、リードする側にとって「リードする対象」自体の能力(つまり見た目や性格)はそこまで重要視していない。基本的に自分が頑張ればなんとかなるからだ。
そう考えると対象の一番の違いは「純潔さが残っているか」になるのよね。
「じゃぁ処女と結婚すればええやん」って意見はあると思うけど、非処女にも素晴らしい人が居るのは事実で、
ひょっとすると処女厨ではなく、「今まで処女にチンポタトゥーを入れたことが無い=男として能力がない」みたいな思い込みがあるのかも。
だからどうにかこの「処女厨」であることを無くしたいと思ったけど、これはどうも「リードする側」「される側」に深く刻まれた本能的なものなようで
例えば「子供が欲しい」と言う不妊の女性に「養子でええやん」って言うようなものだと思う。
年収3000万と結婚したい30代の女性に「若い男を養え」というようなものだと思う。
ジェンダー規範って簡単に捨てればいいもんじゃないし、捨てればそれまでの悩みがすべてなくなるわけでは無いのよね。
「リードする側」を諦めたからと言って、「リードされる側」になれるわけでは無いし、「リードされる側」を諦めても「リードする側」になれるわけじゃない。
そういう規範って、「リードするモチベーション」「リードされるモチベーション」に深く関わると思うんだよね。
多分非処女と結婚したわだかまりは、「浮気」とか「離婚」という形で表れてしまうと思う。
ジェンダー規範を捨てた先に待っているのは、自分がジェンダーとしての価値が無くなった世界で、ジェンダーを捨てた一個の人間として評価されるってのは一般人には非常に難しいわけですよ。
「我が国では刺青=ヤクザが常識!」で凝り固まった老害の脳みそでは、「タトゥーによってアイデンティティを表現する」人々の存在なんて目に入らないし、「ヤクザのない街づくりのために刺青を排除しよう!」が正義だと心の底から信じている。あるいは、ちょっと聞きかじった程度の知識では「外れ値の人々にはひとまず我慢してもらって……」と一言断っておけば済むと思い込む。酷いと「勘違いするようなことをする方が悪い!」と開き直る。「おまえらに配慮しているうちに、ヤクザは野放しになるんだぞ!」と。知らんがな。
「フィクションの表現や、あるいはアバターによって自らのセクシュアリティとアイデンティティを表現する」人々の存在なんて、所詮は「外れ値」扱いだからね。服と帽子と時計以外のオシャレなんて認められないのよ。
今では6桁もいるTwitterのフォロワーが4桁だった頃から推していたし、現実の人間でこんな長期間好きだった人も初めてだった。
5年の間に掛け持ちで別の人を推していたことも何度かあったが結局は降りてしまいずっと好きだったのはこの人だけだった。
イベントにも足を運び、接触も積極的に参加した。今月は厳しいから接触行かないぞ!と意気込んだはずが昂ったテンションで安くはない接触を購入したこともしばしばある。
手紙も毎回書きたいことが有り余って何通も出した。プレゼントを贈った回数も他の元推し達とは比べ物にならない。誕生日にそこそこデカくて高い家電を贈った同担にイラついたりもした。
流行りなど気にしない自分をしっかり持ったファッションへのこだわりがある所が好きだったし、実際この人の好みも自分の好みだった。
だけどこの人の好みは一般的な自分の感性を遥かに超越していた。
ずっとやりたかったことらしい。好きにしたらいいよ。本人の自由だもの。タトゥーやピアス、スプリットタンなどの人体改造くらいなら全然受け止められた。
1. 表現の自由戦士の自認
例えば百田尚樹氏の一橋大講演中止騒動などに興味は持てなかったし、一般の「表現の自由」にはあまり興味がありません。
表現の自由に明るい人々の話を聞くと、ヘイト本などは「買えば売り上げに貢献して癪なので、図書館が所蔵することで十分に批判されるべき」という意見が多数派のようですが、私個人は「目に入れたくない」「子供の目に触れさせたくない」という感想しか持てないのは、私自身の未熟によるところだと思っています。
刑法175条(わいせつ物頒布等の罪)により、いわゆる無修正のアダルトビデオの販売は基本的にできません。このような規制は適切だと思いますか?
