はてなキーワード: クローザーとは
巨人が最下位を驀進している。何の不思議もない。結果を出せなかったヘッドコーチがバッテリーコーチまで兼任している、キャリアで3割打った年が1年しかない選手が1軍バッティングコーチをしている、スタメンに右打者をずらっと並べて代打には左しかいない、などいくらでも理由は挙げられるが、一番どうしようもないのは采配がフローチャートで完全に予測可能なことだ。1点以上負けているときはほぼ以下の通り。
・5回 投手の代打にお試し枠の選手が出る。塁に出ればめっけものくらいの扱い。
立岡、田中俊太など。ここで阿部や亀井を出すことはまずない。また、もっと早くから勝負することもほぼない。場合によっては2番にも代打を出せばいいと思われるが、ここでは出さない。
・6回 1点でも負けていれば敗戦処理コースが出てくる。宮国、田原など。今は調子が良い選手が入っているのでそんなに打たれないが、もっと酷い選手が入っていたときはここで炎上していた。この選手たちが勝ち継投や先発に昇格することはほとんどない。また、ピンチになっても点を取られるまで降ろされない。
・7回 小林または投手の代打に大城が出る。小林が何割打っていても8番のまま。捕手交代。
・8回または9回 主に2、8、9番のところに阿部が出る。クローザー相手なので打てない。終わり。
敵からしたらこれほどやりやすい相手もないだろう。流れを変えようという手が一つもない。判子が采配した方がマシである。ランダムな要素がほんの少し入っただけで全然違うはずだ。相手を裏切り、流れを作る采配をしてほしい。
最近、気が短くなったのか会社でうるさい奴らが妙に気に掛かってしまう。
かける側はどんなに長くても10コールで切れ。常識だろ。何をバカみたいに待ってんだよ、おまえがイラついてる以上に受ける側の周りはイラついてんの。
もっと言うなら社内直通内線なら5コール程度で切って、共有スケジュールで確認しろ。そいつはいねえから周りも出ないんだよ、出ても大概どうしようもないだろが。
受ける側、同じ担当で鳴ってるなら直通でも代理で取れ。絶対に電話出ないと意固地なオッサンいるだろ。担当が違うからこっちで代理できねえんだよ (仮に出てもお前らの中身知らねえし)。シカト決めてんじゃねえよ、新人研修からやり直せ。
最初の「ツー」がうるさい。どっちにしろ受話器取るんだから、何を手間を省いた気になってんだよ。心底バカだろ。
OAフロアだから響いてうるさい。つか、何でそんなにかかとが固い構造なの? 上げ底?
カチャカチャうるさい。明らかに効率悪いんだから、設定でマウスカーソルの移動速度上げるとかしたら?
言わずもがなうるさい。浮いてるぞ、お前。特に電話になると声量が跳ね上がる奴。あとオバハン。
うるさいと思わないわけ? 「ドアクローザー」の存在を知らないならググれ。
ドライバー一本ないしは六角レンチ一本で10秒もあれば解消できることを知っとけ。
●歩く音がうるさいオッサン。
お前が近づく20m前からわかるぞ。つか社内で何履いてるの? サンダル?
その引きずり歩きを直せないなら、小学生のゴム上靴でも履いとけ。俺がつけたあだ名知ってるか? 「鬼太郎爺」。
携帯を机の上に置いてバイブ鳴らすところまでは許す。だが何らかの反応しろよ。何で「俺のかな?」って思わなきゃいけねえんだよ。逆に言うと反応する必要ないってわかってんなら、バイブもオフにしとけ。
「メジャーリーグ史において最も重要な40人」はアメリカの著名スポーツメディア「スポーティングニュース」が先日発表して話題となったもの。ソースはこちら。
The 40 most important people in baseball history, ranked | MLB | Sporting News
ここで挙げられている40人について調べてみたんだけど、筆者はMLBにそこまで詳しいわけではないので、何か誤認・誤訳があったらごめんな。
MLB史上最大のスター。驚異的なペースでホームランを放ち、MLBの野球を「ライブボール時代」へと変えた。当時、ブラックソックス事件により信頼を失っていたMLBは、ルースの人気によって復活し、さらにはアメリカ最大のスポーツにまでなった。
近代MLBにおける初の黒人選手。ニグロリーグで活躍した後、1947年にドジャースでMLBデビューして、MLBの「カラーライン」を打ち破った。またMLBの初代新人王でもある。
1920年、ブラックソックス事件の収拾を図るために、強大な権力を有するコミッショナー職が新設され、判事であったランディスが就任した。事件に関わった8人の選手は永久追放とされ、その厳格な対処がMLBの信頼回復に繋がったと考えられている。
1900年にアメリカンリーグを創設し、現在まで続くMLBの2リーグ体制を作り上げた。審判に権力を与え、違反行為に厳しい罰則を課すことで、クリーンなイメージを生むことに成功した。強権的な性格から、のちにランディスと対立して辞任した。
カージナルスやドジャースのGMを歴任し、MLBで初めて選手育成のためのファーム制度を整えた。また、ジャッキー・ロビンソンと契約して、黒人選手がMLBに参加する道筋を作った。
1966年、エコノミストとしての経験を買われてMLB選手会の代表に就任し、最低年俸の増額、選手年金の拡充、そしてFA制度の導入に貢献した。彼の在任期間中に選手の平均年俸は1.9万ドルから32.6万ドルにまで向上した。
スポーツ用品のSpalding社を興し、ナ・リーグ創設にも関わった。初めて野球のルールブックを出版、ボールの標準化に努めるなど、初期のMLBの発展に尽力した。野球選手としても超一流で、通算勝率のMLB最高記録を保持している。
シカゴ・カブス(の前身)の社長であり、1876年のナショナルリーグの創設者の一人である。のちにナ・リーグの第二代会長に就任して公正かつ厳格な運営を行い、MLBの基盤を作り上げた。スポルディングとは盟友だった。
