はてなキーワード: エッセイとは
つか、完全創作の人も多いと思うけど
バズらせて商業出版狙ってるワナビもいるだろうし、ただの趣味もいるだろうけど
夫や彼氏に対してキレたエッセイ漫画みたいなのを描く女性たちが沢山いる。フィクション・ノンフィクション問わず。
基本、女性の方がきちんとしてる方が多いので、女性の方々が怒るのは仕方がないと思う。
日常の中の細かい心の機微を漫画化して伝える能力も、男性より女性の方が比較的強いと思う。
でもきっと男性には男性なりの言い分とか、こんなことをパートナーに言われて辛かった、
みたいなのもあるのでは無いかと思う。ネットには上がってきづらいだけで。
大体、人は正しさvs別の正しさでぶつかる。
友達同士のカップルが喧嘩してた時に両方の話を聞くと、言ってる事が全然違う、お互いにお互いが見えてない、なんて事は良くある訳で。
当然だけど、パートナーとの問題はパートナーと解決した方が良い。
口で言うほど解決するのは簡単じゃないけど、お互いに歩み寄る努力をする、少しでも良くしようと諦めない、という意味だ。
どっちが世間的に正しいか悪いか、なんて決める事に何の意味も無い。一緒にいたいなら二人なりに納得できる関係を築き上げるしかない。人格と行動も分けて考えた方がいい。
パートナーの悪口を世間に向けて公表して、共感を得ていいねを貰う。
それがあなた達が本当に望んだ事ですか?
はてなの腐女子のお気持ち表明に対する先住民お怒りの構図にどこか見覚えがあるなと思ったが、それが中学時代の教室の様子だとすぐに連想できた。
男女の違いが如実に出るようになる頃、男子は女子間の貶し合い&傷の舐め合いに辟易するようになるが、よっぽどのイケメンでない限り、女子はそれを言及した男子を糾弾する。
どちらも性が成熟している証拠ではあるのだが、そもそもどうして男女でこうも考え方が違い、日々争いの種をまき散らすのだろう。
男女のカップルでありがちなケンカの一つに「彼女の愚痴を聞くのが面倒」VS「彼が話を聞いてくれない」というのがあるらしい。
昔Twitterのエッセイ漫画などでよく取り上げられており、RTでも頻繁に流れてきたものだ。
解決策として有効なのは、話をする前にその話題が「愚痴」なのか「悩み事」なのかをはっきりさせることなのだそうだ。
そもそも、男性が女性の話を面倒臭がるのは、「提示している話題に解決策を求めていない」事が原因にあるらしい。
男性が何か頭の中に不満を抱えていたとする。すると、その不満を解消するにはどうしたらいいのかと考えるようになる。
調べものをしたり、先達の意見を聞いたり、そうして明確な解決策が分かるようになると、その不満が解消されていくのだそうだ。
しかし、それに対して女性は、「自分に共感してもらう」事で不満を解消している。
主婦の井戸端会議で愚痴が多くなるのも、Twitterで「○○さんは悪くないですよ」と馴れ合いじみた慰労ムーヴが起きやすいのも、女性は共感を得ることで精神的不安を取り除かなければいけないからだ。
カップルとなれば、彼氏は彼女の役に立ちたいだろう。しかし、男性は「不満解消=解決策」の提示と思っているから、彼女の長い話を延々と聞いた結果、共感をすっ飛ばして分析し、解決策をぺらぺらと語ってしまう。そして彼女の方は、共感が得られなかったことに更に不満を抱くようになる。
結局は男性も女性も、お互いが違う性質であることを理解した上で、どう接するべきかを摸索しながら生きていくしかないのだろう。
男女の関係は付き合うことに利益を得ていたり、愛があるからそれが辛抱強くできるわけで、このはてなという場所でそれが成立するとは思えない。
男性からしたら、「ヤれもしない女の愚痴が目に入るが、あいつらは解決策を求めずにダラダラと長文を垂れ流すから不快」になるわけで、
女性の場合は、自分たちが勝手に移り住んできたのを棚に上げて、「分かる人だけに反応して欲しいだけなのに、理解するつもりのないやつらの野次がうっとおしい」ということになるのだろう。
愛や性欲が絡まないだけでこうもギスギスしてしまうのがどうにも面倒だなと、かつて教室の隅っこでクラスのイザコザを眺めていた自分は考えてしまう。
推し呼びしてるエッセイ漫画見るとおまえオタクエアプだろと突っかかりたくなる。
