はてなキーワード: 疑似科学とは
しょっちゅう意気揚々とトンチンカンなことを言い出すんだけど、それは誰が聞いてもすぐにオカシイってわかるんだよ。
誰もが直感的にオカシイってわかることでも、ちゃんと否定するには調べたり確認したりして、それなりにウラをとる必要があってすごくコストがかかる。
そんなわけなので、そいつがなにか言い出さないかいつもビクビクしてるし、そいつが口を開くと動悸が激しくなる。しかもおれは立場上相手にしないわけにもいかないんだよ。
さらに悪いことに、疑似科学が否定されてもなくならないのと同じように、バカはいくら否定されてもバカなままなんだよ。しかもそいつアクティブでポジティブなバカなんだよ。誰か助けて。
「何かいいことや、危険から身が守られたり、最悪な状況が、逆に力となって最善の結果が現れた場合、それらはすべてEMのおかげであると考えることがスタートです。すなわちEMは神様だと考えることです。」「いいことはすべてEMのおかげ、悪いことが起きたのはEMの極め方が足りないから」
俺が間違っていた
これはスピリチュアルだ
https://www.sankei.com/politics/news/200826/plt2008260002-n1.html
以下に政府や官庁国政及び一部の経済系の人間の認識と世間の認識が剥離しているかが良く判る。
5類に下げるとかなんとか何だと。
普通にコレは感染者が感染後街に出歩く事態を招く事になるし、その後どうなるか容易に想像がつく。
大方これも当初に麻生大臣及び財務省がまともな補償や支援をしなかったせいで病院や医療系が総じて赤字になり、どうしようも無くなったから言い始めた事なのだろうけど。
しかし感染者数の減少傾向が出始めた途端にこれだから呆れるし、この人達は5月の緊急事態宣言及び解除以降で何が起きたかを何一つ学んでいない事が良く判る。
この辺も一部の人達が、8月のただの風邪とか言う流れを作ろうと躍起だった事とか正しく怖がるとか言いだした事を見ても良く判る事だしね。
そりゃピークは過ぎただの集団免疫ですら、疑似科学めいた事ばかり言い、まだまともに存在しないワクチンだのの楽観的な考えしかせず、尚且つ短絡的に良くなったとか言い出し、安易な行動ばかりしでかすのも良く判る。
コロナの感染者数自体波がある事はそれこそ日本だけではなく、他国の傾向を見ても良く判る事なのに。
政府も政府で本来なら当初にすべきだったはずの企業や医療系への経済的補償や支援を殆どしないかケチった上に遅い対応しかせず、アベノマスクやらgotoとかの中抜き政策ばかり積極的な上にこの様な事ばかり迅速に行おうとするのだから呆れ果てる。
そりゃこれでは終わるものも終わる訳がないし、良くなるものもよくなるはずがない。
こんなのだから、5月に感染者が減りだした途端、平時感覚でコロナ対策を蔑ろにして、関係ない法案を優先し、6月にはもう感染者が増加傾向だったにも関わらず、7月にそのまま衛生的、経済的にも衰退を招くレジ袋有料化等平然と行う訳だし、今も平時感覚でマイナポイントとか言い出しているのを見ても良く判る事だしね。
そして安倍総理が辞めた途端、自民は総裁選に内輪で熱をあげているのを見ても以下にこの人達こそ、全く現状にすら危機感を持っていない事が行動として如実に現れている訳で。
しかし和歌山の知事みたいに危険性を感じ、この件に反対な人もいれば、それこそ吉村知事みたいなこの感染者の隔離を後退させるような政策に対して賛成をして、積極的な知事もいるのだからねぇ…。
特に吉村知事に関しては大阪モデルと称し、間接的に緊急事態宣言の早期解除を招き、その後の7月以降の感染の爆発的増加を招いた一因も担ったわけだし、その後もイソジン等のうがい薬でデマに近い発言を行い、世間をお騒がせしたり、重篤者関連での現状の認識の甘さを露呈したり、その後gotoイートに賛同したり、飲食店支援と称しポイント還元策とかの中抜きに積極的な姿勢を見せたりと最近では色々な意味で化けの皮が剥がれだしたりしているのも事実。
それに少し前にも吉村知事は飲食や夜の街、特に風俗店を槍玉にして、命令を聞かないからと称し、条例で罰則を作ろうとする等のある種の脅しとも言える発言をしていたからねぇ…。