黒人野球チームのスター選手であり、また球団オーナーとしても成功した。彼の呼びかけによって、1920年にニグロリーグが設立された。「ブラックベースボールの父」と呼ばれる。
野球評論家・統計家で、「野球の父」とも呼ばれる。ボックススコアを考案して試合の記録を取り、「打率」などの指標を提唱した。またスポルディングのもとでガイドブックを刊行するなど文筆活動も盛んに行い、野球の普及に多大な貢献をした。
元はブルワーズのオーナー。MLB選手会とオーナーの対立が激化していく中で、1998年(実質的には1992年)に第9代MLBコミッショナーに就任。リーグの再編、収益分配制度の導入、オンライン配信の開始などにより、就任前と比較して5倍以上とも言われる空前の収益をMLBにもたらした。
ドジャースのオーナー。冷徹な経営者であり、1957年に球団をブルックリンからロサンゼルスへ移転させた。それによりアメリカ西海岸における野球ビジネスを開拓し、経済的には大成功を収めたが、ブルックリン住民からは深く恨まれた。
1977年から1988年まで刊行した「Baseball Abstract」を通じてセイバーメトリクスを提唱した。米国野球学会(SABR)のデータと統計の手法を用いて、RCやRFなどの様々な新しい指標を作り出した。
1974年、ドジャースの選手だったトミー・ジョンに、自らが考案した靭帯再建手術を施し、それを成功させた。この手術は「トミー・ジョン手術」として、いまでは広く施術されている。また、1990年には肩再建手術も成功させている。
ブレーブスで活躍し、ベーブ・ルースの記録を超える通算本塁打755本を放った。黒人のアーロンが白人のルースの記録を破ることには反発もあったが、彼はそれを乗り越えた。通算打点2297点は現在でもMLB記録である。
ヤンキースに所属し、当時の記録である2130試合連続出場を達成して「鉄の馬」と呼ばれた。しかし筋萎縮性側索硬化症に苦しみ引退、そして37歳の若さで亡くなった。背番号の「4」はMLBで初めて永久欠番となった。
野球クラブのニッカーボッカーズや全米野球選手協会(NABBP)において、チームの人数や塁間の距離、一試合のイニング数、バウンドルールの撤廃など、基本的なルールの策定に貢献した。遊撃手のポジションの創始者とも言われる。
(野球ルールの策定に関してはアレクサンダー・カートライトの名前がよく挙がるが、現在ではドク・アダムスを評価する声が多いようだ)
ニグロリーグで活躍した後に、MLBで最初の黒人スカウトとなり、最初の黒人コーチとなった。ニグロリーグ野球博物館の設立や、ドキュメンタリーへの出演、多くのインタビューを通して、ニグロリーグへの関心を高めることに尽力した。
MLBにおけるヒスパニック系選手の先駆けであり、中南米出身で初めてMLB殿堂入りした。慈善活動中の飛行機事故により38歳で亡くなり、そのため慈善活動に貢献した選手に贈られる賞にその名が冠されることになった。
肩、肘、膝に関する整形外科医。1985年、ロジャー・クレメンスに施術した関節鏡手術で脚光を浴び、以降もスポーツ医学の権威として数多くの選手の手術を担当している。
「シューレス」の異名で知られるMLB初期の名選手。しかし、MLB最大の八百長事件であるブラックソックス事件に巻き込まれ、MLBから永久追放された。ファンは彼に同情的であり、いまなお悲運の選手として記憶されている。
最多安打4256本や最多出場3562試合などのMLB記録を持つ「安打王」。しかし、引退後の1989年に野球賭博に関わっていたことが発覚し、MLBからは追放された。
走攻守すべてに優れたMLB史上最高のオールラウンダーであり、当時MLBにおいて台頭しつつあった黒人選手の代表格でもあった。オールスター24回出場は最多タイであり、「オールスターはメイズのために作られた」と評された。
1901年にアスレチックスの初代監督に就任すると、それから1950年まで指揮を取り続け、5度のワールドシリーズ制覇を成し遂げた。もちろん監督の就任期間としてはMLB史上最長である。
上院議員、ケンタッキー州知事、そして第二代MLBコミッショナー。ランディスが黒人参加に否定的だったのに対して、チャンドラーは進歩的であり、1947年にドジャースおよびジャッキー・ロビンソンを支持し、その契約を承認した。
連邦最高裁判所の名判事として著名。1922年、球団が選手の移籍を制限できる「保留制度」について、それが反トラスト法に該当しないとの判決を下した。これにより、現在までもMLBは反トラスト法適用免除の特例として扱われている。
1900年にパイレーツのオーナーとなった。その後のナ・リーグとア・リーグの対立を調停し、「ワールドシリーズ」を提唱して1903年の初開催に尽力した。また1909年に、鉄筋コンクリート製の近代的な球場を建設したことでも知られる。
スコットランド出身のビジネスマン。1934年、野球発祥の地であるクーパーズタウン(これはスポルディングが広めたデマであるが)に野球博物館を作ることを思いつき、そのアイディアがアメリカ野球殿堂の元になった。クリーランド自身は野球に全く興味がなかった。
レッドソックスで活躍し、MLB史上最高のバッターの一人とされる。最後の4割打者であり、通算出塁率.482はMLB記録である。1970年に刊行された、自身の打撃理論を記した「The Science of Hitting」は、後の多くの打者に影響を与えた。
大学で統計を学び、1969年にスポーツ百科事典「The Baseball Encyclopedia」を、1974年からは「Sports Encyclopedia: Baseball」を毎年刊行し、高い評価を得た。他にサッカーやバスケットボールの百科事典も編纂している。