推しと恋人の決定的な違いって理想を押し付けられるかどうかだと思っている。
オタクが推しに理想を押し付けられるのってメディアに公開された部分しか知ることができないのと一方通行の片思いだからであって、恋人なら四六時中一緒にいる中でいろんな面を目にするし、理想を押し付けたりしたら相手の人格を否定することになりかねない。
恋人を推し呼びする人はカッコいい!好き!尊い!ってノリなんだろうけど、そんな安易な気持ちで使うのはオタクを日々楽しませてくれている本物の推し達に失礼だと思う。
私は腐女子である。過去には自らイベントに参加し本を頒布するなどもしたが今はただの出戻りROM専である。
私が二次界隈から去っている間に、この創作世界にも様々な変化があったように思う。
主に夢だ。
こんなにも市民権?をとっているとは過去の腐女子には想像もつかなかった世界である。
彼女らは大変に気遣って住み分けし、支部ではタグを入れて事前注意をしてくれるし、別に避けているわけではないが彼女らの主張をSNSなどで見たことがない。少なくとも私は。
女体化。
別に嫌いではない。支部でジャンルに女体化を描く人はいく人もいる。しかし大勢いるそのうちの一人にもやっと来る。
その人はいわゆるツイ廃で、心を病んでいる。よく死にたいツイートをしている。自らメンヘラを自称している。
私は過去の経験から、8割くらいの二次同人女は過去未来現在のどこかで心を病んだことがあると思っているので別にそれは気にならない。
TwitterというのはSNSの中でも危険度の高いツールだと思う。呟きツールというだけあって、脳と指先が直結している。
気軽に自分自身についてツイートする。そして自分の好きなキャラについて考察したりする。
しかしこちらは同時に同じような意見を見ることになるので、彼女のキャラ考察というのはキャラでなくてご自身のセルフ考察であるなあというのが分かってしまうのだ。
何しろそのキャラは某人気王道バトル少年漫画の主人公であるので、間違ってもフロイト的な、全ての心の問題は性問題であるみたいな、そういう考察にはなり得ないのだ。
女体化作品でも作者が透けて見えなければよかった。たとえキャラ崩壊してだれおま状態でも気にならない。
しかしこんな明確に自分の問題をキャラに投影して、このキャラの考察はこうでこうで、などと大真面目に語られるともはや二次というより彼女が彼女自身を描いたエッセイ?を見せられているような気になってしまうのだ。
エッセイも好きだ。しかし、それは自分を客観的に見れていたらの話ではないか?
明らかに美化?した理想の悲劇の主人公。女体化。もはやなり変わり夢と化している男性キャラ。
絶世の美人(元はフツメンの男性キャラである)登場人物全員このキャラを愛している。総受け固定、などと語られると
(自分ではなく好きなキャラを語っているというつもりなので)、こちらとしてはヲチ目線で見るしか無くなってしまうではないか。
男体のままならまだ自分をごまかすことができたかもしれないが女体化。
もちろんこちらは見なきゃいいだけの話なのだが、こんな彼女のリアルな友人も見ているだろう垢で、欲求不満です通りすがりの誰でもいいみたいな作品をその女体化キャラでリアルチックに描かれられると、そんな赤裸々で大丈夫かとハラハラしてしまう。
なんだかひと昔前の携帯小説の援助交際女子高生みたいなこと言っている。
援助交際ってお金が目的なんだと思ってたけど、あれ、普通に欲求不満なだけの人もいたのだろうか?
BLという隠れ蓑を纏っているなら他人にその願望をバレたくはないと思っているんじゃ無いだろうか。多分だけども。
きっと未来に死ぬほど後悔しそうな気がするのだけど、ひと事ながら大丈夫なのだろうか。
それとも恥ずかしいと思うのは私がオババだからで今の若い人は平気なのかな。
なんかこう書くとエラソーだなと思ったんで付け加えますが、正直BLの性的表現というのは私も含め全て自己の投影だと思ってます。
自分の性についておおらかに表現するのに抵抗がある女性が、男性同士です、私とは無関係ですよ、という名目の元に性的なものを創作物として昇華させていると思ってます。
未だに「なろう小説の流行りは異世界転生」なんて思ってるやつはいないかな?