地方として金を出せなくなったからと言い、安易に罰則に頼ろうとするスタンスは本気で問題だと思うよ。
そもそも政府が当初本来すべきであった補償をまともにせず、結果経済が回らなくなり、緊急事態宣言を早期に解除せざる得なくなり、結果、閉じ込めに失敗し、ずるずる引き摺った結果、経済の悪化の長期化を招いたと言うのにそれをやれ飲食だののバッシングに転嫁し、挙句安易に規制や厳罰化に走ろうとするのだからねぇ…。
しかし平時から短絡的且つ安易に厳罰化や規制に走る様な人達はこう言う事態でも安易に規制や厳罰化を平然と短絡的に行おうとするのだから呆れるよね。
挙句、世界で猛威を振るっている病気を一部の経済系や政府、官庁、吉村知事みたいな人達が舐め始めたのだから往々にして碌でもない事態を招く事になると思うよ。
月経カップを初めて使用してみたという方が、その体験を所謂「オタク構文的」に仕立てたレポがバズったことがきっかけらしい。
月経カップはユーザー数自体が国内にはまだ少なく、能動的に調べない限り情報が入ってこない中、親しみのあるオタクノリで語られたことで存在を身近に感じられた方が多くいたのだと思う。
興味深くその流れを追っていた中で、「月経カップのユーザーはメリット面ばかりを強調して勧めてくるのでなんか宗教っぽい」という意見を多く目にした。そこで、月経カップユーザーは何となく胡散臭い、という疑念への回答をユーザーとして自分なりに考えてみることにした。
第一に、月経カップは決して安い買い物ではないし、一般的に薬局等での取り扱いもされておらず、ちょっと気軽に試してみる、ということが難しい。
誰だってそのままドブにお金を捨てたくはないわけだから、自分に合うものかどうか、各メーカーの製品を比較するなどして購入する前にかなり慎重に検討している人がほとんどではないかと思う。
「使用が慣れるまで痛い思いをした」という情報もレビューなどを調べればそれなりに目にするので、そのあたりのリスクも引き受ける覚悟の上で(というと大袈裟かもしれないが、ある程度は仕方がないと受け入れて)実際の購入に踏み切っている人が多いのではないか。
そこまで行き着く動機というのは、私の場合には、それまでの生理用品の使用に著しく不快感や不自由を感じていたことだった。
ここで特定の生理用品についてのディスを書くつもりはないので、具体的にどこがどう悪いといったことは詳しくは言わないが、元々皮膚が荒れやすい体質だというのが大きい。
言うなれば最初から、「ナプキンなどの使用に伴う苦痛A」が解消されるのなら、「月経カップの使用に伴う苦痛B」は許容できるという不等号になっているのだ。
苦痛Aの解消にフォーカスが当たっている自分のような人間にとっては、苦痛Bというのは既に自分の中で飲み下してしまっている部分なので、つい「不快が”全部”なくなった!」みたいな言い方をしてしまいがちなのかもしれない。
しかし当然ながら何をより不快、苦痛に感じるかというのは人によって大きく異なるわけで、苦痛Aの方が苦痛Bよりずっとましだという人がいるのは全くおかしいことではない。
それぞれ自分が安心できる道をとるべきなので押し付けるような言い方だけはお互いにするべきではないが、何にせよ人の言う「快適さ」にはその人の価値観や個体差によるバイアスがかかっているという当たり前の話でもある。
加えて、体質や心持ちの方が変わらなければおそらくはずっと要因としては残り続けるであろう苦痛Aに比べて、苦痛Bの方は多くの場合、慣れによって無くなるか、少なくとも軽くはなってくるという、怪我のリハビリテーションのようなところがある。
リハビリとして考えてみると、「この器具を使えばあなたの身体はずっと自由に動かせるようになりますが、慣れない内は痛かったり違和感を感じたりしますよ」という選択肢を自分で納得して選んだ場合、その後練習を積んでだいぶそれを使いこなせるようになったという時に「確かに自由にはなったけれど、リハビリのこういう所がこれだけキツかった」とデメリットを伝える方に向かうよりは、今まで強い苦痛を感じていた人であればより一層「この器具を使ってよかった!同じ悩みがある人にぜひ薦めたい!」という感動ばかりが全面に出てしまうというのも、心理としてそこまでおかしなことではないのではないか。