ジョン・マグローらと並んでMLB史上最高の名将とされる。ホワイトソックス、アスレチックス、カージナルスの監督を歴任し、ワールドシリーズを3度制した。データを駆使した細かな継投を得意とし、現代的な「クローザー」というポジションの確立に貢献した。
MLBで首位打者を獲得するなど活躍し、引退後は監督となった。1934年に日本の野球チームと対戦したとき、相手チームに「ジャイアンツ」というニックネームを贈った。1949年に訪日した際にはチームを率いて全国巡業を行うなど、戦後日本に野球を広めるのに貢献した。
アストロズのオーナー。1965年、世界初のドーム球場・アストロドームを建設し、さらにドーム球場では天然芝が使えないために、人工芝アストロターフを開発した。人工芝は70年代に流行し、その走りやすさからMLBの野球をスピーディなものに変えた。
MLBのインターネット部門であるMLB Advanced Media社(MLBAM)のCEO。MLB.comを運営し、試合のオンライン配信や、チケットの販売などを開始したことで、巨額の利益を上げている。
1998年のサミー・ソーサとの最多本塁打争いにより、1994年のストライキで低迷したMLBへの注目を取り戻した。最終的に70本塁打を放って当時の新記録を作ったが、2005年頃からステロイドの使用が確実視されるようになり、その名声は失墜した。
1969年、カージナルスに所属していたフラッドはトレードを拒否し、マービン・ミラーと共に「保留条項は反トラスト法違反であり、トレードは無効である」との訴訟を起こした。裁判には敗れたが、この事件をきっかけにFA制度が導入された。
日本での任意引退を経て、1995年にMLBのドジャースと契約した。30年以上前の村上雅則を除けば、MLBで長年に渡って活躍した初めての日本人選手であり、その後も続々とMLBに移籍する日本人選手たちの先駆けとなった。
1977年のワールドシリーズで、当時のMLBコミッショナーだったボウイ・キューンは、女性記者であることを理由にラットクの取材を許可しなかった。彼女は平等な取材を求めて訴訟を起こし、勝利した。これ以降、全てのチームが取材に制限を設けないようになった。
1920年、カージナルスの選手だった彼は、野球用品メーカーとして有名なローリングス社に、グラブの親指と人差指のあいだに「網」を貼るべきだと提案した。これにより現在の形の野球グラブが完成した。
2002年、レッドソックスのGMに史上最年少となる28歳で就任する。2004年のWS優勝で「バンビーノの呪い」を打ち破ると、2012年には新たにカブスの球団社長となり、2016年のWS優勝で「ビリー・ゴートの呪い」までも打ち破ってみせた。
【MLB】盟友グリフィーJr.氏 イチロー日米通算記録に「“世界記録”は名案」(Full-Count)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160617-00010007-fullcount-base
多くが忘れてるが張本も日米通算で記録を抜かれた際、NPB記録はあくまで私ですからとイチローを認めていない。
あとご存じの通り彼はMLBをNPBよりクソだと思ってるから来年にはMLB単独でもイチローに安打数抜かれそうだけど、それも認めなそう。
実際問題それぞれリーグが違うのだからNPB記録は張本、MLB記録はピートローズというしかないというのが正しいかもしれない。
それにMLBはシーズン中に違うリーグ移籍すると年間成績が別々に取り扱われるくらいに記録の集計にデリケートだから、
国もリーグも違うものは尚更同じ記録扱いにされることを簡単に納得しにくいだろう。
賛否両論あれどイチローが日米両リーグに跨がって活躍したことはどちらか単独で記録を作ったのは良かったことだと思う。
イチローのようにそれぞれの国で5年から10年以上にかけて長年プレーしながら通算で記録を達成することはNPBだけもしくはMLBだけで記録を達成するより難しいことだと思われる。
日米のリーグ差の問題はあるが率や安打数においてはリーグとの相性も加味されるし、試合数の差も考えると同等程度か、レギュラーをとれる一流選手であればMLBの方が安打数は多く積み重ねやすいのではないかと思う。
イチローも言っていたがNPBだけで4256安打打つことが一番難しいかもしれない。
NPB記録保持者の張本勲が唯一の3000本以上で通算3085安打。王貞治は世界記録の868本塁打を打ったが2786安打。
755本塁打のハンク・アーロンは通算3771安打。714本塁打のベーブ・ルースは2873安打。
そのデータを見るとNPBの方が当時はより球場も狭く投手のレベルも低いのでMLbより本塁打数を重ねやすいというのは分かるものの、その点からいうと安打数においてアーロンやルースより王の方が少ないというのは少し違和感があるし、20世紀前半以前のMLB記録を抜いて考えるにしてもMLBでは3000安打達成者は最近でもジーターらを始め何人か生まれている。
MLBでは4~6番が主で、イチローのように打席が多く回りやすい1~3番の打順で試合に出ることが少なかった松井秀喜でもMLBで打率.305を記録した2005年には200本に迫る192安打を記録している。
松井は日本ではシーズン167安打が最高だったが、MLBで怪我するまでの1~3年目は全試合出場していることもあり、安打数は日本時代のキャリアハイより多い170本以上を毎年記録している。
したがって、それなりに打率を残して試合に出続けられる選手ならばMLBの方が安打数は積み重ねやすいのではないかという可能性が考えられる。
日米の単純な野球のレベル差というのも議論の余地が多少残る。本塁打は明らかに日本の方が打ちやすいことが通算上位の安打数における本塁打率の差からも分かる。