そもそも16年間という長大ななろうの歴史において異世界転生が流行っていた時期なんて半分くらいしかない。
本当はすごい力や才能を持っている主人公が周囲に認められずに、解雇されたり裏切られたり迫害されたりして、その状態から成りあがるというテンプレだ。
異世界転生じゃなくて、最初から純正異世界生まれの主人公がそういう目にあう。
どうして今、こういう流行りになっているのか。少し長いけど、サイトの初めから歴史を追ってみようと思う。
「小説家になろう」において最初にやってきた流行はVRMMOだった。そう、異世界転生じゃないんだ。
この時期は、なろうに限らずネット小説界全体で、このテーマが流行っていた。SAOとか。(元はネット小説だったって知ってる?)
なろうでは、ゲームの中と思ってたら本当の異世界だった、みたいなパターンも多かったように思う。
「最近のVRMMOは凄すぎだろ」とか、好きだった。
にちゃんねるのSSスレなどで、エヴァ・ひぐらし・なのは・Fateなどを経由して育てられゼロ魔によって爆発した二次創作の手法の諸々。
それが、なろうのグループサイトである二次創作専門投稿サイト「にじファン」を通ってなろうに流入した。
特にゼロ魔SSの人気と書きやすさが凄まじく、そのタイミングでの「にじファン」の閉鎖があって、一次創作へゼロ魔SSの手法が完全に浸食。
この時、なろうがもともと有していたVRMMOブームのノウハウと合体して、ゲーム的異世界へのチート付き転生というテンプレが爆誕してしまった。
これが驚くほど書きやすさ・読みやすさ・とっつきやすさがあり、ランキングは異世界転移一色になった。
最初はまだ転移の方が優勢だったのだが、より書きやすいのか、あとから転生が多くなる。
なろうの作家たちは、あまりに書きやすいテンプレに沿った話づくりと、捨てられない創作者としてのプライドとの板挟みにあい、結果、能力面などで一点突破のオリジナリティを追い求めるわりと修羅の国になった。
なろう認識が異世界転生で止まっている人は、ここから先は知らないかもしれない。
実は小説家になろうでは、余りにもランキングを異世界転移/転生が独占している状態が続いたため、これらの要素を持つ小説が別ランキングへ隔離されることになった。
(ちょうど異世界転生を批判するエッセイとかが量産されていた時期だった。個人的にはああいう方法での主張はダサいと思うが。)
異世界転移/転生はサイトの見やすい位置に表示されることがなくなり、作者たちは新たなブームを探った。
その結果見出されたのが、ハイファンタジーとローファンタジー。
小説家になろう内の定義では、最初から最後まで話が異世界の中だけで完結するのがハイファンタジー。現実モデルの世界でのファンタジーや、現実と異世界を行き来するものがローファンタジーとなっている。
一見相反するように見えるこれらのジャンルだが、ほぼ同時に、ほぼ似たような形で流行ることとなる。つまり、異世界転移/転生の代替としての流行だ。
たとえば一般的な異世界転生のテンプレにおいて、転生するところを削ったらそのままハイファンタジーになり、ランキングに乗る。
また、現実世界から異世界に転移する部分だけを、逆に現実世界が突然異世界化してしまうような導入に変えれば、ローファンタジーとなってランキングに乗る。
しばらくは従来のテンプレそのままみたいなのが流行っていたが、面白いことにこれらのジャンルには先住民がいて、昔から綺麗な恋愛関係などに主眼をおいた小説が流行っていた。
それらと従来テンプレが合体し、ハーレムではない純愛をメインとした、でも結局チート転生風な感じの、新たなテンプレが流行るようになった。
そして、今に至る。なんでここへきて追放系なんだろうね。いちおう異世界転移の頃から萌芽はあった。盾の勇者とかまさに追放系だし。
どうも、前述の純愛風チート転生風not転生ハイ(ロー)ファンタジーの、各要素の食い合わせが意外と悪く、どこかでガタが来たんだと思う。
主人公がそんなに強くて魅力的だと一人のヒロインとの純愛は書きにくい感じなのかな。
ただ、異世界転生の頃に流行っていたようなチートハーレムは、あれはあれでヒロインの数を増やすのが正直面倒。
その結果、一番書きやすかったのが、盾の勇者などで既に見られていた、自分の能力を理解してくれない周囲/それを見出して受け入れてくれるヒロイン、の構造だったのかもしれない。
とにかく、今ランキングを見に行くと、異世界ブームの頃とは結構様変わりしていて面白いと思うので、一度訪れてみてください。
【追記】
悪役令嬢ブームについては敢えてオミットした。というのも自分が男性向け界隈しか追ってきていないので、書けるほどの情報量が無いからだ。
悪役令嬢は男性向け異世界転生であるRPG風チート転生ハーレムが流行っていた時期に突如として登場した女性向け界隈の情報チート型の異世界転生だ。
男性向けとはパラレルに、枝分かれする形で流行していた。総合ランキングにも入ってきてびっくりした記憶はある。
だがどうも今回のブコメ等を追っていると、この男性向けと女性向けの枝分かれはハイファンブームの頃に合流していて、それが追放系の下地を作ったらしい?