そういった性質と、元々ある程度各自でリサーチした上で使用している人が多かったという背景から、ある種の「前提」を共有しているコミュニティで閉じてしまっていたという面はあり、そこが傍から見た時の”怪しさ”に繋がる要因であるかもしれない。
そもそも今回バズったきっかけのレポートを書いた方のように、「今までナプキンでもそこまで苦労をしていたわけではないか、人からもらったので使ってみた」というケースは結構特殊なほうではないかと思う。
しかしバズったことで月経カップ含めて色々な生理用品について率直に、気軽に語られるきっかけになったのならばそれはいい機会だし、また、月経カップを使用してみたが上手く使えなかった、という人が自分を責めてしまわない為にも、バズったレポートのような「失敗談」がオープンに聞ける機会があるのは良いことと思う。
私自身初心者の頃は着脱に苦労した経験があり、個人的には「慣れれば絶対にうまくいきますよ」という言葉の方に勇気づけられて練習できたタイプではあるが、「同じように上手くいかない人がいる」とか「諦めてもいい」という声によって安心を得られる人もまたいると思う。
反面、拡散される中で月経カップユーザー側からすると少し「怖いな」と感じられるノリもあった。
ここで少しだけ、仮に今、日本では圧倒的に月経カップ(もしくはタンポン)を使っている人がメジャーで、紙ナプキンを使う人が一番少数派である、という反転した状況を想像してみてほしい。
この状況が反転した世界では需要が少ない紙ナプキンは高級品で手に入りにくいが、それでも”わざわざ”紙ナプキンを使っている人たちというのは、体内に何かを装着する事への心理的な抵抗感など、各自の切実な理由があってそれを選択しているのである。
そうやって自分なりの安心を得ている人が少数いる中で、突然「なんか紙ナプキンていう生理用品があるらしい」という話題がSNSでバズったとする。
紙ナプキンユーザーが圧倒的に少数派である状況で、「紙ナプキンとかいうやばいツールw」みたいに面白コンテンツとして消費されたり、「経血を体内に溜めないで自然に外に出すっていうのがいかにも子宮系カルトの人が好みそうだよね」と特定の思想や集団と結び付けられたり、「公共のトイレに毎回ゴミを出すなんて不潔、感染症スプレッダーになっている」などというネガティブな意見がワッと湧き上がるのを想像されると、少しこの「怖いな」という気持ちが理解いただけるのではないだろうか。
意見を言う自由があるのは当然のこととして、「オープンに語る」ということと「他人の領域に踏み込む」ことは違うし、特に生理用品は単なる「嗜好」や「趣味」という基準からではなく、もう少しプライベートな身体・健康上の理由から選択している人が多いと思うので、その辺りはデリカシーを持って語っていったほうが良いのではないか。
最低でも、〇〇をつかっている人はこうなんじゃないかとか、勝手なイメージや想像に基づいた偏見をばらまくのは良くないし、そういう姿勢こそカルト等と揶揄される”疑似科学”と何も変わらないように思う。
一応補足しておくと、今回バズったことでレポート主の方を責めたりするつもりは全くない。むしろ予想外にバズってしまったことで色々と矢面に立たされてしまい大変なことだろうと思う。
使った人が率直な使用感を述べることは全くの自由だと思う。しかし、その中でも少しだけ読んだ方への誤解に繋がるのではと心配になる部分はあったので、以下は参考として書かせていただく。
月経カップのメーカーのHPなどには身長体重や出産経験のありなしによって推奨されるサイズが書かれており、先ずは自分に合ったサイズを買うことでリスクを抑えられる。
レポ主の方はMサイズを人から貰い受けたとのことだったが、未経産かつ性交経験がないと書かれていたので、サイズが合っていない可能性があり少々心配になった。もちろん体格や個人差があるので一概には言えないが、Sサイズやさらに短いタイプ等もあるので、基本的にはこれから使用される方は最初の月経カップは自分で選んだ方が間違いがないと思う。