ただそれもトップ中のトップになると四球責めになりやすいNPBよりは同じ四球責めを喰らうにしてもやはり試合数が多いMLBの方が有利となるが。ソーサマグワイアやボンズが日本でやったら毎年のように60本打てたかというと四球責めで減っていただろう。
実際ボンズは476打数で73本塁打の翌年から勝負を避けられて400前後の打数で40本台に減っている。
日本だと試合数が少ないしさらに勝負を避けられて250打数で40本とかになっていたかもしれない。
また、MLBのトップなら誰でも日本でMLB時代と同等以上に成功するかというとそれも難しい所がある。
オールラウンドに打てる巧打力があればどのリーグでもそれなりの率を残せるが、得意なコースや球種に偏りがあると日本ではあまり打てないということがありうる。
現役メジャーリーガーでもパワーヒッター系よりミート力の高い中距離打者の方が日本では成功率が高い印象がある。
彼らは信じられないほどの成績を残したりもしないが失敗例は少ない。フリオ・フランコ、シェーン・マック、元西武のフェルナンデスなど。
1980~90年代は日米の年俸が近かったせいもあって意外と今よりもMLBの本当のレギュラークラスが多数来日している。
彼らは十分に日本でもレギュラーとして通用した選手が多いものの、センセーショナルな活躍をしたかというと、そういう例は少ない。
特にフランコはMLBで首位打者獲得を経験しており、全盛時に来日したMLBでもトップクラスの選手だが日本での2シーズンは.305 10本、.290 18本とさほど目立つ成績ではなかった。
本拠地が千葉マリンのロッテに所属したせいで本塁打が少なくなった影響はあるかもしれないが、ほぼMLB時代と同じくらいの成績になっている。
シェーン・マックは来日前までのMLB通算打率が.2994というバリバリの一流レギュラー選手だったが、日本では2年間で通算.284と打率を落としている。本塁打数と長打率は増やしており安定して活躍したが、NPBとMLBそれぞれの通算長打率やOPSを見てもあまり差がない。
それらの成績を見るとNPBがMLBよりレベルが遥かに劣るとは考えにくい。
また、マックは彼以外の日本で成功する外国人選手の共通点でもあるが、野球に取り組む姿勢に非常に優れていたらしい。
野球に取り組む姿勢の良さは、日本からMLBに行く日本人選手の成功と失敗を分ける要因にもなっていることがいえるように思う。
その姿勢の問題でよくネタにされるグリーンウェルもバランスのいいタイプの中距離打者だったはずだから、真面目に取り組めばNPBでも通用したと思う。
日米でも、それぞれ何故か片方で通用しながら片方では通用した選手というのがいる。
日本から帰国後にMLBで最多勝を獲ったガリクソンや帰国後にMLBで本塁打王を獲ったフィルダーなど日本で何かを掴んで覚醒して両国で活躍した選手もいたが、その逆は比較的少ない。
井口や城島、福留、西岡などは故障や衰え、メンタルの問題などでMLBを去った後も日本で活躍したといえるのだが、しかし日本での全盛時に比べると物足りない。
岡島や五十嵐などはMLBで一皮剥けて何かを掴んで帰ってきて日本でも活躍したが、大家やマック鈴木などは結局日本では殆ど活躍できなかった。
日本に出戻りではないが韓国のパク・チャンホも衰えていたとはいえ日本では通用しなかった。その後韓国でも通用しなかったようである。
あとは中島や松坂などを見ても、今はもはやアメリカ帰りが日本で簡単に活躍できる時代でもないし、MLBで1.5流程度にやれたら日本や韓国では1流以上というわけでもないようである。
今までで最も日本に衝撃を与えた外国人選手は多分ホーナーなのだろう。
マイナー経験なしでメジャーデビューしたエリートで、そのまま主軸で活躍していたメジャーリーガーが来日し、その肩書き通りに凄まじい成績を残した。
恐らく最もNPBのレベルが相対的に高かった1990~2000年前後よりさらに日米のレベル差が激しかったと目される当時(1987年)で.327 31本。
故障離脱があり93試合での成績だからかなり凄いのだが、当初は4割60本くらい打たれてしまうのではというほどの期待と恐怖があっただろうに結局はその程度の人間らしい成績に収まったともいえる。
バース、マートン、ペタジーニ、カブレラ、ラミレス、ロバート&タフィ・ローズなどMLBでは大した成績を残していないながら日本でレジェンド級の成績を残した選手が多いので日米のレベル差は激しいと考える人も多いが、
逆にMLBで彼らを遥かに上回る成績を残して日本にやってきながら日本では彼らに全く及ばない成績に終わっているメジャーリーガーも上述の打者達のように多く存在するため、レベル差というより相性の問題もかなり大きい気がする。
日本でいえばMLBでも通用した田口壮や新庄は、アメリカでさっぱりだった中村紀洋や中島裕之以上の打者といえるのか…など。
歴代最強助っ人のバースは速球が苦手で変化球が得意だったらしく、そのおかげでMLBより速球投手の少ない日本で適応して史上最高の助っ人と呼ばれるような成績を残すことになった。
一方、当時そんなバースに速球で真っ向勝負を挑んだ津田や江川の勇気と度胸が賞賛されていたみたいだが、そういう事情を考えるとむしろ速球が持ち味の投手が速球が苦手な打者に速球で挑んだのだからただのセオリー通りなのでは…という気もする。
強打者に速球は怖いという先入観から変化球勝負で逃げたつもりが逆にバースにとっては都合が良かったというのが活躍の要因かもしれない。
もっとも、日本ではバースが苦にするほどの速球を投げる投手も限られているので速球勝負でも打たれていたのだろうが。
落合はその当時ですらMLBで4番を打っていたホーナーよりMLBで実績のないバースの方がNPBにおいては成績を残せる打者だと評していたらしいが、そのあたりの本質を突ける度胸と観察眼は凄いものがある。
MLB移籍前に日本で圧倒的な成績を残していたイチローだったが、当時は日本の専門家の話でもMLBでは打率3割を打つことすら難しいとの声が多かった。