自覚していないようだがかなり読みにくい。
まれによくいる。
この辺の主語と述語の混乱がすごい。
この4行それぞれの、主語述語が省略されていない形を自身でイメージできるだろうか?
3行目などは、文の途中で主語が切り替わっている。「名前」「氏名」と書かれているのは何?スペイン語や平仮名で書くのは誰?「良い」とは何が「良い」のか?
日本語は省略が許されてるしいくらでも省略していいと思うけど、完全な形をイメージしてそれから省略したほうがいい。でないと読み手に混乱をきたす。
それに一般的な日本語としてもこれは省略しすぎ。勢いで書いた文を推敲もせずそのまま投稿していないか?
ここもそう。この1行目を見ると特に感じるが、あなたの使う体言止めは、全体的に非常に違和感があって文意もとりにくい。
それは何故かというと省略されていない形が直感的に復元できないからだと思う。
じゃあポルトガル語やペルシア語がわかるかと言うともっとわからない。
この辺は文自体は比較的読みやすいと思うが、全体としての文意が全く取れない。
「母国の言葉も知らない【が】、日本語くらいわかる」(この【が】も相当変だ。前後が逆接になっていない)
つまりこれらを総合すると、「まだマシな子」はまだマシな子同士では日本語でコミュニケーションを取れている、という意味でよいのだろうか?
そうであれば冒頭の「日本語力の限界に達する子」とは違う集団のことを言っているのだろうか?
文中で逆の例を言うことはもちろんありうることだが、この文章でこの位置に反例を出してこられても、シンプルに読者が混乱する以外の効果はないと思う。
めちゃくちゃ問題なのは、核家族かつ両親は移民で、子供が家族内でしかコミュニケーションがとれない。
義務教育はもちろん受けるが、授業が理解できない。簡易な単語は覚えるが、そこまで。
読み書きが壊滅的。
ここが主張したいメインの部分なのだろうか?
この「めちゃくちゃ問題な子」の家庭内でのコミュニケーションは何語によって行われている?
「ポルトガル語やペルシア語がわかるかと言うともっとわからない」のではなかったのだろうか?
このあたり、何か大きな前提が書かれていないように感じてしまう。
そして、今更だが、この辺りでようやく、日系人の日本生まれの子がうまくコミュニケーションをとれないという問題が主題なのかとわかってくる。
タイトルを読んで、本文を数行読んで、「ん?スペイン語??なぜ急に?」ときて、「移民の子」というキーワードが表れて、その上でここまで読んでようやく話の全体像が掴めてくる。
正直、ここまで読まないと全く頭が話に入っていけない。構成を工夫した方がいいと思う。
初めてあなたの文章を読む読み手の、何も入っていない頭の中を想像しながら書き進めたほうがいいと思う。
子供が日本人社会に適応してれば問題ないが、もちろん適応してない。日系人社会でもベトナムフィリピン系の子にブラジル系の子がいじめられてたりする。
冷静に読めばここの文意は取れるが、親切でない。ここまでの文もそうだけど、近接する文どうしで急に話が変わるのは本当に読みにくい。
もちろん、対比したいとき、強調したいとき、逆接したいとき、隣り合う文の内容が変わることはいくらでもある。だがそういう時のために接続詞はあるのだ。
そして二行目。「俺」が突然登場する。
これは一般的な日系人の子の問題について語っている文章なのだと思っていたら、急に体験談が出てくる。
かといって今後またしばらく「俺」は登場しない。この文章を、論説・エッセイ・体験談のいずれの性格を持ったものと思えばいいのか、この後ずっと混乱が続く。
「誰」のこと?文脈から言って日系人ではない日本の子供たちの話?また説明不足のまま話が変わっている。
日本語のできない移民の子は全く違う。子供同士で話すところを見ない。話せないから。
子供は残酷だから、いじめをせずとも仲良くはできない。世話を焼きたがる子ほど、感謝を要求するから尚更よく怒る。
結果して同年代の子は危険な存在以外の何者でもないので、隙あらば大人のところへ行く。
彼らは悲しいほどに察しが良い。興味を引くためのイタズラも行わない。
ここはわかる。文脈が繋がっているし、主語も統一されているし、これまでの主張から裏切られることもないからだ。
~の子と書いてきたが、成人している子も多い。
「~の子」とは?上で書いている「日本語のできない移民の子」を省略して書いたという解釈なのか?