また、着脱の度に煮沸消毒したほうがいいか、という点に関して。メジャーな月経カップメーカーの使用方法には基本的には月経期間が終わった後と始まる前に1回煮沸消毒すればよいと書かれており、メーカーによっては必ずしもそこまで神経質にやる必要はないと書いているところもある。月経カップは区分的には一般医療機器にあたるので、「なんとなくこうじゃないか」と各自で判断するよりは、使っている製品ごとに書かれている使用方法を守るのが安全だと思う。
最後に、処女の場合性具等で拡張しないと月経カップは入らないのではないか、という懸念については、逆に経産婦の方やパートナーのペニスは入る方でも月経カップは最初痛くて入らなかった、という意見もよく見る。月経カップ装着の仕方にクセがあるので、ディルド等の性具と比べて考えるより、やはり月経カップ特有の装着の仕方に慣れていくことでしか痛み等は解決しないように思う。
ただ、確かに今まで膣に何も挿入経験がないという方とそうでない方とでは心理的な抵抗感なども大きく変わってくるとは思うので、まずはタンポンなどで挿入しやすい角度や感覚などを練習してみるというのは有用だと思う。
◆追記
ツイッター上で、ここで言及しているレポート主の方に何点か指摘を頂いたようだったので補足。
先ず、「マイノリティとまで言って「月経カップを使う人」をコミュニティや属性にしている時点でうわあと思ってしまう」、という指摘に関して。
文章内で”マイノリティ”という言葉を使用したことに関しては、単に”少数派”という意味で使用したつもりだったが、意図しない含みを連想させる言葉であることも確かだと思ったので、そのまま”少数派”に訂正した。文章の至らなさがあり申し訳なかった。
そして確かに話を分かりやすく進めるために「月経カップを使う人」をひとまとめのように表現してしまっている部分はあるかと思うが、勿論、月経カップユーザーを特定の属性に押し込めたい意図はなく、私の主張はむしろその真逆のところである。
月経カップユーザーが閉じたコミュニティになっていかない為にも件のレポートがバズったことには良い作用があった、という事を書いたはずだったのだが、この日記がレポート主の方に向けて月経カップを「庇え」と言っているように受け取られてしまったようで残念だった。
また、「ナプキンのネガキャンをしている月経カップユーザーだって居た」、という指摘については、もしその「ネガキャン」の内容がナプキンを使用している人を不当に貶めたり、偏見のある発言をしていたということなら、私が問題視しているのはまさにそういう声や、この日記のコメント欄にも発生している「布ナプキンの方が云々」のような発言のことだ。
元々この日記はレポート主の発言に向けてではなく、あくまでその流れに便乗して乱暴な発言をする人たちを危惧して書いたものだったが、結局レポート主個人の気を悪くさせる結果になってしまったことについては申し訳ないし、ここで交換日記めいてしまうのも良くないので以後は更新しないことにする。
たとえば漢字の筆順なんてものはどうでもいい。歴史的に「正しい筆順」なんてものは存在せず、明治以降に文部省が便宜的に決めたものに過ぎないことは、調べればすぐに分かる。
ところがどういうわけか、世の中には「漢字の筆順が重要である」と強弁したがる人たちが一定数いる。彼らはあれこれ理由をこじつけて、客観的な事実を否定しようと試みる。
そりゃあまあ、たとえば自分の親戚が変な宗教に入ってるとか、性犯罪者であるとかで、それを隠さないと普通の社会生活を送りにくいとかなら、事実を捻じ曲げたがるのも分かる。他にもたとえば、普段疑似科学なんか全く信じない人でも、いざ自分が癌とかになったら代替医療に縋る可能性もあるかも知れない。けど、漢字の筆順なんてほとんどの人類にとっては、それに意味があろうがなかろうが、人生に何の影響もない。
そういうものに頑なに拘る人というのは、一体何を考えているのだろうか。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20200824123957
思想や行動が合わなくて友人関係を見直すというのは一般的なことなので
けどさ、いつも思ってるけどさ、ヴィーガニズムの話題になった途端に「思想の押し付けは良くない」ってコメントするブクマカ多すぎない?