そのMLB移籍前のイチローとの対談において、落合はメジャーに行ったらどの打順を打ちたいかという話題を振ったことがあった。
その際、イチローが「メジャーに自分より凄い奴がいたら7~9番を打つ」と謙遜することを言ったのに対して、
落合は「(イチローより凄い奴はメジャーにも)いない」と突っ込んでいたのだった。
日本人や韓国人選手も今よりももっと多くの選手を輸出すれば、日本や韓国では大したことなくてもMLB で成功する打者が現れるのではないか。
既に投手はそういう例が多数あるし、打者においても韓国のチェ・ヒソプはMLBでレギュラー半でいながら2年連続15本塁打と健闘する成績を残した上でKBO(韓国)のチームに入団したが、韓国では期待に近い成績を残したのは1~2年だけで他はパッとしない成績しか残せないまま引退してしまった。MLBと比べたNPBよりもさらにレベルが低いと目されるKBOですらMLBの実績の割にKBOでパッとしない例が散見することからも、少なくとも日米韓の数字の見かけ上のレベル差はここ数十年でかなり縮まっていると思われる。
もちろん、主に内野守備や球場など、総合的なプレーのスケールや文化のレベルにおいては向こう三十年以上埋まることがないと思えるほどの差があるが。
韓国人選手はNPBで通用しなくてもMLBで通用しそうなタイプの打者が多いように感じる。
イ・スンヨプやキム・テギュンはNPBよりMLBでの方が安定して成績を残せそうなタイプに感じていた。起用してもらえたらというのと、テギュンの場合は環境への適応も課題だが。
実際に今年は韓国人野手が何人もMLBに移籍して打率の面で物足りなさはあるが長打の面では驚くくらいのレベルで健闘している。パク・ビョンホは打率は2割前後ながら既に11本塁打、イ・デホは起用が少ないながら10本塁打で打率も3割近い。怪我から復帰したカン・ジョンホも打率2割後半で9本塁打。
あとはNPBでも活躍したとはいえ、信頼感抜群のクローザーだったとまでは言い難かったオ・スンファンがMLBで奪三振率が12以上で防御率も1点台で十分通用しているのを見ても、もはや日米のレベルの差は相性と調子が一番大きな要素になる程度なのではとすら感じる。
日本でも落合や清原など外角を得意にして速球を得意にしていた打者はMLBでやっても面白かったのではないかと思う。両者の日米野球での成績は散々だが、実は松井秀喜も日米野球ではあまり打っていないながら通用したので、さほど直接的には関係しないように思う。
また、両者は飛び抜けた才能と技術の塊だから対応力があったのではないかとも思われる。特に体格的にもMLBの強打者に引けを取らない清原は何かの拍子によっては、むしろNPBで才能だけで適当に続けてしまった後の現状より成績的にも素行的にも好転していた可能性すら考えられる。実際清原が若かった頃はMLBからも注目されていたらしい。
しかし関西出身野手のアメリカ挑戦惨敗率の高さを考えると、清原もメンタル的に微妙だったかもしれない。
つまるところ、全てのリーグで活躍した選手こそ最も優れている選手といえるのであって、MLBでナンバーワンになった選手がNPBでも必ずナンバーワンかというと怪しいのである。
もしかしたらマグワイアやソーサ、ボンズらはNPBでは松井や中村紀、カブレラやローズらより打てなかったかもしれないし、松井や中村、小笠原、松中らはKBOではイ・スンヨプやイ・デホよりも打てなかったかもしれない。
最近キューバのトップクラスの打者が何人かNPBに来たがさほど凄まじい活躍をしたといえるほどでもない。
グリエルは62試合で.305 11本、デスパイネも1年目は45試合で.311 12本だから凄さを見せたといえるが、2年目は103試合で.258 18本。十分通用はしているものの目を見張るような成績ではなく、単純にこのレベルの成績の選手がMLBに行くと簡単に主軸を打てそうという想像はつかない。セペダに関しては逆に何故あそこまで打てなかったのか意味が分からないが…。
じゃあキューバの打者が大したことないのかというと、彼らとキューバ時代は同等程度の成績だったセスペデスやアブレイユらが亡命して、MLBの主軸として活躍できている。
グリエルやデスパイネの成績から考えるとキューバと日本の投手の相性があまり良くないのではないかと考えられる。つまり、MLBで3割30本近い成績を残しているセスペデスやアブレイユでも、NPBではより成績を落とす可能性が低くないと思われるし、したがって、MLBの超一流なら高確率で、NPBで同程度から同等以上の活躍ができるとは決めつけられないのではないかと考えられる。
ピート・ローズだって試合数が少ないNPBで仮にやっていたらその期間はMLBと同等以上の安打数を稼げなかったことは間違いないし、それどころか、仮に1~2年間NPBにいたとして、通用しなかったりレギュラー争いで他の選手に敗れたりして100本も打てないまま日本を去っていたかもしれない。
推測や期待はロマンがあって面白いが、実際にやって証明した例に比べてしまうと、やってない以上はやってみなければ分からない要素がかなり大きい。
だからこそ、NPBとMLB両方のリーグで実際に何年もプレーした上で、両方で歴代最高峰の実績と印象的なプレーの記憶を残したイチローは現代野球では歴史上唯一といっていいくらいケチの付け所のない世界歴代最高の選手だといえる。
また、それこそがNPB単独通算でもMLB単独通算でもない日米通算最多安打というイチローが残した実績の唯一無二の偉大さを表しているのである。
仕事が暇なので書きました。後悔はしていない。
3遊 しあわせの理由(グレッグ・イーガン)
5右 シェイヨルという名の星(コードウェイナー・スミス)
7捕 たんぽぽ娘(ロバート・F・ヤング)
9投 たったひとつの冴えたやりかた(ジェイムズ・ティプトリー・Jr.)