このような略し方は本当に見たことが無いし、めっちゃくちゃわかりにくい。変な表現を使わず普通に書けば良かったのでは?
実は「子」ではないんですよ、という話をしたあとにまた「子」。
そしてまた出てくる「俺」。「俺」とは誰?あなたはどういう立場のどういう人間として何を伝えようとしてこの文章を書いているの?
寡黙で人懐っこく、文書が読めないから法外に安く使える。突然のドロップアウトや、誰も原因の把握できない暴力沙汰は多い。
時間を守れない子が圧倒的多数。マジで時計が理解できない子も多かろうが、恐らくうつかそれに近いんじゃないか。
内科や外科の存在は知ってても(たぶん読めないが)メンタルという単語も知らない。
増田たちの感覚では日本人とは感じないだろうが、国籍はあり住む意思があり日本を祖国だと思ってる。
幼い子は突然ふさぎこむ事がある。何かあったのは容易にわかるが、決して言わない。隠す事もできないが話すこともできない。
そして加害者にもよくなる。
ここはまだわかる。
「加害者にもよくなる。」は日本語の文として若干の怪しさを感じるけれど、まあわかる。
「くれた」の使い方が変。誰かの前に飛び出すのなら、かばう対象は「誰か」なのだろうけど、「くれた」は普通、自分か自分の身内がかばわれることに対して使うと思う。
そしてまた主語が行方不明。「かばってくれた事なんてない」のは誰?
直前にある文章は「加害者にもよくなる」だから、これが繋がっていると考える?
それともそのもうちょっと前に出てくる「増田」がずっと隠れ主語として残っているのだろうか?
うーん、どうとっても不自然だなあ。
でもさ、優れたエッセイ、とりわけ作家が書いたエッセイはやはり何がしかの意味が発生する体裁にはしてるよね。
別に何かにかかってる必要性は「エッセイなら」求めないけど、そこに感情の在り処は求めるでしょう。
それすらないとなると、なんでこの文を書いたの? と思われても仕方がない。
内面を自由に表現した文章がエッセイと言われる。事象と心象が交わる所から生まれる文章が随筆でありエッセイだ。だから、エッセイは必ずしも他人向けある必要はなく、自分専用であってもいい。
メッセージがはっきりしていて、何か意見を言う文章は論述なので、反論することができる。エッセイは心象を綴った物であり、事実と違うことがあればそこに異を唱えることはできるけど、心象に対して反対することは難しい。視野が狭いとか、持っている情報が間違っているので、そこから導き出した心象が間違っているということは指摘できるだろうけど。
エッセイを読むときに、「この文章の言いたいことやメッセージは何だろう」とずっと疑問に思ってきたけど、読み方が違っていた。事象に対して書き手が何を思ったか。その心象であったり視点、考え方を味わうものだ。「知らなかったことを知る」という情報提供の文章ではないので、読み終わった後に残る物がなくてもかまわない。
例えば風景画を見てみる。そこには必ずしもメッセージが含まれているわけではなく、ただ綺麗な物を絵に切り取っている。メッセージを読み取ろうしても読み取れない。そこにメッセージは含まれていないから。綺麗な風景をただ味わう。写真とは違うので見える物すべてが描かれるわけではない。何を描いて何を描かなかったのか、画家の目を味わう。エッセイにも同じようなことが言えるのではないか。事象について、考え方や切り取り方、視点を味わう。それだけでいい。
ずっと探している記事がある。
-たぶん1980年代後半のどこかで読んだ。遅くとも90年代頭。
-たぶんファミマガとかファミコン必勝本とかの、ファミコン雑誌に載っていた記事
-ソースが溢れやすくて口が汚れるのを気にせずモスバーガーを食べる様がシズル感溢れる筆致で描かれていた
-一人称で書かれていた
当時まだモスバーガーは自分の住んでいた地域には無くて、憧れを募らせたのを覚えている。