(現状の規制は適切だが、その上で、より広く規制すべきである、という考えの場合も、ここでは「適切だと思う」に含まれるものとします。)
適切だと思いません。
「わいせつ物」などよりも、性行為を禁止する方がよほど有意義だと思います。
3. 名誉毀損
適切だと思います。
いわゆるヘイトスピーチ解消法(注1)は「国民は『本邦外出身者に対する不当な差別的言動』(注2)のない社会の実現に寄与するよう努めなければならない。」という基本理念を定めています(なお、禁止規定や罰則はありません。)。このことは適切だと思いますか?
(そのこと自体は適切だが、より範囲を広げるべきである、又は、禁止規定や罰則を加えるべきである、という考えの場合も「適切」に含まれるものとして回答してください。)
難しい質問ですが、どちらかと言えば適切だとは思いません。
現時点では実効力に乏しく、一方で実効力を持たせるよう強めてしまうと萎縮効果も無視できなくなり、「現行法の限界」を解消できたとは思えません。
(性質上、名誉棄損などとは違い親告罪にはできませんので、例えば友人同士の悪態などに萎縮効果を生むと、弊害を受けるのは当事者たちだと思います。)
とは言え代案もありませんので、現状ではbetterと言わざるを得ないかもしれません。
行政裁量権の範囲内で対応できなかったのかな、とは少し疑問に思っています。
(例えば、在日外国人の団体などの法人格に対する侮辱・名誉棄損として訴訟を起こすとか、それを行政として支援するなどがあってもよかったかもしれません。)
ヘイトスピーチ解消法上の『本邦外出身者に対する不当な差別的言動』(注2参照)につき、罰則を定めることは適切だと思いますか?
適切だとは思いません。
日本赤十字社は、2019年、漫画『宇崎ちゃんは遊びたい!』とコラボをしました。その際、単行本3巻の表紙に「センパイ! まだ献血未経験なんスか? ひょっとして……注射が怖いんスか~?」というセリフ等を加えたポスター(注3)を、献血ルーム内及び献血ルーム前に掲出したところ、一部から批判を受けました。このようなポスター掲出行為を禁止する法律を制定することは適切だと思いますか?
「このようなポスター」が未定義のため、この質問には回答不可能ですが、宇崎ちゃんのポスターが不適切だったとは思いません。
「このようなポスター」が公共空間から排除されるというのは、フィクトセクシュアル・フィクトジェンダー、並びにスペクトルに位置する人々に対する悪質な差別・虐待であると言わざるを得ません。
JAなんすんは、ラブライブ!とコラボしたパネル(注4)を設置したところ、一部から批判を受けました。このようなパネル設置行為を禁止する法律を制定することは適切だと思いますか?
「このようなパネル」が未定義のため、この質問には回答不可能ですが、ラブライブ!のパネルが不適切だったとは思いません。
「このようなパネル」が公共空間から排除されるというのは、フィクトセクシュアル・フィクトジェンダー、並びにスペクトルに位置する人々に対する悪質な差別・虐待であると言わざるを得ません。
8. あいトレ
あいちトリエンナーレ2019(「表現の不自由展・その後」を含む。)には補助金が交付されていました。この補助金交付は適切だと思いますか?
適切だと思います。
違法・暴力的手段で合法的な展覧会を妨害するような、犯罪者・反社会的集団に迎合する態度はありえないと思います。
通読したことはありませんが、 『リアル憲法学』法律文化社 を一冊持っています。
まず、「見たくない」からゾーニングを求めているのか、あるいは「悪影響がある」からゾーニングを求めているのか、それらの論点を都合よく使い分ける人を良く見かけますが、大変卑怯な態度であると言わざるを得ません。
「見たくない」人のために一歩下がるのは時に必要なマナーだと思いますし、それ自体の不利益はそれほどないので、受け入れることは難しくないと思います。
一方で、「悪影響がある」と認めるということは、(「悪影響」の種類にもよりますが、)「本来あってはいけない(が、ガス抜きとして見逃されている)」という(差別的)構造を追認することにほかなりません。
議論の土台が、「この世に存在してもいい」ということを前提にしていない限り、その「議論」に巻き込まれることそれ自体を拒否する必要が生まれてしまうのです。
これは「議論を拒否したい」ということではなく、むしろ建設的な議論をしたいのですが、それが難しいということです。
(「見たくない」という感情に「悪影響」という理屈を付けるな、という意見もありますが、私としてはむしろ、「悪影響」という偏見を「見たくない」という同情の盾で守っているようにも見えます。)
また、「見たくない」人のためのゾーニングばかりが議論されますが、主題はむしろ「見られたくない」人々のためのゾーニングにこそあると思います。(前者ももちろん大切です。)
プライバシー権というのは、古典的には「放っておいてもらえる権利(the right to be let alone)」とも言われましたが、これは自己決定権などとも関係の深い権利です。
例えば、「着たい服を着る権利」は、「公共空間に着て来るのだから、個人の自由では済まない」のでしょうか?