「SF版『山月記』。大好きなので。短いページ数ながらも切れ味のある読み応えと広い守備範囲を考慮して、1番センターで起用しました」
「星新一については、小粒ながら小技の利く選手が多いため、当初は2番セカンド『宇宙の男たち』で起用するつもりだったのですが、タイプの似た選手であるレイ・ブラッドベリとの兼ね合いから、比較的長打力のある『午後の恐竜』をサードで起用することにしました。終末SFとしての情景の美しさは随一ではないかと思います」
「説明不要、大正義グレッグ・イーガン先生の代表作。抜群の身体能力と懐の深さを備えた守備、勝負強いバッティングを考慮した結果、3番ショートでの起用となりました。全盛期のジーターみたいなもんです」
「コメディータッチの導入部から、突然ホラーに変わる異色の短編です。放射能に汚染された島に生物学者が調査に向かう話。筒井先生が『結末を考えずに書き出してみて、途中でオチ思いついた感』満載なのが笑えます。大好きなので入れました。一応星雲賞をとっているのですが、大変読む人を選ぶ短編で、ハマる人はハマる。ダメな人はダメ。アダム・ダンのような味わいがあります。最後の植物の名前は作中で明記されていませんが、おそらく『カリクビ』なのでしょう」
「囚人たちが地獄を思わせる惑星に送られる話。4番がバクチ性の強い打者なので、ある程度確実性のある、コードウェイナー・スミス先生の代表作を5番に選びました。結果、3番大正義からの4番・5番は『この世の地獄』つながり、という大変邪悪なクリンナップが形成されたのではないかと思います」
「認知症患者の看護をするアンドロイドの話。連作短編『アイの物語』の中の一編です。5番打者としての起用も考えたのですが、下位打線を『ハートウォーミング』つながりにしたいと考えたため、6番に繰り下げました。率も残せて長打もある、将来の4番候補。『アイの物語』は、他にも読み応えのある短編の多く、お買い得感があります」
「『悲運の少女』つながりで投手陣を起用しているため、彼らの球を受けるキャッチャーには、ロマンチックSFの代表作を起用しました。タイムマシンで未来からやってきた少女と出会う話。一時期、『ビブリア~』効果で価格が高騰しましたが、新訳が出たので価格は落ち着いた様子。プレミアがついてるうちに売っとけばよかったかな、という邪まな思いが頭をよぎります」
「タイムマシンで未来を見てきたという男と、彼にインタビューをするアナウンサーの話。『霧笛でも万華鏡でもなく、なぜこの作品なのか』と不思議に思う方もいらっしゃるかと思います。ひいき起用です。SF界の吟遊詩人がつづる『嘘とはなにか』という大演説にしびれます。なお、個人的ブラッドベリの最高傑作は『ウは宇宙船のウ』の序文。
「『悲運の少女』その1。少女と、彼女の脳に寄生したエイリアンの友情。説明不要の大投手。怪我さえなければ300勝できます」
「『悲運の少女』その2。人間そっくりなアンドロイドと、彼女を教育する科学者の話。唯一の漫画からの選出です。マナカナが若いうちに、世にも奇妙な物語で実写化するべきだと思います。オルセン姉妹ならなお良し」
「『悲運の少女』その3。隔離された世界から飛び立つことを夢見る聡明な少女の話。連作短編『キリンヤガ』の中の一編です。ヒューゴー賞・ローカス賞・SFクロニクル賞・SFマガジン読者賞・ホーマー賞受賞作の鉄壁のクローザー。是非とも沢村賞サイ・ヤング賞を取っていただきたい」
こちらからは以上です。
http://anond.hatelabo.jp/20131024165421
http://anond.hatelabo.jp/20131024192257
「今シーズン」を「残りのシーズン(クローザー指名後)」という形に修正しました。
あと「284分の」も「284割る」に修正しました。
http://anond.hatelabo.jp/20131024165421
原文によると
I’m now going to give you Uehara’s numbers the rest of the season.