普段みんなフェミニズムとか表現の自由とかの時は「私と同じ思想になってほしい」みたいな風にでコメントしてるじゃん
友だちがワクチン接種推進動画を拡散!押し付けだ!もう友だちやめる!とか増田に書いた日にはブコメでボコボコにされて魚拓まで取られるじゃん
ねえなんでヴィーガニズムの話題だとスッと冷静に「やっぱり押し付けはダメだよね」みたいな顔になるの?(一応、私は全部肯定してます)
そんなのとヴィーガニズム/表現の自由/現代医学を一緒にするな、っていうかもしれないけど、
前提としてヴィーガニズムは現代倫理学でも肯定的に扱われているし、一部ブコメのようなちゃちい反論もどきでは到底崩せるようなものではない、
というのは倫理学をちょっとでも勉強したことがある人なら知っているはず
少なくともヴィーガニズムは疑似科学やカルトのような、現代的な倫理観や科学的知見に反する非論理的なトンデモさんではないのですよ
もちろん、学術的に確立されてる思想なら押し付けて良い、ということには必ずしもならないけど
繰り返すけど、押し付けだと思ったから友人関係を見直す、というのは理解できる
けど、みんなヴィーガンの「私と同じ思想になってほしい」にだけ異様に厳しくない?なんなの?食べ物の恨みは恐ろしいってやつなの?
あとさ、食べ物の恨みならしょうがないとしてもさ、せめて「肉を食べないと怒りっぽくなる」とか「ヴィーガンはカルト」とかみたいなデマを流すのは止めない?
数学や理科を教えても、何の効果も無い。こんなことに税金を費やすのは無駄であるから、やめるべきである。
一般的に言って、学校教育に数学や理科などの専門学問の基礎科目を課す理由は、以下の2つである。
現状、国民に学校教育を施しても、このどちらも成果を上げていない。
将来、研究者や高度な専門技術者になる人はごく一部であり、その一部を輩出するために、全体に教育を施すのは無駄である。
また、このような専門家(具体的に言えば大学教員や有名大企業の研究職・技術職など)になる人たちは、全国レベルの有名進学校出身がほとんどである。そういう人たちは最初から学問への関心が高く、学校の勉強など課せられなくても、勝手に才能を伸ばしてくれる。
それ以外で学校の勉強が役に立つケース、つまり「学校の勉強がきっかけで学問に関心を持ち、優秀な研究者や技術者になる」などというケースは無視できるほど少ない。
第一、二次方程式や三角関数などを教えても社会に出てから使う人は皆無である。つまり無駄である。
また、日本(に限らず先進国)の国民の約3割は小学校3〜4年生レベルの数理的能力しかなく、PCを使った基本的な業務ができる人は1割しかいない。電磁波有害説やがん放置療法などの社会的に問題のある疑似科学を信じる人も後を絶たない。国家規模のコストをかけた教育の成果がこれでは、やる意味は無い。
そもそも、数学や理科に限らず、義務教育の公民で選挙について教えたって、投票率は半分もない。国民の3割は簡単な短文すら読めない。あらゆる領域で学校教育のコストは無駄になっている。
学校教育から数学や理科を無くしたところで、何か問題が生じることは無い。
上に述べたように、研究者や高度な専門技術者になるような人は最初から優秀なのであり、学校で教えなくても、勝手に才能を伸ばす。したがって、学校教育から数学や理科を無くしたところで、そういう人材が減ることはない。
また、国民のほとんどは、数学や理科を習ったところでその素養を日常生活の中で活かせていない。そして現状、日本にはそういう人たちにもちゃんと仕事があり、ほとんどの人は不自由なく生活が営めている。つまり、学校教育から数学や理科を無くしたところで、職を得たり生活することが困難になる人が生じることもない。