もう少し議論の分かれるところを言えば、「タトゥーを隠さない権利」についてはどうでしょうか?
安易な「ゾーニング」に反発する人々が求めている権利というのは、そういう意味で「放っておいてもらえる権利(the right to be let alone)」ではないでしょうか。
「エロ」という多義的な言葉で議論されることが多いですが、「性的活動に必要なポルノ」ばかりではなく、「文化的活動に必要なファッション、アート、ジェンダー・エクスプレッション」であることも少なくないと思います。(宇崎ちゃんのポスターや、ラブライブ!のパネルは、後者であると思います。)
その意味では、ゾーニングそれ自体はむしろ我々の権利を守る大切な壁であると思っています。
しかし、「ゾーニング」という言葉がそのように使われる場面がほとんどないのは、腑に落ちないところです。
さらに、表面的には「性的活動に必要なポルノ」であっても、それが政治的文脈を伴い、「政治的表現」として表出される場面もあります。最も扱いの難しいものとして、そのような「政治的表現」が、ファッションやアートに転ずるという現象もあります。
これは最初の議論に戻りますが、「性的活動に必要なポルノ」について、「本来あってはいけない(が、ガス抜きとして見逃されている)」ものではない、という声を上げる必要も時にはあります。
私は彼のインスタのアカウントを全部追うほどYouTuber Mickの大ファンだった者であり、今もAsuka Louisとしての彼の活動を追っていて、これからの彼の大ファンにそのままなるであろう者である。彼のことは大好きなのだが、最近の彼について勝手に心配に思っていることや意見したいことがあるので、この場で並べさせていただきたい。
彼は顔を出して堂々と活動しているのに私は顔はおろかネットのアカウント名さえ出せないようなつまらない者なので、ただの1ファンのつまらない意見として受け取ってほしい。こういう長文でダラダラ書くのは彼の潔いスタイルとはかけ離れているし物事を伝える上で効率的ではないのだが、私はこういう形でしか残せないので、もし目に止めてくれたらこんなに嬉しいことはない。
Mickは活動をやめてしまった。彼はたくさんの動画を消してしまったので発言を引用することはできないが、ジャスティンビーバーと同じ事務所に入ったばかりでYouTuberとしても音楽家としても活動をどんどん大きくするであろうという一番楽しみなとき、アメリカでのアジア人種差別についての学びのある社会実験動画をあげてしばらく経ったタイミングで日本のメディアに取り上げられ、その記事の題名に「日本育ちの韓国人」と書かれたことがショックだったというような発言があったと記憶している。
私は彼のような出自ではないし大して有名になったこともないので彼の辛い気持ちを推し量ることはできないが、なぜそこにそんなにショックを受けてしまったのか少し疑問に思った。
彼は人種差別についての動画をあげて、演技とはいえその中でアジア人であることを揶揄される。演技でもそれがすごく辛いことは簡単に想像できるし、あの動画を撮るのはすごく勇気がいっただろうなと思う。それには耐えられたのに、記事の題名がそんなに辛かったのか。
彼はもともと、自分が血筋上は韓国人であることは公表していたし、日韓英3ヶ国語が話せるという動画もあげていた(カッコいいなと思った)。それに、あの題名はMickがそう公表していたから付けられた題名であるわけで、そこに差別の意図は全くないはずだ。むしろあそこに日本人YouTuberと書くほうが大いに失礼だし、逆になにも書かないのでは記事の意図がよくわからないから、担当者がつけたにすぎない。
もともとあの動画は、アメリカでも差別に反対している人はたくさんいる、むしろそっちの方が多数派だということを伝える内容だったはずだ。なのに、Mick本人がアメリカではなく日本での差別にとらわれ過ぎてしまっているような印象を受ける。過去に辛いことがあったのかもしれないが、私含めほとんどのMickのリスナーは彼が韓国のルーツを持っていることを好意的にカッコいいことだと捉えていたはずなのだ。それを彼にはもっと知って欲しかった。