なので、クローザーになったあとの成績のことですね。
メジャーリーグのワールドシリーズがついに始まりましたね。そこで、5日ほど前のものですが、アメリカ3大ネットワークの1つNBCによる上原の記事を翻訳してみました。誤訳があったらご指摘ください。
ウエハラ・フェノメノン
http://hardballtalk.nbcsports.com/2013/10/18/the-uehara-phenomenon/
さて、君もおそらく、今年のボストン(レッドソックス)の上原浩治が、野球史上の全投手と比べて、最も塁に出るのが難しい投手だったということをご存知だろう。それはとてもいいことだ。ここにWHIP(1イニングあたりの被安打と与四球の合計。少ないほど出塁されていない)の歴代トップ10、少なくとも50イニング以上を投げた投手のリストがある。
2. デニス・エカーズリー, 1989年, 0.607
3. デニス・エカーズリー, 1990年, 0.614
8. J.J.プッツ, 2007年, 0.698
興味深い小ネタを2つほど――リストの11位はまたも上原で、2011年のことだ。12位は? ペドロ(ペドロ・マルチネス)だ。それは2000年のことで、WHIPは0.737であった。彼がほかの選手の3倍のイニングを投げたことを考えると(訳注:ペドロ・マルチネスは先発投手)、彼の三振四球比(K/BB)が284割る……まあ、多くの人々が、ペドロの2000年のシーズンこそ野球史上で最高のシーズンであったと信じるのも、驚きではないだろう。
とにかく、トップ10を見れば君も気づくだろう……クローザー(抑え投手)だ。いや、そのうちの2人――ベノワとメレディス――はセットアップマン(セットアッパー、中抑え)だが、残りは全てクローザーである。歴代のWHIPトップ10のうち8人がクローザーだという事実は「9回はアウトを奪うのが最も難しいイニングだ」という神話に小さな短剣を投げつけるかも知れない。だが、今日のポイントはそこではない。我々が焦点を絞っているのは上原だ。
上原がキャリアをスタートさせたのは日本である――大阪大学(訳注:大阪体育大学の誤り)を出て、ドラフト1位で指名されたのだ。上原は1年目に20勝を挙げて、読売ジャイアンツの先発投手として活躍。また、オリンピックやWBCなどでは、日本代表の先発投手としてめざましい活躍を遂げた。2007年、32歳のときに、上原は読売のクローザーになり、そこでも周囲を圧倒した。2008年のシーズン終了後、上原は先発投手としてボルチモア・オリオールズと契約する。(しかし2009年)彼はもがき苦しんだ。彼は故障した。翌年、オリオールズは上原をブルペンに送った(リリーフに転向させた)。上原は驚くべきコントロールを見せ(44イニングで与四球は5個)、いくつかの試合では実際にボルチモアのクローザーもつとめた。だが、誰も彼に熱狂することはなかった。
そして2011年、当時は誰も驚異とは考えなかった驚異のトレードが行われることになる。
オリオールズは上原と幾ばくかの金銭をテキサス・レンジャーズに送った。レンジャーズはトミー・ハンターという悩める先発投手と、クリス・デービスというマイナーリーグの一塁手を送り返したのである。
私は、彼らが言うことも正しいと思う。将来の50本塁打男(訳注:デービスは今年のアメリカンリーグ本塁打王・打点王)と、年間WHIPの史上最少記録保持投手を、小さなトレードが生むことになるなんて知るよしもない。OK、それがことわざだかどうかは分からない(訳注:ここら辺ちょっと自信なし)。上原はレンジャーズでいい投球をしたが、怪我なしで居続けることはできなかった。テキサスでのWHIPは驚天動地の0.685。純粋に安打を打たれなかったし、四球も出さなかった。だが、1年半でたった54イニングしか投げなかった。そしてともかく、ただ1つ、誰もが本当に注目したのは、上原が2011年のポストシーズンの3試合で苦しんだということだった。それはおおむね1試合のことだ。2011年の地区シリーズ、タンパベイ(レイズ)との一戦で、上原は7対3でリードする7回に登板。すぐさまデズモンド・ジェニングスに四球を与えると、B.J.アップトンにライナー性の安打を打たれ、エバン・ロンゴリアに本塁打を打たれた。そして降板させられた。
上原はまた、デトロイト(タイガース)とのアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズにおける、次の二度の出番でも失点を許した。しかし私は、それが酸っぱい後味を残した初めての出番だったのではないかと思う。上原はそれまで、アメリカの野球ファンたちの心に、何一つ印象を残してこなかった。無地のスレート(屋根葺き用の石板)のようなものだったのである。ロンゴリアの惨事のあと、誰もが皆、上原に(悪い)印象を持った。翌年、上原はボルチモア(オリオールズ)とのワイルドカード決定戦に、レンジャーズがすでに3対1で負けている状況で登板。トレード相手のクリス・デービスを三振に仕留めた。アダム・ジョーンズも三振に仕留めた。マット・ウィータースも三振に仕留めた。だが、それは大事な局面ではなかったし、ロンゴリアの記憶を消し去るのに十分ではなかった。
レッドソックスは、425万ドル(約4億2500万円)という以前と同じくらい少額の契約で、上原と1年契約を結んだ(とはいえ、今では2年契約になっている。付与オプションが有効になったからだ。ボストンにとって大変嬉しいことだろう)。上原はクローザーではなく、セットアップマンでもなく、セットアップマンのためのセットアップですらなく、単なるチームの6イニングの選択肢になろうとしていた。レッドソックスの本来のクローザーは剛速球投手のジョエル・ハンラハンであった。ハンラハンは9試合で肘を破裂させ、トミー・ジョン手術を受けた。
そこで全員1つずつ繰り上がった。つまり、今やアンドリュー・ベイリーがクローザーになったということだ。ベイリーはアスレチックスのクローザーとして2009年に新人王を獲得し、翌年もまた周囲を圧倒していたが、その後はあらゆる怪我と辛苦を経験していた。ベイリーはレッドソックスのクローザーを3カ月弱つとめ――そして肩を故障した。6月26日、レッドソックスは上原をクローザーに指名した。
ではここで、上原の残りのシーズン(クローザー指名後)の成績をご紹介していこうと思う。拍手喝采は紹介が終わるまでお待ちいただきたい。
投球回:44 1/3
被安打:14
ふざけてるよな:分かるよ。
失点:3
被本塁打:1
三振:59
与四球:2
待った、今すぐ止めろ:2四球。よく見ろ。
被打率:.094
被長打率:.152
早く言えよ:ちゃんと頼め。
WHIP:0.358
紳士淑女の皆様、ご来場ありがとう。気をつけてお帰りください。
どうやって? OK、これはたった44回1/3でサンプルとして少なすぎるし、クローザーは1試合でたった1イニングしか投げないし……、どうやって?? 上原浩治は剛速球を投げない。Pitch f/xは上原の速球が平均で89.2マイル(143.6キロ)だと示しており、これは彼が日本から来たときとだいたい同じままだ。上原のマネーピッチ(決め球)、スプリットフィンガー・ファーストボールは約81マイル(130.4キロ)。102マイル(164.1キロ)の速球の世界で、一体どうすれば上原は対戦相手に出塁するのが無理だと証明できたのだろうか?