その頃の想像の中のモスバーガーの輝きは未だに色あせてなくて、今でもモスバーガーを食べる度に思い出す。あの記事にもう一度会いたい。
ありがとうありがとう。当該ツイート教えてくれた人、色々コメントくれた人。
99%このファミマガの記事です。100%ではないのは、自分の記憶ではページ丸々文章とモスバーガーの絵か何かで占められてて、もっと文学的というかエッセイ的で、ツイートにあるようなゴチャゴチャした紙面じゃなかったんだけど、これはたぶん印象に残った部分だけで記憶が改編されたんだと思う。30年以上前だし。
ブコメに書いてあって「そうそう!!」ってなったのは「紙ナプキンをふんだんに使う」って書いてあったって点。
それが新しい未知のものである感じを助長していて、大いに憧れを煽られたんだよね。
あと驚いたのは、あの記事が印象に残っている人が結構たくさんいそうな点。自分だけじゃなかったのがわかって嬉しい。
30年以上前の趣味系一雑誌の隅っこの記事がここまでのインパクトを持てたのは、モスバーガーそのものの魅力と、ライターさんの素晴らしい文章の力だと思う。
久々に良いインターネットを体験しました。ありがとうございました。
記事全文読みたい。
記事へのコメントのコメントで、「もっとエッセイっぽい記事だった」と言っている人がいて、自分の記憶が正しいのかもとも思いはじめました。
引き続き、ご存知の方がいらっしゃれば教えてください。
Instagramではよく妊活に関するエッセイコミックを書く人がいる。
私も子供が欲しいから、そういった投稿を見て共感したり、ときには一緒に哀しんだり喜んだりしている。
でも、そうやって共感できるのは
同じステージにいる仲間に対してだけなのかもしれないなぁと思った。
5年余り、原因不明の不妊治療をしていて、少し前からは体外受精も始めている。
長く子供ができなくて踏ん切りがつかないので、最終段階まで進んだ形だ。
そんな中、
「ずっと子供が欲しかった」というInstagram(&ブログ)の投稿を見た。
そのインスタグラマーには元々好感を持っていたし、他の妊活コミックエッセイを読むのと同じ気持ちで読み進めていった。
その人は「妊活」といっても、
その程度の期間で、
きっと、そんなタイトルでなければ
私の心はこんなに波たたなかっただろう。
私だってそうだけれども?
妊活漫画と言うけれども、産婦人科に行って人工授精ですらやってない程度。
そりゃあ、子供が欲しい人にとっては
毎度生理が来るたび悲しい思いをするんだから、その悲しみにチャレンジ期間の長短やステップは関係ないよね。
その時辛かった気持ちは、本物だよね。
それは、わかっている。
何年も何年も治療しても、
その幸福を得られていない私たちの気持ちを、考えたことはあるんでしょうか。
考えていたら、そんなタイトルつけないよね。
私を含め妊活中の人は、このエッセイには好感を持てず、コメントする気にはなれないんだと思う。
大きな声で「辛かったんです」と言っているのだ。
私は正直、読まなきゃよかったと思ったよ。
自分と同じように苦労して、
ようやくたどり着いた妊娠出産なら、微笑ましい気持ちで読めたと思う。
タイトルが、そういった苦節を感じられるようなものだったんだもの。
でも実際は想定と異なり、私は苦い思いを抱えてしまっている。
乗り越えてきたと思ったんだけどな…
まさか、妊活期間の違い・ステップの違いで、自分の中でこんな反発が生まれるとは思っていなかったよ。
ただ、今回こういった地雷原を
自分が抱えていると言うことを知れたのは、不幸中の幸いだったね。
今後は、こういった地雷を踏まないようにSNSも活用していくわ。
母になった人たちに対する醜い感情は乗り越えたと伝えていた夫には言いたくないし、
当然親にも、友人にも、
吐き出せないから、この場でぼやかせて頂きました。
子供が来てくれないんだと言われたら、ほんとそれまでだよね…