しばらくあらゆるSNSの更新を止めた後、彼は全く違う姿で戻ってきた。緑のパーマ、顔と首に大きなタトゥー。彼がひっさげたアルバムも、音楽性は大きく変わった。明るくアコースティック感の感じられる曲調から、どこか影を感じるビビッドな電子調に。それからインスタライブで彼は日本語を喋らなくなった。
Mickとしての彼が本物の彼自身でない演じられたものだったのなら、カメラに写る姿を本物の自分に戻しただけだ。でもMickerの私からしたらそれは全く違う人がカメラに写っているように感じられた。
私は彼の新しい門出を応援したいが、あまりに唐突すぎるように感じた。Mickを応援するファンはたくさんいたのに、一気に動画を消すのは少し自己中心的ではないか。もちろんMickerはものすごく凝ったクオリティの高い動画をタダで見せてもらって楽しませてもらっている立場なのだから彼は自分の動画をどうしようと勝手なのかもしれないが、Mickerがいたから元の彼は活動ができていたのだ。英語がわからないMickerもいるだろうに、Asukaとなった彼は日本語を話してくれないのだから、なにが起きたのか説明はないのと同じだ。
私はMickのオシャレな編集が大好きだった。音楽もシーンによくあっているし、映像の色合いも美しく、何より彼自身が楽しそうで、アメリカはこんないいところなんだと思わせてくれた。
せめて、彼がこんなにゼロから全てを変えて始めようとしているなら、Mickのチャンネルは手つかずのまま新しいアカウントを作って再スタートを切って欲しかった。もしくはMick時代の動画は消さないでおいて欲しかった。(最近MVなどをちょこちょこ戻してくれているようで嬉しいな。)
顔のタトゥー(シールかもしれないがいつもついているので私はタトゥーではないかと思っている)も心配の要因だ。タトゥーについてつべこべいうのはいかにも日本的価値観だと私自身思うし、誰にも迷惑をかけないのだから自由にすればいい。アメリカではタトゥーがカジュアルなことだと知っているし、私自身海外に住んだらいつか入れてみたいなと思い始めているレベルだ。でも顔に入っている人は少ないしやはり異質な感じを受ける。以前某YouTuberが顔にタトゥーを入れて炎上(というより心配されていた)していたが、その人のはAsukaのよりは小さめだった。もともとMick時代から腕や足にタトゥーがあったのならまだわかるが、こんなに唐突に、しかも顔に入れるなんてよほどの心の変化があったのだろう。
それから言葉。彼は曲は日本語で歌って(ラップして)いるが、SNSではほぼ英語のみを使うようになった。正直曲を日本で売ろうと思っているのなら日本語も少しは使うべきだと思うし、日本語だと自分の感情をうまく表せないと言っていたが、いくら英語が使えるとはいえ母語である日本語の方が圧倒的に得意なはずだ。私は彼が英語のみを使うことで、前の自分との違いを際立たせているようにしか見えない。以前よりもswear wordsを使うことも圧倒的に増えているし、曲にもたくさん使われている。私はAsukaが無理に変わろうとしているように感じられて少し心配だ。
躁鬱病という、躁(めちゃめちゃ気分がハイになり、取り返しのつかないことまでなんでもしてしまう)と鬱(反動で何もできない、気分がすごく落ち込む)を繰り返す病気があるのだが、こういう行動は躁っぽく感じるので尚更とても心配だ。絶対に自分は違うと思えても精神のことは自分ではわからないものだから、ぜひ周りに相談してほしいと思う。
8月末のインスタライブでは笑顔も久々に見ることができ少しだけ安心したのだが、気になる発言があった。「本物のファンというのは俺がどんな馬鹿げたことをしてもついてくる人だ」というような内容のことを彼は言っていたと思うが、それは違うのだと言いたい。Asukaが言っているのはただの信者であってそれはファンではない。本当のファンは、いつも応援している人に心配なことがあったらそれを伝えることができる人のことだと思う。(頭ごなしに否定するのはただのアンチ。)
Asukaは私のことをファンではないと思うかもしれないけど、これからも応援しています。別に辛いことがあってもリスナーの前で無理してカッコつける必要はない、等身大でいて、これからも私たちを楽しませてくれればそれでいい!本当の自分を一番大切にしてください。