もちろん、コントロールの話から口火を切ることができるだろう。これはマリアノ・リベラの栄光の輝きの中で、常に最も過小評価されてきた部分の1つである――そう、リベラは対戦したみんなのバットをへし折ってきたし、同じ球を繰り返し繰り返し投げ続けてきたが、四球で自滅することはまずあり得なかった。リベラの最高のシーズンはおそらく2008年だ。彼は70回2/3で6人の打者にしか四球を出さなかった。
上原は、大リーグでのキャリアを通じて常に、気が狂うほどコントロールが良かった。2012年のレンジャーズでは、わずか36イニングしか投げなかったが、四球を出したのはたった3人だ。我々は、キンブレルの代名詞である剛速球を投げるようなクローザーと恋に落ちている(訳注:ここら辺自信なし)。しかし、剛速球を投げない代わりに、ピンポイントコントロールと多くの惑わし(投球術)で成功した名クローザーたちは、これまでにも多数――デニス・エカーズリーを筆頭とするが、偉大なるダン・クイゼンベリーとダグ・ジョーンズも含まれる――存在した。上原も明確にそれらを備えている。
2つめはこれだ:上原の投球――特に、ツーシーム・ファーストボールとスプリッター――が非常に鋭く動き、メジャーリーグの打者たちはしばしば当てるのに失敗しているということ。それがストライクゾーン内であったとしても。これは重大だ。大リーグの打者はストライクゾーン内のボールにバットを振るとき、一般に大成功を収めるものである。今年、打者がストライクゾーン内でスイングした上原のボールは、31.1%が空振りだった。これはいうまでもなく球界で最高のパーセンテージだ。
ストライクゾーン内のボールで打者を空振りさせた投手のトップ5は:
2. エルネスト・フリエリ, 26.9%
3. アロルディス・チャップマン, 25.6%
さて、同じトップ5の速球の平均急速は:
ああ、そうだ。君にも違いが分かるだろう。彼らは打者のバットを吹き飛ばす。上原は打者のバットの上下を通り抜けるのだ。上原には、大きく違う方向に動く2つの球種がある。ツーシーム・ファーストボールは右打者に向かって突っ込んでくるかのように見えるし、左打者を引き剥がす――リベラの代名詞カッターの逆バージョンのようなものだ。そして、スプリットフィンガー・ファーストボールはチェンジアップのように機能する傾向がある(速球より8マイル遅い。これは理想的な差に近い)上、遅くになって急降下する。打者の観点からすると、これは見たところ(飛び回る)スズメバチと、地中から現れるゾンビの手に、攻撃されるかすら定かではないまま、草原に踏み入れるようなものらしい。打者はどこを見ればいいのか分からないのだ。
全力の上原を前にしては、今や逃げ場などどこにも存在しないのだ。
特に、上原は今38歳で、レッドソックスは上原をクローザーとする前に2人の男たちを試していたということを考慮すると、これは極めて異例な才能の行列である。ここまでのポストシーズンで上原は7試合に登板し、そのうちの1試合でタンパベイのホセ・ロバトンにサヨナラホームランを許した。ほかには、落ち着く前にタイガースの2人から安打を打たれたが、失点は許さずにイニングを終わらせた。木曜日、上原は1回2/3をパーフェクトに抑えた。
全体として、このポストシーズン、上原は8イニングを投げて安打を4本で抑えた。WHIPは0.500。ここまで、一人の打者にも四球を出していない。
245 :どうですか解説の名無しさん:2008/10/14(火) 19:05:30.02 ID:/UJ4CE1j
お互いに死力を尽くした闘いは最終回を迎えていた。
日本は先頭の西岡がヒットで出塁、続く川崎が送りバント、3番青木が
ここで日本ベンチが動く。監督の野村が主審に歩み寄り、短く代打を告げた。
『代打 大道』
その中をゆっくりと大道は打席へと入っていった。
マウンドにはキューバのクローザーが1点もやらないとばかりの気迫をみせる。
246 :どうですか解説の名無しさん:2008/10/14(火) 19:06:38.25 ID:/UJ4CE1j
そして第1球、ストライク。150kのストレートがミットに納まる。
第2球も同じ球でストライク。あっという間に追い込まれる。
だが、ここから大道は驚異の粘りを見せる。
3球目、4球目の際どい球を見極めた後、なんと10球連続ファールで粘り、11球目を見極める。そして運命の12球目。
100マイルのストレートを鮮やかに振り抜く、打球は右中間を深々と破った。
選手たちが大はしゃぎで大道を祝福する。
照れ臭そうにはにかむ大道。大道の背中をポンと叩く野村監督の目には涙が溢れていた。
表彰式
静かにそれを見守る大道、そして流れる『君が代』に大道の目頭は熱くなった。
その男、大道典嘉
男なら大道